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2014年6月 5日 (木)

『後漢書』と私の『人相食む』に出てくる故事について 第五倫などについても(その2)

 このブログは2011年12月24日にはじめ書かれたものです。2014年6月5日また最近号として提示しなおしました

『後漢書』に出てくる故事には、ほとんどの人が知っているものと、おそらくほとんどの人が知らないものがあります。後半では、初めて見る故事もあると思います。

「物色す」

 光武帝はお互いに貧しい時代の親友であった厳光をさがすために、似顔絵を描いて全国にさがさせました。現在でもいろいろ探すことを物色するといいます。

「山高水長」

 よく習字の題材になる言葉です。光武帝はようやく見つけた親友の厳光がその知識や得が優れていることに感心し、高い冠位につくことをすすめました。しかし、厳光は気楽な生活が良いと断りました。ただ友人として気楽にあえれば良いと。宋の時代の詩人である范仲淹は「先生の風、山高く水清し」と其の高潔にして優れた人格をたたえました。

「糟糠(そうこう)の妻」

 光武帝が皇女からぜひ宋江と結婚したいと頼まれました。皇女を妻にしないかと、光武帝は宋江に聞いたとき、宋江は「糟糠の妻(古くから苦楽を共にしてきた妻)とは離縁できませんと、断りました。

「雲母屏風の故事」

 大尉(三公の一人で、軍事の責任者)の鄭弘は自分を昔抜擢してくれた第五倫(三公の一人司空)に何かと遠慮をしているのを見て光武帝は二人の間に雲母の屏風をおいて朝議に臨んだというところから来た故事です

「棟甍」(とうりょう)

 謝夷吾を司徒(三公のひとり宰相)に推薦したことばに書かれた言葉。ここから大工の棟梁(統領)という言葉ができました

「鄭公風」(てっこうふう)

 鄭弘は、仙人がなくした特別な鶴の矢羽を拾い、仙人に届けました。仙人は感謝し、何か一つ望みをかなえてあげるといいました。鄭弘は自分の個人的な望みを言わず、ひどく暑かったり寒かったりして民の悩みの種であった風を直してもらいました。人々は鄭弘の徳をたたえ「鄭公風」となずけました。

「南宮において著し」

 鄭弘は三公の一人として次々に立派な業績をのこしました。その功績は南宮(皇居)の中でも、とくに著しいとして称賛されました。鄭弘は今ではあまり人に知られていませんが、平安時代などでは歌に歌われるなど極めて有名な存在でした。

「苛政(かせい)は寅(虎)よりも猛し」(礼記)より

 虎にわが子を食われたにもかかわらず、その地にとどまって住み続けている老婆に、なぜ、この地にとどまっているかと聞くと、「隣の県は税金が高く、とても暮らすことはできません今住んでいるところは税が軽く住みやすいのです」と答えました。ひどい政治は虎の害より恐ろしいということです。

「向かえ酒の故事」

 第五倫の奏上文です。現在の世の中ではわいろを贈った人間が失脚しても、違う人にわいろを贈れば良いという風潮があると、当時の政治の風潮を批判しました。

「遇適自然」

 王充は『論衡』において、自然は神の意志などではなく、たまたま、偶然に自然に動いているものであると主張しました。

 ここですべてを上げたわけではありません。後漢書は現在よりも日本の知識人によく読まれていていろいろな所に出てきます。2001年に和訳が出たのでもう少しいろいろと広がるかも知れません。

追記 第五倫と山陰(紹興)グループ

『人相食む』の主人公は第五倫です。第五倫は斉の国の王族の末裔です。五番目に長安の都に来たので、第五氏という珍しい名字になりました。小役人になるがまじめ過ぎて出世せず、西暦51年46歳で、ようやく孝廉にあげられる。光武帝に認められ、会稽郡の太守となる。そこで第五倫はいままで不遇であった、力がありながら紹興で小役人であった鄭弘と、謝夷吾を見出し抜擢しました。75年章帝は第五倫を抜擢し司空としました(三公、副宰相)その時すでに70歳という高齢です。さらに第五倫は多くのすぐれた人材を推薦し「知人」と言われた。鄭弘を太尉(三公)に推薦、自分の後任に郡太守の謝夷吾を司徒(三公 宰相)に推薦しました。そして謝夷吾は友人の紹興の上虞出身の王充を推薦するのです。

このころはすばらしい人材に恵まれ、まれにみるすばらしい善政が行われた時代でした。ところが、鄭弘が外戚の竇憲(とうけん)におとしめられ、第五倫の紹興グループは一気に失脚しました。

 抜群の知識と能力を持ちながら下級役人に甘んじていた王充は、謝夷吾が、私よりもはるかに優れた人物がいると皇帝に推薦し、皇帝から公車をもって迎えられることになっていましたが、鄭弘の獄死、第五倫の退職、謝夷吾の左遷などにより会稽郡グループは一気に失脚し、王充の登用も実現しませんでした。王充は大いに失望しましたが、以後王充は自宅に閉じこもって『論衡』の著述に専念します。

 第五倫の肖像画は、平安時代の初期から江戸時代末期にずっと京都の皇居の紫宸殿にずっと描くき続けられた中国の名臣32人の肖像画(賢聖の障子 けんぞうのそうじと呼ばれました)の中に、第五倫の肖像画があります。第五倫もいろいろな年代の肖像画が書かれました。昔は第五倫ではなく「ていごりん」と呼ばれていました。これについては改めてくわしくかいてみます。

2011年12月24日追加版

 宮城谷昌光氏の小説、『草原の風』の下巻(1600円税別、中央公論新社)が2011年12月10日に出版され、上中下巻が完結しました。後漢の光武帝が皇帝になるまでの物語です。その下巻に、光武帝が話した言葉が故事になっているということで、載せられていました。124ページです。

「疾風にして勁(けい)草を知る」

 王覇の嘆きをきいた劉秀は、

 「潁川軍から私に従った者もみな去ってしまった。一人とどまったのは、何時だけだ。努力するがよい。疾風が吹いて、初めてどの草が勁(つよ)いかがわかる」

 困難に遭って初めて人の価値がわかる、といいかえることがわかる。正し、劉秀の言葉には詩趣があり、それを平明な言葉に置き換えると、詩趣が消えてしまう。

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2014/06/post-dbf4html

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