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2011年1月

2011年1月21日 (金)

現在の菅民主党内閣を支持しません 残念なのはかわりがないこと

今まで私はブログの中で、「世襲でない菅首相に期待する」、「民主党もひどいけれど、自民党に戻していいのか、民主党がまだまし」とか、民主党に期待し、擁護するブログを書いてきました。しかし今回行われた、内閣改造を見て、菅民主党内閣が、完全に庶民に背を向けて、財界、官僚、アメリカの立場に立ったことが明らかになりました。内閣支持率は内閣改造をすると、普通ご祝儀的に10%ほど上がるものですが、今回は数パーセントしか上がらず、30パーセント程度でした。これは我々一般庶民の気持ちを良くあらわしているものです。今度の内閣改造では、なんと消費税増税を言い続けてきた与謝野馨氏が経済財政相となり、横滑りした海江田万里氏が、経済産業相となり、TPP(環太平洋経済連携協定)を推進するという体制をとったのです。与謝野馨氏が大臣になったことに対しマスコミの世論調査でも過半数が反対し、田中秀政氏の政権ウォッチというブログでは、与謝野馨氏の就任に賛成か反対かを投票できるようになっているのですが、私は反対にしました。今までのそのブログでは80,3パーセントが反対でした。菅直人が「消費税増税を政治生命をかける」という体制をこの内閣で示したわけですが、5大紙が一斉に社説で、それを評価すると書いたのは、いかに大マスコミが、財界や官僚やアメリカなどの立場に立っているかが明らかになります。

 植草一秀氏の「知られざる真実」の2011年1月20日付のブログでは、菅、与謝野、藤井、仙石、岡田、植野、野田、玄葉の人々すべてが官僚に取り込まれている。2009年8月の民主党の総選挙マニフェストで、予算を見直し税金の無駄使いをなくし、天下りを根絶し、議員の世襲をなくし、企業献金をなくす等々の政策を掲げ、人々の支持を得てきました。ところが現在は、それらをことごとく無視して、消費税増税を推し進めようとしている。そして、それを支持するようにマスゴミが書いている。そして財務省とアメリカのCIAがマスゴミ(植草氏はそう書いています)を支配していると。大マスコミは様々に、このまま、社会保障費があがれば、財政が破たんすると書きたてています。でも、民主党は法人税を下げたりしないで、公約通り官僚の無駄使いをなくし、株などの証券売買での利益に対しての税をせめて10%から元の20%に戻すべきです。大企業や大資産家は海外の銀行などを使って資産隠しをしていますがそれをどんどん摘発すべきです。将来的にどうしても消費税を上げざるを得ないということもあるでしょうが、諸外国でやっているように、低所得者に配慮するということをはっきり示すべきです。

 今春闘で、財界代表と、労働者団体の代表が会談を開いています。労働側は1%の増加を求めています。経営者側は、定昇には応ずるが1%アップは拒否すると言っています。今企業の業績は向上し、かってないほどに社内留保があるにも関わらず、賃上げと雇用の確保は推し進めない。そしてずうずうしく、法人税を下げよと要求しています。これは私の数日前のブログに書きました。テレビの論調では、今中小企業では、単価が切り下げられ、赤字でも仕事を確保しなければならない、とても賃上げなどできないなどと言っています。下請けに安い労賃を押しつけて利益を確保している大企業と、低い手数料で青息吐息の下請け中小企業とをごっちゃにしてはいけないのです。

 私が経営していた企業も、数年前強引に元請け企業により地域ごとに合併させられました。私の経営していた会社は新しくできた会社の持ち株会社になっているのですが、設立以後赤い字が続いて、配当をもらっていません。合併前には建築リホームの部門が売り上げの4割も占めるようになり、利益を出すような体制にしたのですが、上部の方針でその部門は縮小されてしまいました。新しくできた合併会社は400人を超える大きな会社になったのですが、委託業務手数料が下がり、赤字になったとかで、前の内にいた社員はボーナスも前の会社に比べ大幅に下がったと嘆いています。元請け企業はほとんどの業務を下請け会社にやらせていますので大幅に人員を削減し、利益を上げています。

 元の話に戻ります。今は菅民主党内閣は総選挙の公約をことごとく反故にし、今や自民党よりも、大企業や官僚に仕えますみたいな立場を鮮明にしました。それが支持率の低落の大きな原因です。私たちのような庶民の声よりも政権をとれば、財界や、官僚などと接触する機会が多いのですから、どうしてもそちらの声を優先します。さらにはいったん権力を手に入れるとどうしても、それを持ち続けたいという衝動に駆られるのでしょう。

 このような状況の中で、残念ながら庶民の立場に立つ勢力が極めて弱いということです。一時、民主党、国民新党、社民党の内閣で、共産党も良い政策なら支持するという立場でした。今や社民党も切り捨てられ、民主党はほぼ第二自民党となってしまいました。財界や官僚は、うまいことアメリカなどと同じように、二大政党制にして、どちらに転んでもいいようにしてきました。しかし残念ながら、庶民の立場に立つ、社民党や共産党はよほど体質改善をしなければ、人々の期待を担う信頼する党にはなれないと思います。民主党の良心的な庶民の立場に立つ人たちと、庶民の立場に立つ、民主主義を守り、ヒューマニズムを守る勢力が幅広く統一戦線を組み、政権担当能力を持てればばいいのですが、どうも単なる夢想にすぎないと思います。民主党の中でも、今のような民主党の方向が、庶民を敵にまわしているということを切実に感じている議員はとても多いようですが。心ある民主党議員、社民党、国民新党、共産党そして一部の自民等などの議員まで含めて、庶民の立場に立った、新しい政党といきたいところですがそれは不可能でしょう。でも民主党を離党して、それぞれの党はそのままでも、最低限の選挙の協定を作り協力し合う新しいグループができること。そのグループとそれに協賛する人々の連合を作ることです。今度の総選挙のために選挙の受け皿が必要です。ぶれないで、最初に民主党が掲げ、人々の絶大な支持を得た政策を再び公約に掲げきちんと実行することです。今の民主党は公約した政策をもとに多くの議席を獲得しました。しかしことごとく、それを覆しているとしたらそれは詐欺行為ということです。しかし民衆の立場に立った新しい勢力の結集は今では現実不可能なことでしょうが、そのような提唱を支持する声が大きくなれば状況は変わってくると思います。今のままでは、前の総選挙のときに今までの自民党支持から民主党支持に変わり、私が車いすを押して投票所まで行った、おととしなくなった父はいきていたらさぞ残念に思うことでしょう。

追記:2012年1月 それでも菅首相は、最後に原発反対の立場を表明しました。それだけは高く評価できます。しかしその後の野田内閣は、原発も擁護に回り、不退転の覚悟で消費税を上げるとか、八ッ場ダムを再開するなど、すべての選挙公約を破棄し、完全に自民党と同じになりました。

 自民党に対して、菅民主党政権は、消費税増税路線は自民党が一貫して言っていることなのだから、一緒にやっていこうというのです。でも自民党は、むしろ消費税増税を今は言いません。ずるいですね。今度の地方選そして総選挙で、大マスコミの誘導で民主党の大敗、自民党の増加、わけのわからないみんなの党などが増えてより右寄りの政権になってしまうのが残念でなりません。私の考えに賛同する方はぜひコメントをいただければと思います。

2011年1月17日 (月)

死について その2 死の生物学、医学 そして宗教

1、細胞の死

  人間の体は細胞で成り立っていますが、その細胞は約60兆といわれています。普通の細胞は、どんどん死んで新しい細胞に入れ替わっていきます。良く分かる例が皮膚の細胞で、古い細胞は、どんどん死んで垢となってはげ落ちていきます。細胞の死に方にはアポトーシスという整然としたきれいな死と、ネフローシスという、やけどや炎症などによる壊死のような死に方があります。生物の普通の細胞はどんどん死んで新しい細胞に置き換わっていくのですが、死なない細胞があります。それは一つは生殖細胞で、他の細胞がすべて死に絶えても、次世代に受け継がれていきます。もうひとつはがん細胞です。1952年に子宮がんから取り出されたがん細胞(ヒーラー細胞として有名)は世界中に配られ培養され続けています。がん細胞は遺伝子の故障が原因で発生するもので、がん細胞は体内で、どんな人でも発生し、ふつうは抗体や白血球などにより壊されてしまいます。それが抑えることができないようにまで増殖すると、始めてがんとして目に見える形になります。

 1990年にはDNA(デオキシボリボ核酸)で構成されている染色体の先端にある塩基配列があり、テロメアといいますがDNAが複製するたびに短縮していくということをハーレイ博士が発見しました。ちょうど回数券のように、分裂をするたびに減って最後になくなればその染色体さらには細胞も死ぬというのです。がん細胞にはテロメアを延長させる酵素を持っているようだというのです。細胞は分裂で再生しますが、60回くらいが限度だといいます。テロメアの回数券が60回ということです。また、1月23日の日経新聞記事で、「人はなぜ死ぬのか」という記事がありました。心筋や神経細胞のように分裂しない、「非再成型細胞にも寿命がある」と東京理科大学の田沼靖一ゲノム創薬研究センター長が「非再生系細胞にはアポトーシスとは別の死の仕組みが備わっている」と三つ目の死に方があると。紹介していました。

 生命の起源より、連綿とした遺伝子のつながりがあり、外部環境の変化に応じて、遺伝子も変化し、古い適応できない生物は死滅し、適応した子孫が生き残り次第に進化をし、この地球上に様々な生物が生じてきました。すなわち、さまざまな死がなければ、世の中は変化発展していかないのです。個体がどんどん死んで、新しい個体が環境に応じて変化するためにその種は維持されるのです。死がなかったら進化も発展もありません。人間の社会もそうで、そうでなかったら文明の発展はありません。動物の世界では死は自然の持つ一つのシステムです。生態系の中で動物は死ねば他の生物のえさとなり役立ちます。人間も鳥葬の間は自然のシステムでしたが、今人間の死は儀式化され、自然には帰れなくなっています。また人間は動物として、ふつうは繁殖ができないと死ぬことになるのですが、能力がなくなっても長く「余命」として生きていられるようになった生き物です。ゾウなどは、生殖能力がなくなってもすぐ死ぬわけではなく、仲間がささえるという面があるようです。また、家族のゾウが死んだときしばらくの間その死体を離れないということがあり、「死」について多少の認識があるようです。

2、死と宗教

 肉親の死は、宗教などにより儀式化し、通夜、初七日、33回忌などを通して次第に受容してい(死の癒し)。 昨年一年間で日本人が約120万人の人が死んだそうです。2040年にはピークの166万人になるそうです。以後少しづつ減少していきます。

 なぜ人は死を恐れるのかということに関して、

  1、死は非常に苦しいもの、醜いものと考える

  2、この世から、自分が永久に消滅してしまうという、限りない寂しさと死後はどこへ行くのかという不安

 私は無神論の立場から、死はいわば永遠の眠りのようなもので、病気などで死ぬ寸前の痛みがあっても、最後には大量に脳内から出されるドーパミンで、夢のような快感を感じながら死んでいけるようなので、心配はしていません。また、死後の世界などは、絶対なくて、そのまま安らかに眠った状態になるだけであると確信しています。わたしは死後に天国だろうが、極楽浄土だろうがなにかに生まれ変わることなど、まっぴらごめんです。

 ただ、最近は、あまり無いのですが、心臓ノイローゼなどがあった若い時には、自分が死んでしまって、何もない暗黒の世界をイメージが出てきてぞっとして目が覚めたりしたことはあります。生きていることはお釈迦さまが言うように、いろいろ矛盾はありますがこの世界は美しい甘美なものなのですね。心身が健康な時には死も意識に表れてきませんが、重病に侵されたら否応なしに意識せざるを得ません。特にがんで余命を宣告されたらなおさらそうです。ですから、誰でもがいずれは死ぬのだから、一日一日も大事に使おうと思うべきなのでしょうが、なかなかふつうはそんなことを感じないで生きています。いずれにしても宗教などで、じぶんたちの宗教を信じない者は不幸になり、地獄に落ちるとかいうものほど傲慢なものはいません。ありもしないもので人をだますのは詐欺そのものではないでしょうか。

 うちの宗派は、真宗大谷派です。葬儀や何回忌に必ずお坊さんとお経(真宗大谷派勤行集)をいっしょに読み上げます。正信偈で何度も唱えているのでかなり覚えてしまいました。そして和賛から回向そして南無阿弥陀仏と唱えます。ちょっと付け加えますと、韓国歴史ドラマを見ていると、お坊さんが、南無観世音菩薩というのを、日本語で言うのとまったく同じ言葉で言うのを興味深く感じます。また蓮如上人の「白骨の話」などの法話も聞きます。浄土真宗というものは、けがれるといけないからと塩をまいたりするのはおかしいなど、葬儀上の迷信をすっぱり否定しているところはなかなかいいと思います。いずれにしても仏に帰依して、南無阿弥陀仏を唱えれば、悪人でも浄土(安楽国らしい)へいくことが保証されます。これは死後に関してかなりの安心感を与えるでしょうね。少し横道にそれました。いずれにしても、人間が死ぬということに対しての恐れ、その克服法として宗教が生まれてきたと言えるでしょう。

 キリスト教というのは、自分の教えにしたがうものには、パラダイスを約束し、そうでないものには、地獄行きを命じます。最後の審判で、その前に死んだ者も墓からよみがえって神の審判を受けます。キリスト教の聖書で最も目立つ言葉が、私に従えという命令です。かなり理不尽と思われる命令を神が下しても従わざるを得ません。聖書の中でも、神はよくその人の神への信仰がほんものであるかを試します。

 クリスマスのころになりますと、車が止まっていて、独特の口調の一本調子のマイクの音で、あれ「エホバの証人」なのでしょうか、「罪を犯した人間の報いは死である。悔い改めなさい。そうすれば永遠の命を与えられるであろう」というような内容をながしていますね。みなさんもお聞きになったことがあるでしょう。前にも宗教のところで書きましたが、「エホバの証人」ものみの塔の資料を買ったりもらったりいろいろ聞きました。きつい質問でもにこにこしながら、話します。絶対の確信を持っているのでしょうね。

追記:2012年1月 新大久保駅周辺が、韓国のお店に行く人でごった返している2011年12月ごろ、毎日毎日、その言葉が流れていました。

 以下は「エホバの証人」の3人の女性の人たちから聞いたことです。

最後の審判のときにハルマゲドンがあり、「エホバの証人」を信仰しないものはすべて死にたえてしまいます。そのハルマゲドンのときに信仰している人は、一時地球上の空中に浮いているそうです。そして無信仰な邪悪な人間などが死にたえた後、一部の高級な信者144000人は天上のパラダイス(楽園)へ、その他の信者は地球上へ戻り、年老いたものは若返り、病気も治り、ライオンやクマとも仲良しになり、ライオンも草をたべるようになります。ということでした。14万4千人というのがずいぶん具体的で、面白いなーと感じました。話してくれた3人に、あなた方はそういう天国に行くのですかとたずねましたが。私たちはとてもとても、と笑っていました。

 でも私は、そういうパラダイス(楽園)があっても行きたくありません。永遠の命なんてまっぴらごめんです。100歳も元気に生かしてもらったら上出来で、もう疲れたからそろそろ永遠の休息でもとりたいな、と思います。それにしても、あるかどうかわからないことを絶対と信じて、自分たちに従わない人を弾圧したり、地獄へ行くなどと脅かすのはひどい傲慢だと思います。そういう人はよほど欲が深いのでしょうね。もし本当に永遠の命をもらったとして、地球や太陽が滅び、ついには宇宙がなくなるまでなんか生きていたくありません。

死について考える その1、死とは何か 

1997年(平成9年)10月の実用的人間学研究会第49回例会において、私は「死について考える」というテーマで、お話ししました。13年も前のことなので、その頃参加していた方は少なくなっていると思うので、来月(2月)の実用的人間学の例会でお話ししてみようと思います。そのときの24ページの手書きのレジメを基に、お話ししてみたいと思います。

追記 2月例会は寒いので、もっと明るく楽しい話題にすることにしました。

1)死について、いろいろな見方と歴史をお話ししました。

 死といっても人間の死、動植物の死、民族の死、人類の死、そして宇宙の死まで、いろいろです。また人間の死に関しても、細胞死、臓器死、個体死、精神死などいろいろとあります。また人間に関して言えば、生物学的、医学的な死、と社会的な面での死というものもあります。フィリップ・アリエスという人は、死にも、1、一人称の死(しぬ人本人の死)2、二人称の死(家族身内にとっての死)3、三人称の死(医者など第三者にとっての死があると言っています。また人間にとっての死も、ある一点の時間で死んだと言えないのです。すなわち死は点ではなく、線上を流れていく過程で見ていかなければなりません。1、呼吸停止、2、心臓停止、3、瞳孔が拡大(脳死)となっていきます。昔、NHKのETV特集で、「4つの死亡時刻」という番組をやっていました。死亡時刻もどこをもって判定するかは難しいのです。

 死の定義の一つは、「脳幹を含む脳の全体の機能の不可逆的な停止」とされています。脳細胞の死も1、大脳の死(人間としての意識をもたらす脳)と、2脳幹(中脳、橋、延髄)など、呼吸の中枢などがある。3、全脳死があります。心臓が止まって脳への血流がなくなっても脳はただちに死ぬわけではなく数十分は生きられます。そこで血流が戻れば生き返るということになります。そのようなときに臨死体験という状態が生まれます。しかし蘇生するならばそこではまだ死んではいないのです。いわゆる仮死状態です。死んだ後体験するのではなく、死にそうなときに体験するということです。「完全に死んだ人」が生き返ったことは、宗教上のお話し以外一度もありません。またもし生き返ったらそれは死んでいなかったということです。生き返らないのが死なのですから。

 さて人工呼吸器の発明により、いわゆる「脳死」ということが生じてきました。脳幹部分は生きていて自発呼吸をしている状態はまだ死亡したとは言いません。しかし脳幹部分が死んだ場合でも、人工呼吸器で呼吸を維持することができます。その段階で、「脳死」が生じます。心臓やほかの臓器はきちんと機能していて、体は当然暖かいし、子供などでは栄養が与えられて成長していくこともあります。このような状態でも両親が自宅に引き取って、生かし続けているケースがいくつもあります。でもこの段階でいちおう人間の死(脳死)と判定し、臓器を取り出して移植するのが臓器移植です。しかしこの判定基準は様々です。そして脳死については様々な論争があります。さらには、また死体となっても皮膚というのは長生きで、完全に心臓も脳の働きも停止しても、ひげが伸びたりします。このように死といってもいろいろな段階があって一点ではないことがおわかりではないかと思います。

 死の問題は、人間にとって、人生上の大問題であり、宗教の発生する大きな原因となっています。良く出てくるのが4万年ほど前のネアンデルタール人の骨が発掘されたとき、そこに多数の花の花粉がみつかり、埋葬して、そこにたくさんの花を入れたのであろうと推測されました。この埋葬する儀式が宗教の始まりではないかといわれています。       古代の文明の発生とともに、死後の復活を求め、エジプトのピラミッドや、ミイラの製造などを行いました。エジプトで3500年前のものとみられる「死者の書」が見つかっています。それらの宗教は支配階級のものでした。

 BC400年前にブッダは、出家して、自分の教えを広め始めました。仏陀は当時のインドの社会が、支配者階級によって独占された宗教(バラモン教)を、一般庶民のものにしようとしました。カースト制度を否定し、人間扱いされていなかった不可触賤民や女性も、弟子にしました。いろいろな苦しみをいろいろな欲望をたって正しい生活(八正道)をすることによって誰でもが、平安な生き方をすることができると教えました。                   イエス・キリストも、当時の支配層の信じていたユダヤ教から脱して、神のもとに平等であると言って、貧しいもの、虐げられた者に救いの手を差し伸べました。そしてそれぞれ、仏陀は、死後輪廻転生のなくなることを願いました。(死後極楽浄土へ行くなどというのは、後世の弟子たちの作りものです)。イエスキリストは、身分や生まれに関係なく、信仰心だけで、神の国に、復活することを教えました。

 中世には、弾圧していた宗教を公認し、宗教の力を支配者層が身につけ、人々を支配する道具に使いました。中世の時代は戦争が続き世界中で、死体がそこらじゅうに転がっているような時代でした。人々は、あまりに現在の世の中が苦しく、来世での幸せを願うしかなく、それは支配者にとっても大変都合の良いことでした。宗教は様々な迷信とともに、人々の心を支配していました。

 近世になって、ルネッサンスが始まり、宗教に対しても批判的に見るものが出てきました。神よりも人間中心を叫ぶ者が出てきたのです。科学の発展とともに、唯物論の発生、自我の確立、迷信の克服、そして医学の発達は、人間を長生きさせるようになりました。

 しかし現代この20、21世紀になって、死に対して考え方が大きく変わってきてしまいました。現代の死の特徴は、死のタブー化で、死をできるだけ隠す、考えないようにするということです。特徴として1、家庭死から病院死へ、2、交わりの死から、孤独な死へ(特に最近の老人の孤独死は恐ろしいほどです)3、情緒的な死から、科学的な死へ(死の医学化)4、現実の死から劇化された死と変わってきています(「死を看取る医学、柏木哲夫から)肉親の死を体験していない人が増加しています。テレビやゲームなどの虚像の世界での死ばかり見ている。そして普通の人は死について考えず心の準備をしないままに、死に直面しうろたえるという事態が生じています。

 現代医療は、今までなかった事態を引き起こしています。延命治療をどこまでするかという問題も生じています。今死の医学(死生学・タナトロジー)の研究が進められていますが。私たちも、まったく考えないでいて、何かあったとき急にうろたえないようにしていたほうが良いように感じます。1年前父が急死しましたし、私の2歳年下の義理の弟に肺がんが見つかり、手術をすることになりました。今までとても元気にしていましたのに急なことで私もショックを受けました。私たちの年齢(私はもうすぐ68歳)になったら、考えておく必要があるように感じます。

追記 :義理の弟は、2011年9月16日に死去しました。

 つづく

 

2011年1月16日 (日)

人間学は、専門の研究者でないと、だめなのか ゼネラリストは不要か

昨年のある集りのなかで、人間学(特に、総合人間学)にとって、こういちのように、人間についてのゼネラリストを目指すというのは、ただしいありかたではなく、研究者として、なにがしかの専門の分野の研究者となって、成果を出していくべきであるという話を聞きました。まえには、わたしのことを、もったいないとも、言っておられました。学生時代から人間学に取り組み、東京教育大学の副学長にもなった倫理学の大島康正氏(故人)が、私のやっている人間学についてのとりくみにびっくりして、私も負けないように勉強します、とまで言っていただいていたのに、研究者への道を進まず、家業を継ぎ、おまけに、革新政党の活動家になり、勉強がおろそかになってしまいました。そのご、ふたたび、人間学研究会を再開し、研究を少しづつやってきましたが、ともかく、人間の全体をカバーして、人間に関してのゼネラリストになろうという大きすぎる目標と、私の怠け心から、世に問えるような成果を上げていません。65歳になって、社長業から離れて自由時間が増えたのですが、はかばかしい成果が上がっているわけではありません。ただこのブログを書いているのが少し前進となっていると思います。

 わたしは、人間学を、「ただ人間とは何か」ということを求めるのではなく、人間に関する諸成果をうまくまとめあげ、一般の人々が、よりよく生きるための知恵として、役立つものにしたいと思ってきました。それを私は実用的人間学となづけています。カントの「実用的見地における人間学」の現代版ができればいいなと思っています。カントの人間学が、カントという偉大な人物の一人の手でなされるように、私の実用的人間学も、低レベルながら、私一人がまとめたものを作る必要があると思っています。しかし、カントの時代に比べ人間に関する知識の量は膨大でとても、個人でまとめあげることは大変です。そしてただ何かしらの著作を書けば良いというのではなく、人間個人一人一人にどのように生かしていくのかという実践的なところがより重要なのです。たとえば、世に健康法という本は山のように出ています。それぞれの立場から、食の重要性、歯の重要性、気功や呼吸法、ダイエットの方法、心の持ち方、その他さまざまです。それぞれの専門家の方は自分の推奨する健康法を人々に進めます。しかし人間はいろいろな側面が相互にかみ合って成り立っているものであり、また人間一人ひとりの特性も違います。漢方などでは、陰性の人と陽性の人では、対処法を変えています。自分の状況を、全体的な知識で正しくとらえること、そしてその状況により、より良く対処する方法を見出すことが大切です。偏った、対処法はかえって、その人の状況を悪くすることが多いのです。これはなかなか大変なことですが、レベルが低くとも、まず自分の心身の状態をつかむ努力、そしてそれぞれにあった対処法を選ぶことが必要です。健康法ひとつとっても、総合的、科学的な知識と対処法が必要です。そのほかにも、極めた大切なのは、自分たちの暮らしを左右するのが政治であり、今の政治がどのようなものであるかを、大マスコミなどの世論誘導に惑わされずに判断することです。政治は、個人のささやかな健康法などの努力を吹き飛ばしてしまいます。そのほか、ともかく、カールせーガンが言うように、科学的な立場に立って物事を判断し、行動していく真の科学者(専門の科学者ではなく、そういった立場に立つ庶民も科学者であるとセーガンは言いました)が増えることが極めて大切です。

 私は、真の人間学を確立するためには、自分自身が学者として業績を上げるよりも、企業である程度の収益を上げ、人間学研究の場を確保することの必要を考え、好きでもない社長業に、相当な時間を割いてきました。利益を上げて、研究所を作ることをめざしましたが、残念ながら大きな研究所はできませんでした。しかしビルの一室をともかく確保し、何十年来の資料や書物を補完する場所を確保してきました。また、人間学研究所や、総合人間学研究会から総合人間学会の始まりのころまで、事務局として縁の下の力持ちの役割を果たしてきました。私が、人間学の何らかの研究者として論文等を書き、影響力を発揮することよりも、そのような役割を果たすことのほうが重要であると思ったのです。

 では、人間学について、研究をほとんどしていないかというと、そうでもないと思っています。宇宙論から、現代社会から未来までの歴史、人間の体と心、社会と政治、その他人間全体について大まかな話を、一般の方に比較的わかりやすく話すことができます。また、世の中に、誤った占いや迷信で人生を不幸にしている人のために、超常現象や超能力等を科学的、批判的に研究する、「ジャパンスケプティクス」という学会に入ったり、現代版人相術を作るために「顔学会」に入ったりしています。また特に人間学の歴史を探求するためにいろいろな資料を集めその参考のために「科学史学会」にも入っています。後漢初期の小説を書くために、その時代をかなり詳しく勉強しました。しかし、そのほかに健康法なども比較検討したりとともかくあまりに範囲が広いために、それぞれの専門家が見れば、幼稚なものに見えるでしょう。ただ、人間学の例会で45年間集まってきている資料や、私なりに、人間と人間学の歴史の膨大な資料などは、いずれまとめていきたいと思っています。

 私はもうすぐ、68歳であり、普通なら学業の面でもそろそろ引退に向かう年なのかも知れませんが、私はこれからと思っています。総合人間学はそれぞれの専門の学者が自分の専門の成果を発表し、全体として「総合」となるのだと言われました。今度の「人間学研究所年誌」には各大学の人間学なり人間科学と称している内容について整理したものを発表します。みな人間を総合的にとらえて、学際的に研究すると言っています。しかし、現実には、それぞれの専門家の先生が専門の講座で教えているだけで、これが総合した何何だと示してはいません。哲学的人間学、教育人間学とか部分的にまとめたものはあります。まとめるのは、講義を受ける学生の頭の中で総合してくださいということでしょう。ただ一人ぐらい、私のようにいつになったらものになるかわからぬ雲をつかむようなものが一人くらいいてもいいのではないでしょうか。私は初めから、なにがしかの論文を書いて、評価を受けたり、大学の教授になろうとか思ったことはないのですから。私は私でマイペースで自分の研究を続けていきます。途中でボケてこなくて、ある程度長生きできればいつか、少しはものになるかも知れません。

2011年1月 6日 (木)

人間学研究所 2011年1月例会のご案内

第70回新教育人間学部会

 日時 : 2011年1月28日(金) 18時30分より

 テーマ: 「ポド テキスト 行間を読むといった文学作品のうらよみについて」

 講師 : 柴田義松氏 当研究所所長 東京大学名誉教授

 会場 : 人間学研究所

 懇親会 : 越路

 参加できる方は、人間学研究所会員、実用的人間学研究会会員のみです

 第30回実用的人間学研究会例会

 日時 : 2011年1月20日(木) 18時30分より

 テーマ: 「カウンセリングについて」 

 佐竹は2年間ロージャーズのカウンセリングの講習  を受けました。そのカウンセリングについてお話します。エンカウンターグループも試してみます。このテーマは2007年にもお話ししました。

講師 : 佐竹幸一 実用的人間学研究会会長

 会場 : 人間学研究所

 懇親会 : タイ、ベトナムレストラン ソムオー

 参加 : 人間学研究所関連の方以外でも自由に参加できます。参加ご希望の方は

      佐竹幸一まで  090-6549-2677

 人間学研究所

 〒169-0073 新宿区百人町1-3-17 佐竹ビル3階

  JR 山手線新大久保駅下車3分大久保通りに面します

  メール : pcr92240@nifty.com

 

  

胡蝶蘭を咲かせました 白梅も、うちの二つのベランダの現状

110226_085101 2011年の最初のブログは、ささやかでも少し明るい話題でもと思いまして、なかなか再び咲かせるのが難しい、胡蝶蘭がまた咲き始めたので、ご紹介します。すでに以前のブログで、ビルの3階のかなり広いベランダと、五階の住まいの小さなベランダの状況についてお話ししました。花は大体家内が担当し、野菜は私の担当です。毎日五階の自宅から、人間学研究所兼私の書斎のある3階に降りて水を植物にかけるのが私の担当です。

 家内は、いろいろな本を買ってきて、かなり勉強しています。私は、野菜の苗を買ってきてもろくに本も読まないので、三つに一つくらいは失敗してしまいます。          昨年5月の母の日に、鉢植えの胡蝶蘭を下の息子夫婦から家内にプレゼントされました。胡蝶蘭は一カ月以上咲き続けますが、ふつうは花が散ってしまうと、そのまま捨ててしまうことが多いと思います。家内はそれをまた咲かせることにチャレンジしました。すでにおととしに私が買ってきた洋ランである、デンドロジウムをうまく育てて、昨年再び咲かせました。さらに株を6つに増やして、花が咲くのを待っています。デンドロジウムは高地にも育つ蘭で、寒さに強く、日当たりのよい5階のベランダに置きっぱなしにしていました。さすがにこのところ外気温が5度以下になるため夜は室内に入れています。

 胡蝶蘭は、気温20度以下にしてはいけないと本に書いてあるために、日当たりの良い部屋の中においています。そして、小さい電気あんかを買ってきて、それを下に置き夜はそれを、二重にビニール袋でおおって、そばには温度計を置き、20度以下にしないようにしました。昼の置き場所も日当たりの良い暖かいところに転々と変えています。われわれは過保護の蘭とよんででいます。朝方東側の机の日の当たる場所に置いていたとき、飼ってている黒猫がつぼみを噛んでしまいました。まだ若い黒猫には興味しんしんなのです。それで猫が噛まないようにもしなければなりません。しかし、注意深く育てているために、4枚の葉が倍の8枚に増えてきました。二枚ぐらい増えればよいと書いてあったそうで、それだけ葉が伸びているのは、順調な証拠でしょう。昨年12月ごろつぼみが膨らみ始め、昨日花が一つ開き、今日には二つ目の花が開きました。これから次々に開いていくのが楽しみです。でも、それは、一生懸命育てた家内の努力のたまものです。私は、来年もさかそうなどとも思いません。

 それから、3階のベランダにある、盆栽の白梅二鉢が満開になりました。この盆栽は、今住んでいるビルができた30年くらい前の私の祖父のころからのものなので、大したものです。もうひとつ盆栽があるのですが、昔ボケの花があったのが、そこにベゴニアが侵入し、ボケの花は細い茎一本だけの有様です。ボケの花は昨年初めに買ったものが大きな鉢に植え替えたため大きく成長し、たくさん花芽がついています。咲きそろうのが楽しみです。他には、3階には、大きな鉢に植え替えた、椿が満開になりました。木の元気が良く昨年より大きなきれいな花が咲いています。五階の小さな椿の鉢も咲き始めました。後はベゴニアがいろいろな所に飛び散った形で、花を咲かせています。強くて元気な花です。もうしばらくすると、つつじの花の鉢植えが咲いてくるでしょう。みな新しい大きな鉢に植え替えたので木はとても元気になっています。

 私の担当の野菜類ですが、秋口に植えた、レタスは元気いっぱいで、葉っぱはたくさん食用になりました。上のほうを残しておいたら、上にどんどん伸びて、小さい黄色い花が咲き始めています。キャベツは、4株のうち、広くて深い鉢に植えたものは大きく育ち、次第に中心部にまき始めキャベツらしくなっています。狭い所に植えたものは育ちが良くありません。なすは春に植えて、春と秋に収穫しました、まだそのまま抜かないで残してあります。なすは元気なのですね。春菊は、植えたところが条件が良いところは大きくなってきました。水菜も何かいか食べたあとまだ元気です。イチゴは3種類植えました。まだあまり伸びてはいませんが、花を咲かせたものがありますがこれからです。パセリは元気でこれから収穫です。

 後昨年買ったラベンダーをほんの言うとおり、何株かを土に植えました。残ったものも全部枯れないで、残っています。また元気になるといいのですが。そのほかにもサボテンやらあじさいやら、南天やら、サンショやらさまざまに植えています。春になって一斉に咲いてくれるといいのですが。写真なしで、文章ばかりでごめんなさい。

1月24日 胡蝶蘭は次々につぼみが開いて、花が10個に成りました。あとつぼみから後10個は咲きそうです

写真の胡蝶蘭は2月26日に撮影したすべて花が開いた胡蝶蘭です。

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