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2016年7月23日 (土)

「第五倫伝」 第2章 前漢末と王莽 その2 

2章、前漢末と王莽 その2
 
この部分は削除します
 
 『人 相食む』
 『人 相食む』ということに関しては、歴史書に様々に書かれている。
 「当時人民は飢え、人が人を食い、黄金一升(当時220グラム)を豆一升にかえるありさまであった。コメは一万銭となり、親は子どもをとりかえて食い、墓を暴き人骨を砕いて、その髄を食べるほどであった。人肉は、米に比べてたいへん安く取引された」というありさまであった。
 中国では古くから人肉を食べる習慣があった。そのために、人肉の食べ方について様々な言葉があるのはおどろきである。
 醢(かい)とは、ししびしおのことで,しおからのようにしたものである。歴史書にはよく敵将をかいにするというはなしがよくでてくるのである。
 脯(ほじし)とは干し肉のこと。炙(しゃ)とはあぶること、焼き肉である。膾(なます)とは細かく刻んだ肉、羹(あつもの)とは五味をつけて煮込むことを言う。春秋戦国時代、燕の将軍、楽洋の息子がこの羹にされて、父親が送られてきた羹を飲む話がある。葅(ショ)とは塩辛にすること。孔子の弟子、子路が葅(しょ)にされたという。
塩戸,乾戸とは、塩漬けにされたり、日に乾かされた人肉。特にすさまじいのは生きている間に肉を切って生食する臠食(れんしょく)などというものもあるのだ。
 このすさまじさは、いささか閉口する話ではないか。
 この正史において、『人、相食む』というのはその地域において、組織的、社会的かつ大量に人が殺し合い、人肉を食べたということを意味する。犯罪としての小規模なものは『人 相食む』と正史には書かれないということをしってほしい。
 人肉を食べたのは中国だけでなく各国で行われたし、昔だけのことではなかった。日本においても、しばしば飢饉のときや戦争の籠城で人が食われた。また、平時でもこれぞ最後という時の病気の特効薬として、ひそかに食われたのである。刑死者の肝臓や胆のうなどは、陰干して固められて、江戸時代に死刑執行する首切り役である山田浅右衛門のひそかな収入源となっていたという。その「浅右衛門丸」は一体が五両で、シジミ貝に小分けしたものが一つ一両だったという。その首切りは明治十四年まで続いていた。
 中国文化大革命においては、反革命分子にされた人々がたくさん食われたという。中国を舞台とした有名な小説『大地の子』にも、そういう場面がある。小説や映画をご覧になった方は記憶に残っていると思う。
ここまで削除
以下は2章に
 政治の誤りと、戦乱がいかに人々を塗炭の苦しみに追いやるか、それは古代から現代まで、連綿として続いているということがいえる。
「新」の崩壊からわずか数年の「更始」の時代を経て、西暦25年、光武帝が即位し「漢」(後漢朝)をおこした。そして前にも述べたように翌26年には、『漢中飢え、人相食む』という正史の記録がのこったのである。しかしそれを最後として、以後82年間、正史に『人が人を食う』という記録はなかった。これは今まで17年間に1回の割合で起きてきた、中国における食人の歴史上、例がないほど長い期間なのである。
 この小説は、後漢の初め、『人、相食む』という最も悲惨な出来事が起きないようにし、政治において、人々の暮らしを良くするために奮闘した皇帝とその臣下の人たちの物語である。
 彼らの活躍により、『建武、永平の治』とよばれ、後世の模範となる善政が行われた。そして、中国の歴史上かってないほど長く、『人、相食む』という惨状は回避されたのである。
 光武帝、明帝、さらには3代皇帝である章帝、一時期幼少期に乱れはあったが、四代の皇帝和帝へと続く約100年間は、水害や、ひでりやイナゴの害はあっても、戦乱はなく、心配りのある対策がなされた。そのために天下は泰平で農民の反乱、他国との戦争もなく、人々は豊かな暮らしを楽しんだ。その徳が、後漢朝がその後、いろいろな問題を抱えながら、その後さらに100年も続いた元であると言えよう。
 ちなみに、中国は、各王朝に対しての評価を「正史」として続けていったことは前に書いた。たとえば、司馬遷の『史記』、班固の『漢書』、いろいろつくられた『後漢書』、『三国志』などである。『三国志』は「魏志」、「呉志」、「蜀志』にわかれている。もちろんこれは正史であって、後代に面白おかしく書かれた小説である『三国志演技』とは異なるものである。今ではこの『三国志演技』をもとにした小説が面白おかしく実にたくさん書かれ、フィクションであるから、蜀が最後に勝ったなどという小説まで書かれているのである。
 正史は司馬遷の『史記』において書かれた方式、つまり皇帝の年代記を書いた『本紀』と、その時代に活躍した人物を列記する『列伝』、、そして巻末にさまざまな『志』があるという形をとっている。後漢書の場合には、「律暦」、「礼儀」、「祭儀」、「天文」、「五行」、「郡国」、「百官」、「輿服」(よふく)の各志があった。これを「紀伝体」といい、後世の正史は必ずそのような形式をとった。
 諸国の状況を書いた『地理志』には、『漢書地理志』や、卑弥呼について書かれた『魏志倭人伝」などに、日本の当時のあり様も書かれている、ということになる。
 歴史を記述する史官」はあくまで史実に忠実であろうとし、支配者に殺されても、それを受け継ぐものがさらに同じことを書くという態度を貫いた。しかし、現実の王朝に対して好意的に書くという傾向はぬぐえなかった。
  ⒉
「第五倫伝 後漢初期の人間学』目次
 

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