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2009年8月28日 (金)

後漢の万能人・謝夷吾 風角占侯をおこなう 

 「こういち」の書いた未発表の小説『人相食む』の主人公は、後漢朝3代の皇帝に仕えた第五倫ですが、光武帝から和帝までの皇帝の物語は大きな柱になっています。そして、極めて重要な役回りの人たちがいます。それはひとつにはすでに紹介した哲学者王充ですが、さらに王充の親友である謝夷吾と、鄭弘がいます。今日は謝夷吾を紹介してみたいと思います。

 謝夷吾は、『後漢書』の方術列伝にかかれてます。後漢時代は、さまざまな方術が盛んで、前の『漢書』時代にはない方術列伝が作られたのです。方術は怪しげなものもありますが、医術や天文学のような初歩的な科学の始まりもありました。謝夷吾はすぐれて政治家だったのですが、一方では風角占候という方術で有名でした。風を見て占う方法です。また後で紹介しますが、大変な万能人だったのです。

 謝夷吾は字(あざな)は堯卿といいました。会稽郡の山陰(現在の紹興市)の出身です。父親を早く亡くしましたが、大変優秀で、隣町の上虞の王充ともに母親を助け親孝行を郡から表彰されました。そこで謝夷吾は王充と生涯の友となります。若いときから、郡の小役人をしていましたが、新しく会稽郡に赴任してきた太守である第五倫に認められ、鄭弘とともに督郵(郡の取締官)に抜擢されます。その時王充は、郡の推薦で都の太学に行っていました。その後王充と第五倫は何度もすれ違い、引き立てられるチャンスを失いました。

 第五倫は、烏程の県長の悪事が露呈した時に、その罪により、収監を命じます。謝夷吾は、収監に行った県庁の建物を見ただけで、頭を下げ、涙を流して帰ります。部下はこのままでいいのかと心配しますが、「私の風角占候によれば、烏程の長は、1、2か月のうちには死亡するので、収監するには及ばない、責任はすべてわたしがとる」といいます。烏程の県長には、年老いた親があり、悲しませないように配慮したのです。帰ってきた、謝夷吾を、第五倫は心配しますが、果たしてひと月後に、県長が死亡したという知らせが入りました。それ以後第五倫は、謝夷吾をそのやさしさと能力に感心し以後、礼信したといいます。その後、主簿(小吏の長)に抜擢しました。また「春秋」なども、特別に教えたといいます。そして第五倫は、ついに,孝廉(長吏)に推挙し寿長の県令としました。謝夷吾は寿長でもすぐれた成果を上げました。そして、さらにすすんで、荊州の刺史、鉅鹿郡の太守などを歴任しました。どこでも領民に慕われ、いずれもすぐれた成果を上げます。寿長の県令のとき、永平15年に各地がイナゴに襲われた時、その謝夷吾の徳によりイナゴがおそわなかったといわれますが。拙著の「人相食む」では、領民を動員し、風角占候などを駆使し、イナゴを追い払うことにしています。

 荊州の刺史(長官)のとき、時の皇帝が謝夷吾のすぐれた能力をみたいと言って、幕を張って、皆からは見えないようにして、その仕事ぶりを見ることにしました。謝夷吾は山のような処理案件を次々にながれるように処理し、たちまちのうちに終わってしまいました。皇帝は、「謝夷吾のようなすぐれた官吏がもっといれば、朕は政治に悩むことはないのだが」と嘆息したということです。

 第五倫が50代になって、三代皇帝である章帝により、太守から三公(総理格の最高の大臣)のひとりである司空に大抜擢されます。そして、第五倫は、鄭弘を三公で軍の最高責任者である、太尉に推薦します。三公のうち2人が第五倫派となるのです。第五倫は清廉にして、能力あるものを多数推薦して「知人」といわれました。この時代は、豊かで騒乱がなく、素晴らしい時代でした。人が人を食べるようなことがなかったのです。80代になった第五倫は自分の後任として、謝夷吾を司徒(総理)に推薦します。その推薦文を名文家の班固に書かせます。その内容の要旨は。

 「謝夷吾は、すでに様々な成果をあげて、そのすぐれた能力、才能は傑出している。そして、さまざまな学問、文学、すぐれた道徳的な能力を持っている。そして傑出した軍略をもち、天文や様々な方術もすぐれている。歴史の変化を見ることができ、天の運航で地の変化を知ることができる。それは伊員や太公望など歴代のすぐれた役人にも勝るとも劣らないほどである。もし、彼が司徒になれば、世の中の棟甍(梁)となることができるであろう。(この棟梁というのが現在の大工の棟梁のはじめです)・・・」と推薦されている。

 ところが、皇后の一族の外戚の巻き返しにあい、第五倫一派の鄭弘は逮捕され獄死、謝夷吾の司徒への任官は中止、さらには、その後県令に左遷されました。謝夷吾が自分の後任に王充を推薦し,王充は公車をもって皇帝の謁見を得るはずでしたが、それも取りやめになりました。第五倫は高齢ということで退任し、一気に政治は外戚が支配することになりました。その後政治は乱れ、「人相食む」という事態になるのです。謝夷吾は自分の死期を予言し、家族はその通りになりました。またその後の動乱を予言し、墓が荒らされ遺骸があきらかにされないように墓を作らせませんでした。そしてその予言どおり、後漢末の大動乱となり、三国の争いにつながるのです。

 私は、「人相食む」では謝夷吾を少し太り気味で、色白おっとりとした鳳顔の女性にも大変持てる魅力的な人物として表現しました。三国志だけでなく、謝夷吾や当時の後漢初期のすぐれた人物が映画などで表現されるといいとおもっているのですが。

 

 

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