フォト
無料ブログはココログ

« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »

2014年9月

2014年9月28日 (日)

人間学研究所の10月例会について、11月例会は、合同例会 

1、実用的人間学研究会例会

日時:2014年10月17日()18時より

講師:田中稲生氏 (当研究会会員、元第一勧銀支店長)

テーマ:「人類の進化と病」

2、教育的人間学部会

日時:2014年10月24日(金)18時より

講師:倉田 眞氏(人間学研究所研究員、

         元新聞社編集局長)

テーマ:「朝日新聞の誤報問題とジャーナリズム」

◎場所はともに、人間学研究所

       新大久保、佐竹ビル3階

*なお、会員さんにお送りした葉書では、実用的

    人間学研究会の開催曜日が木曜日となって

    おります。正しくは金曜日です。お間違えのないように。

    曜日を訂正した葉書を出し直しました。

11月合同例会

○ 11月例会は11月21日(金)、午後5時30分より

  合同例会として 会場は午後5時から

  講演の時間が5時半に変更となりました

  こういちが、講師としてお話をします。

  「視床出血、1年が経過して

   -過去、現在、未来について」

  一時間お話して、1時間は懇親会です。

場所は

  新宿区百人町3-1-5

   西戸山タワーホームズノースタワー1階集会室

○ 12月は、合同忘年会を 巣鴨女子栄養大学で行うか

  検討中です。

2014年9月25日 (木)

『貧民の帝都』隠蔽された東京―新大久保にあった、スラム

Kc4a03400001

上の写真は、橋の下をねぐらとする孤児たち。維新当時で珍しい。

 塩見鮮一郎氏の日本の貧民をえがいた書物『江戸の貧民』をブログで紹介しました。2014年8月に出版されたのですが、その前に2008年の9月に『貧民の帝都』で明治期から現代の状況までを、そして、2012年11月に『中世の貧民』で鎌倉時代以後の貧民の暮らしを書きました。いずれも文春新書として発行されました。はじめに読んだ『江戸の貧民』が大変興味深く参考になりましたので、続けてほかの本も購入しました。

 『貧民の帝都」の帯封にこの本の言いたいことが要約されています。「隠蔽された東京」-地獄の4大スラム、出現!東京はスラムの都だった          日本を近代国家に!                                        首都に溢れる生活困窮者を救え!                                   時代の大波に振り落される人々の群れ                                   奇案,姦計が入り乱れる救済策,                                        東京の隠しておきたかった「過去」

 幕末から明治への移行期の惨状

1章 混乱と衰微の首都

江戸幕府が倒れた後、百万人の江戸は半分になり、都市機能は完全に破壊された。江戸から離れたのが支配層と富裕層であったのはその後の都市の性格に大きな影響を及ぼすことになる。

維新後、帝都に出現した未曾有の貧民に対処したのが、東京養育院であった。1872年(明治5年)に創設され首都の窮民や病者,障害者や孤児や老人の救済を試み、1997年に(平成9年)に125年の幕をおろした。ときには『乞食病院」とか、「ひと殺し院」とか≪帝都の恥隠し≫と侮蔑され「時には日本の「福祉の柱」として評価されるこの施設はなんであったのか。

明治はじめの混乱

天皇が江戸城に入った前年10月からよく8月まで

 捨て子 160人、縊死人22人、行き倒れ死人291人 

東京府日誌

冨民(地主、地借)196670人 貧民(床借り)201760 極貧民103470 極極貧民1800  合計して人口は50万3700人 江戸時代の半分

 江戸時代にあった仏教的な「ほどこしの文化」は完全に否定され、甘やかすと駄目になるから、困っていても助けるな、軒下で雨宿りさせてもならない。「働かざる者食うべからず』という、今日に続くイデオロギーが、府知事の言葉として社会的に認知される。p69

2章 近窮民を救え

 維新後の町会所

 失政続きの新政府

 江戸時代の貧民対策 7分金積み立のお金を、一部放出したが、それ以上に軍事費に費消した。

 露国皇太子来朝

 貧民の一時収容

 浅草溜時代

3章 さまよう養育園

上野護国院時代

 明治22年に市制がしかれ、東京府は東京市になった、東京市養育院ができ渋沢栄一が実質の運営者に任された。

 渋沢栄一のたたかい

とうきょう養育園の惨憺たるには、栄一は見て回ったあとで、栄一は身震いした。p184

4章 帝都の最底辺

 地獄の4大スラム

被差別部落、乞食の掃き溜めだめのような町、人肉市場と化した吉原や須崎の遊郭、江戸時代より貧しくなってしまった。いったん地方に戻った人がどうしようもなく東京に舞い戻る。

四谷鮫ヶ橋

 信濃町駅 貧民窟

上野万年町

 上野駅周辺

芝新網町

 浜松町駅周辺

新宿南町

 新宿駅南口周辺

その後いろいろなところにできる

 スラムの賀川豊彦

5章 近現代の暗黒行政

戦後、後退する困窮者行政

 泉下の渋沢栄一は、~ 渋谷の宮下公園や多摩川鉄橋下、都庁の西に広がる中央公園、、、などに一人住む身寄りのない老人を見てどれほど心を痛めるだろうか。高速道路を屋根にして、一般道路の分離帯にブルーのテントを張っているものもいる。~だれも援助の手を差し伸べない。なぜなら、自己の責任でその状態を選んでしまったからだといい、当の野宿者もそう思っている。p236

自己責任ということ,人々の関心が薄れてしまった。

 福祉を行政に任せてしまうシステムが発達したためか、市民の多くは多くの市民は貧民の存在に無関心で、心もまた冷酷になっている。北朝鮮やアフリカの飢餓の悲惨さはニュースになるし、自然災害の時は義援金がすぐ集まる。身近の貧民にだけ、見ぬふりをして済ましている。そして、ボランティアのひと達だけが何とかしようと努力する。これが今の日本の現実だ。p250。

 行政のしていることは彼らの救済をはかることではなく都市の「環境浄化」としての排除にあると、『現代棄民考』で今川勲はいい、玉姫公園にはりめぐされたフェンスや、銀座地下街の水を使えなくした水飲み場の写真を載せて居る。

 生活困窮者に対して無策でしかない行政も、いじめの精神は旺盛なようだ。執行者の頭にあるのは汚い街を見せたくないという見栄だけということになる。p236-237

◎ここでは本の中のわずかしか書いていない。

 

新大久保ではどうだったのか

これらの状況はブログ筆者自身が直接見聞したものです。

1 新大久保駅周辺に簡易宿泊所が多数あった

     いわゆるドヤ、山手線沿いにたくさんあった。

  今も少し残る一部屋に6人ほど住む、3段ベッド

  前は駅周辺だけでは無かった

    外国人旅行者向けに改造したところも

 2、昔あったバタヤ部落

  山手線の内側 線路際に百人町3,4丁目

  大規模なところ100軒ほど,コンパネなどの板と

  トタンで2畳程の広さ、バラックが密集していた

  電車からよく見えた。ここに知り合いがいて、

  何度かたづねたことがある。

  東京オリンピックの前に都営住宅に建て替え

  一部の人は都営住宅に入った

  いま建てて居る高層ビル(スカイレジデンス)

  周辺にあった。

  50年前、オリンピック開催、山手線から見えるので

    取り壊し しかし周辺に労務者の集まるところが

     以前ここに労政事務所があった。

  山手線の外側に朝、日雇い労務者と手配師が集まる

  食べ物を売っていたり賑わいが、あぶれるものが出る

    新大久保と新宿駅の間にあったもの線路際の

  規模の小さいスラムは 二階建ての区営住宅にかわる

 3、今もいるホームレスなど

  戸山公園、ビニールシートの家?i一時撤去された、いまはどうか

  乞食は取り締まりの対象

  空き缶集め、相場に左右される

  自動販売機の周辺の硬貨集めなど 取り忘れ、販売機の下に落ちて居る 

  時に新大久保のガード下にいわゆる乞食が出現

  いやだというのにどこかに収容され追い払われた 腰のまがった老婆

  前から大久保にいるホームレスの男性40から50くらいの男性

  少し精神状態おかしい 服は少しよくなった

4、現在も同じ状況 形式が変わるが

  貧困の状態は今も変わらない。

  あたらしいシェアハウス 3畳の部屋を上下に仕切る

  先日新大久保で火事が、問題になる 倉庫として申請

  インターネットカフェで寝泊まり 暖かいときは路上で

  外国人が部屋を何人でも使う 3か月交代

 

2014年9月21日 (日)

「幻解超常ファイル」、ツタンカーメンの呪い、黄金財宝と謎怪死

Kc4a03390002


はじめに

「幻解超常ファイル」はNHKで、継続的に行われてる番組です。私が病気になる前の2013年11月以前は、よくその紹介をしました。今も時間をちじめて放送されています。民放で行われている怪奇現象をあるがごとくに放送しているものにとっては,この放送は痛手でしょう。2014年9月20日(土)の午後10時20分から30分ほど放送された番組を紹介します。「ツタンカーメンの呪い、黄金財宝と謎怪死」という番組です。「ファイル15」だそうです。これは確か前に見た ことがあるのですが、ブログに書いていないようなので改めて簡単に内容を紹介いたします。

番組の紹介

 今から90年前の1922年11月、イギリスのハワード・カーターとスポンサーのカーナボン卿は、未発掘のエジプトの墓を見つけました。これは大発見で大きく報道されました。特にロンドンタイムスは独占取材権を持っていました。しかし発掘の途中で、半年もたたずにカーナボン卿は敗血症で倒れて死亡し、X線技師、またカーナボン卿の弟と次々に死んで行きました。それで、発掘は中止されました。

 2年半後、発掘は再開され、1925年に黄金のマスク、そして、ツタンカーメン王のミイラも見つけ出しました。しかし、関係者が次々に死亡しついに20人を超えました。新聞は大きく書きたて、人々はツタンカーメン王の呪いとして恐れました。

 噂の出所を調べ上げたウインドックは、次のように述べました。それぞれの段階での死者をしらべたのです。その結果、死者はすでに病気を持っていたものや高齢者でした。またあまり関係のないものまでカウントしていました。一番たたられるはずの、ミイラの包帯を外した関係者は最もたたられるはずですが、10人いてだれも死者はいないのです。確かに、ほかの墓には呪いの言葉が書かれている墓もありましたが、ツタンカーメンの墓には呪いの言葉は書いてありませんでした。

 これらの記事の出所は独占取材の権限を持っていた、ロンドンタイムズに対するねたみでした。一つはニューヨークタイムズなど、ほかの新聞社であり、もう一つは外国人に暴かれることに反感を持つ、現地人でした。

 しかし呪いの話はその後も続き、2004年には、匿名の女性から、ツタンカーメンの指輪を持っているが次々に悪いことが起こるので返したい、といってきました。しかし、よく調べるとツタンカーメンと関係がないことが明らかになりました。

○以上のような内容です。物事を冷静にとらえれば,よくないようがわかるというものです。でも、これに似た事柄はたくさんあるのではないでしょうか。

2014年9月19日 (金)

部落差別の根源、穢多と非人とは「江戸の貧民」から,追加「江戸の賤民」他

Kc4a03360001

 

 『江戸の貧民』という本は塩見鮮一郎氏が『中世の貧民』,『貧民の帝都』に続いて書かれた、「貧民シリーズ」の第3弾となる、文春新書の本です。2014年8月20日に発行され価格は800円+税となっています。

 

帯封に「身分外」に生きた実力者たち 

 

弾左衛門、車善七、乞胸(ごうむね)虚無僧、香具師・・・

彼らの足跡を求めて、上野、浅草、吉原をあるく。著者は学者ではなく、小説家なので、大変わかりやすく面白く書いています。

まず、この本の50ページに穢多(えた)とか、非人といった人たちについて、大事な考え方が書いてあります。

穢(けがれ)と清めについて、ここで触れたのは、今なお部落を血筋のように思っている人がいるからだ.ながいこと解放運動をやっている人でもそういうことを言う。女性や黒人への差別は身体そのものをしるしとしているのだが、部落差別はそうではない。穢れという日本の社会の底を地下水のように流れている意識でもって蔑視が形成された。

天皇でもだれでも穢れる。だから、御所に穢れが侵入することを、あれ程におそれたのである。また逆に、誰でも一定期間、喪に服していれば清浄にもどる。「賤民」とされた人たちは「穢れの空間」に閉じ込められているから差別されているので、肉体や遺伝子に何かが書きこまれているわけではない。かって部落の空間が「穢」とみなされたのは、そこで牛馬皮革や小動物の死体に日々接しているからで、穢れの時期が継続していると考えてであった。

それが、血統のように錯視されたのは、江戸期の攘夷思想と明治維新後のナショナリズムの悪意が合体した結果である。アジア蔑視の延長線上に部落を置いて、あたかも民族問題のように論じる人がおおくいたからだ。自分たちは「天孫民族」だと威張り、部落民を「異民族」の子孫だとでっち上げた。そんなことを戦前の学者はまじめに論じていたのである。

 

 浅草弾左衛門は穢多(えた)や非人の頭である。江戸幕府は783坪の屋敷を与え、大名並みの待遇を与えた.幕府による弾左衛門への手厚い保護は、武士と穢多身分の親近性を教えてくれる。邪険な扱いをした子に対して、ひそかにわびているふうである。穢多の役の一つは、奉行所にかかわる仕事である。処刑の手伝いや、伝馬町牢屋敷の掃除、浮浪者の取り締まりなどである十手をもって「御用,御用』と賊を追い詰めたりもする。同心などと一緒に犯人を連行する.市中引き回しの時の列に加わる。斬罪や火あぶり、はりつけにも立ち会う。もう一つ大きな仕事に皮革生産の管理があった。

 

弾左衛門   手代(重役)    -平のもの

                      在方小頭  -  場主  ―平のもの

                      在方猿飼

                     猿飼頭(新町在住)  -猿飼

                   非人頭(4人) -小屋頭 -平の者

                    乞胸頭ー平のもの

参考   弾佐衛門は、長吏頭とも呼ばれた。各地に長吏小頭(在方小頭)をおく

   江戸の非人には、抱非人と野非人とがあった。野非人は、「無宿」と呼ばれた。抱非人は、非人小屋頭という、親方に抱えられ、

   各地の非人小屋に定住していた。

   猿は馬を守るという考え方があり、猿回し(猿飼い)と組み合わせた。  

 ◎穢多はいわば、町奉行や牢屋奉行などによりコントロールされている公務員のようなものである。

   非人は社会から、はじき出された、おちこぼれである。

  ◎銭形平次などの岡っ引きは穢多なのでしょうか?。岡っ引きや目明しでも、いろいろあるのでしょうか。どの資料でも

   岡っ引き、目明しは穢多(長吏)か非人がなったようですが。博徒の親分が二足のわらじで、目明しになるようですが。

1645年に浅草山谷周辺に鳥越から,穢多村が引っ越してきた。鎖国が完成したころである。これを新町とよんだ。城下に限りなく近いが、間に川がある。

処刑の実行隊を武士身分から切り離した。自分たちのそとに穢れたものを作り出すことで、武士は穢れてないという詐術を行った。穢多というか非人というか、まだ未分化の身分は、武士階級の誕生に少しおくれて制度化される。紀元1000年あたりでいいのではないか。p、48

皮革は死んだ牛馬から作られたが、海外貿易がさかんであった中世や戦国時代にはアジアから輸入された。三代将軍家光が、オランダなど一部の国以外との貿易を禁じてから異変が生じた。どの藩も皮革は品薄になった。

今まで,死んだ牛馬を手厚く葬っていたのが、これからはすべてを提出させて、無駄なく皮革に精製する。穢意識にとらわれた農民が自分で解体しないなら、穢多身分に依頼する。p、63-64

鎖国の仕上げ後あらゆる農村に穢多村がつくられた。

 

牛馬の解体とゆたかな部落

穢多が行う牛馬の解体 それによる皮の生産 割の良い仕事で、解体した後は女、(子供みんなして、鍋を囲んだ。)

部落民のほうが栄養がよく、人口が増加している。農民のほうは、生まれたばかりの子の 口に濡れた紙を置いて「間引き」しているというのに。

 こういう歴史も、農民に反感を抱かせ憎悪をつのらせる理由になった。(権力の手先となり刑場の役などを行ったのも反感を呼んだ)

車 善吉

非人の頭 浅草が本拠地 一番勢力が強く、子分は天保14年には、4000人もいた。他に非人頭は3人いた。非人のほうは、社会からはじき出された落ちこぼれである。非人のおもな生業は「物乞い」だった。街角の清掃、「門付」などの「清め」にかかわる芸能、警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事した。

広義の非人とは、犬神人、墓守、河原もの、放免、乞胸、猿飼、八瀬童子等々の生業からくる総称である。

 ◎映画のとらさん(香具師)の名前が、車 寅次郎だが関連があるのだろうか。

 

乞胸(ごうむね)

浪人の中でも特に賤民化したもの 1651年はじめ長嶋礒右衛門が乞胸頭となる 1768年 山本仁太夫が頭となる 12種の色々な芸能をおこなう 身分は町民扱い 仕事中は非人の頭である車善吉の支配を受ける。乞胸は月48文を払えばだれでもなれた。

願人坊主

侍身分から落ちたもの、正式な僧侶になれなかったものが、願人坊主となった。全国を回りながら加持祈祷をし、お札を売り歩く。勧進、勧進という。

すたすた坊主

160112_162601

半裸で一人踊りながら、木魚を鳴らし、手をあげ、足をとんとんと踏んでいる。読経のまねをしてとんでもないお経をあげて居る。真冬になると,縄の鉢巻、腰にしめ縄の裸体で、手に扇をもって踊る。「すたすた坊主」も現れる。

◎五木の子守唄の、「おどま、勧進、勧進」というのは乞食と同じようなものか。

虚無僧

 膨大な量に達した浪人対策として、みとめられた。深い笠と尺八を持つ。いつでも仕官して抜け出せるように髪を伸ばしている。

香具師(やし)

 縁日などでの、露天商 見せものなど、薬の販売もおこなう。映画のフーテンの寅さんはこの仕事をしている

◎ともかく、江戸時代が終わってからすでに150年近くが経過している。それなのに、いまだに部落問題が存在するのが、おかしいと思いますが、いかがでしょうか。

追加資料 『江戸の賤民』

161211_141901

石井良助 明石書店 旧1988,新、2012,12月 1800円

 

猿飼 猿飼かしら長太夫・門太夫の支配をうける。エタと非人の中間

◎「江戸の大道芸人」によれば、猿飼は身分はエタではなく江戸城へも上がれる特別な存在。

茶筅(ちゃせん) 中国地方に多い 茶筅を作り販売する。百姓並みだが、一等低い位

(しゅく) 大和地区が有名 百姓並み 社会的には下りものと

 エタ頭の支配、三味線鼓弓等を引き小唄、小芝居をする

乞 胸 賤民の中でも、一種特別なものでその身分と家業とがはっきり区分され、身分は町方に属し 家業は乞胸頭仁太夫ー車善七の支配をう

  ける。町方支配 道路その他で物貰いをする 神社境内などで見世物などもおこなう。  家業をやめれば、賤を脱する。

願人坊主 市中を徘徊して軽口を言い、謎を唱え、他人に代わって祈願の修行などをして米銭などをもらう乞食坊主。

  乞胸の鑑札料は仁太夫に払うが老衰者、幼者、手足不自由なものは免除した。

 

エタ(穢多)と非人

エタと非人では。エタのほうが身分は高い

死牛馬の皮剥ぎは、エタの命で非人が行った。エタは処刑に必要な人数を提供する義務があった。戦時には軍隊となる。

非人は斬髪し、布木綿の他の着用は許されなかった。着物は膝まで

エタは皮細工と灯心販売の特権をもち 田畑を持てる

エタは脇差十手をさせるが、非人はさせない

エタは軍事的用途に、地方の警備は非人(番非人)が行う

 

賤民解放令 明治4年8月28日

この時の戸籍表によれば全人口3478万余人のうち、エタは45万6000余人(約13%)、非人は8万2000人

 

他の参考書

「部落史入門」

 塩見鮮一郎  河出文庫 2016年1月20日 760円+税

  明治維新後、なぜ被差別部落だけが、近代の思想に抗して残ったのかー。被差別部落の誕生から歴史を解明した、的確な入門書は意外に少ない。

190517_093102

 

「江戸の大道芸人」 都市下層民の世界 

  中尾健次 ちくま文庫 2016年11月10日 780円+税

  芸能と被差別民 非人・乞胸・願人・猿飼・・・知られざる背愛とは?

190517_093101

「日本の聖と賤」毛坊主,時衆、念仏聖、清目、庭師、説教師

 野間宏 沖浦和光 2015年12月20日 河出文庫 840円プラス税

190517_093501  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年9月15日 (月)

近況について1、視床出血10か月での現状 2、車いすで本を買いに

視床出血から10か月以上が過ぎました

 ―快復したところと、そのままのところ

 2013年11月初めに、滋賀県大津で視床出血をおこし、あと一月半で一年になろうとしています。滋賀の大津赤十字病院と代々木病院に4か月ほど入院し、退院してからも6か月半ほどたちました。退院してから回復してきたところと、全く変化しないところがあります。

かなり回復したところ

 リハビリは1割負担でやってもらえるところと、自費でやってもらっているところがあります。1割負担でやってもらえるのは理学療法士さんに週二回、自費で理学療法士さんに週1回に、作業療法士さんに週1回です。おかげさまで歩くのはマンションの内廊下を4つ足のつえと理学療法士さんの助けで、一回休んで、一周できるようになりました。また、途中で頼んだ作業療法士さんのおかげで、麻痺のある右手でかな文字を不十分ながら、何とか書けるようになりました。

 感覚も次第に戻ってきています。視床出血は感覚の神経が集まっているところで、感覚が戻りにくいのです。発病直後は右半身ほとんど感覚もなく,痛みも感じませんでした。又全く右半身は動きませんでした。しかし、痛みとびりびりした感覚が戻り、冷たいという感覚はもどりやすいのだそうです。風呂に入っても熱いというよりびりびりした感じです。

 また、何かが触っていると感じることができました。しかし、指を握られて、目をつぶって、どこの指をつかんでいるか聞かれてもわからないのです。いつになったら、もどるのでしょうか。

しかし入院中の土日も含め毎日3回あるリハビリでだいぶ右半身が動くようになってきました。そして退院時には、最低限の事柄が自立できるようになりました。

血圧は退院後もらっていた降圧剤だと、最高血圧105から110くらいで少し低すぎるということで、途中から医師から降圧剤を軽めのものに変えてもらいました。

 体重は病気になる前は、85~87キロぐらいあったのが、病院で低カロリー食になり72キロぐらいになりました。一時期70キロぐらいでした。

 色々なことを忘れてしまいましたが次第におもいだしてきました。いままではとても疲れやすかったのですが、次第に回復してきました。先日久しぶりの人間学の会議で一時間半程参加しましたが平気になりました。それで、11月の、2時間の人間学の例会の講師を引き受けたのです。

 身体障害者2級の手帳をもらいましたが、まだ何も利用していません。タクシーも、割引きとタクシー券がありますが、一度も利用していません。

退院してからも治らないもの

 しかしながら、退院してから、全くよくならないもの、逆に他がよくなると、かえって障害が強く感じられることもあります。一つは左足のしびれです。脳出血はもっぱら右側の視床部ですが一部左側まで出血していて、それが左足のしびれを起こしているようです。途中から左足の足の底のしびれは強く感じられました。これは立つときに障害になりました。又古くからある腰からくるしびれや痛みも障害になります。

 また、顔面部の麻痺はほかが治ってくるにつれ、強く感じられました。顔の右半分には全体に麻痺が残っています。一つは、眉毛のところや、耳、鼻がかゆくなります。瞼のところが痛痒くなり、眼科に見てもらいましたが、目そのものには、異常がなくこれも麻痺のせいだと思います。目ヤニが出やすく、三度三度歯磨きの時に目をお湯でふいています。左目も前におこった眼底出血のせいで、見にくく、パソコンもいま右目だけで見て居ます。

 頬の内側にしびれがあり、口に入れた錠剤がそちら側にあるとわかりにくいのです。又,舌に異常があり、はじめは歯の歯石のせいかと思っていました。歯石を除去しても同じで、舌も感覚異常のせいだと、おもうようになりました。舌の異常により、好きだったご飯の味が感じられず、パンのほうが好きになりました。好きだったお酒もいろいろ試してみましたが、極めて苦く感じられ、おいしく感じなくなりました。鼻は前から詰まりやすかったのですが、よけい詰まりやすく、入院中から今まで、アレルギーの薬を朝晩飲んでいます。点鼻薬も欠かせません。

2、車いすで本を買いに

 今借りて居るマンションから、天気の良い時には、時々、家内に車いすを押してもらい高田馬場や新大久保の駅のほうにお出かけをします。9月14日の日曜日に高田馬場のほうへ連れていってもらいました。駅前に新栄堂書店があり、本を買いに行くのが大きな楽しみなのです。前は新旧いろいろな本を買っていました。人間学研究所の蔵書として前の研究所の場所では1万2千冊。研究所移転の時2000冊を、古本屋に売るか、ごみとして処分しました。残り1万冊を人間学研究所に置いてありましたが、昨年の発病で住むところを変えざるを得ず今のマンションに移りました。そして2000冊はマンションにもってきました。しかしもってきた本はあまり読んで居ません。

 今まで4回ほど高田馬場へいき、その時に4冊ほど本を買うのを楽しみにしています。今回は「ヒトの変異」,「戦闘技術の歴史2」、「江戸の貧民」、「安禄山」を買いました。いずれ、ブログでも紹介いたします。本屋の後はスーパーで、食料品を買います。食べやすく甘いものがなっています。今回好きな紹興酒を買いましたが,口にあわず、飲めませんでした。

◎ブログのいま 9月15日

記事数 590件余り コメント495件 アクセス915000件です。

発病後以後の記事数は一応50件を超えて居ますが、いろいろなハンデがあり、発病してからの記事はレベルが低下して、当然のことながらアクセス数は減少しております。

2014年9月13日 (土)

人間学研究所の打合せ開催 年誌11号発行 11月例会でこういち話をします

2014年9月12日、人間学研究所へ行けないこういちのために4名の幹部の方が自宅に見えました。そして、いろいろ打ち合わせをして、当面の方針を決めました。人間学研究所の会議は久しぶりの参加です。

1、名簿の整理

 教育人間学部会、実用的人間学研究会の名簿を整理しました。

両研究会とも、メンバーを確定いたしました。

会費集めが遅れています

2、年誌の発行

「人間学研究所年誌2013」、NO11は、2014年3月末に予定されました。ところが、こういちの急な発病により大幅に発行が遅れましたが、2014年12月1日発行目指して、準備していきます。「人間学研究所年誌」2014年、NO12は、正規に2015年3月末発行目指してまいります。

年誌11号の内容です

論文

1、倉田 真、 ヘイトスピーチの問題

2、白村直也、東日本大震災避難者が抱える暮らしのニーズ

3、西田隆男、危険ドラッグの現状と予防教育

4、宮坂琇子、「軽度」発達障害児教育の現状と課題

5、岩田好宏、生命概念の検討

短報

6、佐竹幸一、視床出血の回復に向けて

      -私の病状報告 

エッセイ

7、永井 治、世の中の複雑化と対応

本研究所2013年度活動報告

編集後記

全85ページ

3,2014年11月の例会

 11月は合同例会とし、こういちが「これまでの1年と今後について」と題してお話をします。ちょうど発病してから1年がたちます。この1年を振り返るとともに、これからの課題をお話しします。1時間ほどお話をし、あと1時間は懇親としたいと思います。

11月21日(金)18時より、20時まで 前後30分時間をとっておきます

場所

新宿区百人町3-1-5 西戸山タワーホームズノースタワー集会室

 

4、人間学研究所

コピー機、トナーを入れました。お使いください。

印刷機もお使いください。

3階のパソコンは引き上げました。

2014年9月 7日 (日)

大久保の街 第3ビル、テナント決まる、第2ビル入れ替わりへカンホドン678チキンなど

第3サタケビルの、テナントオープンつづく

Kc4a03320001

1階がテンションとトーキョウ,オベンドン、ハウス

2階がカンホドン678チキンです、3階はまだ決まっていません。

Kc4a03340001

Kc4a03350001


カンホドン678チキンの看板です。


 イケメン通りの一本新大久保よりの新宿区百人町1丁目1番地にある第3サタケビルの店が次々にオープンします。オンドルからジョンノ本家へ行く道です。第3サタケビルは2014年2月に完成してから,一店だけしかオープンしませんでしたが,9月に2店が相次いでオープンします。ビルは敷地が90坪で1,2階が50坪、3階が約30坪の広さです。少しおしゃれなビルにしました。

 6月15日の新宿新聞に載っている記事をもとにして6月18日に「コリアタウン存亡の危機」というブログを書きました。かなりの反響があり、アクセスも多く、ツイートが12件ありました。しかしにtwitterに入っていないので私は読んでいません。ともかく老舗の「大使館」が閉店するということで、暗いニュースとして反響をよびました。ヘイトスピーチが閉店の原因ということを「大使館」の社長がいっているそうですが,ほかにも原因はあります。全体的に一時ほどの人出はないものの、最近は少し人出も増えて居ます。評判の良い店は相変わらず混んでいます。

第3サタケビルで、一番早くオープンしたのは1階の10坪くらいの「テンション」という洋服屋さんです。入り口に大きな犬の置物があります。

9月7日オープンの喫茶店オベンドン,正式な名前は「Tokyo Abandon House]です。文京区の東京カテドラル教会関連の喫茶店で、その関係者の集まる場所にも使うそうです。きれいなお店になっているそうでもうすでに仮オープンしています。有機栽培のコーヒーを出すお店だそうです。韓国では今カトリック系の教会が伸びて居て、ローマ法王も韓国を訪問しました。

 2階は全部韓国のチキンのから上げのお店で9月12日にオープンします。店名はカンホドン678チキンです。会社は市場コリアといいます。カン・ホドンとは韓国で有名なコメディアンだそうで、韓国にはお店が何店かあります。その人が出す日本での1号店だそうです。「カンホドン678チキン新大久保」で検索してみてください。詳しくでています。

 開店記念で、韓国焼酎1本か、ハイボール2杯サービスだそうです。

3階は何件か入りたいという希望が出ています。3階は事務所として、内装も完了しエアコンなども設置済みです。

◎ ほかの記事を見ていましたら、「真冬のソナター朝日新聞の記事に見る新大久保の厳しい現状と希望的な未来」という八田靖史氏の文章がありました。題のとうり、新大久保の厳しい現状とまたその中でも希望的な未来も書かれています。希望の一端として、写真でカンホドン678チキンの、まだ開店前の写真もでていました。1階のオベンドンハウスの写真も出ています。ご覧になってください。

http://www.kansyoku-life.com/2014/09/5250.html

いずれ、店の直接の写真もとって来てもらいます。

第2サタケビル.

 1,2,3階は現在はバルジライという、洋服屋さんです。かわりに近くのバングラデシュ系の食品材料を売っている店が入りたいといっています。

地下はバー宮だったのですが、代わりの店を探しています。

佐竹ビルは、

 引き続き美学空間という、化粧品販売会社です。

新大久保の現状 第3サタケビルの状況

http://koiti-ninngen.cocolog.nifty.com/koitiblog/2014/05/post-e5b6.html

大久保の街 第3サタケビルテナント決まる

http://koiti-ninngen.cocolog.nifty.com/koitiblog/2014/09/post-de12.html

*上記のアクセスはうまくつながりません。下にある、「カテゴリー」の中の記事をご覧ください。

総合人間学会の現状について 会長堀尾輝久氏に変わる 佐竹監事を退任の顛末

総合人間学会のNewsletter第25号が届きました

 

  総合人間学会について書くのは、実に久しぶりです。いぜん書いたのは2012年5月29日付の、「こういちの人間学ブログ」に、「総合人間学会の研究大会に参加し、一般発表で話し、そして監事となりました」というテーマです。このブログは2012年5月26日と27日(土、日)にわたって、日本大学の百週年記念館で開かれた学会の内容を書いたものです。そこで、私は「人間学研究会、人間学研究所の歴史と実用的人間学」という話をしました。そして14ページの資料を配布しました。私の分科会の参加者は50名ほどでした。

 

 話の後の討議で当時の学会会長の小原秀雄氏から、当時の学会長の小林氏も同じ考えだが、総合化とは、あくまでも専門の研究者が集まって「総合」するものであり、私の言うように個人がゼネラリストとして、総合化するのは無理なのではないかと話されました。私は専門の研究者に入らず民間の研究者として、自分なりに研究するものがいてもいいのではないかと、話しました。また今度新たに総合人間学会の会長となった堀尾輝久氏は、私がカントに由来するという実用的人間学という名称を使っているが、実践的という名のほうがいいのではという話がありました。私はやはり今日本で訳されているように実用的のままでいいと思うとはなしました。そのほかにも質問がありましたが、発表のあと持参したいろいろな人間学研究所の資料が売れました。

 

 そして小原秀雄氏会長、副会長柴田義松(人間学研究所所長),尾関周二氏、私は事前に話があった通り監事に選ばれました。ちなみに2006年に総合人間学会が設立した時、私は理事、運営委員、事務局次長でした。しかしトラブルがあり役員を降りて居ました。

 

 しかし、今度は監事も役員会に参加して意見を述べられるというので、役を受けたのが、役員会の参加について、何も声がかかりませんでした。また学会で報告したものに少し手を加えたものを、学会誌に「報告」という名で応募しましたが、2名の査読者に全く手直し不能なように批判されました。その内容は年誌2012、NO10号に掲載されています。たとえば第何次人間学ブームなどと書いているがその内容はわからないとか。人間学研究所の発表では何度か書いているが、それを説明するには改めて論文が必要になるので不可能でした。その要旨は私の下記のブログに概略が書いてあります。まるっきり頭から否定されたのでそれ以後例会にも参加しませんでした。一応最後の監査と意見はきちんと総合人間学会の事務局で行いました。

 

 その詳しい内容は人間学研究所通信第64号(2013年8月号)に「人間学ブームについて」と書きました。また当ブログでも「人間学ブームと人間学の本」と題して2012年8月14日にかきました。

 

総合人間学会の学会誌は、「総合人間学会8」として、「人間関係の新しい紡ぎ方をうけとめて」として、今迄に比べソフトカバーでページ数の少ないものに変わりました。また、ほかのものは電子ジャーナル版としてだされました。私の応募したものも電子ジャーナル版です。

 

事務局も日本医大の黒須氏のところから町田市玉川学園の玉川大学文学部人間学科太田研究室に変わりました。

 

総合人間学会の会員数は最初がもつとも多く、だんだんにやめる人が増えています。小原秀雄前会長が初代会長の小林直樹氏から引き継いだ時には290名でした。(設立当時は300名以上でした)2014年度の会員数は名簿によれば244名です。しかし会費未払いの人も多く。会計監査の時に聞いたのですが、実数はそれより少ないのです。私がこの人とぜひお話したいという方が、たとえば池内了氏とかカントの「人間学」の最新の翻訳をした埼玉大の渋谷治美(はるみち)氏など、前はいましたが、それらの人もやめてしまいました。」

 

追記

 

岩城先生も総合人間学会で嫌なことがあり会をやめられたそうです。鎮目氏も設立大会の時に政治的な動きを一切しないという、小林、小原氏の方針に反対して辞めました。

 

小林直樹氏は哲学的人間学の立場であり。私はそれを批判していました。小林氏は私の本をよく読めばわかるはずだといっていましたが、そんなことはありません。小原秀雄前会長も途中から2度の骨折で十分な活動ができなくなりました。残念なことだと思います。小原秀雄氏も人間学に対しての考え方は小林氏に近く、また、自己家畜化論を主張し、今までの学会にはそれを信奉する人が多かったともいえます。

 

総合人間学会の3代目会長は堀尾輝久氏です。以前教育学会の会長をしておられました。東大教授から中央大学の教授となり、現在81さいです。以前副会長で一時会長代行だった、柴田義松氏は顧問となりました。一緒に監事になった麻生信子氏は監事を退任しました。今度新しく監事が2名選ばれました。

 

人間学研究所からは、理事、運営委員に宮坂氏がなり、岩田氏が理事となりました。

 

現在は森岡修一氏も理事です。

 

参考までに今までの学会誌について報告します

 

人間はどこへいくのか 総合人間学1 2800円

 

特集1 知の頽廃と再生―人間はどこにいくのか

 

特集2 総合人間学がめざすもの

 

自然と人間の破壊に抗して  総合人間学2 2600円

 

特集1環境破壊から生命と生活を守るために

 

特集2人間にとって教育とは何か

 

科学技術を人間から問う 総合人間学3 2600円

 

特集1 いのちの人間学―人体操作を考える

 

特集2 現代の科学技術と人間

 

戦争を総合人間学から考える 総合人間学4 2800円

 

特集 戦争を総合人間学から考える 

 

人間にとって都市と農村 総合人間学5 2500円

 

特集 人間にとって都市と農村

 

進化論と平和の人間学的考察 総合人間学6 3000円

 

特集1 進化論と人間観

 

特集2 平和の総合人間学的考察

 

 3,11を総合人間学から考える 総合人間学7 1900円

 

     2014年6月

 

1 3,11以後の科学技術と自然観

 

2 3.11以後の思いとつながり

 

3,3,11以後の文明の転換

 

4,3,11以後、今総合人間学を問う

 

 

 

発行はいずれも学文社です

2014年9月 1日 (月)

チョイス 病気になった時 [大人の虫歯] NHK

このテレビは4月5日に放送されたもののアンコール版です

あらためて、2014年8月に再放送されました。

お話

日大教授宮崎真至氏

日大教授石上友彦氏

最近年を取ってからの虫歯が問題に

 渡会さん 前歯が欠けてきた そこで

 歯がしみるので、固い歯ブラシで強く磨いていた。

しかし沁みるところ(知覚過敏)は磨くのを無意識にさける。

医者に行くと9本の歯をぬかなけれならないといわれた。

どちらにするかの選択

1、保険適用の入れ歯 金具付ける必要

 ブリッジ、差し歯など色々な方法あり

 しかし最近はマグネット式のものもできてきた

2、保険適用外のインプラント 費用300万円

  インプラントはねじ式の人工歯根をつくる

  強くかむと駄目になる、骨が弱いと駄目

Kc4a03270001_1

Kc4a03310001

                   上の表

費用の目安(1年間に2回)3000円程度 自己負担額

知覚過敏(コーティング)       150円

虫歯(コンポジットレジン〉     2,000円

部分入れ歯 一つ         10,000円~

インプラント 一本        400,000円~

参考 費用ねじ(フィクスチャー)を埋め込む

  費用 10-30万円 普通25万円

  人口の歯の費用 5-20万円

  合計 1本35-40万程度

チョイス

明石さん 歯科検診をうける だ液の検査

 酸性だった 酸性だと虫歯になりやすい

 出血アリ 歯石が多い 歯石除去 歯磨きの方法を変える

 歯科検診保険だと1500円くらい(3割)

 自由診療 3000円から1万円

 市区町村での対応もある

奥山さんの場合

 歯医者の診断、6か所虫歯になっていた

治療をどうするか

歯はできるだけ残したほうがよい 

コンポジットレジン治療

 青い光を当てると固まる性質のあるプラスチック

 1本 2000円~3000円で済む

 虫歯の穴にやわらかいプラスチックを詰める。そのあと

 青い光をあてる

酸蝕歯とは

 口の中が酸性になる 普通は唾液などで中性に戻る

 もどらないと、酸で歯がやわらかくなる。

 酸性飲料,黒酢などが増加してきているため。

 虫歯だけ

できるだけ歯を残すようにするのがよい

 歯のブラッシングの方法 学ぶ

 定期的な検査と治療が必要です

感想

 今、筆者は訪問で来てくれる歯医者に来て

もらっています。今まで半年に一度くらい近く

の歯医者さんで歯石を取ってもらいました。

脳出血で歯の治療を受けられませんでした。

退院後、入院から1年ほどしてから自宅に

訪問で来てくれる歯医者さんに来てもらっ

ています。(訪問の眼科にもきてもらってい

ます)

 筆者は1本左下の奥歯の治療とその

隣の歯がすこしぐらぐらしているだけです。

前はたまに歯が痛むことがあり、歯医

者に行くと、歯を抜いたほうがいいとい

われましたが、一本も抜かないのが自慢

で抜かないできました。今その隣に親不知

の歯が伸びて、かえってがっちりしてきま

した。入院中もよく歯を磨いたので虫歯

の進展はありません。しかし、私独自の

唾液を意識的にだして呑み込む咽津法

(インシンホウ)により歯石がつきやすい

のです。(咽津法については私のブログに

たくさん書いてあります)

 今、月に2回、6回に分けて歯石を取

ってもらっています。あと、かみ合わせも

直してもらっています。歯石を取り終わ

ったら、月1回になるそうです。

« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »

2023年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

最近のトラックバック