2015年12月27日(日)NHKで、「日本人のルーツ大解明 ~」
「日本人のルーツ大解明、ご先祖様を探る旅太古の人骨大量発掘!」
DNAが明かす、新事実、縄文人は超イケメン!?
絶品!古代グルメ復活
壇蜜が縄文宝石に興奮
謎の土偶ミステリー
という内容で1時間15分放送します。放送の内容を報告します。
◎日本人にとって縄文人が極めて重要な位置を占めるという観点では、後の文章に重なります。渡来系弥生人がとって変わってしまったという見方でなく。
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『こういちの人間学ブログ』
「日本人成立のなぞ 弥生人のDNA分析」
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今古い時代の人骨発掘ブーム
石垣島で2万年前の旧石器時代の人骨が大量に発見 沖縄は石灰岩で残りやすい
富山で6000年前の91体もの人骨が見つかった。
小竹見塚遺跡
貝塚の貝殻で中和された 骨が残る
日本は全体として酸性土壌で骨が残りにくい
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篠田謙一 国立科学博物館
ミトコンドリアDNA 日本には5つタイプがある。
北アジア、ロシア・シベリア、東南アジア、中国中部
沖縄、満州などいろいろな地方から
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ミトコンドリアのタイプを分類してみるとアフリカからいろいろな地方に分散していたことがわかる。
5人ともDNAが同じ型で中国にルーツがある
◎縄文人のルーツは北方から南方までいろいろなルーツがあり、それらが融合して、縄文人になった。詳しくは後半の文章で
縄文人の顔の想像図のお面をかぶって出て来る。
実物はこんな人で、縄文人は超イケメンだっという。
こんな人もいたでしょうということでみんなイケメンだったわけではありません。
縄文人の復元図と比較してみる。
縄文時代の食材の一部、非常に豊かな食べ物であろうと推測している。
大きな蠣のからも 貝塚 貝は重要な食物
◎縄文中期には気候が温暖で青森、北海道も食料が豊富だった。人口も増大した。
縄文後期の寒冷期には栗などの木が北方ではなくなり、人口が減少した。
縄文土器で、実際に煮炊きしてみる。土器により食べ物が極めて豊富になった。
どんぐりの粉をもとにして、クッキーを作る。ハチミツなどくわえるとおいしい。
栗やドングリは重要な食材
◎朝鮮では今日でもどんぐりの粉を食用とする
犬は狩りの重要なパートナーであった
犬をペットとして埋葬した後がある( 骨折したのが治ったあとが)
8000年前の網かごが残っています
。ドングリを入れて水でさらす。
耳飾り、実際に取り付けてみて居ます
糸魚川のヒスイが当時つかわれていた。ヒスイは全国に広がった。
長者が原遺跡
竹の先に石英の粉を付けて、穴をあけるのに大変な時間がかかる
土偶の一つ
国宝の土偶です
。1億9000万円だそうです。
小型土偶はわざとわるようにして使った。
自然と共鳴した生き方。
台湾から与那国島まで、100キロ縄文時代の船で渡る。
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1,縄文人短足だった。「南方説」当てはまらず、江戸時代さらに胴長
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2015年11月16日の毎日新聞の記事で、上記のような記事が掲載されました。各新聞でも同様な記事が掲載されました。
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温暖な地域からやってきて、脚が長いと想像されていた縄文人は、弥生人と同様に短足だったことが骨の分析で分かったと、国立科学博物館のチームが発表した。江戸時代の人は縄文人より胴長短足だったことも判明した。
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縄文人は、顔の形の研究などから、南方の出身とする説が古くからある一方、謎も多い。同博物館の海部陽介・人類史研究部長は「体形から考えると、起源は南方よりも、(寒冷な)北方だとする説を支持する結果だ」と話している。
・チームは北海道や本州、四国、九州にある20の遺跡で出土した主に6000~3000年前の縄文人63人分の骨を計測。島根、山口両県と九州北部にある4遺跡から発掘された弥生人27人分を調べ、体形データを比べた。
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一般に、温暖な地域では胴に比べて手や脚が長く、寒冷な地域では短くなるとされる。
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縄文人は脚が長い熱帯型とは言えず、北東アジアを起源とする寒冷地型の弥生人と差が無かった。身長は弥生人のほうが高いという特徴があった。
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東京都内で出土した94人分ある江戸時代の人骨のデータを調べると、縄文人や、弥生人より、明らかに胴長短足だった。原因は不明だが、江戸時代の平均身長が低いことと関係がありそうだという。
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2、「骨が語る日本人の歴史」
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刊行、ちくま新書、820円+税、筑摩書房。片山氏は1945年生まれ、先史人類学、骨考古学。京都大学名誉教授。
帯封には、縄文人は来なかった。-縄文人は南方から来たのではない(骨考古学が明らかにする日本人の起源)。-大陸から来た渡来人が縄文人を駆逐したというのも本当ではない。そもそも「弥生人顔」など存在しない―旧来の歴史学に根強く残る誤謬を科学的史観から検証。
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旧石器時代
港川人 沖縄地方、1万8000年前、旧石器時代唯一の全身の骨、頭骨が残る
低く広い顔、頑丈な咀嚼筋、低身長、、歯を道具として酷使
鈴木尚氏(東京大学)は当時の日本列島の代表であるとした
◎「骨から見た日本人のルーツ」1983年、岩波新書など
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港川人をもとにして、日本人のルーツを鈴木 尚氏(東大教授)の「縄文人南方起源説」に対して、反論が出ている。また後継の東大の埴原和夫教授の「二重構造論」が主流をなしている。
消えた、「明石原人」「高森原人」・・・原人ブーム
それに対して
篠田謙一氏 ミトコンドリアのDNAの型(ハプログループ)北海道から来たグループや、朝
鮮半島から来たグループなどが根幹となる。
海部陽介氏の港川人は東南アジアの系譜につながるもので、直接日本人の祖先になら
ないとする説
最古の日本人は氷河期に7~6万年前に陸地を歩いて日本列島にやってきた。海水面の大幅な低下。海退時代。
港川人で日本列島の旧石器時代人を代表させるのは難しいようだ。おそらくは琉球諸島だけに限定される人々だったようである。
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新石器時代、縄文時代
縄文人15000年前から13000年前から2500年前ころまで
温暖化、海進現象、日本の大陸からの分離がおきた
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縄文人が旧石器時代人の系譜に連なるのはまちがいない。その旧石器時代人だが、なかでも本州域や北海道の人々は、そもそもは特定の地域から来たのではなく広く東アジアの大陸部から「吹きだまり」のようにして集まってきた可能性が高かろう。その人々が混和融合、豊かな自然に恵まれた縄文列島に適応した結果、一種独特のユニークな顔立ちと体形を特徴とする縄文人が生まれた。そんな彼らが縄文文化を育んだ。そんな物語が描けまいか。p50
縄文時代人の人口はその絶頂期でもせいぜいが20万人程度。
縄文人が南方の起源であるとした埴原和郎(東京大学)の「日本人二重構造論」もあやしくなる
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p46、日本列島における人口増加
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◎上記の人口の変化を見ると、縄文早期に2万人だったのが、縄文中期に26万人に増加した。それが人口が縄文後期には16万人になっている。これは2300~1000年前ごろに寒冷化が起きて人口が大幅に低下したのである。再提起には8万人に減少したともいわれる。又火山の影響も大きい。2万9000年前の九州の姶良カルデラでは九州の縄文文化は壊滅した。縄文時代は途中まで温暖であったが、寒冷期には2度ほども低下し、縄文人が減少したとともに、満州や韓国の北方にいた人々も南下してきた。人口が減少してきた縄文末期の日本は朝鮮半島などから移住しやすかったであろう。又朝鮮よりも日本の方が温暖であった。
いずれにしても今まで人口が減少してきたのは寒冷期であった。温暖化で騒ぐのはおかしい。
現在よりも1から2度ほど温度が高い縄文中期に、人口は最大になった。ドングリやクリなどが豊かな森が広がっていた。関東、東北地方には鮭などが多数遡上した。縄文人は関東、東北地方に多く住んでいた。
たとえば青森市にある山内丸山遺跡は500人近くが住んでいた縄文期最大の集落と推定された。このころには温暖期で栗がたくさん収穫された。しかし寒冷化が進んでくると食料がなくなり4200年前ごろに放棄されたと考えられている。世界的にも寒冷期に文明が衰退している。また北方民族の南下が生じてくる。
寒冷化と乾燥化が進んでくることになると、植生が大きく変わった。食物がえらっれにくくなった。そして縄文人の人口は大幅に減少した。それに対し、九州などの西日本は、関東、東北に比べ打撃が少なかった。
現在の気温上昇は都市化に伴うヒートアイランド現象の影響が大きいように思われる。地球温暖化を騒ぐ連中は南極の氷が解けて海水面が上がるといっていたが、最近はむしろ南極の氷が増えていることが報告されている。
以上ブログ筆者
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アジア大陸方面から吹きだまりのように集まってきた人々が、新しい革袋の中で新しい酒が醸成されるようにして、新しい人々、つまりは、縄文人が形成されたのである。その意味で、「どこからも縄文人」は来なかった。「縄文人は日本列島の中で生まれ育った≫のである。そんな逆説的な言い方も可能なのではあるまいか。p74
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弥生時代
2500年前から1800年前の700年ほどの時代
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弥生時代の人骨の出土数
出土する北部九州地方と西部中国地方の人骨数が圧倒的に多いので、あたかも、弥生時代の「代表選手」か「典型」のように取り扱われる。しかしこの地域は日本のごく一部にすぎない。
大きく分けて弥生時代の人々には、渡来系、南九州系(隼人系)、縄文系、琉球系がある。(蝦夷は広くは縄文系か?アイヌ系の人々もいたと思われる)
多様な人間模様を「渡来系」か「縄文系」かでの二分論で単純化することによって、いわれなき混乱、短絡、ステレオタイプの回路が生じることのほうが恐ろしい。p89
篠田謙一氏 縄文時代朝鮮半島南部には日本の縄文人と同じ姿かたちをし、同じDNA型を持つ人々が住んでいたのではないか。2007
「弥生人」は弥生時代を共有する人すべてをさすべきである。実際に弥生人は様々である。
しかし、テレビや教科書では渡来系弥生人ですべて代表させてしまっている。
顔がのっぺりとして長く、目が細く、一重瞼、耳たぶは小さく、唇が厚かった〜など。
実際は地域性がとても強く、さらに同じ地域でも前期、中期、後期で時期差が無視できない。それで弥生人に「 」をつける。
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◎弥生時代、縄文系の土着民は、中部?、関東、東北?、北海道に多く残っていた。(?は標本数が少ないため)北方にいた人々は蝦夷-エミシと呼ばれた。南九州系は隼人-ハヤトと呼ばれた。琉球も独自な人々。近畿地方は混合型。昔の関東は縄文型、現在の東京中心にした地域は色々な人が混在している。(以下◎はブログ筆者の見解)
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渡来系の人々は北九州、中国地方、近畿地方に多く住む。
教科書にも書かれている説、渡来した弥生人が縄文人に置き換わったわけではない
「渡来系弥生人」は、ある地域に集中しており、そこでも、どの時期にも渡来人ばかり、ということではなかったようである。p87
◎渡来系の人々も北九州から近畿地方にかけて百済系の人が多く、北陸、関東地方には新羅系の人々が多いという。
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◎ 中国から見て倭の人々 後漢の王充の論衡に記載。高床式住居、文身(いれずみ)、米栽培、をし、揚子江下流域、南朝鮮と日本列島に住む人々がすんでいた(日本では縄文人)。後で、北方の百済などの渡来人がたくさん来る。天皇家の歴史。初め渡来人でも伽耶系、前方後円墳が南朝鮮でも日本でも見られる。対馬を挟んで自由に行き来していたと思われる。王朝が任那系から百済系に変換していった。
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日本人そっくりな中国のトン族-追記
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◎倭の人々は揚子江周辺に住んでいた人々がルーツである。
呉越戦争で紀元前473年に呉が敗北し、南朝鮮や日本に移住。
紀元前4世紀吉野ヶ里遺跡は呉人が作ったという。高床式住居。
紀元前314、越が楚に敗北越人の日本への大量移住。出雲から北陸、新潟にかけて。
-越の国、の由来
紀元前219-221年、秦の時代、徐福が3000人を引き連れ移住
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世界で一番美しい瞬間 2016年3月30日再放送。
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中国貴州省中心に、少数民族、トン族 他に江西省、湖南省などに 人口250万人 元々は揚子江周辺に住んでいた。百越と言われた人たちの一部。漢民族に追われて貴州の山間地へ。日本との共通点が多い
稲作、林業で生活。中心部に木造の立派な建物、鼓楼を木組みだけで作る。
丸顔で日本人そっくり 神道に似たアニミズム。礼儀正しく、老人や子供を大切にする
人を助け、歌が好き。FR-02b遺伝子が共通。
揚子江下流にいた百越(倭)の中で、一方は南朝鮮、日本へ、一方は中国南部(貴州省、雲南省など)へ。
トン族の人々
おそらく倭人、縄文人が各地域でさまざまに変容した縄文系「弥生人」を基盤とした。そこに、北部九州から日本海沿岸部にかけて住み着いた渡来系「弥生人」が重なった。続いて、そのあたりを中心に両者が混合して生まれた混血「弥生人」が加わった。これらが混成した総体こそが「弥生人」、あるいは倭人なのである。ことに西日本では、弥生時代の後期ごろに世相が激しく騒擾し、いっそう複雑な「弥生人」の人間模様が生まれたのではなかろうか。p108
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ともかく弥生時代、ことに後半となると、おぞましき「殺傷痕」を持つ人骨の発見例が多すぎる。クニや国が領地や利権を利権を争うことになり、北部九州、瀬戸内海、山陰、近畿の一部では世相が大いに乱れた。その後、卑弥呼が女王に推挙され邪馬台国が生まれ、やがて国家組織へ向かっていった。p114
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古墳時代
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古墳の出現は3世紀(邪馬台国)、最盛期が5世紀(倭の5王)、終末期が7世紀(律令政治始まる)。国家成立の前夜時代。階層分化による身体変化が現れる。巨大墳墓。
弥生時代から、古墳時代に移るころ、地球は寒冷化した。北方民族が相次いで南下してくる。しかし、当時100万人ほども渡来人が来たという説はおかしい。だいたい当時の日本の総人口が100万人ほどであった。
大型古墳に葬られた人々の骨格の華奢化、顔立ちの変化は渡来人との混血というより、階層分化に伴う生活様式の変化、社会構造の変化による。
横穴墓に葬られた一般庶民の人は、いかにも庶民的で、寸詰まり傾向の顔が多い。
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◎食べ物の変化。支配層ー柔らかな食べ物、顎の形の変化-小型化
その傾向は現代までも持続する
古墳時代の終末になる7世紀、663年白村江の戦い。
百済の滅亡と百済の人々の日本への移住
朝鮮と日本の断絶の方向へ
弥生時代から、古墳時代までが倭人の時代。
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片山氏の本には中世人、近世人、近現代人
2部、「身体史観」の挑戦、司馬史観に物申す、など興味深いことが、載っています。
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日本人の成立、奈良時代から以後 中世人
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奈良、平安時代には資料となる人骨の数が極めて少ない
奈良、平安時代から、日本人といえる時代になった
ひどく背丈が低い、、頭が長い才槌頭、口部が付くでる突き出るおちょぼ口、反っ歯など
が目立つ。男は小太り、女はぽちゃんである。
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鎌倉時代から戦国時代にかけて
長頭型、反っ歯、顔が広く鼻が低い、四肢骨は現代型へ。(明治期までの現代)
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近世人ー江戸時代の身体的特徴
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成人の平均身長、男性で158センチ、女性で144センチと推定できた。なんとも低い。何しろ、今の中学生高学年ほどの身長。江戸時代人の背丈の低さは記録的であった。180センチもあるような俳優が闊歩する時代劇がいかに非現実的かわかるであろう。
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京の人々の状況-600もの伏見人骨
低顔丸顔大頭の大多数の庶民顔と、長顔、高顔の大名顔、貴族顔、役者顔も少しは
あった。
庶民の四肢はともかく低い、小太りで胴長短脚。虫歯が多かった。鉛白による鉛中毒が、特に女性に多かった。また特に男性は梅毒にかかったものが多かった。
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◎すでに故人となった、筆者の父親は現在ではそれほど背が高くなかったが、他の人がさらに低く、脚が他の人より高いということで騎兵となったのが、自慢でした。(肢が短いと鐙に届かない)満州で騎兵の時、上官が乗馬で有名な西大尉だったそうです。騎兵はすぐにサーベルをつけ、1等兵にもすぐなったようです。格好の良い写真が残っています。
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現代日本人
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身体史観的には、旧石器時代人から新石器人(縄文人)、倭人から、日本人へ、さらに現代日本人(超日本人)へと、日本人の歴史は流れてきた。歯の小型化と下顎骨の華奢化
戦後、背が急激に伸び顔型も変わった現代日本人は異質である。
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間違いだらけの歴史教科書
とんでもない顔立ちの肖像画―織田信長、聖徳太子
リアルな人物像を疎む歴史教科書類
現代日本人に、縄文人似も、弥生人似もない
3、「縄文人からの伝言」
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岡村道雄著、2014年7月22日刊行、集英社新書、720円+税、集英社、岡村道雄氏は1948年新潟県生まれ、考古学者、j縄文研究者
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「縄文と弥生日本人の本当のルーツ』はどっちだ。
私たちの祖先「縄文人」が、日本列島の各地で、その地域風土に適した文化を築き、豊かで安定した平和な生活を持続していたこと、そして、1万年という悠久の時間を積み重ね、日本文化の確かな基礎を築いていたことが、次第に明らかになってきました。
竪穴住居
在地土着の集団は、竪穴式住居に住んでいた、土で表面を覆った作り方。日本の気候風土に適した作り方であった。しかし支配階級の渡来民族から見て彼らは土蜘蛛と呼ばれた。 土屋根竪穴住居、茅葺の竪穴住居は間違い。
縄文里山 自然と共生の歴史
栗林やウルシ林
粘土、珪藻土、岩石、ベンガラ、天然アスファルト
豆類、エゴマ、ゴボウ、アサ、ひえ、ヒョウタン 原始的な畑
貝塚集落の豊かさ
自然に囲まれ育て管理し、隣の集落と適当な距離をもちつつ
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◎縄文時代は、いわゆる原始共産社会であった。身分、階級制のない時代で、弥生時代以後も、各地の村落にはその気風が残っていた。
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4、◎「こういちの人間学ブログ」
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「日本人の起源2、弥生時代以後、川口氏のカオロジー」
2009年11月4日のブログ
顔を他の人々と比べてみる、日本人は多くのアジアの人々が融合している
川口氏は、日本人のルーツになる6つのタイプと、それぞれの特徴が混合した、モザイク ミックス、とブレンドの8つに分けている。
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モンゴリアン 蒙古系 顔が丸い、目が細い(蒙古出身のお相撲さん)
ミカドニアン ツングース、朝鮮系 面長細い顔、吊り上がった眼(お雛様のお公家顔)
ドラグーン 中国北部系 仙人のような顔立ち
ヤマタイ 南中国系 丸顔 庶民的な日本人の基層の顔
(◎呉越から、一方は南朝鮮、日本へ、一方は中国南方へ貴州、雲南省)
米作、高床式住居、分身、神道的宗教
トロピカル 南洋系 二重瞼、厚い唇、色黒
オリジン アイヌ系 多毛 ホリが深い
モザイク・ミックス
ブレンド
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詳しくは直接ブログをご覧ください
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