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2011年1月17日 (月)

死について考える その1、死とは何か 

1997年(平成9年)10月の実用的人間学研究会第49回例会において、私は「死について考える」というテーマで、お話ししました。13年も前のことなので、その頃参加していた方は少なくなっていると思うので、来月(2月)の実用的人間学の例会でお話ししてみようと思います。そのときの24ページの手書きのレジメを基に、お話ししてみたいと思います。

追記 2月例会は寒いので、もっと明るく楽しい話題にすることにしました。

1)死について、いろいろな見方と歴史をお話ししました。

 死といっても人間の死、動植物の死、民族の死、人類の死、そして宇宙の死まで、いろいろです。また人間の死に関しても、細胞死、臓器死、個体死、精神死などいろいろとあります。また人間に関して言えば、生物学的、医学的な死、と社会的な面での死というものもあります。フィリップ・アリエスという人は、死にも、1、一人称の死(しぬ人本人の死)2、二人称の死(家族身内にとっての死)3、三人称の死(医者など第三者にとっての死があると言っています。また人間にとっての死も、ある一点の時間で死んだと言えないのです。すなわち死は点ではなく、線上を流れていく過程で見ていかなければなりません。1、呼吸停止、2、心臓停止、3、瞳孔が拡大(脳死)となっていきます。昔、NHKのETV特集で、「4つの死亡時刻」という番組をやっていました。死亡時刻もどこをもって判定するかは難しいのです。

 死の定義の一つは、「脳幹を含む脳の全体の機能の不可逆的な停止」とされています。脳細胞の死も1、大脳の死(人間としての意識をもたらす脳)と、2脳幹(中脳、橋、延髄)など、呼吸の中枢などがある。3、全脳死があります。心臓が止まって脳への血流がなくなっても脳はただちに死ぬわけではなく数十分は生きられます。そこで血流が戻れば生き返るということになります。そのようなときに臨死体験という状態が生まれます。しかし蘇生するならばそこではまだ死んではいないのです。いわゆる仮死状態です。死んだ後体験するのではなく、死にそうなときに体験するということです。「完全に死んだ人」が生き返ったことは、宗教上のお話し以外一度もありません。またもし生き返ったらそれは死んでいなかったということです。生き返らないのが死なのですから。

 さて人工呼吸器の発明により、いわゆる「脳死」ということが生じてきました。脳幹部分は生きていて自発呼吸をしている状態はまだ死亡したとは言いません。しかし脳幹部分が死んだ場合でも、人工呼吸器で呼吸を維持することができます。その段階で、「脳死」が生じます。心臓やほかの臓器はきちんと機能していて、体は当然暖かいし、子供などでは栄養が与えられて成長していくこともあります。このような状態でも両親が自宅に引き取って、生かし続けているケースがいくつもあります。でもこの段階でいちおう人間の死(脳死)と判定し、臓器を取り出して移植するのが臓器移植です。しかしこの判定基準は様々です。そして脳死については様々な論争があります。さらには、また死体となっても皮膚というのは長生きで、完全に心臓も脳の働きも停止しても、ひげが伸びたりします。このように死といってもいろいろな段階があって一点ではないことがおわかりではないかと思います。

 死の問題は、人間にとって、人生上の大問題であり、宗教の発生する大きな原因となっています。良く出てくるのが4万年ほど前のネアンデルタール人の骨が発掘されたとき、そこに多数の花の花粉がみつかり、埋葬して、そこにたくさんの花を入れたのであろうと推測されました。この埋葬する儀式が宗教の始まりではないかといわれています。       古代の文明の発生とともに、死後の復活を求め、エジプトのピラミッドや、ミイラの製造などを行いました。エジプトで3500年前のものとみられる「死者の書」が見つかっています。それらの宗教は支配階級のものでした。

 BC400年前にブッダは、出家して、自分の教えを広め始めました。仏陀は当時のインドの社会が、支配者階級によって独占された宗教(バラモン教)を、一般庶民のものにしようとしました。カースト制度を否定し、人間扱いされていなかった不可触賤民や女性も、弟子にしました。いろいろな苦しみをいろいろな欲望をたって正しい生活(八正道)をすることによって誰でもが、平安な生き方をすることができると教えました。                   イエス・キリストも、当時の支配層の信じていたユダヤ教から脱して、神のもとに平等であると言って、貧しいもの、虐げられた者に救いの手を差し伸べました。そしてそれぞれ、仏陀は、死後輪廻転生のなくなることを願いました。(死後極楽浄土へ行くなどというのは、後世の弟子たちの作りものです)。イエスキリストは、身分や生まれに関係なく、信仰心だけで、神の国に、復活することを教えました。

 中世には、弾圧していた宗教を公認し、宗教の力を支配者層が身につけ、人々を支配する道具に使いました。中世の時代は戦争が続き世界中で、死体がそこらじゅうに転がっているような時代でした。人々は、あまりに現在の世の中が苦しく、来世での幸せを願うしかなく、それは支配者にとっても大変都合の良いことでした。宗教は様々な迷信とともに、人々の心を支配していました。

 近世になって、ルネッサンスが始まり、宗教に対しても批判的に見るものが出てきました。神よりも人間中心を叫ぶ者が出てきたのです。科学の発展とともに、唯物論の発生、自我の確立、迷信の克服、そして医学の発達は、人間を長生きさせるようになりました。

 しかし現代この20、21世紀になって、死に対して考え方が大きく変わってきてしまいました。現代の死の特徴は、死のタブー化で、死をできるだけ隠す、考えないようにするということです。特徴として1、家庭死から病院死へ、2、交わりの死から、孤独な死へ(特に最近の老人の孤独死は恐ろしいほどです)3、情緒的な死から、科学的な死へ(死の医学化)4、現実の死から劇化された死と変わってきています(「死を看取る医学、柏木哲夫から)肉親の死を体験していない人が増加しています。テレビやゲームなどの虚像の世界での死ばかり見ている。そして普通の人は死について考えず心の準備をしないままに、死に直面しうろたえるという事態が生じています。

 現代医療は、今までなかった事態を引き起こしています。延命治療をどこまでするかという問題も生じています。今死の医学(死生学・タナトロジー)の研究が進められていますが。私たちも、まったく考えないでいて、何かあったとき急にうろたえないようにしていたほうが良いように感じます。1年前父が急死しましたし、私の2歳年下の義理の弟に肺がんが見つかり、手術をすることになりました。今までとても元気にしていましたのに急なことで私もショックを受けました。私たちの年齢(私はもうすぐ68歳)になったら、考えておく必要があるように感じます。

追記 :義理の弟は、2011年9月16日に死去しました。

 つづく

 

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