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2015年11月

2015年11月30日 (月)

焼け跡の「戦後の貧民」,70年前の日本人たち 塩見シリーズ完結。”駅の子”の放送

 2015年9月20日、塩見鮮一郎氏の『戦後の貧民』が文春新書(800円+税、文芸春秋)として出版され、「貧民シリーズ」が完結しました。筆者のブログでも 『江戸の貧民』、『貧民の帝都』を紹介しました。『中世の貧民』はまだ紹介しておりません。
 昭和20年夏、敗戦。焼け跡から立ち上がる日本人は逞しかった。復興マーケット、闇市、赤線、…7歳で終戦を迎えた著者だから語りえた、あの時代の日本と日本人!
 この本のカバー裏にかかれている言葉です。昭和18年2月に生まれたブログ著者は、戦前の様子また戦争直後の状況を知りません。しかし戦後の混乱期は、自分自身で見聞しています。
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この写真は檻に入れられた浮浪児たちです。
まえがき
 有史以来、庶民がもっとも貧困に喘いだのは、このときである。
 そう遠いむかしではない。
 すぐそばのことだ。数千万の人が絶望的な飢えと病気にさいなまれ、路上にうち伏して夜をすごした。水を求め、まだ熱くくすぶっている焼け跡をさまよった。読者の近親や知人に、その時間と空間を生きた人をまだ見付けることができるかもしれない。
 7歳のわたしは死がすぐそばにうずくまる赤土の焼け跡にたたずむだけであった。
 無残な破壊の意味を問う余裕はなかった。
 少年のわたしが見た「リアルな残虐の世界」を、二十一世紀の「豊穣の幻影の社会」にうまく伝えることができるのだろうか。蚤に食われ、虱にたかられ、皮膚病にくるしんだ現実こそが大事であった。何日も風呂に入れない。病院は燃えて医師はどこかへ逃げている。赤痢やチフスなどの伝染病が蔓延する。
 下痢がやまない子がいた。
 わたしもそのひとりだ。
 悪趣味にならないように注意しながら、史上最悪の日々の片鱗を書きとどめたい。
序の章 占領
第1章大移動の始まり
兵士の帰還
闇市の成立
バタヤ部落とアリの街
第2章米兵慰安婦と売春
GHQと特殊慰安施設協会
夜のパンパン
東京の赤線と青線
戦争未亡人
親なきこと混血児
第3章さまざまな傷痕
伝染病の蔓延
見捨てられた皇軍兵士
原爆被災地の地獄
厳寒のシベリア 
戦後の部落
 今世紀になって出現した「ヘイトスピーチ(憎悪表現)に意表をつかれた思いがした。政治的な背景があるのだろうが、「韓国へ帰れ」とか「朝鮮人は死ね」などという言葉が白日の街頭で聞かれるようになった。新宿区新大久保の路上にあらわれた黒い集団は、日の丸や旭日旗を掲げて怒号した。わたしは耳をふさぎ、目をこすった。信じられない。在日朝鮮人がさまざまな特権を与えられていると妄想したのか、わざと誤伝しているのか、いずれにしても貧しい精神だ。かなしいのは、かれらもまた社会から相応の評価を与えられないまま堪えがたい日々にいることだ。かしこいメフィストが憤懣のはけ口の弁をあけて、閉塞感からの解放をすすめた。社会の常識に挑戦しろ、言いたいことをいえ。裏返った旧左翼みたいだ。奈良県の水平社博物館の前の広場にやってきて、拡声器を使って街宣をする。
「ド穢多どもはですねえ、慰安婦イコール性奴隷だと、こういったことを言ってるんですよ。文句あったら出て来いよ、穢多ども。〜」199
ほんの一部だけあげておきました。他は表題だけをあげておきます。詳しい本の内容はおいおいに書いていきます。
あとがき
「闇市にゴミは出なかった」
このフレーズは物資がいかに欠乏していたかを如実に物語っている。
 日本軍がアジアの国々に支配を広げて略奪した歴史をもっとはっきり学校で言うべきだ。戦力を誇示し、武器で農民をおどして満州国を作り抵抗する農民を「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす「という三光作戦で残虐を極めた。そのことを、ちゃんと教えなければおかしい。
 戦後に生まれた子は何も知らされていないから、70年も過ぎたのに、中国や韓国が『反日の言辞』を述べるのが得心できない.不当にいちゃもんを付けられたように錯誤している。相手が無理難題を執念深く言いふらすので、ひとりいら立ち「厭中嫌韓」の感情に閉じ込められた。わたしが少年のころ「大東亜戦争」がなにかを教えられないまま「軍国少年」になった姿と、今反韓を唱えている若者は似ている。
◎この本を書いた塩見鮮一郎氏が、『貧民シリーズ』を書いたエネルギーは戦後間もない時期の、「有史以来、庶民がもっとも貧困にあえいだのは、この時である」
◎戦後から現在に至る、新大久保での、、筆者が実際に見聞した状況については、前に書いた下記のブログに書きましたので、そちらをご覧ください。
「貧民の帝都」隠蔽された東京―新大久保にあったスラム」
1、簡易宿泊所
今も、山手線の線路際などに少し残る、以前は街中にたくさんあった。一部屋を3段ぐらいに仕切ってベッドがある。この前火事になって問題になったが3畳ぐらいを2つに変形した形に仕切った部屋が出てきた。
2、バタヤ部落
 新大久保にあったものは撤去された。公営住宅やマンションなっている。廃品回収や、日雇い労務者。
3、今もいるホームレス
 戸山公園や新宿中央公園などにビニールシートで作ったテントがたくさんあった。今は追い出されている。アルミ缶の回収などで生計をたてている。自動販売機を回り、お釣りの取り忘れ、販売機の奥に入ったコインを回収する。
4、乞食
 新大久保のガード下など。ひどく腰の曲がったおばあさんの乞食がいたが、強制的にどちらかの施設に収容された。
◎一見、身ぎれいな格好をしていても、最下層ぎりぎりの生活をしているワーキングプアの人々が増えている。正規労働者が減り、非正規労働者が増加している。
 2014年の師走の総選挙で政権与党は雇用が100万人増えたと喧伝していたが、そのうち正社員はどれくらいかというと、実は減っていた。
2012年7月から9が月の正規労働者は3327万人だったが、2014年7月~9月期は3305万人で22万人の減。逆に同期間の非正規労働者は1829万人から1952万人へ123万人の増。差し引きで101万人増加したというだけだ。
 「今日からワーキングプアになった」から。
    -底辺労働にあえぐ34人の姿       
          増田明利、平成27年11月刊、彩図社
増田明利の本シリーズ
 今日、ホームレスになった
    ー15人のサラリーマン転落人生
 今日、ホームレスになった
    -平成格差社会論
 今日から日雇い労務者になった
    -日給6000円の仕事の現場
 今日。会社が倒産した
    -16人の企業倒産ドキュタリー
    彩図社
◎戦後70年たっているが、貧困の状態は変わらない。仕事が厳しく、精神的に病んでいる人も多い。一部の富裕層はますます富栄え、格差は増大している。 
 最近新大久保では最下層で汚い身なりをしたホームレスが、目に触れにくくなって居るがどこかに追い払われただけです。新大久保でも部屋を細かく区切った部屋などが作られ、火災の発生などで死者が出て問題になったりしている。現在は様々なかたちの非正規社員が増えている。(「今日からワーキングプアになった」など。)中年でもどんどん非正規者社員となっていることにより、やって生活している人が増えている。これでは結婚など不可能であり、人口など増えようがない。
塩見鮮一郎氏の著作とそれに関するブログ
「貧民の帝都」隠蔽された東京-新大久保にあったスラム
 『貧民の帝都」 塩見鮮一郎、2008年9月20日、文春新書
「部落差別の根源、穢多と非人とは、-『江戸の貧民』から
 『江戸の貧民』 塩見鮮一郎、2014年8月20日、
 『中世の貧民』説教師と廻国芸人
           塩見鮮一郎 2012年11月20日、文春新書
NHKのおはよう日本で、2015年8月15日(土)同じような内容がテレビでも最近放送されました。
「”駅の子”の経験を 子どもたちへ」
 終戦の日で、戦争孤児の問題を扱っています。
 太平戦争末期、空襲などによって親を亡くした「戦争孤児」、全国で12万人以上板とされています。戦後、孤児の中には駅で暮らす子どもたちがいて、”駅の子”と呼ばれることもありました。
苦しかった戦争孤児の体験を、若い世代に伝えてほしいという動き。
奥出広治さん(76)戦争孤児、京都駅での暮らしを生徒たちに話す
「今、日本が戦争に巻き込まれるとか巻き込まれないとか言う話が出ているので、今の若者に、戦争とはどういうものであるか知ってもらいたい」
「例えば1日に1回だけサツマイモ、生のまま、それを駅のトイレで洗って丸かじり」
「一番つらかったのは、僕の父が僕のそばで死んだこと」
「死んだといってもまだ完全には死んでいなかった。虫の息だったが死んだとみなされて、職員が担架に乗せて乗せて連れていく」「人間の死体を山のように積んでいる」「そこにポイとほかされて、その時が一番つらかった」『結局、戦争をしたら絶対いいことは残らない僕らみたいな惨めなもの〈を生みだす〉僕は戦争の体験は無いけれど、戦争の被害者」
「孤児になったのは6歳の時、駅で物乞いや靴磨きをしながら、飢えをしのいだ」
「駅には同じような子がたくさんいました」
「その後民間の施設に保護され、駅の暮らしからは解放されたが、寂しさは消えず、両親の面影を求めて何度も施設を抜け出した」
 立命館宇治中学校の本庄豊さんが教室で奥出さんの話を子どもたちへ
◎筆者は幸い家族もそろっていたので、新大久保周辺がすべて戦災で丸焼けとなり、そこでバラックを建てて住んだが、駅に住む浮浪者に比べればはるかに恵まれていた。しかし、新大久保の周辺でのバタヤ部落、簡易宿泊所、などのきびしい生活の状況は良く知っていた。その貧困の厳しさは、現在もつづいている。前に書いた「貧民の」帝都に関するブログに書きました。

2015年11月29日 (日)

法人税下げ、あからさまな大企業奉仕、庶民には消費税増税、このままでいいのか。

 日経新聞の11月28日の朝刊1面トップに法人税29%台固まる。赤字企業増税4000億円増と書いてあった。
 財務・総務両省が27日、赤字企業も含めた外形標準課税を予定より4000億円規模増やし、実効税率引き下げの財源を確保する案で経団連と最終調整に入った。首相官邸の支持をふまえ、法人税率の30%未満への引き下げを従来の予定より1年前倒しにする。企業の賃上げや投資増につながり経済の好循環を実現できるかが、今後の焦点となる。
以下は、日経新聞の記事をそのまま掲載
します。
法人実効税率は3年で7%下がる
法人実効税率
 企業利益のうち、どのくらいの割合を税金として納めるか示した数値。国に納める法人税だけでなく、地方自治体に支払う法人事業税や法人住民税も含めて計算する。給与総額や支払利子といった利益以外の基準で支払う外形標準課税なら、どれだけ課税しても法人実効税率は上がらない。利益課税を外形課税に置きかえれば、産業界全体の負担は変わらないが、実効税率は下がる。
 
外形標準課税-赤字企業にも納税義務
 外形標準課税は2004年に導入された。対象は資本金1億円超の企業
 企業が地方自治体に収める法人事業税のうち、37,5%(8分の3)が外形標準課税で税収規模は8000億円。資本金の大きさで課税する「資本割」と従業員に支払う給与総額に応じて払う「付加価値割」からなっている。14年末に決まった税制改正大綱では、16年度から法人事業税収に占める外形標準課税の割合を8分の4に高めることが決まっている。
 外形標準課税を拡大すると黒字企業の税負担は減る一方、赤字企業は増える。利益にかかる法人実効税率は下がるが産業界全体で税負担が下がるわけではない。
 このため、「負担の付け替えにすぎない」との批判もある。賃上げをすると税負担が上がる面があり賃金や雇用に悪影響が出るとの見方もある。海外主要国では外形標準課税を取りやめる動きも出ている。
◎これは大企業、巨大企業に有利な税制である。筆者の会社は、東京ガスが3割と、あと同業他社3社が7割の社員400名を超える合弁会社となった。資本金が1億円以上となり外形標準課税がかかる会社となった。しかし前年度、委託手数料(下請けの手数料)が収入の大部分を占める会社で、手数料を一方的に下げられ、赤字となったそうです。この場合でも今度は税金は増えるのです。一方、元受けの東京ガスは実効税率が下がり、内部留保は増加します。今度資本金を1億円以下に減資して中小企業扱いに変えるそうですが、いずれにしても大企業、巨大企業に有利な税制の変更です。「下町のロケット」の佃製作所クラスの企業が損になります。
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既に大企業、というより巨大企業が法人税の支払いに対して、極めて有利であることは、1年前の「こういちの人間学ブログ」に書きました。「法人税を下げようとする安倍自民党政府、税金を払わない大企業」2014年11月11日
すでに、いろいろな優遇策があり、実際の法人税は安くなっているのです。
これには、大企業も税金を払っていますよという、哲学的会計士さんと、筆者の見解を支持するとら猫イーチさんと筆者とで三つ巴の論争が18回もありました。
『税金を払わない巨大企業』富岡幸雄、文春新書2014年9月20日刊行
毎日新聞2015年11月29日朝刊3面
法人税来年度29,7%、外形標準課税で財源確保
  安倍政権発足以降の法人実効税率
  2016年度は1年前倒しして20%台に
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毎日新聞2015年11月29日6面
 企業の税負担引下げ❓設備投資や賃上げ狙い
 代替は赤字企業課税強化
法人実効税率の減少と消費税率引き上げ反比例
 企業収益は過去最高だというし、無理して減税しなくてもいいんじゃないの?
 企業はアベノミクスによる円安・株高の恩恵を受け、利益の蓄積である「内部留保を増やしています。財務省によると、14年度の内部留保は前年度比8,1%増の354・3兆円と過去最高を記録しました。一方で設備投資は同7,8%増の39,8兆円と伸び率が内部留保を下回っています。〜17年4月には消費税率10%への引き上げが予定されており「庶民が増税される一方で企業だけが減税されるのは国民の理解が得られない」との指摘もあります。
◎2016年度に法人税を20%台にすれば、設備投資や賃上げにつながると安倍首相は言っていますが、その保証はありません。今まででも、大企業が儲けて、内部留保を増やしても賃金の値上げなどしませんでした。今景気がよくなったと、失業率が減ったといいますが、増えたのは、非正規社員が増えただけで、正社員はふえていません。社員の実質賃金がどんどん下がっている状態では消費も増えません。
 増田明利氏の一連の本があります・
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 「今日、ホームレスになった、-15人のサラリーマン転落人生」
 「今日、ホームレスになった、平成格差社会論編」
 「今日から日雇い労働者になった」
 「今日、会社が倒産した」
 「今日からワーキングプアになった」増田明利、彩図社、619円+税、平成27年11月2日
   底辺労働にあえぐ34人の素顔、働いても働いても生活できません
  実際の庶民は景気がよくなったなんて、感じて居ません。円安で一部の輸入品、特に身近な食料品が上がり生活は大変になっています。
景気がよくなって消費が上がっているなんて夢物語です。一部の大金持ち、あるいは株で大儲けした人用に、日経新聞にものすごく贅沢な時計や宝石のパンフレットが入りますが。
 安倍自民党政府は1億国民総活躍相など作っても、今度の参議院選挙向けの単なるお題目にしかすぎません。
 そして、露骨にマスコミに介入しています。NHKの会長を自民党寄りの人物にし、読売、日経、産経新聞、またその系列のテレビなどを見ている人は影響を受けます。
 安保法案はごり押しして通しました。ほとぼりの冷めるのを自公は待っています。
何か10%は当然で軽減税率がどうのこうのという問題にしています。
 「サンデー毎日」の11月29日号では、経済評論家の山崎 元氏の「消費税10%」にすればアベノミクスは自滅!という記事がトップに載っています。旧ステージの「旧第3の矢」は2014年4月に消費税率を8%に引き上げたから失敗した。円安にして消費が伸びたのに消費税増税によって人々から購買力を奪ってしまいました。
 民主党も、元自民党系の人が多く、前政権を取った時に、こりごりだだった人も多かったのです。維新の党も分裂し、自民党に取り込まれそうです。
 共産党がかなり思い切った柔軟な態度ですが、民主党がどう出るでしょうか。
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防衛費初5兆円台-毎日新聞2015年11月29日(日)
 政府は2016年度当初予算編成で、防衛関係費を今年度(4兆9801億円)より増額し、過去最高の5兆円とする方向で調整に入った。防衛費の増額は4年連続。安倍晋三政権の発足以来、一貫して増えている。防衛費が5兆円を超えるのは初めて。
外国援助巨額に、子育て、介護は低下
 外国援助巨額に、子育て支援不足、介護費用は低下
 安倍政権になってから1年3か月で52兆5400億円外国にばらまいた。反面子育て支援に3000億円不足である。
安倍首相はともかく外国に行くのが好きだ。今までの政権は短命が多かったせいもあるが群を抜いて多い。首相には沢山企業人が付いていく。外国への援助には建築関係やインフラ整備も含まれる。その仕事を随行した企業で請け負うのだ。
 介護費用は9年ぶりに値下げしました。介護事業者に支払う手数料は平均2,27%の減少となります。元々、介護の仕事に携わる人は仕事の大変さに比べ給与は低く、慢性的な人手不足となっています。給与を上げるのではなく外国人労働者を活用しようかとか言っています。やっと経営しているところが多く、今後事業所が立ちいかなくなり、つぶれるところがたくさん出てくることでしょう。大企業や外国に大盤振る舞いしているのに末端の人たちにはひどい仕打ちです。
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12月6日の赤旗日曜版より
安倍内閣の3年間で介護福祉士養成施設の入学者が3割も減りました。原因は安倍政権の介護報酬の大幅引き下げや介護事業所の倒産によるものです。
 一億総活躍相などを作りましたが、選挙目当てのことで、実際にいっていることとしていることは全く逆です。
国の借金巨額に
 国の借金は2014年度末に1024兆円。2013年度、2012年度末にくらべ、33兆3557億円増えた。安倍政権になってから2年間で70兆円増加した。借金のうち国債は853兆7636億円。
 日経新聞2015年11月29日
◎まだ、十分に論点をまとめていませんが。あまりにも一部の大企業、またアメリカなどや援助をしている国に恩恵を施して,肝心の大多数の国民に対しては、きわめて冷淡な政策を取っている。このままではたしていいのかを考える必要があります。
2015年12月23日 追記
 サンデー毎日は、毎日新聞とともに、安倍内閣に対しての批判を強めていますが、サンデー毎日の1月3日―10新春合併号では、トップ記事として、「日本人嫁を覚ませ!大前研一『アベノミクス』最後通牒」が載っています。
 安倍ブレーンが読み違えた「低欲望者会」ニッポン
 法人税は上げてこそ「賃上げ」『設備投資」につながる
 個人金融投資の1%≪17兆円≫を市場に呼び込む成長戦略
となっています。
 

2015年11月26日 (木)

縄文人と「弥生人」について、NHK「日本人のルーツ解明、縄文人続々発見

2015年12月27日(日)NHKで、「日本人のルーツ大解明 ~」
 
 「日本人のルーツ大解明、ご先祖様を探る旅太古の人骨大量発掘!」
DNAが明かす、新事実、縄文人は超イケメン!?
絶品!古代グルメ復活
壇蜜が縄文宝石に興奮
謎の土偶ミステリー
 という内容で1時間15分放送します。放送の内容を報告します。
◎日本人にとって縄文人が極めて重要な位置を占めるという観点では、後の文章に重なります。渡来系弥生人がとって変わってしまったという見方でなく。
『こういちの人間学ブログ』
「日本人成立のなぞ 弥生人のDNA分析」
今古い時代の人骨発掘ブーム
石垣島で2万年前の旧石器時代の人骨が大量に発見 沖縄は石灰岩で残りやすい
富山で6000年前の91体もの人骨が見つかった。
 小竹見塚遺跡
 貝塚の貝殻で中和された 骨が残る
 日本は全体として酸性土壌で骨が残りにくい
篠田謙一 国立科学博物館
 ミトコンドリアDNA 日本には5つタイプがある。
北アジア、ロシア・シベリア、東南アジア、中国中部
沖縄、満州などいろいろな地方から
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ミトコンドリアのタイプを分類してみるとアフリカからいろいろな地方に分散していたことがわかる。
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5人ともDNAが同じ型で中国にルーツがある
◎縄文人のルーツは北方から南方までいろいろなルーツがあり、それらが融合して、縄文人になった。詳しくは後半の文章で
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縄文人の顔の想像図のお面をかぶって出て来る。
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実物はこんな人で、縄文人は超イケメンだっという。
こんな人もいたでしょうということでみんなイケメンだったわけではありません。
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縄文人の復元図と比較してみる。
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縄文時代の食材の一部、非常に豊かな食べ物であろうと推測している。
大きな蠣のからも 貝塚 貝は重要な食物
◎縄文中期には気候が温暖で青森、北海道も食料が豊富だった。人口も増大した。
縄文後期の寒冷期には栗などの木が北方ではなくなり、人口が減少した。
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縄文土器で、実際に煮炊きしてみる。土器により食べ物が極めて豊富になった。
どんぐりの粉をもとにして、クッキーを作る。ハチミツなどくわえるとおいしい。
栗やドングリは重要な食材
◎朝鮮では今日でもどんぐりの粉を食用とする
犬は狩りの重要なパートナーであった
犬をペットとして埋葬した後がある( 骨折したのが治ったあとが)
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8000年前の網かごが残っています 。ドングリを入れて水でさらす。
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耳飾り、実際に取り付けてみて居ます
糸魚川のヒスイが当時つかわれていた。ヒスイは全国に広がった。
長者が原遺跡
竹の先に石英の粉を付けて、穴をあけるのに大変な時間がかかる
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土偶の一つ
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国宝の土偶です 。1億9000万円だそうです。
小型土偶はわざとわるようにして使った。
自然と共鳴した生き方。
台湾から与那国島まで、100キロ縄文時代の船で渡る。
1,縄文人短足だった。「南方説」当てはまらず、江戸時代さらに胴長
 2015年11月16日の毎日新聞の記事で、上記のような記事が掲載されました。各新聞でも同様な記事が掲載されました。
 温暖な地域からやってきて、脚が長いと想像されていた縄文人は、弥生人と同様に短足だったことが骨の分析で分かったと、国立科学博物館のチームが発表した。江戸時代の人は縄文人より胴長短足だったことも判明した。
 縄文人は、顔の形の研究などから、南方の出身とする説が古くからある一方、謎も多い。同博物館の海部陽介・人類史研究部長は「体形から考えると、起源は南方よりも、(寒冷な)北方だとする説を支持する結果だ」と話している。
・チームは北海道や本州、四国、九州にある20の遺跡で出土した主に6000~3000年前の縄文人63人分の骨を計測。島根、山口両県と九州北部にある4遺跡から発掘された弥生人27人分を調べ、体形データを比べた。
 一般に、温暖な地域では胴に比べて手や脚が長く、寒冷な地域では短くなるとされる。
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 縄文人は脚が長い熱帯型とは言えず、北東アジアを起源とする寒冷地型の弥生人と差が無かった。身長は弥生人のほうが高いという特徴があった。
 東京都内で出土した94人分ある江戸時代の人骨のデータを調べると、縄文人や、弥生人より、明らかに胴長短足だった。原因は不明だが、江戸時代の平均身長が低いことと関係がありそうだという。
2、「骨が語る日本人の歴史」
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刊行、ちくま新書、820円+税、筑摩書房。片山氏は1945年生まれ、先史人類学、骨考古学。京都大学名誉教授。
 帯封には、縄文人は来なかった。-縄文人は南方から来たのではない(骨考古学が明らかにする日本人の起源)。-大陸から来た渡来人が縄文人を駆逐したというのも本当ではない。そもそも「弥生人顔」など存在しない―旧来の歴史学に根強く残る誤謬を科学的史観から検証。
旧石器時代
 港川人 沖縄地方、1万8000年前、旧石器時代唯一の全身の骨、頭骨が残る
 低く広い顔、頑丈な咀嚼筋、低身長、、歯を道具として酷使
 鈴木尚氏(東京大学)は当時の日本列島の代表であるとした
◎「骨から見た日本人のルーツ」1983年、岩波新書など
 港川人をもとにして、日本人のルーツを鈴木 尚氏(東大教授)の「縄文人南方起源説」に対して、反論が出ている。また後継の東大の埴原和夫教授の「二重構造論」が主流をなしている。
   消えた、「明石原人」「高森原人」・・・原人ブーム
それに対して
 篠田謙一氏 ミトコンドリアのDNAの型(ハプログループ)北海道から来たグループや、朝
   鮮半島から来たグループなどが根幹となる。
 海部陽介氏の港川人は東南アジアの系譜につながるもので、直接日本人の祖先になら
   ないとする説
 最古の日本人は氷河期に7~6万年前に陸地を歩いて日本列島にやってきた。海水面の大幅な低下。海退時代。
港川人で日本列島の旧石器時代人を代表させるのは難しいようだ。おそらくは琉球諸島だけに限定される人々だったようである。
新石器時代、縄文時代
 縄文人15000年前から13000年前から2500年前ころまで
 温暖化、海進現象、日本の大陸からの分離がおきた
 縄文人が旧石器時代人の系譜に連なるのはまちがいない。その旧石器時代人だが、なかでも本州域や北海道の人々は、そもそもは特定の地域から来たのではなく広く東アジアの大陸部から「吹きだまり」のようにして集まってきた可能性が高かろう。その人々が混和融合、豊かな自然に恵まれた縄文列島に適応した結果、一種独特のユニークな顔立ちと体形を特徴とする縄文人が生まれた。そんな彼らが縄文文化を育んだ。そんな物語が描けまいか。p50
 縄文時代人の人口はその絶頂期でもせいぜいが20万人程度。
 縄文人が南方の起源であるとした埴原和郎(東京大学)の「日本人二重構造論」もあやしくなる
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p46、日本列島における人口増加
◎上記の人口の変化を見ると、縄文早期に2万人だったのが、縄文中期に26万人に増加した。それが人口が縄文後期には16万人になっている。これは2300~1000年前ごろに寒冷化が起きて人口が大幅に低下したのである。再提起には8万人に減少したともいわれる。又火山の影響も大きい。2万9000年前の九州の姶良カルデラでは九州の縄文文化は壊滅した。縄文時代は途中まで温暖であったが、寒冷期には2度ほども低下し、縄文人が減少したとともに、満州や韓国の北方にいた人々も南下してきた。人口が減少してきた縄文末期の日本は朝鮮半島などから移住しやすかったであろう。又朝鮮よりも日本の方が温暖であった。
 いずれにしても今まで人口が減少してきたのは寒冷期であった。温暖化で騒ぐのはおかしい。
 現在よりも1から2度ほど温度が高い縄文中期に、人口は最大になった。ドングリやクリなどが豊かな森が広がっていた。関東、東北地方には鮭などが多数遡上した。縄文人は関東、東北地方に多く住んでいた。
 たとえば青森市にある山内丸山遺跡は500人近くが住んでいた縄文期最大の集落と推定された。このころには温暖期で栗がたくさん収穫された。しかし寒冷化が進んでくると食料がなくなり4200年前ごろに放棄されたと考えられている。世界的にも寒冷期に文明が衰退している。また北方民族の南下が生じてくる。
 寒冷化と乾燥化が進んでくることになると、植生が大きく変わった。食物がえらっれにくくなった。そして縄文人の人口は大幅に減少した。それに対し、九州などの西日本は、関東、東北に比べ打撃が少なかった。
 現在の気温上昇は都市化に伴うヒートアイランド現象の影響が大きいように思われる。地球温暖化を騒ぐ連中は南極の氷が解けて海水面が上がるといっていたが、最近はむしろ南極の氷が増えていることが報告されている。
        以上ブログ筆者
 アジア大陸方面から吹きだまりのように集まってきた人々が、新しい革袋の中で新しい酒が醸成されるようにして、新しい人々、つまりは、縄文人が形成されたのである。その意味で、「どこからも縄文人」は来なかった。「縄文人は日本列島の中で生まれ育った≫のである。そんな逆説的な言い方も可能なのではあるまいか。p74
 
 
弥生時代
 2500年前から1800年前の700年ほどの時代
弥生時代の人骨の出土数
 出土する北部九州地方と西部中国地方の人骨数が圧倒的に多いので、あたかも、弥生時代の「代表選手」か「典型」のように取り扱われる。しかしこの地域は日本のごく一部にすぎない。
 大きく分けて弥生時代の人々には、渡来系、南九州系(隼人系)、縄文系、琉球系がある。(蝦夷は広くは縄文系か?アイヌ系の人々もいたと思われる)             
 多様な人間模様を「渡来系」か「縄文系」かでの二分論で単純化することによって、いわれなき混乱、短絡、ステレオタイプの回路が生じることのほうが恐ろしい。p89
 篠田謙一氏 縄文時代朝鮮半島南部には日本の縄文人と同じ姿かたちをし、同じDNA型を持つ人々が住んでいたのではないか。2007
 「弥生人」は弥生時代を共有する人すべてをさすべきである。実際に弥生人は様々である。
 しかし、テレビや教科書では渡来系弥生人ですべて代表させてしまっている。
 顔がのっぺりとして長く、目が細く、一重瞼、耳たぶは小さく、唇が厚かった〜など。
 実際は地域性がとても強く、さらに同じ地域でも前期、中期、後期で時期差が無視できない。それで弥生人に「   」をつける。
◎弥生時代、縄文系の土着民は、中部?、関東、東北?、北海道に多く残っていた。(?は標本数が少ないため)北方にいた人々は蝦夷-エミシと呼ばれた。南九州系は隼人-ハヤトと呼ばれた。琉球も独自な人々。近畿地方は混合型。昔の関東は縄文型、現在の東京中心にした地域は色々な人が混在している。(以下◎はブログ筆者の見解)
 渡来系の人々は北九州、中国地方、近畿地方に多く住む。
 教科書にも書かれている説、渡来した弥生人が縄文人に置き換わったわけではない
 「渡来系弥生人」は、ある地域に集中しており、そこでも、どの時期にも渡来人ばかり、ということではなかったようである。p87
◎渡来系の人々も北九州から近畿地方にかけて百済系の人が多く、北陸、関東地方には新羅系の人々が多いという。
◎ 中国から見ての人々 後漢の王充の論衡に記載。高床式住居、文身(いれずみ)、米栽培、をし、揚子江下流域、南朝鮮と日本列島に住む人々がすんでいた(日本では縄文人)。後で、北方の百済などの渡来人がたくさん来る。天皇家の歴史。初め渡来人でも伽耶系、前方後円墳が南朝鮮でも日本でも見られる。対馬を挟んで自由に行き来していたと思われる。王朝が任那系から百済系に変換していった。
日本人そっくりな中国のトン族-追記
◎倭の人々は揚子江周辺に住んでいた人々がルーツである。
呉越戦争で紀元前473年に呉が敗北し、南朝鮮や日本に移住。
紀元前4世紀吉野ヶ里遺跡は呉人が作ったという。高床式住居。
紀元前314、越が楚に敗北越人の日本への大量移住。出雲から北陸、新潟にかけて。
 -越の国、の由来
紀元前219-221年、秦の時代、徐福が3000人を引き連れ移住
世界で一番美しい瞬間 2016年3月30日再放送
 中国貴州省中心に、少数民族、トン族 他に江西省、湖南省などに 人口250万人 元々は揚子江周辺に住んでいた。百越と言われた人たちの一部。漢民族に追われて貴州の山間地へ。日本との共通点が多い
 稲作、林業で生活。中心部に木造の立派な建物、鼓楼を木組みだけで作る。
 丸顔で日本人そっくり 神道に似たアニミズム。礼儀正しく、老人や子供を大切にする
人を助け、歌が好き。FR-02b遺伝子が共通。
揚子江下流にいた百越(倭)の中で、一方は南朝鮮、日本へ、一方は中国南部(貴州省、雲南省など)へ。
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トン族の人々
 
 
 おそらく倭人、縄文人が各地域でさまざまに変容した縄文系「弥生人」を基盤とした。そこに、北部九州から日本海沿岸部にかけて住み着いた渡来系「弥生人」が重なった。続いて、そのあたりを中心に両者が混合して生まれた混血「弥生人」が加わった。これらが混成した総体こそが「弥生人」、あるいは倭人なのである。ことに西日本では、弥生時代の後期ごろに世相が激しく騒擾し、いっそう複雑な「弥生人」の人間模様が生まれたのではなかろうか。p108
 ともかく弥生時代、ことに後半となると、おぞましき「殺傷痕」を持つ人骨の発見例が多すぎる。クニや国が領地や利権を利権を争うことになり、北部九州、瀬戸内海、山陰、近畿の一部では世相が大いに乱れた。その後、卑弥呼が女王に推挙され邪馬台国が生まれ、やがて国家組織へ向かっていった。p114
古墳時代
 古墳の出現は3世紀(邪馬台国)、最盛期が5世紀(倭の5王)、終末期が7世紀(律令政治始まる)。国家成立の前夜時代。階層分化による身体変化が現れる。巨大墳墓。
 弥生時代から、古墳時代に移るころ、地球は寒冷化した。北方民族が相次いで南下してくる。しかし、当時100万人ほども渡来人が来たという説はおかしい。だいたい当時の日本の総人口が100万人ほどであった。
 大型古墳に葬られた人々の骨格の華奢化、顔立ちの変化は渡来人との混血というより、階層分化に伴う生活様式の変化、社会構造の変化による。
 横穴墓に葬られた一般庶民の人は、いかにも庶民的で、寸詰まり傾向の顔が多い。
◎食べ物の変化。支配層ー柔らかな食べ物、顎の形の変化-小型化
  その傾向は現代までも持続する
 古墳時代の終末になる7世紀、663年白村江の戦い。
 百済の滅亡と百済の人々の日本への移住
 朝鮮と日本の断絶の方向へ
 弥生時代から、古墳時代までが倭人の時代。
片山氏の本には中世人、近世人、近現代人
 2部、「身体史観」の挑戦、司馬史観に物申す、など興味深いことが、載っています。
日本人の成立、奈良時代から以後 中世人
奈良、平安時代には資料となる人骨の数が極めて少ない
奈良、平安時代から、日本人といえる時代になった
ひどく背丈が低い、、頭が長い才槌頭、口部が付くでる突き出るおちょぼ口、反っ歯など
が目立つ。男は小太り、女はぽちゃんである。
鎌倉時代から戦国時代にかけて
長頭型、反っ歯、顔が広く鼻が低い、四肢骨は現代型へ。(明治期までの現代)
近世人ー江戸時代の身体的特徴
 成人の平均身長、男性で158センチ、女性で144センチと推定できた。なんとも低い。何しろ、今の中学生高学年ほどの身長。江戸時代人の背丈の低さは記録的であった。180センチもあるような俳優が闊歩する時代劇がいかに非現実的かわかるであろう。
 京の人々の状況-600もの伏見人骨
低顔丸顔大頭の大多数の庶民顔と、長顔、高顔の大名顔、貴族顔、役者顔も少しは
あった。
 庶民の四肢はともかく低い、小太りで胴長短脚。虫歯が多かった。鉛白による鉛中毒が、特に女性に多かった。また特に男性は梅毒にかかったものが多かった。
◎すでに故人となった、筆者の父親は現在ではそれほど背が高くなかったが、他の人がさらに低く、脚が他の人より高いということで騎兵となったのが、自慢でした。(肢が短いと鐙に届かない)満州で騎兵の時、上官が乗馬で有名な西大尉だったそうです。騎兵はすぐにサーベルをつけ、1等兵にもすぐなったようです。格好の良い写真が残っています。
現代日本人
 身体史観的には、旧石器時代人から新石器人(縄文人)、倭人から、日本人へ、さらに現代日本人(超日本人)へと、日本人の歴史は流れてきた。歯の小型化と下顎骨の華奢化
戦後、背が急激に伸び顔型も変わった現代日本人は異質である。
間違いだらけの歴史教科書
 とんでもない顔立ちの肖像画―織田信長、聖徳太子
 リアルな人物像を疎む歴史教科書類
 現代日本人に、縄文人似も、弥生人似もない
 
3、「縄文人からの伝言」
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 岡村道雄著、2014年7月22日刊行、集英社新書、720円+税、集英社、岡村道雄氏は1948年新潟県生まれ、考古学者、j縄文研究者
 「縄文と弥生日本人の本当のルーツ』はどっちだ。
 私たちの祖先「縄文人」が、日本列島の各地で、その地域風土に適した文化を築き、豊かで安定した平和な生活を持続していたこと、そして、1万年という悠久の時間を積み重ね、日本文化の確かな基礎を築いていたことが、次第に明らかになってきました。
竪穴住居
 在地土着の集団は、竪穴式住居に住んでいた、土で表面を覆った作り方。日本の気候風土に適した作り方であった。しかし支配階級の渡来民族から見て彼らは土蜘蛛と呼ばれた。 土屋根竪穴住居、茅葺の竪穴住居は間違い。
 縄文里山 自然と共生の歴史
   栗林やウルシ林
   粘土、珪藻土、岩石、ベンガラ、天然アスファルト
   豆類、エゴマ、ゴボウ、アサ、ひえ、ヒョウタン 原始的な畑
 貝塚集落の豊かさ
   自然に囲まれ育て管理し、隣の集落と適当な距離をもちつつ
 ◎縄文時代は、いわゆる原始共産社会であった。身分、階級制のない時代で、弥生時代以後も、各地の村落にはその気風が残っていた。
 
4、◎「こういちの人間学ブログ」
「日本人の起源2、弥生時代以後、川口氏のカオロジー」
 2009年11月4日のブログ
 顔を他の人々と比べてみる、日本人は多くのアジアの人々が融合している
 川口氏は、日本人のルーツになる6つのタイプと、それぞれの特徴が混合した、モザイク ミックス、とブレンドの8つに分けている。
 モンゴリアン  蒙古系 顔が丸い、目が細い(蒙古出身のお相撲さん)
 ミカドニアン  ツングース、朝鮮系 面長細い顔、吊り上がった眼(お雛様のお公家顔)
 ドラグーン   中国北部系 仙人のような顔立ち 
 ヤマタイ    南中国系 丸顔 庶民的な日本人の基層の顔
          (◎呉越から、一方は南朝鮮、日本へ、一方は中国南方へ貴州、雲南省)
            米作、高床式住居、分身、神道的宗教
 トロピカル   南洋系 二重瞼、厚い唇、色黒
 オリジン    アイヌ系 多毛 ホリが深い
 モザイク・ミックス
 ブレンド
 詳しくは直接ブログをご覧ください

2015年11月22日 (日)

旧東京教育大動物学クラス会開催、近藤 昊さんの追悼文集配布

旧東京教育大動物学クラス会(パンドリナの会)で故近藤 昊さんの追悼文集が配布されました.。
 2016年1月19日に藤沢弘介さんの巻頭言が加わり、松田麗さんの追悼文が加わり、追悼文集が発行されました。2016年1月30日に藤沢さんから完成した追悼文集が送られてきました。
 その追悼文をもとに、ブログを書きくわえました。
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ありし日の近藤昊さん 人間総合科学大学の構内にて
追悼文集の冒頭の写真です
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2015年12月6日の6時37分の日の出です。右の塔は市ヶ谷の自衛隊の電波塔です。
 2015年11月21日土曜日午後1時から、クラス会が高田馬場駅前のキリンシティで開かれ、秋藤陽子、岡松 哲、唐沢孝一、佐竹幸一、角田昭夫、西木克侑、萩原純子、広瀬 進、藤沢弘介さんの9名が参加しました。
 もともと、クラスの在籍数は16名ですが、早い時期に女性の矢崎とめ子さんが亡くなり、今年2015年の1月8日に近藤 昊さんが、同じ4月15日にあいついで田口隆彦さんが亡くなり13名になっています。今回のクラス会は2人の追悼のクラス会となりました。
 近藤さん、田口さんについては、既に「こういちの人間学ブログ」に書いてあります。
 「 教育大の動物科同窓生近藤さん逝去の知らせ 生懇の思い出」
      2015年1月10日
 「近藤昊さんに続き田口隆彦さんも逝去 11月に追悼パンドリナの会」
      2015年9月27日
 前回のクラス会は2013年7月23日に、新宿住友ビルの「北大路」で開催しました。その時は10名参加で、近藤さんもその時は元気に参加していました。その時は牧野、和田さんが出席し、岡松、藤沢さんが欠席でした。
 今年の近藤さんの納骨式には秋藤、岡松、角田、萩原、西木、藤沢、牧野さんが参加されました。筆者の佐竹は参加できませんでした。今月中に田口さんのお墓参りに所沢に行きますが、残念ながらこちらも参加できません。
 クラス会は、最初に、近藤さん、田口さんの冥福を祈って、献杯をしました。
 その後、故近藤昊氏の追悼文集が藤沢さんから配られました。次いで、唐沢さんから、矢崎さん、近藤さん、田口さんの写真を含めた写真集が配られました。私のほうから、最近のクラス会の名簿をお渡ししました。
 クラス会の会場の高田馬場キリン・シティは、前にもいったところで、キリンビルの直営店で筆者が車椅子を押してもらっていけるところで、ビールの味もいいし、食べ物もなかなかおいしいので、そこにしてもらいました。ビールは黒ビールと普通のビールのハーフアンドハーフ。いつもですと私が幹事役となりついたくさんとってしまいます。4000円から5000円で2時間料理付き飲み放題のコースもありましたが、今回はみんなに任せました。
 少しずつしか料理を頼まず、例えば、小さいピザを9等分してもらって食べたりして、ビールの追加もありませんでした。それでちょうど2時間で一人ビール代も入って2000円以下でした。儲けにならない客でしたね。
 2時間ちょうどで家内が迎えに来ました。その後時間のある人は喫茶店等へ行ったとおもいます。
 追悼文集の一部を下記に簡単に書いてみます。
追悼文集
近藤 昊さんの、追悼文集については、パンドリナの特集号として、2015年11月
「故 近藤 昊氏 追悼文集)(仮題)として、はじめは角田昭夫氏と藤沢弘介氏の追悼文があり、その後近藤昊氏の研究に直接、間接に関わった加治和彦氏、井出宏之氏、浅島誠氏の追悼文が載せられています。
故 近藤 昊氏 追悼文集
巻頭言
藤沢弘介
略歴編
 近藤さんの写真
  1943年東京板橋生まれ
 1962年都立北園高校卒
 1962年東京教育大理学部動物学専攻入学
      卒論は碓井桝小益男教授に師事
 1966年同上、博士課程に進学
      腰原英利助教授に師事
 1971年同上修了 理学博士に
     都老人総合研究所に勤務
 1993年同上主任研究員
 2004年人間総合科学大学大学院教授
 2014年退職
      同年11月26日自宅にて死去
・ 
 近藤 昊氏の略歴および主な研究業績p1~5
        主な研究業績リスト 4ページに及びます
 所属役職
     都老人研主任研究員、人間総合科学大学教授
     基礎老化学会評議員、幹事、日本動物学会幹事他
追悼文編
近藤君の思いで(お姉さんからの聞き書き)p2~4
       角田昭夫氏 元横浜市大
 2歳上のお姉さんからの聞き書き。近藤さんは大学進学で生物学の博士になりたいと思った。東京教育大の大学院から老人研に入った。
 30代で慢性の腎臓病を発症した。52年間ずっと研究者の道を歩んだ。老人研から人間総合科学大学の教授になった。大学退職の少し前に検査したら腫瘍が見つかった。人工透析も始まったが学校はやめられないと仕事を続けた。大学退職後の2014年には終活の整理を始めた。大学を退職してこれからゆっくりしようと自力で準備していた71歳のその最中の突然の死だった.
近藤君の早い逝去を悼む  p5~9
      藤沢弘介氏 埼玉大名誉教授
 彼の逝去の報せは突然だった。納骨式には間に合い大学の知り合いと参加した。
近藤さんは関東生物科学生懇談会に参加し科学方法論研究会を主宰した。そこに東大の井出君も加わった。そこで〈藤沢さんの〉将来も定まった。井出君には(東大)大学院入学には世話になった。その1年後に浅島君がついてきた。ノートを貸したりした。
 近藤君は井出君とは渓流釣りの仲間となった。彼が生きていたらなあとつくづく思う。何度話を交わしたことだろう。温厚でゆっくりした話口調の彼の声が聞けないのは寂しい。
近藤ひろしさんの仕事   p10~13、2015年9月19日
      加治和彦氏
 老人研究所で知りあい、静岡県立大学に転出するまでお付き合いした。
具体的な近藤さんの業績を紹介する。近藤さんらの老人研の細胞管理チームは多くのヒトの細胞を培養し細胞バンクに寄贈した。それらは2006年の山中氏のIPS細胞の研究に寄与した。
 今、彼がいたら私は何を話すだろう。多分、ネアンデルタール人がホモサピエンスと交配したこと、デニソワ人のこと、で話やほかの話で尽きなくなる。
 
 理学博士、日本薬科大学生命医療薬学分野・客員教授
       コーセー株研究顧問
近藤ひろしさんの思い出 p14から15
        井出宏之氏
        東北大学名誉教授
 近藤さんとの最初の付き合いは生懇であった。卒業後も何度か共同研究の機会があった。二人で渓流釣りをして楽しんだ。
 大学と学生のことを熱を込めて話し、もっと早く研究所でなく大学に職を得ていたら素晴らしい教育者になっていただろうと思う。
 司馬遼太郎の小説の主人公で、英雄的な人物が多いといったら、「菜の花の沖」のような人物がいるといっていた。
近藤 昊氏を偲んで p16-17
        浅島 誠氏
        東京大学元副学長、学術会議副会長など
 近藤さんは、東京教育大の1年先輩でした。生懇に入ったが、生科学と発生生物学を論じていた。又佐竹さんは「人間生物学」こそが、これからの生物学の中心だとのべたりしていました。
 動物学会の後では近藤さんや、藤沢さんなどと一泊余分に問って温泉や観光を楽しみ論議した。近藤さんには数えきれないくらいの沢山のご指導を受けたりまた話し相手になってくださった。
近藤先生との思い出 p18-19
    松田 麗氏 埼玉大教育学部卒、新座高校教諭
 埼玉大の藤沢先生の紹介で、老人総合研究所の指導教官を近藤さんにお願いした。
 コーヒーやビールが好きでよく連れていってもらいました。
研究業績 p1-4
◎ 生懇は半期ごとに代表が変わりました。「科学方法論分科会」の代表者の近藤昊さんの後の代表が、「人間学分科会」の責任者の筆者がその次の生懇の代表でした。そのあとの代表が、お茶大の大沢さん、そのあとが浅島 誠さんでした。
追記 故田口隆彦さんの、お墓参りの写真が唐沢さんより送られてきました。
 2015年12月3日
 11月29日(日)所沢の欅霊園の、故田口隆彦さんのお墓参りに、5人のクラスのメンバーが参加し、その写真と状況を、唐沢孝一さんがメールで送ってくれました。クラスで参加したのは、唐沢、角田、藤沢さんと、前回のクラス会欠席の牧野さん、和田さんです。田口さんのほうでは田口さんの奥さんと息子さんが来られたそうです。唐沢さんのお話では、息子さんは田口さんとそっくりだったそうで、ほかに娘さんとお孫さんも3人いるそうです。子宝に恵まれて良かったなーと思います。
 お墓参りの後で、近くの埼玉大の藤沢さんの研究室へ5人で寄ったそうでその写真も送られてきました。
 

2015年11月19日 (木)

ゆるいおなかの真犯人 ためしてガッテン 原因の1因は糖と胆汁

 2015年11月18日(水)午後8時から、NHKの「ためしてガッテン」の放送がありました。この放送は大変人気があり、体に良いという食べ物が放送されると次の日その食品が売り切れるそうです。西原理恵子さんの「毎日かあさん」でも、西原さんのお母さんが、番組の影響を受けて、さっそく何かを買ってくるそうです。
 「ついに発見ユルイおなかの真犯人」
 何か途中で、急に下痢気味となり、トイレに行きたいが、トイレがなかったり、行けなかったりして、大変な思いをする人は、多いことでしょう。
 うちの家内が,良くおなかがゆるくなるとのことで、2人で(別々の部屋ですが)テレビを見ました。筆者は、病気をする前は快食快便で毎日朝規則正しく便通がありました。これは筆者が推奨している「唾液を意識的に飲みこむ」-「咽津法」によるものと思っています。しかし、脳出血の病気後はあまり身体を動かさないさないために、便秘気味です。
 下痢の原因、考えられるもの
 脂っこいもの、冷たいもの、便秘薬の飲みすぎ、牛乳、ストレス、食べ合わせ、二日酔い
 風邪、消化不良、辛いもの、などが考えられる。
 ゲストーつるの剛士  2日連続のラーメンがいけなかったのかな?
 1、糖
 原因の1つ
 真犯人はパン?ほかにいろいろな食品
 オーストラリアの医師、ピーター・ギブソン博士の方法によれば
 該当する食品を控えることにより
 慢性の下痢患者10名の被験者のうち8名が改善した。
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 東邦大医療センター、大森病院、瓜田純久教授によれば
  牛乳1Lを飲んだ後、おなかの状況をレントゲンで撮る
  2時間後、普通大腸は水分を吸い取る作用をするが、逆に大腸から、水が出て来る
   -おなかがゆるくなり、下痢へ
  色々な食品でユルイおなかになる原因の共通しているもの -それは糖類
  「糖類下剤」という医薬品があるように糖類は下剤の作用がある。
 牛乳ー乳糖がある  大人になっても牛乳などを飲む哺乳類は人間だけ
 乳糖を分解する能力は、人種によって違う。ヨーロッパ人に比べ、日本人は弱い。
◎ヨーロッパ人は、長年牧畜をして、牛乳などを飲んでいましたから、牛乳を飲んでもあまり影響が出ないのですが、日本人は、牛乳を飲む習慣が最近のことで、牛乳を飲むとおなかがごろごろするなど、いろいろな影響が出やすいようです。
 消化・分解する能力は、年を取るとだんだん弱くなるが、人によって違いがある。
 大腸は水分を吸収する作用と、異物と判断すると、水分を出して、薄めようとする作用がある。
 大腸の中がいわば、水浸しの状態になる―すなわち下痢の状態となる。
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 パン  小麦に含まれている糖でできた物質―フルクタンというものがある
 小腸は乳糖、フルクタン、それに果物に含まれる果糖も分解しにくくなる
 -下痢しやすい傾向がある  食べても平気な人と過敏に反応する人がある
   個人差がある。お米の糖は下痢しにくい。
 牛乳もパンも重要な栄養素となるもの 下痢しやすい人は  
  少なめにするとか、うまく調整しながら食べるとよい。
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十二指腸乳頭から、膵液と胆汁が出される
2、胆汁 
 朝、会社に行くときに通勤時間にトイレに行きたくなってしまって困る
 仕事のストレスではない。仕事の無い土日にも発生。
 自分で記録を取って見た。食後、1時間後にトイレに行きたくなる
 土日は朝食が遅くなるので下痢が起きるのも遅くなる。
 久里浜医療センター 水上 健医師の話
  胆汁は脂肪分を分解する作用を持っている
  胆汁は再吸収され、何度も再利用される
  小腸の末端の機能の衰えが起きてくると、胆汁が大腸に行ってしまう
  すると、その作用で、下痢となってしまう。
  食後1~2時間後おきる 朝だけ起きる
  胆のうを手術で取った場合にも、大腸に行きやすい
  この下痢は、下痢止めが効かない、痛みはない、便を出せばおさまる
    -このような特徴がある
  早めに朝食をとって、家でトイレに行っておくようにするとよい
◎ 
  他に下痢の色々原因がある中で、こういう原因もあるよということです。
  家内の場合、この2つの原因は、当てはまらないといっていました。
  どちらかというと、ストレス性のものが多いように感じるということです。
  筆者は、ありがたいことに、めったに下痢気味とならない。
  これは、いささか我田引水であるが、筆者が自分で長年行っている、唾液を意識的に出
  して呑み込む、咽津法(インシンホウ)によるのではないかと思っている。
   詳しく知りたい方は、色々、「こういちの人間学ブログ」に書いているのでぜひご覧くだ
  さい。

2015年11月11日 (水)

近況、病気になってから、ちょうど2年が過ぎました。回復はゆっくりです

 2015年11月6日で、突然の脳出血からちょうど2年がたちます。
 2013年の11月6日に、ドライブで彦根から大津に向かっているときに脳出血を起こしました。大津の赤十字病院に2週間と少し入院し、そのあとに東京に戻り代々木病院に入院しました。それから3か月と少し、病院ですごし2014年の2月に退院しました。
 入院直後は右半身が全く動かず、少し意識ももうろうとしていました。点滴だけでした。しかし大津でもだいぶ回復して車いすで移動し、食事も普通に食べられるようになりました。転院した代々木病院での日曜祭日も厳しいリハビリが続き退院時には、車いすでさらにいろいろな活動ができるように回復してきました。初期の状況とある程度回復してきた状況については、くわしくは「長いあいだ脳出血で入院していました経過と現状」2014年6月3日の「こういちの人間学ブログ」をご覧ください。
-すみません、うまくつながりません。
その後の6月13日のブログでは「リハビリすすむ。つえで歩けるようになるか」と書き、その後何とか理学療法士さんのつき添いで少しづつ歩く距離を伸ばしてきました。
 発病から2年が経過し、だいぶ回復してきたことと、あまり改善していないところとがあります。その状況をご報告します。
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11月18日の朝焼けです
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上の写真の左側、同じ時間のスカイツリーです
 
 筆者が発病した後、だいぶ後になって、同じ脳出血で、北海道でゴルフ中に発病し、右麻痺が起き、入院した、STコミュネットの社長の平野さんは、最近、つえで歩けるようになり、タクシーに一人で乗って高田馬場の会社まで行けるようになったそうです。まだ右の手足の感覚が十分戻らないそうですが、だいぶ筆者よりも回復が早いようです。
診察・リハビリなどの状況
 月に2回、大久保戸山診療所の医師の訪問診療を受けて居ます。
 月に1回、歯科医の訪問診療を受けて居ます
 週に3回理学療法士さん、週に1回、作業療法士さんのリハビリを受けて居ます。
 医療としての、マッサージをうけています。
 週に2回、入浴サービスを受けて居ます。
 月に1回ケアマネージャーさんが状況を聞きに来ます。
 月に1回、理学療法士さんなどを派遣している事業所さんの看護師さんが来ます。
 けっこう予定が詰まっています。
 何も無いのは、土日だけです。
内服薬の内訳
 朝食後
 ロサルヒド配合錠LD      降圧剤
フェブリク錠10㎎         尿酸を下げる薬
 マグミット錠330mg       胃酸の中和、便通をよくする、
                    尿路結石予防
 エビナスチオン塩酸塩錠   アレルギーの薬
 夕食後
 マグミット錠330mg       胃酸の中和など
 エビナスチオン塩酸塩錠    アレルギーの薬
 センノシド12mg         便通をよくする薬
 ラニチジン150mg        胃酸を抑える薬
 インドメタシンパップ       鎮痛剤、貼薬
 回復の状況は、身体的な面と、行動的な面とに分かれます。
 1、身体的な面
 A,・だいぶ回復してきた側面
 基本的な体力はだいぶ回復してきた。
 はじめはすぐ疲れてしまうことが多かったのですが、余り疲れなくなってきました。
 足のむくみはだいぶ減少してきた。
 発病後、 2年間、風邪等での発熱、腹痛などを起こさなかった。
 血圧は降圧剤を飲みつづけ低めを維持
 体重は発病前から14キロほどダウンし、現状維持
 B.・回復途上のもの
   麻痺した側(右側)の手足の感覚
   目をつぶり手の指を刺激しどの指を刺激したかとあてるもの。
    以前は全く分からず、現在は強く刺激するとわかる。
    びりびりした感じがする。はじめは熱さを感じず、びりびりした感じだけ。
   (視床出血なので感覚麻痺が起きる)
 かすれ声はだいぶ回復してきた
 握力はだいぶ回復してきている。
    まだ強く握ると痛みが起きる
 細かい右手の動きはまだできない。
    ワイシャツの左手のボタンは自分で外せない。
    右手のワイシャツはすぐ外せる
 右手の手相の変化
    細かいしわがたくさん入る
    時々細かい不随意運動が起きる
 腕や肩の関節はだいぶ動くようになってきた。
   しかしまだ、滑らかな動きではない。かくかくとした動き。
   時々肩甲骨のあたりが痛くなり、貼薬を貼る。
 左右足の右足の膝がまっすぐになってきた。右足はまだ不十分。
   上向きで寝にくかった。今も右下を下にして主に寝て居る。
 左のお尻が痛くなるのは軽くなってきた。
    上向きで寝るときは左足を上向きにして寝る。はじめはお尻がすぐに痛くなる。
    次第に痛みが減少してきた。寝具をやわらかくしたのも良かったかも。
 右半身の血の巡りが悪い 少し回復
   右手の指の爪より、左手の指の爪のほうが伸び方が早い。
   (爪は左右とも自分で切ることができる)
   寒いとき、右足のほうがだいぶ冷たくなる。
   手のひらだけは、入院直後から右手の手のひらが温度が高い。
 足の痛み
   リハビリ等で、はじめは左足の膝の横側、(長径靭帯というそうです)がもっぱら痛かっ
   たのですが、今は痛みが減少し、右足の膝の裏がもっぱら痛くなっている。右足はしび
   れと同時に痛みがあります。痛い時には両足の膝に貼薬を貼ります。
 食べる量が減って運動不足により便秘気味
   便秘したら昼、余計に便秘薬を飲む
 
 C,・あまり回復していない側面
 麻痺した右顔面の異常が回復しないこと
  右目、瞼、の痛み 特に目を長時間使った後、とてもうっとうしい。
     入院直後から同じ状況で、眼科でヒアルロン酸と殺菌の目薬を処方してもらいましたが
   治りません
  右耳、右口内のしびれ。右側の鼻がよく詰まる。顔の右側がよく、かゆくなります。
   鼻づまりにはアレルギーの薬を飲み続ける。それだけでなく前から使っている点鼻薬
   を使用している。
   最近、右上唇が腫れ少し出血。下唇も少し腫れ痛み。
 顔面の異常はなかなか治らず、なおしようがないようです。
 左の足首と足裏の麻痺、しびれ、右より強い。原因はよくわからぬが左足親指の力が入
   らず、踏ん張りが効かない。
   -歩く能力の進展の遅れの原因
 2、行動的な面
 A、だいぶ回復してきた側面
 身の周りのことを、自分でする
  自分で使った食器を自分で洗って片づける
  着替えの衣類を自分で出し入れする
  家内が1泊2日で出かけたとき自分一人で生活する
   -もっと長期間でも大丈夫といっています。
 マンションに来た人の応対や郵便物などの受領など。
 泊りがけの旅行に行く 1泊2日は行った。連泊は今後のチャレンジ。
 ブログを書いたり、投稿したりする
 人間学例会に講師として3回出席や二火会などで話をする
   新しく住んでいるところの近くの会場にて開催の時
 B,・回復途上のもの
 つえで歩く。自分だけで歩くのは室内短距離のみ。
   リハビリでは休憩しながら100mほど歩いている。
   多少の段差も大丈夫になっている
 字を書く。主に左手で。右手は練習中。パソコンも今は左手だけで、
   右手で書くのはは練習中。
 食事の時は、左手で箸やスプーンで食べるのに慣れてしまった。
   右手ではスプーンは大丈夫だが、箸はうまく使えない。
 障碍者用の便器なら1人で大丈夫
C,・できないもの、あまり回復しないもの
  階段を上がれぬこと エレベーターの無い自宅、5階建ての5階に戻れない。
      3階にある人間学研究所の例会に参加できない
   人間学研究所にある書物、資料など。新しい自宅にもって来た2000冊以外の8000冊
   を読めない。
 自分一人だけで出かけること、難しい、町がバリアフリーになっていない。
 車いすでも段差があるところ、急な坂は無理
  家内に押してもらう場合でも急な坂は家内の手が関節炎などで痛くなり無理がある。
  車いすは平らなところは左足を下し、右足を台に乗せ左手でタイヤを回す。
  それでは、急な坂では右に回ってしまい直進できない。
 運転免許更新は断念した。
 タクシー、電車などに一人で乗る
 普通のトイレの使用
◎ 以上が、現状の概略です。初めは急速に回復しましたが、今ではゆっくりです。

「人間学研究所通信」No74の発行と合同例会、合同忘年会について

2015年11月2日に「人間学研究所通信」NO74が発行されました。
  HUMANOLOGY No,74
Kc4a08750001
       目   次
1、人間学研究所、実用的人間学研究会合同例会開催のお知らせ p1
2、合同忘年会予告 p1
3、檀上 新: 
   実用的人間学研究会会員、、檀上 新建築アトリエ
    東京オリンピックと新国立競技場建設問題 p2~p10
   (9月17日の人間学研究所の合同例会でお話しされた
    内容のレジメです多くの図版で説明されています)
4、『年誌2015』原稿募集 p10~12
Kc4a08760001
2ページの壇上さんの文章です。この文章では画像がたくさん入っています。
1,人間学研究所・実用的人間学研究会合同例会
  第118回人間学研究所、第78回実用的人間学研究会
 日 時:2015年11月27日(第4金曜日)18時より
 講 師:白村直也氏 人間学研究所研究員
 テーマ:ロシアにおけるインクルージョン教育をめぐって
      ー 2015年10月のモスクワ視察から考える
 会 場:人間学研究所(新大久保佐竹ビル3階)
2、合同忘年会の開催
 日 時:2015年12月3日(木)18時より
 場 所:女子栄養大学松柏軒 会席料理
     豊島区駒込3-24-3 03-3918-2543
     JR/地下鉄南北線「駒込駅」下車
 参加費:5000円
  参加ご希望の方は11月20日までに木村廣子事務局代行までにご連絡ください
◎檀上氏の文章は、改めて、当ブログに掲載したいと考えています。
人間学研究所通信 HUMANOLOGY
編集発行  人間学研究所
発行責任者  柴田 義松
   〒169-0073  
   東京都新宿区百人町1-3-17 佐竹ビル3階
当面の連絡先  木村廣子
   文京区小石川5-11-15-1001
   03-381-2598

2015年11月 6日 (金)

「敵」を作りだす人間ー相対的に見る必要、ゴリラ研究の山極寿一氏、時代の風から

 2015年11月1日の毎日新聞の朝刊2面に、「『敵』を作りだす人間-あらしのよるに」という京都大学学長の山極寿一氏の文章が出ていました。山極寿一氏は毎日新聞の「時代の風」という欄に月に1度ほど投稿を続けています。「時代の風」には、中西寛(京大教授)や西永美恵子氏(元世界銀行副総裁)、増田寛也氏(元総務省)などが、記事を書いています。
 11月1日の山極氏の文章を紹介し、また山極氏が昔から、動物のみならず、人間と人間学にも興味を持っておられることを紹介します。以下毎日新聞から。
Kc4a08720001
 京都南座で「あらしのよるに」という新作歌舞伎を見た。中村獅童がオオカミのガブを、尾上松也(オノエマツヤ)がヤギのメイを演じる。二人とも見事なはまり役である。
 ある嵐の晩に、小屋に逃げ込んだガブとメイが、暗闇の中でお互いの正体がわからないままに話をしながら仲のいい友達になる。翌日の昼に再会を合わせてみたら、食う食われる関係にあるオオカミとヤギだったというわけだ。二人は互いの動物の領域で煩悶する。ごちそうと天敵の関係だ。仲間に説き伏せられて心が折れそうになるが、あらしの夜に友達になった気持ちを優先して手を取りあって進むという物語だ。
 たわいのないファンタジーと言うなかれ。ここには意外な真実と可能性が描かれている。ヤギはオオカミに食べられるものという常識はいったいだれが決めたのだろうか。オオカミはヤギを食べなければ本当に生きていけないのか。ヤギにとってオオカミは永遠に天敵なのだろうか。
・・・
 実は、こうした一見常識に見える絶対的敵対関係を、人間は勝手に作りそして勝手に解消してきたのである。私が長らく研究してきたゴリラはその人間の身勝手な常識に翻弄されてきた。19世紀の半ばにアフリカで欧米人により「発見」されて以来、ゴリラは狂暴なジャングルの巨人として有名になった。人間を襲い、女性をさらっていくという話を真に受けて、多くのゴリラが殺された。逆に中央アフリカの低地ではゴリラは肉資源として昔から狩猟の対象とされている。人間はゴリラにとってオオカミのような存在なのだ。しかしゴリラの平和な暮らしが明らかになると、その見方は一転し、今度は人間の大切な隣人として観光の目玉となった。低地でもゴリラはもはや食料とは見なされなくなりつつある。
 人間どうしの関係でも同じことが言える。江戸時代には、日本人にとって白人たちは人間を食う鬼と見られていた。第二次大戦中、鬼畜米英と呼んで抱いていた恐れと憎しみは一体何だったのか。今だって、テロ集団やテロ国家は抹殺せねばならない存在とされている存在とされている。彼らと平和に共存することは、本当にできないのだろうか。
・・・
 昔から寓話やファンタジーは、動物の姿を借りて人間社会の機微を描きだして、私たちが見習うべき教訓を描きだし、私たちが見習うべき教訓を語りかけてきた。「あらしのよる」から私たちは何を学ぶのか。それは一見とても変更しようのない関係も、気持ちの持ち方で変えられるということだ。知能の高い人間だけに可能な話ではない。野生のチンパンジーも時折肉食する。タンザニアのマハレで50年も研究を続けている日本人研究者によれば近年獲物の種類が変わってきたそうだ。昔はイノシシやカモシカの仲間を食べていたのに、今はほとんどサルしか食べない。これはチンパンジーの狩猟イメージが変わったためだという。
 アフリカでは、人間を襲うライオンもいるが、人間に敬意を表して距離を置くライオンもいる。それは、ライオンと人間双方が長い時間をかけて友好的な関係を築いてきたからだ。私はゴリラが人間の食糧とされていた地域で、武器も餌も使わずにゴリラと仲良くなろうと努力してきた。最初ゴリラたちは私たちを見るなり逃げ去り、追うと恐ろしい声をあげて攻撃してきた。突進を受けて、私も頭と足に傷を負った。しかし、敵意がないことを辛抱強く示し続ければ、ゴリラは態度を変えて人間を受け入れてくれる。10年近くかかったが、やっとゴリラと私たちは落ち着いて向かえ合えるようになった。
 このように友好的な関係になったのは、この地域では、たった1つの群れだけである。他の数万のゴリラたちはまだ人間に強い恐怖と敵意を抱いている。しかしそれがいつか変わる日が来ると私は確信している。それは人間社会にも言えることではないだろうか。ぜひ「あらしのよる」を体験してほしいと思う。
 ◎以上が山極寿一氏の「時代の風」の文章です。以下は筆者の感想です。
 オオカミは人間と違いものすごく嗅覚がききますから、暗闇でもヤギの臭いなどは、すぐわかってしまうでしょう、などとは考えないことにしましょう。
 9月27日にも「都市と故郷」という文章が書かれています。「時代の風」は2010年7月から始まり、2012年の5月20日から山極氏も書き始めました。
 山極寿一氏は、1952年に東京で生まれ、京都大学を卒業し人類進化論研究室に所属しました。京都大学の霊長類研究は今西錦司氏から始まり、伊谷純一郎氏、河合雅夫氏などに引き継がれてきました。霊長類を名前を付けて長期にわたって自然な姿を観察するなど世界的に見ても大変ユニークな研究です。
山極寿一公式ウェブサイトによれば、研究テーマと対象は、次のようです。
1、ニホンザル社会の種内変異
2、ゴリラの社会進化と生態学的適応
3、ゴリラとチンパンジーの種内関係
4、家族の起源とホミニゼーション
5、博物館的手法による野生動物保護
そして2014年の10月には教職員の推薦により学長になりました。人望もあるのですね。
 インターネットで山極寿一氏で名前を検索すると、いろいろなものが出てきます。たとえば。
 ◎山極寿一京大総長の名言bot-「名言録]がありますが
専門領域に閉じこもるものではなく新しい発想を生みだす土壌を持たないと専門分野が広がっていかない。文芸や職人の世界、ものづくり文化が必要で、京都が持つ強みを生かしていきたい。
 みえを切れば戦いが起こるわけでなく、ドラミングはむしろゴリラのオスが戦わないで面子を保って引き分ける用いられるための方法で、これは勝負をつけずに緊張した場面を免れる引き分けのために用いられる。
・ 
 ほんのわずかを出してみましたが、単なるゴリラの研究にとどまらず、社会の問題について深い関心を持っていることがわかります。非常に幅広く文章を書いています。芥川龍之介の文章で、「桃太郎の鬼退治の話が出てきます」一方的に鬼が悪者で、退治されるのは当然と考えるのは、問題だ。鬼の立場でも見なければいけないというのです。これと同じような文章は他でも見ました。山極氏は鬼の立場から考えています。
 興味がある方は、直接いろいろ文章を読んでいただけるとよいと思います。
 筆者も生物学出身で、人間学を目指してきましたが、相対的に人間の立場を考えるという点において、山極氏と同じです。「こういちの人間学ブログ」においても、その観点でいろいろ書いてきました。「桃太郎の鬼退治」の問題も書いてきました。退治される、鬼がかわいそうではないかとという文章の紹介。スターウオーズにおいて、敵方は悪人だからを星ごと全滅させてしまっても平気なこと、渡来民族は在来の竪穴住居の縄文人を土蜘蛛とか、鬼とかいって、征伐していったこと、などを書いてきました。また支配層は被支配者の不満をそらすために外部に敵を使って戦を起こしてきたことなどを書いてきました。中国、韓国、日本の関係も極度な国内の不平等格差の広がりによる不満をそらすために外部に敵を作っています。
 人間学は宇宙レベルから、ミクロの世界まですべての存在の中の一部として、人間を総合的、相対的に捉えます。一時筆者もネアンデルタール人のことを専門に取り上げましたが、ホモ・サピエンスたるわれわれを相対的に見るには必要なことです。
 生物学などからより広く人間を相対的に見ていくこと、その表れが山極寿一氏が総合人間学会にも所属し、いろいろ文章を書かれていることでもわかります。
京都新聞に「日本のサル学のあした」霊長類学という「人間学の可能性」という文章を書かれたり、2010年の総合人間学会の「戦争を総合人間学から考える」でもニュースレターに書いています。その他いろいろ総合人間学会に文章を書かれています。
 これは、はじめに今から50年前に小原秀雄氏と私などが、人間学研究会を始めたときから、小原氏が今西錦司氏のころの京都大学の霊長類研究所とのつながりが大きかったことからもいえます。
 野生動物の保護を進めている、野生生物保全論研究会でも、山極氏は理事として活躍しておられます。野生生物保全論研究会は総合人間学会の前会長の小原秀雄氏がやはり前会長で、名誉会長になっています。小原氏は人間学研究所の名誉所長であり、人間学研究所の副所長の岩田好弘氏も野生生物保全論研究会の顧問となっています。
 興味のある方は、ぜひ引き続き、山極氏の文章を読んでいただければと思います。
2015年11月14日追記
 京都大学の学長選挙の時、たくさん「学長選挙で山極氏に投票しないで」というビラが貼られたそうです。学長になって,雑務に追われると研究が進まなくなるからということからだそうです。
・「サル化する人間社会」集英社インターナショナル、2014年7月
 人間は平和的なゴリラと、争いあうサルの両方の性質を持って
  いる。人間はゴリラからサルのほうへ傾きつつある。
 サルは序列社会である。そしてサルは食べ物を分け合う
  ことができない。
 ゴリラには勝ち負けが付かない、うまく引き分けをする、
 ゴリラは遊ぶことが大好きである。
  ゴリラは家族を中心とした社会を作っている。
追記
 2015年の12月11日の、インターネットの記事です。
ロシアのウラジオスティックの動物園で。生餌として与えられた雄ヤギと、オスのアムールトラが、仲良くエサを食べたり遊んだりして話題になっているそうです。普段から虎は十分な餌をもらっているそうですから、ヤギを餌として襲う必要がないのでしょう。
 

2015年11月 1日 (日)

「こういちの人間学ブログ」のアクセス解析の現状 どうしてわかるのでしょうか

 「こういちの人間学ブログ」も2009年7月より開始して、2015年11月1日の現在まで6年と少しとなります。はじめはアクセスも大変少なかったのですが、おかげさまで次第に多くなり、今から2年前の2013年10月ごろには一日平均1000件ほどのアクセスがありました。
 しかし2013年の11月6日に旅先で脳出血を起こし入院し、4か月ほどブログを書けませんでした。その後退院してからはブログの更新を再開しましたが、右麻痺の後遺症があり、現在もパソコンも左手の片手だけで打ち込み、字も左手でやっと書いています。前の自宅と兼ねた人間学研究所にはエレベーターがなく戻れません。1万冊の本のうち、8000冊の本やいろいろな資料は置いたままです。2000冊はエレベーターのある現在のマンションにもってきましたが、その利用も十分にできていません。パソコンが、ウィンドウズXPから、8、次には10に変えましたが、その結果スキャンした画像の取り込みやブログに書いたアドレスがうまくつながらなかったり、その他、もともと低いパソコンの操作技術などにより、レベルがだいぶ落ちています。大したことではありませんが、ウインドウズ10になり、・などを入れないと行間が自動的に詰まってしまったりします。
 今まで、幅広い情報や海外に行ったりしての幅広い発信をしてきましたが、それもできなくなりました。内容のレベルがだいぶ落ちてしまいました。アクセスが多い記事は病気前のものがほとんどです。
 それでも大体一日400人ぐらいの方に500件ぐらい、ブログを見ていただいております。リピーターとしてつたないブログでも継続して、見ていただいている方々には、本当に感謝しております。ありがとうございました。
「こういちの人間学ブログ」の現状 2015年10月末(2009年9月より)
概数
 記事数累計        690件
 アクセス数累計     114万件
 コメント数累計      646件
 2013年11月よりnifty ココログでは、非常に詳しいアクセスの解析情報を知らせてくれます。
その内容の一端をお知らせします。
 (2015年10月末現在)
閲覧数、訪問者数
 2015年10月、1か月の
 PV(ページ・ビュー数)  15、955件
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サマリー
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  閲覧数が多い順に各記事の順位が出てきます。
    各日別、月別などでの数が表示されます。
      平均滞在時間、直帰率も提示されます。
参照元 検索  
   検索71% その他参照元なし  29%
 参照元種別、参照元ランキング、参照元サイトランキング、参照元キーワードランキング
 検索はYahooとGoogleはほぼ同数ぐらいです。
 デバイス 10月は
 パソコン36% IOS 30% Android 30% 携帯4%
 スマホからのアクセスが大変多いことがわかります 約60%
ユーザー属性 性別、年代、ネットリテラシー
 年代、性別,初級、中級などが出ていますが、どのようにしてわかるのでしょうか。
  もちろんわかるものだけが計上されているのですが。
 
  すべて、推測となっています 2015年10月は
 性別
  男性60%、女性40%となっています
   大体ふつうはおなじ%です
 年代
  10代  4,7%   20代 20,7%  30代 32%
  40代 36,9%   50代以上、5、8%
   (50代以上の方が極めて少ないのです。3,40代の方に見ていただいています)
      ー 11月13日には、10代が18,7%で40代が19,3%、50代が1,7%だそうです
 ネットリテラシー
   初級26%  中級62%  上級12%
検索キーワードランキング
・ 
  yahooでは、比較的検索語がわかりますがgoogleではほとんど、検索語はわかりません。
 10月ひと月では検索キ-ワードは1000以上で記載数限度を超えて居ます。半月で1000以上になります。
 1日では100から150くらいの言葉が検索されます。ただ、たとえばイソンゲとイ・ソンゲなど
 少しの違いでも別の言葉として分類されます。
 比較的多い言葉は
 イ ソンゲ(300)、若杉友子関係(280)、福耳など人相関係(250)、他に
 下町ロケット、各種健康法、高塚 光、館山の釣り関係、国井雅彦病気関係
 村上春樹関係などで、10月はネアンデルタール人関係も多かったです。
 (11月1日3時間番組で、フジテレビの「映っちゃった映像GP」でUFO, 妖怪、心霊などの映
 像を放送しましたが、過去にそういう番組を批判したブログが急増しました。
ユーザー内訳
 足あと
      2時間前までの各アクセス日時、ユーザーID,キーワード、、OS,機種名などが表示され
   ます。
 ユーザー属性
   性別、年代、ネットリテラシーと区分されていますが、これ
   もどうしてわかるのでしょうか すべて推測となっています
 訪問組織ランキング (下記に詳しく提示)
 新着組織(その日に新しく来た訪問組織名)
 閲覧環境・地域
      ブラウザー、OS
   デバイス
   地域(各都道府県のうちどこの地域のアクセスが多いか色別に表示する)
     最も多いところは赤で、少ないところは黒で表示されます。
Kc4a08770001
アクセスのそれぞれの状況が図示されます。
Kc4a08710001
 上の図の地図のところです。赤い色はアクセスの多い都道府県です。絶対数でなく人口
 比でアクセスの多少を見るようです。
訪問組織ランキング(2013年11月より2015年12月まで)
 メーカー、金融商社、情報通信、マスメディア、サービス業、公共機関、大学、小中高校
   これも、どのようにしてわかるのでしょうか。各組織からのパソコンのアクセスがわかる
   のでしょうか。
   以下は2013年11月よりの累計人数です。10人以上のアクセスのあったところです。
   件数はもっと多くなります
  日本電気  90(93)  日立製作所84(88)
  日本放送協会52(56)
  東京放送 40 日本通運 36  朝日新聞33(38)
  日本テレビ33(34) 富士通31パナソニック 31(32)
  東京大学 30(35)パナソニック電工28
  厚生労働省27(30)
  リコー 25  三井物産 23(24) 早稲田大22(23)
  博報堂20(22)千葉県教育委員会19 NTT 18(23)
  横浜市大17(18) 沖電気17(19)  伊藤忠テクノ17
  東北大16(17) 日本ヒューレットP 16(18) 大阪大15
  筑波大13(14)千葉大 13(15) 東京医科歯科大12
  衆議院  12 アステラス製薬 12 慶応大 11
  三菱電機 11 マツダ 11  京都大10(12)
    kDDI 13(16) 中央大10(11) 関西電力10(11)
  北里大10 日生情報テクノ10 関西学院大学15(16)
  九州大学(10)東京理大(11)
  ・(    )は12月27日の数字です
  (外に40校ほどの大学からのアクセスがありました。)
  ・
  2015年10月は69件の組織から89件のアクセスがありました。
 
 

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