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2016年7月

2016年7月31日 (日)

「第五倫伝」 第1章、再び、赤眉の大軍がせまる (4)

ふたたび赤眉の大軍がせまる
 早朝、賊は旗を立て、今度はいろいろな城攻めの道具をそろえて、本格的に攻め寄せてくるとという知らせをもって、馬が全速力で砦に入ってきた。第五倫は、直ちに砦からの使いの早馬を長安の京兆府へ走らせた。
 こんどの首領は、以前官軍の隊長をつとめていた男であり、赤眉の精鋭部隊である。今度は200人と人数も多く、装備もしっかりしている。およそ3倍の敵であるという。
 小さな砦に赤眉が負けたといううわさがたち、このままでは何とも面子がたたないのである。なんとしても叩き潰さなければならないと。
 第五倫は、今度はきびし長い戦いになる。乏しい食糧だが、この戦いに勝たなければ皆殺しをかくごしなければならないと、食べ物を配り力をつけておくように、女性たちに食べ物を配る指示をした。
 第五倫は、皆を前にして、大きな通る声で、
「みんな、心配することはない。今度の敵は、この前のように力を合わせて戦えば大丈夫だ.もう、京兆府には使いを出した。援軍が来ることになっているから、それまで支えていればよい。がんばろう」
 一斉に、とりで側もときの声をあげた。
 こんどは、砂ぼこりはずっと多い。それは敵の数の多さを示していた。
赤眉は弓矢の届かないところに兵を止め。白旗をもって伝令が来る。
敵の数が多い。今度は油断銭司に、本格的に攻めてくる。
砦の上にいる一族は,おもわず、固いつばを飲み込み自分の得物を強く握りしめた。
数が多い、また今度は油断せず、本格的に攻めてくる。
 今度こそ降伏せよ。しなければこの前のかたきを討って皆殺しにする。
後ろから、精悍なひきしまった顔つきの首領が大声で叫ぶ。
「この前は油断したようだが。降伏しろ。降伏すれば皆殺しにはしない。死ぬのはお前たちの一部だけで済む。
 営保の上に立つ第五倫は、敵の首領以上の大音声で。
「降伏などするものか。数が多くても負けない。女子どもの多いこんな小さな営保にたくさん押し寄せてくるとはご苦労なことだ。前の馬はうまかったぞ。今度も食料用の馬をたくさんくれるのか。お前たちにこの営保は絶対落とせない」
 倫は大声でさんざんに侮辱する。
 怒り心頭に達した賊たちは、隊長の命令一下、攻撃を開始した。
 「よし、皆殺しだ」
一斉に、堀近くまで、攻め寄せる。と、突然前の列が崩れ落ちる。
 落とし穴だ。くずれ立ったところにいっせいに営保から矢を射かける。
「今度は人をねらえ、できるだけひきつけろ。よくねらえ」
 倫は叱咤激励する。
 しかし今度の敵は烏合の衆ではない。直ちに全員を下がらせると、一部は馬を下り一斉に盾をそろえて矢を防ぎ、一斉に矢を放った。火矢を射るものもいる。
 火矢はいくつかの筋を引きながら営保のあちこちに突き刺さった。それを消しに何人もが走らなければならない。
 矢が雨のように降り注ぐ。第五倫はじめ全員が応戦する。倫の強弓と雄の強弩がうなる。倫のまさに矢継ぎ早の速さであった。そして正確に敵を倒していく。まだ14歳の末弟の悌なども弓で応戦する。
 賊は、死人、けが人を収容するために一度退いた。すでに40人近くが死傷している。
 敵は次に車に覆いをかけ、隠れながらやってきた。今度は倫らが火矢をかける。
近づいた敵は長梯子をかけ営保に取りつこうとする。そこへ長柄の戟(げき)で突き伏せる。上から大石を投げ込む。堀に落ちるもの続出である。
 さて、戟とはどのようなものか、漢代には槍以上に使われた。槍の先端にかぎ型の刃がついていて、馬上にいるものを歩兵がひっかけて落とすことにむいていた。
 再び敵は撤退した。
第五倫は味方の被害を調べる。矢にあたったもの十二人、うち重傷者四人、その中に李秀がいた。一人娘の李蘭と第五倫の母親の王麗が介抱していた。矢は胸に深くささり、多くの血が流れていた。
「爺、しっかりしろ」と倫、腕にかかえこむ。李秀は苦しい息の中で、最後の力を振り絞って、第五倫の手をしっかり握りながら。
「わしはもうだめですじゃ。わしは3代の方々に仕えてきましたが、倫さまは世に出て立派な仕事をされると期待しておりました。先がみられず残念じゃ。心残りは孫娘の蘭のこと。わしがいなくなると身寄りがなくなる。なんとか面倒を見てやってくだされ。死に行くものの言葉として聞いてくだされ。蘭は殿を慕っております」
「死ぬな爺、そなたは父親の無いわたしの親代わりであった。わたしも蘭が好きだ。あとのことは心配するな」
 孫娘の蘭は、流れる涙をふくこともなく
「死なないで。蘭を独りにしないで」
と、くりかえし、李秀のからだにとりすがった。
しかしまもなく、とりすがり涙にくれる人々を残して、李秀はがっくりと力が抜け、息を引き取った」
「ああー」
思わず、第五倫は頭を上に向け、大きく嘆息した。
―わたしは正しかったのだろうか。いったいこれから私の責任で何人死なせることになるであろうか。
「母上、私は間違っていたのでしょうか」
「何を気弱なことを、倫や、もし戦わなければもっと多くの人々が苦しむのです。これはどうにも致し方のないことです」
母の王麗はきっぱりといった。
倫の胸は悲しみで張り裂けるようであった。
しかし、いつまでも悲しんでいられない。夕闇が迫り、夜襲に備えなければならない。
誰もが寝ずに夜襲に備えた。母親の王麗が女たちに、てきぱきと指示を与えている。たいまつが赤々と営保を照らしている。
 敵はまた火矢をはなつ。敵はしかし明るさの中に照らし出され、営保に隠れている方が有利であった。次々に第五倫の強弓や強弩の餌食となった。何しろ常人の届かないところに矢や箭が届くのである。風は幸いなことに後ろから吹き、矢の勢いは増した。
 敵はついに夜襲をあきらめ、襲ってこなくなった。
 しかし夜襲は何とか防いだが、また営保側に死者が出、けが人が増えた。みな営保の壁によりかかりながら、一睡もせずに朝を迎えた。
 今日の攻撃は激しいだろうと誰もが考えた。
その疲れは極限に達した。なんといっても数が違う。
 その有様を見て、倫はみんなを前にしてきっぱりという。
「さあ、力を合わせて頑張ろう。われわれは何度も」敵襲を防いできたではないか。大丈夫。今日がんばれば必ず味方の軍が来るぞ」
「そうだ、がんばろう。もう少しのがんばりだ」
と、雄の声。続いていろいろな声が。
「敵も疲れているだろう。もうたくさん死んでいる」
李秀に大変かわいがられていた末弟の悌も、
「李秀じいさんのかたき討ちだ」と大きな声を出した。
「おうー」
「そうだー」と
みなみなは力強く唱和した。
すべてのものが、すすで真っ黒になり、汗と泥や血の付いた服と汚れてひどい顔をしていたが。
 第五倫はその士気の高まりに大いに満足した。
―大丈夫だ。持ちこたえられる。
月明かりの中からしだいに、東から地が赤く染まり、周りが明るくなってきた。朝日がはるか向こうの賊の影を長くうつしだす。
 女、子どもは、残り少ない食べ物を温め、飲み水をみなに配り始めた。食べたものには力がみなぎった。
 

2016年7月28日 (木)

「第五倫伝」第1章   第五倫と第五雄、李秀の昔語り(3)

「第五倫伝」第1章
第五倫と第五雄
「やったー。勝った」
「なんと、たわいのないものだ」
「さすが、倫さまと、雄さまはすごいものだ」
一族はお互いの顔をみあいながら喜びの声をあげた。砦側は弓矢にあたった者はいるが、なんと、1人の重傷者もでなかったったのである。目の前にはけがをして置き去りにされた馬や死がいが転がる。
「今日は、ひさしぶりに肉をたっぷり食べられるぞ」
あるものが、大声を出した。
「そうだな」
「ずいぶん、肉なんて食べられなかった」
「今日はお祝いだ」
 しかし、喜んでばかりはいられない。
「こんなに簡単に負けてしまっては敵の面子、丸つぶれだ。必ず復讐に来るであろう。今度は敵も油断しないで来る。今度は大変な戦になる」
 その若者こそは姓は斉の王族である田氏から由来する。第五といういささか変わった姓であり、名は倫といった。この兄弟の兄の第五倫こそ、後世において聖人としてあがめられる人物となるのである。
 (前)漢の初めころ、戦国時代に、斉の国の国主であった田氏の一族は漢が都を長安に移したとき、最初に来た田氏を第一氏とし、五番目に来た田氏を第五氏と名付けた。確か七氏か八氏まであったようである。詳しくは後で述べよう。
 一方。弩の名手、弟は雄といった。また砦の見張りをしていたのは遠くまで目のきく末弟の悌であった。
 第五倫は次の備えについて弟や主だった人たちと協議した。
「このままではすまない。今度は大勢でくるであろう。京兆(長安の所司代)の軍の助けがいる。もしもの時は助けをよぼう。
 敵が襲ってきた時に、裏山からひそかに救いを求める使者を出す出す手配をした。
みな、砦を強くするために必死で働いた。今度は簡単にはいかない。言われなくとも皆は心の中でそう思った。落とし穴を彫り、堀を広げ、武器や食料をたくわえた。
 いろいろ張り巡らした情報から、来襲する敵はこんどは200あまりという。田氏一族でここころならずも賊に加担しているものがいて、ひそかにしらせてきたのえある。
 時は、西暦26年(後漢建武二年)前年劉秀の後漢王朝の成立が宣言されたが、まだほかの王朝もあり、赤眉の賊などはまだ勢力を保ち、まだ世は定まっていなかった時代である。
 戦乱のさなか、この年開中地方で飢饉が発生し、人が人を食べた(関中飢え、人相食む)と正史に記録されている。そういう時代である。
 京兆尹(けいちょういんー長安の長官)の鮮于褒(せんうほう―周の武王が箕子(きし)を朝鮮に封じた)。その子孫はその領国の名をみづからの姓にした。は事前に赤眉軍の攻撃の知らせをうけていた。
 ついでながら、当時の長安の地方政治組織を見てみよう。長安は前漢(中国では西漢)の都であり、後漢(中国では東漢)の時代となり皇帝が東の洛陽に移っても、いわば副首都として重要な役割を持っていた。いわば、東京遷都後の京都が東京以上の人口を持っているといイメージである。
 長安を含め周辺の地域を3つに分割し、その中央を京兆と呼び、その長官は京兆尹(中2000石、実質2160石)といった。その担当地域の行政と治安を担当するとともに、配下に丞(副官600石)二人、長安市令(市場をつかさどる)や、長安厨令(食料市場をつかさどる)などがあった。長安の東側を担当する役職としては左まのしょう
、右がわを担当するものは、右扶風(うふふう)があった。それに京兆尹をくわえて、三輔と呼んだ。
 参考までに洛陽の都には同じような官職として河南尹(かなんいん、首都圏長官、中2000石)を置いた。しかしこのときは長安の都は戦乱のさなかであり、荒廃し人口は極端に少なかった。まわりのまちも人口が減少してところどころに、第五倫のような、砦が散在するだけというありさまであった。
李秀の昔語り
 赤眉の敵の再来集を前にした、あわただしい中である日の夕方、家の中のいろりを囲んで、この砦の最年長の李秋が、孫娘や倫の兄の子などの子どもたちに、昔話を始めた。
 「もうわしも60を越して、あまりみなのお役にたてなくなった。でも、一番の年寄として,この第五の一族の話をして、語り継がれるようにしていかなければならないなー」
 痩せて、頭も白くなり枯れ木のような李秀は、白湯をごくりと飲んでから、話し始めた。
 「わしらの一族はなー、代々この家にお世話になっての、わしも小さいころの倫様の、おじいさんのころから、お世話になっておったのよ。
 もともとは、みんなも知っている戦国時代の斉の国を治めていた田氏が第五氏の先祖でな、それはみんなもきいておるだろう?
今から200年も前に漢の国ができたときに、斉の国から田氏の一族がこちらの長安の都の近くに移り住まわされたのだよ、田氏の一族でこちらに来た順に第一氏、第二氏とつけていったんだよ。だから第五の一族は5番目に来たことになるね。そのあとも次々に来たようだよ。(第八氏というのが歴史に残っている。この辺りはわしがまだ子供だった50年も前は今の戦乱のもとになる王莽が新という国を作る10年以上も前で、この長陵の地も(長陵邑)、もたくさんの人が住んでいたのだよ。ちなみに王莽の王氏という姓も斉の田氏から出た苗字なんだ。
 昔は、この営保(砦)もなくて普通の家がたくさんあって、よく耕された田畑がたくさんあって、緑の多いとてもいいところだったのだよ。倫様のおじいさまもお父様の第五禹様もとても立派な方で、このあたりの、由緒ある大地主として尊敬を集めていたんだ。
 代々、長安の都のお役人になったり、三老になられたりして、みんな素晴らしい方だったときいているよ。そして第五禹様と。奥方の王麗様には男のお子さんばかり5人も生まれたのだよ。長男の憲様に続き二男の倫様も23年前に生まれて、つぎつぎにその後雄様、悌様と生まれて、男のこばかりでとてもにぎやかなおうちだったんだ。長男の憲様はとても素晴らしい方で将来を期待されていたんだよ。そして、かわいい女の子も生まれてそれが小香ちゃんなんだ。
とまだ小さい第五香と名付けられた子供を見つめた。
「それにね、4番目のお子さんは小さい時に病気で亡くなられたので、今は3人のご兄弟だけが残っているというわけだ。
 ところが18年前に王莽の新の国ができてから、急に世の中が乱れるようになっての、それから10年もすると、いろいろな盗賊が村を襲うようになってきた。それで今から3年前だからお前たちも知っているだろう。盗賊が何度も攻めてきて、倫様のお父様もお兄さんの憲様も殺されてしまったんだ。その時、わしの息子夫婦も殺されてしまった。わしの身内は蘭、お前だけになってしまった。みんなの親もその時に殺されてしまったんだ。運よく隠れておって見つからなかったものがいまここにいるのだよ。
 賊たちはひどいもので、おとなしく、食べ物や、家畜を手渡せば、殺しはしないけれど、いづれ、自分たちが餓死するようになる。戦えば、大人たちは、殺され、若い娘や子どもはさらわれて奴隷に売られる。食べ物が全くなくなると、人が人を食べるという恐ろしいことも行われたんだ。
 それでの、この近くではほとんど人もいなくなってしまい、家も廃墟ばかり木も切りつくし、畑も荒れ果ててしまったんだよ。
 聞いている子供たちは、みんな親しい親族をなくしたものばかりで、みんな涙ぐんだ。
 李秀の話は続く。
 「倫様は一族と頼ってきたまわりの人たちとで、営保(砦)を作ったのだね。それからは何度も賊は襲ってきたけれど、倫様や雄様やみんなで力を合わせ、まもって来たんだよ。
 でも、今度襲ってくる赤眉の敵は爺が一度も経験したことのない恐ろしい敵になる。なんとかみんなで力を合わせて、敵をやっけようね。
「うんがんばるよ」男の子たちが声を出した。
小香も涙を手の甲でこすりながらうなづいた。
 「みんな、この世にせっかく生まれてきて、早くに死んでしまうのは、本当に心残りと思う。命は本当に大切だけれども、こんなにも命が粗末にされた粗末にされたことはない時代に不幸にもお前たちは生まれてしまった。この爺のように六十すぎまでも、生きていればもう十分だがな。お前たちは何とか生き延びておくれ。
 龍秀さまの漢の国はもうすぐ、全国を統一して、平和な世の中にしてくれることだと思う。もうあとほんの少しの辛抱じゃ。何とか頑張って、いい時代に長生きしておくれ。
 李秀は話つかれたのか、話しながら、うとうとしだした。
  (3)
 

2016年7月26日 (火)

「第五倫伝」 第1章 第五倫 一族を守る 恐るべき強弓と強弩(2)

恐るべき強弓と強弩(きょうど)
 敵は今度は体制を整え、距離を取って一斉に矢を射かけてきた。矢を射かけつつ、いっせいに矢を連ね、砂塵を巻き上げ怒涛の如く襲ってきた。それに備え、営保には隙間のないように木製の盾を並べ、矢を防いだ。
「兄者、今度は首領を倒さないと無理なようだ」弟は兄に語りかけた。
「うむ、まだこりぬようだが、今度は命をねらう」
兄は横にいる弟に声をかけた。弟は十石(二百六十七キログラム、普通六石)の強弩の名手なのである。力のあるものが足で強弩の弦を引き、箭(弓の矢にあたる)をつがね、予備の強弩をもち、ひかえている。
「おう、兄者は首領をねらってくれ、俺は副首領をねらうあいつらはゆるせない」
兄は先祖伝来の五尺、六百斤(三百キログラム)鉄の鎧をいくつも貫通する強弓をおもいっきりひきしぼる。矢じりは特別に、さす股型にした。二人は土塁に一斉に立ち上がり兄の弓弦が成った。矢はすごい音を立てて飛び、首領の顔面は血しぶきとともにくだけた。首領は、はじかれたように馬の背を逆に転げて地に落ちた。兄の弓弦はまだなっていた。
 同時に豚のような副首領の胸に鎧をとおして弟の箭がうなりとともに、貫通し、やはりその勢いで頭から転げ落ちた。敵がひるむすきに、いっせいに味方は立ち上がり、つぎつぎにやと箭をはなつ。ばたばたと敵は倒れる。賊はその弓の正確さと強さに驚きあわてた。
 「どうだ、まだ死にたいものはいるか」
長たる若者は、次の矢をつがえた。首領、副首領、二人の強烈な死にざまに賊はおびえた。
 ふたたび、一斉に後退し始めた。
「逃げ帰るなら、もううたないから死人やけが人を収容しろ」
 わかものは、よく通る声でふたたび大声を発した。
 賊たちは来た時の勢いはどこへやら、うなだれながら、死人やけが人の収容をはじめた。
「なんてことだ。おれたちがこんなに簡単に若造どもに負けるなんて」
「ちくしょう、覚えてろ、このままで済むと思うな、今度来たときはただじゃすまないからな」
 賊たちは、捨てぜりふをはきながら、倒れたり死んだりした馬を残し、死体と重傷者を馬にのせ、多くは歩き、よろめきながら、撤退を開始した。
 砦の人たちは一斉に「わー」と歓声をあげた。
武器と戦法の違いが戦いを決めた
 さて、ここで、ついでながら、弓と弩(ど)について話してみよう。弩は石弓ともよばれ、現在のボーガンと同じ形をした、横型にしてねらうものである。弩は戦国時代以降、歩兵の主要ぶきであった。弓に比べ、より遠くまで箭(や)を飛ばすことができ、目盛りのついた照準で敵をねらうことができ、正確さにもすぐれていた。弩の強さは石(こく)であらわされた。一石は約30kgで、手で簡単に引くことのできるものは、三石弩、弓に足をかけて全身で弦を引き寄せる六石弩では280mも飛んだ。それから見て弟の引く十石弩の威力がよくわかることであろう。ちなみに、アーチェリー競技で使う弦の強さは十八kg、的は90mさきである。
 弩には連弩という何本も同時に発射できるものや、連続して発射できるものがあった。蜀の諸葛孔明の発明した「元戎」(げんじゅう)は、一度に十本の鉄矢を放つことができたという。また、攻城用の巨大なものも発明された。
 ただ、弩の箭は二の矢を放つまでに時間がかかったということである。そこで、他のものが専門で箭をつがね、つぎつぎに渡していくということもあった。
 14世紀半ばのイギリスとフランスの百年戦争では、フランス軍の弩と、イギリス軍が新たに開発した強力な長弓とのたたかいになった。フランス軍の弩は320mも飛ばすことができた。それに対してイギリス軍の長弓は256mで、射程においては弩が勝ったが、イギリス軍のてだれの射手は1分間に10本の矢を飛ばすことができたのに対して、フランス軍の弩はなんと1本しかうてなかったのである。
 当時のフランスはイギリスの五倍もの人口と兵力を誇ったが、クレシ―の戦いや、ヘンリー五世の活躍で有名なアジンコート(アジャンクール)の戦いで、わずかなイギリス兵に負けてしまった。シェイクスピアの「ヘンリー五世」は劇場のみならず、何本も、映画になっている。筆者は、その映画やビデオを、わくわくしながらみたものである。
 数において圧倒的な戦力を持つフランス軍と戦う、つかれきったイギリス軍の中で、「もう少し兵がいたらいいのに」と嘆く将の声が声があった。ヘンリー五世はその声をききつけ、
「それは違う、兵は少ないほうがいい。今ここで王とともに戦う名誉をイギリス本土にいる、安楽な生活をする人は持てない。われわれはここでの勝利を末永く、王とともに戦ったという誇りを戦いから帰って語り続けるであろう。そのためには少ないほうがいいのだ」
 この感動的な名演説に、兵士たちは、一斉に「オー」と答えた。
その兵士たちを鼓舞して、大勝利をおさめる場面を記憶している方もあるであろう。
イギリス軍の勝利は、ひとつには長弓と弩の兵器の差がある。しかしこの兵器の差があっても、フランスはイギリス式の長弓を採用しなかった。イギリス軍の中核は、国王に忠誠を誓う自由農民が主体であり、難しい長弓を扱える十分な訓練をしていた。フランス軍はバラバラな古臭い封建貴族(領主)が中心で、自領の隷属的な農民に新しい装備をさせたり、訓練させたりはしなかった。そんな訓練をさせて、自分たちに農民が反逆することをおそれたのである。
 この忠誠心と武器の差が、圧倒的に数が少ないイギリス兵が、アジンコートの戦いにおいて大軍のフランス軍を壊滅させることになるのである。
 兵器の進歩と、民衆軍の圧政を打倒しようとする意欲があいまったとき闘いは大きく変わり、歴史を前進させてきた。
 同じようなことが、アメリカの独立戦争において行われた。1776年独立宣言をした後も、アメリカ軍がイギリス軍と同じような戦い方をしている間は、軍事的にはイギリス正規軍はアメリカ軍を圧倒していた。しかし1777年のサラトガの戦いで、アメリカ独立軍は決定的な勝利を得た。
 サラトガの戦いは松林の前で行われた。赤い鮮やかな軍服を着たイギリス軍はいつもの通り太鼓の音にあわせて、方形をした密集した隊形で歩兵がすすみ、所々で立ち止まり一斉射撃をするというかたちであった。アメリカ軍も同じ戦い方をしていた時には、よく訓練されたイギリス軍が圧倒していた。
 当時のイギリス軍の銃は滑空銃(かっくう銃―銃身の中に旋条がないもの)であった。ところが、独立軍の銃は、ペンシルバニア、ライフル(あるいはケンタッキーライフル)と呼ばれる、銃身に旋条があり、銃身も長く、命中精度はよく、強力で弾の装填もかんたんであった。これは、開拓者が狩猟用として使っていたものであった。
 そして、このサラトガの戦いで始めて採用された戦法があった。すなわち、密集隊形でなく散兵で戦うということであった。散兵はそれぞれが戦う強い意志があり、自分が何をなさなければならないかを自覚していなければ成り立たない。自由のためにと全アメリカの民衆が立ち上がった軍隊は、制服などバラバラであっても、極めて戦意が高かった。
 特に、ダニエルモーガン大佐は500人の狙撃兵を率いて、森の陰に隠れて、正確に敵を倒し、イギリス軍を大混乱におとしいれた。彼らは鹿革服を着た開拓者たちであったのである。
 ところが、命令に従い行動するイギリス軍は、司令官のフレイザー准将が敵の弾に倒れると、まとまりがなくなって、一気に敗走してしまった。
 このサラトガの戦いで、新しい戦法とライフル銃の威力が証明された。そして、アメリカ軍の勝利が確定したのであった。
 同じように、ベトナム戦争においては、ベトナム兵は自分の国の独立を願い、自覚的、自律的に戦って、ゲリラ戦でアメリカ軍を悩ませ、圧倒的な戦力を持つアメリカ軍を打ち負かした。
(2)
 
 
 
 

2016年7月24日 (日)

「第五倫伝」-後漢初期の人間学 第1章 第五倫、一族を守る (1)

「第五倫伝」-後漢初期の人間学
 王 伯人
第一部 後漢王朝成立と第五倫下積み時代
第1章 第五倫、一族を守る 目次
赤眉の来襲
恐るべき強弓と強弩
武器と戦法の違いが戦いを決めた
第五倫と第五雄
李秀の昔語
ふたたび赤眉の大軍が迫る
第五倫とその時代
第五倫の生い立ち
赤眉の来襲
 からからに乾ききった大地、9月の紺碧な晴天。はるか向こうから土ぼこりがせまる。ここ数か月雨が降らないのだ。見張り役に望楼にいた若者が直ちに鐘を鳴らす。それぞれに仕事にいそしんでいた一族は一斉に営保(砦)にかけもどってくる。
「はやく、はやく」
望楼で見張りをしていた若者が大声で叫ぶ。
その声を受けて、営保の長と思われる青年が、砦全体を見渡せる望楼にゆっくりと上がっていった。その姿はまだ驚くほど若い。
「兄さん、賊だ」
若者が指さす。
砦の長たる青年は、うなづいて、砦中に響き渡る大音声をあげた。
「早く砦に入れ」
・・・
「全員集合したな橋を上げよ」
「全員配置につけ」
「女子どもは、安全なところへ」
きびきびと指示を示すものは、まだ初々しさのなかに、きりりとした、尊貴さと、すでに長者の風があるような若者である。そしてみな見事な統制に元に、指示にしたがっている。
「こんどは赤眉だ」
望楼の若者が声を上げた。すでに営保は何度もいろいろな賊に襲われているのだ。
 賊はみな眉に赤あかと顔料を塗り、赤い鉢巻き、赤い旗、すべて血のように毒々しい。
全員騎乗だ。その数50人あまり。
 守る砦は当時営保とよばれた。けわしい土地を利用し、土塁を積み重ね、後方はけわしい崖。砦の前には堀が掘られている。前面はゆるく傾斜し上から見下ろすようになっていた。土塁の上には人が通れるようになっており、さらに胸の高さまで土塁は高くなっていた。そこから矢を射ることができるようになっていた。
 望楼はとくに頑丈に石で作られ、中を階段で上がれるようになっていた。望楼の下は食糧倉庫になっていた。
 営保の中にはおよそ七十人余り、近くに住む人たちも営保に助けを求めてきたのである。しかし半数は女子どもである。襲われた場合、降伏して貴重な食物や財物を提供して、下手をすると、餓死するか、あるいは盗賊の仲間になっておたづねものになるか、死を賭して、賊と戦うかである。当時、多くのものが賊に加担した。賊と戦って殺されるか、どちらにしても地獄であった。
 ひげ面で顔に傷があり、いかにも多くの人を殺めてきたという、凶暴な面相をした狩猟がどら声を張りあげる。
「門を開けて、降伏しろ。おとなしく食べ物や金めになるものをだせ。それとも抵抗して皆殺しになりたいか」
 副首領と思われる肥満体が、髪をつかんで生首をみせつける。
「こいつは、おとなしく降参しないからこのざまだ。降参すれば命まで取らない。お前たちのためだ門をあけろ」
 と、肥満体。子分たちもいっせいに。
「皆殺しになりたくなかったら早く降伏しろ」
と、はやし立てた。
 賊はこんな小さな営保は少し大げさにおどせば、簡単に落とせるものとたかをくくっていた。今までがそうだからである。
 一族をたばねる若者は、一人砦の土塁の上に立って張りのある大声で答える。
「おまえたちも、もともとまじめに働く良民だったはずだ。われわれをおそわず、悪徳地主や官軍をおそうべきだ。わたしは、お前たちを殺したくない。素直に帰った方が身のためだ」
 賊たちはどっと笑って、
「貴様のような若造が大口をたたきやがって、後で許してくれって泣きついても、もうおしまいだぜ、さっさと門を開けろ」
「そうだ、降参するなら今のうちだ」
賊はなめきって近くによって来る。
 その若い、砦の長は油断させ、堀にほとんど賊が接するまでに、近づくまで敵をひきつkた。
 「よし撃て」
と手先を敵に向けるとともに、かねてからの打ち合わせ通り同時にいっせいに、土塁の陰に身を潜めていた一族が、あるものは弓を、あるものは弩(いしゆみ)を一斉に発射した。40数本の矢が いっせいにに降り注ぐ。軽い弩は老人や女性など力のないものでも使え、ねらいは正確であった。若い砦の長の大弓は目にもとまらぬ速さで次々に射る。
 14,5歳の元服がすんだものは戦闘に参加した。普段から木でつくったいろいろの大きさの盾を作り、その盾は、支えがあり、その盾をもって隠れて、移動すれば矢にあたらないようにした。その盾に隠れて10歳以上の子どもや女性も矢を運んだり、補給の手伝いをした。望楼にいた少年は、あちこち駆け回って指示を伝える。
 「いいか、馬を狙え、的が大きいし、敵は混乱する」
賊たちは馬を射られ、馬が暴れて落馬して堀に落ちるもの、馬にけられるものなど、けが人が続出大混乱となった。
 思わぬ攻撃に、おどろきあわてて、
「ち、しまった油断した。もう容赦しねーぞ」
「皆殺しにしてやる」
と、口々にさけびつつ、倒れた人を引きずり、馬をそのままに、いっせいに後退した。
 砦の人たちは、ほっと息をついた。
 こんどは本格的に襲ってくる。本気になって攻撃して来ればその力はあなどれない。
なんといっても敵は、さまざまな戦いをへてきた荒くれどもである。
 手練れの戦闘員は敵の方がはるかに多い。そう簡単には引き下がらない。
こんどは体制を整え、襲ってくる。さていかなることに相成りましょうか。
(1)
コメント
 小説の名前を、結局、一番初めにつけた、小説の名前、
「第五倫伝」後漢初期の人間学 に戻しました。

小説の題名と書き出しを変えようと思っています。

小説『人相食む』の題名と書き出しを変えようとおもっています。
 -「第五倫伝」に変えます。2016年7月
 小説の第1章を、ブログに書いていて、思いました。『人相食む』という題で、おまけに、食人のことをいろいろ書いて、こんな書き出しの小説を誰が読む気になるでしょうか。
 このような題名と、書き出しを書こうと思ったのは、だいぶ前の2001年に読売カルチャーセンターの、「懸賞小説に応募する」という講座に参加してからでした。
 懸賞小説には最低でも500人ぐらいの人が応募して、ともかく手早く編集スタッフが10くらいの作品に絞らなくてはならないと言います。10くらいの作品に絞って初めて作家などの先生により、本格的な選考になるそうです。
 10くらいに絞られる前にはともかくスタッフが作品を落とすことに専念するそうです。ともかく何か少しでも欠点があるとどんどんふるいにかけます。そして目立つためには、刺激的な題名と書き出しの数行が勝負であるといわれました。
 それで、私の小説も最初の「第五倫伝」とかではなくて、『人相食む』という題にしたのです。またかなり刺激的な内容の書き出しにしました。でも、ブログに書き始めて、ちょっと考えてみると、なんか気色の悪い話をわざわざ読んでみたくなるでしょうか。そして小説では、読んでいて、おもしろいだけでなく希望が湧いてくるような小説を読みたくなるでしょう。
 「人 相食む」は約70年間にわたり4代の皇帝と、第五倫をはじめ、素晴らしい臣下が、「建武・永平の治」という後世の模範となる時代を作っていったころのお話です。第2章以後は気色悪い話は出てきません。読んでいて、政治と、世の中がこうであればいいのに思われるお話です。それならば、それにふさわしい題名と書き出しにかえる必要があります。題名と1章だけは変更すれば後の文章は基本的にそのままで行こうと思います。
 安保法案が通り、なんかきな臭い将来がこのままでは来てしまいそうな時代こそ、「人間-民衆を第一とする(元元を首とする)」という政治を貫いた光武帝と、その政治を受け継いだ3代の皇帝と第五倫をはじめとする素晴らしい人々の政治があったということを知ってもらうべきだと思いました。
 こういうふうにに思いだしたのは、ブログに書きだしてからです。そのままただCDやファイルに保管したままでは思いつきませんでした。
 第2章の出だしの文章を最初に持ってこようと思います。気色悪い第1章の部分は巻末にでも縮小して持っていきましょう。
「元元を首とする」-後漢初期の人間学
という題も考えられますが、やはり何だかわからないかもしれません。
宮城谷産の『草原の風』など素晴らしい題ですね。
結局ありきたりですが、小説を書き始めたとき、最初につけていた題名、「第五倫伝」に戻します。
 本来は出版社のプロの人のアドバイスがあった方がいいのでしょうね。
 
 
 

2016年7月23日 (土)

「第五倫伝」 第2章 前漢末と王莽 その2 

2章、前漢末と王莽 その2
 
この部分は削除します
 
 『人 相食む』
 『人 相食む』ということに関しては、歴史書に様々に書かれている。
 「当時人民は飢え、人が人を食い、黄金一升(当時220グラム)を豆一升にかえるありさまであった。コメは一万銭となり、親は子どもをとりかえて食い、墓を暴き人骨を砕いて、その髄を食べるほどであった。人肉は、米に比べてたいへん安く取引された」というありさまであった。
 中国では古くから人肉を食べる習慣があった。そのために、人肉の食べ方について様々な言葉があるのはおどろきである。
 醢(かい)とは、ししびしおのことで,しおからのようにしたものである。歴史書にはよく敵将をかいにするというはなしがよくでてくるのである。
 脯(ほじし)とは干し肉のこと。炙(しゃ)とはあぶること、焼き肉である。膾(なます)とは細かく刻んだ肉、羹(あつもの)とは五味をつけて煮込むことを言う。春秋戦国時代、燕の将軍、楽洋の息子がこの羹にされて、父親が送られてきた羹を飲む話がある。葅(ショ)とは塩辛にすること。孔子の弟子、子路が葅(しょ)にされたという。
塩戸,乾戸とは、塩漬けにされたり、日に乾かされた人肉。特にすさまじいのは生きている間に肉を切って生食する臠食(れんしょく)などというものもあるのだ。
 このすさまじさは、いささか閉口する話ではないか。
 この正史において、『人、相食む』というのはその地域において、組織的、社会的かつ大量に人が殺し合い、人肉を食べたということを意味する。犯罪としての小規模なものは『人 相食む』と正史には書かれないということをしってほしい。
 人肉を食べたのは中国だけでなく各国で行われたし、昔だけのことではなかった。日本においても、しばしば飢饉のときや戦争の籠城で人が食われた。また、平時でもこれぞ最後という時の病気の特効薬として、ひそかに食われたのである。刑死者の肝臓や胆のうなどは、陰干して固められて、江戸時代に死刑執行する首切り役である山田浅右衛門のひそかな収入源となっていたという。その「浅右衛門丸」は一体が五両で、シジミ貝に小分けしたものが一つ一両だったという。その首切りは明治十四年まで続いていた。
 中国文化大革命においては、反革命分子にされた人々がたくさん食われたという。中国を舞台とした有名な小説『大地の子』にも、そういう場面がある。小説や映画をご覧になった方は記憶に残っていると思う。
ここまで削除
以下は2章に
 政治の誤りと、戦乱がいかに人々を塗炭の苦しみに追いやるか、それは古代から現代まで、連綿として続いているということがいえる。
「新」の崩壊からわずか数年の「更始」の時代を経て、西暦25年、光武帝が即位し「漢」(後漢朝)をおこした。そして前にも述べたように翌26年には、『漢中飢え、人相食む』という正史の記録がのこったのである。しかしそれを最後として、以後82年間、正史に『人が人を食う』という記録はなかった。これは今まで17年間に1回の割合で起きてきた、中国における食人の歴史上、例がないほど長い期間なのである。
 この小説は、後漢の初め、『人、相食む』という最も悲惨な出来事が起きないようにし、政治において、人々の暮らしを良くするために奮闘した皇帝とその臣下の人たちの物語である。
 彼らの活躍により、『建武、永平の治』とよばれ、後世の模範となる善政が行われた。そして、中国の歴史上かってないほど長く、『人、相食む』という惨状は回避されたのである。
 光武帝、明帝、さらには3代皇帝である章帝、一時期幼少期に乱れはあったが、四代の皇帝和帝へと続く約100年間は、水害や、ひでりやイナゴの害はあっても、戦乱はなく、心配りのある対策がなされた。そのために天下は泰平で農民の反乱、他国との戦争もなく、人々は豊かな暮らしを楽しんだ。その徳が、後漢朝がその後、いろいろな問題を抱えながら、その後さらに100年も続いた元であると言えよう。
 ちなみに、中国は、各王朝に対しての評価を「正史」として続けていったことは前に書いた。たとえば、司馬遷の『史記』、班固の『漢書』、いろいろつくられた『後漢書』、『三国志』などである。『三国志』は「魏志」、「呉志」、「蜀志』にわかれている。もちろんこれは正史であって、後代に面白おかしく書かれた小説である『三国志演技』とは異なるものである。今ではこの『三国志演技』をもとにした小説が面白おかしく実にたくさん書かれ、フィクションであるから、蜀が最後に勝ったなどという小説まで書かれているのである。
 正史は司馬遷の『史記』において書かれた方式、つまり皇帝の年代記を書いた『本紀』と、その時代に活躍した人物を列記する『列伝』、、そして巻末にさまざまな『志』があるという形をとっている。後漢書の場合には、「律暦」、「礼儀」、「祭儀」、「天文」、「五行」、「郡国」、「百官」、「輿服」(よふく)の各志があった。これを「紀伝体」といい、後世の正史は必ずそのような形式をとった。
 諸国の状況を書いた『地理志』には、『漢書地理志』や、卑弥呼について書かれた『魏志倭人伝」などに、日本の当時のあり様も書かれている、ということになる。
 歴史を記述する史官」はあくまで史実に忠実であろうとし、支配者に殺されても、それを受け継ぐものがさらに同じことを書くという態度を貫いた。しかし、現実の王朝に対して好意的に書くという傾向はぬぐえなかった。
  ⒉
「第五倫伝 後漢初期の人間学』目次
 

2016年7月22日 (金)

「第五倫伝」 後漢初期の人間学 第1部 第2章前漢末と王莽その1

『第五倫伝』 後漢初期の人間学
                              王 伯人
 
第1部 後漢朝成立と第五倫の下積み時代
第2章 前漢末と王莽・第五倫の肖像
王莽と「新」朝と漢の滅亡
民衆の反乱
清少納言、紫式部と紫宸殿にて知識を競う
『賢聖の障子」と第五倫の肖像
王莽の「新」朝と漢の滅亡
 およそ中国において『歴史―正史」が書かれ始めてより清朝末期まで、2千百年のあいだ、中国の正史に、『人相食む』と書かれた食人記録は百二十四回あった。ちなみに正史とは、各王朝において正当な歴史と認められた、司馬遷の「史記」ついで班固の「漢書」から清朝末までの「清書」までの二十四史が正史とされている。その正史には、いつどこの地方において食人があったかを克明に記録している。それは平均するとなんと17年に1回の割合にもなったのであった。
 前漢(中国では西漢という)の時代に、人口が最大になったのは、前漢末期のころ、西暦二年(平帝の元始2年)のことで、人口は五千九百五十九万人であった。
しかし約200年続いた前漢王朝も政治の乱れは次第に大きくなり、幼い皇帝が次々と変わるありさまであった。また土地の国家所有の原則がくずれ、大豪族が次々に庶民の土地を奪っていった。前漢王朝最後の皇帝は9歳で王莽のうしろだてで擁立された平帝であった。
 しかし、このとき政治が乱れていたとはいえ、人口が前漢の歴史の中でもっとも多かったということは、一般の庶民にとってはそこそこ安定した暮らしがあったということであった。
 民衆は腐敗した漢の王室に失望し、変革を実行できる力のある指導者をした。紀元前33年に元帝が世を去ると、王政君の生んだ成帝が位をついだ。元帝の皇后である王政君が皇太后となり政治の実権を握ったのである。5年後成帝が王氏のおじの5人を1日のうちに候にするという有様であった。このようにして王一族が実権を握っていったのである。その中で、王政君のおいにあたる王莽は父親が早くなくなったため地位は一族の中で最低であった。しかし、王莽は勉学にはげみ、母親やあによめなどを大切にし、父を亡くした甥をそだてるなど、高潔な人物として次第に名声を高めていったのである。また、王莽は県政のあるおじたちにとりいるようになっていった。その後、叔母である王皇太后にかわいがられ、そのうしろだてで王莽は大司馬となり、政治の実権を握り、外戚として急速に力を伸ばしたのである。王莽が実権を握ってから1年余りで成帝がなくなり、哀帝が位についた。哀帝が皇帝のあいだは他の外戚の力が強く、王莽は一時封地に戻っていた。しかし紀元前1年には哀帝が死去し、王莽は大司馬にかえりざいた。そしてまだ8歳の平帝を位につけた。その後王莽は自分の娘を平帝の皇后とした。西暦5年にはわずか14歳の平帝が死去した。毒殺されたといわれている。王莽は2歳の幼児を皇帝として自分は周公にならって摂(仮)皇帝となった。そしてついに西暦8年王莽は自ら皇帝となり、新を建国し年号を「初始」とした。この時王莽は53歳であった。漢王朝はついに二百七年にして滅亡したのである。王莽は儒教に基づく清廉な政治をこころざした。しかし、志は高くとも現実がともなわず世の中は混乱が増して新王朝はわずか15年しか続かなかった。
 王莽は身長が七尺七寸(約177 cm)で当時としてはかなり大きいほうであり、山犬や狼のような声で人々を威圧したという。後世では漢を滅ぼした人物としてきわめて悪く書かれている。
 王莽は早くに親をなくして孤独であり、大変苦労を重ねた。そして自分の生活はとても質素であった。貧しきものに思いやりを持つという点もあった。はじめ、王莽の即位をうながす奇跡をつくりだして、人々の支持をうけた。
 このころ、前にも書いたが豪族の大土地所有がすすみ、小農民層の庶民は没落し、豪族の荘園の奴婢になっていった。これは小農民の租税によって支えられべき王朝にとって、その存立を危うくするものであったのである。この問題の解決が王莽にもとめられたのである。
 王莽は全国の地を「王田」とし、奴婢の売買を禁止した。しかしこれには貴族や官僚、大地主が反発し、3年後には、この制度を廃止せざるをえなかったのである。
そして政策が古代の周の時代を理想とする復古主義、理想主義で現実とあわず、またきわめて煩雑で、それにより庶民の負担はきわめて高くなっていった。貨幣制度を何回も変えたために物価が上がり人々の生活は苦しくなった。政治は停滞し、生産力も落ちていった。さらには庶民の不満を逸らすためにまわりの民族との紛争をおこしたのである。他の国に対してたとえば高句麗に対して、高句麗などはえらそうな国の名前だから下句麗と名前をかえよとか、紛争を巻き起こすようなことばかりをしてきたのである。戦争により人々は兵士に徴発された。その結果、百姓はさまざまな高い税金や徴発に苦しみ流亡するもの、盗賊となるものガ多くなっていった。
民衆の反乱
 西暦17年、荊州一帯で飢饉が発生した。王匡と王鳳は不満を持った民を組織し反乱軍である「緑林軍」を起こした。これにはあとで南陽の豪族であった劉演、劉秀兄弟も漢朝の復活を目指して参加した。
 山東の琅邪郡(ろうや―現山東省日照県西)は、県吏であった息子の育が役所に不当に逮捕されたのに怒り、その母親は数百万銭を使い、「少年」とよばれる任侠無頼の徒を集め、県令を殺し、敵を討った。そしてその集団はさらに大きくなり、翌18年にはとうとう大規模な乱を起こすまでの勢力となった。彼らは民間信仰である城陽景王祠信仰のもとに結束した。さらにそれは樊崇(はんすう―山東省青島の出身)を首領とした大反乱となってきたのである。彼らは仲間同士を確認するために眉を赤く染めた。赤は漢王朝のしるしで、漢王朝復活を求める意味もあった。後年赤眉軍に皇帝にかつぎ上げられた劉盆子山東省曲阜の出身で、城陽景王の子孫であった。
 それに続いて瞬く間に、つぎつぎに農民を中心とする乱の発生となり、中国全土が戦乱に巻き込まれた。その結果、西暦25年には山東が飢饉となり、翌年には揚子江上流で長安の南側になる益州の漢中が飢え、「人 相食む」と正史『漢書』はしるしている。
 この戦乱により人口はわずか16年間のあいだに、6千万あった人口が、なんと4分の一以下の、千4百万人に激減したのである。なんというすさまじさであったことであろうか。
 中国の正史、『漢書』を書いた班固は『両都の賦』(西の長安と後漢の東の都、洛陽を比較した詩)において、そのありさまを次のように書いた。(陳舜臣『中国の歴史』から)
 「往昔(おうせき)王莽逆をなして、漢祚(かんそ―漢の皇位)中ごろ欠け、天人誅を致し,六合(りくごう―上下四方、すなわち世界)相滅す。時の乱において生民はほとんどいなくなり、鬼神さえ冺絶(びんぜつーほろびたえる)した。谷には完棺(まっとうな死に方をしたなく完全な形の棺)無く、村には遺室(残った民家)がなく、原野は人の肉に圧せられ、白骨が野をおおう。川谷は人の血を流し秦と項羽の災いもこれほどひどくなく、今まで文字が生まれてからこれほどの大破壊はなかった」と。
 ところで、『両都の賦』で、班固は二都を比べて、「洛陽は長安に比べて、質撲(しつぼく)であるとほめている。
 「皇城を比べてみると、前漢の都、長安の都に比べて、後漢の宮室は光明にて、宮廷は神霊である」と。後漢につくられた洛陽の都の面積は9,5平方キロというものであった。
 当時世界最大の都市であり、人口が50数万人もあり、36平方キロもあった雑然とした大都市であった長安に比べると洛陽は4分の1ほどの小さい都であったというこよである。しかし小さいながらも整然と整備された美しい都であったようである。
 長安城はその3分の2が宮城であり、その広大な宮殿の広さが想像される。その宮殿の建物は、秦代から続いた高台式建築の豪壮なものであった。それに比べ、後漢王朝の洛陽は、建物も高台式ではなく、低くじみであった。初代皇帝である、光武帝の、宮廷にお金をかけず質素にしようという考え方のもとにつくられた都だったのである。
 (1)
「『第五倫伝』 後漢初期の人間学」 目次 
この部分は変更いたします
 

近況、1、リハビリ進む、1年半後に自宅に戻れるように2、その他

たくさんの文章を書いてから保存にしたら、too largeという表示が出てすべて消えてしまいました。書き直しです。がっかりなので簡単にします。
近況、1、リハビリ進む、上の階まで手すりで上がる
 家内が6月ごろ、私ともに風邪を引き、リハビリも簡単になり体力が衰えました。
 それで、2週間以上前から、室内は電動車いすではなく、手足の自力で移動することにしました。電動車いすは重いのですが足の運動にはなります。
 筋肉が回復してきたので、前2回ほどチャレンジしてみた、マンションの階段を、上の階まで手すりをつかって上がってみました。そんなに疲れないで、上がることができました。帰りは車いすをエレベーターで上の階まで持ってきてもらいました。
2、入浴を次第に自力でできるように
 ・
 入浴はヘルパーの斉藤さんに介助してもらい週に2回入浴していました。浴室用シャワーキャリーで浴室内まで入れてもらいましたが、今では、脱衣室にポールを置き、そのポールをつかんで浴室内に入ります。また浴槽の上に板を敷きその上に1たん座っていましたが、その板もいらなくなりました。今自力で浴室から出られるように訓練しています。
 そうなれば、旅行などでも今まで面倒で入浴しませんでした。今後泊まっても自力で風呂にはいれるようになります。
3、1年半後に自宅に戻れるように
 1年半後に今住んでいるマンションの契約の更新です。今まで病気をする前に住んでいたビルの5階にすんでいて、3階も人間学研究所の部屋などに使っていました。階段をスムースに上がれれば、元のビルに戻ることができます。住むのは3階になると思うので、バリアフリー化して、ふろ場を作り直すなど、かなりリフォームをしなければなりませんが、研究所の例会にも参加でき8000冊の本も利用できるようになります。
 2016年7月24日(日)追記
今日、元すんでいたビルに行ってみました。1階から2階へ行く階段には手すりがついています。1階の右側の空間のところにも現在はおもちゃの販売機が置いてあります。本来書いている契約をしていないので、戻ってきたらあけてもらうようでしょう。
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4、電車に1人で乗れるように
 今までは、月2回のお出かけのとき、ヘルパーの斉藤さんに同伴してもらいましたが、1人で電車に乗れるように訓練してみました。斉藤さんには同伴してもらいましたが、山手線の高田馬場駅から、恵比寿駅まで、電車とホームのあいだの段差と隙間のあいだにスロープを付けてもらいました。駅員間で連絡を取り、着く駅には駅員さんが待っていてくれます。さらに恵比寿ガーデンプレースまでの通路まで、案内してくれました。
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ホームと電車の段差、5センチぐらいあります。また電車とホームの隙間もかなりあるところがあります。独りではとても危なくて乗り降りできません。
5、小説『人 相食む』を公開します。いい発表の方法を教えてください
 ずっと前から書いていた小説『人 相食む』もずいぶん手間をかけているのですが、このままでは、ほとんど読んでもらえないままです。分量が多く、CDには十分入りますが、ブログのファイルでは容量が大きすぎて入りません。ブログなどではなかなか難しそうです。もうすでに完成したものを少しづつブログに書いていますが、右手が効かず左手だけで文章を入力するのは、大変な労力です。他に何かいい方法はあればどなたか、おしえていただければありがたいと思います。
 

2016年7月20日 (水)

小説『人 相食む』のブログに連載について、題名変更 そして2016年皆さんに読んでもらうように

はじめに

 このブログは2010年4月25日に始め書かれたものです。小説は一応2015年に一応完成しました。それでCDにも打ち込み、人間学研究所の1部の方に読んでもらいました。しかしそのままという状況でした。このブログも2016年7月20日に一部手直しして更新しました。

 この小説は後に書いてある通りいろいろな経緯があってだんだん分量が増えてきてしまったものです。はじめは何らかの形で出版できないかと思いましたが、結局うまくいきませんでした。今後ここのブログに各章ごとに書いていき、皆さんに無料で読んでもらうことにしました。文章も打ち直し、一部変更していくかもしれません。よろしくお願いします。カテゴリーも「小説『人 相食む』というものを新たに作りました。

小説『人 相食む』 後漢初期の人間学 とは 

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王充と論衡について調べる

 1999年4月に、人間学研究所が設立されました。そのころは、1999年7月にノストラダムスの恐怖の大王が降ってくるとかの話があり、オウム真理教や、いろいろなカルト宗教ができて騒然としていた時代でした。私はそのような世相に反発し、今から1000年も前に、当時のさまざまな非科学的な言説に真っ向から反対し、大著『論衡』を書いた後漢の唯物論哲学者の王充に共感し、その王充の生涯と、考え方を示すために小説を書こうと決意しました。

 そのころは現在と違い、『後漢書』は和訳されておらず、訳の無いところは中国語版の後漢書を自分で訳していきました。また王充が誕生し、その墓もある上虞(紹興市)の地も訪れるために、1999年から中国語の教室に通い始めました。上虞の訪問記録はこういちのブログにも書きました。また、2001年には同じカルチャーセンターで「懸賞小説に応募する」というコースもとりました。後漢時代の資料もいろいろ揃えました。特に、東京教育大学の先輩で、福島大学の(現在は名誉)教授である、大久保隆郎氏の王充に関する諸論文はとても参考になり、国立国会図書館に何回も通いました。大久保氏にはそのご、直接お話をするようになりました。ちなみに大久保氏は、以前の資料をもとに、『王充思想の諸相』を今年2010年1月29日に発行されました。ちなみに779pで、12000円、汲古書院発行の大著です。

歴史文学賞に応募

 2001年6月締め切りの新人物往来社の歴史文学賞に『第五倫ー後漢のくそまじめ人間』(原稿用紙100枚)に応募しましたが、まったくだめでした。

 また、浦和文芸家協会賞にも『謝夷吾ー後漢の万能人』で応募しましたがそれも落選しました。しかしその文章は人間学研究所の理事である北原眞一氏のご厚意で、同人誌『孤帆』の24号に6ページと文章を縮めてのせてもらいました。第五倫も謝夷吾も王充と同時代のすぐれた政治家でした。

『人相食む』として執筆を継続

 その後、第五倫や王充について書くだけではなく、後漢初期全体についての全体を見通す小説にすることにしました。題は『人 相食む』という題です。ペンネームも「王伯人」としました。尊敬する第五倫の字が王伯魚だったからです。

 さて清朝末までの中国の正史ではどこどこで、何年に人が人を食べた(人相食む)という記録を克明に書き続けてきました。それはなんと10数年に一度という割合で行われてきました。その歴史の中で、西暦26年から108年までの82年間のながきにわたって「人相食む」という恐るべき事態が起こらず、人口も王莽の戦乱で激減した人口が、急速に回復し、世に、「建武、永平の治」と呼ばれた優れた時代について書こうということにしたのです。さらにその小説に私のやっている実用的人間学で得た知識もどんどん入れていきました。

文芸社と新風舎の懸賞論文応募

 2006年には、パソコンの、リッチテキスト方式で、250枚ほどになって、一通りのまとまりがついたので、文芸社と新風社の懸賞小説募集に応募しました。その結果、いささかのほめ言葉と200から300万出せば出版するとのことでした。とてもそれだけのお金を出して、出版する気はなくて断りました。その後新風社は大幅に金額を下げるからどうかと言ってきましたが、断りました。その後まもなく2008年には新風社は倒産しました。もし頼んでいたら大変なことになってしまいました。

その後小説は広がる

 その後少しづつページ数を増やし、初期後漢史と言えるほどのページ数になってきました。2009年6月には、リッチテキスト方式で本文321ページ、参考資料ともで364ページ、登場人物170人で、前漢末から後漢中ごろまでの、分量だけは大小説になってしまいました。

 さて前漢には「項羽と劉邦」とかいろいろ本があるのに、後漢については私の知る限りでは、『光武帝』『班彪』だけです。後漢書にはいろいろと現在ことわざに使われている言葉も大変多くかかれていますし、後漢初期のすばらしい善政を多くの人に知ってもらいたい、そして荒廃した中国を立て直した光武帝からその後の3代の皇帝そして、第五倫や謝夷吾や王充などの活躍をぜひ知ってもらいたいと思っています。それは不景気が続く日本でもとても参考になるものです。この内容もわたしのブログで一部書きました。

 昨年6月から、「こういちの人間学」ブログをかくことを中心にし。事務所の移転もあり、なかなかふたたび小説に取り組めませんでしたが、改めて、『人、相食む』の執筆を再開します。まだまだ文章が固く、後漢書からのひき写しにすぎないところも多いので、よく整理し、それをより面白くしていくつもりです。小説として、正史としての後漢書に書かれていない、庶民や、女性を魅力的に創造して、面白い内容に変えていこうと思います。まとまったら、電子出版でもできればいいなとおもっています。

★ 読売新聞に連載されていた、宮城谷昌光氏の『草原の風』上・中が2011年10月発行されました。主人公は光武帝です。

2014年6月5日に「こういちの人間学ブログに「光武帝の小説『草原の風』と『人相食む』私の小説 、後漢時代初期の面白さ」を書きました。 

◎ 2010年9月に新たに書き加えたのが最終になっています。よく練れているところと、『後漢書」の引き写しにすぎないところがありまだ不十分です。『草原の風』に刺激されまた書き続けたいと思います。

◎ 2011年11月17日 2010年9月時点 「人 相食む」 A4用紙 

リッチテキストで370枚   総字数  40万字です。

◎ 2016年7月20日

 岩城先生とその息子さん、マンガ家の岩明均さんのことをブログに書きました。

そして書いているうちに、せっかくブログ筆者の書いた小説がそのままになるのは残念なので、このブログに少しづつのせて、興味のある人には、無料で読んでもらおうと思いました。書いた文章をそのままうまくブログに転載する方法がわからないので、各章ごとにもう一度ブログに書き直すことにしました。そして文章を再度見直そうと思います。

◎ 2016年7月25日、小説の題を一番最初に書いた

「第五倫伝」 後漢初期の人間学  

 に戻すことにしました。

参考

「こういちの人間学ブログ」に書いてきたこと

2009.8「後漢の万能人謝夷吾、風角占候を行う

2009,9「王充の墓をたづねて、紹興、上虞をたづねて」

2011,7「後漢、光武帝の善政」1,2,3

2013,9「王充の論衡について」1,2、

2014,6「光武帝の小説『草原の風』と『人相食む』私の小説

2014,6『後漢書」、「人相食む」に出てくるの故事について」1,2

2014,6『第五倫 小説『人相食む』の主人公

2016年7月 9日 (土)

白人中心主義の歴史観批判。岸田秀氏の史的唯幻論とバナールの『ブラックアテナ』

はじめに
 前に書いたブログで、岸田 秀氏の書かれた本『史的唯幻論で読む世界史』を読み終えたのと、7月5日に、エジプト文明について何か参考になるかと思い、池袋の「古代オリエント博物館」にも行ってきましたので、自分なりの見解を書いてみることにしました。
 前に書いた「近況、1史的唯幻論で読む世界史」にこの文章を書くきっかけを岩城正夫先生から、いただきました。岩城氏と岸田秀氏は年齢も同じくらい同じ和光大学の教授をされていて親しくされたおられたということです。
Kc4a10100001
 原本は2004年から連載された『大航海』(2004年~2006)に大幅に加筆修正し2007年に新書館から『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』として出版され、2016年1月に講談社学術文庫に名前を変え収録されたものです。
 その『史的唯幻論で読む世界史』(定価980円税別)には、帯封に「嘘だらけのヨーロッパ製世界史を撃つ!」、「古代ギリシャは黒人の文明であり栄光のアーリア人は存在しなかったー」とあります。また裏表紙には、「ヨーロッパが語る白人中心主義の歴史観が彼らの誇りを支え、今なお世界を覆っている欺瞞と危うさを鮮やかに剔抉、その思想がいかにして成立・発展したかを大胆に描き出す。史的唯幻論が、白人によって作りあげられ「幻想の世界史」であるかを鋭く告発する。という言葉が本書の狙いをよく表しています。
 岩城先生からいただいたお葉書には先日お送りした筆者が人間学研究所でお話した内容の、『どこまで人間と見るか』のレジメに対してのお礼の言葉とぜひ論評してほしい本があります、ということで『史的唯幻論で読む世界史』を紹介していただきました。岩城先生のお葉書には「この本は、初めあまりに大胆すぎると思い疑問に思ったのですが、今は考え直して真剣に取り上げるべきだと思うようになりました。しかし全面的には肯定しきれない部分があり結論を出しかねています。それで筆者に目をとおして感想をお聞かせく ださいとのことでした。
 筆者の『どこまで人間と見るか』において、ヨーロッパ人が、南米のインディオやオーストラリアのアボリジニをはじめ「人間」と見ないで、平気で殺してきたこと、その後も様々な人種差別を現在までも繰り返してきたことを書きましたので、丁度岸田氏の説との共通性を見られたのだと思いました。
◎「どこまで人間と見るか」その2 2016年5月19日人間学研究所合同例会資料から
 インディアンやインディオに対して
 1492年、コロンブスのアメリカ大陸と「インディアン」の「発見」
 1521年 スペイン人、コルテスアステカ王国を滅ぼす
 1533年 スペイン人、ピサロ、インカ帝国を滅ぼす
 1537年 ローマ法王がアメリカインディアン(インディオも)アダムとイヴの子孫だと認めた
       -それまでは、人間ではないから、殺してもいいことになる
  1700年 アメリカ北東部のインディアンは混血していないことにした
 1783年 イギリス、インディアンの土地を勝手に合衆国に割譲
 1890年 アメリカインディアン、ウンデッドニ―で虐殺
       その後も差別と抑圧は続く
 アボリジニ対して
 1788年 イギリス人、オーストラリア原住民を「発見」その当時の人口50万人
 1828年 イギリス兵士に、アボリジニをスポーツの対象として、自由に捕獲、殺害する権
      利を与える 人口は90%減少
 1876年 タスマニア原住民絶滅 (有袋類は保護するのに)
 1931年 混血のアボリジニを親から離す政策
 2008年 労働党政府が謝罪しかし保守党は認めず
 インドのカースト制度、ダリット(カースト外)1億人
 日本、朝鮮における、非人、白丁
 アフリカのピグミーに対しての食人行為-人間と見ない
 白人による執拗な人種差別や優生学
 
 『史的唯幻論で読む世界史』を読み、またインターネットで資料を読みある程度、自分の 考えがまとまったので書いてみようと思いました。岸田秀氏の説はいろいろな面で納得できるところが多いのですが、部分的に、これは間違いではないか、というところがあります。具体的にこれから書いていきたいと思います。
なお、本の要約を書きましたが、◎の部分はブログ筆者の感想です。
1、差別が人種を生んだ
  差別が先で人種が後である。
ご存知のように人類は家畜である。人類は自己家畜化の結果、家畜になったのである。人類が、人類自身の何らかの理由によって、人為的に特殊化された結果、成立したのが人種である。
 人類自身が人類発生以来一切の人種的偏見を持っていなければ、あらゆる人種が自由に混交し同じようになっていたであろう。
 「一神教vs多神教」(2002年、2013年朝日文庫)という本を三浦(雅士)さんとともに出版した。そこでの歴史仮説。高野信夫氏の「人種の起源―黒人―白人―黄色人」(三一書房)に基づく。最初に発生した人類はアフリカの黒人種であった。そして白子、アルビノ説、が提唱されました。そしてこの説以外に黒人から白人が発生した理由を説明できない、としています。白人は奴隷であった、モーゼの出エジプトでエジプトから追い払われる。
 4重の被差別がアメリカを攻撃的にした。
 アメリカ人は1、エジプトで差別されパレスチナへ、2、ユダヤ人はローマ人に差別され、3、キリスト教徒はユダヤ人から差別され、4、キリスト教徒から差別されたピューリタンによって作られた国である。4重の被差別のどん詰まりの国アメリカ。そうでないと先住民に対する残虐さは説明がつかないと。岸田氏の歴史仮説はアフリカの黒人に追っ払われた白人のヨーロッパ人とエジプトの黒人に追っ払われた白人のユダヤ人という2つの前提に立っており、この2つの前提を出発点としている。p13
 マーチン・バナールの「黒いアテナ」1987と「黒いアテナ―批判にこたえる」2001 
 岸田氏はエジプトが黒人の文明ではないかと思っていたが、バナールのギリシャ文明も黒人の文明である、という説に驚いた。バナールの説に基づく2冊の本とその批判の書について。岸田氏の仮説は差別が先で、人種が後である。人類に人種が発生したのは、人類が人種にこだわっていたからで、人種が存在するのはこだわっているからである。
 白人種は人為的にしか成立しえない。白人種は不自然な人種差別の結果人為的に製造された。白色人種の黒人に寒冷地に追っ払われた恨みと、それに対する復讐、失地回復の要求を動機としているのではないか。
 ◎この説に関していえば異論があります。自己家畜化論は人間学研究所の名誉所長小原秀雄氏が主張し、総合人間学会でも一世を風靡した考え方です。ただ筆者は自己家畜化論に関していえば、一定の評価すべきものはありますが、人間の本質を明らかにすべきものとまではいかないような気がします。これについては改めて書くことにします。
 筆者が人間学研究所の例会でお話した、『ネアンデルタール人について』で、どうして、現生人類が白い肌と青い目の色を獲得したかをお話しました。ペーボはネアンデルタール人の全ゲノムを解析しました。そして現生人類はアフリカを出て中東からヨーロッパに進出した時にネアンデルタール人と交雑し、日光が弱い地域に適応するように遺伝子を2%ほど獲得し白い肌や青い目などになったということを明らかにしました。その証拠が遺伝子が現生人類のヨーロッパやアジアの人類には取り込まれ、アフリカの人々にないことが明らかになりました。人種は地域特性によって生じたもので、差別が人種を生んだという仮説まではは成り立たないように感じます。
2016年7月13日 追記
 岩城先生からお手紙をいただきました。岸田秀氏の本の岩城先生の疑問点も、同じようなことだったようです。いただいたお手紙の内容をご紹介します。
「私(岩城先生)が何より1番疑問に思ったのは白人が「白子」の子孫だという点でした。岸田さんの本を見たとき、何も白人たちを「白子」の子孫にしなくても、寒い地方に行けばだんだん色が白くなるのではないか、例えばサルの肌の色(南方のサルたちの皮膚は結構黒いのが多いのにニホンザルなどは肌の色はピンク色というか)は生息する緯度によって違うのではないか、白ウサギの肌もピンク色だし、シロクマの肌の色も白っぽいようだし、哺乳動物の肌の色も生息する地域によって、つまり寒い地域では色が薄いのではないかなどと思い、動物学専門のブログ筆者に聞いてみるのが1番かと思った次第です。ブログには白人の遺伝子のことまで論じておられて白人の起源について解明されていることがよく理解できました。ありがとうございます。
 お手紙に同封された、故鶴見俊輔さんが書かれたことのについて、新聞記事のコピーをいただきました。岩城先生とその息子さんである有名な漫画家、岩明均氏のことが日本がアメリカの植民地化した思想、学問状況の中で、親子二代にわたってユニークな取り組みをされているという内容です。これは違うブログでご紹介します。
「こういちの人間学ブログ」2015,8,14
「ネアンデルタール人について、図像の変化、赤い髪、白い肌、イメージ大きく変わる」
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国立科学博物館のネアンデルルタール人の復元図、最初の想像図と大きく変化しています
 興味深いのはネアンデルタール人の遺伝子が、現生人類に取り込まれて、白い肌や青い目、毛深い性質などがアフリカ人以外に取り込まれている、ということが明らかになるにつれ、ネアンデルタール人の想像図が大きく変わって、現生人、特に北ヨーロッパ人に近い形に変わってきているのは面白いことです。同じ頭蓋骨からの復元でもこんなにかわるものかとおかしくなります。
 マーチン・バナールは『歴史における科学』を書いた,ジョン・デズモンド・バナールの息子さんです。『歴史における科学は』4巻(原著1954~、邦訳1966~)筆者が学生のころ、感激しながら読んだ懐かしい思い出があります。著名な物理学者ですが、平和運動に取り組み『歴史における科学』のような歴史書を書きました。平和運動に取り組み欧米の独善的な態度に対しての批判的態度などは、親子して、歴史の専門家ではないのに、とか非科学的だとかいろいろあげつらって批判攻撃する学者や批評家が多い。日本ではトンデモ本扱いする人たちもいる。
 
2、古代エジプト人は黒人だったのか
 史的唯幻論の前提となっている2つの仮説、一つは出エジプトの白人奴隷の話と、もう一つはマーチン・バナール氏の仮説である。
古代ギリシャ文明についての3つのモデルがある
1、古代モデル、紀元前1500年ごろエジプト人、フェニキア人がギリシャに侵入し植民した。
2、アーリアモデル ギリシャの文明は北方から来たアーリア人が独自に開いた。
3、修正古代モデル、バナールの説、エジプト、フェニキアが植民したのはBC2000から1500年ごろだが、その前にBC4000年3000頃に北方から白人系の人種が侵入してきたことは認める。その後も続々とギリシャに入ってきたことを認める。昔のギリシャ、ローマ、ヨーロッパ人はエジプト文明から多大な影響を受けたことを認めた。しかしヨーロッパ人の人種差別的優越感が強くなり古代モデルは否定された。
古代エジプト人は黒人だったのか
 7000年来、エジプト人はバナールによればアフリカ人、南西アジア人、地中海人などで構成されてきており、ナイル川上流の南に行くほどより黒い二グロイドの人たちがいた。古王朝、中王朝はアフリカ的要素が強い、ヘロドトスは「黒い肌と縮れ髪」と記述している。しかし黒人といってもいろいろな変異がある。いずれにしても、ヨーロッパ文明の始まりは非白人の文明であったという。
◎池袋の古代オリエント博物館の古代エジプトの男性の画像は、赤銅色の肌と縮れてへばりついた髪をした像であった。
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「古代オリエント博物館発行の「なるほど!古代エジプト」より
 エジプト新王国時代前1500-1400年ころ、褐色の肌、細かい巻き毛の髪など黒人の特徴が出ています。古、中王朝にはより肌が黒い、黒人のファラオがいたらしい。
◎黒人といっても大きな変異があり、赤道西アフリカ周辺は真っ黒な肌と頑強な体で短距離走に向いていて、東アフリカでは、ケニアやエチオピアの人々のようにほっそりとして褐色の肌、長距離走に向いたからだの人が多い。エジプトでもナイル川上流には、ヌビア人が多く住み、一時期古代エジプトのファラオを多く出したりもしている。
3,、「黒いアテナ再考」を読む
 バナールはかってギリシャは古代エジプトの植民地であったし、ギリシャ文明はエジプト文明およびフェニキア文明の亜流であったとするバナールの説はヨーロッパの学会、思想界に大きな反響と反発を巻き起こした。それに対しての批判。
 『黒いアテナ再考』、レフコヴィッツ、ロジャース編 1996年
バナール説に対する批判や反論を20ほど集めたもの。
ジョン・ベインズの批判-バナールはヨーロッパ中心主義に陥っている?
キャサリン、バードの批判-バナールは人種差別的誤解を深める?
フランク・スノーデンの批判―バナールのアフリカ中心主義は行き過ぎか
ベルミュールの批判―バナールの主張は根拠薄弱か
などである。各章に詳しく批判とばなーるの反批判が載せられる。
◎ヌビア人について
エジプト南のアスワンからスーダンにかけて多く住む人々、もともとはエジプトとヌビア人は同じ祖先からはじまった。
 エジプト25王朝BC747-656、3人のブラックファラオ、ヌビア人の王朝があった。
 現在でも100万人ほどが住んでいる
4、唯幻史観と「黒いアテナ」
 戦中、戦後の日本をどう見るかに関して、皇国史観、東京裁判史観、(ソ連式)左翼史観などがある。3つの歴史観はともに手前みそ史観、あるいは自己中心主義の歴史観と言えよう。それに対して、経済、政治、、軍事、社会こそ幻想の産物ではないか。人間はどうしてそのようなことをする必要があるのかいくら考えてもわからないことばかりしてきているではないか、と考え、それを岸田氏は唯幻史観あるいは史的唯幻論と称した。
 ユダヤ民族はローマに対して2度の大きな反乱を起こすが、多大な犠牲者を出して失敗
(一神教は中近東地方に生じた一種の風土病のようなもの)
差別された白人、セム族がユダヤ人となった。ユダヤ教からキリスト教が生じた。
 イエスは神の国における救いを説く、愛を説いて内面を重視。ローマ皇帝に税金を払ってもいいしローマの神々に頭を下げてもいい。イエスについていれば、ユダヤ人はローマ人の要求に外面的には従いながら、内面は敬虔な信者であることができるようになった。
 ユダヤ教は天国とか死後の世界認めぬ。救いは現実の世界のものでなければならぬ。
ローマ帝国で普及したキリスト教は、イエスというよりパウロが作り、キリスト教をローマ帝国に広める。その後キリスト教はローマ帝国の国教となった。キリスト教が普及したのはローマ帝国が権力をもってキリスト教をヨーロッパ人に押し付けたからである。キリスト教への反発のスケープゴートとしてのユダヤ教徒はローマ帝国とキリスト教徒の二重の差別を受ける。キリスト教徒は先祖伝来の信仰を裏切ってローマに迎合し、うまく立ち回り、いつの間にかローマを乗っ取った卑劣極まりない連中であるという見方もできなくはないであろう。
◎しかし第2次世界大戦以後、ユダヤ教信者およびイスラエルは、英米を中心とする国際的な資本の動きの中で、きわめて強い力をもち、一方においてはロスチャイルドなどがアメリカ経済の実権を握り、政治まで動かしている。現在ではイスラエルがアラブ諸国民を抑圧している。欧米の大資本により苦しめられている庶民、その大資本をつかんであるユダヤ系資本、そしてイスラエルにより追い出されたパレスチナ住民、これらが、ユダヤ民族に対しての憎しみのもとになっている。
5、ギリシャを作ったのはエジプトか
 バナールは、古代ギリシャ語の語彙の4分の一がセム語に由来し、5分の一から4分の一がエジプト語に語源があると考えて間違いなく、ギリシャの神々の名だけでなく、多くの地名もエジプトやカナンから来ていると主張しているが、コールマンが反駁する。
 再び「黒いアテナ再考のバナール批判」にもどる。
 バルターは「黒いアテナ」はヨーロッパ人の文化的傲慢さをたしなめることにある。
バナールを一部持ち上げるが、バナールを批判する。それに対しての『黒いアテナは反駁する』(2001年)でバナールが反論する。
ジョンコールマンの批判-バナールは独断と偏見で近代ヨーロッパの古典学を丸ごと論難したがっている。
バナールは歴史観の証拠立ての弱さがあるとーバルターの批判
これまでのヨーロッパ人のヨーロッパ文明起源神話ではギリシャ―ローマ―ヨーロッパ―アメリカの系列は語られているがギリシャの前のエジプトとフェニキアが忘れられている、というのがバナールの言いたいことであり、ローマの前のエジプトとイスラエルがないがしろにされておりローマとヨーロッパのあいだのアラブが無視されているというのがわたし(岸田氏)の言いたいところである。
◎ローマ文明が滅び、その成果はアラブ諸国がうけついだ。ヨーロッパ諸国は中世の暗黒時代を迎える。ルネッサンスではアラブに保管されていた文明が注目され、ヨーロッパに取り入れられた。
アラブの方が科学的に優れていた例としてリチャード王の十字軍の剣は、ごつくて重く叩き壊すようなものであったが、アラブ側サラディンの剣は上に置かれた薄いスカーフが切れるように切れ味が鋭かった。いろいろな医学的な知識もアラブで温存された。アラブ側の方がけがの治療が進んでいた。
代数や三角法の活用など優れた数学。アラビア数字の活用、アルカリ、アルコールなどの言葉はアラビア語に由来する。化学の発展、光の原理(反射で見えるなど)これらがルネッアンスのときに見直されるようになった。
6、ヨーロッパ文明は人類最高の文明!?
 ジェンキンスの批判「黒いアテナ再考」中の「バナール と19世紀」における批判
現代の豊かなヨーロッパは非ヨーロッパ民族の搾取のうえに成り立っている。にもかかわらずジェンキンズのようなことをヌケヌケと言うヨーロッパ人がなぜ存在するのであろうか。
 バナールがジェンキンスと違うところは、ヨーロッパ人の文化的傲慢をたしなめるとかの自分の目的に明確に表明し、そのためにバイアスがかかっている可能性を素直に容認したうえで「19世紀の思想的潮流のほとんどは人種差別主義や様々な種類の悪意に支配されていた」ことをも指摘し、自分と相手との論争のは、具体的、客観的資料によるとし、それが不十分な時は説得力に頼らざるを得ないとしているところである。
古代モデル追放の理由
 ヨーロッパ文明の源泉はエジプトではなくギリシャであるとした外部的影響。
1、キリスト教的反動、2、進歩思想、3、人種差別主義、4、ローマン主義的ヘレニズム
 それぞれについてのジェンキンスのバナール批判
 手を変え品を替え、いろいろなことにかこつけて、飽きもせず懲りもせず、ヨーロッパ人が他の人種より優れていると、同じことを執拗に繰り返し、言い続けるから、ヨーロッパ人にはそういわざるを得ないよほど強くて深い動機があるに違いなく、その動機についてはすでに論じたことである。
◎岸田秀氏によれば、ヨーロッパ人がずっと差別を受けてきたこと、の反動として,自分たちの優秀さをことさらに強調していたということ。
7、屈辱の連鎖としての歴史
史的唯幻論の仮説p141
 史的唯物論のように経済的要因とかで歴史が決定されるとするのではなく、民族や国家を最強の動機は屈辱の回復である。差別された屈辱に反発して、屈辱を克服するためにべつの誰かを差別し、今度はその新たに差別された屈辱に反発し、さらに別のものを差別するという、差別と屈辱、それへの反発の連鎖が歴史を形成するという仮説である。
最初の被差別民族としてのヨーロッパ民族
歴史的にヨーロッパ民族は、非ヨーロッパ民族にさんざん差別され攻撃され虐殺され続け、また逆に非ヨーロッパ民族を差別し、攻撃し、差別し続けた民族である。
 ヨーロッパ民族ほどの攻撃性を持っておらず、無警戒、不用心だった非ヨーロッパ諸民族はいとも簡単に征服され植民地化され、搾取された。
ヨーロッパ民族のアジア到達と日本の反応
 日露戦争は白人の侵略を押し返したアジア人の最初の偉業だった。
しかし戦争に負け、残念ながら、日本は名目的には独立しているが事実上アメリカの占領下にある。
 アジア解放史観とアジア侵略史観。中国はかっての大日本帝国の役割を演じ始めているのではないかという疑わせるに十分である。
アメリカと中国
 アメリカの対アジア政策は日本と中国を仲たがいさせておくことを主眼としている。
大日本帝国の成立と靖国神社
 遠い昔に発する欧米諸国のアジア侵略の衝撃が近代にいたってついに日本に及び、その衝撃にに対する反応として大日本帝国が成立し、靖国神社は大日本帝国を支えた様々な機構の1つであった。
 アジアへの欧米の進出が進歩する人類の歴史の必然的1段階であり、欧米、特にアメリカのアジア支配が全面的に正しいならば、それに反発して、大日本帝国をきづいて反撃した日本は全面的に誤ったことになる。
 しかし、私から見れば一般的に言って欧米諸国のアジア侵略はアジアにとってはなはだ迷惑なことであった。
 日本は正義の観念に取りつかれてその狭隘な観念にそぐわないとして本来ならば、味方につけるべき他のアジア人を敵に回し日本人だけでアジアを開放できると誇大妄想におちいったのである。
自らを正義の味方とうぬぼれてアメリカの策にはまり、味方として不可欠な中国を敵に回したからであった。
◎経済的要因で歴史の根本が変革されていくという、史的唯物論は有効である。しかしながら、以前の硬直したスターリンや毛沢東などの歴史観はいろいろな過ちがあり、実際の政治で多くの人が弾圧され苦しんだ。
 3年かん3回沖縄に行ってみましたが、事実上アメリカの占領状態にあることがよくわかります。また東京周辺でもたくさんの米軍基地があります。日本の自衛隊も事実上アメリカ軍の指揮下にあることがよくわかります。
8、ヨーロッパ製世界史の欺瞞
Mリベラニ「産湯と赤ちゃん」、CMロジャース「多文化主義とヨーロッパ文明の基礎」の批判
バナールはアフリカ、アジア中心主義に偏りすぎている、との批判
人種差別主義の陰謀
アーリア・モデルの成立
岸田 秀氏の考え
 バナール理論が、アーリアモデルを決定的に打ち崩したので、バナールの批判者たちは、もはやアーリアモデルを弁護することはできないと諦めたものの、バナール理論の欠陥や弱点をいろいろ持ち出して反撃しているわけである。
 バナールは修正古代理論において、アーリア人の役割を認めているが、アーリア人というのは1つの神話であり、日本の天孫降臨と同じく、1種のファミリーロマンではないかと、、要するにアーリア人というのは架空の存在ではないかと考えているからである。(アーリア人というのは、インド=ヨーロッパ語族)
 ルネッサンスというのは再生であるが、ルネッサンスというのは詐称である。ギリシャ=ローマ文化の再生という意味だが、ヨーロッパ人の祖先はヨーロッパの森で未開野蛮な生活を送っていた。。近代ヨーロッパ人は他民族、それもアラブ人を仲介して輸入したのであった。(近代ヨーロッパ人といっても特にゲルマン人やノルマン人などの北ヨーロッパの人々-ブログ筆者)
 問題はヨーロッパは欺瞞と隠ぺいに訴えてまで、文化的傲慢を維持することを必要としたのかということである。
9.唯幻史観と科学的歴史
バナールの反論『黒いアテナは反駁する』(2001年発行、大冊の書)による、ベインズらに対する反論
バナールは問題はキリスト教文化以外を認めないヨーロッパ中心主義、人種差別主義にあるという。
エジプト人は黒人か
新大陸においてキリスト教徒でないものは人間ではないと差別したように、近代ヨーロッパ人は非ヨーロッパ人を理性を欠いているとみなして差別したのであった。p180
黒人は文明を創造したことはないなどと常々言われてきた。
アメリカやヨーロッパでは32人の曽祖父母に1人でも黒人がいれば黒人とするとされた来た。19世紀や20世紀のイギリスもしくはアメリカに古代エジプト人が現れれば「白人」とみなされることはほとんどないであろう。
10、日本兵と唯幻史観
 ヴェルミュールの批判(「世界がひっくり返った」)に対してのバナールの反論
 史的唯幻論も公正無私な普遍的な立場に立つ思想でなく、わたしの個人的経験を動機としている。
 死んだ日本兵のイメージが~大挙してわたしのなかに押し寄せてきてそこに住みついてしまったので、私は、、彼らがなぜ死んだのかの理由をなんとか説明し理解しないでは、この世の中でどうにも落ち着けないのであった。考える過程で自ずから形成されたのが史的唯幻論である。私は史的唯幻論を普遍的理論だと思っていないがヨーロッパ中心論者はそう思っているらしいという点である。
 ヨーロッパ中心主義はヨーロッパ人には都合がいいが、ヨーロッパ人以外にはこれまで甚大な被害をもたらしたし今も及ぼしているし、人類全体にとっても地球にとっても好ましくないので、見捨てておくわけにはいかないであろう。
 未開の人々の生活を、実際に共に暮らしてみると、不合理なタブーにとらわれ、食うや食わずのみじめな生活をしていると、思われていたのが、間違いだとわかった。のんびり、ゆったり豊かな生活をしことがわかった。
(白人支配者が入り込んで、搾取が始まり、みじめな暮らしが始まる)
 ヨーロッパ製大航海は難民、出稼ぎ人の海外荒らしであった。
11、人種差別主義と反ユダヤ主義
 M,ロジャースに対するバナールの反論
 よくあるパターン。バナールの説を全く認めないわからずやではないが、全面降伏するような骨なしでもない。
 バナールによれば、「黒いアテナ再考」の執筆者と同じく、またもやロジャースはバナール理論を攻撃するために彼の主張を誇張し単純化して攻撃しやすい形にゆがめているとのことである。
 言語の問題に関してもギリシャ語は基本的にはインド・ヨーロッパ語であって、ただ2つのアフリカ=アジア語、すなわち古代エジプト語と西セム語から大々的に語彙を借りているいると言っているだけだ、とバナールはいう。
 大英博物館の重要な展示品のほとんどは他民族、他国から詐取または強奪してきた盗品である。
 ロジャースはバナールがバナール理論を作ったのはユダヤ人だからであるという。
 バナールが古代エジプト人がアフリカ人であることを強調するのは、エジプト人をアジア人またはヨーロッパ人と誤解している向きがあるからである。エジプト人と東アフリカ人や北アフリカ人との間に生理学的なつながりがあるということである。
 古代エジプトがエーゲ海など周辺の諸民族に「宗主権」をもっていた。かれらは貢物をささげに来た。
12、白人とアーリア人
 岸田氏が白人にこだわっているのは白人に対する劣等感があることを示している。
 岸田氏の個人的な事情も絡んでいるかもしれない。子ども時代捕虜収容所で見た卑屈でだらしない捕虜たちを見て白人は劣等人種と思った。それが敗戦で真っ逆さまにひっくり返った。
何人かでアメリカの陸軍将校の家で英会話を教えてもらった。彼はオンリーさんと暮らしていた。日本女性が慰安婦としてアメリカ兵に仕えているのを身近に見たことは、何か屈辱感のようなものをわたしに感じさせ、それがトラウマになっているのではないか。
 白人にこだわるのは、偏見と劣等感との葛藤を何とかしたいというのも1つの理由かもしれない。
 白人とは何か 白人と非白人の境界は、時代、場所、人によってかなり変動するらしい。そもそも、人種差別に基づいて白人と非白人と区別され始めたのは近世ヨーロッパ人が他国、他民族を植民地化し始めてからのことであって、植民地主義を正当化するために白人という概念が形成されたのではないかと思われる。同じ対等な人間である虐待したり搾取したりするのは気が引けるが、劣等人種なら別に構わないという意味で、人種差別主義は植民地主義を支え、補完するため、良心を麻痺させるために必要だったのだろう。
 日本人が自分たちを黄色人種と思っているが、実際に肌が黄色いわけではない。
 白人の概念が変動してきた。インドでは貧乏な白人は生物学的には白人でも、白人ではない。白人とは人種差別主義の産物なのである。
アーリア人種
 最も過激な人種差別主義はやはりナチスドイツのアーリア人種至上主義であろう
 アーリア神話は日本に伝えられいまだに事実と信じられている
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◎図版は「詳説世界史図録」2014年3月、教科書副読本 山川出版社
アーリア人BC1500年ころパンジャーブ地方侵入、BC1000年ころガンジス流域に侵入とある
 日本の教科書 2003年山川出版社のもの「詳説世界史」
インド・ヨーロッパ語族、アーリア人は存在したか
 アーリア人の発祥の地がバラバラで二転三転するのも不信を募らせる。インド人は100年も前から「アーリアン学説虚構説」、を唱えているそうだ。
 アーリア人は存在したのか」津田元一郎「アーリアンとは何か」西欧の植民地支配とかかわっている
 イギリスの常套的な方法。植民地を分割して統治する。北部の人たちを同じ白人のアーリア民族とし、南部の黒い肌のドラヴィダ系住民と対立させるため。
 ドイツとアーリア神話-アーリア神話はキリスト教の支配を打倒しようとするゲルマン民族がよりどころのした神話ではなかったかと考えられる。
 ドイツは純粋なアーリア人なので金髪・碧眼であるが、インドに侵入したアーリア人はドラヴィダ人と混血して少し黒い肌、黒い髪となったというように表現する。
 アメリカでは白人の範囲はもっと込み入っていて、初めは、イギリス系だけが明確に白人とされていた。アイルランドはイギリスの植民地、アメリカに来たのは食い詰めた下層階級。イギリス系に差別され黒人と大して変わらぬみじめな状況に置かれたが、黒人とは違うことを強調し、黒人差別を強め白人にのしあがあった。はじめ、ポーランド、イタリヤ、スペイン人は白人かどうかあいまいであったが黒人アジア人と差別する必要から白人に組み入れられた。イギリス系だけが白人であった名残りはWASP幻想としていまだに残っている。南米からのヒスパニックは本人は白人と思っているがアメリカではなかなか認められない。
ヨーロッパの歴史とアーリア神話、ヒトラーとアーリア神話
 アーリア神話はゲルマン民族の誇りを守るためにはうってつけの神話であった。ゲルマン民族中心主義。清らかなアーリア文明とけがれて不潔なヘブライ文明がある。第1次大戦に負けたドイツ、アーリア文明の危機。ヒトラーの登場。アーリア民族、ゲルマン民族至上主義。ユダヤ民族を絶滅させる。ホロコースト。ロマ人なども。
アーリア神話と出エジプト
 インド・ヨーロッパ語の発見 アーリア人の表記、アーリア神話の利用
 アーリアンが西北インドからインドに侵入し、原住民を駆逐し、古代の輝かしいインド文化を創造したというアーリアン学説は、インドに対して、格別な文化工作的な意味を持っていた。インド人の祖先アーリアんもイギリスと同様に、インドに植民地的侵入をしたのであり、イギリスも同じことをしただけである。イギリス人と上層インド人はもともと同一種族であるということにより、上級階層をイギリス側に引き寄せる~
 イギリスの植民地支配は単に軍事力だけでなく、思想戦略が情報操作をするのがいかに巧妙であったかがわかるであろう。
 両言語が同系であるとしても、サンスクリット語をしゃべっていた連中とギリシャ語をしゃべっていた連中とは同じ人種だということになるのであろうか。
 ネアンデルタール人が存在したことを示す考古学的な証拠はたくさんあるが、アーリア人が存在したことを示す考古学的証拠はどこにもない。
 いずれにせよ、アーリア神話は話がうまくできすぎている。私の説も推測に過ぎないが、アーリア神話も私の説もともに、文献的証拠はもちろん、考古学的な証拠もないという点では同じなのである。アーリア神話と私の説ではどちらが説得力があるであろうか。
あとがき
 戦争に負けて、日本兵の崩れた死体の写真などを見て、憂鬱になり寝込んだりした。
いろいろ資料を読み、なぜこの戦争が起こったのかを考え、日本史、アメリカ史、世界史へと移っていった。
 東京裁判史観-アメリカ帝国主義―ヨーロッパ中心主義。ヨーロッパ文明とは何かに行きつく。
 ヨーロッパ文明が最高の文明で、アメリカの世界支配が当然。そのような世界史とは何か。欧米人から教わったコマーシャルである。欧米製世界史には嘘が多いのではないか。
 本書はコマーシャルはコマーシャルに過ぎないという単純な事実を炒っているに過ぎない。ただ日本の高校世界史教科書の編集者に、欧米文明を宣伝する欧米人のコマーシャルを頼まれもしないのに無料で広報してあげることはないのではないかということは言っておきたい。
◎このあとがきに岸田 秀氏の言いたいことは凝縮されている。この本は、人類の起源に関しての誤った記述などはあるにしても、基本的に正しいことを言っていると思います。特に日本がアメリカのある種の属国で、日本政府もその意のままに操られているということ、そして日本国民も考え方の基本もアメリカの意のままに操られているのを見るにつけ、そう思います。この岸田氏の本をトンデモ本扱いして入り人もいますが、虚心坦懐に今の日本の、そして世界の現状を見直してみる必要があると思います。
 能力不足と、時間不足で十分に読めなかったものですが、現時点で一応ブログを書いてみました。まだまだとても不十分です。これから、徐々にに、よりしっかりと追加して書いてみたいと思います。
 最後に、大変興味深い本を、ご紹介していただいた、岩城正夫先生に心より御礼申し上げます。
資料
2016,5,8「こういちの人間学ブログ」
 人間学研5月例会「どこまで人間と見るか、その2」
2015,10,15「こういちの人間学ブログ」
 「ネアンデルタール人と私たち人類」
2015,9,16「こういちの人間学ブログ」
 ネアンデルタール人と私たち人類・リンク集」
2015,8,14「こういちの人間学ブログ」
 ネアンデルタール人について図像の変化,赤い髪、白い肌イメージ大きく変わる
 

2016年7月 1日 (金)

2016,6月末「こういちの人間学ブログ」のアクセス解析の現状

 「こういちの人間学ブログ」は2009年7月よりスタートしました。2013年12月より2014年2月は入院中でブログは書けませんでした。退院後2年4か月が経過しています。 
2016年6月末で、2016年も半年が経過しました。またスタートからちょうど7年が経過します。この時点での「こういちの人間学ブログ」の現状をご報告します。
概略数
記事数累計   750
コメント数累計 714件
アクセス累計  127,7万
検索によるアクセスの比率、約75%
記事の内容と数
1、基礎人間学       記事件数
1、人間学とは何か      39
2、人間とは何か       40
3、自然と歴史について    29
4、人間と教育         8
5、精神医学、他       12
6、人間と社会         22
7、マル・エンゲルス人間論    6
8、宗教と死          14
9、芸術、その他       14
2、応用人間学
1、生き方について      20
2、経営人間学        21
3、健康法          49
4、政治と社会の現状    66
5、原発・エネルギー問題  37
6、中国古代について    23
7、韓国の歴史とドラマ   13
8、顔の人間学       31
9、占いと神秘主義批判   28
10、大久保の街       68
3、近況、その他連絡事項
1、人間学の例会        62
2、こういちの人間学について 22
3、近況・その他       97
2016年6月アクセス数ランキング
1位、秋山佳胤氏の『不食という生き方』
2位、多い射精により長生き、唾液健康法と関連
3位、若杉友子氏の長生きしたけりゃ肉は食べるな
4位、長寿はごちそう食べること、117歳大川さん
5位、人相術の科学的検証(2)耳
6位、中国の三大悪女と傾国の美女
7位、その健康法では早死にする
8位、1000匹のネコと寝る女
9位、肉を食べずに新型栄養失調で老化
10位、人相の科学的検証(5)額
11位、尿路結石になったとき
12位、館山の沖ノ島の釣り
参照元種別 6月
検索エンジン 11、814件
 Google    (40,6%)
 Yahoo     (35,8%)
参照元なし   2,754件 
          (18,5%)
その他      334件
検索キーワードランキング
1位  not provided      6220
    (SSL適用により検索キーワード取得できず)
2位  不食という生き方  756
3位  若杉友子       194
4位  南雲義則嘘      
10日ほどで表示件数の1,000件に達するので、トータル数いくらか不明
 
訪問組織ランキング(訪問人数)
2013年11月より、2016年6月までの、2年7か月でのアクセスの状況
・ (   )は10月末                          初回導入のきっかけ
1、日本電気(NEC) 108(112)   つり場館山
2、日立製作所    101(110)  2013年ミニ氷河期
3、NHK         65 (71)   (not provided)
4、朝日新聞社    52  (52)       (not provided)
5、東京放送      47(53)   (以下空欄のところはすべて同じ)
6、日本通運      41(45)   館山釣り場所
7、東京大学      39(45)
8、日本テレビ     37(45)
9、パナソニック    34(35)
9.NTT         34(37)
11富士通        33(35)
12、厚生労働省    32
13、リコー       31 早死に運動のやりすぎ
14都市再生機構   29
14、日本ヒューレットP29(33)
16、パナソニック電工27(28)
16、博報堂      27(34)   反原 松尾貴史
18早稲田大学    25(25)、
18三井物産         25
18、伊藤忠テクノ      25
21、千葉県教育委員会   23  怖い番組
21 都市再生機構    23
23、千葉大学       21     40万年前人類
23、沖電気         21
25 ソフトバンクテレコム20(22)
26、東北大学       19
26, 広島大学       19
26、ニコン       19(23)
29、大阪大学       18
29、横浜市大       18
29、筑波大      18(19)
29、関西学院大      18
京都大学       15(21)
中央大学       14(16) ダークサイドミステリー
鳥取大学       13(14)
東京理科大学    13(14)
日本大学          12
東京医科歯科大学    12
これ以下の大学は50ほどあります
6月の訪問組織ランキング
 
2016年6月は訪問組織は90件、124人になります。訪問人数より訪問件数は多くなります。                       
1、日立製作所 Visit  6  pv 6  累計101
2、リコー         4    11    31
3、朝日新聞社      4     4     52
4、日本電気       2     4    108
 2件以上の組織はその他16、
  早稲田大学、竹中工務店、三豊市、富士通、東京放送、京都大学、東京外国語大学
  伊藤忠テクノ、博報堂、幻冬舎、大阪成蹊短大、関西学院大など   
 

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