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2014年6月 3日 (火)

長いあいだ、脳出血で入院していました。経過と現状 6月追加版

6月追加版

 2014年2月27日に はじめごく簡単に書いたブログでしたが、「人間学研究所年誌」11号にこのことを原稿として書くために、この間ブログにいろいろ書いてきたものの核になるものとして、6月、7月にさらにいろいろ書きくわえてゆきました。すでに下記のようにいろいろ書きくわえていたものです。

 ★ 最初に書いたブログが操作ミスで消えて仕舞いました。日付中心にかき直します。3月15日追記。左手だけでパソコンをうっています。それにひだり目の目がねがあわず、苦労していま

1、発病に至る経過

 一人で彦根城を中心にドライブにいきました。今まで国宝の城は彦根城以外はすべて回っていて、いつか彦根城に行きたいと思っていました。車は中古ですが、買い直したボルボです。まだ買って3か月くらいです。前の車は三年たったエルグランドを買ってその後12年も乗っていたのです。3500ccで燃費がかかり買い直すことにしました。ボルボは丈夫さが気にいったのです。前にもかきましたが家内とは交代で旅行へ行くことになっていました。3匹の猫のせわや、ベランダの植物に水掛けたりすることがあるからです。すでに少し前に家内はドイツへの旅行を終わっていました。。

一日目は名古屋のビジネスホテルにとまりました、慣れない車での運転でかなり疲れました。夜暇なので二軒飲みに行きました。

 二日目の2013年11月6日昼頃 彦根城を見た後、ひとりでドライブしているとき、大津にて脳内出血をおこしてしまいました。彦根城は小高い丘の上にあり、いろいろ見て回ったのでかなり疲れたせいもあるでしょう。そのあと車で琵琶湖の周辺をドライブしました。比較的にぎやかなところで急に体の右半分が動かなくなってきました。車をよせて近くの人に助けをよびました。幸い事故を起こしませんでした。意識と言葉ははかなりはっきりしていました。出血したのは視床部分という脳の中心部分です。意識はあるのですが右半身が全く動きません。しかしある程度話ができるのは幸いでした。すぐに救急車で 大津赤十字病院に運ばれ入院しました。6階の西病棟です。

 病気は視床出血(脳内出血,一部脳室穿破)です。視床は脳の中心部分で嗅覚をのぞいたほとんどの感覚などの神経の通り道となっています。この部分はちょうど蝶の羽のようなかたちをしていま)す。出血はレントゲンやCTスキャンによれば右半分ほとんどでした。さらに左にも少し出ていました。手術は脳の中心部であるために、できず次第に出血した部分が吸収されるのを待ちます。(大津赤十字病院の 退院支援計画書によれば、「左被殻出血」となっています。)

 出血の原因は高血圧、当時最高血圧が200以上あったそうです。血圧は43歳から降圧剤を飲み続けています。いままでも突発的に急に高くなり、眼底出血などを起こしています。それを起こした左目は今でも見えないところが点々とあり、さらに最近は緑内障まででてきて苦労しています。いままでも何回か急に血圧が上がることがありました。血圧が夜中に200近くになり、めまいがして病院に行ったこともあります。そのときはおさまりました。

追記:視床出血は脳出血では被殻出血(レンズ核線条体動脈の破たん、60%~65%)についで多い脳出血で全体の30%をしめます。視床は知覚に関するほとんどの刺激が視床に集まるものです。三番目は皮質下出血、次は小脳出血です。そのほかに脳関係の出血ではくも膜下出血や硬膜下出血があります。又非常に多いのが血管が詰まることによりおきる脳梗塞です。

2、大津赤十字病院への入院

 入院して、意識も朦朧とし、幻覚も見え右半身は全く麻痺 感覚なしの状況でした。どんな格好をしてもいたくもなんともないのです。ところが話はある程度できるのです。幻覚は不思議な感覚でした。病室の様子が、ありありと見え、聞こえるのですが現実とは異なり、あっ、これは幻覚だなとわかるのです。

もう忘れてしまいましたが、家内によれば、蒲公英という字を見てタンポポといえる一方で身近な言葉が出てこないということがあり、失語症と書かれたそうです。はじめはベッドで点滴だけでしたが、次第に車いすにのれるようになりました。それとともに少しづつ食事ができるようになりました。

 大津赤十字病院は三井寺の見えるところにありました。6階の西病棟です。大津日赤病院の退院支援計画書では病名ははじめ左被殻出血となっています。これは代々木病院で訂正されました。入院前に比べADL(生活の質)が低下し、退院後の生活様式の再編が必要であることとなっている。ひつようであることかいてあります。しだいに手などは少し動くようになりました。容体が安定し車いすにのれるようになりました。移動は左足でけって左手で進む車いすです。ここに3週間ほど入院しました。はじめは点滴だけでした。その後次第に普通の食事になりました。朝ご飯はトーストしたパン食なのですがそれがおいしくぱんが好きになりました。そこの食事は全体においしく体重も2キロほどしか減りませんでした。

 パソコンも3月15日そして現在も左手だけでうっています。携帯電話で話すことはできました。しかしメールのやり方などはすっかりわからなくなっていました。リハビリで次第に意識やことば、メールのうちかたなどは回復しました。家内は新幹線で3日に1回くらい東京からかよってくれました。大変だったと思います。京都までいき2駅東海道線で大津に戻るのです。いろいろ東京の病院をさがしてくれましたがなかなか空きがなく、高い差額ベッド代をだせばというところもありました。その中で代々木病院は差額ベッド代もなくなんとか申し込みができました。

3、代々木病院への転院

 11月21日新幹線にて東京へ帰りました。新幹線の列車の中に小さい特別な個室のようなものがあるのです。上の息子もきてくれました。品川駅では頼んでいた介護用タクシーが遅れ、きゅうきょ普通のタクシーで品川駅から代々木病院へ入院し、5階の内科病棟へ入りました。ここはかなり重い症状の人が入ります。ドライブで乗っていた車は業者に船便で運んでもらいました。住むところはエレベーターの無い自宅には戻れません。マンションを借りるために、その車は駐車場の安い下の息子の近くに置き直しました。借りていた館山のリゾートマンションも解約しました。

 11月21日の入院診療計画書によれば、症状は右視床出血(脳室穿破あり)による右片麻痺と失語となっています。治療は手術などせず、血圧降圧剤を飲み、胃腸の薬、便秘薬、アレルギーに対しての薬などをのみ、ある程度、回復してからのリハビリが中心となります。鼻は詰まりやすく点鼻薬とアレルギーの薬は飲み続けて居ます。はじめひどい便秘で、浣腸をするようでしたが、ある時を境に急に下痢気味となりました。退院後も便秘気味で朝晩薬を飲んでいますが3日に一回のペースです。水を飲む量が少ないのと寝て居ることが多く運動不足のせいでしょう。薬は入院後8か月以上たった6月もだいたい同じです病院では。定期的にリハビリテーション総合実施計画書が発行されます。代々木病院では4回発行されました。月1回カンファレンスがあり、医師、理学療法士など、看護師と病人本人と家族が集まって病状の報告があります。そこに目標と具体的アプローチも書かれます。活動状況が点数表示されます。11月21日では5階病棟で100点満点で20点。食事のみ10点で移乗が5点排尿管理が5点であとは,全介助の0点です。日常会話可能だが長文で混乱ありとなっています。それに軽度の喚語困難となっていました。

その後リハビリ病棟に移ります。4階のリハビリ病棟では12月2日のリハビリ計画書では、全くダメな1点が7項目ありました。右下肢支持性低下に加え左下肢筋力低下により介助量多くなっている、と書かれています。点数は126点満点で55点です。1月20日では食事,整容、トイレ(見守り)排尿排便コントロール、浴槽移乗、更衣、社会的交流、記憶などが5点ないし6点になりました。そして総合点126点中90点に上がりました。2月4日には食事が6点から7点に移動が4点から5点に変わるなど合計点が95点に上がりました。全くダメな1点は階段だけになりました。  

代々木病院では食事のカロリーは痩せるために大幅に減りました。一日1500カロリーです。体重を減らして血圧を下げようとしたのです。これで体重はどんどん減っていきました。

 その後しだいに自立してできることがらが増え、大分回復してきて、12月2日4階のリハビリ病棟へうつることになりました。自立してできるかどうかは、1、車いすへの移乗、2、トイレ 3、着替えなどです。昼と夜がありそれぞれできないと赤、見守りが黄色、自立が白です。頭の上のホワイトボードに磁石で状況を貼り付けます。退院のときだいたい白になりました。リハビリ棟は別棟です。車いすで送ってもらいます。リハビリは一日平均1時間のものが三つあります。ほかに病棟訓練があります。土日もふつうのようにリハビリが三つあるきついコースです。代々木病院のリハビリをしてくれるひとはとても熱心でした。

 2014年1月14日急に部屋変わりました。部屋は自由の利く 日当たりのいい部屋です。症状が軽い人ほど食堂とナースセンターから離れた場所になります。部屋の ほかの人は歩けるひとだけでした。途中までおむつ―リハビリパンツをしていましたが、それからも解放されました。ほとんど尿をもらしたりしないので部屋も変わったのでしょう。

2月25日退院ということに決まりました。 入院三か月をこえたのです。それ以上は診療の点数がさがるのです。

 代々木病院のリハビリをしてくれた人たちは本当に熱心に治療していただき、急速に回復してきました。改めて詳しく書きますが、足や下半身を中心とした、理学療法士さん、腕を中心として細かい作業能力アップを目指す作業療法士さん。そして言葉の使い方、字を書いたりメールのうちかた、パソコンの使い方などを指導する言語・聴覚士さんにリハビリしていただきました。 

4、病状の変化

 しかし右足はほとんど動かずくるまいす生活のままになってしまいました。左足はしびれがあり、退院後足の裏のしびれはかえってつよくなりました。顔面にも麻痺があり、耳を中心にかゆみがあり、鼻も頭もかゆくなります。かゆみが出るのは視床出血の特徴らしいです。右の口にも麻痺がありご飯がこぼれやすいのです。右目は疲れると目ヤニが出てうっとうしいのです。眼科の診察では目そのものに異常はありませんといわれました。これは今も治らず、顔面麻痺のせいと思われます。左目の眼底出血と緑内障も悪くなっています。緑内障の目薬を入院中ずっとしていました。退院後は何もしていません。左目は今も見にくく、パソコンもいま右目だけでみています。病状はその時々でいろいろに変化してゆきます。

 リハビリがきついときには、休み時間はほとんど寝て居る状態です。ときどき体全体も調子が悪くなります。はじめめったに笑ったりせずむっつりしていました。

 毎日手のマッサージなどがあり、右手はだいぶ回復してきました。しかし握力は10㎏ありましたが、細かいことはできません。しかし右手の握力はトイレに行くとき重要で右手で棒をつかみ健常な左手でズボンを上げたりします。字は左手で書かねばならぬのが大変です。リハビリノートに毎日,日付、住所、名前、今日のテーマなどを書いて訓練します。リハビリノートは51日におよびました。体重は86キロほどあったものが73キロほどに減量しました。退院後なんとさらに5キロほど減ってしまいました。それで最後は20キロ減にもなりましたが、そのご体重は少し回復しました。6月現在リハビリに来る理学療法士さんがいつも血圧を量りますが最高血圧が120から110最低血圧が60から70とかなり低くなっています。

 入院中は毎日リハビリがあり、麻痺のある右側のほうが体温が1度ほど高い状態でした。それに加えて何とも言えぬだるさがありました。ところが退院してリハビリが減ったら急に右側特に足がひどく冷えました。2月ということもあり血のめぐりが悪くまさに氷のようです。しかし病気の右の手のひらは今でも相変わらず熱いのですが。そこで家では足湯をしました、足湯はだいぶ良かったようです。

 右の麻痺側ははじめ感覚が全くなく、手足がどこにあるかもわかりませんでした。しだいに何か触っているなという原始感覚が戻り、強い痛みは感じます。温度は今でも熱いというのではなく、びりびりした感じです。足のように下のほうほど感覚は鈍く足の指をかなり強くつねっても何も感じません。腕や指もどこに向いているかもわかりません。その感覚はなかなか元にもどりません。退院後の7月になっても目をつむるとどの手の指を触っているのかわかりません。

 持病の椎間板ヘルニアがあり、整形外科に通っていました。リハビリで上を向いていると、左の足や腰が次第にしびれが来ます。時に痛くなり横向きに代わらないと痛くて我慢できなくなります。これは寝て居て筋肉が衰えると強くなりリハビリの遅れの原因となりました。寝ている時間が多いため、手足の筋肉も衰えて細くなりました。

5、退院とその後の状況

 全く歩けないので階段しかない5階の自宅へ戻れず、百人町3丁目の20年以上たったエレベーターのあるマンションを借りることにしました。24階の景色はいいところです。ただ動物はかえないので、猫三匹と金魚を毎日世話にいかなければなりません。植物に水もやらなければなりません。家内がいってくれていますが、朝晩余りに大変だということで、入浴サービスに来てくれるところで朝4日間猫のエサやりとトイレの掃除にきてもらいます。

 マンションは床はバリアフリーだが、ほかすべて変えてはいけないということであてが外れてしまいました。ベッドや車いすは介護2級(1級から5級まであります。5級がもっとも重くなります。ちなみに胃瘻をしている母は5級)なので、1割負担で借りられます。しかしお風呂もそのままでははいれずヘルパーさんに手助けしてもらうことになりました。その手助けも1割負担です。しかし風呂場で使うシャワーキャリーは買いました。ポータブル・トイレとシャワーキャリーは10万円までは補助が出ますがそれ以上は自己負担です。風呂場とその周辺も改造しました。シャワーキャリが入れるように。トイレも車いすが入れず、ポータブルトイレになりました。病院ではトイレは1人で行けたのにです。その後5月末には、トイレは戸を外して中に手すりを付けていいことになり、ポータブルトイレから普通のトイレに変更になりました。

 食事は減塩食であまり動かないために食欲もあまりありません。朝食はパン食です。お菓子もあまり食べません。一日チョコレートを二つぶくらいです。タバコはもともと吸いません。お酒は好きで前はだいたい毎日飲んでいました。小さい缶ビール一本程度です。今はお酒はまだ飲んでいません。あまり飲みたいと思わないのです。天気の良い日は家内に車いすで外に連れていってもらいます。新大久保のほうに出るか高田馬場の駅の駅のほうに出ます。しかし梅雨で天気が悪い日が多いのであまり外に出ません。コンビニでの買い物で済ますことが多いのです。本は高田馬場の新栄堂に二回行きました。普段は部屋でテレビを見る、パソコンを見る、ブログを書く、新聞や本を見る程度の毎日です。でも疲れて長続きしません。見にくい左目をつぶっていることが多いのです。今韓国歴史ドラマのテジョヨンと中国ドラマの項羽と劉邦は必ず見て居ます。

 今退院から4か月以上が経過します.また発病からも8か月が経過し、そろそろ病状も固定化してきます。新宿区から2級の傷病者手帳(介護度とは異なり1級が最も重くなります)も6月17日発行されました。傷病者手帳とともに傷病者の手引きという本とともに1年分のタクシー券がもらえます。タクシーも1割引きとなります。ほかに様々な特典があります。しかしまだ利用していません。

 さて回復はずっと遅くなっていますが、リハビリも週4回(理学療法士さん3回、作業療法士さん、週1回です。)ただし2回分は自費払いです。ほかにマッサージも週2回やり、1割負担です。それらにより少しづつ回復しています。自宅に来てもらうリハビリのほか、内科医に月二回、来てもらいます。診断し薬の処方を書いてもらいます。歯科医も出張してもらいました。眼科も来てもらえます。土日を除いていろいろ予定が入ります。7月段階で4本足のつえを使って支えられて歩く練習を始めました。、

関連するブログについて(こういちの人間学ブログ)

 14,3、7 二級の介護を受ける生活

 14,3,7 病院でのリハビリについて 代々木病院                  の場合

 14,3、25 退院してひと月あまりようやく物事が               順調に

 14,4,27 病院でのリハビリノートについて                  ―51日間の記録

 14,5,6  近況について 3、瞼の調子が                   おかしい

 14,5,16 二級身体障碍者の認定を受けました

 14,5,24 最近の状況 1、リハビリ増やす

 14,6,13 リハビリ進む、つえで歩けるように練習

  14,6、22    チョイス 病気になった時、高血圧 私も高血圧で脳出血 

◎以上のような内容です

 

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コメント

さおりさま
 コメントありがとうございます。よくブログを読んでいただいているようで本当に感謝しております。このところ、ブログの質が落ちたため入院中も一日1000件くらいアクセスがあったものが、いまでは750件ほどに落ちております。又コメントも減っております。そのなかで、励ましのコメントいただきますと本当にありがたいことだと思っております。今書いているブログでリハビリも一段進む可能性があります。改めてありがとうございました。

ご無事でよかったです…(ρ_;)

私は、こういち さんにお会いしたこともありませんが
このブログを見ていつも暖かい気持ちになっています。
どうか早く ご回復するよう願っています

まずは退院おめでとうございます
病気になって改めて健康の大切さを知ることが出来ると言います
くれぐれもご自愛を

先生を元気な内に会いに行かなかったことを
後悔しています、、、

さらに、、回復と健康を祈りますので、、、

とら猫イーチ様 
本当にご心配をおかけして、申し訳ありません。とら猫イーチさんも大変だったのですね。わたしのばあいははじめ全く右半身がまひして、頭ももうろうとしていました。しかし4か月のリハビリで左手でキーボ―ドをうてるようになりました。しかし長い文書は疲れてうてません。
とら猫イーチさんはじめ多くの方にご心配をおかけして本当に申し訳ありませんdえした。

 長らく貴ブログの更新が無いので、本当に、心配でした。 でも、貴ブログで、新規に御事業での新規ビル建築途中との記事がありましたので、事業がお忙しいのであろうと思っておりました。 
 でも、きっと事業のことと人間学の研究とでお忙しいのであろう、とも思いましたが、長期に貴ブログの更新が無かったので、悪ければ入院等のこともあるのかな、と心配していました。 ともあれ、御病気で入院とのことで、ひとまず安心いたしました。
 御病気には、リハビリも欠かせませんし、御退院後には、御無理は禁物です。 きっと、新規事業の御心痛も御有りでしたのでしょう。 
 でも、これが切っ掛けで、御自身の御身体のことにも改めて思いやりをされて、この先長い人生に思いを致されることも、御入院の長所かも知れません。
 私自身が、二年前の正月過ぎに新年の祝い酒に酔い、駅の階段で左脚首を折りまして、一月以上、不自由な生活を余儀無くされました。 こういち様は、私のような無様では無くて、御自身の御仕事や御研究の御心痛が御身体に出たのでしょう。 
 事業や研究も大切ですが、二度と無い人生がもっと大切です。 一度も御目にかかったことの無い私が、心配しているのです。 御家族の御心配は、如何ほどであったことでしょうか。 御家族のためにも御身を御大切にして頂きますように。 

コメントにいろいろお礼の言葉をかきましたが、みすで消えてしまいました。多くの方にお世話になりご心配をおかけしまいました。どうもありがとうございました。

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