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2014年6月 5日 (木)

第五倫 小説『人相食む』の主人公 2014年6月5日追加版 2011追加版

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 このブログははじめ2011年に書かれたものでしたが、小説『人、相食む』を完成させなんかしらのかたちで人々に読んでいただこうと、ほかにも書いたブログとともに2014年6月5日に移し替えたものです。これに後日新たに書きくわえます。

ようやく『第五倫」の画像を入れることができました 上の画像はまだ若いころの像です。 下の画像は三公になって以後の像と思われます。小説の主人公なので、なんとか画像を手に入れたいと思い、中国で探したこともあります。

この画像は『国華』国華社発行の1028と1029号に画かれていたものです。1979年11月、12月号

『賢聖障子の研究』川本重雄氏ら によるものです。仁和寺にある像を基にしています。中国では名臣の肖像画を宮廷のもっとも重要な部屋に必ず飾ることにとになっており、日本でも紫宸殿に肖像画が描かれてきました。

そのほかには、白髪のかなりの老人になった画像もありましたが像が小さく写せませんでした。

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これは小説を保存した、CDです。簡単に複製できます。

王伯人とはこの小説を書くにあたってのペンネームです。リッチテキスト方式で364ページです。

筆者は、『人、相食む』という小説を10年がかりで書いています。(2014年には14年です)がかりその小説の主人公は、後漢初期の、優れた政治家であった、「第五倫」です。第五という姓は大変珍しいものですが、前漢初期に、戦国時代の斉の国の国王である田氏の一族を、長安の都に転居させたとき、5番目に来た田氏ということで第五氏となづけられました。第五倫については、『後漢書』の中の「第五倫伝」に書かれています。

 さて主人公の第五倫は西暦1年ころに生まれました。そのころは前漢を滅ぼした王莽の新の国が戦乱で乱れ、赤眉の賊などが荒らしまわっていました。第五倫は早くに父をなくしてしまいましたが、まだ20歳くらいで、一族のものを守って、砦を築き、赤眉の賊などの襲撃を撃退してきました。大変な弓の名人だったそうです。そして、当時は人が人を食べるような、悲惨な状況の中で、一族と食べ物を分け合い、生き抜いてきました。なにしろ、西暦2年の前漢末の人口が5959万人、それが西暦25年に光武帝が即位したとき1400万人に減少したのです。わずか20年の間に、4分の1以下4600万人も減少したのです。それには、食べるものがなくなり、人が人を食べたこと(人相食む)も大きく影響しました。中国の正史は、いつどこで「人相食む」があったかを記録し続けます。

 長安の役人である「鮮うほう」に認められ、長安の小役人になります。能力はあるのですが、あまりに清廉潔白であるために、上司に煙たがられ出世しません。その後、郷(村)の役人その後再び役人として、長安の市場の役人となり、大きな実績を上げますが、やはり上司の間違いを正したりして、煙たがられ、認められず、不遇でした。西暦51年、46歳になったときようやく孝廉にあげられました。同じ役人でも高級官僚になれる長吏となれない小吏とは大きな差がありました。2000年前の当時では46歳では普通、もう死んでしまう年齢です。

光武帝、二代の明帝、そして三代目の章帝の政治は、建武、永平の治とよばれ後代に模範とされる善政の時代でした。建武の名は、日本でも「建武の中興」として使われました。光武帝は「元元(げんげん)をもって首とす」(民衆こそが最も大切である)としてさまざまな政策を打ち出します。思い切った無駄な役所の削減、周りの国と友好関係を結び国内の内乱もなくなったため常備軍を廃止しました。それらにより大幅な経費節減が実現しました。そしてその結果大幅な減税を行いました。軽い税は庶民の懐を富ませ、購買力が高まります。さらにさまざまな産業の推進、奴隷解放、清廉な役人の採用などの政治をおこないます。その結果、建武2年(西暦26年)の「関中餓え、人相食む」というのを最後として、人が人を食べるということがなくなりました。中国の歴史が始まって以来清朝末まで10数年に一回あった「人相食む」がその後80年間なかったのです。これは不景気で苦しむ今の日本でもお手本になることではないでしょうか。

 孝簾にあげられてから、2年後第五倫は光武帝と直接会い意気投合し、二日間語りとおしたと言われます。そして、県令として任地に行く途中に、大きな郡である会稽郡の太守になるように、追いかけての指示を光武帝が出しました。いかに高く評価していたかがわかります。会稽郡の都である山陰(紹興)では、若い鄭弘や謝夷吾を抜擢します。鄭弘は後で三公の一人太尉になり、謝夷吾も大活躍し、やはり三公の司徒に推薦されます。第五倫は任地の会稽郡の中で、民の暮らしをよくし、人々にあがめられ、連座して都に呼びだされたときには、数千人の民衆が無実を訴え長安に押しかけました。直接皇帝が調べ無罪となりましたが、その後しばらく田舎暮らしをしていました。

 68年,63才になって、又召し出され大きなぐんである蜀郡の太守になりました。そこで再び大きな実績を上げます。また多くの素晴らしい人材を見つけ出しました。よく人を見ることができるということで「知人」と称賛されていました。さらに、75年に三代皇帝、章帝に招かれ、いきなり三公の一人、司空(財務建設関係担当)となります。当時70歳です。現代のわれわれでももうとっくに定年になっている年です。その後11年間、81歳になるまで、ほかの三公が次々と交代するなかで、ひとり司空を続けます。いかに多くの信頼を受けたかがわかります。飢饉の際には手際よく、救助の手はずをし、80年間「人相食む」ということがない、素晴らしい時代を支えてきました。哲学者の王充は大いにその実績をほめたたえました。ちなみに、人口は、75年章帝即位のときには3412万人、和帝即位の年には、4336万人と人口は急速に回復して行きました。105年和帝が死んだときには、5326万人と前漢の人口のピーク時に近付きました。しかし、世のみだれとともに、人口は再び減少していきました。

 第五倫は、あなたは私心というものがないのですねと言われて、とんでもない、昔兄の子が病気の時には、何度も見舞いに行きましたが、そのあとはぐっすり眠ったのです。しかし自分の子が病気の時には、心配で夜も寝られませんでしたと。 また、自分を推薦してくれたら、素晴らしい馬を差し上げるといわれて、その話には、乗りませんでしたが、いい馬でほしかったなー、とあとで夢の中で見るようでした。そんなことでは私心がないとはとても言えませんと、言ったといわれています。

 ところが章帝の妃の兄、竇憲(とうけん)の陰謀により、太尉の鄭弘が失脚します。そのことにより、謝夷吾の司徒も実現せず、謝夷吾の王充の推薦も実現しなくなり、一気に外戚の横暴が始まります。第五倫は職をはなれました。その後章帝もおそらく暗殺されたと私は思います。その子の和帝が幼くして即位します。しかし実権は外戚がにぎり悪政のかぎりをつくしました。しかし和帝が大きくなったときには、竇(とう)憲の一族を壊滅し、皇帝親政を行いました。ところが105年に和帝が死去した後、わずか生後100日の乳児を皇帝に立てました、そして、外戚や宦官はふたたび私腹を肥やす政治を始め、106年には、48年間なかった、農民の反乱が始まり、107年には羌賊が反乱をおこし10年も続き、財政が破たんしました。108年には、ついに、「河間飢饉、人相食む」と正史に記載されました。以後疫病の発生イナゴの害、日照り洪水が起きて人々は苦しみました。しかし清廉なる役人はまだのこり外戚や宦官と戦いました。それで、184年の黄布の乱が始まり、「三国志」の世界に入ります。そして220年に魏の文帝が即位し漢はほろびました。

小説「人相食む」はこのように、第五倫を中心とし、光武帝からはじまる4人の皇帝、謝夷吾、鄭弘、王充などの人たちが活躍する、後漢初期の100数10年を描いた小説です。ですから文章の量も多くなり登場人物も大変多くなってしまいました。まだまだ不十分なところがありますが、内容を高め、世に出してみたいと思っています。

 日本でも、今人口が減り続けています。人口がこれほど減少しているということは、自公政権の悪政によって引き起こされたものです。民主党連合政権が「子供手当」などをつけ、人々の暮らしを良くすれば人口は増えてきます。ヨーロッパの国の中では、政策の変化で人口が増加に転じています。

 追記  第五倫の肖像画をずっと探していました。昨年京都国立博物館での皇室の宝展で、「賢聖の障子」(けんぞうのそうじ)をみることができました。その像によれば、おそらく年は80歳くらいで、かなりの高齢ではあるが、眼はケイケイと輝き厳しい顔立ちをしていました。ほかにも筆者が変わると、まだ若い穏やかな顔立ちの50歳くらいと思われるものがあります。またうんと高齢者で白髪、白いひげのかなりの老人に描かれたものなど、その肖像画はいろいろ異なって描かれています。

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