人間学ブームと、人間学の本などの推移 人間学研究所通信第64号
はじめに
『人間学研究所通信 第64号』(2013年8月発行 人間学研究所)には、筆者が、「人間学ブームについて」と題して、7ページの文章を書きました。ここでは、そのポイントを書いてみたいと思います。
筆者はすでにさまざまな形で、『人間学研究所年誌』などに人間学史について書いてきましたが、『人間学研究所通信 第64号』では、国立国会図書館で、収集している本やさまざまな資料の数を年次ごとにグラフ化し、それぞれのブームについて説明してみました。
このグラフは、『人間学研究所通信第64号』に挿入したものである。残念ながらかなり縮小せざるをえないため、わかりにくいことをご容赦ください。横軸は1900年ころから始まり現在に至る年数です。縦軸は本や他の資料の出版件数です。ゼロから上は350件です。グラフの赤い色は、本の数で、青色は本のほかに記事・論文やデジタル資料も含めたすべての資料です。年数で真ん中よりやや左で、かすかに1945と書いてあるのが終戦の年で、この年にはゼロとなりました。
人間学ブームという表現は戦前のものは、桑木厳翼が1936年の『哲学と文学の間』(大日本図書)に「近頃流行の人間学」という言葉があり、一般に知られています。しかしその後の第二次人間学ブームという言葉とそれ以後については2000年に発行した『人間学研究所年誌2000 第一号』などにおいて、あくまでも筆者の提唱しているものです。
1、第一次人間学ブームとその批判
ドイツのマックス・シェーラーやH・プレスナーなどにより、哲学的人間学が提唱されました。これは、実存主義などの流れをくみ、人間とはなにかを、最新の科学的知識をも総合して探求していかなければならないというもので、当時勃興しつつあったマルクス主義に対抗する思想という位置づけにあったものです。1927年に三木清が「人間学のマルクス的形態」をしそうに発表して以来、西田幾太郎、九鬼周造、和辻哲郎、高山岩男、三木清まどの京都学派を中心として発展した。また一方、石川千代松、小泉丹、丘浅次郎らが進化論にもとづいた進化論的人間学を展開した。1,938年には哲学的人間学や進化論的人間学などを総合した『人間学講座』全5巻(小泉丹、和辻哲郎など編)が発行され戦前の人間学のピークをなすものであった。上記のグラフでもこのころ人間学の本がかなり出版されていることがわかります。このころアメリカには1929年にイエール大学に人間関係学部ができ,以後人間科学(Human Science)の研究が強まり、戦後の日本に急速にひろまった。
2、戦前における人間学の批判
1935年に、戸坂 潤は『日本イデオロギー論』の中の「日本倫理学と人間学」において、和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』などの哲学的人間学をレベルは高いが保守反動的であると批判しました。
また「人生生物学」の提唱者で産児制限などに取り組んだ山本宣治は、丘浅次郎などの生物学的人間学を進化論にもとづいて、p清水ム的な未来を考え現実の政治の諸問題に目をつむっている卑怯な人間論」と批判しました。
戸坂潤と山本宣治の人間学批判は、多くのの人間学が「人間とは何か」「人間とは以下にあるべきか」などという一般的な問いかけに終始し、結局倫理の問題や心がけの問題に解消し、現実社会の諸問題には目を向けない、ということであった。そしてその批判は現在でも存在する多くの「人間学」や「人間科学」にも言えることである。
3、第二次人間学ブーム
その始まり
1960年の学術会議「人間科学総合研究所案」にもとづいて、1961年に東京工大に「人間科学研究所」が作られた。また1961年には「現代人間学」全4巻が出版され総合的な人間学への試みがなされた。同年小原秀雄氏の『動物版人間の条件」などが出され、人間学や人間科学の必要性が叫ばれ利用になりました。
1965年には小原秀雄氏を会長とし、筆者を事務局長とする人間学研究会ができた。このころからしだいに人間学や、人間科学に関する本も増え始めました。日本においては人間学と人間科学の境界はあいまいでなものとなっています。
第二次人間学ブーム
1975年ころからスタートし、1989年の「人間学」の本としては、139冊とピークをむかえるころを筆者は第二次人間学ブームと名付けました。このころは1985年に小原秀雄、柴田義松、岩城正夫各氏と筆者が第二次人間学研究会を立ち上げたころでした。このころの日本はバブル経済真っ盛りでという時期で、安岡正篤、堂門冬二、船井幸雄らは次々に筆者が経営人間学となずけた本を出版した。この時期は人手不足でもあり、よりよき経営にとっては、優れた経営者とならなければならない、あるいは人間とは何かを知らなければならないなどという論調であった。このころは各大学にも人間学、人間科学の学部、学科ができ始めました。その中で、哲学的人間学や、科学的人間学の本も多く出版されました。
ところが1989年に昭和の時代が終わり消費税が導入され、景気が後退し始めました。1991年には地下、株の暴落があり、長く続く平成大不況の時代となってきました。今まで人間が大切などと言っていたのが、不景気になるとそのようなことが言われなくなりました。船井総研の船井幸雄が途中から、コンサルタントの方向をアメリカ流の労務管理の導入に重きをおき、一切人間に関しての本を書かなくなったのによくあらわれています。人間学の名のついた本は1989年の139冊をピークに減少を続けています。
4、大学における人間学の定着と、記事・論文デジタル資料の増加
第一期
1970年ころから、激動と不確定性の70年代といわれています。1969年に女子栄養大学に柴田義松、小原秀雄、岩城正夫氏らによる人間学コースができました。上智大には1970年に、一般教養の共通コースとして人間学が導入されました。1972年に大阪大学に人間科学部ができ、哲学的人間学講座も作られました。筑波大では1973年に人間学群が作られました。このころは第二次人間学ブームの時期と重なります。
第二期
1990年ころからバブル崩壊と平成大不況となります。すでに述べたように経営人間学の本が減少しました。一方、人間学や人間科学の名のついた大学が増加し、記事・論文やデジタル資料を含めたものは急速に増加してきました。1991年には我々の人間学研究所準備室ができ人間学研究会が成立し現在に至っています。
1992年には京都大学に総合人間学部ができました。ここでは教育人間学の取り組みもあります。同じ年に天理大に人間学部ができました。宗教学科と心理学科をまとめた学部で、宗教系の大学には似たような名称が多くつけられています。しかし人間学とは名ばかりで、内容は従来の講座のままというケースも多いようです。
第三期
2000年から現在に至る時期です。総体の出版物は多いのですが以後の伸びはなく停滞期にあります。2000年に『人間学』に関する資料が336件となりました。以後200件ほどが続きます。1999年には筆者らの人間学研究所が設立されました。人間と名のつく大学は一時急増しました。そして各大学で出版物をつくり、1970年ころから急増しています。本は毎年減少し続けています。またすべての資料もしかし近年は横ばい傾向であることがわかります。
参考
1、国立国会図書館蔵書検索 によるキーワード人間学と人間科学
2013年8月14日現在
人間学 人間科学
すべての資料 6991件 2719件
本 4943件 1816件
記事・論文 2084件 890件
児童書 44件 23件
デジタル資料 2388件 434件
その他 7件 21件
*人間学でのすべて、と本の最初に出てくる資料は、
本研究所の『人間学研究所年誌2000』第一号です
2、人間学と名のつく本 2013年8月
アマゾンでのリスト 1498件
楽天でのリスト 5395件販売店ごとのもので重複
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