人間観変えても世の中変わらないーマルクス、エンゲルス人間論1
ドイツ・イデオロギー まえがき
佐竹が学生時代に、人間学研究会での研究活動としてマルクス、エンゲルスの著作の中から、人間に関して述べたことをまとめる作業をしました。いろいろ、眼から鱗のように、そうだったのかと明快に世のなかの仕組みがわかってきました。その中で、人間とは何かを探求しようと人間学を志していた私にとって、「うーむそうか」と、思ったものがあります。それは「ドイツイデオロギー」の「まえがき」です。
「ドイツイデオロギー」は、マルクスとエンゲルスが1845年から46年に書いたもので、そのおおもとは1845年にマルクスが書いた「フォイエルバッハに関するテーゼ」からはじまっています。ドイツイデオロギーはかなりの大著ですが、当時は出版されませんでした。「フォイエルバッハに関するテーゼ」には、人間論にとって極めて重要なテーゼが示されています。
ひとつは、「フォイエルバッハは宗教的あり方を人間的あり方へ解消する。しかし人間性は一個の個人に内在するいかなる抽象物ではない。その現実性においてはそれは社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」ということ。
もう一つは最後の11テーゼの「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝心なのはそれをかえることである」という文章である。(大月国民文庫版による)
それにもとづいて書かれたのが、ドイツイデオロギー(フォイエルバッハ、B,バウワー、シュティルナーを代表とするドイツ哲学の批判)なのです。このドイツイデオロギーはマルクスエンゲルスの人間論のいわば宝庫ともいえる内容をたくさん含んでいます。この当時のドイツ哲学の系譜は、のちのM、シェーラーらの哲学的人間学にもつながっており、、そのまま現代の哲学的人間学への批判として通用します。
「ドイツイデオロギー」のまえがきを少し略して紹介します。
人間は自分たちが何であるのかとか何であろうとしているのかとかについて、自分たち自身に関して間違った観念をこれまでいつも自分たちの頭の中にこしらえてきた。神とかまともな人間らしい人間とか等々について自分たちの観念にのっとって彼らは彼らの関係を律してきた。彼らが生み出した怪物や産物に人間は屈服した。人間にのしかかって居る妄念や観念や教義から彼らを解放しよう。これらの妄想を批判し取り払い他の思想に取り換えれば、今ある現実は崩壊するであろう。 これらの、無邪気で子供らしい空想が近頃のヘーゲル新派哲学の核心をなしている。かれらは、自分たちの考えは世の中を覆す物騒さをもった狼だと思っている。この本(ドイツイデオロギー)は彼らを笑い物にして信用を落としてやろうととするのである。 それは人間が水におぼれるのは重さの観念のとりこになっているからにすぎないと考えた。そして、その観念を頭から追い払えば水におぼれる心配がない、と考えるのと同じである。
この考え方は、当時の私には強烈に響きました。私はぼんやりと、人間観を変えれば人間社会がよくなるのではなどと思っていたからです。
そして、私は、次第に人間学を研究するよりも、社会的実践により、現実社会を変える具体的活動をした方が良いと考えました。そして、一時期、人間学を批判し、科学的社会主義の人間論という立場に変わっていきました。そしてその後、あらためて、人間学の重要性(従来の哲学的人間学ではない人間学)を考えるようになり、人間学研究会を再開するようになったのです。
私は、従来の哲学的人間学ではなく「実用的人間学」を提唱しています。
ドイツイデオロギーの中で人間を考えるにあたり、重要な考え方が書かれているものはおいおいに説明していきます。
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