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2010年8月 1日 (日)

「人間とは何か」についての、二つの立場 唯物弁証法と哲学的人間学

「人間とは何か」について

「人間とは何か」とか「人間の定義について」などは、「人間学」にとっては基本的かつ重要な問題です。人間ついてはその側面を取り上げてさまざまにいわれてきました。8月1日に追加した私のブログ「こういちの人間学」で取り上げた「人間このいろいろ言われるもの」を見ていただいても、いかに多いかわかります。ここにあげたものはすべて書名ですから、文中に書かれているものはその数倍、もしかしたら数十倍あることでしょう。

 しかし人間とは何かについて、もっとも優れた定義は、私の見るところ、K・マルクスの書いた断片『フォイエルバッハへのテーゼ』の中にある簡潔な定義こそが最も本質をついているように思われます。これはマルクスの手帳の中にあったフォイエルバッハに関して11の短い論綱(テーゼ)で、F・エンゲルスが1888年に書いた『フォイエルバッハ論』に付録として書かれているものです。これは1845~46年に書かれたもので、エンゲルスは「新しい世界観の天才的な萌芽がおさめられている最初の記録して、きわめて重要なものであると、言っています。

「フォイエルバッハへのテーゼ」

 では具体的に「人間とは何か」に関して11のテーゼから4つを浮き出して、その内容を書いてみます。国民文庫版では

三 人間は環境と教育との所産であり、したがってその環境が変わり教育が変われば人間も変わる、という唯物論的学説は、環境そのものがまさに人間によってかえられるということを、そして教育者自身が教育されなければならないということをわすれている。だからこの学説は、必然的に社会を二つの部分にわけることになり、そのうちの一つが社会の上に超然としていることになる。(たとえばロバート・オーウエンの場合など)              環境の変化と人間的活動の変化との合致はただ変革的実践としてのみとらえられ、合理的に理解されうる。

六 フォイエルバッハは宗教的本質を人間的な本質に解消している。しかし人間的本質は、個々の個人に内在するいかなる抽象体でもない。人間的本質は、その現実性においては、社会的諸関係のアンサンブル(総体)である。

十 古い唯物論の立場は「市民的(ブルジョア的)」社会である。新しい唯物論の立場は、「人間的社会」、あるいは「社会化された人間性」である。

十一 哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし大事なことは、それを変革することである。

「岩波文庫」版では「人間の本質とは、現実には、社会的諸関係の総和である」と訳されています

 また十の節は岩波版では「新しい唯物論の立場は、人間的社会あるいは社会化された人類である」と訳されています。

 そのほかにもいろいろな訳によって微妙に異なっております。

人間とは社会的諸関係のensemble(アンサンブル)であるというのを、単に総和とか総体というだけでは不十分なように思います。ensembleとは、日本語への訳では、全体の調和、それから転じて、婦人服のそろい、小人数の合奏、合唱をいいます。単にばらばらなものがあつまった総和、総体だけではなく、アンサンブル(全体的調和)とでも訳したほうがいいように思えます。

人間に関しての定義

 佐竹幸一は、人間に関しての定義に関して、2000年発行の『人間学研究所年誌2000』に掲載した『人間学の概要』に、このテーゼが最もすぐれているとともに、より完璧を期す意味で、次のようにしたらよいのではないかと提起しています。

 「人間とは、自然的、社会的、人間的な諸関係のアンサンブル(全体的調和)である

 弁証法的唯物論にもとづく世界観では世界は物質的、生物的、社会的、人間的(精神活動など)の階層に分かれそれぞれ相互に関係しているが、完全に他の階層に解消されてしまうことはないということです。この階層構造理論に基づき物理学者の坂田昌一博士が無限階層理論を唱え、その弟子である小林 誠、益川敏英氏が1973年にクオークの六元模型を作り、その正しさが実証され、ノーベル物理学賞を受賞したのはまだ記憶に残っていることだと思います。また定義の中では自然的、という中に物質的な側面と生物的な側面を共に含んでいることを付け加えておきます。

 人間的なということは、人間が認識の力によってみずからの手で変革していく可能性を示しています。

「哲学的人間学」の批判

 弁証法的唯物論のもとづく人間観で、宇宙の進化により、惑星としての地球が生まれ、物質進化により生物(生命)が生み出され、生物の進化により人類が生まれ、人類の進化により、社会が発展しまたさまざまな精神活動も発展してきました。この進化によりすべてのものが生まれ、又それぞれ別々の法則性のもとに動いているという考え方です。そして人類の出現と道具の使用そして大脳の発達により、さまざまな精神活動を生み出すことができるようになりました。そして人間そして人類は、世界を正しく認識して、正しい選択をすることができるようになりました。

 しかしマックス・シェーラーらの「哲学的人間学」などの代表される観念論的なあるいは神秘主義的な人間観では、「人間とは何か」のを問い、「人間はいかにあるべきか」という、倫理的な方向に向けてしまいます。精神活動のみを重視し、物質的、社会的側面をほとんど無視してしまう傾向があります。ただ人間とは何かを問うことは、現実的に大資本家に支配され、様々な苦しみの中にある人々がどのように社会を変えていったらよいかということ方法は語ろうとはしません。むしろマルクス主義に対抗し、現実の資本主義社会を擁護するということが、目的なのですから。

 人間の階層構造という点に関しては改めてここのブログで、書いていくことにいたします。

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