後漢初期の政治と日本(修正)
三国志の時代の小説が多いのに比べ、後漢初期の時代というのは、ほとんどありません。現在私の知るところ2冊*です。この時代がまじめで地味な時代だからでしょう。最近あいついで、「後漢書」の訳が出てきましたから、これから増えるかもしれません。私が小説を書き始めたころは全訳がなく、中国語を勉強し、中国語の原文を訳しながら、小説を書いていました。 (*『光武帝』と『班彪』)
追記
今(2011年)読売新聞に宮城谷昌光氏の光武帝を主人公にした『草原の風』が連載中です。
建武・永平の治
さて後漢の最初の皇帝である、光武帝という人は、若い時に父親を亡くし、大変若い時に苦労した人です。そして、皇帝になると、民衆こそが最も大事であると(元元をもって首とする)いって、民衆のための政治をしました。宮殿での生活は質素にして、余計な経費を使いません。周辺の国と友好関係を結び常備軍を廃止しました。無駄な役所は整理し経費を大幅に削減しました。それらにより、税金を10分の一から何と30分の1にしました。また、[人間ほど尊いものはない]と言って奴隷を解放しました。飢饉には手厚く対処し、灌漑設備を整備しました。これらの善政により、その後4代皇帝まで、「人相食むー人が人食べる」という恐ろしい事態が起きず、農民の反乱もおきませんでした。これを後世では、建武、永平の治としてたたえました。日本でもそれにあやかりたいと、後醍醐天皇が元号を建武とし、建武の中興といわれました。ところが、4代皇帝和帝が死ぬと、わずか生後100日の乳児を皇帝にしました。それいご、私欲にはしる外戚や宦官が幅を利かせ、また、「人相食む」という事態になってしまいました。
人口の変化
さて、その政治を支えたのが、第五倫(三公のうち、司空となる)などの清廉潔白なすぐれた役人(循吏といいます)でした。その結果、王莽の乱により5000万人から1400万人まで減った人口が4代の皇帝の間に、ほぼ元に戻りました。ところが三国志の時代には全国で800万人に減少してしまいました。特に蜀の国では90万くらいしか人口がなかったのです。その少ない人口では諸葛孔明もたいへんだったことでしょう。またいかに戦乱が厳しかったかがわかります。今から2000年も前のことですが、このようなことはあまり知られていません。
日本の悪政
それにくらべ、日本では小泉政治以後の新自由主義にもとづく自民党政治により、弱者を痛めつける政治を続けてきました。生活保護の家庭で母子加算をなくすなんて本当にひどい政治です。自殺者も増えています。本当に早く政権が代わって、民衆のための政治に変わればよいと思います。
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