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2011年5月

2011年5月31日 (火)

自分を知るとは 「ジョハリの窓」 知られていない自分(その2)

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「ジョハリの窓」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。心理学の講義を聞いたとか、経営の研修会などで聞いた方も多いでしょう。知らない方への説明とおさらいの意味であらためてお話しします。

「ジョハリの窓」とは1955年にアメリカの心理学者である、ジョセフ・ルフトと、ハリー・インガムとによって開発された「対人関係における気づきのグラフモデル」のことです。二人の名前をとって、ジョハリ(johari)と名付けられました。

 上記の表で少し暗くて分かりにくい表ですが、自分というのは、横軸に自分自身にわかっている部分と、自分自身ではわかっていない部分とがある。そして縦軸に、他人にはわかっている自分と他人にもわかっていない部分とに分けてみるというわけです。そうすると四つの窓ができます。

 1、そして、自分にも他人にもわかっている部分を「開放の窓」といい、公開された自分であるといいます ここは共にわかりあえる自由な行動領域であるといえます open self

2, 自分は気づいていないけれど、他人にはよくわかっているということがあります。こういうことはよくあることです。これは「盲点の窓」といいます blind self

3, 自分にはわかっているのだが、他人にはわかっていない、秘密にしている自分というのがあります。これをかくされた自分といい「秘密の窓」といいます hidden self

4, 最後に、自分でも知らないし、他人も気がつかない、その人の隠れた部分。誰からもまだ知られていない自分を「未知の窓」といいます。 unknoun self

 開放された窓が小さいと、すなわち自己開示が十分になされていないと人間関係がうまくいかないことがあります。自分の良いところ、欠点、よく落ちいる傾向などを良く分かっているのと、まったく知らないで行動しているのでは人間関係に大きな差が出てきます。特に盲点の窓が多いと問題です。

 自分というものは、案外にわかっていないところがあるのだなと自覚し、自分自身を日常的に知るように努力していくこと。大げさに言うと自己超越を日常的に行っていくことが人間個人の成長となっていきます。1の開放の窓を次第次第に拡大していけば人間関係はよくなっていくことでしょう。すなわち、他人にはわかっていて、自分では知らないと下手をすると物笑いの種になります。また他人にたいして自己開示しないで秘密にばかりしていくと、相手も心を開いてくれません。自分の秘密を思い切って話せれば相手の人も心を開いてくれます。

 ◎補足として、「自分」に関してのいくつかの言葉をあげてみます

1、 ウイリアム・ジェームズ

  人間は出会う人の数だけ自己を持っている ー相手によって違う自分

2、チャールズ・クーリー

  自分は他人の眼に映る自分のイメージを反映しているにすぎないー鏡に映る自己

3、竹内敏春

  自分に出会うということ 人となりが身振りや声にあらわれる                          自分とはどういうものか本来何をしたがっているのかわからない                     行為のパターンの変化 顔つき、体つきも変わる その人の存在の仕方全体が変わる

 自分が気づきたくなかった自分に気づく 人はそんなに聖人君子ではない

 恋愛での行き違い 本当に好きなのは誰?よく、すなおになれず喧嘩したり行き違いがおきるのです

★ 私が思うに、自分の考え方というものも、実は外から規制されたものにものにしたがっているのではないか。日本軍国主義の時代や、現在でも“アカは悪い”などということがすりこまれ、それを自分の考え方と思っている。マスコミ、特に読んでいる新聞などに強く影響される。世論調査なども誘導的な傾向がある。またひとはいろいろな潜在意識に支配されていることがある。フロイトは性的なものを上げ、ユングは社会的なもの、すなわち風習や、シンボルをあげています。

4、ギリシャ哲学では イドラ(偏見)からの自由を求めた

5、堺屋太一 「自分を生かす名言」序文

  子供の時代から、これをしてはダメ・・・・といわれ続けて、自分が本当にしたいことが分からなくなってしまう。就職も学校も、何々にいいからということを人に言われて、本当に自分が好きかということを良く考えないで選んでしまい。結局途中で嫌になったりする。 ー思考のタコつぼに陥る

6、孫子

  ”敵を知り、己を知れば、百戦危うからず”

 

2011年5月29日 (日)

自分を知るとは 「ソフィーの世界」死の自覚と生の素晴らしさ(その1)

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現代の日本では、特に若い人たちは、政治のことや社会的関心は薄い代わりに、自分個人に関心が集中している傾向があるとおもいます。これはミーイズムともいいます。そしてその自分を知りたいというところから、「自分探し」などという言葉が出てきました。それはささやかながらでも幸せになりたいという願いから来るものなのでしょう。

 そして、「自分探し」にお手軽なのが、特に女性週刊誌などにたくさん出てくる、占いや、各種心理テストなどがあります。一方自分探しからスピリチュアルとかの世界のほうへ進んでいく人もあります。そして、いろいろな矛盾の根源にある社会の矛盾に目を向けないで、それぞれの流儀の解決法をやってみようかななどと思います。パワーストーンやら魔法やおまじないなどというのも手っ取り早い方法です。

 学校では、よほどそういうことに関心のある先生以外、話してくれません。まして、親兄弟や、友達もそうです。大学の今はやりの「人間学」という学科に入っても、実際の内容は旧態依然たる各専門の教授の講義が羅列されているだけということもあります。

 1995年(平成7年)にノルウェーのヨースタイン・ゴルデルという人の書いた『ソフィーの世界』という本が日本で翻訳され、一時爆発的に売れました。ソフィーはごく普通の14歳の少女で、そこに差出人の名前もない一通の手紙が舞い込みます。そこにはただ「あなたはだれ?」と書いてあるだけでした。それ以後、「私っていったいだれなんだろう」と考え始め、それ以後いろいろ不思議なことがソフィーのまわりで起きてきます。

 ソフィーは鏡の中の自分を見てみたり、自分は何だろうと考え始めます。そして今私はいるけれど死んでしまえばいなくなるということに気づきます。「人は、いつかかならず死ぬということを思い知らなければ、、生きていることを実感することもできない」と考えた。そして生のすばらしさを知らなければ、死ななければならないということをじっくり考えることもできない、と。                                                            

 ソフィーは、祖母が自分の病気を告げられた日に、似たようなことを言っていたのを思い出した。「人生はなんて豊かなんでしょう、今ようやくわかった」

 たいていの人が、生きることの素晴らしさに気づくのが病気になってからだなんて、悲しい。みんなが謎の手紙を郵便箱に見つければいいのに。                           

 これが本の最初のほうに出てきます。そしてその後、次々に「哲学講座」という封筒が届きます。そして「哲学」について、「神話」について、さらにはソクラテス、プラトン、ルネサンスの哲学者たち、デカルト、カント、ヘーゲル、マルクス、ダーウイン、フロイト(他に紹介されていますが省略しました)などと続き、そして私たちの時代として、人間は自由の刑に処されているのだという、サルトルが紹介されます。

ようは哲学史をわかりやすく少女にもわかるように説明してその中にある人間観そしてその中に自分とは何かを探る糸口を見つけ出させようというものです。でも実際に読むとそんなにわかりやすいものではありません。話では対話の相手でもあり先生でもあるようなアルベルトという男の子が登場し、ソフィーと会話をしながら、哲学のいろいろな話をつづけていきます。そして途中からヒルデという同い年の少女とそのパパが出てきます。

 後半になってくると話の主人公はソフィーからヒルデのほうに移ってきます。そして、ソフィーとアルベルトの話は「物語の世界=ソフィーの世界ーファンタジーの世界」であることが明らかになります。最後にソフィーは「ヒルデは幸せね、本当の人間なんだもの…大人になって、きっと子供ができて」アルベルトは言います「僕たちはヒルデのようには生きられないそのかわりぼくたちは死なない」

 ヒルデの世界は、現実に存在し死んでいく世界。ソフィーの世界は不死の世界ですが、ソフィーはヒルデの世界をうらやましく思います。「ファウスト」の中で、「時よとまれ、おまえは美しい、~この至高の瞬間を」、という言葉があります。

 生命のくじを引き当てたものは、死のくじも引かねばならない。なぜなら生命のくじのあたりは死なんです。                                                   

 そして最後の章「ビッグバン 私たちも星屑なんだ」には「(人間は)小さな生命体かもしれないけれど、大きな関連の中の大切な一部として大きな何かの一端をになっているのだ。僕たちは命の惑星なんです。」                                            「私たちは遺伝子をのせて生命の海を行く船なのです、この積み荷を次の港に運んで~」    「全世界が一つの大きなコミュニケーションで結ばれる・・・一つの惑星文明に生きていrことを感じることが大切である」と結んでいます。

 生命の素晴らしさと地球と自然と人々のつながりに関しては、ちょうど現在、手塚治虫のマンガ「ブッダ」とシャカについて展示会が開かれています。私も「ブッダ」は昭和49年の希望コミックス、その後の大きな立派な本、そして文庫版(いずれも潮出版社)と三つ持っているほど好きなのです。

 人間は親からその子と連綿とつながっているそして外の動物なども含め大きな網の目の一つとして存在しているというところが素晴らしかったです。

 「ブッダ」の中で、死ぬ直前にすばらしい景色を見ながら、「この世は素晴らしい、甘美なものだ」という、言葉がとても印象的でした。そして死んだrどうなるのでしょうかという問いに、「人間は誰でも死ぬ、あたりまえのことだ。死ぬということは人の肉体という殻から生命が飛び出していくだけと思うがよい。人間も肉体という殻からはなれて飛び立てばどうなるか生きている間はだから誰にも分らぬ。ただそれからさらに無限に新しい世界が続くはずじゃ。だから死は何も恐れることはない」といっています。

 自分とは何かを突きつめると、有限のいのちと死ということを考えざるを得ません。その中で、この世界で生きていることの素晴らしさを、感じ取り、精いっぱい生きていこうとすることが大切なことでしょう。たとえ病気で余命幾日と宣告されても余計残された時間を精いっぱい生きようとするでしょう。そしてあまり細かいことにくよくよ悩まなくなるかもしれません。このことは自分探しとか言って占いなどにたよるとか、眼先の利益をなにがしかで得ようということよりももっと大きくて大切なものであることがわかると思います。

                      

2011年5月27日 (金)

比較人生論 真下信一 志位和夫、B、ラッセル、村松恒平 (3)290

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ベゴニア、奥はイチゴです

三回にわたって、比較人生論を書きましたが、あげている人物もいろいろで、順序もなしに列記してあります。今回は表記の4人についてです。

真下信一

はやはり、『君たちはどう生きるか』に大きな影響を受け、『君たちは人間だ』(新日本出版社)を書きました。                                          「まず、大切なことはまず第一に人間であること、ヒューマニズムの立場に立つことである。人間を無視することなく愛と自由とで、結ばれることが望ましい。しかし人間に関する学問は遅れている」                                                   「人間には三つの大切な要素がある。 1、二本足で立ち手を使って労働すること、 2、人間は社会的などうぶつであること。人間は何より人間関係がたいせつであること、世の中や政治のあり方についてしっかりつかむことが大切である 3、精神性 人間の自覚性、自律性、心の内面を豊かにすること」                                        「何か目的を持ち、生きがいを持って、それの実現のためにわが身をはげます。そういうところに人間らしい生活がある」

B ラッセル

20世紀最大の哲学者とも言われます。私は昔『宗教から科学へ』(荒地出版社)や『ラッセル幸福論』(岩波文庫)を読んで大きな感銘を受けたものです。             

「宗教と科学は社会生活の二つの面で常にたたかってきた」                          「世界宗教は教会、教義、個人道徳のおきてを持つ」                                      「宗教の教義が、科学の理論と異なるのは永遠で絶対的な確実な真理を体現していると主張している点にある。科学は常に試験的なものであり、その現在の理論は早晩改革が必要になると予期することにある」                                            「病気にたいして悪魔や魔女の仕業とし、ドイツだけで10万人の女魔法使いが焼かれて死んだ。実際には異端審問を行い財産をかすめ取ったのである」                       「科学者は科学の範囲を超え他領域が存在することを謙虚に認め、リベラルな神学者たちは、科学的に証明されることはどんなこともあえて否定しないという点で一致している」    「日常的な不幸の起こる原因は大部分、まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣によるものである。それを正しく見つめ理解することがたいせつである」               「恋愛は自我の固い殻を打ち砕くことができる。自分の最高の幸福が愛する人の幸福につながってくる」                                                  「幸福のためには、あなたの興味をできる限り幅広くする。あなたの興味を引く人や物にたいして友好的なものにすることが必要である」                                 「愛情を受ける人は大まかにいえば愛情を与える人である」                              

 まだまだ沢山の役立つ言葉がありますが、よろしければご自分でお読みください。

志位和夫

『科学、人生、生きがい』(新日本出版社)

「マルクス主義、社会主義は死んだという大合唱があるが、討論としては粗雑である。死んだのではなく常識となったということです」                                   「資本主義の矛盾は、商品主義の無政府状態が全面的に表れる競争の強制的法則、規制緩和、教育に競争原理、農業、中小企業の圧迫などにあらわれる」                         「個人財産の否定ではなく、確立こそ社会主義の目的。目指す社会はすべての人間が人間として尊重され、自己の生き方の統一として尊重され、その能力や素質が全面的に生かされる社会である」

村松恒平氏 『神様学入門』洋泉社 

村松氏が神様にインタビューしたと内容という形の本

「神様は便利屋にあらず(困ったときの神頼みだけではだめ)」                                         「呪いは宅配のピザのようなもの(そのつけは人生で払わなければならない)」              「自分探しはうち側に向かってもだめ、他の存在と出会って認識することができる」                       「いかに生きるかと、ぐだぐだ悩んでいる人より、生き生きとしした生き方をしている人のほうが、ずっと深く人生について知っている」                                       「神を感じ、神を知り、神の恩恵を受けるには今では宗教は必要ない」                 「宗教は代理店であり、代価を要求する。宗教はゲームセンターのようなもの。しかしゲームセンターのコインはお金にならない。」                                                  「キリスト教の原罪説で神はアダムにリンゴを食べてはいけないといっているけれど、食べたくなるのが当然である。本当に食べさせたくなければ、アダムから離しておけばいいのだ。馬鹿じゃあるまいし」                                                   「善も悪も物事の裏と表、“正義”の立場で救世主を待つのはエゴの変形である」                「神は酒、宗教は阿片、そこには非常に手に入りやすい陶酔がある」

 などなど、一部しかのせられませんでしたが、非常に明快で面白い本でした。

いまどき、こんなくそまじめなような人生論なんかはやらないかと思われるでしょう。しかし、時代がいかに変わろうと、受け継がれて感銘を受けるものは続いていくと思います。

                            

2011年5月26日 (木)

比較人生論 吉野源三郎、青木雄二、三木清 伊藤光晴 その2

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きゅうり、なす、ミニトマト、イチゴ、シソなどです

吉野源三郎

『君たちはどう生きるか』は、若者にとっての人生論の古典ともいう本ですが、大人にもぜひ一読をお勧めします。戦前に出版された本ですが、私が読んだ1998年版の岩波文庫でもすでに43刷となっていました。

「みんな、自己中心的な考え方から抜けきれない。客観的に自分や世の中のことを見られるかどうかなのだが、なかなか難しい。すなわち、自分を地球として見たとき自分を中心に世の中が回っていると考える天動説の誤りに気づくこと、そして地動説に変えることが大切である」といっています。おじさんはそれに気づきつつある甥にコぺル(ニクス)君と名付けます。

「立派な人と立派そうに見える人とはちがう。自分の一生の意味、値打ちについて教えることはできない。大人になるに従い自分で学んで見つけ出していかねばならぬ。人間らしく生きること・・・ははたから教え込めない。自分で生きてみて感じる中で、人の言葉の真実が理解される」と。「そして人はみな、自分の生まれてきた境遇から”自分の考え”をもち、自己中心的な考えから抜けきれないものである。客観的に自分も世の中も見られるようになることは、大変重要なことだ。世の中の人がお互いを理解し、好意を尽くし、それを喜びとする社会を作ろうとする人間をいい人間という」

伊藤光晴氏

 10代のころ『君たちはどういきるか』を読んで強い印象が残ったという伊藤光晴氏は『君たちの生きる社会』で「君たちの生きる社会を考えるコツは、自分と相手を全部取り換えてみることだ」といいます。「桃太郎の鬼退治」の話も、鬼の立場に立って見るとちがった見方がされる。日本人は内に優しく、外に冷たい「桃太郎主義」になりがちではないか」といいます。さて戦前のこの本が書かれた当時は日本は中国に侵略戦争を仕掛けていました。普通なかなかこういう風に考えないものです。いろいろな映画でも簡単な勧善懲悪で敵味方を分けて考えます。白人から考えてインディアンは悪者であるという風に。私も前に書きましたが、スターウォーズなどで、敵の巨大な宇宙兵器デススターを破壊するところが出てきます。その巨大なものに何万人も住んでいたろうになどとは考えないのです。これは平気で広島長崎に原爆を落とすもとになります。

さて再び吉野源三郎の話に戻ります

「人を愛することがいかに自己を成長させるかについては、多くの人が言う。愛することによって、自分の殻を打ち砕いて相手を理解することができる。愛する人を作るには相手を理解しようとする心、おもいやり、自分の心を抑える一つの勇気が必要である」といっています。このような相手を思いやる心がないと結局すぐけんか別れしてしまうのだと私は思います。

 「人間は、自分の行いを決定できる。だから誤ることもある。しかし、それをつらく感じ、克服することによって、人間がどういうものであるかについて学ぶことができる」      以上、だいぶ多めに引用しましたが。いろいろとうるものが多いと思います。今からでもお読みになることをお勧めします。

 もうなくなったマンガ家である青木雄

「ゼニの幸福論」(角川春木事務所)では、幸福であることと、幸福であると思うこととはまるで違うといいます。ただ自分の心の問題で主観的に、幸福であると「思えばいい」と言う幸福論が多いのですが、幸福で「あること」が大切であるといいます。現代社会の中で、厳しい生活環境の中で、苦しんでいる人に、幸福だと思えというのはひどい話です。観念論ではだめで唯物論でなければならないと青木氏は言います。「人間の悲しみは、ゼニで埋め合わせることができない。しかしそのあとの苦労は、ゼニがあれば、なくてすむ」ともいっています。

 三木清

「人生論ノート」も戦前の本ですが、うるところの多い本です。よろしければお読みになってください。新潮文庫で長く読まれている古典的な本です。

以下は三木清の言葉です                    

 「自分を知ることは、やがて他人を知ることである。私はただ愛することによって、他の個性を理解することができる。」                                          「今日の良心とは幸福の要求である。社会、階級、人類等々のあらゆるものの名において、人間的な幸福の要求が抹殺されようとしている場合、幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか。それはヒューマニストであるかどうかの条件になっている」             「『死後の世界があるかどうかはわからない』が正しい。」

さて三木氏は死んだら愛する人に会えるかもしれないか、死は恐ろしくない、といいます。そういう人を持てたことは素晴らしいことです。三木清は戦前の軍国主義国家により、逮捕され、終戦直前に獄死しました。

 三木清は戦前に「人間学」を、日本に最初に紹介した人物です。「人間学」について彼はこのように語ります。「以前の心理学は心理批評の学であった。人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評価することによって、これを秩序づけるというのが心理学の仕事であった。この仕事において、哲学者は文学者と同じであったような価値批評としての心理学が自然科学的な方法に基づく心理学によって破壊されてしまう危険が生じたとき、これに反抗して生まれたのが、人間というものである。しかるにこの人間学も今日では最初の動機から逸脱して、人間心理の批評という固有の意味を放棄し、あらゆる任意のものが人間学と称せられるようになってい。~心理批評が文学者にのみ委ねられるようになった。そこに心理学を持たないことが一般的になった今日の現代哲学の抽象性がある。その再見逃してはならぬことは、この現代哲学の一つの特徴が幸福論の抹殺と関連しているということである。これは戦前の人間学についての批判ですが、これは多くの現在の「人間学」にも批判されるべきところのものです

 さて、ほかにも取り上げた人生論はいろいろあるのですが、とりあえず少しの紹介にとどめます。いずれにしてもこの世での人生は一度限りです。生きてきてよかったという悔いない人生を送りたいものです。そして、生き方を誤らないためにも、自分について、人間について、社会について、たまには本を読み、少しはあれこれ考えて見ることもいかがでしょうか。

比較人生論 五木寛之、石原慎太郎、大川隆法、河合隼雄(その1)

Hi3d0128_2 ベランダ バラがきれいに咲きました

1999年7月の第3回実用的人間学部会で、私は「比較人生論」と題して話をしました。今からもう12年も前のことです。その要旨を人間学研究所通信(HUMANOLOGY)にも書きました。それを基にしてここで改めて書いてみたいと思います。当日参加した皆さんに配布した資料はA4版で26ページに及ぶものでした。この当時はまだワープロを使わず手書きの資料です。私はこの資料を作るために12人、30冊の人生論を参考にして比較してみました。

 人生論とは「人生とは何か」、「人間いかに生きたらよいのか」などについて考察するものです。よりよく生きるための知恵を追及する私の「実用的人間学」にとっても重要なところです。そして人生論はまた、人間は幸福に生きることを求めることが多いので幸福論にもつながります。そして人生論をどんどん真剣に追及していくと、人間とは何かという人間論や世界観につながっていきます。

 比較した人生論の人物は、五木寛之(大河の一滴)、石原慎太郎(法華経を生きる)、河合隼雄(人生ことはじめ)、吉野源三郎(君たちはどう生きるか)、青木雄二(ゼニの幸福論)、大川隆法(幸福の革命)、村松恒平(神様学入門)、渡辺昇一(人生観、歴史観を高める事典)、三木清(人生論ノート)、高間直道(人生哲学入門)、志位和夫(科学、人生、生きがい)B,ラッセル(宗教から科学へ)その他、ゲーテなど10人ぐらいの人生に関する名言ものせました。比較するためにずいぶんと幅広い人々の言葉をのせました。(   )ないは取り上げた著書です。ここで少しだけ、紹介してみましょう。(敬称略しました)

五木寛之氏は

『大河の一滴』で、

「人間の一生とは、苦しみの連続と覚悟して、究極のマイナス状況からスタートすることだ」といいます。この世の中の不幸のもとは、人間関係がばらばらであるということだ。しかし、その中でこそ、人間関係の素晴らしさにふれた時、大きな喜びを感じるのではないか。この世の中ではあれかこれかだけでなく、あれもこれもという立場に立ったらどうだろうか。人間関係を良くするためのユーモアと、涙と励ましと、ときに共に泣いてあげることが必要であるといっています。五木氏は他力本願の浄土真宗の信者です。

一方石原慎太郎氏は

「法華経を生きる」そして五木寛之氏との対談集「自力か他力か」で、「信じる者は救われんなどという安易な他力本願などでは決してなく、自分の抱いている問題、自分を取り巻いている厄介な状況が一体なぜもたらされたのか、その仕組みを自分で探り出し、自分で解決しなくてはならない」といっています。また「法華経の絶対的な法則に身をゆだねてしまえば、現実という相対的な世界~を超越でき安心立命する」といっています。また他人のことに関心がない、私は石原教だといっています。自信満々な石原氏らしい言葉です。

 大川隆法『幸福の革命』、『繁栄の法』(幸福の科学)

「人間の歴史は集合想念で作られる。考え方一つ、心の力が未来を変える」              世の中には邪教と無神論が広がっている。無神論はあの世の恐ろしさを知らないから罪悪感を持たない」                                                    「人間は魂を持った存在であり、肉体は乗り物にすぎない」                         「人間は思いと行いによって人間となる。みなさんも衆生を救う菩薩になってほしい」           以上が大川氏の考えです。 

さて私(こういち)は思います。生き方の問題に関して、宗教と信念の問題は重要です。宗教といっても、ありとあらゆる形がありますが、一般的に宗教は、信仰すること、帰依することが基本です。織田信長がやったように討論させ比較対照などはしません。大川隆法氏の「幸福の科学」によれば、その信者となったとたんに一気に菩薩になってしまうそうです。大川隆法自体が最高神のエル・カンターレで、仏陀でも、へルメス等々であるので、信じればすぐ菩薩になるのは簡単なのでしょう。宗教は麻薬か強い酒のようであるという人がいるが、新興宗教がはやるわけである。大変てっとり早いのです。本当に信仰できた人は幸いであるといえますが、しかしそれができない人は、自分で悩みながら自分の信念を作っていくしかないのだとおもいます。

河合隼雄氏は、

「私」を中心とした「人生学」が必要だとし、それは誰にでも通用する真理などはなく、各人が自分なりの「人生学」を作らなければならないといいます。最近河合隼雄氏の講演テープ集を買いました。「心の扉」といい全7巻です。河合氏の本はかなり揃えているのですが、河合氏の講演は大変面白く、本で読むのと異なる味わいがあります。その第一巻は「自分を考える」となっています。そこに書いてあった言葉です。

そして、「華厳経」にも「自分というものはない」ということが何度も出てきます。「私」というものはいろいろなものと関係していて、例えば、私と私の前にいる人との関係、私と天井の関係、私と床の関係、そういう関係の総和の中で「私」というものができている。だから大事なのは「関係」で、私というのは仮にあるだけだというのです。

 この言葉は『フォイエルバッハにかんするテーゼ』においてマルクスの「人間とは何か」の定義について、「人間とは社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」というのに大変似通っているので面白いと思いました。

 その2に続きます

2011年5月25日 (水)

辺野古は無理!沖縄嘉手納統合案も考えたら? 現状では最悪の普天間そのままに

アメリカ上院軍事委員会のカール・レビン上院軍事委員会委員長(民主党)と共和党のジョン・マケイン筆頭理事が5月11日に、東アジアでの米軍再編計画を「非現実的」だとして見直しを求める声明を発表したと、13日の新聞各紙は報じました。

 レビン氏らは米海兵隊普天間基地を辺野古に「移設」する日米両政府の現行計画は「行き詰った」との認識をしめし、米空軍嘉手納基地への統合を検討するように提言しました。沖縄では嘉手納市を中心としてさらに負担が強まると反対し、日米両政府も辺野古への移転を日米合意通りに行うと声明しました。

 日米合意は、民主党の鳩山前首相が、最低でも県外といっていたものを急きょアメリカに押し切られ、辺野古に決まったものです。28日で一年になります。ところが辺野古では大反対が起こり、2014年までに移転のめどをつけるといっていたものが、北沢防衛相は無期限延期と声明し、事実上断念しております。

 レビン氏は沖縄の政治状況や日本の深刻な財政状態、日本で東日本大震災が起きて、財政的にもさらに困難であろうということで現行案は「非現実的で」実行不可能であると批判しています。またアメリカも辺野古移設でお金をかけたくないという思惑もあります。軍事委員会は国防関係の予算の承認権限を持ちますから、軍事委員会のトップが辺野古移転に反対したということは大きな影響力を持ちます。

 レビン氏らの声明は極めて現実的なものです。ところが日米両政府はあくまでも辺野古案に固執するといいます。実質的に無理なのに、そのままで押し通すということは、本気で普天間を移転する気がないということです。国民新党の下地議員は嘉手納の負担を実質的に減らすことを基に嘉手納移転も考慮すべきだといっています。

 米民主党のジム・ウエッブ委員はグアムにある弾薬庫を活用すれば沖縄の6千エーカーの弾薬庫をグアムに移せるかもしれないといっています。私はちょうど東日本大震災の時に沖縄に行っていて、そのおおきな目的はアメリカの普天間飛行場などの基地をこの目で見ることでした。その結果は私の3月15日のブログ「沖縄の個人旅行に行ってきました、米軍基地そして大地震」に書きました。ともかく普天間飛行場は本当に町中ですぐ隣に小学校や大学などがありました。車でいくと左が海で商店が並ぶ幹線道路の右側は延々と普天間飛行場、キャンプズケラン、嘉手納飛行場、弾薬庫と基地が続きます。

 沖縄の海兵隊をグアムに移転しその費用を8千人くらいとか言っていたのが実は2,3千人で、費用を多くいってきていたとか.またグアム移転に伴う日本側の負担割合を小さく見せるために米軍が特に必要としない高規格の軍用道路を整備費10億ドルを米軍負担ということにして日本の負担割合を低く見せるなどということがウイキ・リークスで、明らかになったそうです。それを減らすということになると日本はグアム移転費用の66%も負担することになるのです。沖縄の海兵隊をグアムにもっていき、また嘉手納の機能もグアムに統合し、嘉手納に今以上の騒音が生じないようにして、嘉手納の人々に納得してもらいその代わりに、嘉手納以南の普天間とズケランの基地を返してもらい、さらには嘉手納の弾薬庫も返してもらえば、大変大きな土地が返還されます。海に近い一等地ですからうまく活用すれば、沖縄の産業振興にも大きく貢献するのではないでしょうか。また、辺野古に比べ費用は日米共に大幅に減ります。そういう現実的な交渉をしないで、ただ日米合意したからといって、何もしないで結局放置するのは本当におかしいことだと思います。

追記 嘉手納にすんでいる方々は、今まで米軍は騒音問題でも軽減するなどという約束をしてもことごとく、それを米軍側が破ってきて、もう信用できないと思っています。そのあたり、よほど、きちんとした約束と破ったときどうかということをきちんと責任を持って政府側が対応しなければ無理でしょう。

 同じようなことは、北方領土としている4島返還問題にもいえます。すでに実効支配しているロシアにただ返せといっても返さないに決まっています。現実的にロシアにも利益になると感じさせることによってのみ一部返還は可能です。建前だけでただ4島全部返せといっているのは全く意味がないように思います。

 歯舞、色丹島は無条件に返してもらい、国後島は半分づつにして、国後の人は日本ロシアの人ともに国境関係なく自由に行き来し、日本は平和条約締結後択捉も含め開発を共同で行い共存共栄しお互いに経済的にも文化的にも交流して、お互いに発展できるようにしたらどうなのでしょうか。いろいろと観光的にも楽しい展望が生まれるような気がしますが、いかがなものでしょうか。

追記 6月2日 垂直上昇機V22(通称オスプレイ)を来年普天間に配属する予定であるとのことで、オスプレイはすでに5回も重大事故を起こしている飛行機で、狭い普天間飛行場にもって来るのは極めて危険であり、早く返還させる必要があります。

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経営人間学(11) 人間のための企業

軍太鼓の太鼓に合わせて、真っ赤なきれいな軍服を来たイギリス軍が、撃たれても撃たれて倒れてもそれを踏み越えて、整然と行進していきます。それに対して、軍服はまちまちで、散兵となって射撃するアメリカ軍。アメリカ独立戦争の映画の1シーンです。(2000年の『パトリオット』です。メルギブソンが主役のベンジャミンを演じます。ゲリラ戦で戦います)ばらばらに散兵になっていたほうが弾丸があたりにくいのに、どうしてなのだろうかと思ったものです。イギリスでは身分制度がはげしく、将校になるものは上流階級で、一般の兵士は下層階級です。昔の軍隊は将校は比較的優秀でも、一般兵士はそういう形で統制を取らないとばらばらになってしまうのです。昔の戦争では洋の東西を問わず、総大将が死んでしまうと大軍が一気に崩壊してしまう例はたくさんあります。独立戦争でのイギリス軍もそうでした。優れた指導者がいてその下でありのようにいいなりになってうごく形は、指導者が健全で物事がうまくいっているときにのみ力を発揮します。

 しかし、兵士一人ひとりが戦う目的の意識と、自分の役割をつかんで戦っている軍隊は強いのです。ゲリラ戦はそういう兵士でないとできません。それぞれが、それぞれの自律的な意思で状況判断を正しく行い対処できるときは、状況(戦況)の激しい変化があろうとも大きな過ちは起きません。ベトナム兵はゲリラ兵となって圧倒的な兵器の量に勝るアメリカ軍を打ち負かしてしまいました。

 アメリカ独立軍は職業軍人だけでなくいろいろな一般人が参加しました。イギリス軍の鉄砲より優れた、アメリカ軍の猟師や一般人の持つライフル銃を持っていました。散兵として、自由に戦えるアメリカ軍は森に誘い込みイギリス兵をうち取りました。このことはエンゲルスが書いた百科事典(ニュー・アメリカン・サイクロペディア ーマル・エン全集14)での軍隊における項目で、大きな戦法のへんかとして述べられています。逆にナポレオンは、自律的に判断できぬ将軍のためにワーテルローで負けてしまいました。

 企業においても、優れた社長なり、経営陣がいても何事もその指示まちで、いいなりとなって、将棋の駒のようにはたらいている社員がほとんどという会社は状況の変化がなく指導部が健在の間はうまく機能します。しかし現代のように予想できぬ事態が次々に起きてくるような激変の時代にはうまく対応できなくなります。

 一時”人間のための企業”ということが言われた時代があります。世界中が好景気に沸き、人手不足の時代には、社員が大切、人間が大切といわれました。しかし世界中で不景気が続くようになると、社員が大切などといわなくなります。昔コンサルタントの船井幸雄が盛んに、「人間学」の本を書き、経営者の個人的な指導力と社員の重要性を説いていました。ところが不景気の中で途中から経営はアメリカ型のコンピューターを駆使したドライな経営が中心となってきました。船井総研でもそういう本が中心となってきました。人情的経営を廃したアメリカ流新自由主義にもとずいた経営学が席巻しました。東京ガスでも、下請けの店と、車の両輪といっていた温情主義的な経営は消え、アメリカ帰りのエリート層などが経営の中心を占め、ドライに下請けの店の手数料をどんどん減らし、店の数を減らしていきました。

 マズローが『人間性の心理学』を書き、人間の欲求の中で”自己実現の欲求”が最も高度な欲求であることを示し、それをドラッカーが『企業の人間的側面』を書いて、それを経営学に応用しました。また『マネジメント』(ダイヤモンド社、上田淳生訳)では「人こそ最大の資産といっています。これらは経営学では必ず学ばなければならないもので、最近経営だけでなくいろいろな所にその考え方が活用されてきています。しかしとかく計画を達成すること、目標に到達することが自己実現の欲求を満たすことであるなどと矮小化される傾向があります。

 わざわざ、”人間のための企業”などといわれるのは従来の企業がそうでなかったからです。人間は“人手”であり、使い捨てても構わないもの、会社の利益のためには、社会的に問題を起こしても構わないなどという考え方が主流になっています。新自由主義似もとづく小泉行革で、派遣業務などの幅を広げ、多くの社員が正社員から、パート、派遣社員に変わり、所得格差が広がり、貧困層が増大しさまざまな問題が生じています。所得300万以下の人が増えそのような人は中々結婚できず、結果として少子化が進んでいます。

 今そういう中で、社員の待遇を良くし、個人の提案を積極的に取り入れ、生き生きした会社が見直されています。私が社長としていた会社も、同業他社よりも給与や待遇が良く、各人の創意工夫も取り入れ、自主的な取り組みを重視してきました。給与水準も高かったため、会社としてはあまりもうかりませんでしたが、いろいろなインセンティブをつけたりして社員の積極性が売り上げなどを押し上げ、下請け百数十社の中で常に1,2を争う上位の成績を収めていました。社員はそれを誇りにも思っていました。社員の売る気は、本当に気持ち一つなのです。

しかし2009年9月の合併により、うちの高めの給与は抑えられ、お役所的な労務管理、融通の利かない営業方法などで、営業成績は極端に落ち込み、創意工夫を発揮できないために、結局合併以後利益がなく、持ち株会社になった当社にも何も配当がない状態が続いています。

追記:2012年1月配当なしは続いています。今年度はどうなのでしょうか。

 社員を大切にし、社員の創意工夫がいかされ、命令でなくて自主的にはたらく社員の会社が結局、いかなる状況の中でも生き抜きます。自分が会社の中で満足している社員は何よりも人に言われなくてもお客様を大切にします。

 私たちは小さい頃、いろいろな夢を持っていました。人間としての本当の喜びは、それぞれの個人の持っている可能性が全面的に発揮されることです。また全面的に発達した個人こそが、優れた社会職場を実現することができると思います。中なか現実には難しいのですが、企業は個人の能力を高め、人間的に成長させる社会的責任があるのではないでしょうか。そしてそういう自覚し成長した社員、一人一人の創造力によって厳しい状況を乗り越えることができるのではないでしょうか。

2011年5月21日 (土)

実用的人間学と統計学 血液型人間学のうそも

血液型人間学

 血液型人間学は相変わらず、人々の間に浸透しているようです。いろいろな話題で、あの人は何何型だからねと、笑いの種にすることに使われます。そうしたときに少数派のB型やAB型が笑われそんをすることになっています。まあ大部分はそうたいした被害をもたらさないのですが、ときに会社経営者や上司、学校教師などが、誤った血液型人間判断により、部下や生徒に対した時に、大きな被害が出ることがあります。これをブラハラ(ブラッド・ハラスメント)という社会差別になります。このことはすでに私のブログにも書きました。

 さて、能見親子血液型人間学では、いろいろな見解のもとになる資料をこれこれ集めたといい、すべて統計学に基づいていると、言っています。血液型性格診断の好きな人は、「血液型は統計学だからね」と縮めていいます」。私自身も何回も聞いています。ようは血液型は統計学に基づいているから科学的で信頼が置けるといいたいのです。ではその統計学とはどのようなものなのでしょうか。私の主張する実用的人間学も参考にしながら書いてみたいと思います。

統計学

 統計学は英語でstatistics といいます。統計に関する研究を行う学問です。これは、いろいろな学問の基本となるもので、アンケートなどによる社会調査や実験データの要約や解釈をおこなううえでの根拠を示します。

 この学問は西洋列強が戦争に明け暮れていたときに、国情の比較研究を行うことから始まりました。また国内の状態がどのようなものであるかを調べるために国政調査なども行うようになりました。アドルフ・ケトラーは1835年に「人間について」という本を出版し、統計学の基本的方法とそれに基づいた研究成果を示して、「近代統計学の父」と呼ばれています。その後応用数学の方法を用いていろいろな統計学の手法が開発されました。平均人を中心にいろいろな人の分布を示す正規分布や学校で偏差値を見るなどいろいろな方法です。

 ただ統計学にはいろいろな難しさがあります。質問紙法では、質問の仕方で、出てくる答えがまるで違ってきてしまいます。また答える人が、正直にそのまま答えるかどうかということもあります。選挙のときなど今の政府を支持しますか、しませんかというアンケートについても、今の支持する政党に近い新聞と、反対している新聞では聴き方が違い、結果に大きな差が出るということがあります。また男性に一週間に何回ぐらい性交をしますかなどという問いに、イタリア人は実際より多めに、日本人は実際よりも少なめに答える傾向があるそうで、出てきたデータでは、実際以上の大きな差が出る傾向があるといわれています。

 また出てきた結果についてその発表の仕方で、まったく正反対の結果を示すことがあります。それは全体の傾向の中から、自分に都合がいい部分だけを取り出すという方法です。いい例が、地球温暖化をしめす、気温変化についてのグラフですが、気温が一直線になっているグラフの先が産業革命の以後急激に上がっているグラフが示されます。人間活動によりに化石燃料が燃やされ、二酸化炭素が多く発生するというグラフと、気温の上昇がぴったり一致しているというのが大きな根拠なのです。ちょうどホッケースティックのような形を示します。ところがその前に二酸化炭素に関係なく、地球の気温が大きく変動しています。中世には世界的に気温はかなり高く、逆にたびたび急な寒冷化があり、小氷期と呼ばれています。これらの変化は人間による活動で二酸化炭素が増減することなどないのです。そういうところはグラフに表さず、都合の良いところだけ抜き出して自分たちの理論の正しさを主張するのです。

 血液型人間学も、一つは統計的に有意であるといわれるだけの資料がないのに、一定の結論を出す方法です。日本の首相にはO型の血液型が多いとか、ホームラン王にはO型が多いなどです。それらを基にしてO型の人は指導力があるとかの結論を出します。ところが最近では血液型O型の首相は少なくなりました。でもこういう結論を出すはずです。O型の首相人をいくらたくさん調査数に加えても意味がありません。(最近の首相ではO 型が特に多いわけではありません)

 このように統計学を悪用して、事実と異なる結果を示して世論を誘導する方法が広く為政者の手によって行われてきました。それも科学的な統計学の方法を使ったのだと称してです。

実用的人間学とカントの「人間学」

 さて「実用的人間学」ですが、WEBやブログで検索すると、一つはカントの『人間学ー実用的見地における』というものと私が書いていることとがほとんどです。今のところ実用的人間学を提唱する人は私以外にあまりいないようです。私が書いているブログにたいしていろいろな批判があるのですが、実用的=プラグマティズムなものなど学問ではないとか、人間学だとか偉そうなことを言っているが、ろくに英語の雑誌や論文などを読んでいないだろうとか言われます。

 私の人間学はカントの 『人間学』の現代版を作ろうと思っています。大哲学者カントに比較して私など取るに足らないものですが、カントの最晩年に書かれた 『人間学』はカントがなくなる直前の大学での講義をまとめたものです。カントの研究者の中では『人間学』は俗っぽく、重要な著作ではないといわれています。しかしながらカントのいろいろな著作や研究は結局、「人間とは何であるか、人間とはいかにあるべきか」という人間学に帰着するとカント自身が言っています。そして、「人間学は世の中で人間がよりよく生きるための知恵のためのものであり、それはまた、単に個人のためだけではなく世界が一つになり戦争がなくなる社会を目指す、世界市民のためのものでなければならないといっています

 戦争のない社会を目指し世界連邦を提唱したカントに、私は大きな尊敬の念を抱いているのです。それに反して後年ドイツなどで提唱されたプレスナーなどの哲学的人間学は当時広がりつつある、マルクス主義に対抗するものとしてもてはやされました。日本でも戦前の一時期、西田哲学などで今流行のといわれるほどはやりました。マルクス主義に対抗し現在の支配者を擁護する考え方です。その系譜は現在も続いています。

 私の実用的人間学はカントの考え方を受け継ぎ、いろいろな思想や学問の成果を自分なりにまとめあげ、提唱しているものです。その中には哲学的人間学の成果もマルクス、エンゲルスの考え方の良いところも受け継ぎます。ともかくいろいろな人間に関しての膨大な知識の中から、わかりやすく全体の世界観、人間観、人生観を作り上げるために役立つものを選び出します。そして各人がよりよい社会の中で生きていく方法についてささやかながらお手伝いできないかということです。

 カントの「人間学」は大変広い分野を扱っていますが私はさらに広い範囲です。私は人間に関してのゼネラリストとして、バランス良く役立つ知識を選び出そうとしています。そしてカントの言うように、戦争と人間性を落としめ、収奪をする社会に反対します。いろいろな為政者側にたって、人々をだます考え方を批判します。このところ盛んに書いている二酸化炭素地球温暖化説や原発問題に関しての批判などもそうです。支配者はよってたかって人々をだまそうとします。統計学はそういうところに悪用されます。みんなが、そのようなうそを見破る科学的にたった考え方になって、そういう科学的批判的見地に立つ人々により作られた政府を作らない限り、本当の人間のそして一人ひとりの幸せは来ないのです。そしてまた一方、後漢初期に、すべての誤った考え方を批判し膨大な書物『論衡』を書いた唯物論哲学者、王充にいくらかでも近づきたいと思っています。

 多くの人生論や人間学は個人のものの考え方のみに限定します。「個人の心持で変わると」、でもそのような考え方は、社会の悪に目をふさぎ、支配者に都合の良い人間を作り出します。しかし現実を直視し、批判的になることはだいたい、実際に生きているときには不利になります。東大の安斎氏(現在立命館大学名誉教授)や京大の小出氏などは原発に反対して何十年も助教(助手)のままでした。学問の世界に限らずすべての分野でそうです。

 それにくらべ、多大なお金を電力会社に出してもらい、さまざまな分野と結び付きお金も名誉も、権力をもち、原発を推進してきた連中(原子力村と呼ばれる)は全く反省していないものが多いのです。世論調査によれば原発が必要かどうかについてもまだ半数は必要だと言っています。さまざまなうそで固めたさまざまなマスコミの影響が大きいのです。日本はドイツなどに比べ本当に悲しくなるくらい、民衆の間に科学的、批判的精神が希薄です。また残念なことに原発反対などを受け止める政党のまとまりがないのです。それは日本人の認識の程度の反映です。

 私は本当にささやかながら、このブログを読んでそうなんだーと思ってくれる人が増えることを期待し、また人間学研究所、実用的人間学研究会などで私の考え方を理解してくれる人がふえることを期待して、実用的人間学を主張していきたいと思います。

2011年5月18日 (水)

田中 優氏の原発対策 ピーク時業務用電気料金上げればいい

5月17日(火)に衆議院第二議員会館においてエネルギーシフト勉強会(エネシフジャパン)の関連勉強会であるフクシマジャパンに行ってきました。エネシフジャパンは原発にも化石燃料にも頼らない自然エネルギーを伸ばしていこうという、超党派の勉強会ですでに二回行われていました。今回は特にフクシマの問題を中心に取り上げようというわけです。私は以前河野太郎氏のテレビでの話からこの研究会を知り、事務局の一つ、社民党の阿部知子事務所に問い合わせて、参加を申し込みました。エネシフジャパンの3回目の勉強会は5月26日です。議員の呼びかけ人で見ますと、民主党10人、自民党8人、公明党2人、共産党1人、社民党1人、みんなの党3人、国民新党2人、その他3人といった具合です。その他孫正義とか坂本龍一、保坂展人など各氏のほか大学関係者、さまざまなNPOの代表などが呼びかけ人となっています。

 さて、フクシマジャパンでのゲストは、いしだともこ氏(三春町の福聚寺の住職 玄侑宗久氏の夫人)小池武志氏(東北大学理学研究科)石田仁氏(大熊町農業委員会事務局長)田中優(未来バンク理事)太田俊昭(九州大学名誉教授)などでした。

 いしだともこ氏は原発から避難してきた人々を三春市でどう受け止めたか。三春市での放射線量の調査結果とそれに基づき「三春町民が安定ヨウ素剤を飲んだワケ」という玄侑宗久氏の資料を説明しました。

 石田仁氏は原発事故後の町民避難の有様をリアルに話されました。情報が入らず、どうしていいかわかない混乱状態にあったこと。人口11500人の村民のうち22か所の避難所に7000人が分散し、その他の人たちもいろいろな所に分散してしまったが、必ず帰るということで頑張っていると話していました。

 小池武志氏はまだ若い助教さんです。東北大学で放射線の測定を主に研究しています。最初に、いろいろなデマがとびかっているが、科学的用語の使い方が真実ではないかどうか、専門家の言うことを鵜呑みにしないこと、自分をだまさない(希望的解釈を真実と混同)コモンセンスを研ぎ澄ますことが重要だと基本的な心構えについて話されました。東北大にある、精密なゲルマニウム測定器で、土壌の放射能を測定していると話しました。最後にクリーンエネルギーが騒がれているが日本が原発止めても、新興国のニーズを満たす方法が原子力以外にあるのかと話していました。

 質問はないのかということで誰も質問しないので、私が、日本で、原発をやめられないということか、クリーン(自然)エネルギーだけでなく高性能の天然ガス発電などを活用すれば、原発はなくても大丈夫ではないのかと質問しました。その答えはわからないということだけでした。

 田中優氏は原発不要論をいろいろな講演や著作で説いている人です。クリーンエネルギーでどう発電するかということを言う前に、電気料金の体系を変えさえすればいいといいます。電気はためることができないので、これだけ必要だろうとめどをつけて発電します。電気の使用量がピークを迎えるのは、夏場の昼のわずか10時間ほどであり、わずか0,1%しか占めないのです。そのピークの0,1%の時間のために、設備を増やすのではなくその0.1%分の使用量を下げたほうがよいといいます。電気の使用量は4分の3が事業系で、夏場の昼間の2時から3時気温31度を超えてときにピークをむかえます。家庭用は3分の1で夕方がピークです。現在は家庭用は使えば使うほど高くなるが事業用は使えば使うほど電気料金が下がる仕組みになっている。だから夏場でも電気をうんと使って物を作る。そして省エネ機械も導入しようとしない。

 だから、そのピーク時の電気料金をうんと上げてしまえば、企業はその時間に節電するようになるというのです。わたしも業務用の料金を調べたら夜間料金、昼間料金、夏場のピーク時料金と一応ありました。その夏場のピーク料金をもっと上げればいいというのです。ドイツでは発電所を有効に動かし72%の稼働率なのに、日本は58%しか稼働していない。フランスでは夏場のピークが普段の11倍になるので企業は使わないといいますが、そうでしょうね。そのピーク時を下げることができれば原発が一基もなくても電気は止まらないと田中氏は言います。

 確かに、今の日本では原発優先で、多くの火力発電所、水力発電所を休ませています。おまけに原発用の揚水発電所もたくさんあります。今まででも従来の発電所の発電量で充分足りていたということが分かっています。原発がないと電気が足りないというのは全くのウソなのです。今でも節電をさせていますが、まったくその必要はありません。照明が暗いのは構いませんが膝の痛い私にとっては地下鉄のエスカレーターが止まっているのは迷惑せんばんです。

 さて田中氏は言います。アメリカでは、エアコン用の配線を別に作り自動的に30分に5分感覚で自動的に消すシステムに五百万世帯が入っているそうです。誰も5分間消えていても気がつかないそうです。そういう工夫が大事でしょう。自然エネルギーをというと、それは無理だと攻撃される。まず省エネの方法を考えることが大切であると。

 また田中氏は今の電気料金の決め方もおかしいといいます。諸費用に3%プラスして電気料金を決める。その費用には東京電力はトヨタの1,5倍もの宣伝費をかけ、金利も経費に含めるのでわざわざ高い金利をはらっているそうです。いろいろな膨大な経費や利益で、ゼネコンや財界や、政治家、学者などを抑えてきたといいます。それで日本の電気料金は高くなっています。その仕組みを変えさせなければいけないといいます。

 九州大学の太田名誉教授はヨーロッパは海が浅く、洋上にたくさん風力発電を作っているが日本では海が深く作りにくい。そこで、洋上風力発電を作る構想がある。博多湾に作ることで研究予算がついた。洋上に六角形の浮く仕組みの設備をいくつも作る。炭素繊維でつくれば軽量化とさびを防げる。風力発電と、床面に太陽光発電、下で波力発電も可能。上に工場を作ったりすると送電の効率が良い。また上にホテルを作ったり、中側に魚のいけすを作ることができるなどの夢のような施設です。5~6年で実現したいと話していました。

追記:2012年1月 まだ小さいものですが洋上の発電施設が完成しました。

 以上なかなか有益な話を聞くことができました。5月26日午後5時からのエネシフジャパンの勉強会もすでに申し込みをしております。

2011年5月14日 (土)

原発に対して河野太郎氏の見解 東電は破たんさすべし エネルギーシフト勉強会に期待

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プルトニウムは飲んでも大丈夫と飲んでいる動画

ですが、とんでもないことですよね。

5月11日にBS11で放送された「INsideOUT]で、「原発事故と日本のエネルギー政策」と題した座談会があった。評論家、学者などもいましたが、自民党の衆議院議員である河野太郎氏の話がとても明快で、素晴らしいと思ったので紹介します。

 河野太郎氏は有力な議員であった河野一郎氏の子供ですが、普段からほかの二世三世議員と異なる、本質を突く発言が多く、目立つ存在でした。今回の福島原発事故にあたって、昔から自民党のなかで、全党挙げて推進してきた原発推進の動きにたいしてただ一人原発の危険性を主張し続けるということは素晴らしいことでした。国会の委員会などで、原発について批判的な発言をすると、自民党議員からおまえは共産党かと野次を飛ばされたそうです。ところが、今回の原発事故以来、特に自民党の若手の代議士から、共感する人が増えてきたそうです。

 河野太郎氏は一つのパネルを見せました。原発の廃棄物をどうするかということです。核燃料を発電に使えば当然多量の放射能を含んだ廃棄物が出ます。日本はその廃棄物を処理して、プルトニウムを取り出し、そのプルトニウムを原発でさらに燃やしてさらにプルトニウムができてくるという、夢のような、高速増殖炉を作ろうとしました。(プルサーマル計画)それは各国で取り組まれましたが、ナトリウムを使うなどという点で、管理が難しく相次いで、事故が起きて、各国で断念しています。日本ではその実験炉は「もんじゅ」といい、二兆1000億円もかけたのに、ナトリウム漏れが起きて、中止しています。今までかけたお金はどぶに捨てたようなものです。放射性廃棄物からプルトニウムを取り出す作業は青森県の六か所村で行われています。日本は大量の核兵器を作れるのです。今まで処理してきた結果プルトニウムは50トンにも達しています。北朝鮮が1トンにも満たないプルトニウムしかないのに比べいかに多くのプルトニウムがあるかおわかりでしょう。ところがプルサーマル計画が挫折してどうするかということで、ウラン2、プルトニウム1の割合で混合して、いわゆるMOX燃料として原発で使い始めました。福島第一原発でも3号機はMOX燃料を使っていて、プルトニウムが漏れたと大騒ぎになりました。プルトニウムを混ぜると、炉が高温になりやすく、危険であり、何よりもプルトニウムの危険性が恐ろしいのです。河野氏は結局廃棄物から燃料に変えるシステムが破たんし、どんどん廃棄物がたまっていく状態で、「それはトイレの無いマンション」と同じだといっていましたと。うまいことを言うものです。

 プルトニウムに関しては以前、「動燃事業団」がプルトニウムは安全だと、「頼れる仲間プルト君」という11分の動画を作り、子供たちに見せていました。今は非難が多く見せていませんがYouTubeでみれば誰でも見られます。プルト君で検索してぜひご覧になってください。「プルトニウムは飲み込んでもすぐに死ぬことはありません、胃に入ってもほとんど排出されます」と子供がプルトニウムを飲んでいるマンガが出てきます。こんなビデオを作った人にプルトニウム飲ませるべきだと思いませんか。

 河野太郎氏は4月26日に、「エネルギーシフト勉強会」を急きょ立ち上げたといいました。原発をやめ、自然エネルギーに転換を進めることを求めるもので、代表が6人でおもなメンバーは10党15人です。新党まで幅広く参加しているのが特徴です。もちろん思惑はいろいろでしょうが、民主党も含め原発推進で一体となっている議会に風穴をあけることを期待します。民主党村越佑民、自民党河野太郎、加藤紘一、公明党加藤修一、共産党吉井秀勝、社民党安部知子国民新党、亀井静香、新党日本田中康夫などですいろいろと立場も主張も異なるでしょうが、このような幅広い連合でできれば、国民第一の政党もしくはグループを作り、大企業本位の政治に対抗してほしいものです。

 5月14日の朝刊各紙に、東電の補償をどうするかについて国としてどのように援助するかとを決めたといいます。国で支援のための「機構」を作り機構に国はお金を出して東電に融資や資本注入を行うというのです。東電が賠償負担で債務超過にならないようにするというのです。そして、銀行には債権放棄を求めるなどいって銀行株が下がり、問題が生じていると報じています。

 河野太郎氏は言います。きちんと東電がすべての補償をすべきである。そこでお金が足りなくなったら、日航のように破たん処理させなければならないと。当然株券は紙くずになり銀行は債務をとれなくなります。そうした上で、たくさん持っている東電の資産をしっかり確保し、補償に充てるべきだと。倒産させるのですから、現役員は総退陣となります。今の状況は、東電に甘すぎるのではないでしょうか。国策として原発を押しつけた償いからでしょうか。東電が補償の上限を設けてくれとか電気料金を上げさせてくれ、などということを安易に認めさせてはいけないのではないでしょうか。河野太郎氏の言うようにすべきではないでしょうか。

追記 :WEBで」「週刊ダイヤモンド特別レポート」を見ると4月23日付で、星 岳雄氏ほかで、「東電処理は、日航と同じように、会社更生法で処理すべきだ」と書いています。日航は会社更生法で処理したのに、東電だけ特別扱いするのはおかしいと思います。そしてそのために国の税金を上げ、電気代も上げるとしたら、本当におかしなことだと思います。

2011年5月 7日 (土)

菅首相 浜岡原発の停止を要請 正しい判断を支持します

今朝の朝刊各紙は浜岡原発全面停止を、菅直人首相が5月6日夜、首相官邸で緊急記者会見をし、中部電力浜岡原発について、現在定期検査中の3号機に加え、稼働中の4,5号機を含むすべての原子炉の運転中止を中部電力に要請したことを明らかにした、と報じました。朝日、読売、毎日、産経、東京新聞が一面トップでした。そのほか日経はトップではなく、赤旗はトップでした。

 政府内の意見を求めてからというのではなく、菅首相のトップ判断で急に決まったことだといいます。それに対して各党の態度は、与党の民主党もさらには、社民党と、共産党は賛成でした。自民党は経済に打撃を与えると反対でした。

 各紙の社説では、朝日新聞が、「危ないなら止める」として、中部電力に速やかに要請を受け入れるべきだといっています。そして浜岡以外の活断層の上にあるもの、何度も地震に襲われた多重ストレス原発なども見直さなければならないといいます。

読売新聞は、正常に運転している原発を止めるのは異例だが、浜岡原発は首都圏に近く日本の大動脈にも近い、ここで放射性物質が放出されれば日本全体がマヒする。要請を受けいれるべきだ、としている。

 毎日新聞は「首相の決断を評価する」として、他の原発も油断するべきではないとしている。

 日経新聞は「浜岡原発停止は丁寧な説明が要る」として、突然の発表は、国民の不安を募らせたのではないか、夏場の電力は大丈夫かもっと丁寧に説明してもらいたい。電力不足は産業界に厳しい制約を課す、とだいたい自民党の言っていることと同じような主張です。

 菅首相も原発をすべて止めるというのではなく、浜岡原発も津波除けの堤防を完成するなど万全の態勢を整えるまでといっています。WEBで、「浜岡原発停止、決定には従う、苦渋の御前崎市長」というコメントがあり、「国策であればもう少し地元の意見を聞いてもらい、反映してほしかった」といっています。原発は今まで国策として、多大な交付金が市にあたえられ、(なんと市の収入の42%が原発の交付金だそうです)雇用関係で住民が従属し、等々で、敦賀原発の例でも原発賛成派の人物が主張となる傾向があります。安全、安全といい続け、お金をばらまく、まるで麻薬のように体をむしばみ、もう原発なしではたちいかなくさせるのです。

 皆さんご存知の通り、浜岡原発は100から150年に一度起きる東海大地震のマグニチュード8クラスの地震がいつ起きてもおかしく無い状態だといわれています。まして浜岡原発はその震源域のほぼ中央に位置しています。だいたいこんなところに原発を作るのが問題でした。今、東日本大震災で余震が相次ぎ、こちらのプレートも大きな影響を受けていると思われます。本当に今日明日起きてもおかしく無いのです。

 それなのに、自民党は、あれこれ難癖をつけ、国民の生命よりも産業の利益を代弁する発言しています。日経新聞もそうです。テレビを見ると評論家は相変わらず原発は必要などと騒いでいます。今度の原発事故で、反省した学者もいますが、多くが平然と自分の誤りを認めようとしません。想定外だからと。これで原発を止めておいて、東海大地震が来たら、よかったねと胸をなでおろします。ところがぐずぐずとしてが対策が不十分で大震災が起きて多数の犠牲者が出たら、どう責任を取るのでしょか。また想定外を繰り返すのでしょうか。責任など取らずに平然とするはずです。

 自民党や一部マスコミなどは、低調になった内閣支持率を上げるためのポーズとか言っています。しかし菅氏や枝野内閣官房長官や海江田大臣などの言動を見ても、東京電力べったり、財界べったりで無いところが見られます。もし自民党政権なら、東京電力に無限責任とせず政府が多額の援助を与え、電気料金を上げ、消費税を上げ、原発を止めるなどということはあり得ません。国民への人気取り結構です。あまりに、一時期まるで自民党と同じような民主党政権でしたが、ここで少しは違いを見せました。引き続き、国民の立場を擁護する政策を続けてほしいと思います。

 それにしても、テレビや大新聞を見ていても、相変わらず原発擁護の人物の意見を多く出しています。学校では、新聞でも立場により、いろいろ言っていることは違うのだとか、政府に批判的な態度などを教えません。

 多くの人は世の中の風潮なり大マスコミの言うことにそのままだまされます。自分の考え方に近いものを読んで自分の考え方をより固めたいと思います。原発が必要だと思っている人は、あえてそうでないものを読んでなるほどと変えたりしないのです。自分の考えと違うととんでも無いことを言ってやがると途中でやめるでしょう。

 地動説でも進化論でも、それらを読んで、自分を変えることによってそれが普及したのではなく、天動説やアンチ進化論などの考えの人が死んで、変わっていったといいますから。

5月9日 追記 せっかく 支持を増やせると思ったら、ほかの原発はすべて継続しますとのこと。せめて、よく安全性を調べて検討するぐらいのことを言えばいいのに。財界にも顔を立てなければいけない菅総理の限界が見えました。

御用学者、有馬朗人氏の考え方 「想定外」当然 原発擁護

 2011年5月6日の毎日新聞夕刊に特集ワイドとして、「巨大地震の衝撃 日本よ」として、有馬朗人氏のインタビューを載せられています。有馬氏は、現在81歳、原子核物理学者で、東大学長、自民党政府で、文部大臣、理化学研究所理事長などを歴任し、現在は日本科学技術振興財団会長、武蔵学園学園長などになっている、いわば政府寄りのたちばで、学問の世界に大きな影響力を与えた人物です。

 有馬氏は「スマトラ沖大地震や阪神大震災などがあっても、わたしが浜岡原発を視察したとき、10メートルの砂丘があるから、大丈夫と言われて、これなら大丈夫だろうと思った。一部の研究者が津波の心配をと言っていたが、それを虚心たんかいに聞いて国を動かすくらいにしなければならなかった」といいます。

 「国策に反対する少数意見を排除する動きは無かったのか」、という質問に対して、有馬氏は「それはなかったと思います」と答えています。それはうそで、国策の原発反対をする研究者はことごとく弾圧されたと聞きます。東大では東電の出す研究費で研究するまさに御用学者がたくさんいます。原発に反対し、その危険を言うような人は万年助手に甘んじなければならないということです。東大を離れた立命館大の安斎育郎氏(放射線防護学)もそうでした。ちなみに1964年から1986年まで22年間東大で助手で、1986年に立命館大学の教授になりました。

 有馬氏は言います。「大陸移動説や、DNAなど日常生活から考えられないようなことに取り組むのが科学で、あらゆることがわかる、想定できるなどということはありません。政府や東電がいいわけに、想定外と言ったから批判されたが、自然の外には想定外がたくさんあるんです」と。しかし、福島原発が大地震で電源を失い、大変な事故が起きる可能性があるということは、すでにいろいろな学者が言っていたし、昨年の国会でも追及されています。ですから、政府も東電が「『想定外』のことだから、政府でも大幅に損害賠償をしてくれ」と言ったのにたいして、「その危険性は国会でも追及されているのだから『想定外』では無い。だから全面的に東電に賠償責任がある」と話しています。東電も「想定外」ではなく、その危険性が言われても経済性第一に考えて無視しただけです。有馬氏の言説はそのあたりのことを言わずに、科学には「想定外」があるのが当然だというのは結局、東電や御用学者を擁護しているように聞こえますがいかがでしょうか。

 有馬氏は「私が心配しているのは『地球温暖化』です。日本中の家の屋根に太陽光発電をつけてもまかなえる電力は日本全体の消費量の7%である。二酸化炭素を出す火力発電所が60%、原発が30%、合わせて、90%でこれを風力や水力で代替できますか。~安全で安心な原発を作るしかない。また日本のエネルギー自給率はわずか4%なので、その面でも今ある原発は必要です」といいます。

  これには大きなまやかしがあります。私の「こういちの人間学ブログ」でもいろいろ書いてきましたが、原発が必要な理由として自然エネルギーではだめだという例として、有馬氏は太陽光発電を例にあげています。たしかに太陽光発電はコストもかかり、曇りの多い日本ではあまり効率の良い発電ではありません。一方石原都知事はかわる自然エネルギーがだめな例として、風力発電を上げました。こういうあまり重要でないものを例として対比するのは卑怯なやり方です。

 だいたい、「二酸化炭素地球温暖化説」自体が、気象データを捏造したことがわかった「クライメートゲート事件」(クライムと書いたのは誤りでした。申し訳ありません)いらい、学説としては、世界中の本当の気象学者の多くは支持していません。しかし、原発を推進したい国際勢力は依然としてその説をもとに政策を作っています。日本のマスコミも、「二酸化炭素地球温暖化説」の誤りを知らせていません。ところでこのことを有馬氏は知らないのでしょうか。知っていても言わないだけなのでしょうか。今は東電でも、今まで休んでいる水力、火力発電所を復活させれば、夏のピーク時も多少の節電でやっていけるといっています。以前、柏崎の原発事故のとき、全原発が休止しても大丈夫でした。今天然ガスによる、コンバインドサイクルやコージェネのような大変効率の良い発電が開発され、発電コストが下がり、いわゆる二酸化炭素の排出も少ないものが増えています。各事業所の自家発電の余った電力の供給も受けています。これらの発電能力については石原氏も有馬氏も知らないのでしょうか、知っていて言わないのでしょうか。

 有馬氏はエネルギー問題で、日本が石油が戦前ABCD包囲網により輸入できなくなり、それで日本は戦争を始めたといいます。これは、日本は戦略戦争をしたことが無いとか、戦争の責任はABCD諸国にあるのだとかいう話で、右翼などがよく口にすることです。5月3日付の毎日新聞のコラムでも、養老孟司氏がそのようなことをいい、私が批判のブログをかいたばかりです。何も無いのに意地悪でABCD諸国が石油を禁輸したのではなく、日本が中国への侵略をやめなかったので、それを止めるための処置でした。

 石油は埋蔵量が限られ、二酸化炭素を多く出し、中東に産出が限られるから、原子力をといいたいのでしょう。では日本に原発のウランは産出するのですか。とんでもない、原油と同じように産出国の第一位がカナダに代わるくらいです。有馬氏のいうようにウランを外国から輸入して発電するとエネルギー自給率が高まるのでしょうか。そんなことはないでしょう。いまむしろ天然ガスが今注目を集めています。世界中で広く生産され、とくに今後メタンハイグレードなどで、海底の資源開発すれば日本でも自給できるようになります。

 有馬氏の原発推進の意見は変わらないのか、という意見に対して「変わりません。天災は技術で防ぐしかありません。そして科学の世界の縦割りをなくし共同研究が必要であると」といい切ります。そして「日本人はもっと自信を持とうといいたい」といいます。

 これを読んだ毎日新聞の読者はどのように感じることでしょうか。偉い大先生の言うことだからやはり原発は必要だということになるのでしょうか。でも私が指摘したように、誤った考え方や、一部の側面しか言わないことによって、人に誤った考え方を押しつけることになるのではないでしょうか。

 毎日新聞は私が購読している新聞で4大紙の中でも比較的良心的な記事が多いと思います。昨日発表された、菅総理の東海浜岡原発の停止要請にたいして社説で、「首相の決断を評価する」といっています。しかしもう一つ私が読んでいる、日経新聞では社説では「浜岡原発停止は丁寧な説明が要る」と自民党の主張と同じようなことを書いています。中立的な立場の毎日新聞さんとしては、有馬氏と異なる主張の特集ワイドをぜひ載せてほしいと思います。

2011年5月 4日 (水)

養老孟司氏の「さかさま人間学」 社会的観点の不十分さ(280)

2011年5月3日づけの毎日新聞に養老先生の「さかさま人間学」のコラムがありました。毎日新聞に定期的に載せられているものです。養老氏はみなさんご存知のように、解剖学者からさまざまな分野についての評論や出版をし、その時々に人間学の名称を使っておられます。養老氏ははるかむかし、私の結婚の祝う会に私の家内の同級生の夫として、参加してもらったことがあります。養老氏の解剖学さらには医学、生物学から、社会的な物事を見ていく立場が新鮮で、また人間学という言葉をしばしば使ってきたということもあって、養老氏の本のほとんどは、買いそろえ人間学研究所においてあります。また『バカの壁』などがベストセラーになり、いろいろな『~の壁』という本が出されマスコミにもしばしば登場してきています。私も直接養老氏の講演を二回ほど聞いています。

ところが、医学者という面では科学的ではあっても、こと社会や歴史に関しては首をかしげる話が多いのです。その例として毎日新聞の「さかさま人間学」を見てみましょう。表題は「経済成長とエネルギー消費 本当に人間がすべきこと」というものです。最初にどのようなことが書いてあるか紹介します。

 石油が無いと車が動きません。それだけじゃありません。発電の半分以上は火力発電で石油などの化石燃料を燃やしています。昭和16年(1941年)アメリカ、イギリス中国、オランダ一致して日本への石油の輸出を禁止しました。これで軍部が最後の暴走をはじめたと私は思っています。当時一番石油が必要だったのは軍部だったからです。今では石油が切れると普通の人も困りますだから、ふつうの人もいわば当時の軍部になりました。                            そういういきさつがあって日本は原子力発電所を作ったのだと思います。化石燃料に頼ると、買えない事情が生じると困ってしまいます。それは戦争でこりたわけです。

 また経済成長はエネルギーの消費と平行します。エネルギーをできるだけ使わないと社会が今のままなら景気が悪くなります。そうなると多くの人が困ってしまいます。だから本当の意味の省エネ社会を作るのは簡単ではありません。                                                   

 じゃあどうすればいいのか。考え方を変え、エネルギーを使う仕事は人間がした仕事ではなくてエネルギーがした仕事だ。そう考えて本当に人間がしなければならないことが、なんとなく見えてこないでしょうか。大切なのは、立派な機械ではありません。立派な人なのです。

 そしてそのコラムについているマンガでは養老さんが「立派」というベルトをして、車に乗っている人に勝った、と「はい人の勝ち」と犬のレフェリーが、手を挙げさせています。

 以上、一部要約しましたがほぼ全文を載せました。

 さて皆さんはいかがお考えでしょうか。

1、アメリカなどが日本にたいして、石油を禁輸したのが軍部の暴走が始まったというのですが、これは右翼などがよく言っているセリフです。日本は悪く無い。石油を止めたものが悪いと。でも、日本はその前に、諸国の反対を押し切って、中国への侵略を続けていました。これも右翼は侵略ではないといいます。ですから戦争ではなくて、支那事変であるとその戦争を止めるために、アメリカなど四国が圧力をかけたのです。中国への侵略をやめていれば、石油が禁輸されることはありませんでした。

2、化石燃料を買えなくなると困るから、原子力発電所を作ったということですが。発電所に使う化石燃料は石油だけではありません。石油はかなり中近東に偏り問題があるかも知れませんが、現在の火力発電では石油はわずかで、多くが天然ガスと石炭によっています。原子力発電所は、アメリカの圧力により、中曽根や当時の政財官が一体となって、導入したものです。この原発推進は国策として多くの税金が投入されました。天然ガスは比較的多くの国で産出され、メタンハイグレードなどの開発で日本の周辺でも資源が確保できます。天然ガスによる発電(コンバインドサイクルやコージェネレーション)などにより大変効率の良い発電ができるのです。今止めている火力発電所や水力発電所を完全に復活させれば原発はいらないのです。原発は利権集団のおいしい飯の種だからやっているのです。

3、最後の養老さんの言っていることはよくわかりません。具体的にどうするということは言わないで、人間が本当にするべきことをすればいいという大変抽象的なことばで終わっています。原発はやめるのですかどうなのですか。具体的に省エネはするのですかしないのですか。人間がしなければいけないこととは具体的にどうすればいいのですか。養老氏が「立派」とされてチャンピオンみたいになっているのは大学の先生として本や新聞のコラムを書くことが人間が本当にすべきことなのでしょうか?

 どうなのかよくわかりませんが、これでは書いていても意味が無いのではありませんか。

 結局、原発推進という自民党政府や財界、御用学者、大マスコミなどがやってきたことを非難するわけではなく、何か抽象的なことばでお茶を濁すだけでほとんど意味が無いコラムに思えるのですが、いかがでしょうか。

  

2011年5月 1日 (日)

「こういちの人間学ブログ」累計5万件を超えました 人間学研究所の写真も

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人間学研究所の室内の写真です。ここで例会を行います。                  本は約1万冊あります。この前の地震で崩れ、まだ整理さ                    れて、おりません。人間学研究所には、コピー機と印刷機                      のある部屋、台所やトイレのある部屋、そして応接室が                        あります。

2011年5月1日(日)に、2009年の7月22日からはじめた「こういちの人間学ブログ」が、アクセス累計で、50056件になりました。初めは1日に10件のアクセスもあるか無いかだったのですが、現在は5月1日現在でいままで書いたブログ件数の累計が279件となり、平均して1日に150件から200件のアクセスがあるようになりました。それも最近では1件で多くのアクセスがあるものよりもずいぶん前に書いたものも含め、1件づつのアクセスが多いのが特徴です。

「こういちの人間学ブログ」の内容は、前に書いたブログに付け加えて、その詳しい内容はその時々に掲示してあります。

A基礎人間学部門

1、人間学とは何か         19件                                              2、人間とは何か           14件                                       3、自然と歴史            12件                                     4、人間と教育             4件                                          5、精神医学カウンセリングなど  11件                                      6、人間と社会について       11件                                    7、マルクス、エンゲルス人間論   4件                                      8、宗教と死について         12件                                         

B 応用人間学部門

                                                       1、生き方、人生論人間関係     15件                                                 2、経営人間学             13件                                     3、健康法、病気、性          14件                                    4、政治と社会の現状について    22件                                        5、中国古代社会について       9件                                         6、韓国の歴史と歴史ドラマ      8件                                 7、顔の人間学              17件                                        8、占いと神秘主義批判        13件                                 9、大久保の街紹介           13件

C その他連絡事項

1、人間学研究会の例会、連絡報告  22件                               2、 その他近況              27件

今までにアクセスの多かった項

 奇跡のダイエット 常盤えりかさん 関係のアクセスが一番多いです

 最近の3カ月では

韓国歴史ドラマと朝鮮王朝との関連                                        男性ホルモン不足で不元気に                                                              原発関係いくつか                                                    二酸化炭素地球温暖化説の誤り                                                中国の三大美女とは 美女とブスなど                                        人相術の科学的検証 口など                                                 糖質制限食について                                                 ホモサピエンス デニソワ人となどと共存                                   コロンビア モックス氏の改革                                           街中での中国人韓国人日本人の見分け方                                         大久保の街紹介

 などが比較的多くのアクセスがありました。                                        人間学とは何かとか、人間とは何かなどという内容のものは残念ながらアクセスは少なめです。

 今年の7月で書き始めてまる2年となります。少なくとも累計で300件にはしたいと思います。どうしてもいままで受け狙いでアクセスの多そうなものを書いてしまいますが。実用的人間学とは何か、人間とは何かなどということも書いていき、まとまれば、自費出版でもしようと思います。このブログでも出版できるようですし。 

追記: 2011年8月24日現在

 ブログ累計件数で350件、アクセス数で累計約8万件となりました。最近は1日平均300件以上のアクセスがあります。ずいぶん前のものも見ていただいています。

 2011年5月1日   累計5万件

 2011年10月4日では96000件のアクセスです。もうすぐ10万件になります。

 2012年2月2日 14万5000件アクセスです。

 2012年6月10日ころ  20万件をこしました。1年と1月ほどで5万件が20万件になりました。

                                   

鯱鉾 鴟尾(しび) 摩褐魚(マカラ) 螭首(ちしゅう) 金毘羅様 水に関する守り神 

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2010年北京で撮ったちしゅうです

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これは名古屋城の金の鯱鉾です。

顔は龍に近くなっています

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これは「ちしゅう」(みずち首)です。いろいろな形がありますが、

龍よりも、ゾウのような長い鼻があります。これはおおもと

の「マカラ」の鼻がゾウの鼻のようだからと思います

NHKの番組で、日本の名城を紹介する番組が昨日ありました。そこに鯱鉾の由来を説明していました。面白かったので紹介します。2010年7月17日の私のブログで 「北京旅行へ行ってきました ちしゅう、お金をため込んでださない」下記参照。というものをかきました。中国の唐代に、龍生九子というもので、伝説上の霊獣が整理されました。ち吻は鴟吻ともいい、遠くを見渡せる能力を持っていて、大きな建物の上に飾られます。またの名を鴟尾(しび)といい、唐招提寺の屋根の上にあるものが有名です。また龍生九子で、ち(みずち)しゅう(首)は龍のような顔で、水をため込む性質があり、さらにはお金をため込んで出さないといって中国で喜ばれるといいます。中国の宮殿やお寺で排水溝のところにつけられます。ちしゅうもちふんもよく似ています。水をつかさどるということから建物の上につけられ、防火の役割も担ってもらおうとしたと思われます。

「北京旅行へ行ってきました。「.ちしゅう」お金を、ためこんでださない」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2010/07/

 鴟尾から変形したものが、鯱鉾です。鯱鉾は名古屋城の金の鯱鉾が有名ですね。鯱鉾は雨乞いと火除けの意味合いを持っています。顔は虎に近くかわり、体は魚です。

 これらのもとになったのが、インドのヒンズー教の神話にでてくる「マカラ」(摩褐魚)です。マカラはおそらくワニがもとになっているとも思われますが、ゾウのような鼻、ワニの大きな口、イルカの体、とぐろを巻く魚の尾を持ったもので、魚類の王とされています。爬虫類の王が龍(ナーガ)、獣の王が獅子か虎、鳥の王が朱雀もしくはガルーダ(かるら)です。

マカラはインドではワニのことをマカラと呼びます。マカラはガンジス河の河の女神ガルガヤや水の神ヴァルナの乗り物になり、ヒンズー教の守護神にもなっています。空海が日本に持ってきた「胎蔵界曼荼羅」には上のほうに対のマカラが描かれています。神社や寺の守護神の獅子と同じ役割を持っています。マカラは中国では摩褐魚とかかれます。

 マカラはサンスクリット語では「クムビーラ」といいます。日本では金毘羅と書きます。四国の香川県の金刀比羅宮ではようはマカラを祭っているということになります。マカラ=金毘羅神は海の神、船の守り神だからです。このように、もとはインドの神々だったものが中国から日本へと伝わっていく過程でいろいろに変化しているということは大変面白いことだと思います。

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