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2014年6月

2014年6月29日 (日)

「HUMANOLOGY」第68号発行、人間学研究所7月例会

人間学研究所通信(HUMANOLOGY)第68号発行

1、例会通知 p1

2、倉田 眞・佐竹幸一 ヘイトスピーチと新大久保p2

3、岩田好宏 生物の生存と他の生物との相互関係p8

  合計12p

例会のお知らせ

1、実用的人間学研究会

 日時:2014年7月18日(金)18時より

 講師:杉山靖夫氏(実用的人間学研究会副会長)

 主題:くらしと税

2、教育的人間学部会

 日時:2014年7月25日(金)18時より

 講師:高橋喜代治氏(立教大学特任教授・本研究所研究員)

 主題:学生たちは部活指導をどう学んだか

 人間学研究所 

  発行責任者 所長 柴田義松 

  16-0073 新宿区百人町1-3-17

      佐竹ビル3F

  当面の連絡先 木村廣子 112-0002

       文京区小石川5-11-15-1001

       電話、03-3815-2598

2014年6月26日 (木)

奴隷制度と人身売買ー韓国ドラマも参考に 光宗大王、チャン・ノクス、広開土太王追加版

2014年6月追記版  

2013年2月24日 追記版 「光宗大王」の奴隷解放

 毎日欠かさず見ている韓国歴史ドラマの一つにBS朝日の「光宗大王 帝国の朝」があります。高句麗、新羅、百済の三国時代の抗争から、909年韓国・朝鮮を王建が統一し高麗を建国しました。このドラマは原作では200本ととても長いもので、日本では180くらいにちじめられていました。それも私はずっと見てきましたが、「光宗大王」はその後の高麗の時代をドラマ化したものです。ちなみにBS日テレでさらにその後の高麗の戦乱の時代をえがいた「武人時代」も見ています。

 光宗は初代王の王建の三男であったが、兄の死のあと4代目の皇帝となりました。二代目三代目の皇帝は、王建を助けた大豪族が実権をにぎり、王権は極めて狭められていました。豪族はそれぞれの地方を支配し、奴婢(奴隷)を私兵として抱え、いわば独立国家のような状態でした。

 光宗は、一つには「奴婢按検法」を制定し、三国時代に戦いに負けた兵士やその家族などを中心として、人口の半分ぐらいを占め利用な有様でした。その奴婢を大豪族は私有財産として、田畑を耕させた私兵としていました。一般の平民は少なく国の税収はわずかでした。光宗は始め大豪族に従順なように見せかけしだいに体制を固め、一気に「奴婢按検法」を制定したのです。戦争などにより奴婢となったものは役所に届け出れば平民とするというものです。そのことにより、豪族の所有する奴婢は半減し、新しい民は兵士になるか土地をもらって耕作できるようになりました。それで国に入る収入が増えるわけです。また科挙制度を導入し、豪族の子弟だからと高位についていたものを学問の力によって選定しようとするものです。これらにより大豪族の地からは大きく抑えられ、高麗の国は安定しました。しかし光宗の死後また豪族はしだいに力を得てくるようになってしまいました。

2012年9月7日追加

 このブログは最初に書かれたのはだいぶ前なのですが、ほとんど毎日のアクセスがあります。2012年8月から韓国歴史ドラマ「広開土太王」が始まりました、平日午後4時からBS日テレで放送されています。9月5日(水)の番組のテーマは「犬闘」でした。若きタムドクが、奴隷商人につかまり、「犬闘」と言う奴隷どうしで、死ぬまで戦わせ、どちらが勝つか書けるというものです。ちょうどローマの剣闘士と同じようですが、剣闘士に比べて、待遇は劣悪で、ただの殺し合いの材料になっています。戦争が続いている時代には、国が滅び、大量の難民が出ます。そうすると、奴隷商人が難民を捕まえ、奴隷にします。韓国朝鮮では奴隷もしくは奴婢と言うのは、公然とみとめられていたので、そういう商売が成り立つのです。後でも書きますが、日本では公然とした奴隷としての売り買いはみとめられていまsんでいたが、戦乱の時代には、国内でもあるいは国外にも大量に売られました。

 今でも、ときどき新聞にフィリピン女性が売られて、売春させられていて、それが保護されたなどの記事が目につきます。

このブログのもとは2009年10月6日に書かれたものですが、2012年3月にもまだかなり読んでいただいています。現在、BS日テレの平日16時から「王妃チャン・ノクス 宮廷の陰謀」という韓国歴史ドラマが放送されています。チャン・ノクスは朝鮮王朝で三大悪女(妖女)といわれています。

 このドラマでは、朝鮮王朝における賤民(奴婢、奴隷)のひどい状況が良くわかりますので、追加として書いてみます。

 まずチャン・ノクスは貴族階級である両班(ヤンパン)と、そこで働いている賤民の母親との間に生まれました。チャン・ノクスの父親が賤民である母親のいる部屋に来て犯し、チャン・ノクスが生まれます。賤民の女性は拒否できません。そしてチャン・ノクスはひそかにかくまわれて生まれますが、しっと深い両班の奥方により、母親は殺されてしまいます。賤民はあくまでも主人の持ち物であるので、殺しても法の裁きを受けません。チャン・ノクスの父親は弱くて何も言えません。そして、娘のチャン・ノクスは賤民の扱いを受けます。その後チャン・ノクスは結婚して子供もできますが、その家を離れ、娼生(キーセン)となり、朝鮮国王燕山君に見染められます。それ以後は燕山君とともに、暴虐な行いがあり、悪女といわれるようになりますが。賤民の厳しい立場が良くわかります。

 もう一つは同じ、「チャン・ノクス」で、燕山君の側近の宦官として権力をふるう、キム・ジャオンについてです。キム・ジャオンは貧しい家の息子で((賤民だと思います)、宮廷の宦官であるキム内侍に金で買われ、養子になります。宦官は男性機能をなくしてしまうから養子をとるしかないのです。キム・ジャオンは養子になるときに、男性機能を失います。宦官は子供を作れない代わりに権力や金銭を追い求め、政治の腐敗の元になりました。

奴隷とは、人間を人間として扱わず、物や家畜と同じように売買し所有するものです。奴隷制度とか人身売買なんていうものは、ずっと過去のもので、現在は全く関係ないとおっしゃる方は多いと思います。実際はどうでしょうか。

日本において

 日本においては、すでに邪馬台国以前から、奴隷(東洋では奴婢といい、奴はおとこ、婢はおんなです)の存在が記録されています。律令制の時代には、人口の五%が五色の賎といわれていました。平安時代には、人を略取(人さらい)して、人身売買するのが増加しました。有名な「安寿と厨子王」はこのころの話です。中世には、人身売買が、ひとつの産業として定着する有様でした。南北朝の内戦期には、倭寇が朝鮮や、中国で奴隷狩りをしました。日本の戦国時代には、戦闘により、相手の国の領民をとらえる、「人取り」が横行しました。「人取り」は最も割りの良い戦利品で、日本人は高く売れ、日本人奴隷は、ポルトガル商人により世界中に輸出されました。おそらく、ポルトガル商人にとっては、キリスト教信者でないものは、人間ではないと思っていたと思います。関白豊臣秀吉はその実態を知り、バテレン追放令を出した大きな理由となっています。

 江戸時代には、「人さらい」は死罪となり、奴隷身分は禁止されましたが、エタや非人と呼ばれる、被差別階級はのこりました。しかし、年貢を上納するための娘の身売りは認めました。いわゆる「人買い」が横行したのです。また、前借り金による青少年の年季奉公(奴隷労働)も継続しました。明治以降、日本人女性が、「からゆきさん」として東南アジアにたくさん売られていきました。また、資本主義時代には「蟹工船」に見られるような、新たな奴隷労働も生まれました。明治になって、ようやく、1870年に外国人への児童の売買を禁じ、1872年に芸娼妓解放令を出しましたが、不完全でした。

日本において、人身売買が全面的に禁止されたのは、戦後のことであり、「人身売買および、他人からの売春からの搾取の禁止」の条約は1949年にようやく発効しました。「人身売買罪」を新設したのは、2005年6月のことです。日本には、東南アジアや、南米から、売春のために売られてきた女性がたくさん存在しています。アメリカ国務省の「人身売買報告書」では、2005年に日本はようやく、「監視対象国」から、「基準に満たないが努力している」に変わったのです。しかし、日本は、「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」を批准していないため、国連が2000年に採択した同条約の、「人身取引に関する補足議定書」も公式に批准していません。

 世界中を見てみますと、ネパールの貧しい女性をだまして、インドなどの売春組織に売る大がかりな組織があります。また、北朝鮮の女性を、脱北を手助けすると称して、売り飛ばすということも行われています。さらには、臓器移植のための、人さらい、人身売買など、今でも大量に人身売買や、奴隷労働が行われています。

韓国、朝鮮では

 韓国には様々な奴婢階級が出てきます。韓国歴史ドラマでも、いろいろな奴婢が出てきます。高麗から1392年に始った、朝鮮王朝は奴婢階級が重要な役割を果たす、奴隷社会でした。李氏朝鮮では、人は、良民と賎民とに分けられました。良民は、特権階級の両班(ヤンパン)や中人、常民です。賎民奴婢と最下層の白丁(ペクチョン、賭殺などに従事)に分けられました。さらに、奴婢は国家が所有する、官奴婢と私奴婢がありました。親のどちらかが奴婢であれば、その子供も奴婢になることになっていました。奴婢には人権はなく、殺すのも、売るのも、解放するのも所有者の気分次第でした。大体奴婢は今の金銭で1万円くらいで売られたそうです。自由に結婚することもできず、いろいろな悲劇が生じ、よくそれがドラマに出てきます。

 韓国ドラマで、大変評判になった「チャングムの誓い」では、チャングムは医女になりますが、医女は官奴婢です。妓生(キーセン)は国家が管理する技芸と売春をおこなう官奴婢です。いろいろな階層がありました。「ファンジニ」というドラマでは、朝鮮で一番というファンジニという妓生が主人公でした。医女は後世、妓生とほとんど同じようになってしまいました。官奴婢には、税を徴収するものとか、国営の牧場で牛馬を飼育するものなどがありました。今度、「推奴(チュノ)」という、奴婢から逃亡した主人公とそれを追いとらえるもののドラマが来年1月から始まります。ドラマ「大王世宗」でも、不当な理由で奴婢となったものを調査して、領民に戻す役所のことが出てきます。また、ドラマでは、チャン、ヨンシルという、奴婢のため、その家のお嬢さんと恋仲になっても、思いが遂げられない、という話が出てきます。

 朝鮮では、ほかに巫堂(ムーダン、巫女)や僧侶も賎民扱いされていました。私奴婢は、農民で年貢が払えなくなって没落したものを、地主が奴婢にしたものが多いのです。朝鮮の大豪族は広大な土地を所有し多くの奴婢を働かせていました。「大王世宗」では三代国王の太宗を即位させた創業からの功臣で、総理大臣に当たる、ハ、リュンが広大な私有地と2000人(500人とも)の奴婢を所有していたとして罷免されています。朝鮮では、1801年にようやく官奴婢制度が廃止されましたが私奴婢はのこりました。

 そして、完全に廃止されたのは、なんと、1910年の韓国が日本に併合された年でした。韓国が、一時日本に後れをとったのは、日本にくらべ、奴隷制を含む身分制度が、社会の発展を阻害したと思われます。

2014年6月26日追記 

『人身売買・奴隷・拉致の日本史』

  渡邊大門 2014年4月10日発行 柏書房 2200円+税

    帯封の宣伝に書いてあるもの

 日本人が日本人を襲い、日本人が中国人・朝鮮人を襲う。そんな暗黒の時代が確実に存在したのである。

 3万7千人もの朝鮮人が島津氏領内に拉致された!?

  (強制的に奴隷として日本に拉致された朝鮮人は、主に九州各地に住んでいたが、島津氏の領内にはその数が3万7千人にも及んだという。彼らは陶磁器の製造を行った。

 日本人の人買い商人のうち、あるものは自ら朝鮮半島に渡海して奴隷を買いあさり、またある者は日本国内でポルトガル商人に転売して巨万の富を得た。

 彼ら奴隷は牛馬のように肉体労働に従事させられた。)

日本人奴隷は、ポルトガル商人によって東南アジア・インド‣ヨーロッパ売り飛ばされたが、悪いのはっ売ってくる日本人である!?

 奴隷になったほうが、生活が豊かになったこともある!?

各章の内容

第1章 奴隷・人身売買の黎明

第2章 室町・戦国時代の人身売買

第3章 世界を駆けめぐった日本人奴隷

第4章 文禄・慶長の役と拉致

詳しくは後で付け加えます。

 

2014年6月22日 (日)

チョイス 病気になった時 高血圧 まとめスペシャル 私も高血圧で脳内出血  

NHK Eテレ まとめスペシャル 高血圧 6月21日(土)午後8時から

 この番組は下記に放送された下記のチョイスを再編集し1本にまとめたものです。血圧が下がらないとき 2013年4月20日 アフターフォロー高血圧 2014年2月15日

1) 隠れ高血圧について

日本人の 1200万人が自分の高血圧を見逃している

 52歳三嶋さん男性の場合 普段最高血圧120くらいであった。ところが狭心症で心臓にメスを入れる事態に 健康診断をしていて、いつも平常であるとされていた。

 高血圧は24時間はからないとわからないということ。

 健康診断の時は血圧測定 122-102(下の値見間違いでは) 平常の値であるが

 他の時間帯に血圧が上がっていた。

 ◎ 番組の小山アナウンサー 24時間で血圧測定してみた

 普段測定すると最高血圧122ぐらい 正常とされていた

 生放送中 155-109 本番前 186 生放送中 156 という結果に

 高血圧の時間がかなりある 血管にダメージが

 桑島 厳氏 東京都健康長寿医療センター顧問の話 

 血圧はある1点のみを測定したのではだめ 診察の時は平常が多い

 隠れ高血圧は危険である 職場高血圧は32%ぐらいある

 早朝高血圧 起床後30分にはかるとよい この時間に血圧が高くなる人多い

 夜間高血圧 就寝中に血圧が上がるタイプ

 合体したタイプが危険 その両方が一緒に起きるタイプ

 早朝高血圧と夜間高血圧 高血圧になっている時間が長い

2、 そのほかに突然高血圧になるひと 400万人

 タイプ1 生活習慣の改善 2薬 3、その2つもダメながっかりなタイプ

宮崎さん42歳男性の場合1年で急に血圧があがる

 他の血圧を抑える薬などが効かない

成瀬光栄氏 独立行政法人国立病院機構京都医療センター部長の話

血液検査の結果 アルドステロン ホルモン Na 血圧上昇

ある異常 副腎についた腫瘍 副腎も取る 2つあるから大丈夫

とったらいっぺんに血圧さがる

血圧 本態性と二次性(ホルモン)ある 腫瘍が2つにできて居たら

アルドステロン拮抗薬を使う 普通良性が多い

高血圧により脳出血を起こしリハビリ中の私の場合

  2013年11月に旅行中に視床の脳出血を起こし2014年6月現在リハビリ中      42歳の時に高血圧と診断 以後ひと月に一度病院に行き薬を飲み続ける。普段はそんなに高くないが突発的に上昇することがある

 血圧上昇で眼底出血をおこした

 夜中に最高血圧200くらいになり夜間病院にいったことがある

 精神的なショックで急に血圧が上昇よくあった。

 退院後も精神的ショックで血圧上昇一度あり 

◎ 「隠れ高血圧1200万人 一日での変化を知らないとき危険 チョイス」 2013,9,15 ブログありますiti

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2013/09/12001nhke-8a9a.html

よろしかったら、お読みください。

◎ 右手が利かないために 左手で記録しました。抜けて居たり不十分なことが多いと思いますがご容赦ください。

2014年6月18日 (水)

コリアタウン存亡の危機 新宿新聞の記事から それに対する感想

タイトルは2014年6月15日付の新宿新聞のトップ記事です。以下新宿新聞の記事を引用させてもらいます。◎は私の感想です。

Kc4a03040001

 大久保・職安通りの韓流ブームの今 売り上げはピーク時の半分以下

 韓流百貨店は倒産、芸能人ひろば、韓流スペースは閉店。これらが記事のタイトルです。

 新大久保駅のすぐそばの2005年にお店を開始した韓流百貨店は4月30日に民事再生法の適用が決定した。12年1月期には約16億2千万の売り上げがあった。12年6月にはKマート跡地のビルを1棟がりした。しかし12年の竹島問題や反韓デモでお客さんが半減した。客単価もピーク時の2400円から半減した。職安通りのお店は今は別会社が行っている。今は新大久保の1店だけとなっている。負債は3億4200万円である。

◎ はじめの駅近くのお店1店だけなら売り上げが下がっても民事再生法の適用までには至らなかでったでしょう。あたらしく開店したKマート跡地の店はかなり遠方で、前の店も半年ばかりで、閉店したのです。

 大久保通を挟んで韓流百貨店の向かい側にあったのが韓流ショップ「korea芸能人ひろば」だ。1階はグッズ売場、2階はコスメ売り場として使用していたが今年2月に閉店した。「芸能人ひろば」はもともと、韓流百貨店とともに新大久保の韓流ショップの代名詞であった。12年4月にはダイバーシティ東京ぷらざに2号店を出すほどの勢いがあった。しかしその後の売り上げ減でお台場の店はわずか1年ほどで13年2月に閉店した。

◎ いずれも過剰な出店が財務体質が悪化しているわけで、出店をしないで前の店のままなら、売り上げが減ったら社員を減らすなりして経費節減で、乗り切れるわけです。そうすれば倒産なり、閉店までには至らなかったのでしょう。コリアンタウン存亡の危機といいますが、お客様第一で堅実にやっているお店は大丈夫なのであって、もう少しすれば落ち着きをとり戻すと思います。

駅遠いが仇に 韓流スペースが4月閉店

 大久保通りの新宿スカイプラザの1.2階に入居していたのが「韓流スペース」だ。こちらも4月27日に閉店した。駅からやイケメン通りから離れていると難しいということだ。

◎ これは事実で大久保通りからイケメン通りまでは、一時より人通りが減ったといえ、まだまだ人通りは多いのです。店によっての営業努力が左右するともいえます。イケメン通りまでの大久保通りの家賃はまだ5,6万円だそうです。うちはそんなにもらっていませんが、値引きしましたし。

 イケメン通りは一時新宿の竹下通りとまで言われ賑わいを見せた。イケメン通り(大久保通りから職安通りをつなぐ小道)は二年前までは月額賃料は坪6~7万までは上昇していたが、今は月3万なら借り手が付く(地元不動産会社)とその相場は半値以下に落ち込んだ。人どうりがピーク時の半分以下で、雨など降れば10分の一以下に落ちこんでいる。

 韓流グッズの抜けた後を日本の飲食店が埋めるケースも

 一方大久保通では「新大久保駅前では坪5~6万は維持出来ている」という。しかしそこから離れると賃料の下落は激しいようだ。韓流グッズの店の後に日本の飲食店が埋めるケースも。

◎ もともと新大久保は色々な国のお店があるのが特徴でした。今でも新大久保駅の周辺ではタイ、ベトナム料理、イスラム教のハラルフッドなど多国籍のお店があります。しかし駅近くのチュニジア料理店などがなくなり多様性が少なくなりました。典型的な例は百人町2丁目にあった、6か国料理の屋台村というお店です。それも韓国料理店になりました。まだやっているでしょうか、とても残念なことです。

 飲食からコスメと業態を変化 内田真由美さん焼き肉店開店

老舗の「韓国広場」がファストフード店の「カナダラ」をやめ,奥に移し、コスメ店を開いたということです。はたしてどうでしょうか。

AKB48のメンバー内田真由美さんがオーナーである焼き肉店「IWA]がオープンしました。場所は百人町2-18-3 これは少し場所が離れて居ますが。実家が焼き肉店を経営しているそうです。

◎コスメ店はなかなか経営が難しいようです。ウオン高、円安で売りにくくなったようです。私のビルも1階をコスメのお店に借りてもらっているのですが。二階はスターグッズ店オルチャンです。結構お店のファンがいるようです。

2014年8月 追記

 2004年に開店した焼き肉店「大使館」が2014年8月15日閉店しました。この店は渋谷にも店があり、新大久保の代表的なお店でした。経営者は売り上げは一時期より回復したがとても採算が取れないということです。この「大使館」は職安通りに面しています。いろいろな韓国の人々の会合も開かれ今の韓国朴大統領も以前来たたことがあるともいわれます。

 筆者自身も前は何度もいったことがありますが、ほかにいろいろお店ができてからあまりいっていませんでした。他の良い店に比べ特におすすめというほどではなかったのです。

 店主はヘイトスピーチが痛手だったといっているそうですが、確かにそれも影響しているのは事実です。しかしそれだけではなく、店の魅力という問題もあります。また日本の景気がよくなった、とか言われれているのと裏腹に、一般庶民は逆に所得が減り、それに加えて消費税が上がり、購買力が減っていること、さらに円安、ウオン高で韓国製品が割高になったことがあげられます。前は円高、ウオン安で韓国商品が安かったのです。ですから、前はずいぶんと売れました。しかし景気の良いのは一部富裕層だけで一般の人はお金をつかわないのです。だから食事も安いものか、ホットクなど店頭で売っているものをすましてしまう人が多いのです。所得格差が大きいということがいえます。ともかく人はたくさん歩いていても買わない、あるいは、買っても安いものが多いのです。日本人庶民の貧困化が大きな原因の一つと思います。

  筆者は3つのビルにおいて、韓国の人たちにお店を借りてもらっていますが、家賃の値下げ、テナントが埋まらない、やめるので変わるお店を探しているなどの現状があります。だいたいやめている店は無理に多くの借金をしてたくさんのお店を出しているところです。こういう店はまだたくさんあり、やめる店はまだまだ増えるでしょう。

 テレビを見ても前は色々な番組で大久保の街を紹介していました。又テレビドラマでも、私が好きな韓国歴史ドラマを前は次々にやっていました。今は新しい韓国歴史ドラマはせいぜい2つ、あとは再放送ばかりです。ひどいのは3回目、4回目と再放送をします。攻撃されたフジテレビは一つもやらなくなりました。

「大使館」やめた後、半分の規模になって「から上げの店?」かなにかの店になるそうです。今までの店の規模では売り上げを維持するのが難しいのでしょう。

追記 2

 8月29日の毎日新聞夕刊1面には、「消費支出7月5,9%減 増税の影響大」という記事が載せられています。1世帯当たりの消費支出の増減率は前年同月比5,9%減(物価変動を除いた実質)と、4か月連続で減少し、下げ幅は6月(3%減)よりも拡大した。消費支出の減少はこれ以前の2回の増税より長引いている。サラリーマンなどの勤労者世帯の実収入は6,2%減の55万5276円で、10か月連続の減少だった。

記事の「解説」にも「実収入の減少響く」とある

 7月の全国消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)は増税の影響もあり、3,3%以上上昇した。

賃金増加が消費増税以後の物価上昇に追いつかず、消費者の財布のひもが緩んでいない、現状を浮き彫りにしている。

◎無理に高い家賃で店を増やしている経営者がいます。今後さらに、持ちこたえられなくなる店が出てくるでしょう。しかし地道にお客様第一で、堅実にやっているお店は大丈夫ですが。

2014年6月14日 (土)

地球座ととら猫イーチ氏改め熊王信之氏 私のブログは質量ともに低下

とら猫イーチ氏は、いつも私のブログ「こういちの人間学」に心温まるコメントを書いていただき本当に謝しております。

さて、病気をしてから私のブログ(こういちの人間学)のレベルが低下してきています

 私のブログは書き始めてもうすぐ5年になりますが、今まではレベルが低いなりに幅広く人間全体を網羅しようとしてきました。ところが2013年11月初めに旅先で脳出血で倒れ今も療養中です。前は約1万冊の本を自由に引用しいろいろな資料も自由に書きだしました。ところが退院後ブログを再開しましたが、本は2000冊を転居先へもってきましたが、車いすでは本箱の上の3分の1は手が届かずどうしても必要なもの以外手つかずです。ブログも書くとき使えるのは左手だけ、少し遅くなるとカーソルがもとの行に行ってしまいます。普通書くときの倍以上かかります。おまけに右目は右側麻痺片麻痺のためか少し長くつかうと瞼が重く、痛く感じます。また左目も眼底出血による見にくさと緑内障のせいで、見にくく、よく目をつぶっています。ブログも一度書いて後で少しづつ付け加えたりしています。

 それでも、先月まで(2014年5月)までは今までに書いたふるいブログへのアクセスがあり、入院中で一つもブログを書けないときでも、一日平均1000件くらいのアクセスがありました。初めからカウントすると記事数が570件、累計アクセス数も84万件ほどになっております。しかし、入院してからのブログは大部分自分の病気に関する話が多く、当然アクセス数は伸びません。それで今は一日の平均アクセス数も750件ほどに減少してしまいました。

 今安倍内閣は高い支持率の元に、まさにやりたい放題の様相を呈しています。貧富の差は増大しているにもかかわらず、その貧しくなっている人も何かよくなることを期待しています。戦争に日本を巻き込む可能性の高い集団的自衛権の行使容認の問題、消費税値上げをしておいて、露骨に法人税を20%台にするとの発言など、アメリカと日本のなどの多国籍企業にとって有利な法案を次々に通そうとしています。そういう中でもっと鋭く切り込みたいところですが、自分の力のなさを痛感します。その私の力のなさを補う意味でぜひ読んでいただきたいサイトがあります。いろいろな方が投稿されています。

地球座という名前のサイトがあります

 その中でとら猫イーチという名前で投稿され、今年の5月24日から熊王信之という名前で投稿されています。以前にも地球座というお名前は聞いてたまにひらいてみましたが、私が病気のためにいろいろとか書けなくなってしまった現在、また安倍内閣が高い支持率を背景に、日本を非常に危険な事態に追い込む可能性が極めて高くなっている状況のなかで、一人でも多くの方が読んでいただければと思うサイトがあります。

2014年の 1月1日に書かれた「地球座とは」という説明書の概略には

 年々深刻化する地球環境破壊や、グローバル金融資本の支配と情報技術化に伴う貧富の極端な拡大、人間精神そのものの解体現象などその典型といえるでしょう。9,11以降の世界の現実も、歴史の逆行、文明そのものの再野蛮化の様相を呈しています。日本の支配層は、こうした現実に追随しアメリカとの運命共同体化を推進しております。~そして3,11の事故をめぐり正しい情報が伝えられず住民無視の施策、無策が横行しております。~その中で現代の世界と日本の直面している問題の本質にせまる情報と言説をできるだけ多くの人が共有することが何より大切かと考えます。様々な資料を提供することにより読者の参考に供し、時に討論を挑発する役割を果たしたいと考えております。

      「地球座」運営委員会

このサイトは8年前に始まったようです。その内容は「 Home,時代を見る、スタディルーム、評論・紹介・意見カルチャー 催し物案内 お知らせ 問い合わせ 交流の広場」などです。

ここにいつもコメントを書いていただいているとら猫イーチさんの文章があります。たとえば。

◎「ブラウン管の中のスパイたち」 最新

 とら猫イーチ改め熊王信之 2014年5月24日 カルチャー

スパイ映画に関してです

5月16日「西部劇の思い出」 ぜひ直接ご覧ください

 そして、[とら猫イーチ]

を検索すると今までに書かれた文章が一覧で

いつでも読めるようになっています。今度名前が変わりますから

熊王信之で検索するようです。よろしかったらぜひご覧になってください。

2014年6月13日 (金)

現状について  リハビリ進む、つえで歩けるようになるか 

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 ベッドの足のほうのホワイトボードに1か月の予定表が書きこんでであります。土曜日はようやく余裕ができて家内が絵の教室に行くようになりその予定が書いてあります。あとはリハビリなどびっしり予定が埋まっています。

1リハビリ進む 歩けるようになるか

   -16日今度来たつえで歩いてみました

 2013年11月6日に脳内出血で入院してから、2014年の2月25日まで入院していました。それから、足が動かないために自宅へ戻れず、エレベーター付きのマンションを借り現在にいたります。入院して約4か月、2014年6月退院してからもだいたい同じ日時が経過しました。

 だいたいリハビリなどで急速に回復するのは、最初の3か月であるといわれています。たしかにそのとおりでした。それから、病状の固定化が5~6か月といわれています。それで3か月で退院し、障碍者の確定もだいたい5,6か月ということになっています。又区役所からのお知らせが来て身体障碍者の二級の障碍者手帳ももらいに行くようになっています。

 はじめ滋賀県の大津赤十字病院に入院し、その後代々木病院の5階に移ったのが11月21日、それから4階のリハビリ病棟に移ったのが12月2日でした。リハビリは入院中は土日も含め一日3回づつやっていました。退院は2月25日その前日までリハビリが続きました。リハビリは3か月弱です。そのかいあって視床出血により、右半身全くの麻痺ですべての感覚が失われていましたが、次第に回復してきました。よく快復したと思います。理学療法士さんの援助で平行棒を右足に補助具を付けて二回ほど往復できるようになりました、しかし金属の入ったがっしりした補助具でしめつけ、足首も金属製の補助具が必要でした。そのようにがっちり固めがないと麻痺のある右足は内側に折れ曲がってしまい歩くどころではありません。

  新しく借りたマンションでは自宅に来てくれる理学療法士さんによるリハビリは3か月以上になります。リハビリは介護保険による1割のもの2回と自費1回分のリハビリをお願いしました。1人の理学療法士の方が月曜日とと金曜日。もう一人の方が水曜日です。時間は病院と同じ1時間です。もうすでにリハビリしてもらっている期間は病院にいるときよりも長くなっています。はじめ回数が減った分変化が少ないように思われました。ベッドでの足の筋肉を付ける運動、そしてベッドから立ち上がる練習などをくりかえしました。前にいったように理学療法士さんは2人ですが、しかしやり方が少し違います。6月からは作業療法士さんのリハビリがないと、手の進歩が見られなくなったので作業療法士の方にも来てもらうことにしました。リハビリノートを付けるなど、言語・聴覚士さんの分野もやってもらいます。

 はじめはリハビリが減ってそのことによるのかどうか、左の腰がしびれてくるのです。ところが筋肉が付いて来るとしびれが少なくなってきます。それは病院でもそうでした。このしびれがリハビリが進まない大きな原因になっていました。

 さて一人の理学療法士さんは立ち上がってから麻痺のある右足を前にだしたり、横に動かしたりして右足の筋肉の力をつけること、また足踏みをすることなどを繰り返し行いました。病気のせいで健常であるるはず左足もしびれがあり、完全ではありません。又もう一人の人は前にいすを置き左手でベッドについている握りのところにつかまらないで立ち上がる練習をしました。そして車いすで同じ部屋に置いてあるテーブルに片手でつかまり歩く練習をしました。これらの訓練によって自宅の普通のトイレを使えるようになりましたが。足をより動かすことができるようになり、それが可能になりました。病院ではすでに見守りなしでトイレは一人でいっていたのです。病院のトイレは広々としているのです。マンションに移ってから現状ではトイレは狭すぎて使用は無理ということになりました。自宅のトイレは狭く、ドアをより外しました。そして手すりもつけました。そしてはじめ又安全に使えるかどうかも理学療法士さん2人に見てもらいました。今では昼間はすべて普通のトイレを使うことがおおくなりました。しかし今でも夜は尿瓶を使っています。

途中でポータブルトイレをやめて、普通のトイレを使うようになりました。トイレのドアを取り外して車いすを、よりトイレに入れられるように変え、トイレの中に手すりを付けてもらいました。買い取ったポータブルトイレは無駄になってしまいました。ポータブルトイレはつかまる棒が立て一本だけで不安定でした。トイレの場所を変えて家内の手間がすこし減るようになりました。

4本足のつえを注文しました

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これが、注文した4本足のつえです。

 入院中は次々にリハビリがすすみ、歩けるようになった人がうらやましく感じました。入院中はとても歩けるどころの状況では無かったのです。今度4本脚付きのつえを注文しました。最初は4本足の安定のいいものを、それからうまくいけば、あしのない杖になれればいいなと思っています。退院してから4か月くらいたって、ようやくこの段階になりました。うまくいけば大きな進歩です。

病院入院中は両手で4本足のリハビリの道具を使って歩いている人がたくさんいました。しかしながら私は右腕の力が弱くそれを使えないのです。

2014年6月10日 (火)

桂宮さまご逝去と歴代の女性の天皇 追記

 2014年6月8日桂宮宣仁さまが逝去されました。御年66歳です

桂宮宣仁さまは三笠宮崇仁さまの第3子です。三笠宮さまは1923年2月11日生まれで現在98歳まだご健在です。しかしこれで3人の男の息子さんは先に亡くなられたことになります。すでに亡くなられたのは髭の宮様として有名な三笠宮寛仁さまと弟の高円宮憲任さまです。高円宮さまの家では先日次女の典子さまが出雲大社の千家国麿さんと婚約を発表したばかりです。

 桂宮さまは40歳をきに1988年に親王家をつくられてわずか4か月で急性硬膜下血腫でたおれられました。長い間意識不明でしたが回復しました。その後何年もリハビリを重ねて公務に復帰されました。しかし後遺症がのこり、テレビや新聞の画像でみましたが、右側の麻痺による車いす生活で、腕が脳関係の病気に特徴的な硬直と眼瞼下垂がおきていました。今私も脳内出血で車いす生活をしているので関心があり、ブログを書くことにしました。

 この硬膜下血腫は外傷によるものが多く、私の父も家の中で転倒しはじめ意識がありましたが、。救急車で病院に運んだ時にはもう手遅れでした。動脈瘤があり血液をサラサラにしなければならず、そのための薬を飲んでいて、血が止まりにくかったようです。年齢は92歳でした。その時特に異常はありませんでしたから事故がなければもっと長生きできたでしょう。

母親ももう95歳になりますが、だいぶ前に脳出血で施設に入り現在,胃瘻で命を長らえている状態です。すでにほとんど何もわからなくなっています。

女性の天皇も認めるべきである

 天皇家に関して日本の皇室典範では男系の皇族が継げるとなっています。桂宮様がなくなったことで現在皇位継承順位になっている方は98歳の三笠宮を含め5名だけになってしまいました。現在では皇太子殿下のところの敬宮愛子様には、天皇になる資格がなく、秋篠宮文仁様の子供の悠仁さまが継承順位3番目となっています。その前には女性にも天皇になれるように変えようという動きもありましたが消えて仕舞いました。日本でも女性の天皇がたくさんいたのですが、旧態依然として男系の男性が継ぐことになっています。

 ヨーロッパには昔から女性も王になる権利を持ち、イギリスでは今もエリザベス女王であり、初代エリザベス女王、ビクトリア女王に見るように女王の時のほうが繁栄するといわれるくらいです。

 ちなみに女性で天皇になったのは8人10代で、以下の通りです。

第33代推古天皇 592即位 飛鳥時代

第35代皇極天皇 第37代斉明天皇 重祚

第41代 持統天皇 飛鳥時代

第43代元明天皇 飛鳥~ 奈良時代

第44代元正天皇 奈良時代

第46代孝謙天皇 第48代称徳天皇 重祚

             749即位 奈良時代

第109代明正天皇 1629即位 江戸時代

第117代後桜町天皇1762即位 江戸時代

江戸時代まで天皇が男性でなければならないということはなかったのです。

もうそろそろ考え直したほうがいいのではと思います。

追記

 6月24日の毎日新聞夕刊に皇學館大元学長の田中 卓氏が 、「愛子さまを皇太子に」、そして女性の皇族を認めるべきだといっている。

 安倍内閣ではそのままになっているが、皇室典範を変えるべきだという。天照大神も卑弥呼も女性だった。近世では江戸時代初期の後光明天皇から大正天皇まで14代にわたって側室からうまれた。側室制度がない今男性・男系にこだわるのは無理がある。愛子様にはご自身がいらっしゃるのに悠仁様が「跡継ぎ」といわれることについてどのような気持ちでご覧なるでしょうか。また悠仁さまに嫁がれる方のプレッシャーはいかほどのものか。一般国民には想像しがたいストレスがあるにちがいない。そして女性の宮家を認め、愛子様を皇太子にすべきであるといっている。

 

2014年6月 5日 (木)

小説『人相食む』における故事一覧 『後漢書』はおもしろい(その1)

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追記:2014年6月6日、その1とその2とともに載せなおしました。1と2は分ける必要がありませんでした。

このブログははじめ2011年に書かれたものです。

右から中華書局版全12巻(中国)。あとから出版された 真中が岩波版 左が汲古書院版です。ほぼ同時に日本で全訳がだされました。汲古書院版は現代語訳がついています。

私が、書いている小説『人相食む』では、正史『後漢書』と王充の『論衡』の資料などをもとに書いています。『後漢書』は後漢の班固の書いた『漢書』に比べて劣っているとみられていました。『後漢書』は様々な人が書いています。その中で最も有名なのが宋の范曄(ハンヨウ)の書いたものです。『後漢書』は『漢書』に比べ、和訳されたのが大変遅く、2001年に岩波版と汲古書院版が相次いで出されました。それまでは、私は中華書局版を買って自分で訳しました。ただ部分的には、「光武帝紀」とか「第五倫伝」などの訳はありました。

 『後漢書』は大変面白い内容で、日本の知識人で読んでいる人は昔から多かったのですが、和訳がなかったためでしょうか、今までの日本ではその時代の小説はあまりありませんでした。『三国志』関連の小説に比べて極めて少なかったのです。宮城谷氏の『草原の風』(主人公は光武帝、読売新聞連載中)などこれからだんだんできてくるかもしれません。(現在、上中下で発売されています)

 『後漢書』には今私たちがよく使う、故事やことわざがたくさん入っているのです。私の小説では、それを王充の『論衡』の話とともに取り入れました。

 以後、その内容について書いていきます。

「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」                                        班超は、思い切って敵陣に潜入して勝利した。その案が危険だといったものに対していった言葉。班超は班固の弟です。

「井の中の蛙、大海を知らず」「井底(せいてい)の蛙」                    すでに昔から言われていた) 班超が「臘西(ろうせい)」の支配者は井の中の蛙で、世の中のことが全く分かっていないといった

「百聞は一見にしかず」                                               漢書に書かれた言葉だが、班超が西域攻略のときに発した言葉

「敵はわが眼前(中)にあり」                                        馬援は敵の陣地や人のありようを、米粒を積んで光武帝に見せた。それを感嘆して光武帝が発した言葉

「臘(ろう)(西)を得て、蜀をのぞむ」                                  光武帝と馬援のはなし、臘西を占領すると今度は次に地つづきの蜀が征服したくなるという話 

「かくしゃくたるかなこの翁は」                                               年老いているから、もう戦争に行くのは無理ではないかという光武帝の言葉に、馬援は颯爽として馬を乗りこなして見せた。それを見て光武帝がたたえた言葉

「薏苡(よくいーハト麦のこと)のそしり」                                    馬援が南方征伐に勝利してかえって来た時に健康のために、ハト麦を車いっぱい積んできました。それを金銀財宝を私物化していると、ありもしないことを、讒言したたとえです

「中庸、まことは天の道なり、これを誠にするは人の道なり」                     光武帝の政治の基本理念です。バランスのとれた誠実な政治を光武帝はめざしました。

「柔よく剛を制し、柔なりといえどもかならず強し」                                        老子の言葉からとってきた言葉ですが、私(光武帝)の政治は、強引な政治を行わず、優しい、柔和なものにします。しかしそのような政治のほうが力を発揮するものです。

「元元(げんげん)Iをもって首となす」                                                光武帝の基本的な政治理念。民衆こそが最も大切である。この考え方を明帝以後の皇帝に徹底させ、かつてない善政が行われました。

「天地の性、人を尊しとなす」                                                     光武帝の詔勅に現れた言葉。この世の中で人ほど大切なものはない。人間を大切にする政治を行わなければならない。奴隷解放の詔勅に用いられた。 

 その2 に続きます

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2014/06/post-dbf4html                         

第五倫 小説『人相食む』の主人公 2014年6月5日追加版 2011追加版

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 このブログははじめ2011年に書かれたものでしたが、小説『人、相食む』を完成させなんかしらのかたちで人々に読んでいただこうと、ほかにも書いたブログとともに2014年6月5日に移し替えたものです。これに後日新たに書きくわえます。

ようやく『第五倫」の画像を入れることができました 上の画像はまだ若いころの像です。 下の画像は三公になって以後の像と思われます。小説の主人公なので、なんとか画像を手に入れたいと思い、中国で探したこともあります。

この画像は『国華』国華社発行の1028と1029号に画かれていたものです。1979年11月、12月号

『賢聖障子の研究』川本重雄氏ら によるものです。仁和寺にある像を基にしています。中国では名臣の肖像画を宮廷のもっとも重要な部屋に必ず飾ることにとになっており、日本でも紫宸殿に肖像画が描かれてきました。

そのほかには、白髪のかなりの老人になった画像もありましたが像が小さく写せませんでした。

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これは小説を保存した、CDです。簡単に複製できます。

王伯人とはこの小説を書くにあたってのペンネームです。リッチテキスト方式で364ページです。

筆者は、『人、相食む』という小説を10年がかりで書いています。(2014年には14年です)がかりその小説の主人公は、後漢初期の、優れた政治家であった、「第五倫」です。第五という姓は大変珍しいものですが、前漢初期に、戦国時代の斉の国の国王である田氏の一族を、長安の都に転居させたとき、5番目に来た田氏ということで第五氏となづけられました。第五倫については、『後漢書』の中の「第五倫伝」に書かれています。

 さて主人公の第五倫は西暦1年ころに生まれました。そのころは前漢を滅ぼした王莽の新の国が戦乱で乱れ、赤眉の賊などが荒らしまわっていました。第五倫は早くに父をなくしてしまいましたが、まだ20歳くらいで、一族のものを守って、砦を築き、赤眉の賊などの襲撃を撃退してきました。大変な弓の名人だったそうです。そして、当時は人が人を食べるような、悲惨な状況の中で、一族と食べ物を分け合い、生き抜いてきました。なにしろ、西暦2年の前漢末の人口が5959万人、それが西暦25年に光武帝が即位したとき1400万人に減少したのです。わずか20年の間に、4分の1以下4600万人も減少したのです。それには、食べるものがなくなり、人が人を食べたこと(人相食む)も大きく影響しました。中国の正史は、いつどこで「人相食む」があったかを記録し続けます。

 長安の役人である「鮮うほう」に認められ、長安の小役人になります。能力はあるのですが、あまりに清廉潔白であるために、上司に煙たがられ出世しません。その後、郷(村)の役人その後再び役人として、長安の市場の役人となり、大きな実績を上げますが、やはり上司の間違いを正したりして、煙たがられ、認められず、不遇でした。西暦51年、46歳になったときようやく孝廉にあげられました。同じ役人でも高級官僚になれる長吏となれない小吏とは大きな差がありました。2000年前の当時では46歳では普通、もう死んでしまう年齢です。

光武帝、二代の明帝、そして三代目の章帝の政治は、建武、永平の治とよばれ後代に模範とされる善政の時代でした。建武の名は、日本でも「建武の中興」として使われました。光武帝は「元元(げんげん)をもって首とす」(民衆こそが最も大切である)としてさまざまな政策を打ち出します。思い切った無駄な役所の削減、周りの国と友好関係を結び国内の内乱もなくなったため常備軍を廃止しました。それらにより大幅な経費節減が実現しました。そしてその結果大幅な減税を行いました。軽い税は庶民の懐を富ませ、購買力が高まります。さらにさまざまな産業の推進、奴隷解放、清廉な役人の採用などの政治をおこないます。その結果、建武2年(西暦26年)の「関中餓え、人相食む」というのを最後として、人が人を食べるということがなくなりました。中国の歴史が始まって以来清朝末まで10数年に一回あった「人相食む」がその後80年間なかったのです。これは不景気で苦しむ今の日本でもお手本になることではないでしょうか。

 孝簾にあげられてから、2年後第五倫は光武帝と直接会い意気投合し、二日間語りとおしたと言われます。そして、県令として任地に行く途中に、大きな郡である会稽郡の太守になるように、追いかけての指示を光武帝が出しました。いかに高く評価していたかがわかります。会稽郡の都である山陰(紹興)では、若い鄭弘や謝夷吾を抜擢します。鄭弘は後で三公の一人太尉になり、謝夷吾も大活躍し、やはり三公の司徒に推薦されます。第五倫は任地の会稽郡の中で、民の暮らしをよくし、人々にあがめられ、連座して都に呼びだされたときには、数千人の民衆が無実を訴え長安に押しかけました。直接皇帝が調べ無罪となりましたが、その後しばらく田舎暮らしをしていました。

 68年,63才になって、又召し出され大きなぐんである蜀郡の太守になりました。そこで再び大きな実績を上げます。また多くの素晴らしい人材を見つけ出しました。よく人を見ることができるということで「知人」と称賛されていました。さらに、75年に三代皇帝、章帝に招かれ、いきなり三公の一人、司空(財務建設関係担当)となります。当時70歳です。現代のわれわれでももうとっくに定年になっている年です。その後11年間、81歳になるまで、ほかの三公が次々と交代するなかで、ひとり司空を続けます。いかに多くの信頼を受けたかがわかります。飢饉の際には手際よく、救助の手はずをし、80年間「人相食む」ということがない、素晴らしい時代を支えてきました。哲学者の王充は大いにその実績をほめたたえました。ちなみに、人口は、75年章帝即位のときには3412万人、和帝即位の年には、4336万人と人口は急速に回復して行きました。105年和帝が死んだときには、5326万人と前漢の人口のピーク時に近付きました。しかし、世のみだれとともに、人口は再び減少していきました。

 第五倫は、あなたは私心というものがないのですねと言われて、とんでもない、昔兄の子が病気の時には、何度も見舞いに行きましたが、そのあとはぐっすり眠ったのです。しかし自分の子が病気の時には、心配で夜も寝られませんでしたと。 また、自分を推薦してくれたら、素晴らしい馬を差し上げるといわれて、その話には、乗りませんでしたが、いい馬でほしかったなー、とあとで夢の中で見るようでした。そんなことでは私心がないとはとても言えませんと、言ったといわれています。

 ところが章帝の妃の兄、竇憲(とうけん)の陰謀により、太尉の鄭弘が失脚します。そのことにより、謝夷吾の司徒も実現せず、謝夷吾の王充の推薦も実現しなくなり、一気に外戚の横暴が始まります。第五倫は職をはなれました。その後章帝もおそらく暗殺されたと私は思います。その子の和帝が幼くして即位します。しかし実権は外戚がにぎり悪政のかぎりをつくしました。しかし和帝が大きくなったときには、竇(とう)憲の一族を壊滅し、皇帝親政を行いました。ところが105年に和帝が死去した後、わずか生後100日の乳児を皇帝に立てました、そして、外戚や宦官はふたたび私腹を肥やす政治を始め、106年には、48年間なかった、農民の反乱が始まり、107年には羌賊が反乱をおこし10年も続き、財政が破たんしました。108年には、ついに、「河間飢饉、人相食む」と正史に記載されました。以後疫病の発生イナゴの害、日照り洪水が起きて人々は苦しみました。しかし清廉なる役人はまだのこり外戚や宦官と戦いました。それで、184年の黄布の乱が始まり、「三国志」の世界に入ります。そして220年に魏の文帝が即位し漢はほろびました。

小説「人相食む」はこのように、第五倫を中心とし、光武帝からはじまる4人の皇帝、謝夷吾、鄭弘、王充などの人たちが活躍する、後漢初期の100数10年を描いた小説です。ですから文章の量も多くなり登場人物も大変多くなってしまいました。まだまだ不十分なところがありますが、内容を高め、世に出してみたいと思っています。

 日本でも、今人口が減り続けています。人口がこれほど減少しているということは、自公政権の悪政によって引き起こされたものです。民主党連合政権が「子供手当」などをつけ、人々の暮らしを良くすれば人口は増えてきます。ヨーロッパの国の中では、政策の変化で人口が増加に転じています。

 追記  第五倫の肖像画をずっと探していました。昨年京都国立博物館での皇室の宝展で、「賢聖の障子」(けんぞうのそうじ)をみることができました。その像によれば、おそらく年は80歳くらいで、かなりの高齢ではあるが、眼はケイケイと輝き厳しい顔立ちをしていました。ほかにも筆者が変わると、まだ若い穏やかな顔立ちの50歳くらいと思われるものがあります。またうんと高齢者で白髪、白いひげのかなりの老人に描かれたものなど、その肖像画はいろいろ異なって描かれています。

『後漢書』と私の『人相食む』に出てくる故事について 第五倫などについても(その2)

 このブログは2011年12月24日にはじめ書かれたものです。2014年6月5日また最近号として提示しなおしました

『後漢書』に出てくる故事には、ほとんどの人が知っているものと、おそらくほとんどの人が知らないものがあります。後半では、初めて見る故事もあると思います。

「物色す」

 光武帝はお互いに貧しい時代の親友であった厳光をさがすために、似顔絵を描いて全国にさがさせました。現在でもいろいろ探すことを物色するといいます。

「山高水長」

 よく習字の題材になる言葉です。光武帝はようやく見つけた親友の厳光がその知識や得が優れていることに感心し、高い冠位につくことをすすめました。しかし、厳光は気楽な生活が良いと断りました。ただ友人として気楽にあえれば良いと。宋の時代の詩人である范仲淹は「先生の風、山高く水清し」と其の高潔にして優れた人格をたたえました。

「糟糠(そうこう)の妻」

 光武帝が皇女からぜひ宋江と結婚したいと頼まれました。皇女を妻にしないかと、光武帝は宋江に聞いたとき、宋江は「糟糠の妻(古くから苦楽を共にしてきた妻)とは離縁できませんと、断りました。

「雲母屏風の故事」

 大尉(三公の一人で、軍事の責任者)の鄭弘は自分を昔抜擢してくれた第五倫(三公の一人司空)に何かと遠慮をしているのを見て光武帝は二人の間に雲母の屏風をおいて朝議に臨んだというところから来た故事です

「棟甍」(とうりょう)

 謝夷吾を司徒(三公のひとり宰相)に推薦したことばに書かれた言葉。ここから大工の棟梁(統領)という言葉ができました

「鄭公風」(てっこうふう)

 鄭弘は、仙人がなくした特別な鶴の矢羽を拾い、仙人に届けました。仙人は感謝し、何か一つ望みをかなえてあげるといいました。鄭弘は自分の個人的な望みを言わず、ひどく暑かったり寒かったりして民の悩みの種であった風を直してもらいました。人々は鄭弘の徳をたたえ「鄭公風」となずけました。

「南宮において著し」

 鄭弘は三公の一人として次々に立派な業績をのこしました。その功績は南宮(皇居)の中でも、とくに著しいとして称賛されました。鄭弘は今ではあまり人に知られていませんが、平安時代などでは歌に歌われるなど極めて有名な存在でした。

「苛政(かせい)は寅(虎)よりも猛し」(礼記)より

 虎にわが子を食われたにもかかわらず、その地にとどまって住み続けている老婆に、なぜ、この地にとどまっているかと聞くと、「隣の県は税金が高く、とても暮らすことはできません今住んでいるところは税が軽く住みやすいのです」と答えました。ひどい政治は虎の害より恐ろしいということです。

「向かえ酒の故事」

 第五倫の奏上文です。現在の世の中ではわいろを贈った人間が失脚しても、違う人にわいろを贈れば良いという風潮があると、当時の政治の風潮を批判しました。

「遇適自然」

 王充は『論衡』において、自然は神の意志などではなく、たまたま、偶然に自然に動いているものであると主張しました。

 ここですべてを上げたわけではありません。後漢書は現在よりも日本の知識人によく読まれていていろいろな所に出てきます。2001年に和訳が出たのでもう少しいろいろと広がるかも知れません。

追記 第五倫と山陰(紹興)グループ

『人相食む』の主人公は第五倫です。第五倫は斉の国の王族の末裔です。五番目に長安の都に来たので、第五氏という珍しい名字になりました。小役人になるがまじめ過ぎて出世せず、西暦51年46歳で、ようやく孝廉にあげられる。光武帝に認められ、会稽郡の太守となる。そこで第五倫はいままで不遇であった、力がありながら紹興で小役人であった鄭弘と、謝夷吾を見出し抜擢しました。75年章帝は第五倫を抜擢し司空としました(三公、副宰相)その時すでに70歳という高齢です。さらに第五倫は多くのすぐれた人材を推薦し「知人」と言われた。鄭弘を太尉(三公)に推薦、自分の後任に郡太守の謝夷吾を司徒(三公 宰相)に推薦しました。そして謝夷吾は友人の紹興の上虞出身の王充を推薦するのです。

このころはすばらしい人材に恵まれ、まれにみるすばらしい善政が行われた時代でした。ところが、鄭弘が外戚の竇憲(とうけん)におとしめられ、第五倫の紹興グループは一気に失脚しました。

 抜群の知識と能力を持ちながら下級役人に甘んじていた王充は、謝夷吾が、私よりもはるかに優れた人物がいると皇帝に推薦し、皇帝から公車をもって迎えられることになっていましたが、鄭弘の獄死、第五倫の退職、謝夷吾の左遷などにより会稽郡グループは一気に失脚し、王充の登用も実現しませんでした。王充は大いに失望しましたが、以後王充は自宅に閉じこもって『論衡』の著述に専念します。

 第五倫の肖像画は、平安時代の初期から江戸時代末期にずっと京都の皇居の紫宸殿にずっと描くき続けられた中国の名臣32人の肖像画(賢聖の障子 けんぞうのそうじと呼ばれました)の中に、第五倫の肖像画があります。第五倫もいろいろな年代の肖像画が書かれました。昔は第五倫ではなく「ていごりん」と呼ばれていました。これについては改めてくわしくかいてみます。

2011年12月24日追加版

 宮城谷昌光氏の小説、『草原の風』の下巻(1600円税別、中央公論新社)が2011年12月10日に出版され、上中下巻が完結しました。後漢の光武帝が皇帝になるまでの物語です。その下巻に、光武帝が話した言葉が故事になっているということで、載せられていました。124ページです。

「疾風にして勁(けい)草を知る」

 王覇の嘆きをきいた劉秀は、

 「潁川軍から私に従った者もみな去ってしまった。一人とどまったのは、何時だけだ。努力するがよい。疾風が吹いて、初めてどの草が勁(つよ)いかがわかる」

 困難に遭って初めて人の価値がわかる、といいかえることがわかる。正し、劉秀の言葉には詩趣があり、それを平明な言葉に置き換えると、詩趣が消えてしまう。

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光武帝の小説『草原の風』と『人、相食む』(第五倫伝)私の小説 後漢時代初期の面白さ

『人、相食む』後漢初期の人間学について

 このブログは2011年12月24日付で書かれたものでした。今劉邦が 注目されています。それで私の書いた小説もそこのままほおっておけなくなりました。(2014年6月5日)

 小説の題を「第五倫伝」後漢初期の人間学、に改めて、少しづつブログにて紹介します。2016年8月

 最近相次いで劉邦について、が脚光を浴びています。一つは毎日新聞の朝の連載小説が宮城谷昌光氏の『劉邦』で、2014年6月5日現在連載312回目で、秦の圧制に対して蜂起した項梁の指揮のもと、劉邦や項羽が秦軍と戦うところです。BS朝日でつい3日前から、李朝朝鮮の創始者を描いた韓国歴史ドラマ『大風水』にかわり午後三時から中国の歴史ドラマ「項羽と劉邦」が始まりました。

 これに刺激をうけて、だいぶ前に書いてそのままになっている私の小説「人、相食む」も何とかしなければいけないと感じた次第です。とりあえず、ずっと前に書いたブログをまた最近のものに復活させました。

追記:2016年8月7日

 小説『人相食む』を、題名を『第五倫伝』-後漢初期の人間、に変え、1章と2章とを入れ替えるなどを行い、このブログに書いてみました。1章だけは転記完了しました。まだまだ不備がたくさんあります。これからはとびとびに、ブログに載せていくことにしました。

 『草原の風』について

宮城谷昌光氏の小説『草原の風』全三巻(中央公論新社)の下巻が2011年12月10日出版され、完結しました。この小説は『読売新聞』の連載小説として2010年2月から、2011年8月まで書かれたものです。私は、読売新聞をとっていなかったので、連載しているのは知っていましたがその内容は読んでいませんでした。宮城谷氏の中国の歴史小説は、大変面白く、出るとすぐに書店に買いに行き、数巻のものでも、たちまち読んでしまいます。本は初期の本も文庫本ももっているほどのファンです。

 平成8年3月の第32回実用的人間学例会において私が「宮城谷昌光における人間学」についてお話しをし、さらに平成10年11月にも「実用的人間学第61回例会」で、「宮城谷昌光における人間学ーその2」と題してお話ししました。24ページに及ぶ資料で、後漢初期の時代背景、そして宮城谷氏の小説の中から、感動的な話し、有益な話を書きだして説明しました。

 宮城谷氏は中国の歴史書を克明にメモをし、ノートに書きつけて、その膨大な資料から小説を書いています。その知識にはいつも感嘆させられます。宮城谷氏の文章は、日本では使わない、極めて難しい言葉や漢字がよく書かれています。逆に普通漢字にするところをひらがなにすることが多いのです。

 慍然(うんぜん)として=(むっとしてというところ)とか、倶(とも)に=(共に)とか、人を恤(あわれ)む=憐れむとかいった具合で、振り仮名がたくさんついています。しかし、「おどろきをかくさず」とか、「はいった」とかは仮名のままです。

 また、「-ついに、きたか。」とか、「ーあの人だけになってしまった。」とか印象的な短文んを多用します。また、会話も短く歯切れが良いので、文章を読んでいても、はずんでいく感じがします。わたしにはとてもかけない文体です。私はどうも、くどくどといろいろ長く書いてしまいすぎます。

 『草原の風』は光武帝が親を亡くし、叔父に預けられ、肩身の狭い思いをしたことから都で、苦労して勉強したこと、兄が王莽に反旗をひるがえした時、それに参加したことから始まります。光武帝は自分に背いたものも度量をもって許し、その能力を見極め、どんどん有能な部下にしていきます。前漢の劉邦と違い、部下に背かれることも無かったし、天下を取った後、部下を殺すこともありませんでした。人間的に劉邦に比べて極めて優れていたと言えましょう。そして皇帝に即位してから、10数年たって、生まれ故郷に、錦をかざる、あたりで終わります。

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(光武帝の肖像画です。眉目秀麗といわれました)

 光武帝が本当に偉いのは、自分だけではなく、自分の跡継ぎの皇帝になるものに対して、「元元をもって首とする」(民衆がもっとも大切であると)ということを徹底させました。そのため、わたしの小説『人相食む』に書いたように、自分自身が善政を行っただけでなくその後4代の皇帝が善政を行い、あとで「建武・永平の治」として後代から模範となる時代を築いたからでした。前に書いたように前漢初代皇帝、劉邦は多くの功臣を謀反の疑いをかけ殺してしまいました。しかし後漢の劉秀はそういうところは全くありません。やさしさと人間味にあふれています。

 そして、いままで、中国の正史で、平均して17年に一度という、ずっと書かれてきた、「人 相食む」ということが中国の歴史上で82年間と最も長い間なかった時代を作りあげたのです。その時代を実現した、各代の皇帝とそれを支えた、第五倫鄭弘謝夷吾などの名臣や理論的な支えを作った王充などの活躍した、その時代に私の小説は主題をおいて書きました。王莽の戦乱で極端に減少した人口が、4代の皇帝の善政で人口が前漢最高レベルに戻りました。

 後漢時代の初期についての小説は、今まで極めて少なく、塚本靑史氏の『光武帝』三巻が2003年4月~5月に講談社から出されたものと、太佐 順氏の書いた『班超』2004年10月PHP文庫として出版されたものぐらいです。『三国志』が様々なかたちで出版されそれを基にしたゲームがたくさん出るようになっているのに比べ大変少ないのです。『草原の風』にも「三国志よりさかのぼること二百年。曹操・劉備・孫権の活躍にもひけを取らない、こんなにも面白い時代があった!」と書かれています。

 後漢初期の小説が少なかったのは、『後漢書』の和訳が無かったからです。ですからそれを訳すのが大変でした。ところが2001年に、岩波書店版汲古書院版があいついで出されました。和訳本が出れば、これからどんどん、三国志時代に劣らない面白い話がいっぱいある時代ですから、今後小説が出てくることでしょう。

 塚本氏の『光武帝』は宮城谷氏とほぼ同じ時代を小説にしています。しかし、塚本氏の小説では、赤眉賊の頭目である、樊崇や悪少年出身の赤眉の頭目である力子都などの活躍がかなり力点を置いて書かれているのが、宮城谷氏と異なるところです。

小説 『人相食む』について

 私は2009年7月に「こういちの人間学ブログ」に「『小説人相食む』後漢初期の人間学」を書きました。もともと、私が後漢初期の小説を書こうと思ったのは、1999年ころにノストラダムスの予言だのオウム真理教の騒ぎがあり、神秘主義を批判した後漢初期の唯物論哲学者、王充の小説を書こうと思ったことから始まります。2000年には中国語を学び、王充の墓を訪ねて、紹興県上虞市まで行きました。当時「後漢書」の和訳は無く、中国語の後漢書を買って自分で訳したりしました。2001年には「公募小説にチャレンジ」などというカルチャースクールにも行ってみました。「後漢書」の中から、「第五倫」について100枚、「謝夷吾」について、20枚を書いて応募しましたが落選しました。『謝夷吾』は同人誌『孤帆』24号に掲載させてもらいました。

 いろいろ書き続けた結果、2002年には『人相食む』という題に変え、書き続けました。2006年には原稿用紙1000枚で新風舎、文芸社に応募しましたが、自費出版では200から300万かかるということで、断念しました。新風舎はみなさんご存じのとおりその後倒産しました。そのまま書き続け、2010年9月には、前漢末から、後漢王朝4代の和帝以後までを書いた大小説になってしまいました。『人 相食む-後漢初期の人間学』という題で、ペンネームも王伯人としました。40万字、A4リッチテキスト方式で365ページにおよぶ大小説になってしまいました。それでもまだまだ、完成したとは言えない状態です。今中断しておりますが、興味ある方には今まで書いたものをCDでさし上げます。

◎これから、もう少し文章を付け加えます。

追記 2016年8月

 『人相食む』という題から、「第五倫伝」という題に戻して、章も少し変えて、ブログに書いています。もう少しで第1章がおわりますが、改めて打ち直すのは大変です。

 

2014年6月 3日 (火)

長いあいだ、脳出血で入院していました。経過と現状 6月追加版

6月追加版

 2014年2月27日に はじめごく簡単に書いたブログでしたが、「人間学研究所年誌」11号にこのことを原稿として書くために、この間ブログにいろいろ書いてきたものの核になるものとして、6月、7月にさらにいろいろ書きくわえてゆきました。すでに下記のようにいろいろ書きくわえていたものです。

 ★ 最初に書いたブログが操作ミスで消えて仕舞いました。日付中心にかき直します。3月15日追記。左手だけでパソコンをうっています。それにひだり目の目がねがあわず、苦労していま

1、発病に至る経過

 一人で彦根城を中心にドライブにいきました。今まで国宝の城は彦根城以外はすべて回っていて、いつか彦根城に行きたいと思っていました。車は中古ですが、買い直したボルボです。まだ買って3か月くらいです。前の車は三年たったエルグランドを買ってその後12年も乗っていたのです。3500ccで燃費がかかり買い直すことにしました。ボルボは丈夫さが気にいったのです。前にもかきましたが家内とは交代で旅行へ行くことになっていました。3匹の猫のせわや、ベランダの植物に水掛けたりすることがあるからです。すでに少し前に家内はドイツへの旅行を終わっていました。。

一日目は名古屋のビジネスホテルにとまりました、慣れない車での運転でかなり疲れました。夜暇なので二軒飲みに行きました。

 二日目の2013年11月6日昼頃 彦根城を見た後、ひとりでドライブしているとき、大津にて脳内出血をおこしてしまいました。彦根城は小高い丘の上にあり、いろいろ見て回ったのでかなり疲れたせいもあるでしょう。そのあと車で琵琶湖の周辺をドライブしました。比較的にぎやかなところで急に体の右半分が動かなくなってきました。車をよせて近くの人に助けをよびました。幸い事故を起こしませんでした。意識と言葉ははかなりはっきりしていました。出血したのは視床部分という脳の中心部分です。意識はあるのですが右半身が全く動きません。しかしある程度話ができるのは幸いでした。すぐに救急車で 大津赤十字病院に運ばれ入院しました。6階の西病棟です。

 病気は視床出血(脳内出血,一部脳室穿破)です。視床は脳の中心部分で嗅覚をのぞいたほとんどの感覚などの神経の通り道となっています。この部分はちょうど蝶の羽のようなかたちをしていま)す。出血はレントゲンやCTスキャンによれば右半分ほとんどでした。さらに左にも少し出ていました。手術は脳の中心部であるために、できず次第に出血した部分が吸収されるのを待ちます。(大津赤十字病院の 退院支援計画書によれば、「左被殻出血」となっています。)

 出血の原因は高血圧、当時最高血圧が200以上あったそうです。血圧は43歳から降圧剤を飲み続けています。いままでも突発的に急に高くなり、眼底出血などを起こしています。それを起こした左目は今でも見えないところが点々とあり、さらに最近は緑内障まででてきて苦労しています。いままでも何回か急に血圧が上がることがありました。血圧が夜中に200近くになり、めまいがして病院に行ったこともあります。そのときはおさまりました。

追記:視床出血は脳出血では被殻出血(レンズ核線条体動脈の破たん、60%~65%)についで多い脳出血で全体の30%をしめます。視床は知覚に関するほとんどの刺激が視床に集まるものです。三番目は皮質下出血、次は小脳出血です。そのほかに脳関係の出血ではくも膜下出血や硬膜下出血があります。又非常に多いのが血管が詰まることによりおきる脳梗塞です。

2、大津赤十字病院への入院

 入院して、意識も朦朧とし、幻覚も見え右半身は全く麻痺 感覚なしの状況でした。どんな格好をしてもいたくもなんともないのです。ところが話はある程度できるのです。幻覚は不思議な感覚でした。病室の様子が、ありありと見え、聞こえるのですが現実とは異なり、あっ、これは幻覚だなとわかるのです。

もう忘れてしまいましたが、家内によれば、蒲公英という字を見てタンポポといえる一方で身近な言葉が出てこないということがあり、失語症と書かれたそうです。はじめはベッドで点滴だけでしたが、次第に車いすにのれるようになりました。それとともに少しづつ食事ができるようになりました。

 大津赤十字病院は三井寺の見えるところにありました。6階の西病棟です。大津日赤病院の退院支援計画書では病名ははじめ左被殻出血となっています。これは代々木病院で訂正されました。入院前に比べADL(生活の質)が低下し、退院後の生活様式の再編が必要であることとなっている。ひつようであることかいてあります。しだいに手などは少し動くようになりました。容体が安定し車いすにのれるようになりました。移動は左足でけって左手で進む車いすです。ここに3週間ほど入院しました。はじめは点滴だけでした。その後次第に普通の食事になりました。朝ご飯はトーストしたパン食なのですがそれがおいしくぱんが好きになりました。そこの食事は全体においしく体重も2キロほどしか減りませんでした。

 パソコンも3月15日そして現在も左手だけでうっています。携帯電話で話すことはできました。しかしメールのやり方などはすっかりわからなくなっていました。リハビリで次第に意識やことば、メールのうちかたなどは回復しました。家内は新幹線で3日に1回くらい東京からかよってくれました。大変だったと思います。京都までいき2駅東海道線で大津に戻るのです。いろいろ東京の病院をさがしてくれましたがなかなか空きがなく、高い差額ベッド代をだせばというところもありました。その中で代々木病院は差額ベッド代もなくなんとか申し込みができました。

3、代々木病院への転院

 11月21日新幹線にて東京へ帰りました。新幹線の列車の中に小さい特別な個室のようなものがあるのです。上の息子もきてくれました。品川駅では頼んでいた介護用タクシーが遅れ、きゅうきょ普通のタクシーで品川駅から代々木病院へ入院し、5階の内科病棟へ入りました。ここはかなり重い症状の人が入ります。ドライブで乗っていた車は業者に船便で運んでもらいました。住むところはエレベーターの無い自宅には戻れません。マンションを借りるために、その車は駐車場の安い下の息子の近くに置き直しました。借りていた館山のリゾートマンションも解約しました。

 11月21日の入院診療計画書によれば、症状は右視床出血(脳室穿破あり)による右片麻痺と失語となっています。治療は手術などせず、血圧降圧剤を飲み、胃腸の薬、便秘薬、アレルギーに対しての薬などをのみ、ある程度、回復してからのリハビリが中心となります。鼻は詰まりやすく点鼻薬とアレルギーの薬は飲み続けて居ます。はじめひどい便秘で、浣腸をするようでしたが、ある時を境に急に下痢気味となりました。退院後も便秘気味で朝晩薬を飲んでいますが3日に一回のペースです。水を飲む量が少ないのと寝て居ることが多く運動不足のせいでしょう。薬は入院後8か月以上たった6月もだいたい同じです病院では。定期的にリハビリテーション総合実施計画書が発行されます。代々木病院では4回発行されました。月1回カンファレンスがあり、医師、理学療法士など、看護師と病人本人と家族が集まって病状の報告があります。そこに目標と具体的アプローチも書かれます。活動状況が点数表示されます。11月21日では5階病棟で100点満点で20点。食事のみ10点で移乗が5点排尿管理が5点であとは,全介助の0点です。日常会話可能だが長文で混乱ありとなっています。それに軽度の喚語困難となっていました。

その後リハビリ病棟に移ります。4階のリハビリ病棟では12月2日のリハビリ計画書では、全くダメな1点が7項目ありました。右下肢支持性低下に加え左下肢筋力低下により介助量多くなっている、と書かれています。点数は126点満点で55点です。1月20日では食事,整容、トイレ(見守り)排尿排便コントロール、浴槽移乗、更衣、社会的交流、記憶などが5点ないし6点になりました。そして総合点126点中90点に上がりました。2月4日には食事が6点から7点に移動が4点から5点に変わるなど合計点が95点に上がりました。全くダメな1点は階段だけになりました。  

代々木病院では食事のカロリーは痩せるために大幅に減りました。一日1500カロリーです。体重を減らして血圧を下げようとしたのです。これで体重はどんどん減っていきました。

 その後しだいに自立してできることがらが増え、大分回復してきて、12月2日4階のリハビリ病棟へうつることになりました。自立してできるかどうかは、1、車いすへの移乗、2、トイレ 3、着替えなどです。昼と夜がありそれぞれできないと赤、見守りが黄色、自立が白です。頭の上のホワイトボードに磁石で状況を貼り付けます。退院のときだいたい白になりました。リハビリ棟は別棟です。車いすで送ってもらいます。リハビリは一日平均1時間のものが三つあります。ほかに病棟訓練があります。土日もふつうのようにリハビリが三つあるきついコースです。代々木病院のリハビリをしてくれるひとはとても熱心でした。

 2014年1月14日急に部屋変わりました。部屋は自由の利く 日当たりのいい部屋です。症状が軽い人ほど食堂とナースセンターから離れた場所になります。部屋の ほかの人は歩けるひとだけでした。途中までおむつ―リハビリパンツをしていましたが、それからも解放されました。ほとんど尿をもらしたりしないので部屋も変わったのでしょう。

2月25日退院ということに決まりました。 入院三か月をこえたのです。それ以上は診療の点数がさがるのです。

 代々木病院のリハビリをしてくれた人たちは本当に熱心に治療していただき、急速に回復してきました。改めて詳しく書きますが、足や下半身を中心とした、理学療法士さん、腕を中心として細かい作業能力アップを目指す作業療法士さん。そして言葉の使い方、字を書いたりメールのうちかた、パソコンの使い方などを指導する言語・聴覚士さんにリハビリしていただきました。 

4、病状の変化

 しかし右足はほとんど動かずくるまいす生活のままになってしまいました。左足はしびれがあり、退院後足の裏のしびれはかえってつよくなりました。顔面にも麻痺があり、耳を中心にかゆみがあり、鼻も頭もかゆくなります。かゆみが出るのは視床出血の特徴らしいです。右の口にも麻痺がありご飯がこぼれやすいのです。右目は疲れると目ヤニが出てうっとうしいのです。眼科の診察では目そのものに異常はありませんといわれました。これは今も治らず、顔面麻痺のせいと思われます。左目の眼底出血と緑内障も悪くなっています。緑内障の目薬を入院中ずっとしていました。退院後は何もしていません。左目は今も見にくく、パソコンもいま右目だけでみています。病状はその時々でいろいろに変化してゆきます。

 リハビリがきついときには、休み時間はほとんど寝て居る状態です。ときどき体全体も調子が悪くなります。はじめめったに笑ったりせずむっつりしていました。

 毎日手のマッサージなどがあり、右手はだいぶ回復してきました。しかし握力は10㎏ありましたが、細かいことはできません。しかし右手の握力はトイレに行くとき重要で右手で棒をつかみ健常な左手でズボンを上げたりします。字は左手で書かねばならぬのが大変です。リハビリノートに毎日,日付、住所、名前、今日のテーマなどを書いて訓練します。リハビリノートは51日におよびました。体重は86キロほどあったものが73キロほどに減量しました。退院後なんとさらに5キロほど減ってしまいました。それで最後は20キロ減にもなりましたが、そのご体重は少し回復しました。6月現在リハビリに来る理学療法士さんがいつも血圧を量りますが最高血圧が120から110最低血圧が60から70とかなり低くなっています。

 入院中は毎日リハビリがあり、麻痺のある右側のほうが体温が1度ほど高い状態でした。それに加えて何とも言えぬだるさがありました。ところが退院してリハビリが減ったら急に右側特に足がひどく冷えました。2月ということもあり血のめぐりが悪くまさに氷のようです。しかし病気の右の手のひらは今でも相変わらず熱いのですが。そこで家では足湯をしました、足湯はだいぶ良かったようです。

 右の麻痺側ははじめ感覚が全くなく、手足がどこにあるかもわかりませんでした。しだいに何か触っているなという原始感覚が戻り、強い痛みは感じます。温度は今でも熱いというのではなく、びりびりした感じです。足のように下のほうほど感覚は鈍く足の指をかなり強くつねっても何も感じません。腕や指もどこに向いているかもわかりません。その感覚はなかなか元にもどりません。退院後の7月になっても目をつむるとどの手の指を触っているのかわかりません。

 持病の椎間板ヘルニアがあり、整形外科に通っていました。リハビリで上を向いていると、左の足や腰が次第にしびれが来ます。時に痛くなり横向きに代わらないと痛くて我慢できなくなります。これは寝て居て筋肉が衰えると強くなりリハビリの遅れの原因となりました。寝ている時間が多いため、手足の筋肉も衰えて細くなりました。

5、退院とその後の状況

 全く歩けないので階段しかない5階の自宅へ戻れず、百人町3丁目の20年以上たったエレベーターのあるマンションを借りることにしました。24階の景色はいいところです。ただ動物はかえないので、猫三匹と金魚を毎日世話にいかなければなりません。植物に水もやらなければなりません。家内がいってくれていますが、朝晩余りに大変だということで、入浴サービスに来てくれるところで朝4日間猫のエサやりとトイレの掃除にきてもらいます。

 マンションは床はバリアフリーだが、ほかすべて変えてはいけないということであてが外れてしまいました。ベッドや車いすは介護2級(1級から5級まであります。5級がもっとも重くなります。ちなみに胃瘻をしている母は5級)なので、1割負担で借りられます。しかしお風呂もそのままでははいれずヘルパーさんに手助けしてもらうことになりました。その手助けも1割負担です。しかし風呂場で使うシャワーキャリーは買いました。ポータブル・トイレとシャワーキャリーは10万円までは補助が出ますがそれ以上は自己負担です。風呂場とその周辺も改造しました。シャワーキャリが入れるように。トイレも車いすが入れず、ポータブルトイレになりました。病院ではトイレは1人で行けたのにです。その後5月末には、トイレは戸を外して中に手すりを付けていいことになり、ポータブルトイレから普通のトイレに変更になりました。

 食事は減塩食であまり動かないために食欲もあまりありません。朝食はパン食です。お菓子もあまり食べません。一日チョコレートを二つぶくらいです。タバコはもともと吸いません。お酒は好きで前はだいたい毎日飲んでいました。小さい缶ビール一本程度です。今はお酒はまだ飲んでいません。あまり飲みたいと思わないのです。天気の良い日は家内に車いすで外に連れていってもらいます。新大久保のほうに出るか高田馬場の駅の駅のほうに出ます。しかし梅雨で天気が悪い日が多いのであまり外に出ません。コンビニでの買い物で済ますことが多いのです。本は高田馬場の新栄堂に二回行きました。普段は部屋でテレビを見る、パソコンを見る、ブログを書く、新聞や本を見る程度の毎日です。でも疲れて長続きしません。見にくい左目をつぶっていることが多いのです。今韓国歴史ドラマのテジョヨンと中国ドラマの項羽と劉邦は必ず見て居ます。

 今退院から4か月以上が経過します.また発病からも8か月が経過し、そろそろ病状も固定化してきます。新宿区から2級の傷病者手帳(介護度とは異なり1級が最も重くなります)も6月17日発行されました。傷病者手帳とともに傷病者の手引きという本とともに1年分のタクシー券がもらえます。タクシーも1割引きとなります。ほかに様々な特典があります。しかしまだ利用していません。

 さて回復はずっと遅くなっていますが、リハビリも週4回(理学療法士さん3回、作業療法士さん、週1回です。)ただし2回分は自費払いです。ほかにマッサージも週2回やり、1割負担です。それらにより少しづつ回復しています。自宅に来てもらうリハビリのほか、内科医に月二回、来てもらいます。診断し薬の処方を書いてもらいます。歯科医も出張してもらいました。眼科も来てもらえます。土日を除いていろいろ予定が入ります。7月段階で4本足のつえを使って支えられて歩く練習を始めました。、

関連するブログについて(こういちの人間学ブログ)

 14,3、7 二級の介護を受ける生活

 14,3,7 病院でのリハビリについて 代々木病院                  の場合

 14,3、25 退院してひと月あまりようやく物事が               順調に

 14,4,27 病院でのリハビリノートについて                  ―51日間の記録

 14,5,6  近況について 3、瞼の調子が                   おかしい

 14,5,16 二級身体障碍者の認定を受けました

 14,5,24 最近の状況 1、リハビリ増やす

 14,6,13 リハビリ進む、つえで歩けるように練習

  14,6、22    チョイス 病気になった時、高血圧 私も高血圧で脳出血 

◎以上のような内容です

 

2014年6月 2日 (月)

『人間学研究所年誌』NO11 に「私の病状報告」(仮)を応募します

 5月末にきた人間学研究所の連絡葉書には、表に6月の2つの例会の案内、そして、裏に「人間学研究所年誌」NO.11の原稿募集の案内がありました。「人間学研究所年誌」11号は、本来、私が編集し、すでに4月には発行しなければならなかったものです。それがこのたびの急病で岩田副所長に代行していただいているものです。岩田副所長はいままでのように書いていただける常連のひとに私が電話して、原稿をお願いするというかたちでなく、きちんと全体の会員の方に様式を決めて原稿を募集するものとされました。

1、発行日:2014年12月25日

2、応募締切日:2014年6月19日

3、原稿締切日:2014年8月31日

4、応募資格:人間学研究所員・実用的人間学研究会員

         名誉会長であること

5、原稿作成規定 詳細は[Humanology]次号で通知

  原稿区分(原著論文、短報、エッセイ、研究活動記録など

その内容は次の通りです。

a テーマが人間に関するものであること

b 未発表原稿であること

c 個人・団体等の誹謗・中傷、根拠のない批判をしないこと

d 20ページ以内であること(1ページは39字×28行)

e 原則として電子原稿のかたちで作成すること

この報告を書くにあたってのブログの記事

 メールで岩田副所長に短報という形で、「人間学研究所年誌」NO11に応募する旨、ご連絡しました。岩田副所長からも「人間学」としてぜひ書いてほしいとのことでした。そこで申し込みをメールでしましたが、応募の連絡第一号だったそうです。

 さて、この報告を書くにあたってはすでに私のブログにいろいろと書いております。どういうものを書いてきたかを改めてここにしめしてみます。

 

今までに書いたブログの一覧表です

@nifty の、「こういちの人間学ブログ」で検索していただくと。わかりやすいです。年は2014年。

1、2月27日 長い間、脳出血の病気をして入院していました

 このブログは、最初に書いたときはごく簡単なものでした。その後6月にもいろいろ加えて、このたびの年誌の応募の中心的な文書としました。

2、3月7日、2級の介護を受ける生活

3、3月7日、病院でのリハビリについて、代々木病院

4、3月25日、退院して一月あまり、ようやく物事が順調に

5、4月27日、病院でのリハビリノートについて―51日間

6,5月6日、 近況について 瞼の調子がおかしい

7、5月16日、2級身体障碍者の認定を受けました

8、5月24日、リハビリ増やす

9,6月1日、「人間学研究所年誌」11号に「私の病状報告」を応募します

 以上のような内容です。これをすべて書いただけで、限度の20ページを超えてしまいます。そこで上記の1、は病気の基本的な経過を書き、後からの文章をだいぶ書き足して書いているので、それをもとにほかの記事もかきくわえるここととします。短報といっても比較的長いものになるかもしれません。

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