「第五倫伝」 後漢初期の人間学 第1部 第2章前漢末と王莽その1
『第五倫伝』 後漢初期の人間学
王 伯人
第1部 後漢朝成立と第五倫の下積み時代
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第2章 前漢末と王莽・第五倫の肖像
王莽と「新」朝と漢の滅亡
民衆の反乱
清少納言、紫式部と紫宸殿にて知識を競う
『賢聖の障子」と第五倫の肖像
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王莽の「新」朝と漢の滅亡
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およそ中国において『歴史―正史」が書かれ始めてより清朝末期まで、2千百年のあいだ、中国の正史に、『人相食む』と書かれた食人記録は百二十四回あった。ちなみに正史とは、各王朝において正当な歴史と認められた、司馬遷の「史記」ついで班固の「漢書」から清朝末までの「清書」までの二十四史が正史とされている。その正史には、いつどこの地方において食人があったかを克明に記録している。それは平均するとなんと17年に1回の割合にもなったのであった。
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前漢(中国では西漢という)の時代に、人口が最大になったのは、前漢末期のころ、西暦二年(平帝の元始2年)のことで、人口は五千九百五十九万人であった。
しかし約200年続いた前漢王朝も政治の乱れは次第に大きくなり、幼い皇帝が次々と変わるありさまであった。また土地の国家所有の原則がくずれ、大豪族が次々に庶民の土地を奪っていった。前漢王朝最後の皇帝は9歳で王莽のうしろだてで擁立された平帝であった。
しかし、このとき政治が乱れていたとはいえ、人口が前漢の歴史の中でもっとも多かったということは、一般の庶民にとってはそこそこ安定した暮らしがあったということであった。
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民衆は腐敗した漢の王室に失望し、変革を実行できる力のある指導者をした。紀元前33年に元帝が世を去ると、王政君の生んだ成帝が位をついだ。元帝の皇后である王政君が皇太后となり政治の実権を握ったのである。5年後成帝が王氏のおじの5人を1日のうちに候にするという有様であった。このようにして王一族が実権を握っていったのである。その中で、王政君のおいにあたる王莽は父親が早くなくなったため地位は一族の中で最低であった。しかし、王莽は勉学にはげみ、母親やあによめなどを大切にし、父を亡くした甥をそだてるなど、高潔な人物として次第に名声を高めていったのである。また、王莽は県政のあるおじたちにとりいるようになっていった。その後、叔母である王皇太后にかわいがられ、そのうしろだてで王莽は大司馬となり、政治の実権を握り、外戚として急速に力を伸ばしたのである。王莽が実権を握ってから1年余りで成帝がなくなり、哀帝が位についた。哀帝が皇帝のあいだは他の外戚の力が強く、王莽は一時封地に戻っていた。しかし紀元前1年には哀帝が死去し、王莽は大司馬にかえりざいた。そしてまだ8歳の平帝を位につけた。その後王莽は自分の娘を平帝の皇后とした。西暦5年にはわずか14歳の平帝が死去した。毒殺されたといわれている。王莽は2歳の幼児を皇帝として自分は周公にならって摂(仮)皇帝となった。そしてついに西暦8年王莽は自ら皇帝となり、新を建国し年号を「初始」とした。この時王莽は53歳であった。漢王朝はついに二百七年にして滅亡したのである。王莽は儒教に基づく清廉な政治をこころざした。しかし、志は高くとも現実がともなわず世の中は混乱が増して新王朝はわずか15年しか続かなかった。
王莽は身長が七尺七寸(約177 cm)で当時としてはかなり大きいほうであり、山犬や狼のような声で人々を威圧したという。後世では漢を滅ぼした人物としてきわめて悪く書かれている。
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王莽は早くに親をなくして孤独であり、大変苦労を重ねた。そして自分の生活はとても質素であった。貧しきものに思いやりを持つという点もあった。はじめ、王莽の即位をうながす奇跡をつくりだして、人々の支持をうけた。
このころ、前にも書いたが豪族の大土地所有がすすみ、小農民層の庶民は没落し、豪族の荘園の奴婢になっていった。これは小農民の租税によって支えられべき王朝にとって、その存立を危うくするものであったのである。この問題の解決が王莽にもとめられたのである。
王莽は全国の地を「王田」とし、奴婢の売買を禁止した。しかしこれには貴族や官僚、大地主が反発し、3年後には、この制度を廃止せざるをえなかったのである。
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そして政策が古代の周の時代を理想とする復古主義、理想主義で現実とあわず、またきわめて煩雑で、それにより庶民の負担はきわめて高くなっていった。貨幣制度を何回も変えたために物価が上がり人々の生活は苦しくなった。政治は停滞し、生産力も落ちていった。さらには庶民の不満を逸らすためにまわりの民族との紛争をおこしたのである。他の国に対してたとえば高句麗に対して、高句麗などはえらそうな国の名前だから下句麗と名前をかえよとか、紛争を巻き起こすようなことばかりをしてきたのである。戦争により人々は兵士に徴発された。その結果、百姓はさまざまな高い税金や徴発に苦しみ流亡するもの、盗賊となるものガ多くなっていった。
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民衆の反乱
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西暦17年、荊州一帯で飢饉が発生した。王匡と王鳳は不満を持った民を組織し反乱軍である「緑林軍」を起こした。これにはあとで南陽の豪族であった劉演、劉秀兄弟も漢朝の復活を目指して参加した。
山東の琅邪郡(ろうや―現山東省日照県西)は、県吏であった息子の育が役所に不当に逮捕されたのに怒り、その母親は数百万銭を使い、「少年」とよばれる任侠無頼の徒を集め、県令を殺し、敵を討った。そしてその集団はさらに大きくなり、翌18年にはとうとう大規模な乱を起こすまでの勢力となった。彼らは民間信仰である城陽景王祠信仰のもとに結束した。さらにそれは樊崇(はんすう―山東省青島の出身)を首領とした大反乱となってきたのである。彼らは仲間同士を確認するために眉を赤く染めた。赤は漢王朝のしるしで、漢王朝復活を求める意味もあった。後年赤眉軍に皇帝にかつぎ上げられた劉盆子山東省曲阜の出身で、城陽景王の子孫であった。
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それに続いて瞬く間に、つぎつぎに農民を中心とする乱の発生となり、中国全土が戦乱に巻き込まれた。その結果、西暦25年には山東が飢饉となり、翌年には揚子江上流で長安の南側になる益州の漢中が飢え、「人 相食む」と正史『漢書』はしるしている。
この戦乱により人口はわずか16年間のあいだに、6千万あった人口が、なんと4分の一以下の、千4百万人に激減したのである。なんというすさまじさであったことであろうか。
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中国の正史、『漢書』を書いた班固は『両都の賦』(西の長安と後漢の東の都、洛陽を比較した詩)において、そのありさまを次のように書いた。(陳舜臣『中国の歴史』から)
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「往昔(おうせき)王莽逆をなして、漢祚(かんそ―漢の皇位)中ごろ欠け、天人誅を致し,六合(りくごう―上下四方、すなわち世界)相滅す。時の乱において生民はほとんどいなくなり、鬼神さえ冺絶(びんぜつーほろびたえる)した。谷には完棺(まっとうな死に方をしたなく完全な形の棺)無く、村には遺室(残った民家)がなく、原野は人の肉に圧せられ、白骨が野をおおう。川谷は人の血を流し秦と項羽の災いもこれほどひどくなく、今まで文字が生まれてからこれほどの大破壊はなかった」と。
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ところで、『両都の賦』で、班固は二都を比べて、「洛陽は長安に比べて、質撲(しつぼく)であるとほめている。
「皇城を比べてみると、前漢の都、長安の都に比べて、後漢の宮室は光明にて、宮廷は神霊である」と。後漢につくられた洛陽の都の面積は9,5平方キロというものであった。
当時世界最大の都市であり、人口が50数万人もあり、36平方キロもあった雑然とした大都市であった長安に比べると洛陽は4分の1ほどの小さい都であったというこよである。しかし小さいながらも整然と整備された美しい都であったようである。
長安城はその3分の2が宮城であり、その広大な宮殿の広さが想像される。その宮殿の建物は、秦代から続いた高台式建築の豪壮なものであった。それに比べ、後漢王朝の洛陽は、建物も高台式ではなく、低くじみであった。初代皇帝である、光武帝の、宮廷にお金をかけず質素にしようという考え方のもとにつくられた都だったのである。
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(1)
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