「第五倫伝」 第1章 第五氏とその時代 (5)
「第五倫伝」 第1章 (5)
第五氏とその時代
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さて第五倫、いったいいかなる人物であろうか。姓が第五で、字は伯魚という。京兆長陵(きょう西省、咸陽県東。長安付近で、長陵とは漢の高祖劉邦の陵名)のひとである。
春秋時代、陳国の国王である厲公(らいこう)の公子である 完(かん―字は 敬仲)は紀元前672年政変によって、斉国に亡命した。当時の斉の恒公は完を貴族に列し卿とし、田という苗字をさずけた。その子孫は、斉において、しだいに勢力を強めていった。紀元前386年11世の子孫である田和は斉公となった。その後さらに力を強め、孫はついに威王となり、太公望(姜姓)の子孫である斉国(山東省)の支配者にとって代わって国王となった。田斉の始まりである。戦国時代、斉の国は強大となり、有名な田文(孟嘗君)の活躍もあった。
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秦の時代の紀元前221年に、王建を最後の国王として斉の国は滅ぼされた。しかし、その15,6年後、田安(別姓孫安)は項羽により済北王に任じられた。しかし漢の時代になり再び国をを失ったが、斉の人たちは、敬意を表して王氏とよんだ。田安の孫は王遂でその子が王賀である。
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王賀、字は翁孺(おうじゅ)といい、前漢の武帝のころには繡衣御衣(しゅうい)となった。その後争い事があり、紀元前百年ごろ、魏郡元城にうつった。魏郡において三老として人々の尊敬を集め、大族となった。三老とは儒教を中心とする中国独特の制度である。それぞれの地域において有力者で、道徳的に模範となるような人物を三老とした。三郎は庶民の代表として、そこの長官はしばしば、政治上の意見を求めるという重要な役割をもっていた。
王賀は王莽と、後に出てくる哲学者王充の共通の先祖である。王賀の曽孫が王莽である。田氏から分かれた王氏の話はそれまでとして、漢の時代になり、特に武帝のときには各地方の有力な豪族を都の周辺に集め、斉に住んでいた田氏の一族は次々に長陵などに移されてきたのである。前にも書いたように長陵とは、初代皇帝劉邦の陵墓で、黄河にそそぐ渭水(いすい)の支流のほとりにあった。
漢の政府は長安の都の周辺に、地方の豪族の力をよわめるため、各地の豪族や有力者を強制的に移住させ、渭水の川沿いにそれぞれ歴代の皇帝の陵を作らせその周りに邑(ゆう)をつくらせた。いわば衛星都市をたくさん作らせたのである。それはまた長安の都の繁栄をもたらせた。前漢でもっとも大きい陵邑は茂陵邑で、人口は28万人にも及んだ。それらの陵邑の一つが長陵邑である。長陵邑は前漢の時代には戸数5万、人口17万人であったという。
ところが、王莽の乱や赤眉の害により、なんと10分の1以下での4千戸までに減少したのである。長安郊外の長陵邑に踏みとどまった第五倫が赤眉の賊などと戦ったのはその人口激減の時代である。
その京兆長陵に移されてきた田氏の中では五番目に都に来たので第五氏といわれ、おそらく、第一氏、第二氏・・とあったのであろうが、第八氏というのがわずかに名が残る。しかし第五氏だけが歴史上におおきくのこった。中国の数ある姓の中でも、きわめて珍しい姓であろう。
このころ、田氏の流れをくむ人たちや郷里の人々は、盗賊の側につくものも多かった。戦乱期には多くの人が殺されたり、逃げ去ったりする中で、第五倫は長陵の長陵の自分の耕作地の近くの地勢のけわしい場所を選び営保(砦)を作り、銅馬や赤眉らの盗賊がおそってきたがそれらから身を守ったのである
第五倫、その生まれは西暦4,5年ころではないかといわれているが、はっきりした年は記録されていない。さてこの時代とはいかなる時代であったのか。今からちょうど2千年ほど前のことであった。時は年号、元始、前漢最末期である。元始元年はちょうど西暦一、元年になる。この年前漢最後の皇帝平帝が九歳で即位した。政治の実権は皇太后の王政君が握り王氏の一族が次々に高位についた。王莽は皇帝の教育係、太傳となった。翌二年には『漢書地理志』によれば前漢でもっとも人口が多くなった年で5959万人、1223万戸であった。このころは政治の退廃など、矛盾をはらみながらも、まがりなりにも泰平をおうがしていたのである。
3年には、王莽は令制、学制の改革を始める。このときには末期症状をきたしている政治の改革を王莽が成し遂げてくれるのではないかという人々の期待もあった。その世論の後押しもあり、王莽は自分の娘を平帝の皇后とするとともに反対派の人々数百人を殺すに至った。さらに8年には皇帝に即位し「新」を建国する。そして200年続いた漢はほろんだのである。しかし、現実を無視した儒教精神の復古主義ですべてを行おうとするその政策はわずらわしく、おおいに政務は停滞した。新は重い税と、秦と同じような過酷な刑罰を人々に施した。新建国後2年後の西暦10年には税の重さ、法令の厳しさにより多くの農民や商人が職を失った。また匈奴や姜、高句麗などの国々を蔑視する政策により諸外国の反乱を招き、西暦13年には匈奴の侵入をまねいた。周辺諸国の侵入に備えるため多くのものが兵士に徴用され、働き手を失った人々は苦しんだ。そして新建国からわずか9年後、呂母の乱となり、反乱は全国に広がった。
西暦23年に王莽は死んだ。さらに新に変わって、漢の劉家の一族であり、皇帝となった更始帝は赤眉に殺され、西暦25年、劉秀が即位した。この話の始まりはこのような大戦乱が続いた時代である。年号は建武と変わったが、翌26年には赤眉は長安の宮殿を焼き、自分たちの皇帝を立てた。くじで選ばれた劉盆子である。この前後には、飢饉と戦乱で多くの人々が死亡した。特に漢中が飢え、「人相食む」と光武帝記にある。しかしこれを最後として82年間そのようなことはなかった。
さて、この戦乱のころ、この小説の主人公の第五倫、未だ、若干21歳である。赤眉の乱は西暦27年に降伏するまで続いた。赤眉の賊は西暦27年、建武3年正月、最後には10余万人がほとんど戦わずして光武帝に降伏した。
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