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2015年12月

2015年12月30日 (水)

岩城正夫先生から「鳴子こけし風ネコ木像」をいただきました。『セルフメイドの世界』について

「鳴子こけし風ネコの木像」を送っていただきました。 
 2015年12月28日、人間学研究所でお世話になった。名誉会員の岩城正夫氏から、「鳴子こけし風木像のこと」というお手紙と「鳴子こけし風ネコの木像」を送っていただきました。お手紙にはこのこけしのを作る由来が詳しく書かれており、岩城先生のいくつになってもお元気で意欲的に物事に取り組んでおられる姿に感銘いたしまして、お礼の手紙をお送りするとともにブログにも書かせていただいた次第です。
 岩城先生への返信のお手紙には、2015年10月15日に、人間学研究所合同例会でお話しした「ネアンデルタール人などと私たち人類」のレジメも同封させていただきました。レジメには岩城正夫先生の監修され、解説を書かれている、『ネアンデルタール人の首飾り』の紹介も書かれています。
 又、お手紙の中で『セルフメイドの世界』の中で鳴子こけしのことが書かれているとのことで、さっそく注文をし29日にはもう本が届きました。その本については改めて書きます。
 『セルフメイドの世界』私が歩んできた道は、2005年12月1日発行、アイ・エイチ、発売、群羊社で、定価1300円+税
 送っていただいた「鳴子こけし風ネコの木像」です。大きさは10センチほどです。
これほど小さい木像を細かく彫るのは大変な技術です。首をまわすとキュッキュッとなります。
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・ずいぶん細かく丁寧に彫られています。
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「セルフメイドの世界」の本です。内容は次の通りです。
1,手作りの火・30年の経験から
2、手作りの火・他人にもすすめたい
3、どうして「手作りの火」を始めたのか
4、セルフ・メイドの拡張
5、私のセルフ・メイドの源流
6、手作り体験から見た「道具」「機械」
7、私の「道具」「機械」「技術」論
付録 本書に関連する論文
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p19に載っている 鳴子こけしです
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p21、左は鳴子こけしを半分にしたところ 、右の写真はこけしに首をいれるところ
いただいた、お手紙には詳しい経過が書かれています。
 やっと念願の私流「鳴子こけし」が完成しましたので記念にお送りします。その記念たるいわれを述べさせてください。
 回して「キュッ」となる理由が実は鳴子こけしの原理と古代発火法と深いかかわりがあることがわかりました。
 20余年が経ち、『セルフメイドの世界』を執筆するにあたり、鳴子こけしのことを思い出しました。その内容は上記のように本に書きました。
 数年前にはじめてネズミもちの木で、鳴子こけしを実際に作られました。簡単にできましたが、白木の、顔を描きいれるこけしでは二番煎じなので、「鳴子こけし風仏像」をつくろうとしました。しかし思いのほか時間がかかり鳴子こけし風ネコ木像にされました。
 ネズミもちのような堅い木は首はいれやすいが彫るのは難しく、ヒバのようなやわらかい木は彫りやすいが こけし人形にならない。でもそれを克服したのが今年になってからだそうです。また郵送できるような小さな人形には小さな工具が必要でした。工具を自作したりもしました。いろいろな動物の顔を彫りましたが最終的にネコに決めました。
 小さいものはかけたりしやすく一体づつ丁寧に作りました。
 そして、日ごろお世話になっている方々(こちらこそ大変お世話になっています。気にかけていただいて本当にありがとうございます。)に逐次お送りしたいと思っております。
 この作業が終わったら、今度は人の顔の「鳴子こけし風仏像」に本格的に挑もうと思っています。
―頂いたお手紙の概略を書きました。
 『セルフメイドの世界』-私が歩んできた道、
 は岩城先生のご研究の総まとめとなるものです。今まで取り組んでこられた研究の全てが書かれています。
 岩城先生は人間学研究所の例会でも、いろいろとお話を伺いました。またいろいろ実物で見せていただきました。電気パン焼き器、手作りの紙巻きタバコ器、いろいろな火おこしの方法、古代の弩の再現のお話などです。岩城先生のお話はいつも実演と一緒でとても興味深いものです。和光大学での講義でも、いつも大変評判がよく、何百人も学生さんが集まるそうです。
 岩城先生のお弟子さんで人間学研究所の関根秀樹さんにも例会で何度も実演とともにお話いただきました。
 本の末尾には5つの論文が載せられています。
 あとがきに、物心ついてから数え切れないほど失敗をしてきた。そして失敗が苦にならない心境をつかむことができた。これからも私としては自分の気力が続く限り今後の人生を精力的に楽しく生き続けようと思っている。
 
・ 
 だいたい少しのことで人はへこたれてしまいます。
 岩城先生がこの本を出版されてからちょうど丸5年です。そして、今度送っていただいたこけしでも、いろいろな失敗の末にうまく作られ、さらに、新しいものにチャレンジされようとしています。
 私も岩城先生のようにいくつになっても、失敗を恐れず、チャレンジしていきたいと思います。
 岩城先生本当にどうもありがとうございました。
 

2015年12月29日 (火)

「慰安婦」解決 日韓合意、各紙報道。大久保の街は?新宿新聞

新聞各紙「慰安婦」問題決着と、
 2015年12月29日の毎日新聞、日経新聞の朝刊は、「慰安婦」問題が決着したことを、1面トップで報じました。おそらく、他の新聞各紙もそうでしょう。それからその前にとどいた新宿新聞の元旦号の18,19面は「『しんおおくぼ』コリアンタウン”韓流”一色から多国籍化への波」でした。その二つを関連させてご報告します。
 毎日新聞では「慰安婦」解決 日韓合意、「最終かつ不可逆的」日本財団に10億円、首相おわびと反省、とありました。日経新聞でも同じような見出しでした。毎日新聞では2,3,5,6,7、29面に記事があり、日経新聞でもいろいろ記事が載っていました。特に、毎日新聞では29面の社会面の半分以上を、日韓関係 高まる期待という記事に使い、新大久保周辺の在日コリアンのまちはということが新大久保の街の写真とともに載っていました。2012年に李明博韓国前大統領の竹島上陸あたりからこじれ始めましたが、毎日新聞の記事では安倍首相の持論を封印し、安倍外交のトゲ抜く、としています。
 オバマ米政権にとって、日米韓の連携が極めて重要で、中国の軍事パレードなどに出席した韓国への警戒感が早期の日韓関係改善をうながしたということです。又日韓の財界にとっても関係悪化がこれ以上進むのは好ましくなかったのでしょう。
◎アメリカと財界の意向では安倍首相も従わざるを得ないでしょう。
 前にも書きましたが
3面に「持論封印 首相に実」、「安倍外交のトゲ抜く」首相自身の保守的な支持層の反発も覚悟しつつ「実」を狙ったものだ。
「関係改善米戦略に必須」ーとあります。
 毎日新聞における各識者のコメントに、「合意必要性 説明尽くせ」とのヘイトスピーチ問題に詳しいジャーナリストの安田浩一氏のコメントがある。
 「気になるのは、私がネトウヨ(ネット右翼、史観)と呼ぶ考え方を持つ人々の受け止め方だ。彼らはヘイトスピーチデモの参加者であり、安倍首相の熱烈な支持者でもあった。今回の合意は彼らと距離を置くもので、実際一部は「首相に裏切られた」という思いを抱いているようだ。政権には今後国内向けに、なぜ今回の合意が必要だったかの説明が求められる。さもないとネトウヨ観を持つ人々が、それこそ「不可逆的に」暴走しかねないだろう。
 毎日新聞の論説委員、岸俊充氏は傷癒す真の解決を、と書いています。
 毎日新聞の「余禄」には、過去のアジア女性基金の元慰安婦への「償い金」支給に当たり、「心からおわびと反省の気持ちを申し上げます」という手紙を手渡した。、今日の合意ではこの文章の半ばに日本政府は「責任を痛感」の句が挿入された。この責任の一言をめぐる、日韓合意にいたるまでに費やされた時間、両国民の感情的対立を思えば天を仰ぎたくなる。その間に償い金やおわびのメッセージも受け取ることなく世を去った多くの元慰安婦を思えば残念でならない、とある。
◎今度はおなじ拠出金でも、民間ではなく政府が出すことが異なっている。いろいろな国への援助金を、多額にポンと出す安倍内閣が、たった10億のお金をどうして早く出せなかったものであろうか。
毎日新聞、12月29日社会面トップの画像です。
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「日韓関係 高まる期待」というのが、記事の見出しです。
「慰安婦」解決合意 在日コリアンのまちは
「ヘイトスピーチの怖さ今も」
 となっています。そして5人の方々のコメントが載っています。
上記の安田浩一氏のコメントもその一つです。
 写真は多くの人がいきかう東京・新大久保のコリアタウン、28日午後4時猪飼氏撮影
ここは新大久保駅からすぐの大久保通です。
もう学校などは休みになっているのでしょう、人通りが大変多くなっています。
大阪の生野のコリアタウンのことも書いてありました。
新宿新聞の新大久保に関するj記事
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上の地図は大久保通り、下の地図はイケメン通りです。
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 新宿新聞の2016年元旦号です。
 18,19面が新大久保関係の記事です。17面には、池袋のチャイナワールドのことが載っています。
 いつも筆者のブログを見ていただいている記者の方から、大久保の情報を得るために、お会いしたいというお話がありましたが、今車いす生活なので、ということでメールで筆者の知る限りの情報をお伝えしました。
新大久保コリアタウン、”韓流” 一色から多国籍化への波
 ベトナム、中国、ネパール、イスラム圏までとなっています
 このほかにも、台湾、蒙古、タイ、トルコとハラールフードの店、インド、チュニジア、インドネシア、韓国系中華料理(延辺料理)、高田馬場よりにはミャンマー料理などのエスニック料理や、スペイン料理などのお店もあります。フランス料理などは神楽坂に行かないとありません。ともかく新宿にはほんとにたくさんの国々の人が住んでいます。レストランではありませんが、筆者のビルのテナントさんにはコンゴの食材店があります。
 記事には、大久保通り、韓国以外の外国店舗新たに8店進出となっています。
2階以上の店や地下では賃料が低下しており、韓国系の店が抜けた後にアジアの店が加速中だ。15年は駅前で中国系の料理店2店、韓国系のカラオケ店の後には「ベトナムフォー」が2号店を出した。
 大久保通りの明治通りよりは15年は韓国系の新しい店に混じり、1階にベトナム、2階にネパールの料理店が入ったビルもある。セントラルビルの地下街ではチキンホリックが抜けたところもベトナム料理がはいった。
 ベトナム勢はネットカフェを含め15年に新大久保の東側エリアに一気に計5店を出店した。地域の日本語学校での急激な学生増が背景にある。
 脇道では路面店でも1万5千円程度と安く14年はアジア関連の店が5店出店。15年にも台湾混ぜそばアフリカ食材店が開店した(筆者の。コンゴのお店)。
 地元商店街でも多国籍化を歓迎し、街頭放送も22か国語にした。伊藤節子商店街理事長も多国籍化を歓迎し、筆者も歓迎しています。
 韓流ブーム期に拡大したカフェは1年で6店減、コスメの店も27点から21店へ減少しました。カフェの減少にはキリスト教系のカフェも減少したと書いてありますが、筆者のお客さんでした。コスメの店の減少は円安の影響が大きいのです。
 新大久保では無料のシャトルバスを運行しています。週末を中心に1日6便運行している。1日30人~60人利用しているそうです。
◎この新宿新聞は日韓の関係改善の前の記事です。改前後、良い方向になって、新大久保全体が盛り上がっていくと素晴らしいと思います。
 
 

2015年12月25日 (金)

家庭用電気も2016年4月から販売自由化、東ガス価格発表。スカイラークも新電力に。

 すでに、大口の電力は販売が自由化されていましたが、来年2016年から、一般家庭用の電気も東京電力などの電気会社からでなく、他の電気会社から買うことができるようになりました。
 ガス会社が来年から発売の電気料金の発表
 2015年の12月24日の午後9時からの、NHKのニュースウォッチ9の毎日新聞のテレビ欄では、「電力自由化・いよいよガス会社が料金発表」と載っており、どの程度報道するか期待して見ていました。
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 NHKテレビのニュースでは、かなり短い時間のニュースでした。2016年の4月から東京ガスなどの系列の電気会社も電気を小売りできること、電気料金は両親と子供1人の標準家庭で年に5000円ほど安い料金を設定するということでした。東京ガス系列の電気小売り会社はエネットで、既に大口の電力、すなわちキュービクルを置いてあるような建物は適用されていました。筆者のところも、既にエネット設立の時から東京電力からでは無くエネットから購入していました。請求書に東京電力だったらいくらという対比表が載っていて、平均5%ぐらい道教電力より安い電気を買っています。場合によると10%も安いときがあります。累計でずいぶん電気代の節減となりました。
 東京電力はじめ大手電力会社は原子力発電をしていて、それに反対する筆者は当然東京電力以外から電気を買いたいと思っていました。又さらに東京ガスの委託店のエネスタの店を経営していましたから当然です。現在、筆者の息子や社員はライフバルとして、東京ガスの資本も入った合弁会社に入っています。
 エネットは天然ガスを使った、高効率のボイラーで発電しているため、東京電力より安く発電できるのです。
 原子力発電は発電コストが安いというのは、現在、誤りがはっきりしています。
しかし安倍内閣は原発の稼働を積極的に進めています。
25日NHkニュースウオッチ9も「電力自由化いよいよ、電気料金どう変わる」を放送します。
ニュース冒頭から24日に比べると詳しく報道がありました。東京ガスでは作業員がお客さんに積極的に進めていると、お客さんに進めているライフバルの社員も紹介していました。しかし供給範囲が違います。東京電力のほうが地域が広いのです。
 東京ガスの供給地域は赤く表示したところだけです。
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東京ガスの需要家件数は、現在1000万件を超えています。
 東燃ゼネラルの会社をあげての取り組みも紹介していました。
 NHKでは、イギリスが自由化したが結局大手だけが残りかえって電気、ガス料金が上がったといっていました。
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高浜原発で「プルサーマル発電」の再開へ
 毎日新聞12月25日夕刊には、1面に、「高浜原発 燃料装着へ」という記事が載っています。原発3号機に核燃料を装着する作業を始める。関電は来年1月28~30日頃再稼働を目指すとなっています。
 高浜3号機はウラン・プルトニウム混合酸化物をつかう「プルサーマル発電」をしていた。今後も使用する。プルサーマル発電は福島原発事故以後初めてです。
 高浜原発3,4号機については、福井地裁が運転差し止めを命じた4月の仮処分決定を取り消す決定をだした。
 危険なプルトニウムの使用はやめさせなければなりません。
「すかいらーく1200店を新電力に」
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 12月25日の日経新聞朝刊3面News &Dataには、
「すかいらーく、1200店を新電力に」という記事が載っていました。
 ファミリーレストラン最大手のすかいらーくは電力コストを削減するため調達先を大手電力会社から新電力に切り替える。2016年2月から3月にかけて、全国のファミレス約1200店舗で実施する。電力の調達先を東京電力や関西電力から、新電力大手のエネット(東京・港)と伊藤忠エネクスに切り替える。年1億円程度のコスト削減を見込む。
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 1億円違うとかなりの経費節減になりますね。
 すでにいろいろなところがェネットなどの新電力に切り替えています。今でも発電能力が少ないのに、来年一般家庭も切り替えたら、発電能力が足りるのでしょうか。
ローソンが電力小売りという記事が12月25日の日経新聞15面トップに載っています。
 三菱商事84%、ローソン16%出資し、共同で新会社、(コンビニで初参入)、資本金2億5000万円で「MCリテールエナジー」を設立した。新会社は中部電力と三菱商事が共同出資する新電力のダイヤモンドパワーから電気を調達。新会社は利用りょうきんに応じポイント、ポンタを付与する。
 新電力は他社と提携し顧客獲得を狙うとし
 東京ガスーNTTコミュニケーションズなど12社と提携。インターネットサービスとのセット割
      引などを用意
 東急パワーサプライ、東燃ゼネラル、JX日鉱日石エネルギー、
 三菱商事とローソン(4000店)など
 東京電力も1年遅れで、ガスの販売に参入します。
 東京電力とインターネット接続会社のソネットは24日電力とインターネット通信をセット販売すると発表した。
来春自由化、新電力、顧客獲得本格化(毎日新聞26日朝刊)
 年明けから、消費者が電力の契約先を変更する事前受付が可能になるため、大手電力より割安な価格をアピールする動きが相次ぎそうだ。
経産省に登録を済ませた主な事業者
 ガス会社(東京ガス、大阪ガス、東邦ガス、西部ガス、静岡ガス&パワー、北海道ガス)
 石油元売り系(JX日鉱日石エネルギーなど)
 再生可能エネルギー系(神奈川県太陽光発電協会、ミツウロコグリーンエネルギーなど)
 その他(KDDI, 東急パワーサプライ、岩谷産業)
 東京ガスではガス料金とのセット割引で東電の現行料金より4%割安(年間約5000円)と設定する。また関西電力では5%割安となる。
 「首都圏で50万件目標」とJX日鉱日石社長の談話が載っています。
ガソリンも組み合わせて安くするということです。
◎欧米では、再生エネルギーだけを使った電気だけで発電していることを明確にし、多少割高でも購入している人が増えているということです。
三菱・日立パワーが発電用最新鋭ガスタービンを米で生産
 環境負荷の少ないガス火力発電が今後、増加すると見込んで、アメリカのジョージア州の工場で生産する。従来機に比べ年間の燃料コストを数千万円から数億円削減できる。
 世界のガスタービンを使った発電設備総量は30年に12年比5割増しの2280ギガワットに達する見通し。(日経新聞)
◎現在、極めて効率の良いガスによる発電が伸びており、反面原子力発電はますます割高になっている。
1月2日に家内の親戚一同が集まります。電気の請求書を見せてもらいます。
 1月2日に、家内のお母さんと、うちの息子の家族、そして、家内の兄妹3人の家族が、うちの自宅近くの集会室に集まります。今度新しく結婚した人たちの紹介も何組かあり、20人を超えるにぎやかな会となります。
 うちの息子は東京ガスのライフバルの幹部なので、来年の新電力の導入に関連して、各家庭の電気料金の請求書を見せてほしいということでした。
 平均的な家庭で年5000円違うそうですから使用量が多いともっと差が出ます。
 東京電力も1年遅れて家庭用のガスの参入が始まります。日本ガスとの提携があり、抱き合わせ販売による割引もあります。競争が激化するでしょう。
 ちなみに、イギリスではずっと前からサッチャー行革で、電気とガスの販売自由化があり、お互いにかなりの確立で相互に販売しているようです。
エネットについては、詳しくは
 東京ガス、大阪ガス、NTTファシリティーズにより成立
関東地方では天然ガスを中心に天然ガスによる4つの発電所
2014年には新電力のトップ、40%を占める
城南信用金庫などは率先して導入(原発反対から)
家庭用では電力使用の見える化も計画
 電力自由化比較comもある
「こういちの人間学ブログ」
 「原発問題で電気会社変えてみたら。エネットなど~」」
エネットについてかなり詳しく書いてあります。ぜひご覧ください。
2012年1月18日ブログをご覧ください
東京電力の宣伝
東京電力も今から、お客様の取り込みに、取り組んでいます。インターネットでの宣伝。
2016年4月から、東京電力は生まれ変わります、として
「でんき家計簿」に登録すると、
 200ポイントポイントプレゼント
 最適な料金プランなど
 提携サービスいろいろ
   ガス、携帯電話、家電、T-Point,,Ponta,リクルート、その他
 そして2017年度から今度は電気会社が一般家庭用のガスを売りだします。
 
3つ折りのチラシを作って、電力自由化は東京電力の挑戦です、として、多くの料金プランを拡大してゆきます。そして、多彩な新サービスを続々と提供してまいります。

2015年12月19日 (土)

火野正平さんの「こころ旅」、「人生下り坂最高」沖縄本島から波照間島へ

火野正平さんの「こころ旅」 
 2016年11月、今は東京から沖縄に向かっていて自転車で走行中、現在北九州です。朝版を必ず見て「とうちゃこ版」も時々見ています
 2016年12月宮古島の下地島のパイロット訓練飛行場の様子が2016年の最後の放送でした。
 このところずっと、NHKのBS放送で、朝の連続ドラマ、「朝が来た」を7時半から見て、その続きでやっている「火野正平さんのこころ旅」をずっと見ています。NHKの朝の連続テレビは、前回、「まれ」をやっていて、そのあまりにも常識はずれな内容にイライラして、ブログに書いたぐらいでした。そのあとに続いて放送している、「朝が来た」は大変面白く、ちょうど7時半から、朝食を食べながら見て、そのあとに続く「こころ旅」を見るのを楽しみにしています。
 以前はNHKの朝ドラは、朝8時からの一般放送で見ていましたから、「火野正平さんのこころ旅」は見ませんでした。しかし朝ドラをBS放送で見るようになってから、「こころ旅」も必ず見るようになりました。
 2015年12月18日(金曜日)が西日本編の「秋の旅」の最終回で、波照間島からの映像なので、ブログに書くことにしました。ちょうど2年前に病気になる前に3年連続で沖縄にいっていてとても懐かしく、4年目の昨年には病気にならなければ今度は石垣島などの先島諸島に行くつもりでした。
 火野正平さんの「こころ旅」は2011年の2月14日から始まっているそうです。時々は見ていましたが、もう500回を超えているのです。すごいものですね。
 火野正平さんは1949年5月30日生まれですから、もう66歳なのですね。生まれたところは目黒区だそうです。火野正平さんといえばいろいろな女性と浮名を流すことで有名ですが、そういう軽いイメージがこの番組で、違った意味でとても人間的な魅力が増しているように感じます。
 番組を簡単に紹介すると、火野正平さんと4人のスタッフが、視聴者が「心に残る風景」を手紙に書いて、その場所を自転車でたずねる番組です。7時45分から15分間前半を放送します。お昼に再放送があります。そして午後7時から「30分間」の現地に到着する「とうちゃこ版」があり、前半後半、一緒に放送します。いつも、到着ではなく、「とーちゃこ」といいます。でも後半の時間は用事がいろいろあり見損なうことが多いのです。
 12月18日の午後7時から波照間島での放送で秋版の最終です。これは見ました。
NHKのホームページ
NHKの番組ホームページ、「にっぽん縦断 こころ旅」を開くとそれぞれの日の場所の写真と簡単な解説がのっています。
12月7日(月)沖縄本島を味わい尽くす。沖縄は2週間の旅
12月8日(火)沖縄最北端の辺古岬
12月9日(水)沖縄の古宇利島への巨大橋
12月10日(木)が、沖縄でお寿司、
      番組の500日目です。すごいものですね。
12月11日(金)首里城公園でお手紙を読みました。
12月14日(月)が八重山
12月15日(火)が西表島
12月16日(水)が竹富島
12月17日(木)が石垣島
12月18日(金)波照j間島 最終回
土日を除いて、毎日自転車で走るのですから大したものです。
古宇利島と古宇利大橋
 12月9日放送の古宇利島は、3年前の2012年6月に沖縄に行った時に、印象深かったので、書いてみます。
「こういちの人間学ブログ」「沖縄旅行に行ってきました。ヤギの刺身などめずらしい食べ物~」
 古宇利島は名護市から行きます。この辺りは島がいろいろあり、橋で結ばれています。古宇利島へ行くには屋我地島を通ります。高い橋の下は青いきれいな海があります。古宇利島は丸い形をした島です。行く途中に古宇利大橋があります。とても長い橋で、車で通るにはいいところですが、高所恐怖症の火野正平さんが自転車で渡るには大変なところです。
 海が運河のように入り組んでいます、とてもきれいな海です。3年前に行った時は、古宇利島の砂浜で、水着を持ってこなくて残念と思いました。来年こそは水着を持っていって泳ごうと思いました。島を車で一周しました。近くの運天地港の岸から釣りをしていて、私も竿を出してみました。何匹かつれましたが、持って帰ってもしょうがないので他の釣って居る人にあげました。
波照間島
  あらしの中をフェリー で波照間島まで行きます。ひどい風雨で波が高く普通2時間のところを4時間もかかりました。波照間島は、人の住んでいるところでは日本最南端で楕円形をした島です。本当に日本の「果て」になります。
 島民は520人。中心部に小中学校や駐在所、集落があります。高校生になると島をでなければならないのです。
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いつもは、何か被り物をしていますが、ちょうどとっていました。メガネは、目の前で合わせてメガネにする方式です。
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 お昼は沖縄のそーきそばを食べます。初め休業と書いていましたが、店の奥さんが特別に空けてくれました。船が来なくて肉が小さくてといっていました。
 どこでもやらせ的に店を訪問するのではなく、突然の訪問になります。いわゆるアポなしです。予算は1000円ぐらいに決まっているようで、ぜいたくなものは食べません。他の番組では事前に言っておいて放送するものが多いのですが。
そのあとひどい雨と風の中、カッパがめくり上がるような状態で坂の道を走ります。
もうそんなに若くもないのに、本当に大変だと思います。
でも反対側の目的のぺムチ浜は波が静かだった。
きれいな海の砂浜でまた手紙を読みます。
手紙によれば、嵐で船が来ないと食料品がなくなる
でもお互いに融通しあってなんとかしたといいます。
―今日で秋のコースはおしまいです。お疲れ様でした。
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ぺムチ浜に座って手紙を読みます。
「人生下り坂最高」
 自転車で長い上り坂を上ることは、大変です。それに加えて雨、風が強ければ最悪です。
長い坂を上りきって下り坂を降りていけばとても楽です。
 でも、火野正平さんの言う、「人生下り坂最高」は単にいわゆる坂だけでなく、年を取って、下り坂になっていく人生も最高に楽しいということでしょう。誰でも年を取れば、いろいろ思い通りには行かないものです。私も病気になって本当にそう感じます。
 でも、上り坂で息せき切っていく行き方に比べれば坂を降りていくのは楽にちがいありません。努力して高い山まで上がっていれば、降りる坂も長く楽ができます。
 色々な意味で、「人生下り坂最高」といえるのでしょう。
仕事をしている間は、生活のために仕事をするわけで、当然ながら時間が拘束されます。
しかし定年以後、主たる仕事をしなくなってからの人生が大切です。仕事ばかりに追われてその後の人生のことを考えずに来てしまい、定年後に燃え尽きてしまうような人生は悲しいものです。
 大体定年が60歳。長くても65歳です。私の場合経営者だったので65歳まで社長をしていました。65になったら、息子に会社をまかせて、引退しました。不動産管理の仕事は引き続きやっていましたが大した時間は取りません。
 仕事をしている間も、ライフワークの人間学の研究や、組織の運営をやっていましたが、今度はそちらが中心となります。65歳から、あとどのくらい生きられるかわかりませんが欲を言えば父親の92歳、存命中の母親は95歳ですが、そのくらい生きられれば最高だと思っています。来年73歳になりますのであと20年もあります。
 このブログの後に書いたブログにも書きましたが、たいへんお世話になった岩城正夫先生は80歳を過ぎても色々なことにチャレンジしてお元気です。私の場合病気になり2年になりますが少しづつ回復してきており。ます私もそうありたいと思っています。
「2016年3月から再スタート」
 2016年3月29日に、再スタートしました。最初の訪問地は東京の八丈島でした。山の上のほうにある墓地とそこからの眺めということですが、あいにくと雨でよく見えませんでした。次の日30日は船で三宅島、島の巡回は明日ということでした。
 夏の間は北海道に向かいます。
2016年12月8日
 ほぼ1年前に書いたブログから、また1年が済みました。昨年の12月8日は沖縄の最北端の辺野古でした。今年の『2016年秋の旅は』9月26日に奈良を出発し現在は12月6日から鹿児島県です。12月8日は595日目で『新婚の寂しさを乗り越えさせてくれた場所」です。
 私も毎日見ていますが、人気があるのでしょう。
2016年12月22日
 12月19日が沖縄のスタートです。12月22日のとうちゃこ版を見ました。今日は那覇市です。明日で終わります。
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手紙を書いた人のお父さんは、対馬丸の船長だったそうです。
対馬丸記念館。正平さんは写真を見ています。
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船長だったお父さんの写真。近くの小桜の塔を見に行きます。
12月23日が2016年版の最後でした。宮古島に隣接した伊良部島とその隣の下地島空港の様子です。伊良部島と宮古島は2015年に伊良部島大橋によってつながりました。全長3540mで、無料の橋では日本一だそうです。伊良部島と下地島は細い海でつながっています。
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パイロット養成のための下地島空港のところで手紙を読む火野正平さん。
 

2015年12月16日 (水)

電動車いすを借りてみました。今後行動範囲が広がります。

 今まで、脳出血から2年ほどが経過し、普通の車椅子を借りてきましたが、今日12月16日に電動車いすを借りることにしました。普通の車いすは入院中から使いこなしてきましたが、電動車いすにのるのは初めてです。以前近くのミニ・スーパーへ買い物に車いすで一人で行けるかを試してみましたが、車道から歩道へ上がるときに、傾斜がきつく上がれませんでした。右側の麻痺で左の手でしか車いすを回せず、うまく歩道へ上がれないのです。
 電動車いすは、レンタルで、介護保険を使い2割負担で月6000円です。今までの自走用車いすは月に1400円ですからかなり高くなります。1割負担ですともちろん半額になります。普通の車いすは返しましたから月4600円高くなります。
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 電動車いすはYAMAHAのJWアクティブというタイプです。これは自分で手でタイヤを回して動けるタイプです。手で動かせないタイプはタウニイジョイⅩ型といいます。手でタイヤを回せるタイプを頼みました。だいぶ前の型の電動車いすよりは軽くなったようです。
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アクティブが手でもそうさできる形です。体重100㎏まで大丈夫です。
下のジョイタイプは体重が75㎏を超えたら使えないそうです。 
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操作部と、折り畳んときの大きさです。折りたたむと35cmになります。
 重量は28,7Kgそれにバッテリーが2,9Kg加わります。合計で31,6kg。前は37キロぐらいありました。電動走行距離は、1充電で15KMだそうです。そんなに遠くまで行きませんから距離は十分です。転倒防止バーや出し忘れお知らせ機能などが付いています。折りたたむと35cmになりますからタクシーのトランクに入るようです。今でもクラウン型のタクシーは車いすがそのまま入りますがそうでないものはトランクが少し開いてしまいます。
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 室外に出て歩道を通り、車道を横断して前回、普通の車いすで行けなかったところも大丈夫でしたから、行動範囲は相当広がります。とりあえず、近くのマイバスケット、やコンビニへ行ってみます。次に新大久保駅や高田馬場駅まで行ってみるようです。操作は慣れるまでいろいろと大変だと思いますが、そのうちになれてくるでしょう。当面は家内やヘルパーさんについてもらっていろいろ練習するようです。
 電動車いすは若干の斜面は大丈夫ですが、少しでも段差があると上れません。高田馬場駅に向かう道路はかなりの急な坂があり、古いビルは入り口に皆段さがあります。するともうお手上げです。今度の日本のオリンピック、パラリンピックの開催に向けて バリアフリー化が進むとよいのですが。
 介護用品もだいぶ改良されてよくなっています。介護ロボットなど、良いものが作られてくるでしょう。今後、老齢化が進み私のような介護を必要な人がたくさん出て来ると思います。価格も今のところはかなり高いのですが(電動車いすで40万~50万位、中古の軽自動車が買えてしまいます)
 電動車いすを手動で使うと、おり曲がりますが操作部が出ている分だけ使いにくいです。
若干重くなり動き回りにくくなります。慣れるまでいろいろと大変かもしれません。
 これからいろいろ街を走って見ます。それはおいおい状況をご報告します。
12月18日、近くのマイバスケットへ行きました。
12月19日には、これも一番近いコンビニへ行ってみました。
家内に見守りでついてもらいましたが、特に問題はありませんでした
22日火曜日にはヘルパーの斉藤さんとともに新大久保のほうへ行ってみます。

2015年12月10日 (木)

エスニックの街、大久保 (1) 我が家の歴史を中心として、改訂版

エスニックの街、大久保(1)その歴史、(2015年12月修正、追記版)

 このブログは2009年の、ブログを書き始めたばかりのころに書かれたものでした。2015年12月に少し書き加え更新しました。カテゴリーも旅行・地域となっていましたが「大久保の街紹介」に変更いたしました。

新大久保駅

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開業記念入場券です1000枚発行で、これは871号です。中に記念入場券5枚、このころ開業した四谷、信濃町千駄ヶ谷、新大久保駅の紹介。4駅のスタンプなどがあります。

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新大久保駅は三角屋根の小さな駅です。エレベーターの無い駅は山手線で2つくらいしかありません。電車に車いすで乗るときは高田馬場駅まで行きます。建て替えの計画があります。

  JR山手線の新大久保駅は、総武線の大久保駅の後でできたので新大久保と名付けられました。とても小さくまた古い駅です。平屋建ての小さい三角形の屋根があり、改札口の前は本当に狭いのです。平成26年11月15日に駅の開業記念100周年を迎え、開業記念入場券を購入しました。昔は山手線の高田の馬場と新宿駅の間に駅が無く、大正年3年に地元の懇願で駅が作られたそうです。開業当時は大久保通りと平面交差で、現在の駅舎とは大久保通りを挟んで向かい側に位置したそうです.。死んだおばあさんの話では当時の駅は小さくて夜は裸電球がぽつんとある程度だそうです。近くは戸山が原で陸軍の施設が多かったのですが、空いたところが多く子どもも自由にはいれたそうです。タヌキがひかれたなんてなんてニュースがあったそうです。駅の周辺はつつじを栽培していました。1924年(大正13年)の複線化に伴い現在の駅舎となりました。戦後も射撃場の弾よけの三角山などという人工の山がありわれわれ子供たちの遊び場でした。回りにまだ原っぱがたくさんあり遊ぶにはいいところでした。

 はじめ店は大久保駅の近くでした。店と風呂桶製造場所と自宅を兼ねた家は戦後まもなく山手線の内側に移転しました。戦後しばらくはバラック、それから平屋の建物、筆者が小学生の時に木造2階建てにしました。その後5階建てのビルにしましたがエレベーターを付けなかったため、余り歩けなくなった今自宅へ戻れません。

 改めて書きますが、この当時は筆者の店と住いが山手線の外側にあり、大久保通りの外側で、大久保駅と新しくできた新大久保駅の中間ぐらいにあり、現在もあるお米屋さんの隣にありました。大正時代の商店名が書いてある地図がありそこに桶商佐竹と載っています。小滝橋どうりにも3階建ての家がありそこから富士山がよく見えたそうです。

韓流一辺倒から再び多国籍の街へ

 新大久保駅の前には、外国人と、大久保の街をおとづれる人でいつも混んでいます。2011年ごろには、韓流ブームとなり、さらに人が多くなり、土日には狭い駅出口の空間が人でいっぱいで人が出られないような騒ぎです。それが反韓デモや韓国との間が冷え込んでそれほど人出は多くありません。韓国一辺倒だったのが、再び多国籍の街に戻りつつあります。

 私は、戦前の昭和18年2月の生まれ、この街に生まれ育っていますので、この街の変化をずっと見てきました。以前人間学研究会の例会で、このテーマでお話しするため、自転車で大久保の街を全て回って、韓国やエスニック料理の店を調べました。そして、大きな地図を作り店名をいれました。圧倒的に韓国料理の店が多く、150店位もありました。そのほかには、台湾料理、モンゴル料理(小尾羊など)、マレーシア料理(メラプティカフェ)、タイ、ベトナム料理(ソムオー、クンメーなど)、最近増えてきた、インド、ネパール料理。珍しいのは、チュニジア料理、モロッコ・チュニジア料理、トルコ料理店などがあります。シシカバブなどのハラルフードを売っている店も増えてきました。中国内の朝鮮系の人々が住む延辺自治区の延辺料理などもあります。犬の料理(狗肉と書いてあります)があるのが特徴です。ミャンマー料理は大久保にできたでしょうか。高田馬場にたくさんあります。レストランではありませんが、うちのビルの一室を借りてもらっているコンゴのお店もあります。以前、新大久保と、大久保駅の中間に屋台村という店があり、6ヶ国の料理が食べられる店がありました。(残念ながら屋台村は2011年閉店しました。韓国料理の店に変わり、その店も現在は閉店してしまいました)まだバラバラでまとまりがありませんが、日本人の店とも協力して宣伝すればいいのですが。韓国系の店は韓人界が中心となりシャトルバスを走らせたりを始めました。

今、家で貸しているテナントには、韓国人、中国人、日本人、そしてコンゴの人がいます。(詳しくは別のブログをご覧ください)

また以前は、新大久保駅の色々なお店を人間学研究会の例会のあと、懇親会でいろいろな料理を、食べ歩いています。その後、異業種交流会の二火会で話をする機会があり、店を調べなおしました。この当時一年の間に、30店近くが入れ替わっていました。私はいろいろ新しいお店ができると食べに行き、おすすめの店の説明書と地図を作りました。しかし病気の後歩けなくなり今は例会会場やお店に行けません。

 2015年12月には、脳出血を起こして2年、あまり詳しく大久保の街を書けなくなりました。しかし電動車いすを今月中に借りる予定で、そうすればまたいろいろ書けるようになるでしょう。

筆者の家の歴史

 私の家は、今から99年前に(最初にブログを書いた年から99年。2011年に101年になりました、2015年で105年ですが、いろいろあとで調べるともっと前から住んでいたようです)、私の曽祖父が新潟の長岡から出てきて、大久保の地に住み着き、桶屋と井戸掘りを、やってきました。むかしの位牌をみますと年号が宝永などというのもありますからずいぶん前からの位牌があります。昔の位牌は簡単な板で黒い漆塗りで作ったものです。家が没落して皆が苦労した基になった人の位牌をお祖父さんがなんと鉋をかけてしまったそうです。

 母親の話では佐竹家は桶樽を昔から製造販売し長岡藩の御用商人で、苗字帯刀を許され、蔵がいくつもあったという話です。でも長岡藩は戊辰戦争で官軍と戦って負けたため、藩に融通したお金や店の貸し売りの分はすべて帳消しになり、没落したそうです。以前長岡のお墓がある場所を車で見にいってきました。新井薬師に住んでいた叔父さんが以前お寺に行き過去帳を見せてもらったそうです。また今は永代供養料を払って無縁仏にしてもらったそうです。長岡は新潟県第2の都市でしたが、戦災で戸籍が焼け何も残っていません。父からの遺産相続の手続きの時、前の戸籍が戦災で残っていないという証明書をくれました。

 戦災消失証明書によれば本籍は新潟県長岡市先手町3-832番地となっています。地図によると先手町3丁目は現在の地名でも残っていて、長岡駅に近いにぎやかなところです。 父が亡くなったとき戸籍謄本が必要ですが、昭和20年8月1日の戦災により消失して、謄、抄本は交付することはできませんとなっています。他の戸籍簿はかなり古いものがあります。お祖父さんは明治21年生まれの庄治郎、祖母は、いさ。曽祖父は傳蔵と曾祖母はテイです。曽祖父の親は高祖父といいます。高祖父の名前は傳右衛門だそうですが、残念ながら戸籍に残ってはいません。

 高祖父という言い方ははじめ筆者は知りませんでした。ネアンデルタール人について調べているうちに、ルーマニアで発見された原生人類の化石を調べたところ、その遺伝子配列はネアンデルタール人が、高祖父の時にいたということが、分かったといいます。4代前になります。

 祖母の両親は米田藤吉とシカ、藤吉の親は高祖父になりますが、米田新吉です。天保二年生まれ、藤吉は万延元年の生まれです。祖母の戸籍は消失しないで残っていました。祖母の家は大阪の淀川の近くです。小さい時に淀川の小魚をたくさん父親がとってくれてそれをよく食べていたので丈夫になったといっていました。祖母の祖母(高祖母)は小さいころには幕末で、戊辰戦争で幕府軍が逃げてきて恐ろしかったという話を祖母にしてくれたそうです。曾祖母は80代後半の時、大阪から来たことを覚えています。曾祖母は90以上生きていて、祖母は98歳、祖母の妹も98歳まで生きたそうです、長寿の家系なのですね。後にも書きますが大阪に逃れてきた祖父と結婚しました。

 長岡市は山本五十六の出身地として有名で、また大きな花火を打ち上げるのでも有名です。さらに古くは幕末の河合継之助が有名です。一方大阪のおばあさんの方の戸籍は古いものが残っています。それから江戸から東京にかけて新潟県出身の桶屋さんが昔から多かったそうです。

 最初に私のおじいさんが若い時に長岡から東京に出てきて、働いていました。そのあとに、ひいおじいさんが長岡から、道々、「わがやー、わがやー」と道々、たが直しなどをしながら歩いて東京まで来たということです。そして息子のうちに来たそうです。まもなく母親(曾祖母)も家に来たそうです。ところが両親ともにかなりのばくち打ちで道楽者、家が混乱し、たまらず、お祖父さんは大阪に逃れたそうです。お祖父さんは大阪の地で椅子つくりの職人になり大阪でお祖母さんと結婚しました。曽祖父母は大久保の地で、桶屋と井戸掘りを始めたのです。その後曽祖父が病気で倒れ、祖父母は家族で、東京に戻ってきました。お祖母さんは、曾祖母がきつく、何度も大阪に帰りたかったそうです。のり巻きを作るように言われ、関西風に太巻きを作ったら、こんなのり巻きはだめだと捨てられたそうです。味噌汁の味の濃さも違いずいぶん苦労したみたいです。このころの話をよく聞いておけばよかったと思います。その後曽祖父が亡くなり、曾祖母もなくなりました。祖父母には子どもが6人いました。ところが長男は井戸掘りでの酸欠事故でなくなり、(新聞記事になったそうです)おばさん二人も若い時に病気でなくなりました。3人が残ったのです。父も同じところで事故にあいましたが蘇生したそうです。

 6人の子供の内次男の私の父と、叔父さん(死去)と叔母さんが残りました。父が子どものとき関東大震災があり、家はその時は大久保駅と新大久保駅の間にありました。家は大丈夫でした。地盤が下町より堅かったのです。関東大震災の時近くに古川男爵の大きな屋敷があり、そこの竹やぶで数日間余震をさけたそうです。今は教会になっています。父はその時小学生でお昼のご飯が大好きなとんかつで、それが埃まみれで食べられなくなり残念だったそうです。父は二度7年間も戦争に行き、はじめは満州、後半は中国でした。南方へ途中で行った部隊はほとんど全滅したそうです。満州ではノモンハン事件のすぐ後だったそうです。叔父さんは海軍に行って、私は小さいとき海軍ちゃんと呼んでいました。母親の兄さんは父の親友でしたが、中国で戦死しました。匪賊に襲われ何も残らなかったそうです。父は他の人より足が長いということで騎兵でしたが、大変な古参兵であることと、桶つくりや、井戸掘りなどの技術を生かし、上官の奥さんなどに重宝がられたそうです。騎兵はすぐサーベルを持つそうです。(陸軍では士官以上のみ)上官にはオリンピックで有名な乗馬の西大尉がいたそうです。父は現地の中国の人々に優しく、それも、無事に日本に変えれるもとになったようです。現地で稼いだ軍票が日本に帰り普通のお金に変えてもらいよかったそうです。

 母親の先祖は新潟の新発田です。母のお兄さんと父親が親友で、縁を強くしようとして父は母と結婚しました。母方の祖父は金子といい、千住あたりで、八百屋をやっていました。戦前はとても繁盛していたそうです。母親のお兄さんは中国で戦死しましたが、残りの妹は4人とたくさんいました。一番若い叔母は私と7歳ぐらいしか年が離れていません。母親の母方の親類は渡辺といいます。母方の祖先で、村相撲の大関になっていた人がいて、鴨居に頭がつくくらい大きかったそうです。どうもその遺伝を受け継いだのか、私も息子たちも背が高く、太りやすいようです。お祖父さんが新潟長岡で、お祖母さんが大阪、母が新潟なので4分の3ほど新潟系です。

 戦争中も祖父母と叔母さんたちが大久保百人町にとどまりました。大空襲で新宿は丸焼けとなりました。戦禍で逃げまどった苦労を聞いています。B29がたくさんきたが日本の戦闘機は全く歯が立たなかったそうです。いろいろ道具があり大久保の地で最初にバラックを建てたそうです。お祖父さんは古くから商売をしていることもあり、また親分肌でした。もう少ししゃべれれば簡単に区議会議員になっていたといっていました。地元の皆中神社の神主は自分が木曽から連れてきたんだといっていました。今は息子さんの代です。

 お祖母さんは長寿の家系で、祖母は98歳でなくなりましたが、祖母の母、曾祖母も元気で90近いとき、東京へ出てきました。子供の時会ったことがあります。やはり90代後半で亡くなりました。大阪のお祖母さんの妹も長生きで100歳近くまで生きたそうです。

私の父方の親戚はおじさんが一人、おばさんが一人です。それぞれ子供が1人ずついます。

後、私には妹が一人います。妹には子どもが2人います。所沢に住んでいます。義理の弟はがんで亡くなりました。

 両親で2人、祖父母で4人、曽祖父母で8人、高祖父母では16人になります。

子や孫の代となるともっと増えるわけで、例えば私は佐竹という名字がついていますが、高祖父の佐竹という祖先から見ると遺伝子的には16分の1ということになります。

 家内の系列は先生が多いのです。家内のお母さんは、90を超えてまだ元気ですが、家内のお父さんは電波研究所の副所長にもなりました。第一次南極越冬隊にも参加する予定が脳溢血で倒れ不可能になったそうです。家内には3人の妹さんがいて1人の弟さんがいます。みんな先生か研究者になっています。家内のお祖父さんは、女学校の校長先生だったそうです。みんな家族に恵まれ、一族みんなが集まると30人くらいになります。今年の1月2日に家内のお母さんと一族が集まり20人ほども集まりました。家内の父親は四国の愛媛県の出身、母親は岩手県の出身です。

筆者の(66歳、最初にブログを書いた当時、今はもうすぐ73歳)私で4代目で、今では息子の代(5代目として社長)になっています。来年で(当時)、創業100年になるのですが、桶屋と井戸ポンプ業から東京ガスの代理店(エネスタといっていました)になったあと株式会社サタケは昨年、近隣の店と会社合併がとなり、東京ガスの資本もくわわり、STコミュネットというあたらしい会社になってしまいました。息子2人はそこの社員です。もとの株式会社サタケは持ち株会社(まだ残念ながら1度も配当がありません)で不動産収入のみの会社となって一応存続しています。私は会長ということになっています。

戦前の大久保の街

 戦前の大久保の街は、閑静な住宅街で、有名人、文化人などが住んでいて、特に、戸山が原の陸軍関係の施設に関連して、大変多くの高級軍人が住んでいました。私の父親は事故で亡くなった時92歳ですが、いろいろなうちに風呂の修理や井戸掘りに行ったそうです。横綱の太刀山や226事件の岡田首相、大将の家などです。(父は92歳で家の中で転倒する事故でなくなりました)

 筆者が卒業した戸山小学校は大正の初めに作られました。父親は比較的早い年度の卒業生です。父親の年代の人が昔を思い出し当時の地図を作ってくれています。戸山用学校には、父、私、息子の3代が通いました。大久保小学校は外国人の子どもが多く通っているのが有名ですが、明治に作られたようです。小学校に隣接して小泉八雲が住んでいました。石碑や記念公園が残っています。たくさんの文化人は住んでいました。

戦後の大久保の街

 戦後は、大久保の地に韓国や台湾の人たちが住みつき商売をはじめました。ロッテの工場が作られたのも影響がありました。今は大財閥で、いろいろ内紛が起きて居ますがここが出発点です。今は操業をしていません。一部は分譲住宅になりました。その後、20年ほど前から韓国の人達を中心に商売を成功させていきました。戦前から戦後間もない人々は、もう孫の代になり、ほとんどが帰化しています。20年ほどまえから、韓国の人達を中心に次々と商売を成功させていきました。「韓国広場」の金さんなどはいろいろな店を出し、うちの会社もいろいろ建築、設備の仕事をしてきました。

 さらに映画やテレビで韓流ブームが起こり、いっせいに、韓国料理店、韓国のスターグッズ店ができてきました。そういう人たちは、ニュー、カマーと呼ばれています。大久保、百人町の街は裏歌舞伎町とも呼ばれ、もともと韓国や中国のホステスさんなどが多くすんでいたのです。その後 急激に外国人が増えてきました。私は三回ほど300件の私が住んでいる店と住宅のまわりの国政調査を行いましたが、大体7割が外国人でした。正式に外国人登録している人の2倍は、観光ビザで来ているか、不法入国しているかという感じです。

* 2011年、急に韓国の店が増えました。大久保の表通りが土日には通りにくい感じです。

もうすぐ2016年、町は色々に変化しています。

やはり、新宿区で外国人登録している人は。韓国朝鮮系が最も多く、次に中国人です。新宿区では三番目は何とフランス人で、神楽坂周辺に住んでいます。大久保周辺にはほとんどいません。4位はミャンマーの人で、西新宿、北新宿に多く住んでいるとのこと。5位はフィリピン人といったところです。大久保の街についてはあらためて、5番目までご紹介していきます。

 2015年最も多いのが中国人、2番目が韓国人です。3番目が何とベトナム人です。

参考書 新大久保コリアンタウン  八田靖史  2009年 晩声社

     オオクボ 都市の力   稲葉佳子   2008年  学芸出版社

2015年12月 8日 (火)

インドネシア料理、新宿野村ビル、バリラックスザガーデンへ、雰囲気は十分

 2015年12月8日(火)新宿野村ビル地下1階にあるインドネシア料理の店「バリラックス ザ ガーデン 新宿」へ行ってきました。お店は大阪に梅田店、名古屋店があるようです。
インドネシア料理は、お台場のアクアシティにある「スラバヤ」や新大久保駅のそばのビル3階にある家庭的な雰囲気の「メラ プティ カフェ」などへ、行きましたが、あまりインドネシア料理のお店の数は多くありません。2年前に病気をして車いす生活となってからは、「スラバヤ」に一度行っただけです。お台場へ行くといつも「スラバヤ」に行ってしまいます。
「こういちの人間学ブログ」2014年11月17日
 「久しぶりのお出かけ、お台場のインドネシア料理、スラバヤへ」   
「メラ プティ カフェ」は自宅の近くですが階段だけでエレベーターがないので上がれません。
 月に2度ほどヘルパーの斉藤さんに連れていってもらいお出かけするのですが、一度新宿の野村ビルにあるインドネシア料理に行ってみたいと思いました。
 11月に行った時はお店が貸し切りででいっぱいで、行けませんでした。それで、野村ビルの他の店へ行きました。今日は午後1時に斉藤さんに迎えに来てもらって、タクシーで行きました。野村ビルは新宿の50階建ての高層ビル街にあるビルです。
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入り口、この像が両側にあります。入り口が雰囲気十分です
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 店の入り口はバリ島のもので飾られています。ピンボケですみません。正面は3段の階段がありますが、横からくるまイスが入れます。入ってすぐのテーブルに座りました。午後1時半ごろでしたが、けっこう混んでいました。注文を取りに来たのですが、お昼はランチだけだそうです。1000円で5種類です。サラダは自由に食べられ、飲み物は、お酒はありますが、その他の飲み物は200円です。
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コース料理をと思っていたのであてが外れました。それで5つの内から4種類のランチを頼み、ライスを減らしてもらいました。
4分6の割合で多く、斉藤さんに食べてもらいました。4品頼んでも1人2000円です。
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・ガイノミ(牛肉のひき肉)上にゆで卵。ご飯の上にえびせんのようなものが載っています。
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サテ―(串焼き)や春巻きなど、少しづつのっています。
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インドネシアのカレーです。ココナツやピーナツが入っているのではないでしょうか。タイのカレーに比べあまり辛くありません。陰にとりのモモがあります。
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かき交ぜて食べます。ビビンバみたいですが、インドネシア式チャーハン といったものです。ナシゴレンといったでしょうか。
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自由に食べられる野菜サラダです。右上はスープです。
ランチメニューの後1品は、麺類のフォーです。インドネシアでもあるのですね。
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店の中央部に小さい池が作られています。この上に部屋があります。
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客席の一部。他に個室があります。
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ここで好きな飲み物を自由に入れられます。
かなり内装にお金をかけて居て、バリ島の雰囲気十分です。
日によってガムランの演奏会があります。
従業員は日本人です。
ほとんどインドネシア人のスラバヤとは違います。
味は値段が安いので、まあまあというところ。夜の料理はどうでしょうか。
お客さんはこの時間帯、8割がた女性です。
1000円と飲み物200円でバリの雰囲気を味わえていいのではないでしょうか。
今度夜に来て、「スラバヤ」と味を比べてみたいです。
夜の宴会プランは料理9品と時間半、飲み放題が6000円。
料理7品と時間飲み放題が5000円だそうです。
参考までに、03-5321-6688
 

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