「日本語の正体」倭の大王(天皇)は百済語で話す。 追記。擬音、擬態語1位は韓国、2位、日本
『日本語の正体』より、少し見にくくて申し訳ありません。上の段は日本語とアイヌ語よりも「から語」(昔の韓国語)とアイヌ語のほうがむしろ近いことを示しています。
下の段は、漢語、新羅語、現カラ語、百済語・高句麗語、やまと言葉を比べています。
真ん中の段には「このように、日韓語には、新羅系と百済系の言葉が入り混じりながらも、それでもなお両者の90%以上の基礎単語がつながっているのが不思議なくらいです。」と書いてあります。
このグラフは日韓語の変化過程を示したものです。左の数字は3世紀から始まり、上は21世紀の現代となります、百済語と新羅語との差は始め方言程度でした。伽耶語も含めたt韓国の古代の言葉は方言程度の違いしかありませんでした。
663年の倭と百済の連合軍と、唐と新羅の連合軍との戦いである白村江の戦い以後急速に倭(日本)と新羅の言葉が分離を始めました。
韓国語は、新羅語に統一されました。唐の影響を強く受けた新羅は正統漢文を使用しました。
日本語は百済語に収れんし、訓読体を発明しました。10世紀にはかな文字が盛んになります。韓国ではハングルが作られました。そのようにして、日本と韓国の言葉は大きく離れてしまいました。
金容雲氏の『日本語の正体』の帯ふうには、下記のように書かれています。
百済語が日本語で、百済語を投げ出したのが韓国語だった。
日韓語についておおくの韓国人は「現韓国語がオリジナルで、現日本語はその変形だ」と誤解する人が少なくありません。
しかし(漢字の影響で)音韻を増やした韓国語のほうが大きく変わり、昔ながらの音韻範囲をほとんど維持してきた日本語のほうが原型に近いものが多いのは事実です。日本人はどれほど努力しても中国の漢字とはソリがあわず、むしろ王仁が』伝えた訓読法を日本式として確立する道を選んだのです。(「日本語の正体」第4章より)
日本の王朝の変遷と日本語の変遷
日本列島の各地には、始め縄文人の人たちが、その後、韓国の百済、新羅、伽耶(加羅、任那)などの人たちが、移り住んできました。それぞれの人たちはたとえば百済でいえば小さい国のような軍事組織であるタムロ=屯を作っていました。
金容雲氏の『百済=日本説』によれば、百済の系統の人は、九州の中部に国を作り、狗奴(耶)=熊襲となりました。日本に最も近い、伽耶の人たちは北九州に拠点を作り、邪馬台国となりました。新羅系の人は、出雲から但馬などにかけて国をつくりました。
その中で、300年ころ伽耶系の崇神天皇(神武と同じ人物)が九州から奈良大和の地に王朝を作りました(第一王朝)。天皇家の創立神話である、天孫降臨神話と伽耶国の創立者である金首露神話は驚くほど似ています。その後、391年には百済系の応神天皇の王朝(第二王朝]、そして507年には、継体天皇の王朝(第三期)となります。継体天皇の子とされる欽明天皇は、実は伽耶系の人物で、第4王朝を開いたという説も紹介しています。
また他の本によれば、701年の大宝律令が完成したとき、天武系が滅び、天智系に変わったという説もあります。(『欺かれた王朝交換 日本建国の謎』斉藤忠 学研) 詳しくは前のブログ「日本=百済」説」をご覧ください。
日本語のルーツを見てみますと、一番底になっている言葉は、大野 晋氏が提唱している日本語タミール起源説です。タミール(インド)、ネパール、雲南省、そして揚子江下流域には、稲作文化を中心とした倭(日本だけでなく漢の時代にはこの地方一帯をそう呼んだ)の人たちがいて、日本語の稲作や、食べ物に関することばはかなり共通しています。
韓国の南方系の倭の人達の言葉(韓ーから語)に、北方系(アルタイ系)の扶余、高句麗、百済、伽耶語などとが融合し元日本語となりました。日本列島は言語融合のるつぼとなりました。
高句麗の広開土王が百済を攻め、百済は敗退しました。百済の人々の一部は九州にある分国である狗那(熊本)と協力し、第一王朝を倒しました。それが391年の応神天皇の第二王朝です。このころ、百済エキソダスといわれるほどの大量の百済人が移住してきました。大和の主要地はほとんど百済の人たちで占められていました。当然大和の公用語は百済語ということになります。新羅系の人たちは多くが東国に移住し、後の武士の言葉である東言葉の元になったといわれます。
507年に第三王朝の継体天皇が即位しましたが、金容雲氏の説によれば継体天皇は百済の王の弟である、昆支(コンチ)で、大伴の金村などの豪族の協力を得て第二王朝を倒しました。そして、継体天皇の息子は百済の王となります。この当時、倭と百済は一体となっていました。継体天皇は新羅攻撃のために6万の兵を九州に送ったが、新羅系の筑紫国造である磐井が阻止します。よく年反乱をおこしますが、抑えられました。この当時百済王の後継者は大和(飛鳥)にいること事になっていました。百済は五経博士などを送りや仏教などを伝えます。
聖徳太子はいなかったとか、聖徳太子とは蘇我入鹿であったとか言う説のありますが、昔NHKのドラマで、聖徳太子が時々百済語をしゃべるというのがありました。へー思い切ったことをドラマにしたと思いましたが、逆にまるっきり百済語だったということです。蘇我氏や他の豪族も百済系です。
白村江の戦い以後、分離が始まる
663年の白村江の戦いで倭が負けたことにより、朝鮮半島とはっきり分かれました。新羅の統一で、高句麗の人たちも日本に亡命してきました。渡来人は多くが東国に移住して開発をしていきました。722年には飛鳥の高市郡の人口のうち80から90%が百済人と言われます。
781年父の光仁天皇がなくなったとき桓武天皇が哀号(アイゴー)の声を発し痛哭したと書かれています。実際に続日本記を見ると、哀号と泣いたと書いてありました。詳しくは後の文章で。
12月27日追記(下記)(「続日本記」)しかし794年に平安京に都をうつし、百済的なものに満ちている奈良を離れました。北畠親房の『神皇正統記』によれば、百済と日本が関係があるという文章を桓武天皇がすべて燃やしたと書いてあるそうです。それ以後かなの発明とともに日本独自の文字が発展し、韓国語と分離して行きました。特に遣唐使の廃止以後日本は日本独自の文化や言葉の発展がありました。
天皇家と百済王家と同脈であったのには、具体的な例があります。
宮中では母親のことをカラ語のオモニと同じく「おも様」と呼んでいました。
天皇家では「裕仁」とか「明仁」のように「仁・ヒト」がつきます。古代の韓国の王や皇子の名前も同じような名前でした。韓国語の「貴方」にあたる「ニム」は「君ーキミ」の古い言葉で「ニムクム(王様)」を意味します。古代語の「斯等=シト」も王様の意味でしたが、今はただ「人ーヒト」という意味にしか使いません。
アボジーオヤジ アジシーオジ なども日韓近い言葉です。シトのトは「商人ーアキンド」や「仲人ーナコウド」などに残っています。
万葉集に書かれた万葉仮名の原型は百済の吏読です。吏読とは、漢字による朝鮮語の表記方法の一つで、三国時代にはじまり、19世紀末まで用いられた古代韓国語の資料の一つに数えられるものです。万葉仮名と,吏読の表記や発音はカラ語とほとんど同じです。『古事記」にも百済式吏読を使いました。万葉集の歌の中の東国の人たちの言葉には新羅語のなまりがはいっているそうです。
日本人の最大の発明は訓読法
漢字を日本語で読む訓読法である。
日本には「名前の漢字はどうにでも読める」という無原則の原則があるようです。万葉仮名から始まっています。音と訓の読み方からはじまり、さまざまな読み方があります。たとえば以下のようです。
修行 しゅぎょう ー行(ぎょう) 百済式呉音 6,7世紀 旅行 りょこう ー 行(こう) 漢音 8世紀 行脚 あんぎゃ -行(あん) 唐、宋音 12世紀
現在韓国語の75%と日本語の50%は漢字語です。
日本では仮名を発明し、仮名交じり文で、漢字を受け入れました。韓国では政策的にかくこたる中国化する意志から、漢文を棒読みしたのはいかにもふしぜんであったと言えましょう。おおくの中国語の音韻が韓国語に編入され、古代以来の吏読ではカバーしきれない音節がはいりました。韓国が誇りとするハングルはそれに対応するために作られたのです。
「日本語の正体」p159から
日本の関西弁は朝鮮半島の西南部と共鳴する。京都弁は百済語、東京弁は新羅語を思わせる。そのほか様々な面白い話が書かれていますがよろしかったら直接お読みください。
『日本語の正体』 金容雲 2009年8月30日1500円+税 三五館
2012年7月30日追記 擬音、擬態語は韓国世界1位、日本2位
2012年7月27日の、人間学研究所の新教育人間学部会で、佐藤由紀氏(明治大学特任講師)から「音と言葉をつなぐものー日本語における擬音語・擬態語考察ー」というお話を伺いました。
擬音語とか擬態語とは、
擬音語ー現実世界の音をそのまま言葉で写し取った言葉 ワンワンとかドンドン(叩く)とか
擬態語ー現実世界の状態を、その言語の発音で、いかにもそれらしく写し取った言葉 さらさら、あっさり、どんどん(進める)など
擬音語はカタカナで、擬態語は平仮名で書くというのが原則です。
世界で擬音、擬態語が一番多いのが韓国語、二位が日本語
言語は世界で4000から7000の間あるという中で、一位、二位とはすごいことです。これを見ても日本語と韓国語が、大変近いということの一つの例証ではないかと思いました。例会でもそのことをお話ししました。日本、韓国語では多いが、中国語では少ないのです。
擬音、擬態語は欧米では子供っぽい言葉とされている。しかし日本では朝日新聞で調べた例では一カ月でのべ、1000ぐらい出てくるほど一般的に使われているとのことです。日本語を研究している外国人にとっては、覚えにくく、理解が難しいそうです。
韓国語と日本語の擬音、擬態語の例を対比すると
韓国 日本語
パドゥル、パドゥル がたがたふるえる
サルサル サラサラ
パンチャク、パンチャク キラキラ
メックン、メックン すべすべしている
★ そのほか いろいろと大変興味深いお話がされましたが、それは改めてご紹介います。
追記 2012年12月27日
『続日本紀』(ショクニホンギ)を調べてみました。『続日本紀』は平安時代初期(797年)に編纂された。『日本書紀』に続く、全40巻の日本の正史です。奈良時代から平安初期について書かれています(697~791年)。
その36巻には次のように書かれています。
「天応元年 丁未(12月23日)太上天皇(光仁天皇)崩御 春秋七十有年 天皇(桓武天皇)哀号 摧咽不能自止」
確かに哀号、哀号と泣いて、なきやめることができなかったと書いてありました。哀号は皆さんご存知のように、韓国、朝鮮の人が極めてよく使う悲しみの言葉です。
参考 重複した話もありますが
「金容雲氏の、「日本=百済説」について」
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2012/07/post-a694.html
追記 2017年7月5日
「哀号ってのは」さんから、桓武天皇が「哀号」と泣いて、泣き止むことがなかったのではなく、ただ、悲しんで泣き止むことがなかった、というだけだ、とコメントをいただきました。
なるほどと思われるお話ですので、コメントもぜひお読みください。いずれにしても奈良時代までは、百済や唐などの大陸の文化の影響が大変強かったのが、遣唐使を止めた平安j時代に日本独自の文化が発展しました。
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