エスニックの街、大久保(1)その歴史、(2015年12月修正、2026年1月追記版)
このブログは2009年の、ブログを書き始めたばかりのころに書かれたものでした。2015年12月に少し書き加え更新しました。カテゴリーも旅行・地域となっていましたが「大久保の街紹介」に変更いたしました。
◎2026年1月3日(日)上の息子、佐竹謙治一家がお正月にわがやに来てくれました。謙治さん,広乃さん夫婦に孫たち3人でにぎやかになりました。孫たちは全部男で、大学生2人と中学生1人です。事前に来てくれることがわかりましたので、用意したものは佐竹家、関連家系図と5枚と、書き掛けの佐竹家家系図、その1、とです。妻に聞いて抜けているところは補充しました。池袋の叔母さんがくれた母の家系図(金子家の詳しい家系図)までには及びません。
新大久保駅
開業記念入場券です1000枚発行で、これは871号です。中に記念入場券5枚、このころ開業した四谷、信濃町千駄ヶ谷、新大久保駅の紹介。4駅のスタンプなどがあります。
改築前の新大久保駅
改築前の新大久保駅は三角屋根の小さな駅です。エレベーターの無い駅は山手線で2つくらいしかありません。電車に車いすで乗るときは高田馬場駅まで行きます。建て替えの計画があります。
JR山手線の新大久保駅は、総武線の大久保駅の後でできたので新大久保と名付けられました。とても小さくまた古い駅です。平屋建ての小さい三角形の屋根があり、改札口の前は本当に狭いのです。平成26年11月15日に駅の開業記念100周年を迎え、開業記念入場券を購入しました。昔は山手線の高田の馬場と新宿駅の間に駅が無く、大正年3年に地元の懇願で駅が作られたそうです。開業当時は大久保通りと平面交差で、現在の駅舎とは大久保通りを挟んで向かい側に位置したそうです.。死んだおばあさんの話では当時の駅は小さくて夜は裸電球がぽつんとある程度だそうです。近くは戸山が原で陸軍の施設が多かったのですが、空いたところが多く子どもも自由にはいれたそうです。タヌキがひかれたなんてなんてニュースがあったそうです。駅の周辺はつつじを栽培していました。1924年(大正13年)の複線化に伴い現在の駅舎となりました。戦後も射撃場の弾よけの三角山などという人工の山がありわれわれ子供たちの遊び場でした。回りにまだ原っぱがたくさんあり遊ぶにはいいところでした。
はじめ店は大久保駅の近くでした。店と風呂桶製造場所と自宅を兼ねた家は戦後まもなく山手線の内側に移転しました。戦後しばらくはバラック、それから平屋の建物、筆者が小学生の時に木造2階建てにしました。その後5階建てのビルにしましたがエレベーターを付けなかったため、余り歩けなくなった今自宅へ戻れません。
改めて書きますが、この当時は筆者の店と住いが山手線の外側にあり、大久保通りの外側で、大久保駅と新しくできた新大久保駅の中間ぐらいにあり、現在もあるお米屋さんの隣にありました。大正時代の商店名が書いてある地図がありそこに桶商佐竹と載っています。小滝橋どうりにも3階建ての家がありそこから富士山がよく見えたそうです。その家は戦争後の混乱期に他の人が住み着き、結局安くで売却したそうです。
新大久保駅はその後、増改築され、4階建てのビルの駅舎に改装されました。
韓流一辺倒から再び多国籍の街へ
新大久保駅の前には、外国人と、大久保の街をおとづれる人でいつも混んでいます。2011年ごろには、韓流ブームとなり、さらに人が多くなり、土日には狭い駅出口の空間が人でいっぱいで人が出られないような騒ぎです。それが反韓デモや韓国との間が冷え込んでそれほど人出は多くありません。韓国一辺倒だったのが、再び多国籍の街に戻りつつあります。
私は、戦前の昭和18(1943年)年2月20日の生まれ(2026年には83歳)、この街に生まれ育っていますので、この街の変化をずっと見てきました。以前人間学研究会の例会で、このテーマでお話しするため、自転車で大久保の街を全て回って、韓国やエスニック料理の店を調べました。そして、大きな地図を作り店名をいれました。圧倒的に韓国料理の店が多く、150店位もありました。そのほかには、台湾料理、モンゴル料理(小尾羊など)、マレーシア料理(メラプティカフェ)、タイ、ベトナム料理(ソムオー、クンメーなど)、最近増えてきた、インド、ネパール料理。珍しいのは、チュニジア料理、モロッコ・チュニジア料理、トルコ料理店などがあります。シシカバブなどのハラルフードを売っている店も増えてきました。中国内の朝鮮系の人々が住む延辺自治区の延辺料理などもあります。犬の料理(狗肉と書いてあります)があるのが特徴です。ミャンマー料理は大久保にできたでしょうか。高田馬場にたくさんあります。レストランではありませんが、うちのビルの一室を借りてもらっているコンゴのお店もあります。以前、新大久保と、大久保駅の中間に屋台村という店があり、6ヶ国の料理が食べられる店がありました。(残念ながら屋台村は2011年閉店しました。韓国料理の店に変わり、その店も現在は閉店してしまいました)まだバラバラでまとまりがありませんが、日本人の店とも協力して宣伝すればいいのですが。韓国系の店は韓人界が中心となりシャトルバスを走らせたりを始めました。
2011年当時、家で貸しているテナントには、韓国人、中国人、日本人、そしてコンゴの人がいます。(詳しくは別のブログをご覧ください)
◎ 2026年1月には佐竹ビルには、1階に韓国の化粧品店、リメイクが入り、2回には韓国のハンバーガー店、4階はヨガのお店です。
5階と3階には株式会社サタケのレンタルスペース店が入っています。(3階は昨年末までカフェが入っています、)同じ百人町1丁目にある、第2サタケビル、第3サタケビルにもそれぞれ韓国系のお店にレンタルしております。
また以前は、新大久保駅の色々なお店を人間学研究会の例会のあと、懇親会でいろいろな料理を、食べ歩いています。その後、異業種交流会の二火会で話をする機会があり、店を調べなおしました。この当時一年の間に、30店近くが入れ替わっていました。私はいろいろ新しいお店ができると食べに行き、おすすめの店の説明書と地図を作りました。しかし病気の後歩けなくなり今は例会会場やお店に行けません。
2015年12月には、脳出血を起こして2年、あまり詳しく大久保の街を書けなくなりました。しかし電動車いすを今月中に借りる予定で、そうすればまたいろいろ書けるようになるでしょう。
◎はじめはヤマハ、つぎにウイルの電動車いすで行動範囲が広がっています。池袋、中野、代々木辺りは電動車いすで出かけられます。
筆者の家の歴史
私の新大久保の家は、今から99年前に(最初にブログを書いた年から99年。2011年に101年になりました、2015年で105年、2026年に116年です)、私の曽祖父傳蔵が新潟の長岡から出てきて、大久保の地に住み着き、桶屋と井戸掘りを、やってきました。むかしの長岡時代の板位牌をみますと年号が宝永2年2月1日(1765年)などというのもありますからずいぶん前からの位牌があります。昔の位牌は簡単な板で黒い漆塗りで作ったものです。以後、文政2枚、嘉永3枚、天保、安政、明治3枚、大正1枚です。家が没落して皆が苦労した原因になった人の位牌をお祖父さんがなんと鉋をかけてしまったそうです。
母親の話では佐竹家は桶樽を昔から製造販売した長岡藩の御用商人で、苗字帯刀を許され、蔵がいくつもあったという話です。でも長岡藩は戊辰戦争で官軍と戦って負けたため、藩に融通したお金や店の貸し売りの分はすべて帳消しになり、没落したそうです。以前長岡のお墓がある場所を車で見にいってきました。新井薬師に住んでいた叔父さんが以前お寺に行き過去帳を見せてもらったそうです。また今は永代供養料を払って無縁仏にしてもらったそうです。長岡は新潟県第2の都市でしたが、戦災で戸籍が焼け何も残っていません。父からの遺産相続の手続きの時、前の戸籍が戦災で残っていないという証明書をくれました。
戦災消失証明書によれば本籍は新潟県長岡市先手町3-832番地となっています。地図によると先手町3丁目は現在の地名でも残っていて、長岡駅に近いにぎやかなところです。 父が亡くなったとき戸籍謄本が必要ですが、昭和20年8月1日の戦災により消失して、謄、抄本は交付することはできませんとなっています。他の戸籍簿はかなり古いものがあります。お祖父さんは明治21年生まれの庄治郎、祖母は、いさ。曽祖父は傳蔵と曾祖母はテイです。曽祖父の親は高祖父といいます。高祖父の名前は傳右衛門だそうですが、残念ながらそれ以前は戸籍に残ってはいません。
高祖父という言い方ははじめ筆者は知りませんでした。ネアンデルタール人について調べているうちに、ルーマニアで発見された原生人類の化石を調べたところ、その遺伝子配列はネアンデルタール人が、高祖父の時にいたということが、分かったといいます。4代前になります。
祖母いさの両親は米田藤吉とシカ、藤吉の親は高祖父になりますが、米田新吉です。天保二年生まれ、藤吉は万延元年の生まれです。祖母の戸籍は消失しないで残っていました。祖母の家は大阪の淀川の近くです。小さい時に淀川の小魚をたくさん父親がとってくれてそれをよく食べていたので丈夫になったといっていました。祖母の祖母(高祖母)は小さいころには幕末で、戊辰戦争で幕府軍が逃げてきて恐ろしかったという話を祖母にしてくれたそうです。曾祖母は80代後半の時、大阪から来たことを覚えています。曾祖母は90以上生きていて、祖母は98歳、祖母の妹も98歳まで生きたそうです、長寿の家系なのですね。後にも書きますが大阪に逃れてきた祖父と結婚しました。
長岡市は山本五十六の出身地として有名で、また大きな花火を打ち上げるのでも有名です。さらに古くは幕末の河合継之助が有名です。一方大阪のおばあさんの方の戸籍は古いものが残っています。それから江戸から東京にかけて新潟県出身の桶屋さんが昔から多かったそうです。
最初に私のおじいさんが若い時に長岡から親から逃れて東京に出てきて、椅子職人として働いていました。そのあとに、ひいおじいさんが長岡から、道々、「わがやー、わがやー」(桶屋のこと)と道々、たが直しなどをしながら歩いて東京まで来たということです。そして息子庄次郎のうちに来たそうです。まもなく母親(曾祖母)も家に来たそうです。ところが両親ともにかなりのばくち打ちで道楽者、家が混乱し、たまらず、お祖父さんは大阪に逃れたそうです。お祖父さんは大阪の地で椅子つくりの職人になり大阪でお祖母さんと結婚しました。曽祖父母は大久保の地で、桶屋と井戸掘りを始めたのです。明治40年ころと推測されます。その後曽祖父が病気で倒れ、祖父母は子どもたちを連れ家族で、東京に戻ってきました。このころからのお店があるのは新大久保駅前の蕎麦屋さん(近江や)ぐらいです。お祖母さんは、曾祖母てい、がきつく、何度も大阪に帰りたかったそうです。のり巻きを作るように言われ、関西風に太巻きを作ったら、こんなのり巻きはだめだと捨てられたそうです。味噌汁の味の濃さも違い、ずいぶん苦労したみたいです。このころの話をよく聞いておけばよかったと思います。その後曽祖父傳蔵が亡くなり、曾祖母ていもなくなりました(大正)。祖父母には子どもが6人いました。ところが長男房次郎は井戸掘りでの酸欠事故でなくなり、(新聞記事になったそうです)おばさん二人も若い時に病気でなくなりました。3人が残ったのです。父、実も同じところで事故にあいましたが祖父が救い上げ、蘇生したそうです。
祖父母の6人の子供の内次男の私の父実(死去)と、叔父さん(死去)と叔母さん(すみ子・死去)が残りました。父が子どものとき関東大震災があり、家はその時は大久保駅と新大久保駅の間にありました。家は大丈夫でした。地盤が下町より堅かったのです。関東大震災の時近くに古川男爵の大きな屋敷があり、そこの竹やぶで数日間余震をさけたそうです。今は教会になっています。父はその時小学生でお昼のご飯が大好きなとんかつで、それが埃まみれで食べられなくなり残念だったそうです。父は二度7年間も戦争に行き、はじめは満州、後半は中国でした。南方へ途中で行った部隊はほとんど全滅したそうです。満州ではノモンハン事件のすぐ後だったそうです。叔父さんは海軍に行って、私は小さいとき海軍ちゃんと呼んでいました。母親の兄さん幸雄は父の親友でしたが、中国で戦死しました(安徽省蕪湖県)。匪賊に襲われ何も残らなかったそうです。父は他の人より足が長いということで騎兵でしたが、大変な古参兵であることと、桶つくりや、井戸掘りなどの技術を生かし、上官の奥さんなどに重宝がられたそうです。騎兵はすぐサーベルを持つそうです。(陸軍では士官以上のみ)上官にはオリンピックで有名な乗馬の西大尉がいたそうです。父は現地の中国の人々に優しく、それも、無事に日本に変えれるもとになったようです。現地で稼いだ軍票が日本に帰り普通のお金に変えてもらいよかったそうです。
母親の先祖は新潟の新発田です。母のお兄さんと父親が親友で、縁を強くしようとして父は母と結婚しました。母方の祖父は金子といい、荒川区尾久で、八百屋をやっていました。戦前はとても繁盛していたそうです。母親のお兄さんは中国で戦死しましたが、残りの妹は4人とたくさんいました。一番若い叔母(池袋で八百屋さん)は私と7歳ぐらいしか年が離れていません。母親の母方の親類は渡辺といいます。母方の祖先で、村相撲の大関になっていた人がいて、鴨居に頭がつくくらい大きかったそうです。どうもその遺伝を受け継いだのか、私も息子たちも背が高く、太りやすいようです。お祖父さんが新潟長岡で、お祖母さんが大阪、母が新潟なので4分の3ほど新潟系です。
戦争中も祖父母と叔母さんたちが大久保百人町にとどまりました。大空襲で新宿は丸焼けとなりました。戦禍で逃げまどった苦労を祖母から聞いています。B29がたくさんきたが日本の戦闘機は全く歯が立たなかったそうです。いろいろ風呂桶をつくる道具があり大久保の地で最初にバラックを建てたそうです。お祖父さん庄次郎は古くから商売をしていることもあり、多くの職人を雇い、また親分肌でした。もう少ししゃべれれば簡単に区議会議員になっていたといっていました。地元の皆中神社の神主は自分が木曽から連れてきたんだといっていました。今は息子さん以下の代です。
お祖母さん(いさ―米田家)は長寿の家系で、祖母は98歳でなくなりましたが、祖母の母、曾祖母も元気で90近いとき、東京へ出てきました。ブログ筆者が子供の時会ったことがあります。やはり90代後半で亡くなりました。大阪のお祖母さんの妹(うめこおばさん)も長生きで100歳近くまで生きたそうです。大阪では市場の仲卸の仕事をしていました。
私の父方の親戚はおじさん〈佐竹良平)が一人、おばさんが(村上すみこ)一人です。それぞれ子供が1人ずついます。
後、私には妹(小池栄子)が一人います。妹には子どもが2人います。所沢に住んでいます。義理の弟はがんで亡くなりました。
両親で2人、祖父母で4人、曽祖父母で8人、高祖父母では16人になります。
子や孫の代となるともっと増えるわけで、例えば私は佐竹という名字がついていますが、高祖父の佐竹という祖先から見ると遺伝子的には16分の1ということになります。
妻(佳子)の系列(青野さん)は先生が多いのです。家内のお母さんは、90を超えてまだ元気ですが、(その後99歳で死去)妻のお父さんは東大理学部を酒席で卒業、電波研究所の副所長にもなりました。第一次南極越冬隊にも参加する予定が脳溢血で倒れ不可能になったそうです。妻には2人の妹さんがいて1人の弟さんがいます。みんな先生か研究者になっています。妻のお祖父さんは、高等師範を出て女学校の校長先生だったそうです。みんな家族に恵まれ、一族みんなが集まると30人くらいになります。過去の1月2日に妻のお母さんと一族が集まり20人ほども集まりました。妻の父親は四国の愛媛県の出身、母親は岩手県の出身です。
筆者の(66歳、最初にブログを書いた当時、今はもうすぐ73歳 2026年に83歳)私で4代目で、今では息子の代(5代目として社長)になっています。来年で(当時)、創業100年になるのですが、桶屋と井戸ポンプ業から東京ガスの代理店(エネスタといっていました)になったあと株式会社サタケは昨年、近隣の店と会社合併がとなり、東京ガスの資本もくわわり、STコミュネットというあたらしい会社になってしまいました。息子2人はそこの社員です。もとの株式会社サタケは持ち株会社(まだ残念ながら1度も配当がありません)で不動産収入のみの会社となって一応存続しています。私は会長ということになっています。上の息子は東京ガスから離れ、不動産管理業とレンタルスペース業、の(株)サタケの社長に専念しています。
2026年2月、筆者は株式会社の会長を退任し退職金をもらうということになりました。
戦前の大久保の街
戦前の大久保の街は、閑静な住宅街で、有名人、文化人などが住んでいて、特に、戸山が原の陸軍関係の施設に関連して、大変多くの高級軍人が住んでいました。私の父親は事故で亡くなった時92歳ですが、いろいろなうちに風呂の修理や井戸掘りに行ったそうです。横綱の太刀山や226事件の岡田首相、大将の家などです。(父は92歳で家の中で転倒する事故でなくなりました)
筆者が卒業した戸山小学校は大正の初めに作られました。父親は比較的早い年度の卒業生です。父親の年代の人が昔を思い出し当時の地図を作ってくれています。戸山用学校には、父、私、息子の3代が通いました。大久保小学校は外国人の子どもが多く通っているのが有名ですが、明治に作られたようです。小学校に隣接して小泉八雲が住んでいました。石碑や記念公園が残っています。たくさんの文化人は住んでいました。
戦後の大久保の街
戦後は、大久保の地に韓国や台湾の人たちが住みつき商売をはじめました。ロッテの工場が作られたのも影響がありました。今は大財閥で、いろいろ内紛が起きて居ますがここが出発点です。今は操業をしていません。一部は分譲住宅になりました。その後、20年ほど前から韓国の人達を中心に商売を成功させていきました。戦前から戦後間もない人々は、もう孫の代になり、ほとんどが帰化しています。20年ほどまえから、韓国の人達を中心に次々と商売を成功させていきました。「韓国広場」の金さんなどはいろいろな店を出し、うちの会社もいろいろ建築、設備の仕事をしてきました。
さらに映画やテレビで韓流ブームが起こり、いっせいに、韓国料理店、韓国のスターグッズ店ができてきました。そういう人たちは、ニュー、カマーと呼ばれています。大久保、百人町の街は裏歌舞伎町とも呼ばれ、もともと韓国や中国のホステスさんなどが多くすんでいたのです。その後 急激に外国人が増えてきました。私は三回ほど300件の私が住んでいる店と住宅のまわりの国政調査を行いましたが、大体7割が外国人でした。正式に外国人登録している人の2倍は、観光ビザで来ているか、不法入国しているかという感じです。
* 2011年、急に韓国の店が増えました。大久保の表通りが土日には通りにくい感じです。
もうすぐ2016年、町は色々に変化しています。2026年山手線の内側の百人町、大久保の一部は完全に韓国化しました。
やはり、新宿区で外国人登録している人は。韓国朝鮮系が最も多く、次に中国人です。新宿区では三番目は何とフランス人で、神楽坂周辺に住んでいます。大久保周辺にはほとんどいません。4位はミャンマーの人で、西新宿、北新宿に多く住んでいるとのこと。5位はフィリピン人といったところです。大久保の街についてはあらためて、5番目までご紹介していきます。
2015年最も多いのが中国人、2番目が韓国人です。3番目が何とベトナム人です。
参考書
新大久保コリアンタウン 八田靖史 2009年 晩声社
韓流タウンガイド 2012年 日本工業新聞社
オオクボ 都市の力 稲葉佳子 2008年 学芸出版社
これでいいのか東京都新宿区 昼間たかし 2019年 マイクロマガジン社
もはやコリアンタウンだけでない万国の人が集まる神秘の大久保
ルポ 新大久保 室橋裕和 辰巳出版
日本の異国 室橋裕和 晶文社
新宿区の民俗 6、淀橋地区編 新宿歴史博物館
第6章 大久保と百人町-軍人の街から多民族の街へ
大久保村は西大久保、百人町、東大久保、柏木、淀橋町の地域でした。
井戸、職人の暮らし、エスニック街のところは、筆者の父、実が話した。
地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編
新宿区教育委員会
(淀橋・大久保の町とくらし)
四谷・大久保の犬小屋 大野瑞男
尾張藩御付家老成瀬隼人正家の軌跡 村井早苗
施行のこと・馬琴の飢餓体験から 北原糸子
内村鑑三と植村正久 中沢ひろ樹
角筈女子工芸学校と府立第5高等女学校 村田静子
淀橋・大久保地区における戦前期の住民構成
奥須磨子
相馬愛蔵・黒光夫妻と中村屋 高村光郎
あの頃の新宿 西沢 爽
新都心新宿の発展 山鹿誠次
百人町界隈 大内 力
わが青春の町新宿と田辺茂一のおっちゃん
森村桂
大久保の70年 徳永康元




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