母が96歳で死去しました。優しかった母の思い出。浄土真宗のお葬式
母が2016年4月22日、96歳で老衰でなくなりました。
あと半月ぐらい生きていれば97歳でした。天寿を全うしたと言えるでしょう。
4月28日がお通夜で、翌29日が告別式でした。
菩提寺での葬儀では筆者は車いすでは困難なので、落合の斎場にしてもらいました。
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母の生い立ち
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母は大正5年5月12日に荒川区尾久で生まれました。父は金子幸作,母は金子タケです。生家は大変繁盛していた青果店だったそうです。子どものとき荷車を押すのを手伝ってよくお小遣いをもらったこと、お店が繁盛して、札束を足で踏んで固めるほどだとよく母は自慢していました。後年母がだいぶ認知症がひどくなってきたとき、面会に行った私をよく死んだおじさんなどとまちがえました。
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兄弟は大変多く、6人兄弟の長女です。兄1人と妹4人です。
母の兄は中国へ兵隊として行き、そこで、父と親友となり、妹と結婚してくれ、そうすればずっと義理の兄弟でいられるからということで、一番上の妹、すなわち母と結婚しました。
結婚したのは昭和18年3月1日です。筆者が生まれたのは2月20日ですから、子供が生まれてから入籍したことになります。父はその後2度目の招集となり中国へ行きました。前半は満州へ、後半は中国の地です。父は8年近く戦争に行き何とか生き延びましたが、母の兄、は戦死しました。戦地で小人数で巡回しているときに匪賊に襲われ、死骸も何も残らなかったそうです。
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母の実家の出身地は新潟です。金子家と渡辺家が先祖です。母方の先祖に、体の大きな人がいて、鴨居に頭をぶつけるようだったそうで、村相撲の大関を張るほどだったそうです。体が大きくなり太りやすい遺伝子が母に伝わり、私や妹に伝わり、さらに子供たちにも遺伝したようです。
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父方の祖先について
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初めに東京に出ていた息子(祖父)を頼って曽祖父が新潟の長岡から出てきました。そこで東京で桶屋を始めました。ところが、曽祖父、曾祖母ともにひどいばくち打ちだったそうで、祖父は大阪へ逃げ出しました。
筆者の祖父と祖母は大阪で結婚し、長男が生まれました。ついで父は2男として大正6年5月15日大阪の東成郡榎本村で生まれました。新宿の大久保の地で桶屋をやっていた曽祖父傳蔵が大正11年に亡くなり、祖父母一家は仕事を引き継ぐため新宿、大久保の地に戻ってきました。仕事は桶風呂の製造販売、井戸堀の仕事です。関東大震災のとき大久保の地は家屋と火災をまぬかれ、多くの人が下町から引っ越してきたそうです。
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父についての話は、父が平成21年12月18日に亡くなったときにブログに書きました。
2009年12月25日
大正、昭和、平成時代を生きた父の死、1
2009年12月26日
大正、昭和、平成時代を生きた父の死、2
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祖父母が大久保の地に戻ってきてから、昭和15年に長男の房次郎は井戸掘りをしているときに酸欠事故でなくなりました。父も同じ井戸で倒れ九死に一生を得ました。この事故は当時の新聞にも載ったそうです。
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祖母はとても頼りにしていた優秀な私の伯父を家業の井戸掘りでの酸欠事故で亡くしました。とても優秀だったらしく薬専(薬科大学)へ行きたかったようで、またそれに入る優秀さもあったようです。祖父母としては大変落胆する出来事だったとおもいます。私の父は勉強が嫌いで小学校しか出ていませんでした。
それで祖母としては唯一の跡取り息子である私を大事にしたようです。なかなかしっかり者の祖母としては、のんびりした母に任せておけないという気持ちが強かったのです。そして私はかなりひどくおばあちゃん子になり、息子は祖母にとられたようにかんじていました。その反動で妹は両親のほうに全く任せるという形になったのです。
祖母は98歳で亡くなる寸前にも見えている幻覚を私だけが見えるんだねというほど、しっかりしていました。のんびりした母とは合わないところがありました。
ですからいろいろと家の中の確執を強く感じていました。母としては妹がかわいそうだと言い続けましたが、祖母は私を跡取りとして大事にしているのであって、両親に疎まれていた私は寂しい思いをしていたものです。後年そのようなことを母に言いましたら、そんなことは考えもしなかったそうです。
妹は職人や商売の家では高校などでなくてもいいなどと両親ともに言っていましたが、私が強く言って高校に行かせました。それはお兄さんが言ってくれたからと妹が言っていました。兄妹は大きくなってからは確執はなくなりました。
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戦後の家の状況
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戦後、木風呂を製造していたころは家族が多いうえに、住み込みの職人さんも多く、食事の時間は大変でした。祖父母、両親、叔父と叔母、兄妹、それから住み込みの職人さん5から6人、そしてお手伝いさんまで一緒に住んでいました。大きな食卓を二回に分けて使います。職人の早飯で早く食べて席を開けなければなりません。私なども早くなります。早飯食いの癖はずっとついてしまいました。お爺さんだけは家長として別のところで食べ、お酒とカニ缶などの酒のつまみがつきます。あとはみんな一緒の食事です。家族団らんなどはありませんでした。母はなかなか料理は上手でした。家族団らんなどとは縁遠かったのです。
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私がその後結婚し、妹も結婚し、店舗兼住居のビルができてから、私たちは5階に、両親は3階に住むようになりました。妹が結婚してからも、妹から見ると、私のお父さん、お母さんよ、という気持ちはつづいていました。
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私の両親は子供たちを連れてどこかへ遊びに連れていくということはほとんどなく、どこかに家族連れで4人で泊りがけで行ったという記憶は1度もありません。おばあさんに遠慮してということもありましたが、おばあさんがなくなった後も変わりはありません。父は子供をどこかに連れていくなどということはありませんでした。
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父は若い時からの写真を見せてもらいましたが当時としては背が高いほうで、騎兵になりました。奥目な方でやや西洋人風な顔立ちをして、ゲーリー・クーパーに似ていると言われたと言っていました。お母さんもお父さんが大好きでしたが、キャバレーなどに行ってもてているのをやきもきしていました。
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母は、とても優しいのんびりした性格で、筆者の妻などにもとても優しく接してくれました。優しいお母さんでよかったと、妻は常づねいっていました。半面商売などに口を出すことは全くありませんでした。
筆者が、自分の会社に入って間もなく、専務となり、東京ガス部門はほとんど私の担当となりました。木風呂の製造販売は戦後まもなくはたいへん盛んでしたが、次第に木風呂は作らなくなり、仕事の大部分は、東京ガスの下請けの仕事になりました。社員の80人ぐらいになり、建築リフォームの仕事も売り上げの4割近くになりました。
その後、筆者が社長となり父は会長となりました。
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その後、1997年9月、母がクモ膜下出血を起こし入院し手術を受けました。その後遺症がいろいろ出るようになりました。その後退院してからは後遺症があっても父と同居し家事の援助は家内が5階から3階に降りてやっていました。母が病気で倒れる前に祖母はなくなっていましたがその後両親で旅行にも行っていません。母は旅行好きでしたが父は枕が変わると眠れないといって旅行にあまり行きたがりません。母は外国旅行に行きたがっていましたが、ついにどこへも行けませんでした。病気になるのがもう少し遅ければ外国旅行へも連れて行ったあげたのに、と残念なことをしました。
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そして、退院後10数年がたってから、徐々に幻覚や妄想がひどくなってきました。いつも東京音頭が聞こえたり、ビルの外壁をがりがり削っている音が聞こえたり、ついには女性が寝室で寝ているという幻覚まで現れ、父を責めたりします。父もとても耐えられず、2008年4月、妹の住んでいる所沢の近くの老人施設に入ってもらいました。老人施設でも幻覚は出て最初困ったようですが、次第に落ち着いてきました。
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その後父は家の中の事故で92歳で急死しましたが、施設にいて、母には、もうほとんど状況がわからない状態でした。
妹はよく通って母の世話をしてくれて本当に感謝しています。
しかし、母はだんだん人の顔の区別がつかなくなり、私が行っても知らない人の名前を言ったりします。帰る頃に名前を思い出したりするのですが。ついに妹の顔もわからなくなりました。自律的な食事がとれなくなりましたが、胃瘻をしてかえって元気になりました。施設でも一番の高齢者になりました。
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それが2016年4月22日朝母のところに妹が行った時には何ともなかったのに夕方には急に死去しました。
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お通夜と告別式は前に書きましたが落合の斎場で行いました。筆者は、喪主として、ともに来ていただいた方々に挨拶をしましたが。少し早めに帰らしてもらいました。まだ長時間の参列は困難だからです。
母は途中で病気になり、不本意でもあったでしょうが、97歳近くまで生きていられたのは天寿を全うしたと言えるでしょう。
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浄土真宗のお葬式
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うちは浄土真宗大谷派の専福寺が菩提寺です。浄土真宗のお葬式は、他のお寺のお葬式と少し変わっています。浄土真宗はかなり合理的な考えに立っています。
多くの仏教でも、神道でも、死は穢れたものとされています。ですから、穢れをはらうためのいろいろなことを行います。いろいろな、仏教、神道のお葬式に行くとその違いはいろいろです。原始仏教では死がけがれているとは考えません。ところが、日本では長い間神仏習合であったため、穢れ意識の強い神道の影響を強く受けたのです。
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ほとんどのお葬式では清めの塩をもらいます。またいろいろな穢れをはらうための、いろいろなことを行います。宗派によりこんなことまでやるのだというのがあります。しかし、浄土真宗ではそういうことをしません。お経を読み、死者は法名をもらい、阿弥陀如来のお弟子になリ極楽浄土に行っているのですから、おめでたいことであり、穢れたことではないという考え方です。だから清めの塩なんてとんでもないことですね。まあ、考えてみたらそうですね。浄土真宗は迷信的なことを否定します。また妻帯しています。浄土真宗は北陸方面に多くの信者がいます。うちは先祖が新潟出身ですから、浄土真宗なのです。ところが東京では他の宗派が多く、お葬式の時に、清めの塩をもらうことになります。また、お葬式では会葬者が右左の参列者に頭を下げますが、そういうことをしないようにとお寺からの指示がありました。お香を3回手で頭のほうに向けて焼香するのではなく、ただ2回そのままお焼香します。祭壇なども花などであまり華美に飾り付けないようにともいわれましたが、花で盛大に飾り、棺桶にも花をたくさん入れたりするべきではないと言われました。花にも命があるのだからと。でも花が好きだった母のために棺には妹の意向でたくさん花を入れましたが。
このように、浄土真宗のお葬式は他の宗派と少し違ったところがあります。
自宅の仏壇でも、位牌を作りません。法名を書いた掛け軸のようなもの―なんというのでしょうか―を下げます。お墓には卒塔ばを置きません。先代の住職の時はあまり厳密ではありませんが、今の住職は非常に厳密です。
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とら猫イーチ様
いつも心温まるコメントいただきまして、ありがとうございます。
母親は長生きしたといっても、胃瘻で意識のなかったのが長かったので、本当によかったのかどうかとも思っています。
投稿: こういち | 2016年5月 1日 (日) 21時02分
こういち 様
御母堂様の御冥福を御祈り申し上げます。
天寿を全うされた由、拝読いたしまして感銘致しました。
また、御両親の生涯、こういち様の生き方に反映されているのですね。 御家族の助け合いが良く分かる御論稿でした。
私にも、こういち様の御家族のような家族が欲しいです。
これからも助け合ってこの世を生きていかれるのでしょう。 それならば何も怖いものはありません。
私にもそのお力を、少し、御すそ分けで頂けるようにも思いました。
投稿: とら猫イーチ | 2016年5月 1日 (日) 20時34分