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2016年5月29日 (日)

「耕地の子どもの暮らしと遊び」高橋喜代治氏の本と、「人間学ニュースの記事

 立教大学の特任教授で、人間学研究所員である高橋喜代治氏に、2016年4月の人間学研究所の合同例会でお話していただきました。そのことは、すでに、このブログで、お伝えしておりました。改めて高橋喜代治氏より、「耕地の子どもの暮らしと遊び」~旧倉尾村長沢耕地の記憶、発行、ブイツーソリューション、本体価格1000円+税、が送られてきました。本とともに毎日新聞の「火論」の記事と手紙も添えられていました。どうもありがとうございます。大変素晴らしい本の内容なので、このブログで皆さんにご紹介します。またおもしろそうだなと思いましたら、ぜひ直接お買い求めください。

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本の表紙です。大判の立派な本につくられています。

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昭和30年ごろの長沢耕地の地図大きな地図の左半分です。絵の上の方に高橋喜蔵さんの家があります。筆者高橋喜代治さんの家です。記事とともにたくさんのすてきな図版が載せられており、それも素晴らしいものです。

目  次

はじめに  

 昭和24年に長沢耕地で農家の二男として生を受けた。耕地とは農業を営む集落のこと・だ。この本を出すことを思い立ったのは、耕地で生を受けた私の経験をとおして、1人の人間の育ちと育んでくれた人々の面影を残しておきたかったからである。

(項目すべてを書きませんでした一部だけ書きました)

第1章 遊び P7

 遊び道具はほとんどが手作りである

 1、うまのり

 2、ぶっつけ(メンコのこと)

 3、三角自転車乗り

 4、釘ぶっとうし、(くぎ打ち)ビー玉

 5、ぺっことしゃ(蛙)と麦わら (新潟では蛙のことをゲル、オタマジャクシをゲルマンコと いった)

  6,かぞがらのチャンバラごっこ

 7、手作り車と坂道レース

 8、川遊び

 9、篠でっぽう(しのだけで作る水鉄砲)

 10、相撲

 11、たがまわし

 12、石弓と小鳥(パチンコ)

 13、河原野球

 14、竹スキー

 15、山遊びと木挽き峠、茅の坂峠

 16、青大将からペッとこしゃ(かえる)を助けた

第2章 事件・冒険 P41

 心を揺さぶった出来事

 1、サイばあさんと青大将とヤスさん

   2,鷹を捕った話

 3、牛のお産と母のお産

 4,1円札でリンゴを買いに

 5、「アチイ」と祖父のまじない

 6、村で初めてのテレビ

 7、亀蔵さんの「テッサク」

 8、犬のシロのこと

第3章 手伝い P57

 子どもの労働も重要な働き手としてあてにされた

 1、ウサギの飼育

 2、タバコ買いと行燈

 3、牛の世話、サイロ詰め、牛洗い、乳缶運び

 4、薪しょい、ぼや拾い

 5、ふろ沸かしと杉っぱ拾い

 6、水車当番と母の連れ

 7、茶摘み、紙漉き、味噌、豆腐

 8、オカイコあげ

 9、こんにゃくの消毒

 10、モロコシもぎ

第4章 食い物と遊び p79

 ひもじい思いはしたことはなかったが食い物は限られた

 1、ニシン沢とサワガニ捕り

 2、イシンタ(谷底)と魚捕り・洞窟探検

3、のぞきガラスと魚捕り

 4、蔵の下のスズメの卵

 5、百合の根ほり

 6、とっかんまめ屋(爆弾あられといった)

 7、どどめ(甘い桑の実)つかありとどどめ色

 8、まめごな(大豆を炒った黄粉)・こうせん(大麦を炒って引いてkなにしたもの)とぴーぴっぽ(葉っぱ)

第5章 行事 P97

 行事とはハレの日であり、うまいものが食えることだった

 1、お正月と子どもの仕事

 2,1月1日の登校とミカン

 3、正月と吉田の伯父さんとお年玉、自前の凧

 4、虫の口焼き(害虫の名を言い唾を吐きかけまたイワシの頭を火でやく)

 5、とおかんや(わらでっぽうで地面を叩く)

 6、運動会と「おひまち」

 7、お盆と盆流し

 8、つつっこ(米と小豆をほう葉で包みゆでるたべもの)

第6章 余禄 P113

 1、あかぎれと青っぱな

 2、満天の星と怖かった便所

 3、囲炉裏端と昔話

 4、病気、ケガと塚越の新井病院

 5、屋号と鍛冶屋の清君のこと

 6、よおめし(夕食)と夜のひと時

 7、大橋のおばさんと反物やさんのこと

 8、長沢のバス停と乗り合いバス

 9、上郷公民館と村芝居

 10、村社の祭り

 11、耕地のあいさつと口上

 12、皆野の「矢尾」の出店

 13、耕地の有線電話

 14、山菜取りなど

耕地考―あとがきに変えて  P141

 耕地は小さな宇宙である。長沢耕地にバス路線が開通したのが昭和29年のことである。

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17ページ、釘ぶっとうし、本当の5寸釘は少なかった。

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21ページ「チャンバラ遊び」チャンバラの刀はかぞがらを使うことが多かった。

かぞがらは楮の皮をむいた後の白い棒である。

 

ちょうど「Humanology]のNo,76が届き、高橋さんの文章が掲載されていたので、紹介させていただきます。

「耕地という小さな宇宙から眺めてみて」

 -拙著「耕地の子どもの暮らしと遊び」のあとさき・うらおもて

1、はじめに

 この春に「耕地の子どもの暮らしと遊び」という、私の子ども時分の暮らしや遊びなどを体験的に綴った本を自費で出した。秩父の北西部に位置する私が育った長沢耕地は(長沢耕地)は鋭く切れ込んだ谷のわずかな平地に開かれた15戸の山岳集落だ。我家の標高は550Mくらいだ。私はそこで高校生まで暮らして、大学に行くために東京に出た。

 この本がかって毎日新聞の記者をされていた倉田眞さん(本研究所所員)の知るところとなって、毎日新聞の火曜日連載のコラム「火論」(4月12日朝刊、玉木研二記者)で紹介していただいた。また4月22日(木)の人間学研究所の例会でもこの本をもとに報告させていただいた。

 私がこの本を出したいと強く思ったのは、失われていく耕地のなりわいや風景を遊びや仕事などなどの子どもの目をとおしてのこしたかったからである、。そして考えたかったからである。私はこの数年、このままでは私が育った長沢耕地は世の記憶から消えてしまうのではないかという焦燥感にかられてきた。おそらくそれは、家や畑や山林が消えるだけではなく、祭りも伝統も様様な技も一緒に消滅することになる。

 長沢耕地の私の体験にこだわって書いたから世間一般には通用しないことも多いと思うが、リアルさは出せたと思う。玉木さんはそれを「小宇宙から見る昭和戦後の一断面になったようだ」と評してくれた。

2、今、私の耕地はどうなっているか。

 耕地とは、山間に拓かれたひとまとまりの集落のことである。平成28年の今、私の長沢耕地はどうなっているか。私の子ども時分の昭和30年代と比べながら、エピソードふうに二つだけ述べて説明としたい。

(1)一人暮らしの老女Tさんのこと

 本ができてすぐに私は長沢耕地に戻って耕地の人々に本を一冊づつ配って歩いた。Tさんという87歳のひとり暮らしのおばあさんの家にも届けた。「コンニチワー」と玄関の戸を開けて2坪ほどの土間に入った。耕地ではどの家も玄関にカギはないので、昔からそうやってズカズカ入っていくのが普通である。中は真っ暗なので留守かとも思ったが、奥の方でテレビの青白い光が微かにチラチラしていたので「Tさん、お久しぶりですキヨジです。分かりますか」と大声で呼んだ。するとTさんが、4つんばいになってノロノロと暗闇から這い出してきて「ニシ(我家の屋号)のキヨチャンかえ。しばらくでがんす。」とすぐに私を認めた。

私が「こんな真っ暗の中でどうしたんですか。」と言うと、「一人だし、電気デーが持ってえねえから、つけねえでいたんだよー」と云い、続けて次々に今の不遇な身の上を話し出した。大工だった長男が病気で働けなくなりお金を入れてくれなくなったこと、二男が勤めていた会社が潰れてしまい消息不明になっていること、たった1人の娘は嫁ぎ先のことに忙殺されてめったに来てくれないこと、そして今は治療中の足腰の薬代にも困っている自分のこと・・・。Tさんの3人の子どもは私より少し年下だが、耕地中を駆け巡って遊んだ仲間で、中学を卒業し町で職に就いていた。私はふと、二男を産んだその翌日に近くの沢から飲み水を入れたバケツを天秤棒で担いでいた若い日の元気なTさんを想い出した。私が小学3年生の頃だ。

 私は愚問を発してしまったことを悔やんだが、10分ほどT さんの深刻でとりとめのない話を聞いて、本を渡し、そこを辞した。

 私が育ったころの長沢耕地は15家族100人が暮らしていた。子どもも30人ほどいて、いつも村中に甲高い歓声が響いていた。それはたぶん小林一茶の「雪とけて村いっぱいのこどもかな」の句と同じ世界だろうと思う。どこの家も祖父母・父母・こども三世代の家族構成で、一人暮らしの老人などいなかった。粗末なものを食い、これといった娯楽もなく、朝早くから働き、夜は8時頃には眠ってしまう日常。嫁舅の確執がどこに家にもあって、隠したつもりだろうが子どもの私の耳にも近所の嫁舅の互いの罵りが漏れ聞こえてきた。だが老人たちは家族に見守られ畳の上で死に、野辺送りされた。

 今、耕地の住民は、8軒15人である。独り暮らしはTさんを入れて4人である。多少の事情は異なるが、4人は似たような境遇になっている。耕地の人たちは否応なくそうなってしまうのである。

 火事になっても消す人がいない。天王様の祭りも幟を立てる人がいないから消えてしまった。行事や念仏講、種々の寄り合いもとっくに失せた。誰も「この耕地はおしまいだ」と思い、時代の流れ、運命だと諦めひっそりと暮らしている。

(2)耕地に獣が住みついた

 1オ年ほど前の春、未だ母が生きていた頃、帰京の折に吊るし柿にする蜂谷柿(渋柿)の苗を植えようとしたら。「キヨチャン、家の周りに柿を植えるのはよしてくんな。熊が出ておっかなくてしょうがないんだから・・・」

私は直ぐにあきらめた。確か前年の秋に、耕地の中にあった栗の木が熊にやられて、耕地が大騒ぎになったと母から聞いていた。

 今耕地は家々の庭先まで山林が忍び寄り、山と区別できなくなりつつある。我が家の裏のうっそうとした竹林はかっては麦畑で、金色の穂が波のように風になびいていた.土留め(桑の実)を探して歩いた桑畑も今は桑の木の林と化している。人手の入らなくなった山の杉林は荒れ放題で保水力が弱まり、大雨のたびに崩れていく。川は往時の半分にもならず、場所によっては枯れて水無し川になって白い川肌をさらしている。

かっては山の奥にいた獣たちは耕地の中に巣穴を作り、耕地中を闊歩する。イノシシが沢の石をひっくり返してサワガニを食い、ミミズや草の根を探して墓石までひっくり返す。生垣の若芽をシカがきれいに食ってしまう。タヌキが空き家になった家に入り込んで棲家とし、縁の下に糞の山を築いている。

新見南吉の名作『ごんぎつね』のごんの巣穴は村の山の森の中にある。ゴンはそこから村中に出てきてはいたずらばかりして村人から嫌われ、悲劇的な結末をむかえることになる。つまり、本来は山に居るべき獣が、人里に出てきてしまったのである。棲み分けのタブーを親から教わらなかったがために犯してしまったごんとうひとりぼっちの小ギツネの悲劇の物語である。耕地の奥山に棲んでいたキツネが、ごんのように、たまには出てきて裏山のサツマイモを掘り起こしたこともある。奥山でケンケンという犬が風邪を引いたようなキツネの鳴き声を聞いたこともある。だが、獣たちが耕地中を闊歩する今では、『ごんぎつね』のような奥山と里山と人里が背景となる物語は生まれようがない。

 集落の周りの畑を耕すこともなくなった。鍬も鋤などの農具も用なしになり朽ち果てるのを待っている。キツネやタヌキ、そして天狗も山奥に住んでいないから、そしてたまに夜遊びのために隣の村まで峠越えする人もいないから、化かしたり肝試しに村人の前に現れたりできない。柳田国男の『遠野物語』のような共同幻想の世界はもうおこりようもない。

3、読者からの感想を読んで

 本を読んだ感想の手紙がいくつか届いたので、二つ紹介する。

一つは86歳の埼玉県北の女性Sさんからで、「牛のお産と母のお産」(p47)の話について4枚もの鉛筆書きの丁寧な感想を寄せてくれた。

 我家では牛を1頭飼っていて子牛を産ませ、その後搾乳をしていた。母牛に種付けをしたりするときには必ず獣医を呼んで大騒ぎして産ませた。臍の緒は、鎌を囲炉裏の火で焼いて消毒し切ったという。

Sさんは80年近くも自分の胸のうち仕舞っておいたおいた母へのすまなさ、その時の心細さを次のように綴ってよこした。

 「特に心を打たれたことがあります。私が9歳の時、昭和13年1月13日、忘れもしません。『牛のお産と母のお産』を読んで同じようなことがあるんだなーと、びっくりしました。私の弟が生まれるとき、私がお湯をわかし、母が一人でお産をして臍の緒を切って、私がタライに湯を入れ母が湯加減を見ては初湯をつかわせたのです。そのことは誰にも話さず母と二人で話したことはあっても他人に話したことはなかったです。近くに産婆さんがいたけど我家の事情で頼めないことは子供ながらにわかっていました。このことは恥ずかしいし情けないと、いまだに母のことを想い出すと心がいたみます。」

 手紙を読んで、私はあったこともないSさんと何だか旧知の仲であるかのような錯覚におちいった。

もう一つは「サイばあさんと青大将とヤスさん」(p42)を読んだ、サイばあさんの曽孫の若い女性Mさんからの感想(謝辞)である。私が本に書いたサイばあさんにまつわる話とはおよそ次のようなものである。

 私が小学校に上がる前だった。ある夏の昼、耕地の往還をくねくねと横切る2メートルもありそうな青大将に私は出くわした。私は興奮して、一緒にいた友達と棒でたたき殺そうとした。その時、サイばあさんが目をつり上げて怒り甲高い上ずった声で「それはヤスだ。よせ。ヤス早く逃げろ」と怒鳴って道端に追いやってしまった。私は呆気にとられて見ているだけだった。

 後で知ったのだが、ヤスとはサイばあさんの二男の安衛さんという人で、戦争末期の昭和19年、ニューギニアで戦死した。享年21歳。もちろん遺骨などはない。この日はもしかしたら、ヤスさんの命日だったのかもしれない。

 Mさんはこの話を読んで初めて曾祖母にあたるサイばあさんのこのような事実を知った。そして「読んで涙がとまりませんでした。ほんとにありがとございました。」と書いてよこした。

 私はMさんとは全く面識はないが、ずいぶんと身近に感じた。 

4、結び

 私は懐古趣味でこの本を書いたつもりはない。もしそう感じられる人がいたら、それは私の力不足によるものだ。日本のどこにでもある深刻な限界集落の現実と消滅の意味が理解されていないように思う。このままでは伝統も技も永遠に失うことになることになるのではないか。日本の懐が浅くなって、のっぺりしたものになってしまうのではないか。そういう思いを書いたつもりだ。

 数年前に、私が担任した生徒たちの同窓会(中卒後30年経過している)があって、私も招かれて出席した。宴も中盤になってあちこちにいくつかのグループができた。私の周りにも数人が集まってきて、懐かしい話がとりとめなく続いていた。酔いも手伝って、消えゆく田舎のことを本にしたいと漏らしたところ、出版社に勤めていたK子(中1と中の時に私が担任した)が「センセー、それ私にやらせてください。安くしとくからー」と勢いよく名乗り出た。

 そんなわけで、K女史のおかげで本が成った。墨絵のイラストも全部彼女が担当してくれた。そういえば彼女は絵も得意で美術の成績がとても良かった。

◎発行所 ブイツーソリューション

 名古屋市昭和区長戸町4-40

 電話:052-799-7391

追記

 ブログ筆者は昭和18年生まれだが早生まれなので、級友は昭和17年の人が多かった。新宿という都会で生まれ育ったが、戦後まもなくは原っぱが多かった。特に戸山が原には弾除けの人口の山、三角山があり、自然が多くのこされていた。三角山では山の上の方と下の方、二手に分かれ、土塊を相手にぶつけるという遊びでした。戦後まもなくは戦前に作られた射撃場があり、鉄筋コンクリートのカマボコ状の射撃場ではいつも機関銃などを撃つ音がしていました。その後山は壊され、バタヤ部落になりました。それも壊され、今はいろいろな建物に変わっています。

 私たちもいろいろな野外の遊びをしました。この本にある遊びと、この本にない遊びがありました。馬乗り、釘差し、ビー玉、メンコ、チャンバラ(セイタカアワダチソウの枯れ枝と、うちは桶屋で木の木っ端があり刀が作れた。材木を乾燥させるために井桁に組んだところを基地にして遊びました。戦後まもなくでこの本にはない、「すいらいかんちょ」という遊びをしました。敵味方に分かれ、艦長、駆逐(艦)、水雷(艇)と役割が分かれます。艦長は駆逐艦に勝ち駆逐艦は水雷艇に勝ち、水雷艇は艦長に勝ちます。艦長は一人で水雷に捕まると負けです。水雷が一番数が多いのです。あとベーゴマもはやりました。Sケンというのもよくやりました。ほかにいろいろな集団的な遊びがあり、夢中で遊んだものです。

 手伝いはいろいろありましたが、中学生のころ木曾から早朝に大きなトラックで風呂の材料が届きます。檜の材は大きな長い板です。それを2人がかりで、特殊な道具でもって干場に運びます。それはかなり力がいるものでした。サワラの木は適当な大きさに束ねたものです。

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