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2010年7月18日 (日)

スター・ウオ―ズに見る人命軽視 敵ならば簡単に殺していいのか、水戸黄門も

  •  スター・ウオーズをNHKで全6作を放映始めました。昨日はエピソード1、ファントム・メナスでした。これは3巻まで終わっていたものから16年ぶりにつくられたもので、後でダースベーダーとなり、また後の主人公のルーク・スカイウオーカ―やレイア姫の父親でもある、アナキン・スカイウォーカーの少年時代のお話です。私もこのようなSF映画は好きで、1977年の第一作から第6作まですべて映画館で見ました。1977年は今から33年前で、このころ生まれた赤ちゃんが、立派なお父さん、お母さんになっているくらいの昔です。私もまだ34歳だったのです。

 ともかくスター・ウオーズのテーマから始まり、大宇宙船の飛行、そして映画のタイトルがずっと向こうに流れているのからして新鮮でした。ジョージ・ルーカス監督のもとつくられ続け、それには尊敬する黒沢監督と日本の文化の影響が強く入っています。ダースベーダーのヘルメットは日本のかぶとを思わせます。また、主人公達はライトサーベルを使っていわゆるチャンバラをします。刀と刀で戦う時代ははるか昔に終わったのですが、近代兵器で戦わせるのは味気ないのでしょう。ゴジラなどの怪獣ものでも、わざわざレスリングみたいな取っ組みあいをさせますね。

 このようなSF映画はとても好きなのですが、いつもひっかかるところがあります。1977年の最初のスター・ウオーズで、帝国軍の巨大な軍事基地デススターが惑星を一瞬のうちに破壊し、今度はルーク・スカイウオーカ―がフォースの力を使って、デス・スターを破壊します。どうもそのあたりに私は納得がいかないのです。共に膨大な人数の人々がそこに住んでいたと思われます。デススターもどんなに少なく見ても少なくとも数万人の人がいた大きさで、そこには戦士だけではなく都市機能を維持する一般人や女性や子どもたちもたくさんいたはずです。

 スター・ウオーズでは善玉の共和国軍と悪玉の帝国軍とにはっきり分かれています。支配層が悪だとしても、他に膨大な数の一般民衆がいるはずなのです。たとえば、第二次世界大戦でのドイツや、日本は欧米軍から見れば悪玉ですが、ほとんどが一般の善良な民衆です。キリスト教やイスラム教、ユダヤ教などの一神教は自分たちの考え方と異なるものは神の敵で、それは殺しても神の思し召しにかなうと思い、宗教戦争ではひどい残虐なことを平気でおこないます。オーム真理教でもポアするといって平気で人を殺しました。このスター・ウオーズや他のSF映画などでもそのような傾向があるのではないでしょうか。広島や、長崎に原子爆弾を落としたのもそのような考え方の延長ではないでしょうか。

 いろいろな、コンピューターゲームでも、戦いには戦闘員以外の生身の生きた人間がいてそこで多くの悲惨な死者が出るということは想定されていません。アメリカでは、ゲーム感覚で、ミサイルをピンポイントで落として対象物を破壊する画面が出てきます。しかしそこには、戦闘員以外のたくさんの死者が出ていることは、わかりません。良心の責めが全く無くボタンを押します。しかし、アメリカを中心とする多国籍軍に対しイラクやアフガニスタンでは民衆の反感があり、兵士はいつテロに襲われるか知らず、その恐怖から一般人を誤って殺すことも多く、精神的に疾患をおこす兵士がたくさん出ています。

 いずれにしても、このような映画は、知らず知らずに、世の中にははっきり善玉、悪玉の違いがあり、悪玉は、たとえば、アメリカから言わせると、イラクやアフガニスタンのテロリストや北朝鮮などは、はっきりした悪玉で、すべて消滅させなければならないという潜在的気分を植え付けているのではないかと思うのですがいかがなものでしょうか。

 そして、前にもブログに書きましたが、クローン人間をたくさん作って、ロボット軍と戦わせるというのがありますが。クローン人間は「人間」ではないから、戦闘用に大量につくって戦わせてもいいのでしょうか。でもこんなことを書くと、SFなんだからいいだろう?いちいち文句言うのがおかしいといわれそうですね。

 後蛇足で付け加えます。「水戸黄門」は長く続いている番組で、ワンパターンの典型ですが私の両親などが喜んで見ていました。そこにも疑問があるのです。昔は悪玉のお代官様が、部下に出あえであえ面倒だ、斬ってしまえと言ってチャンバラになりますね。そこで、おもむろに、もういいでしょうと黄門さまが言うと、この印籠が目に入らぬかと言って、代官など一同が一斉に頭を下げるのですが。ずっと昔は、部下たちも斬っていたように思えます。途中からミネうちにしているのですが。ミネうちでも斬られたら大けがをします。いくらお代官様や大商人が悪くとも代官所の大部分の部下たちは、妻子もある一般人です。代官の命令には逆らえません。それを初めから印籠を出してすぐ恐れ入れさせればいいのに、懲らしめてやりなさいという黄門様の言葉で、余計なけが人を出すのはおかしい。なんて考えるのは私だけでしょうか。

 さらに追加します(7月19日)吉野源三郎の子ども向きの小説に『君たちはどう生きるか』という本があります。お読みになった方もあると思います。そこには、「物事を自分中心で考えてはいけない。たとえば『桃太郎の鬼退治』と言う話でも、鬼の側にとって考えたらどうなのでしょう]というのです。そして「かってに攻めてきて、財宝を持って行かれるのは、鬼がかわいそうではないか」と。皆さんそういう立場で考えたことがありますか?

 だいたい日本での鬼は日本に古来から住んでいた縄文系の蝦夷とか隼人のような人々ではないかと言われています。あの鬼の顔は彫が深く毛深い縄文系の人の顔そのものです。細面のキツネ顔の渡来系の人々が入ってきて、もとから住んでいる在来の人々を圧迫し、反抗してくるものを鬼としたとも言われます。このような視点で人々が物を考えるようになると、世の中はずいぶんと変わってくるように思えます。

追記:「水戸黄門」もついに放送打ち切りになるようですね。

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