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2012年1月24日 (火)

経営人間学シリーズ(17)二宮尊徳(金次郎)の人間学 その1 

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この絵馬は2004年(平成16年)1月に、相模の国の報徳二宮神社に初もうでに行ってきたときのものです。二宮金次郎(尊徳)は私の尊敬する人物で、この絵馬はいつも私の机のそばに飾ってあります。

 経営に役立つための人間学としての経営人間学にとって、二宮金次郎は極めて重要な人物です。二宮金次郎についてよく知らない人は、「ああ、昔薪をしょって本を読む銅像が各学校にあったけれども、戦後になって、修身が否定されてから、消え去ってしまった人物だな」と思われるかもしれません。

 しかし、二宮金次郎が行ったこと、またその考え方には現在でも学ぶことが多いのです。私は二宮金次郎の本を集めました。その数12冊、マンガから江戸時代に書かれた『報徳記』の訳(一円融合社)、堂門冬二の『小説二宮金次郎』(学陽書房)と『評伝二宮金次郎』(致知出版社)、『二宮尊徳のすべて』長澤源夫編(新人物往来社)、『二宮金次郎の人間学的研究』(下程勇吉)など様々です。

 内村鑑三は『代表的日本人』という英文の本を書いていますが、上杉鷹山や西郷隆盛などと並んでしょうかいされ、一部の西欧人にもよく知られていました。二宮尊徳は江戸時代に活躍した人物の多くが武士階級の出身であったのに、根っからの農民でした。それでも、多くの人に感銘を与え、農民出身でありながら、小田原、今市、真岡と三つの神社に祭られているのです。また、彼は、農民でありながら、金次郎が住んでいた小田原藩の藩主でのちの江戸幕府の老中主座となる大久保忠真をして、「もし、かれがもし戦国の世であれば、金次郎の旗の下で戦うとまで、言わしめる偉大な人物だったのです」金次郎は身長6尺(180センチ)25貫(94キロ)という当時としては極めて大きな身体で、上司の武士まで威圧するような迫力も十分だったようです。

 金次郎は1787年に相模の国に農民として生まれましたが、酒匂川の氾濫で家と土地を失い、14歳で父を、16歳で母を失い、一家離散し、隣の伯父の家で面倒を見てもらいました。そういう境遇にもかかわらず、学問をしようとします。叔父は百姓に学問はいらないといって、夜の灯りの菜種油を使わせません。そこで金次郎は、菜種の種5勺を河の土手にまき7升の油がとれました。また、他人が捨て落ちていた稲もみをまいて1俵の米を得ることができました。これは「およそ小を積んで大をいたす」(積小為大)という金次郎の考えの元になりました。また薪を集め背負うあいだも書を読み、それが銅像の元になっています。

 その努力の甲斐あって20歳で生家を回復しました。大きな地主となって行きましたが一方で、大久保家の家老の服部家に奉公に行きます。服部家の息子の学問する場所に共に生き学びました。そして当時多額の借金で困っていた1200石の服部家の財政立て直しを頼まれます。そこで、収入と支出をはっきりさせ、借金の返済方法も明確にし、服部家にも質素な生活をしてもらいます。使用人にも鍋釜の煤を取らせるなどして、まきを節約させ、その浮いたお金の一部を褒美に使用人にあげたりします。その結果借金はなくなり、300両のお金が残るまでになります。金次郎は褒美としてもらった100両を使用人に皆分けてしまいました。

 金次郎のすばらしい能力を家老の服部十郎兵衛は、小田原藩主の大久保忠真公に話します。大久保公は、分家の桜町領4000石の旗本宇津家の立て直しを金次郎に頼みます。桜町では、4000石の旗本としての体面でいろいろお金を使いますが、実収は2000石以下で、借金もできないほどになり、年貢の取り立ても厳しいため、村は荒れ果て領民は四散し、どうにもならない状況でした。

 金次郎は小田原藩の役人として桜町(栃木県)に住み込んで仕事を始めます。村の状態は荒れ果てていてとても悲惨な状態でした。そこで早速10年の間の生産力と出費の平均を割り出し、そして今後10年間での生産計画を立てました。これを彼は「仕法」と呼びました。まず、桜町の殿さまにはその実収にあった生活にし支出を抑えます。そして一軒一軒の農家を訪ね人物を調べます。はたらきものは表彰し、農具を貸し、肥料を与え、家や小屋の修理の費用を与える。怠けものはよく諭す。また農業用水などを整備しました。このような費用を作り出すために小田原の家などの財産をすべて売り払って家族そろって桜町に移住しました。そして農民の信頼を得て、村は立ち直っていきます。しかし、小田原藩から派遣されてきた豊田正作という主席の侍の妨害を受けます。百姓の気持ちもばらばらになりました。そこで、金次郎は急に姿を消して成田山に断食でこもります。驚いた百姓は金次郎を迎えに行き、豊田正作は罷免されます。

 その結果10年後には2000俵から3000俵に実収が増えました。農家の戸数も145件から190件に増えました。この成功が評判になり、烏山、下館、真岡、日光などの極めてひどい状態であった村の立て直しを頼まれます。

 *(2)に続きます

 

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