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2009年10月 6日 (火)

ブッダ・キリスト・孔子と宗教 (修正版)

  2009年10月22日の実用的人間学研究会例会で、「ブッダ・キリスト・孔子と宗教」というテーマで、お話をすることになっています。いずれも、神や仏になる前の名前は、「ゴータマ、シッダルタ」、「ナザレのイエス」、「孔丘」です。以前「宗教は、嫌いだけれど、ブッダは好き、(キリストもね)」という文章をブログに書きました、そこでは主に、ブッダの原始仏典である、『スッタニパータ』(中村 元訳 岩波文庫)の内容を紹介したものです。これは様々な仏典の中でも、もっとも古いもので、ブッダの言葉がそのまま素朴に残っているものです。佐竹は、学生時代にこれを読んで感激し人間学研究会で話したこともあります。また人にも、これをぜひ読んでみるといいよとすすめました。    

 中村氏の解説によれば、「この経典には、簡単素朴な最初期の仏教が示されている。そこには難しい教理はなく、素直に人として歩むべき道を説いたのである。ブッダは、一人の修行者として簡素な生活をし、特殊な宗教の開祖になる意識はなかった。この当時は大規模な僧院の生活は始まっていなかった」といっています。

 この 『スッタニパータ』はもちろん、キリスト教の『聖書』や、孔子の『論語』などと同じように、弟子が書いたものです。その後いろいろに解釈される前に、直接、ブッダや、キリストや孔子の言ったことばには、さすがに心を打つものが多いのです。しかし、ブッダも、キリストも、孔子も、その教えをただ素晴らしいと感じているだけでは宗教ではありません。 ブッダについては、、その生涯を描いた手塚治虫の長編漫画『ブッダ』も、面白くてためになる本でした。手塚治虫の代表作の一つといっていいでしょう。そしてブッダの教えを一人で守っている間は宗教ではありません。また特に孔子の『論語』などの学習は儒学になります。宗教としての儒教ではありません。

宗教とは

 宗教は、弟子たちがその教祖を神や仏としてあがめ、その言葉を教典や経典にすること、そしてその教えを専門に広める、僧侶や神父・牧師などが存在すること、そして、お寺や教会や孔子廟などの建物や組織としての教団、、さらにはそれをささえる信者などがそろって初めて宗教となるということです。

 精神科医の小田 晋氏は、「先生は、何人の教祖を精神病院へ送ったのですか」と聞かれたと言っています。「私はずいぶんと、教祖をつぶしてきました」、と笑って言いますが。人はある異常な精神状態では、神がかりになることがよくあります。でも普通は症状が治まると、けろっと、自分が神様であることを忘れてしまいます。でもその人に信者がついて組織が整っていけば、立派な宗教になります。また、キリストは40日40夜の断食と感覚遮断で幻覚を見たといいます。その時にはエンドルフィンも出てエクスタシー状況にもなります。(『キリスト教も幻覚から始まった』はまの出版)

共通点と相違点

 ブッダと、キリストと孔子ではいろいろと共通点と相違点があります。それはまずその宗教が生まれた風土が影響しているといわれています。温暖な農耕地帯である、インドや中国の地は、多神教的で、厳しい砂漠地帯に生まれた一神教の系列である、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの違いです。 共通点は、当時の人々の苦しみを、なんとか救いたいという強烈な意識です。今の世界でも、生きているより死んだ方がましだという悲惨な状況の人はたくさんいます。しかし彼らの時代はもっと厳しかったでしょう。時の支配者に虐げられ、先の見通しや、希望もなく早くに死んでしまう貧しい人たちの群れ。その人たちに、ブッダや、キリストや、孔子は胸を痛めます。

 当時は厳しい身分制度がありました。一部の特権階級を除き、大変厳しい生活をしてきました。インドでは、カースト制度があり、支配階級のバラモン、クシャトリア階級のほかに大量の庶民階級と、さらには不可触賎民といわれる、、人間扱いされない階級の人たちがいました。悲しいことにそれは今でも続いているのです。カースト制度をもとにするヒンズー教に対し、仏教では、カースト制度を認めません。キリストの生きた時代、ユダヤ人はその国をもたず、エジプトで奴隷扱いされていました。次にイスラエルに戻って来ても、ローマ帝国の支配を受けました。庶民は大変その中で苦しみました。キリストは、その教えと救いを示し、ユダヤ教を超え、単にユダヤ人だけでなく、女性も含めたすべての人々が神の前で平等で信じれば救われると言いました。中国でも、孔子の時代は春秋戦国時代で、戦乱の中で、庶民は塗炭の苦しみの中にありました。

庶民の苦しみを救うために

 こういった、庶民の苦しみを救うために立ち上がったのが、ブッダ、キリスト、孔子なのです。その三人に共通しているところは、あくまでも苦しんでいる貧しい庶民のためという立場です。そして、それは身分や民族、国家の枠を乗り越えたものです。そしてそういう人たちへのやさしさであり、逆に暴虐なものへの怒りです。ただその解決する方向は違いました。

 しかし後世、弟子たちがその教えを広めるために、いろいろな言説を加えていきました。その地に入りやすいようにしだいに、教義も変えていきました。そしてついに、権力者にとりこまれるにいたって、その権力者の権威を高め、庶民を弾圧する道具に変質して、堕落していったのです。それは三つの宗教に共通しています。それぞれの、教祖たちがその有様を見たらなんというでしょうね。ですから、私は、ブッダやキリストや孔子は好きなのですが、宗教は嫌いというのです。

 この文章は、「実用的人間学ニュース第10号」の文章を一部改編したものです。

           

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