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2012年7月21日 (土)

金容雲氏の[日本=百済説」について 追記「太祖王建」で後百済の王が日本は百済が作ったと。

初めに

2012年7月19日の第45回実用的人間学研究会例会で、私は「日本=百済説について」というお話しをしました。日本人のルーツは何だろう、邪馬台国はどこにあったのか、日本の天皇家はどのようにして生まれたのか。日本と韓国の関係、そして日本語と韓国語の関係とはなど、古代史のなぞは私たちの興味を引きます。

 私は、韓国歴史ドラマが好きで良く見ていますが、韓国と日本(倭)の関係していることが良く出てきて興味を持っていました。たまたま、金容雲氏の『「日本=百済」説』と、『日本語の正体』を読んで、なるほどそうだったのかと、よくわかった気がしました。そこで、二つの本の要旨と、以前からあった日本と韓国の古代史に関する22冊の本も参考にしながら資料をまとめてみました。何しろ石器時代から桓武天皇ごろまでの日本と韓国と中国との関係について、書くのですから大変な労力を要しました。でもともかくA4で21ページの資料にまとめました。そしてまた大変なのがその資料を1時間半で話さなければならないので大変でした。でも、当日は17名の方が参加され、懇親会にも12名の方が参加されたので、頑張ったかいがありました。またこのブログで、うまくまとめるのも大変ですがポイントをお話しいたします。

 まず、金容雲氏は1927年に東京に生まれ、終戦まで日本にいてそれから韓国にいった方で、日本語も、韓国語もよくわかる方です。そして著名な数学者であるとともに、文化比較論の大御所的存在で、6年間、韓日文化交流会の韓国側代表者になった方です。

1、日本人のルーツと邪馬台国について

1) 石器時代、氷河時代

  氷河時代に、大陸と日本は陸続きで、マンモスなどがはいってきて、それを追って石器時代人が日本に入ってきた。ルートは朝鮮半島から、日本へ入ってきたルートと、樺太から北海道を通ってきたルートがあります。

2) 縄文人

 1万年ほど前から氷河期が終わり、温暖化してきた。列島が分離し、海水面が上がり関東地方でも内陸まで海がはいってきた。日本には、1)海流に乗り南方から来た人、2)中国から戦乱を逃れてきた人、3)北方の樺太から来た人、4)そして朝鮮半島から来た人々など様々な人々が混在して、縄文式文化を作ってきました。なかでも多いのは南方系モンゴロイドで、雲南省あたりから揚子江河口周辺、朝鮮半島南部から日本にまで住んだ、稲作をし、高床式住居、文身(いれずみ)をした、当時の漢の人たちからとよばれた人たちでした。倭は日本だけの呼び方ではなかったのです。丸顔、体毛が濃く、目鼻立ちがはっきりしたいわゆる濃い顔の人たちでした。弥生時代に北方系の人達(弥生人)が来ると一部混血しましたが、多くが辺境に追いやられ、蝦夷とか、土蜘蛛とか国巣(くず)とか呼ばれました。

3) 弥生人と韓国の人たちの各地への移住と分国

 世界的に気温が下がり始め、大陸の北方系の人たち(シベリヤ、アルタイ系)が南下を始めました。彼らは寒さに適応した人たちで、身長が高く、色白、細面、体毛が薄く一重まぶたのいわゆる、のっぺりした顔をしていました。

 紀元50年ごろから北方扶余から南下して朝鮮半島に、高句麗、新羅、百済などの国々ができてきます。南方は倭の系統の人たち(韓・から族)が小さい国々を作り、南端では伽耶国ができました。北方系の人たちや、から族の人達が次々と日本に移住し農民として定着しました。日本は気候も温暖で異民族の侵入もなく住みやすいところだったのです。

 新羅系の人たちは出雲から北陸方面に定着しました。伽耶系(プサンあたり)の人達は対馬を通って北九州に入りました。そして小さな国(倭の奴国など)がたくさんできました。それがまとまり邪馬台国ができた。と、金容雲氏は言っています。百済の人たちは熊本周辺を拠点として、狗奴国(熊襲)を作りました。百済国は海運が盛んで、中国の遼西などいろいろなところに分国(タムロといいます)を作りました。

4)邪馬台国と狗奴国の対立時代

 邪馬台国は伽耶系の人たちが作った連合王国(分国)で、239年邪馬台国の卑弥呼は中国の魏に使いを送り、親魏倭王の位を授かる。邪馬台国は隣国の百済系の分国である狗奴と戦っていました。しばらくの間、ちょうどアメリカ大陸にヨーロッパの人たち(イギリス、フランス、スペインなど)が植民地をつくっていたのと同じことです。邪馬台国は一時滅びるが、伽耶系の人達は瀬戸内海を通り、奈良の大和の地に向かい征服していきました。

2、日本の天皇家の歴史

1)第一(崇神)王朝(伽耶系)

 300年ころに大和の三輪山の地で崇神天皇(神武天皇と同一人物とされる)による第一王朝が成立する。高天原神話は伽耶の金首露神話とほとんど同じである。大和盆地では葛城氏や大伴氏、蘇我氏などの豪族(それぞれ、韓国由来)の助けを借りて勢力圏を広げていく。このころの天皇はスメラミコトとかスメロギとよばれた。

 新羅系の出雲などの諸国は天皇家に征服されていく。大国主の国譲りなど。

2)第二(応神)王朝 391年ころ(百済系)

 高句麗の広開土王が百済を攻め、首都漢城は陥落した。百済一族の一部が伽耶の地に入り、新羅の国境地帯を占領しつつ、九州に渡った。九州には百済の分国である狗奴(那)がある。百済の一族と狗那の連合軍は応神天皇朝の最後の仲哀天皇を戦死させる。

 「日本書紀」では仲哀天皇の妃が神功皇后で、第二王朝の祖である応神天皇は神功皇后の子ということになっています。新羅征伐に行った、皇后が、子どもが生まれないように腹に石をまいて、九州に戻ってから子どもを産んだということになっています。

 応神=応津=熊津(久麻那利)すべてウンジン 百済の漢城陥落以後熊津に遷都しました。天皇は応神王朝では「おおきみ」(大君)とよぶ。応神政権ができると、弓月君が120県の、阿知使主が17県の百姓をひきいて列島に来たという。これを応神エクソダスと金氏はよんでいます。その後仁徳天皇陵など巨大な古墳がつくられました。この当時の天皇は中国の宋の皇帝に朝貢し、日本のみならず、百済をはじめとする韓国南部の王としても認定されています。

 第21代雄略天皇の時高句麗により漢城百済が陥落したとき、雄略天皇は熊津を百済の文周王に譲ってといわれます。金 容雲氏によれば、百済には漢城系の百済(弟の温祚系)と、熊津系(兄の沸流系)の百済があり、韓国内だけではなく、九州の狗那(奴ー今の熊本に)と過去には中国内の遼西にも分国がありました。それらの分国を含め、2つの百済があったと主張しています。

3)第三(継体)王朝 507年ころ(百済系)

 応神王朝最後の武列天皇のころ、日本は戦乱となりました。456年ころ百済の21代王である蓋鹵(ケロ)王の弟(金氏によれば文周王の弟)である昆支(クンチ)が日本に人質として来ていました。日本には(当時はまだ倭)代々百済の王子が日本に来ていました。この昆支については日本、韓国の資料により様々に異なって書かれています。

 金容雲氏によれば、継体天皇は昆支で、大伴金村などの豪族の支援で即位したというのです。しかし戦乱は続き、継体天皇は即位真、20年間も居住を変えたといわれます。継体天皇が死ぬ5年前にようやく河内に都を定めました。隅田八幡には韓国百済の武寧王がオオト王(弟)に送ったとされる銅鏡がたくさんあるそうです。継体天皇は男大迹(オホト)王とよばれていました。継体と昆支の倭名がともにオホト(大人)であるので、時代から見ても昆支は継体天皇であると主張しています。

 昆支(継体)の子どもは百済に戻り、百済の王(武寧王)になっています。当時は日本(倭)と百済は一体のものだったということです。

4)欽明天皇は第4王朝の伽耶系?

 継体天皇の死後とその子安閑、宣化天皇が相次いで死に、欽明天皇が即位します。欽明天皇は継体天皇の5人の子供の一人とされていますが、金 容雲氏は一時権力を失っていた蘇我氏とともに、クーデターを起こし天皇になった説もあるといっています。欽明天皇は伽耶復活に異常に力を注いでいるので伽耶系ではないかというのです。蘇我氏の台頭で大伴氏は没落しました。以後の天皇は、現在の天皇まで続いています。

5)飛鳥時代 603から

 592年、蘇我馬子が崇俊天皇を殺害します。そして蘇我馬子が推した推古天皇が即位し603年に飛鳥に遷都します。そして聖徳太子が摂政となったとされています。本によれば聖徳太子は存在せず、聖徳太子は蘇我馬子の孫の蘇我入鹿であると主張する人もいます。法隆寺はだまし討ちされた蘇我入鹿がたたらないようにと建てた寺であると。蘇我入鹿は日本書紀ではひどい悪人とされていますが、実はすぐれた人物であったともいわれます。

 このころ、まえとおなじように百済の王子が日本に来ることは続いています。舒明天皇は百済好きで、百済宮を作らせ、死んだ後も百済式の葬儀を行いました。

追記 2013年9月 『ビッグコミック』には『新説・日本書紀 天智と天武』という漫画が現在連載されています。その村昌弘原案、中村真理子作

 それによれば、蘇我入鹿は学堂1の秀才であり、皇極天皇(女帝)との間に月皇子(大海人皇子ーのちの天武天皇)をもうけるが、中大兄皇子により殺された。豊璋は百済の義慈王の王子で中大兄皇子を助け、中臣(藤原)鎌足となるとしている。

6)大化改新 645年と白村江の戦い 663年

 645年 大化改新 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我の入鹿を殺害 孝徳天皇(女帝)即位

 662年 天智天皇(中大兄皇子)即位

 663年 白村江の戦いで 倭、百済の連合軍が唐、新羅の連合軍に大敗した。

    以後倭(日本)は朝鮮半島と断絶の方向へ。

 672年 壬申の乱 大海人皇子 大友皇子を倒して、天武天皇として即位

 690年 持統天皇即位 694 藤原京に遷都

 697年 文武天皇15歳で即位 707崩御 兵乱あり

7) 701(大宝元年]から 平城京 794年平安京に遷都

 大宝律令完成 中央集権的世界に 文武天皇「日本天皇」を名乗る

 藤原不比等 実権を握る

 大宝元年 九州王朝(倭国)倭の五王 天武ー文武王朝消滅という説あり

 応神やまと皇統 オオキミ氏 天智 光仁ー桓武天皇に

  「欺かれた王朝交代 日本建国の謎」 斉藤忠 の説

 794 平安京に遷都 桓武天皇

  桓武天皇の父である光仁天皇は天智天皇の孫にあたる。桓武天皇の母親である、  高野新笠は、継体天皇の実子でもある武寧王の子孫である,和(ヤマト)氏乙継の娘。

 桓武天皇は父の光仁天皇がなくなったとき、哀号(あいごー)の声を発し、痛哭したと「続日本記」にかかれています。(実際に続日本記を見たら書いてありました)

参考

 2001年 今上天皇陛下のお言葉

 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、「続日本記」に記されて言うことに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は、日本との関係が深く、この時以来日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また武寧王の子聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております」

 桓武天皇は北畠親房の「神皇正統記」に、桓武天皇は百済が日本とが同じ種であるという文書をすべて燃やしたと書いています。以後日本と韓国は別々の道を歩みます。言葉もしだいに分離していきました。

★ これは金 容雲氏の話を元に要旨を書きました。これらの問題には本当に様々な説があり、どれが本当かについて決着していない問題は多いのです。しかし金氏の話は中なか面白いので、皆さんに紹介しました。

* 日本語のルーツと変遷については、あらためて、書くことにいたします。

『「日本=百済」説』原型史観で見る日本事始め 金容雲 

         2011年4月1日  1500円    三五館

『日本語の正体』  倭の大王は百済語で話す 金 容雲  

         2009年8月30日 1500円    三五館

追記 : 2012年8月1日(水)

 韓国歴史ドラマで、今日、現在BS朝日で放送されている「太祖王建」を見ていましたら、新羅が崩壊した後、また三国に分裂した時代(後三国)の一つ、後百済の王である、甄萱(キョンホン)が、「中国や日本などと外交を結ばなければならない、特に日本は百済が作った国だから」と言っていたのにはびっくりしました。韓国では百済が倭(日本)の元になったというのが、かなり広がっているのでしょうか驚きました。

こちらもぜひお読みください

「日本語の正体 倭の大王は百済語で話す」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2012/12/1-79cb.html

 

 

 

 

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