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2009年9月 1日 (火)

宗教は嫌いだけれど、ブッダは好き(キリストもね)

私は、ずいぶん昔の学生時代に原始仏典である、『ブッダのことばースッタニパータ』を読みました。昭和33年発行の岩波書店(中村 元訳、岩波文庫)です。かなり古くなっていますが本は持っています。もうそのころには人間学研究会を学生たちでやっていて、そのころいろいろな本を読んでいたころです。このスッタニパータは、もっとも古い経典で、ブッダの言葉に最も近いものだといわれています。歴史上のゴータマ、ブッダは紀元前383年ころに亡くなられたといわれています。ブッダの言葉は、短い詩の形で伝承され、その後まとめられて、経典になりました。その後弟子たちの手が加えられ、さまざまな経典が作られていきました。

中村氏の解説によれば、「この経典には、簡単素朴な最初期の仏教が示されていた。そこにはむずかしい教理はなく、素直に人として歩むべき道を説いたのである。ブッダは一人の修行者として、簡素な生活をし、特殊な宗教の開祖となる意識はなかった。この当時は大規模な僧院の生活は始まっていなかった」といっています。ブッダとは目覚めた人という意味です。

 この本の第一章は蛇の章、第二章は小なる章、第三章は大いなる章、第四章、八つの詩句の章、第五章、彼岸にいたる道の章となっています。最初の蛇では様々な迷妄や愛欲を去って、「一切のものは虚妄である」と知った修行者は、あたかも蛇が脱皮して古い皮を捨てるようだという。二番目は牛飼ダニヤの質問に答えます。人間は物事に執着するので憂いが生ずる、執着するよりどころのない人は憂うることがない。三番目はいろいろな教えの後に、有名な、犀の角のように一人歩めという言葉が続きます。以後さまざまな人たちがいろいろな素朴な質問をします。それに優しくわかりやすく説明をしていきます。私の本にはいろいろ、教えられる言葉が多くいろいろ線を引いてあります。

 ○ 肉を食わないことも、~不死を得るための修行も呪文も、~それらは疑惑を超えていなければその人を清めることはできない。○ 布施でもらった鶏肉を食べているブッダを見て、生臭ではないかと、言うのに対して、ブッダは、肉食が生臭ではなく、さまざまな誤った行為こそ生臭であるという。  ○  わが弟子たちは呪法や占いを行ってはならない。(いまの仏教の呪法は釈迦の教えに背いている) 〇 自分は教団の指導者であることを否定します。頼るべきは、修行する個々の人たち自身でなければならない。

 ○ 生まれを問うことなかれ、行いを問え。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によってバラモンとなるのである。(ブッダは当時のバラモン教のカースト制度を否定しました。これは当時としては革命的な考え方でした。特に、ブッダは最も下層の不可触選民でも、女性でも悟りを開くことができるという点で平等だといいました。これはキリストの考え方と全く同じです)貧しい苦しむ人に対する愛に満ちています。

 〇 さまざまな欲望に満ちている人は、死の恐怖におびえる。 何物も死んでしまったら自分のものではなくなる 〇 この世において死も生も存在しない人は、彼は何を恐れよう、何を欲しよう。○ 常によく気をつけ、自己に固執する見解を打ち破って世界を空なりとおもいなさい。そうすれば、死をわたることができるであろう。このように考える人は死王を見ることはない。

ブッダは、死後の世界については、「死後の世界は分からないといった孔子と同じであれこれ述べてはいない。静かな涅槃(ニルヴァーナ)の境地になるというだけである。極楽や地獄などの話は弟子たちが、勝手に付け加えてことである。極楽往生したいなどという欲求こそ、まったくブッダの教えに反するのです)  ここに書いたことは本当に一部のことであって、その中身はすばらしく、教えられることがとても多いのです。私は多くの人に一読を勧めました。読んだ方は今の仏教と、ブッダの教えはずいぶんと違うのだなと思われることでしょう。

さてブッダの教えを受けている時点では、まだ宗教とは言えないのです。宗教とは、弟子たちが、経典を作り、専門の僧侶集団があり、建物(寺院)が存在し、信者がいて、寄進をすることで宗教になるのです。私はブッダは心の底から尊敬します。しかし、信仰を強制し自分のみは正しいという宗教は嫌いです。

 ぜひ折があれば、「スッタニパータ」を読んでみられることをおすすめします。 『神様学入門』 村松恒平 1999年 洋泉社 という本があります。そのサブタイトルは、「宗教は嫌い、神様は好き」となっています。いろいろと面白い比喩があって、基本的な趣旨は私の言っていることと同じようです。ただ私は、ブッダも、イエスキリストも、そして孔子も、神様としてではなく、いろいろな苦しみにさいなまれている人たちを心から助けたいと行動した生きた生身の人間としてのブッダ、キリスト、孔子であるというところが大きく違います。 

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コメント

自分の考えている内容を代弁してくれるようで楽しめました。

宗教嫌い ブッダ好きで検索して飛んできたのですが、同じような方がいて安心です。

紹介されていた本を読んでみたいと思います!!

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