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2011年7月24日 (日)

後漢 光武帝の善政 建武・永平の治 現在の日本と比較する(1)

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光武帝の肖像画です 眉目秀麗と言われた大変な美男子だったようです

ちょうど今から2年前に「後漢初期の政治と日本」というブログを書きました。このブログを書き始めて間もなくの頃です。その内容は極めて簡単なものだったので、改めてここで書いてみることにしました。この内容は2009年6月11日の第14回実用的人間学研究会で、私が講師として話した「後漢初期の建武・永平の治とはー現代の政治と比較して」という内容の要約です。

 もともと。この時代に興味を持ったのは、1999年の4月に第2サタケビルができ人間学研究会が再発足したときで、その頃はノストラダムスの予言やオカルトブームオウム真理教などで騒がれていたときでした。そこで私は、そのような神秘主義に徹底的に反対した後漢初期の哲学者「王充」についての小説を書こうと思いました。

 中国語を学び、後漢書の中国語版を買い、必要なところを訳してみました。その当時は後漢書の完全な訳本はなかったのです。2000年9月には王充の墓のある紹興市上虞県に一人で行ってきました。後漢時代の本を集め、研究し資料が7冊のノート二なりました。後漢時代に王充とともに活躍した、「第五倫」と、「謝夷吾」を主人公とした小説を書いて公募小説で応募しましたが落選しました。

2002年には小説の題名を幅広く『人相食む』というものに変えました。前漢末期(西暦1年ごろ)から王莽の新の時代に、そして後漢4代目の皇帝和帝までの膨大な量の小説になりました。小説の主人公は3代の皇帝に仕えた、第五倫という優れた名臣です。王充も光武帝も謝夷吾などもすべて入れました。その小説は西暦26年(建武2年)に、人が人を食べたという歴史の記録から西暦108年に再び「人相食む」という記述が出てくるまでの82年間、人が人を食べるという最悪な事態が起きなかった善政が行われたということを書きたかったのです。この小説を一時自費出版をしようかと思いましたが、リッチテキスト方式でも365ページという、量があまりに多く、膨大なお金がかかるので断念しました。今書くのも中断していますが、いずれ出版したいと思っています。

 さて、光武帝について書きます。光武帝は前漢の皇帝劉氏の一族です。早くから父親を亡くし、長安の都で学んでいたときお金がないので仲間とロバを買って人に貸して学費にしたといわれます。性格は極めて温和で人々の信頼があつかったといわれます。劉秀のいささか粗暴な兄が王莽に対して反乱を起こした時、劉秀が衣冠を着て、牛に乗って戦いに参加したとき、あの劉秀さんさえ参加するのだから大丈夫だろうといって、みんな反乱に参加したというほど人望がありました。光武帝は王莽との戦争において部下を信頼し、多くのすばらしい武将(建武28宿と呼ばれる)を育てました。前漢初代皇帝の劉邦が共に戦った武将を皇帝になったあとほとんどを殺しているのと違い一人も殺すようなことがありませんでした。またわずかな兵で多くの敵を倒すという武略にも優れていました。そして西暦25年に後漢王朝をうちたて、建武元年としました。

 三国志の時代については様々な小説がありますが、後漢初期の小説は極めて少ないのです。2003年の『光武帝』塚本青史と最近では宮城谷昌光の『草原の風(光武帝主人公)』が昨年から読売新聞に連載されはじめたのと「班彪」があるくらいです。

 さて建武・永平の治とは建武元年(西暦25年)に後漢を再興した、光武帝劉秀から、二代目の明帝(永平元年 西暦58年)までの50年間を言いますが、三代目の章帝も13年間極めて優れた政治を行いました。また4代皇帝和帝も幼少のころは政治が乱れましたが、親政をおこなうようになってからは善政をひきました。その間人が人を食べるということが80年間なかったのです。これは中国の歴史上(正史)もっとも長い記録です。ところが、和帝が死んでわずか生後100日の幼児を皇帝にするようなことにより政治が乱れ、和帝死後3年後には「人相食む」ということが起きてしまいました。

 日本では後醍醐天皇が、天皇親政を復活させるにあたって後漢を復活したということと、すばらしい善政がひかれた理想の時代にあやかって、「建武の中興」という名前を使いました。

 さて私の小説では、人口の変化を示しながら政治の状況を明らかにしました。中国においてはきちんと何人という数字まで戸籍が作られてきました。もちろん流民は数に入ってkません。

前漢末  平帝    西暦2年  人口 5959万人 前漢で最高                         後漢 光武帝即位  西暦25年     1400万人  4500万減!                    ・・・  明帝即位   西歴57年     2100万人  5割増し                                 ・・・  章帝即位   西暦75年     3412万人                                  ・・・  和帝即位   西暦88年     4336万人                           ・・・  和帝死去   西暦105年    5326万人 ほぼ後漢最高                      ・・・  安帝即位   西暦125年    4869万人                                

三国時代       西暦263年ころ 760万人(86%減)なんという減少!

    魏  433万人  呉280万人   蜀 94万人(この人口では諸葛孔明も大変でしょう)

 ★ 人口の増減は善政か悪政かのバロメーター。日本の人口減少は

   悪政によるもの、政策によりヨーロッパの一部は増加に転ずています

 ◎ 光武帝の政治は、(その2)に続きます

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