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2016年8月

2016年8月31日 (水)

木から落ちて死んだ?猿人ルーシー、骨格化石分析で死因判明

猿人も木から落ちる?骨格化石分析で死因判明
 2016年8月末の新聞各紙に、米テキサス大学などの国際研究グループが、8月29日付の英科学誌『ネイチャー』電子版に、約320万年前に生息していた、初期人類の1種で「ルーシー」という名前で知られる女性の猿人は、木から落下したことにより死んだとの研究結果を発表しました。日本では8月末の新聞各紙やNHKに掲載,報道されました。
 ルーシーが所属する猿人の種は、地上だけでなく樹上でも生活していたことを示す研究結果として注目されます。また、木の上だけでなく地上での生活を始めたことによって、木登りをする能力が落ち、木から落ちる危険性が増した可能性もあると書いています。
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毎日新聞より、国立科学博物館のルーシーの復元模型
 ルーシーは1974年に東アフリカ・エチオピアで発見されたアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)につけられた愛称です。ルーシーはエチオピア北東部のハダールで、アメリカとフランスなどの国際調査隊により化石が発見されました。やく318万年前に生きていた猿人の女性の化石で、全身骨格の約40%の骨が見つかっており、左右対象の部分を考慮するとほぼ全身の復元ができる非常にまれな人類化石です。後に、他の化石と合わせ、約370万年前に出現し、やく300万年前に絶滅したアファール猿人という種とされました。
 チームは今回、コンピューター断層撮影装置(X線CT)などを使ってルーシーの骨を詳細に分析し、ルーシーは高い所から落下して骨折したと結論付けた。傷の状況や、傷が治った痕がないことなどから、ケガをしたのは死ぬ直前だったと考えられるという。
 推測では、足から地面に落ち、腕や胸、頭などを打った。臓器に受けた損傷などにより死んだとみられる。約12メートルを超える高さから落ちた可能性もあるといいます。
 研究グループは、ルーシーが木の上で食べ物を探していたか、眠っているときに落ちたとみています。
 猿人が完全に地上で生活していたか、部分的には樹上も利用していたかは、人類学上の長年の謎の一つです。
『ルーシーの膝』から
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本の表紙、アファール猿人の骨格写真と復元図です
 この本は、ルーシーについて最も詳しく書かれた本です。フランスの人類学者でルーシーの共同発見者である、イヴ・コバンによって1999年に書かれ、2002年4月に、邦訳され、「ルーシーの膝―人類進化のシナリオ」として馬場悠男氏らの訳で2002年に紀伊国屋書店で出版されました。(2000円+税)
 ルーシーと名付けられたのは1974年の発見当時、ビートルズの「ルーシー~」という曲にちなんでつけられたものです。
 「ルーシーの膝」のまえがき、によればアファール猿人はエチオピアのアファール地方から出土し、ルーシーと名付けられた全人類きっての美女をさしている。彼女は300万年前に20歳になったばかりのころ、不運にもハダールの湖で溺死した。p23、と書かれている。
 エチオピア南西部を流れるオモ川の浅い渓谷の連続層位を調査し赤道近くの乾燥化のピークを明らかにしたことを誇らしく思っている。そしてヒト属の誕生につながったこの事件を、オモ事件と名付けた。
 オモ事件が250万年前に始まったことに関しては多くの研究者の意見の一致を見ている。
 乾燥化は00万年前に始まり250万年と200万年の間に何回か変動するピークがあった。ヒト属の出現と(頑丈型アウストラロピテクス類の出現も)、環境の変化の明白な関係があることだった。乾燥という大事件にジンジャントロプスは頑丈な臼歯を発達させた。ヒト属は大きな脳とかなりの思考力と雑食性の歯列を持っていた。
5章 化石としてのルーシー 
  人類史の歴史のヒロインの歴史
  ルーシーはダイヤモンドを抱いて夜の空 ビートルズ
  ルーシーはどのように歩いたか、出産したか
  ルーシーが解明した進化の謎  二足歩行をした霊長類
   結局のところ、熱帯のアフリカで、肌が黒く、母権制だったという人類の創始者としてのルーシーは、人類の起源について思いを巡らすことができるイメージの代表格なのである。
6章 象徴としてのルーシー
  ルーシーをテーマにしたファンタジー
  演劇と映画になったルーシー
  小説のなかのルーシー
 
◎、ごく最近出版された本も大変興味深い
『ヒトー異端のサルの1億年』 島 泰三著
 中公新書 2016年8月25日 920円+税 
 第5章 類人猿第4世代、鮮新世のアウストラロピテクス
 420万年前、アウストラロピテクスの最も古い種 属アナメンシス、アファレンシスの祖先種
 温暖期の後世界的な寒冷期に突入 アファレンシスが現れる
 ルーシーには骨盤が見つかっており、アファレンシスの歩き方を調べるのに役立っている
 ルーシーは身長は低いが骨盤は二足歩行にむいたように広い
 体重と身長の性差 p120
アファレンシス 体重  雄45㎏    雌29kg
          身長   151㎝    105㎝
          脳容積      434cc
 アウストラロピテクス類は骨を主食の一つとしていた。石器で髄を取り出すことができるようになった。果実食から骨食へ。
 
 この本は改めて紹介いたします。
参考書
「ルーシーの子供たち」
 謎の初期人類、「ホモハビリス」の発見
  ドナルド・ジョハンスン 1993年11月 早川書房
 「大たい骨は小さい。ルーシーよりも小さい」
 「だが、上腕骨を見てくれ。ルーシーより大きいぞ」ヒトと呼べる頭脳と文化をもった生き物がオルドヴァイ峡谷にいた時代なのである。ルーシーと同じ身体を持っているが、おそらく脳はルーシーには及びもつかないほどの能力をそなえるようになったこのヒト科の生き物は、ホモハビリスなのだ。ルーシーの子供。ヒト。われわれの一人だ。(本文より)
 
 

2016年8月27日 (土)

人間学研究所・実用的人間学研究会の2016年9月例会のお知らせ

人間学研究所・実用的人間学研究会合同例会第5回例会のお知らせ
人間学研究所第126回、実用的人間学第86回合同例会の開催
1、日 時: 2016年9月23日(第3金曜日)18時より
2、テーマ: 「総合人間学としての私の歩んできたあと」
3、講 師: 松本 孚氏 (人間学研究所理事)
            元相模女子大教授・心理学
4、会 場: 人間学研究所
       新宿区百人町1-3-17 サタケビル3階
◎ お問合せ・連絡は下記へ
  112-0002 文京区小石川5-11-15-1001
       木村廣子 090-4064-5174
 

2016年8月24日 (水)

「第五倫伝」第2部、8章第五倫蜀郡太守となる 謝夷吾、蝗の害を避ける

謝夷吾、蝗の害を避ける p230
 謝夷吾が赴任して間もない同じ西暦72年(永平15年)時は秋、収穫のときである。しかし各地に夏から干ばつがあった。高温が続くと普段はおとなしいイナゴ(蝗)は突然形を変える。体も黒ずみ、羽が長く変わり、長距離飛べる凶暴な形(飛蝗-ひこう)に変化する。そして草や穀物を食い尽くし、猛烈に繁殖する。
 そして泰山に蝗が大発生し、各地に飛来し始めた。
 謝夷吾はそれを聞くと、直ちに弟子の李鵬と馬三に情報を集めさせた。また、方術を使う仲間たちからも情報をえたり、商人からの情報も集めた。その結果、寿長県にも飛来する可能性があるのがわかった。
 謝夷吾は県の役所に主だった役人を緊急に集めた。県の人々にも直ちに緊急事態の通達を出す。県の役所に集まったものに。
 「よいか、ここで収穫が蝗に食い荒らされたら飢饉が発生する。私の指示するようにせよ」
大きな模型でつくった地図上に、泰山からの蝗の飛来経路の予測が示されていた。
 「蝗は風に乗ってくるのだが、今の風の状況ではおそらくこの地を通る。県民をこの県境に集結させよ。蝗を絶対県内に入れてはならぬ」
 謝夷吾は風角占候の方術で風の予測をぴたりとあてることができるのである。
 一斉に役人は県民の動員の手配に動く。収穫できるものは早めに収穫させた。
 県民は必死である。干ばつで少ない穀物をさらに蝗に食われれば餓死する危険性がある。県境は川であった。謝夷吾は蝗が通ると確信する幅広い谷に皆がよく見えるところに祭壇をつくった。およそ千人の老若男女が続々と集結する。謝夷吾の三人の子どもたちも叩きを持ち、長男はいろいろな部署への伝令役を買って出た。他にも多くの子どもたちも参加した。謝夷吾の妻である孫泉も、他の吏員たちの妻たちを指揮し炊き出しやいろいろな手配をてきぱきとこなしていた。
 すでに、謝夷吾が驚異的な方術の使い手であるとみんな知っていた。
みなで力を合わせ木々の葉は落とされ草は刈りこまれた。乾燥させて河原のところどころに積み上げた。皆は祭壇にゆったり座っている、道士の服と羽扇を持った、色白、鳳顔にして威厳のあるまたいささかゆったりした体の謝夷吾を見上げた。
 皆それぞれに蝗を叩き落とすもの、乾いたわらなどを持つ。
 そして仮小屋で泊まりながら蝗を待つ。
「今日あたり来るぞ、油断するな」謝夷吾から各伝令が届く。
 朝日が昇り、からからに乾ききった地上に次第に明るさが増してくるころ。
と、黒い雲のようなものが、川向こうの地平から沸き上がり、しだいにザーといううなりのような音が皆を包む。青空がみるみる曇っていく。
 「来た」、「すごい」。人びとは思わず固いつばを飲み込んだ。あるものは指さし、あるものははたきを握りしめた。
 地上に降りてきたその蝗は、普段見るおとなしいものでなく、黒く、大きく、いかにも凶暴な姿をしていた。
 祭壇から夷吾は羽扇を振る。直ちに太鼓が一斉に乱打された。それを合図にいっせいに積み上げられた枯草、枯れ木のやまに火のついたわらを放り投げた。
 その枯草の山には硫黄、瀝青(天然のタール)などがかけてあった。一斉に黒煙が上がり谷を覆いつくす。人びとは一斉に布で口を覆う。
 煙に幻惑された蝗は次々に谷に落ちてきた。まわりは蝗の風のようなありさまである。人びとは命に従い一斉にはたきでたたきつぶす。
 人々は命に従い、持ってきた、かごに入れてきた、うんと腹をすかせた鶏を一斉にはなつ。その数およそ2千羽。一斉に蝗を追い、食べはじまる。まさにそこは戦場であった。
 謝夷吾は、壇上で一心に風向きが変わる祈祷を行う。弟子の李鵬はそれを手伝う。もう一人の弟子の馬三は蝗退治の指揮をとる。
 「がんばれ、蝗を県に入れるな」口々にそれぞれの持ち分で奮闘する。
 奮闘すること4時間余り、、燃えるものが少なくなり、皆の疲れも極限に達するころ。
「風向きが変わった。蝗が離れていくぞー」、人々の歓声が上がる。
「オー、」一斉にどよめきが上がる。
「やったー」それは、歓喜の声に変わった。
期せずして、「尭卿さま(謝夷吾の字名)万歳!」の声が上がる。
どんどんどんと、勝利の太鼓がたたかれる。
あるものは、祭壇に向かい伏し拝んだ。
―良かった。県は救われた。ほっとしてあたりを見回すと、そこらじゅう、蝗のじゅうたんのようである。滑って転ぶ者もいる。
 またかごに戻すため、おなかがいっぱいになった鶏を追いかけて、大騒ぎであった。その有様を、見てみんな大笑い。それに口を覆っていた手拭いを取ると皆、口の周りだけ白く、上半分は、すすで真っ黒であり、お互いに顔を見合って大笑いした。
 「良かった。良かった。皆さんご苦労様でした。ここに食べ物、飲み物を用意しました。鮭も少しですが用意してあります」
 人々は車座になり、おそい昼飯を食べた。またお互いに汗とすすと土ぼこりで真っ黒になった顔を見合いながら笑いあった。
 謝夷吾や、妻の孫泉や弟子たちはねぎらいの酒をついで回った。直々に県令からお酒を注いでもらった人は大感激であった。
 それにしても、尭卿様の方術はすごいものだと感心しあったものだった。
 「蝗は家畜のえさにしてもよいしわらと混ぜて発酵させて肥料にするとよい。少し臭いがするが人も食べられるよ」夷吾はいった。
 「いい肥料となって土が肥えるだろうよ」
 一渡り、軽い宴が終わる夕どき、皆が帰り始めたころ、空に昇った黒煙を核として、待ちに待った雨が降ってきた。
「わー。雨だ雨だ」老若男女久しぶりの雨に濡れてかさもささずに喜び合った。
「謝尭卿さまは神様のようなお方だ」人びとの中に、謝夷吾を伏し拝む者がいる。
「そうだ、そうだ、私たちの神様だ」
皆は確信したのであった。
 その出来事の後、神のようにたたえられる謝夷吾は県民から、絶対的に信頼され、謝夷吾も県民も熱心に働き、県民の生活はみるみるよくなった。評判を聞きつけて県に移住してくるものも大変多くなった。その驚くべき成果は洛陽の都にも刻々と伝えられるようになった。
・  
 謝夷吾が県令として赴任して三年、永平18年明帝が崩御し、三代皇帝章帝が即位した。
第五倫がさっそく三公(司空)に招かれる。このいきさつは改めて書くことにする。
 司空、第五倫は直ちに、謝夷吾を県令から、荊州の刺史(州内の監察官二千石)に推薦した。荊州は、現在の湖北省、湖南省、河南省、貴州省、広東省、江西省の一部を含む大きく重要な州で、大きな抜擢であった。
 寿長県民は謝夷吾の出世を喜ぶとともに、県を離れることをとても悲しんだ。赴任の日には多くの県民が県境まで見送りなごりを惜しんだ。
 なお、謝承書による『後漢書』では、寿長の県を泰山の蝗が通り過ぎた。飛び去って集まることはなかった記すだけである。
 やはり泰山の蝗が飛来したとき、同じように鄭弘は騶県(すうけん)の県令であり、蝗は下りてこず飛び去ったと書かれている。
                             p232
「鄭弘名をあげる」に続く

2016年8月23日 (火)

「第五倫伝」第2部、8章第五倫蜀郡太守へ、謝夷吾、寿長県令となり張雨を表彰する

第五倫伝、第2部、「第五倫太守へ、そして罪を得る」
 第8章、第五倫、蜀郡太守となる
 謝夷吾、寿長県令となり張雨を表彰する p228
 謝夷吾は第五倫により「孝廉」に推挙された。謝夷吾は『後漢書』には、「方術列伝」という中に書かれているとは前にのべた。前漢の正史である『漢書』にはそのような項目がなく、後漢時代には、さまざまな方術が盛んであったといえよう。
 永平15年(72年)謝夷吾は寿長の県令(千石)に任命された。このとき謝夷吾は46歳、妻の孫泉と子供3人、方術の弟子李鵬と、馬三とで赴任する。妻の孫泉は、後で呉国を創立する孫家の先祖の一族にあたる人であった。謝夷吾は16歳をかしらに、14歳と12歳で、全部男であった。早産して亡くなった子も男の子で、謝夷吾は、女の子もほしいのだがみんな男になってしまうと言ってなげいていた。謝夷吾の乗る車も第五倫を見習って粗末な車であった。
 寿長の県の役所につくと、迎える諸役人は、いかにもにこやかで福々しい謝夷吾の顔を見ているだけで、気持ちが和やかになる思いであった。
 県の役所に赴任して直ちにまず孝行な人、徳行のある人を表彰することにした。またいろいろな不公平なことや無駄がないかを調べた。
 親孝行の人の中でも、張雨という名前の女性が、特に評判であった。彼女は早くから両親を亡くしたが、孤児となった幼い弟二人の生活を支えるために、幼いながら必死で働くだけでなく、弟たちに四書五経を教え、人々の模範となるような、優れた立派な人物に育て上げた。そして二人とも良い伴侶となる人と結婚させるに至った。
 しかし、そのため自分自身は50歳になっても嫁に行かなかった。謝夷吾はそのことを聞くと、従者一人だけをつれて張雨に会いに行った。
 張雨の家は小さいながらきれいに整えられていた。
 「こちらは張雨さんのお宅でしょうか。突然お伺いして申し訳ありません。わたしはこのたび県令として赴任してまいりました、謝夷吾と申します」
と、ていねいに挨拶をした。
 家の門から、出てきた張雨は、突然訪ねてきた県令の訪問に驚いた。それも、共のものも1人だけできたのである。また、新しい県令は一見して長者の風のある立派な人物であった。今まで県令が訪ねてくることなど、1度もなかったのである。p229
 「私は、張雨と申します、狭苦しいところですがどうぞお入りください」
招き入れられた部屋は突然の訪問にもかかわらずきれいに片づけられていた。
 謝夷吾がいろいろと話を聞く中で、張雨はうわさにたがわぬ立派な人物であり、自分が弟たちの犠牲になったなどという考えはつゆほどもなく、弟たちが独立した後も、周りの人々の手助けをし、人々の心を明るくし、その行いで教化していることが分かった。
 謝夷吾は、50歳には見えないしわひとつ無い若々しくはつらつとした張雨に。
「私も幼い時に父を亡くし、つらい思いもしました。でも私には母がいました。でもあなたは両親を亡くされて、さぞ大変だったでしょう。あなたのされたことは、なかなか出来ないことです。とてもつらかったと思いますが、よく頑張りましたね。そして今でもはつらつして元気いっぱいで、あなたはとても素晴らしい方ですね」
 と大いにほめた。
「恐れ入ります。新しくお見えになった県令様から、そのようなお褒めの言葉をいただけるだけでも感激でございます。弟たちもよく貧しさに耐え、力を合わせて頑張ってくれたからです。それに、周りの皆さんにもずいぶんと支えていただきました。ですから今まで決してつらいと思ったことはありません。
「いやいや、謙遜されておられますが、人々が応援してくれたのは、それはあなたの行いが人々の心をうったからでしょう。なかなかできないことです。私は州府に優れた行為としてあなたを表彰させていただきます」
 しばらく歓談した後、謝夷呉は最後に。
「改めて具体的な顕彰のことで参りますが、今日はこれで失礼させていただきます」
新しく赴任してきた県令が真っ先に顕彰しに来てくれたことを、本人よりも、弟たちや家族や近くの人々が、姉の日頃の地道な努力が報われたとして大変喜んだ。
 謝夷吾はその言葉のように州府に張雨の門戸を推薦し、表彰した。張雨の老後の年金を出すことになったのである。また、その優れた行いを史官に歴史に残すように指示した(後漢書に記録されている)。
 張雨は大変喜んで、お礼の言葉を謝夷吾にのべた。
「私の行いをほめていただいただけでなく、老後の生活を助けていただくとはこんなにうれしいことはありません。本当にありがとうございます。今後もできる限り、人のお役に立てるように頑張ります」
 謝夷吾は、そのほかにもいろいろな、優れた行いの人を見つけ出してはきめ細かく表彰した。人びとのあいだにそれが伝わり、よい行いは表彰されること、人々はいたわりの心が大切なことを身近に感じた。罰を与えることなどしなくとも、しだいに人々は教化され、人々は礼節をわきまえていくようになっていったのである。
                              p229
・・
「謝夷吾、蝗の害を避ける」へ続く

2016年8月20日 (土)

「9条は幣原提案」新資料、マッカーサー書簡に明記、「押し付け憲法」論を否定

「9条は幣原提案」新資料、マッカーサー書簡に明記
 堀尾・東大名誉教授が発見
  -「押し付け憲法論」を否定
Kc4a10670001
上図の写真は、幣原喜重郎首相とマッカーサー
「押し付け憲法論を否定」の文章の下はマッカーサーの回答
その下の文章は
上、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」
下、「本条は、幣原男爵の先見の明と、経国の才とえい知の記念塔として、永存する」
 戦争放棄をうたった憲法9条のアイデアは、幣原喜重郎首相(当時)が連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官マッカーサーに提案したという学説を補強する新たな資料を、堀尾輝久・東大名誉教授が発見しました。安倍晋三首相ら改憲勢力が主張する「今の憲法は戦勝国に押し付けられたもの」と主張する論拠を覆す内容です。秋の臨時国会から憲法審査会で、改憲論議が狙われるなか、憲法の制定過程をゆがめて議論をすすめることはゆるされません。
(赤旗2016年8月19日、1面2面、深山直人)
 9条は、1946年1月24日に幣原首相とマッカーサー最高司令官との会談が発端となったとみられています。マッカーサーは「幣原首相の発案」と米上院などで証言していますが、幣原は9条の発意について長く口を閉ざしていたことから「信用できない」とする意見もありだれが提案したかについては見解が分かれています。
 堀尾氏は、57年にと当時の岸信介内閣のもとで改憲の議論を始めた憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の制定過程を調査するために渡米したことを重視しました。
 高柳は、マッカーサーとの往復書簡を踏まえて、「わたくしは幣原首相の提案と見るのが正しいのではないかとという結論に達している」と論文に書いていました、書簡の具体的内容についてはこれまで不明でした。
 堀尾氏は、国会図書館所蔵の憲法調査会関係資料を探し、今年1月、英文の書簡と調査会による和訳を見つけました。
 この書簡は、高柳の質問にマッカーサーが回答したものです。58年12月15日付で「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記。「提案には驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」とマッカーサーは述べています。
これに先立つ12月5日付の書簡でマッカーサーは、「(9条は)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原首相の先見の明と経国の才志と英知の記念塔として、朽ちることなく立ち続けることでありましょう」(堀尾氏訳)とたたえています。
 堀尾氏は「マッカーサーは同じような証言を米上院や回想録でもしていますが、質問に文書で明確に回答した書簡は重い意味があります」と話しています。
幣原首相の「9条」提案 ”反戦平和のうねり結実”
 幣原首相はなぜ、戦争放棄をうたった憲法9条のアイデアをマッカーサーに提案したのでしょうか。
Kc4a10680001
上の写真は堀尾輝久東大名誉教授
真ん中の文書はマッカーサーと高柳憲法調査会長との書簡を収載した憲法調査会の史料
 幣原は1946年3月27日、自身の内閣内閣がつくった「戦争調査会」の開会あいさつで、原爆よりもさらに強力な破壊的新兵器も出現するあろう時に、「何百万の軍隊も何千隻の艦艇も何万の飛行機も全然威力を失う」と述べ、「世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同じ(戦争放棄の)旗を翳(えい)遥(はる)か後方から付いてくる時代が現れるでありましょう」と述べました。
 幣原は、秘書官だった平野三郎氏による聞き取り(51年2月)に対しても「戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」と述べています。
 一方で幣原は戦争放棄と天皇制維持をセットで提案したかったが、敗戦から間もない状況で日本側から提案することはできず、「憲法は押し付けられたという形をとった」と説明しています。
 堀尾氏は「今回の新資料を、こうした発言とも重ね合わせると、9条が幣原の発意であったことについていっそう確信が持てると考えます」といいます。
 幣原がこうした提案をした社会的背景に何があるのか。堀尾氏は平和思想、国内外の反戦の流れを指摘します。
 「日本にはもともと中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で抑圧されていましたが、終戦で表へ出てきて、国民も『戦争はもう嫌だ』と平和への願いを願いを強めていました。国際的にもパリ不戦条約をはじめ戦争を違法なものとする運動が広がっており、外交官でもあった幣原もその流れを十分認識していました。さらに原爆と戦争の惨禍を体験して、侵略への反省、反戦と平和への希求の大きなうねりが先駆的な憲法前文と9条に結実していったと考えます」
安倍首相は、今秋から国会の憲法審査会を動かすとのべ、改憲に執念を見せています。堀尾氏はこう強調します。
 「9条は日本国民が求めてきたものであり、だからこそ国民は改憲を許してきませんでした。同時に、憲法の制定過程からも占領軍の押し付けではなく、日本側の提案を受けたものであることが明瞭になっています。世界中が戦乱の危機にあるいまこそ9条の理念を世界に広げ、平和を築いていく方向でこそ議論すべきです。これは憲法前文が求めていることなのです」
幣原喜重郎
 1872~1951年。外相を4回務め、国際協調、軍縮路線を主張したとされます。終戦後の45年10月から首相となり、現憲法の制定にかかわりました。
憲法制定過程をめぐる主な流れ
1946年1月24日 幣原首相とマッカーサーGHQ司令官が会談
    2月13日 GHQ草案を日本側に提示
    6月20日 帝国議会に提出
    10月7日 成立
    11月3日 日本国憲法が公布
1947年5月3日 憲法が施行
 51年5月5日  マッカーサーが9条は幣原の発案と米上院で証言
 58年12月   高柳憲法調査会長が渡米、マッカーサーと書簡を交わす
◎「日本会議」や「神道政治連盟」と安倍内閣との関係については
「こういちの人間学ブログ」
「最近の世の中の動き、日本を動かす日本会議、安倍内閣の巧妙さ」
 このブログは「日本会議」についての出版物を読んで、要点を書いていったものです。追加追加で書いていったものですから、いささかまとまりの悪いブログで、申し訳ありませんでした。
 2016年の参議院選挙が終わり、安倍内閣が改造され、安倍首相と、日本会議や神道議員連盟などは、いよいよ、憲法を変える段取りに移ります。選挙では憲法を変える云々はほとんど争点としないで選挙で改憲勢力が3分の2以上になったからと憲法を変える段取りに入るのですから、ひどいやり方です。憲法を変えるということをまともに公約にしていたら、世論調査の結果では、改憲の必要がないという人の方が多いのです。
 「日本会議 戦前回帰の情念」という、山崎雅弘氏の本(集英社新書)では、帯封に「安倍政権と日本会議は、なぜ『日本国憲法』を憎むのか」と書いてあります。
参議院選挙の世論調査
 参議院選挙前後の世論調査を見ると、読売新聞によると、自民、公明、大阪維新の党の改憲勢力が勝利したことを、良かったとした人が48%、良くなかったという人が41%となっています。毎日新聞の世論調査では、6月24日、改憲に反対が45%安倍内閣支持42%。7月18日では改憲の議論をすすめることに、賛成51%、反対32%となっています。
 しかしまた時事では7月22日の調査で改憲論議を急ぐべきではない、という意見が54%となっています。
 今年5月の世論調査では、憲法9条を変えない方がよい68%(郵送)。NHKでは9条を守りたいが68%で替える方がよい27%となっています。
 自民党は、参院選で勝利したから、さあ、改憲だといきり立つことでしょう。しかし改憲勢力といっても、公明党、おおさか維新の党の改憲というニュアンスはだいぶ違っています。公明党は憲法第9条については、変えない方がいいと言っています。しかし内閣に入っている以上、安倍首相など「日本会議」勢力に飲み込まれてしまうような気がします。
 いささか不思議に思うのが、宗教界全体の中で、神社と新興宗教とで、日本会議の主要メンバーを占めていますが、そのほかの宗教界はどう思っているのでしょうか。2016年の日本会議の役員名簿を見ると神社関係と新興宗教とで主要役員をしめ、一人だけ武 覚張超氏だけが比叡山延暦寺代表委員となっていて、他に居ません。他の仏教指導者やキリスト教関係者はどのように思っているのでしょうか。今度の内閣で公明党の大臣以外、日本会議会員がほとんどで、全員神道議員連盟の会員というのは、異常です。
 着々と昔の日本に戻すべく、運動を進めている日本会議などの実態がようやく広く国民の目の前に明らかにされました。日本会議に関する本が多数平積みされて売られているのでわかります。
「日本会議とは何か」上杉 聡、合同出版より p16
図04、宗教団体の系譜
宗教右派系 神社本庁 8万社、霊友会、139万人仏所護念会120万人、
         崇教真光 46万人、オイスカ・インターナショナル、84万人
         などが人数が多いところ
平和主義的側面を持つ教団
         立正佼成会、586万人、(創価学会、600万人)、天理教、200万人
        、実践倫理宏正会、300万人、PL 教団113万人など
 ◎こちらの方が断然信者数が多いのに、どうして自民党は宗教右派に乗っ取られたのだろうか。
 
 
 マスコミをおとなしく言うとうりにさせ、教育に対しての締め付けを強め、さまざまな手を打って、着々と憲法と第9条を替え、この日本を昔の日本に引き戻そうとしています。この前の選挙では民進党、共産党など4党が連携して一定の成果をあげましたが、まだまだ不十分です。特に民進党では、日本会議に参加しているような右翼的な議員たちがいます。1人区では協力しましたがそれ以外の協力はありませんでした。
 このまま自民党と日本会議などの人たちの思うようにしないため、より幅広い勢力が結集して、憲法と9条を守り、再び戦争への道を歩まないようにしなければなりません。
 「シニア左翼とは何か」小林哲夫、朝日新書2016年3月、という本を購入しました。帯封に、デモ初参加の70歳・専業主婦も健在とあります。反安保法制、反原発運動で出現、孫を戦争に行かせたくない!という人たちがSEALDsをささえた影の主役と。筆者もわずかながらも戦前の生まれで、戦争を直接はしりませんが、その惨禍はよくわかります。どうもこのままでは、いつか来た道で、戦争に巻き込まれる国になってしまいそうです。何とか力を合わせてそうならないように、食い止めなければなりません。
「日本会議の正体」青木 理 から
1969年 神道政治連盟結成
1979年 元号法制定
1997年 日本会議結成
1998年 道徳教育の推進
1999年 国旗国歌法成立
2006年 1万人大会、皇室の伝統を守る会
       教育基本法を変える国民署名362万人
       教育基本法全面改正
2007年 国民投票法案が成立
2010年 夫婦別姓外国人参政権法案反対運動
2012年 女性宮家創設反対
2013年 憲法改正に実現へ本格的運動開始
2014年 「美しい日本の憲法をつくる国民の会」設立
       憲法改正に向け国民投票実現に向けて1000万人賛同者拡大運動
 
◎堀尾輝久氏について
1933年1月生まれ。福岡県出身。東大大学院修了。東大教授、教育学部長。
日本教育学会会長、日本教育法学会会長、2006年、総合人間学会、2014年総合人間学会会長。
関連して
柴田義松氏について
 1930年11月生まれ。東大大学院修了。東大教授、教育学部長。教授学。日本教育方法学会会長、総合人間学会副会長。現在人間学研究所所長。
◎ ブログ筆者は、人間学研究所専務理事。また総合人間学会の設立にもたずさわりました。 
 

2016年8月11日 (木)

最近の世の中の動き、日本を動かす日本会議。安倍内閣の巧妙さ

最近の世の中の動き
見事な安倍内閣の巧妙さ
 2つの選挙戦が終わりました。参議院選挙と東京都知事選挙です。参議院選挙では、なんとしても改憲に必要な3分の2以上を獲得するために、アベノミクスはうまくいっているという宣伝、あからさまに憲法改正のことを言わない、消費税のアップを先延ばしにするなど、の戦略でした。これらの作戦はうまくいき、改憲に賛成な国会議員数を、大阪維新の党も抱き込み、3分の2を確保しました。これから、さっそく憲法を変えるための段取りに移ります。
何か戦前の日本に引き戻す動きが強くなり、しだいに昔の日本に引き戻されるような、恐ろしさを感じます。共産党は伸びていますが、民進党はその中に、日本会議に参加しているような議員もいます。政権を取らしてみたら、なんだ自民党と変わらないじゃないかと愛想をつかした人も多いのです。
 格差は拡大し、いろいろな問題が出てきても、戦前のように、他の方に目を逸らされ、かえって民主的な人々を戦前のように弾圧する方向になりつつあります。自民党のあからさまなマスコミにそれはすでに表れてきています。
 東京都知事選では、小池百合子が、見事にその保守的な側面を隠し、都知事に当選しました。選挙中にあからさまな、週刊文春、新潮などの鳥越倒しの記事が大きく載り、もうその段階で勝負あった、という感じです。小池百合子はソフトな面を打ち出していますが、日本最大の右翼的な団体である、日本会議の国会議員懇談会の副会長です。最高の位置である特別顧問には安倍首相、麻生副総理が名前を連ねています。
 河野太郎などリベラルといわれる少数議員も閣僚に取り込まれ、今やリベラル派に自民党議員なぞ無きに等しい状態になっています。前は年配の自民党議員で戦争だけはまっぴらだという人もかなりいましたが、もうみんな引退してしまいました。
 大阪維新も改憲勢力として取り込もうとしています。橋本氏も今に大臣にしてあげるからといわれて取り込まれてしまうかもしれません。それにしても「日本会議、国会議員懇談会」にこれだけの議員が集まっているということは異常です。
 いささか資料の羅列になりますが、自分の勉強のためにも、資料を転記してみました。
 参考:2014年現在の「日本会議、国会議員懇談会、の主要メンバーです。新しいものが見つかりましたら変更します。
2014年で国会議員の数は289名。2015年9月で281名。うち256人が自民党議員。
第2次安倍内閣で、15人が入閣。3次内閣12人です。
特別顧問 麻生太郎、安倍晋三
顧問    谷垣禎一、石原慎太郎、亀井静香
相談役   額賀福志郎、石破茂、山東明子、鴻池
会長    平沼赴夫
会長代行 中曽根弘文
副会長   
下村博文、小池百合子、菅義偉、高市早苗、橋本聖子、
渡辺 周(民主党当時、現民進党議員。みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長)
松原仁(民主党・当時,現民進党議員)
松野頼久(日本維新の会・当時、現民進党議員)、他
政策審議会長  山谷えり子
政策審議副会長  稲田朋美 有村治子他
他に、民進党では下記の議員が会員あるいは元会員
  長島昭久(2015年退会)、原口一博(2015年退会)、
  前原誠二、(現会員、新憲法制定議員連盟副会長)
2016年の参議院選挙後の安倍内閣
・                日本会議  神道政治連盟
総理大臣  安倍晋三    ○        ○       
財務大臣  麻生太郎    ○        ○
総務大臣  高市早苗    ○        ○
法務大臣  金田勝年・   ◎        ◎  
外務大臣  岸田文雄    ○        ○
文部大臣  松野博一・   ◎        ◎          
厚労大臣  塩崎泰久    ○        ○
農水大臣  山本有二・      ◎        ◎ 
経産大臣  世耕弘成・               ◎
国交大臣  石井啓一   (公明党)         -
環境大臣  山本光一・      ◎        ◎
防衛大臣  稲田朋美・   ◎        ◎
官房長官  菅 義偉    ○        ○
復興大臣  今村雅弘・   ◎        ◎
国家公安  松本 純・             ◎
沖北大臣  鶴保庸介・             ◎
経済再生  石原伸晃             ○
1億活躍   加藤勝信   ○         ○
地方創生  山本幸三・   ◎        ◎
オリンピック 丸川珠代移動          ○
名前の後の・印は新任  ◎は新任大臣   
 
  神道政治連盟(神政連)の新任大臣
大臣20名中、日本会議参加者14名
  神政連はなんと公明党除き全員19名
・退任した大臣
        岩城光英              ○
        馳   浩
        森山 裕              ○
        林 幹雄      ○       ○
        河野太郎              ○
        石波 茂      ○       ○
        島尻亜伊子(参院選で落選)
        高木 毅              ○
◎馳 浩氏と塩尻亜伊子の二人が、日本会議でも神政連でもない自民党議員でしたが、今回の改造で全員が神政連に入っている議員です。何か気味が悪いように感じます。
日本会議役員 2015年6月15日
会 長  田久保忠衛 (杏林大名誉教授)
副会長 安西愛子
      小田村四郎(拓大元総長)
      小堀桂一郎
      田中恒ー (神社本庁総長)
 
代表委員 石原慎太郎
       佐田の山
       千宗室
       徳川康久(靖国神社)
       各宗教団体主など
 
◎日本会議について要領よくまとめるのは大変です。自分の勉強のためにも、資料にあたってみました。
 2014年9月に第2次安倍内閣が発足してから、日本会議と安倍政権の密接な関係性が外国のメディアに盛んに伝え始めたのに日本の大手メディアの反応は鈍かった。2016年になってようやく、その恐るべき実態が様々な書籍が発行されるなかで明らかになってきた。しかし各新聞、放送局などの大手メディアは伝えていません。
「日本会議」とは何か
 ◎日本会議に関する説明はいろいろありますが、東洋経済ONLINの
1、「憲法改正を訴える日本会議の「危ない」正体「宗教右派の統一戦線」が目指すもの
 AERA編集部・2016年7月12日号、がよくまとまっているので紹介します。
 安倍政権のコアな応援団となっている日本最大の右派組織、日本会議を端的にどう評価すべきか。先ごろ上梓した『日本会議の正体』(平凡社新書)を取材、執筆しつつ考えたのだが、ある雑誌で対談した先輩記者・魚住明さんの言葉に膝を打った。「宗教右派の統一戦線」。魚住さんはそう評した。その通りだと私も思う。
 1997年5月、当時の2大右派組織―日本を守る会と日本を守る国民会議が合併して成立。現会員は3万8千人、日本会議に呼応する日本会議国会議員懇談会に名を連ねる衆参両院議員も約80人を数えるに至り、組織の役職などには右派系の著名文化人、学者、財界人がついてきた。初代会長はワコール会長だった塚本幸一氏、2代目会長は石川島播磨重工業会長だった稲葉興作氏、3代目会長は元最高裁長官の三好達氏、現会長は杏林大学名誉教授の田久保中栄(忠衛)氏。
 しかし、組織運営の中枢を担うのは新興宗教団体・生長の家に出自を持つ元活動家の面々である。
地道で執拗な右派運動
 現在の生長の家は政治とのかかわりを絶っており、日本会議とは何の関係もない。だが戦前に谷口雅春が創始した生長の家は、右派色の強い新興宗教として知られ、戦中は軍部の戦争遂行を賛美して教盛を拡大した。戦後もその姿勢は長く変わらず、~右派の組織として成長の家政治連合(生政連)を結成し、右派の学生組織として成長の家学生会全国総連合(生学連)を立ち上げ全国の大学を席巻した全共闘運動に対峙させた。
 同じく生学連の元活動家で、現在は評論家、作家として幅広く活動する鈴木邦夫氏はこう断言した。
 「日本会議の大本は、生長の家だと僕も思います」
彼らは全共闘運動と対峙する中で組織運動のノウハウを身に着け、ある種の「宗教心」に突き動かされて地道な、そして執拗な右派運動を続けてきた。とはいえ、彼らに巨大な資金力や動員力があるわけではなく、強力に下支えしているのが神社本庁を筆頭とする神社界と、数々の右派系の新興宗教団体である。なかでも全国に8万以上の神社を擁する神社界のパワーは圧倒的だ。しかも戦前、戦中期、国家神道にもとづいて、厚く庇護された神社界には、戦前回帰願望に似た復古思想がくすぶっている。
「武道館一杯の動員力」
その頂点に君臨する神社本庁は、自らの政治団体である神道政治連盟などを通じて右派政治家や日本会議を支援している。日本会議などが主催する集会の費用などを神政連が応分負担している。わたしの取材に応じた神政連神奈川県本部長で師岡熊野神社の宮司・石川正人氏は、日本会議などが主催する集会の費用などを神政連が応分負担していると明かし、その動員力を次のように語っている。
 「例えば『武道館をいっぱいにしましょう』というなら、それはすぐにできることです。
-つまり1万とか2万とか?
『その単位なら普通に動員できると思います』
いったい、なぜ神社本庁を筆頭とする神社界は、新興宗教などとタッグを組んで日本会議を支えるのかと。
 これについて、石川氏はこう明かしてくれた。
「多くの新興宗教の教祖は、ありがたいことにお伊勢さん(伊勢神宮)を大事にするし、地域のお宮さんを大事にしましょうとおっしゃってくれている」
―そうした新興宗教も日本会議や神政連の活動を下支えしていると。
 「下支えしていますよ。日本会議の活動も、いろいろな宗教団体とか、後は自衛隊のOB会や日本遺族会などが力になっている。動員面ではまさに神社界と宗教教団です」
 ・
 実を言うと、こうした宗教右派の内部には従来、改憲論ひとつをとっても、教理問答と称される主張の相違があった。~こうした小異をおいて大同につこうと結成されたのが日本会議だった。まさに”宗教右派の統一戦線”というにふさわしい。
 宗教団体や宗教家の政治活動は政教分離を侵しかねず、「宗教心」に駆動された日本会議の運動と主張は、実際に近代民主主義社会の大原則を容易に踏みにじる。
 その兆候は、事務総長、椛島(有三)氏の主張にも端的に見て取れる。
日本協議会・日本青年協議会の機関紙『祖国と青年』には、
<祭政一致の国家哲学を否定することは、まさに歴史を冒涜する愚挙といわねばならない>
<天皇が国民に政治を委任されてきたというのが日本の政治システムであり、、現憲法の国民主権思想はこの1点において否定されなければならない>
 
 政教分離の否定。さらには国民主権の否定。さらには過大なまでの国家重視と人権の無視。プンプンと漂う天皇中心主義と自民族優越主義=エスノセントリズム。~戦前は国体論や天皇崇拝、皇道というようなものに集約されました。
 
―それはやはり危ういと
宗教学者の島薗進氏は、
「ええ、非常に危ういと思います。かつては”危ない勢力”と認識された者たちが,いまや立派に見えてしまっている。これは驚くべきことです」
 各地の神社で改憲署名
 少し前まで日本会議に集うような宗教右派は、極論を唱える「あぶない勢力」と認識されてきた。だが、中国の経済成長などで日本の国際的地位が相対的に低下し、国内でも格差や貧困が広がり、不安や焦燥が社会を覆うなか、日本会議的な主張に共感する層はうっすら広がっている。何よりも安倍政権の存在が彼らを勢いづけている。
  椛島氏は、安倍政権誕生後の運動について、こんな風に語ったこともある。
「日本会議は阻止・反対運動をする段階から、価値・方向性を提案する段階へと変化した」
 その日本会議が現在、総力を挙げて取り組んでいるのが改憲に向けた運動である。戦後体制を憎悪する日本会議にとって、現憲法は唾棄すべき戦後体制の象徴であり、同じ方向を向く安倍政権下こそが改憲の最大チャンスととらえている。フロント組織である「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を立ち上げて発破をかけ、1千万人を目指して全国各地の神社の境内でも改憲賛成の署名集めが行われたほどだ。
 本執筆時では参議院選挙の結果は不明だが、その結果次第では改憲が具体的な政治スケジュールに上がってくる。戦後70年の歩みは、現政権と”宗教右派の統一戦線”によって突き崩されてしまうのか。時代の大きな分水嶺である。
   (ジャーナリスト・青木理)
「ウイキペディア」より、各章
日本会議の活動・主張
・日本の皇室関係
・改憲運動
・教育関連
・国防運動
・靖国神社関連
・男女平等への反対運動
・日本の主権を侵害すると日本会議がみなした動きへの反対運動
2、「日本会議とは何か」
 「憲法改正」に突き進むカルト集団 上杉 聡
     合同出版 1000円+税 2016年5月15日、2016年6月15日第4刷
  変容する右派勢力 日本会議が目指す社会
Kc4a10630001
  本書は、安倍政権の頼りとする日本会議を実態に即して、紹介する。「憲法改正」を切り口に、彼らがめざす社会とは、いったいどんな社会なのか、その論理・手法・政権との関係はいったいどうなっているのか、彼らの計画を可視化する。
目次です
序章 日本政治の大きな焦点・憲法改正
   7月選挙後に行われる憲法改正改憲と加憲の違い、衆参ダブル選挙の検討、加憲と
プラス改憲で3分の2突破へ
第1章 改憲の推進勢力―日本会議の実態
   今こそ憲法改正を;1万人大会、うごめく宗教組織、安倍首相の改憲メッセージ、宗教
団体を束ねる見えない核
第2章 日本会議とはどんな組織か
   現代世界の特徴と日本会議、宗教右翼の素顔、教科書問題などでのつまずき、右派
の老齢化と日本会議の結成、再び教科書問題で蹉跌
第3章 押し付け憲法論と憲法第9条の真実
  改憲の論理と方法―押し付けで世論は動くか、宗教者とカルト、複雑な現実を理解  できない人たち、誰が憲法を国会通過させたのか、天皇の身体の保障はできないの誤訳、誰が昭和天皇の命を助けたのか、憲法第9条の大どんでん返し、まずアメリカが「自衛隊の否定」を削除、日本が自衛権を持つことで連合国と日本は合意、あいまいな9条と改憲エネルギー
第4章 日本会議の教科書運動(一部)
   右派運動のデパート、憲法改正の範囲は全領域へ、憲法改正と教科書と若者、投票権と兵役の問題、出生の秘密、日本教育再生機構と育鵬社、2015年、1,5倍に増えた育鵬社、重大な虚偽を描く教科書、日本会議の宣伝チラシ化する「公民」教科書
第5章 育鵬社は大阪でどのように大量採択を実現したか(一部)
   全国最大の日本会議支部が東大阪市に、育鵬社を支持するヘイトスピーチ、大阪維新と安倍首相の接触の始まり  議員連盟の名簿からわかること、わからないこと
おわりに 日本会議と今後
   創価学会・公明党との確執、自民公明日本会議の対立と均衡、政治動向の分析に必
  要不可欠な宗教への視野 
日本会議の8つの運動カテゴリー
1、天皇崇拝と制度強化―建国記念の日の奉祝、女系天皇反対、天皇元首化
2、憲法改正-日本会議が設立された最大の目的、明治憲法化
3、歴史認識-皇国史観、東京裁判史観、
4、教育-愛国、道徳という名の政治教育
5、靖国神社―国に準じた英霊、首相、天皇の公式参拝
6、人権-家制度の保護、夫婦別姓・外国人参政権反対
7、領土-尖閣防衛、竹島、北方領土返還
8、国防安保―安保法制の実現、自衛隊の国防軍化
日本会議の組織
 個人35000人と、神社本庁、霊友会、念法眞教,崇教真光、解脱会、黒住教、佛所護念教団、新生佛教教団、オイスカ―インターナショナル、大和教団、倫理研究所、モラロジー研究所、日本青年協議会など
◎4章、5章が、日本の教育を右傾化する試みを教科書問題などをとおして明らかにしています。
上杉聡氏は、評論家、部落史研究家、関西大講師、日本の戦争責任センター事務局長
 育鵬社は扶桑社から、教科書専門出版社として、独立したもの
「日本会議に関する書物から」
 2016年に多くの本が出版されています。それだけ、日本の政治を動かしている力として『日本会議』が注目されているということです。
「日本1の書評」から、中島丈博、週刊現代2016年7月9日号より
3、「日本会議の研究」
 
  管野 完(すがの たもつ) 右傾化の深淵はどこなのか
  扶桑社新書、 864円、2016年5月1日、2016年7月20日、第5刷
Kc4a10640001
 (日本会議より出版停止を求める申し入れが来た。それがかえって話題を呼び、2016年5月1日発売で2016年7月20日に第5冊で、現在書店で平積みされて大いに売れている)
本のテーマは、帯封に書かれている。
「右傾化の淵源はどこなのか?「日本会議」とは何なのか?
裏の帯封に
「市民運動が嘲笑の対象にさえなった80年代以降の日本で、
めげずに、愚直に、地道に、そして極めて民主的な、
市民運動の王道を歩んできた
「一群の人々」によって、日本の民主主義は殺されるだろうー
 むすびに変えてから
 帯封で社会学者の宮台真司氏(首都大学東京教授-自称右翼だが誤った右翼運動に厳しい)は次のように推薦している!
”「ネトウヨ」のごときレッテル貼りは、対立を確認する以上の意味を持たない。「何が何をもたらしたのか」を見極めない限り、我々は表層を撫でるだけで終わる。本書は社会の劣化による必然と歴史の偶然が織りなす綾を、見事に描いた”
「はじめに」から
 安倍政権の暴走が止まらない
 
2012年に第2次安倍政権が発足して以降、特定秘密保護法の採択、集団自衛権に関する閣議決定、そしていわゆる「安保法制」の強行採決と、傍若無人な政権運営はとどまることを知らない。
 閣僚や自民党議員たちの奔放な言動も目立つ。~
 反動と呼ぶにはあまりにも幼稚すぎる、こうした無軌道な発言が目立つのは、安倍政権周辺にとどまらない。~ヘイトスピーチや、嫌韓のヘイト本の出版ブーム。平積みされるのは「正論」「WILL]などの」「保守系論壇月刊誌」ばかり。
 これらの事象を見て、人は、「日本人は右傾化した」という。
しかし、果たしてそうか?
 実際の運動を見ると、例えばシールズの運動やヘイトに対抗するカウンターデモがある。
2014年12月の衆院選では、自民公明が圧倒的な議席を得た。しかし、得票率を見ると自公連立政権49,54%、、野党無所属合計50,46%ととわずかとはいえ野党がうわまわっている。
 有権者の好むここ10年左右にぶれることなくほぼ不変であるにもかかわらず、政治家、とりわけ自由民主党の政治家だけが右により続けているという解析結果にもとづき~。
 それは政治家の右傾化であって有権者の政策位置が右に寄ったのではない
 社会全体が右傾化していないのに、政権担当者と路上に跳ね返りどもだけが急速に右傾化している。これは何とも不思議だ。
 ネトウヨのネットの書き込みを見るとそうした出典のほとんどの場合「保守論壇誌」だ。
保守論壇誌に登場する人々は「脈絡」がない。いろいろな資料を読み込みそうして彼らの偏りの根本原因を探っていった。それが「日本会議」の存在だ。
 彼らの主張内容は、「右翼であり保守だ」と自認する私の目から見ても奇異そのものであり「保守」や「右翼」の基本的素養に欠けるものと思わざるをえないものばかりであった。
「日本会議周辺の保守論壇人は異質だ」
「日本会議周辺は、これまでの保守や右翼とは、明らかに違う」
集めたサンプルを虚心坦懐に読み解くと、そう結論づけるほかなかった。
しかし、日本会議の存在に行きついたものの、メディアは日本会議のことを論じない。
 自分なりの論考を私的に発表し続けた。
 それが扶桑社が新たに立ち上げた「ハーバー・ビジネス・オンライン」のめにとまった。
論考を連載化。そして書籍化することに。
◎ここは本の冒頭部分の言葉である。
 「安倍首相の筆頭ブレーンと呼ばれる伊藤哲夫と伊藤哲夫が率いる日本政策研究センターは「生長の家政治運動」のパンフレットを現代に蘇らせそのまま出版している」ともいえる。p189
安倍総理の寵愛を受け当選4回ながら大臣や政調会長を歴任している稲田朋美は、重要大臣である防衛大臣となっている。きわめて強いタカ派としての有名だが、動画で生長の家の経典「生命の実相」を掲げている。p221
稲田朋美は、在特会と密接な関係にあることは各報道で明らかにされたとおりだ。 p230
 2002年は急激な右傾化路線の端緒を開いた年である。そんな年に「谷口雅春先生を学ぶ」は創刊された。p226
 政府が「集団的自衛権は合憲である」と主張する際には。百地章のコメントが必ず引用されていた。百地章は「谷口雅春を学ぶ」創刊号の編集人だった。百地と稲田は「生長の家原理主義」という志を持つインナーサークルに属するわけだ。 p228
 安藤巌(昭和14年生まれ)、難病が生長の家の信仰により治癒、「神の子」とし、生長の家の若手のリーダー格、大きな影響を与える。
「中島氏の書評から」
 日本会議が改憲のために立ち上げた「美しい日本をつくる国民の会」のパンフレットには元力士の舞の海秀平さんやジャーナリストの櫻井よしこさんらとともに百田尚樹氏の顔も並んでいるし、長尾敬議員は「極めてあけすけに、かって自身が日本会議の前身である日本青年協議会の構成員であったことと、いまだにこの右翼団体にシンパシーを抱いていることを表明してしまって」おり、「文化芸術懇話会」は日本会議とずぶずぶにつながっていると書かれている。
 かねてより私は安倍政権の女性閣僚や女性党幹部が喜々として靖国参拝におとづれるさまをテレビのニュースで目にするたびに、何とも奇態な妖怪の一群を見るがごとき違和感と不可思議感に襲われて仕方がなかったが、本書は「日本会議国会議員懇談会」にも属している彼女らの何人かの出自来歴をも明確にして、その謎に答えを与えてくれる。
―(著者は右翼を自称しつつ、日本会議や保守勢力を批判
◎はじめに、から。著者ははじめ、普通のサラリーマンであった。それが世の中の動きを見る中で、これはおかしいぞということで、手当たり次第にサンプルを集めだした。そして一つの答えにたどり着いた。それが「日本会議」の存在だ。ツイッターなどのSNSに書いていたら扶桑社の「ハーバービジネスオンライン」の編集者の目に留まり、2015年2月から連載化を始めた。
 この本にはいろいろな資料が載せられ、その写真が多くのせられている。
そのほかの本について
「日本会議とは何か」上杉 聡 
  合同出版社 1000円+税 2016年5月 (前出)
 憲法改正に向け国民投票の賛成票を増やす工作として中高生への教育が大きな位置を占めるとして、日本会議は「日本教育再生機構」なる組織を発足させて育鵬社から、中学校向けの歴史、公民の教科書を発行している。
4、「安倍政権にひれ伏す日本のメディア 
  マーチン・ファクラ-
  双葉社、1080円 2016年2月
Kc4a10910001
「今日本はアメリカが辿った”暗い未来”へと突き進んでいる」
 世界から見たABE JYAPANの危うい正体。
 右傾化する政権、監視国家化、ネトウヨ・・・
 権力からの「圧力」に屈し、なすべき批判を放棄する大手メディア
 日本取材歴20年のニューヨーク・タイムズ
 前東京支局長が決意の告白
 政府から得る情報でなければ、報道する価値はない。外務省が発表しないニュースは、ノータッチですませてしまう。メディアが政府から完全にコントロールされている現在の日本のジャーナリズムは、およそ健全ではない。p6
目次
第1章 安倍政権のメディア・コントロール
第2章 メディアの自壊
第3章 ネット右翼と安倍政権
第4章 権力VS調査報道
第5章 失われる自由
第6章 不確かな未来
 筆者はニューヨーク・タイムズ前東京支局長、安倍政権のメディア・コントロールは実に巧妙である、ということを示した。安倍首相みづからが大手テレビ局幹部や新聞社幹部と頻繁に会食し、戦略的に懇親会を利用している。アメとムチをドライに使い分けメディアを制圧している。安倍政権にコントロールされっぱなしの日本のメディアに、著者は強い危機感を示している。朝日新聞はおとなしくなった。
5、「日本会議の全貌」 
 俵義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
 祥伝社、1200円+税 2016年6月15日
Kc4a10900001
 本の表紙の写真にある通り、「安倍政権を支える極右組織」
 「知られざる巨大組織の実態」とあります。
 設立経過とその後の諸活動、今進めている1千万署名などの改憲運動、安倍政権の教育「改革」とのかかわり、日本会議の中央と地方組織との組織状況、内閣・自民党・国会議員と日本会議との関係などが詳しい。
 著者は子どもと教科書全国ネット21事務局局長、立正大非常勤講師
目次
第1章 日本会議設立までの歴史
第2章 日本会議と日本会議国会議員懇談会の結成
第3章 教育の国家統制を推進する「教育改革」
第4章 草の根保守運動
第5章 日本会議が取り組む改憲以外の「重点課題」
第6章 安倍政権を支える右翼議員連盟と右翼組織
その他新しいものとして
安倍を支える女性大臣・党役員 p106
 第二次安倍政権では、5人の女性議員を大臣に起用し政調会長に稲田朋美を任命。
 高市早苗、山谷えり子、有村治子、稲田朋美の4人は安倍首相のお仲間の極右政治家である。
◎神道政治連盟は参議院選挙において、2010年、2016年に山谷ゆり子を、2013年に有村治子を推薦議員とした
 巻末の史料はたいへん詳しく有益である。
巻末に資料7として、「議連所属議員名簿」として、「日本会議」、「神政連国会議員懇談会」、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」さらに、創生「日本」に参加する議員の一覧表がある。
「創生『日本』」は自民党、維新の会、無所属議員などで2007年に設立。
現会長、安倍晋三、代行、中曽根弘文、最高顧問、平沼赳夫など、一時活動を休止していたが、最近活動を再開。議員数約70名。
 自民党議員の中で、その4つの組織どちらにも参加していないのは、衆参合わせ3名のみしかいない。驚くべき状態である。
 民進党は、そのどれかに参加の議員、29名。大阪維新の会16人.その他無所属など17名。
「日本会議と神社本庁」 成澤宗男編著、島薗進、鈴木邦男、山口智美
 「週刊金曜日」 1000円、2016年6月28日
 日本会議と神社本庁との関係や、戦後の神社と国家のとの関係、宗教と国家の関係のあり方などなどに焦点を当てている。
「国家神道」 村上重良 2007年6月30日 
 岩波新書
「国家神道と日本人」 島薗進 2010年7月21日
 岩波新書
(本の説明)
6、「日本会議 戦前回帰への情念」 
 山崎正弘 戦史・紛争史研究家、上智大学特任教授
   集英社新書  820円 2016年7月20日
帯封
安倍政権と日本会議はなぜ「日本国憲法」を憎むのか。
島薗 進氏推薦
 安倍政権を支える日本会議の思想と価値観を鋭く分析した好著
内田 樹氏推薦
 独創的な思想も組織的実力も持たない少数者たちが、私たちの眼に触れぬままに、気づけば現実の政治を動かしているという事実に慄然とする。
はじめに―大河ドラマ「花燃ゆ」と日本会議の副会長
 「花燃ゆ」の事実上の主役小田村伊之助は日本会議の副会長、小田村四郎の曽祖父にあたる。長州中心で、安倍首相とのつながりも強い。ドラマの筋書きも史実と変えている。
(日本会議に)光を当てる地方紙・週刊誌・ネット言論と、光を当てない大手メディア(大手新聞とテレビ)安倍政権と日本会議の関係を「見て見ぬふり」する大手新聞とテレビ
 第2次安倍政権の発足時から関係を見抜いていた海外メディア
第1章
安倍政権と日本会議のつながり―占領された内閣
第2章
日本会議の「肉体」-人脈と組織の系譜
第3章
日本会議の「精神」-戦前・戦中を手本とする価値観
第4章
安倍政権がめざす方向性―教育・家族・歴史認識・靖国神社
第5章
日本会議はなぜ「日本国憲法」を憎むのか―改憲への情念
 重なり合う「日本会議」と「神道政治連盟」の議員たち、p26
安倍政権を支える「日本会議」と「神道政治連盟」
 「神道政治連盟国会議員懇談会」安倍首相みづからが会長を務める。
 2016年6月、閣僚20人のうち17人がこの懇談会に所属。(2016年の参院選後の内閣は公明党出身の議員を除き100% -ブログ筆者)
 日本会議と神道政治連盟はお互いの団体が推進.肯定するもので、活動方針において特に対立するような路線は見られません。
 中国の軍事的脅威をアピールする安倍政権と日本会議
 昭和天皇は、東条らA級戦犯を靖国神社に合祀してから、不快感を示し参拝していない。
 昭和天皇はマッカーサーに「自分の命はどうなってもいい」と伝えたとの説があります。
天皇に空前絶後の恐怖と屈辱を味あわせた最大の責任者は、対米英開戦時の首相であった東条英機だということになります。ところが、日本会議の指導者や論客は誰一人として、そのような観点から戦争指導部を東条や当時の戦争指導部を批判したりしません。
それどころか、東条を戦犯として裁いた東京裁判を不当だと声高に叫び東条を靖国神社に祀ることに何の疑問を抱いていません。日本会議ではアジアを開放するもので、前の戦争を正しいといっていますp100
 日本の戦争が侵略だったという立場を、東京裁判史観と。レッテルを張って全否定
安倍首相と日本会議が日本国憲法に示す「敵意」と「憎悪」の背景
 戦後日本の悪いところは全部「日本国憲法」のせいp189
 理論上は再び『大東亜戦争』を行える改憲案 p206
集会・表現の自由への制限と教育への介入、緊急事態条項 p212
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7、「日本会議の正体」
 
 青木 理(おさむ)ジャーナリスト 前出 これも新しい本
   平凡社新書 864円 2016年7月8日刊、8月2日3刷
 安倍政権と響きあうように運動を展開する、日本最大の”草の根右派組織”
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第1章 日本会議の現在
第2章 もうひとつの学生運動と生長の家
第3章 くすぶる戦前への回帰願望―日本会議と神道
第4章 ”草の根運動”の軌跡
第5章 安倍政権との共振、その実相
 神社神道の頂点に君臨する神社本庁はみづからも神道政治連盟を結成して保守政界を支援していて、神政連の訴えの呼応する国会議員懇談会も置かれている。神政連によれば神政連国会議員国会議員懇談会メンバーの総数は衆参両院合わせて304人。~政権そのものが神政連と一体化しているいっても過言ではない状況である。~戦前体制への回帰願望が如実に刻まれていると評されるのも無理はない。p126
 2015年11月10日の日本武道館で、1万人が集まり「今こそ憲法改正を!1万人大会。
安倍首相がビデオメッセージ、「憲法をみづからの手でつくりあげる。その精神を日本全体に広めていくために、今後ともご尽力いただきたい」首相は憲法を守る義務がある。だから自民党総裁として行う。
◎前に書いたように、2016年の内閣改造で、公明党からの大臣を除き、すべて神政連の議員である。
島薗進・東大名誉教授、上智大教授 宗教学の泰斗に聞くp243
―日本会議の現状
「かっては”危ない勢力と認識されていたのが、いまや立派に見えてしまっている。これは驚くべきことです」
「(日本会議)は、非常に危ういと思います。神道指令を否定し、政教分離も踏みにじるわけだから、これは戦前回帰だと受け止められてもしかたがない」
「私なりの結論を一言で言えば、戦後民主主義体制を死滅に追い込みかねない悪性ウイルスのようなものではないかと思っている」
 このままいけば、近代民主主義の原則すら死滅してしまいかねない。
関連年表 p258から 一部追加あり
1964 生長の家政治連盟結成
1969 全国学協 鈴木邦男委員長、しかし安藤巌書記長と意見対立鈴木委員長辞任
     神道政治連盟結成
1974 日本を守る会結成
1981 日本を守る国民会議結成
1983 生長の家政治連合、活動停止を宣言
1995 新憲法研究会結成
1997 日本会議結成
     日本会議国会議員懇談会設立 平沼赳夫会長
1999 国旗、国歌法成立
2002 夫婦別姓に反対する国会議員署名が117名
2004 日本会議経済同志会設立
2006 「皇室の伝統を守る1万人大会」
     「教育基本法改正国民署名362万人
     教育基本法全面改正
2007 日本地方議員連盟 1700人
2010 夫婦別姓外国人参政権法案反対運動
2012 「女性宮家」創設の動きに対し、皇室の伝統を守る国民運動を展開
2013 日本会議全国代表者大会。憲法改正へ本格的国民運動開始
2014 「美しい日本の憲法をつくる国民の会」設立
2015 安保法案成立
 
◎整理をしないまま、単純に本を追加で買い、資料を追加していますので全く整理されておらず、申し訳ありません。
ブログを読んで、興味をお持ちの方は、直接本をお読みください。

2016年8月10日 (水)

ウエスティンホテル東京のランチを食べてきました ホテル御三家

 2016年8月9日,火曜日のお出かけの日に、ウエスティンホテル東京インターナショナルビュッフェのザ、テラスに行ってきました。実は前に行ったのですが、従来どうりに、ヘルパーの斉藤さんに午後1時に来てもらって、そのあとにウエスティンホテルまで行くと2時になってしまい,2時半までにビュッフェを出なければいけないということで、断念しました。
 今回は、斉藤さんに1時間早く12時に来てもらうことにしました暑い日でした。。
 自宅から駅まで25分余り、電車は恵比寿まで、恵比寿からウエスティンホテルまでで1時間ほどです。以前はホテルから自宅まで、タクシーで帰りましたが、明治通りが込み、結構時間がかかりました。
ホテル御三家について
 格式あるホテルとして、帝国ホテル、ホテルオークラ東京、ホテルニューオータニを元祖御三家といいます。その後、パークハイアットホテル東京(1994年178室)、ウエスティンホテル東京(1994年、438室)、ホテル椿山荘東京(前はフォーシーズンズホテル、1992,259室)を新御三家といいます。その後21世紀となると、高級ホテルが次々にでき、ザ、ペニンシュラホテル東京、マンダリンホテル東京、ザ、リッツカールトンを新御三家にする人とコンラッド東京とグランドハイアット東京を加える人もあります。グラウンドハイアットは六本木ヒルズの一角にあり、森ビル系列です。ハイアットは他に以前はセンチュリー・ハイアットといっていたのが今ではハイアット・リージェンシーとなっています。新宿新都心にパークハイアットのそばにあります。
 パークハイアット東京は東京ガス系列のホテルで、以前筆者はクラブオンザパークというスポーツクラブのメンバーに10数年間なっていましたし、距離も自宅から近いので、よく行っていました。40階以上(60階まで)のところにホテルがあり、見晴らしはすばらしいものでした。フィットネスクラブ、プール、サウナ、マッサージ室などがあります。プールサイドで簡単な食事もできました。
 いまでも最上階のニューヨークグリルへは、頻繁にいっています。(以前ブログにも書きました)
 ウエスティンホテル(The Westin tokyo)は、以前韓国に行ったときに泊まったホテルで、いいホテルだなと思っていました。異業者交流会、二火会で2階の和食レストラン、舞に行ったこともあります。2階には他に広東料理、龍天門のレストランがあります。それで、ニューヨークグリルと同じようなビュッフェスタイルの、ウエスティンホテル1階の、インターナショナルビュッフェ、ザ・テラスに行ってみようと思っていました。1階にはほかにロビー・ラウンジ、とザ・バーがあります。メインレストランは22階にフレンチレストラン、ビクターズと鉄板焼き、恵比寿のところがあります。22階にはスカイラウンジ、コンパスパローズがあります。
 ニューヨークグリルもウエスティンホテルもともにランチ・ビュッフェは税込み5000円です。飲み物は別料金です。ニューヨークグリルはメインはビーフ、ポーク、カモ、パスタなどのメインを選びました。ビーフはオーストラリアビーフは追加料金なし、一番高い松阪牛は2万数千円+となります。
 ウエスティンホテルはそういう選別はありません.メイン料理を選ぶということがないのです。ザ・テラス、03-5423-7778
 ランチ・ビュッフェ 11時半から14時30分まで、4300円+税
       土日12時から16時まで、5300円+税
 グランドデザートビュッフェは3時から5時まで、3500円+税
 ディナー・ビュッフェは平日が6時から、5800円+税
   土日が5時からで、7100円+税です。
 いずれも、お子様料金があります
 
ウエスティンホテルで
 12時少したって、ホテルに向かいました。マンションから高田馬場駅まで車いすで、後電車で恵比寿駅まで、それから延々車いすでウエスティンホテルまで行きます。ホテルには1時ころつきました。インターナショナルビュッフェ・ザ・テラスはホテル1階の入り口近くにあります。レストランは満員でした。女性が9割がたをしめ、子供連れも何組かいました。レストランは外の景色がよく見える庭につながっています。
 
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このテーブルにメインの料理のお皿が並んでいます。奥がケーキ類、アイスクリームなどのの場所です。
 
 
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真ん中の三角形した入れ物に入っているのは、チキンカレーでした。とても、おいしかったです。カレーの左はミートソースのパスタ。右側に2種類のスープ。
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少しづついろいろなものをお皿にとりました。パンはもってきてくれます。チョコチップ入りでした。
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ここはサラダ、フルーツががいろいろありました。このコーナーは食べ終わるまで気が付きませんでした。もうおなかいっぱいで食べられません。
 ブッフェ方式ですがレストランの従業員は多く、サービスは十分です。
 食事時間は1時間ほど後、ここが閉まるまで30分ほどあります。われわれが帰るとき、まだお客さんは一杯でした。そのあとティ―タイムで夕方からはまたレストランになります。
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ビュッフェの隣のウエスティンデリでケーキ類を売っています。お土産にフルーツパウンドケーキを買いました。
◎エビスガーデンプレースは、病気後3回、行っています。はじめは恵比寿ビールの専用のビアホールで食事をしました。2回目は、ウエスティンホテルへ行きましたが、時間が遅く入るのをやめました。3回目にウエスティンホテルへ。
 エビスガーデンプレースはほとんど、渋谷区恵比寿なのに、ウエスティンホテルあたりから目黒区三田になります。
 

2016年8月 6日 (土)

近況、恐怖?番組2本、アクセス急増、2、小説をブログに、不備多し、3、体調がいまいち、ブログも不調

近  況
1、恐怖?番組2本(放送)、アクセス急増
 2016年8月3日、TBSは年2回放送する2時間番組の「世界の怖い夜」シリーズの夏版を放送しました。その番組より1時間早く、テレビ東京で、「真夏の恐怖映像53連発」という3時間番組を放送しました。このような、見え見えのやらせ番組に対して、ひどいやらせ番組だと書いたのですが,他のブログでもかなり批判的に見ている人は多いのです。真っ暗な中で、出川さんが、前を急に走るものがあったとき、霊能師とやらは霊がとか言っていますが、ブログのコメントではネズミじゃないの、、、などと言っている人が多いのです。
 2013年7月に書いた、「TBS,世界の怖い夜、またもおそまつ絶叫~」は検索上位にあるために、同様な番組があるたびにアクセスが増えます。今回も8月5日までで720ほどあります。他の似たようなブログのアクセスは全部で100ほどでした。
追記:
 8月10日にアクセス累計が130万件となりました。[TBS世界の怖い夜」は8月1日から11日で1000件を超えました。
2、小説「第五倫伝」をブログに、まだ不備多い
 小説「第五倫伝」と題名を変えて、ブログに書き始めました。2章を1章に変え1章と2章の一部を2章に変えました。ようやく1章が転記し終わりました。2章のはじめはもう書いてあります。
 一応書きあがった小説は本文A4判で323ページ。目次他資料が約40ページあります。
そのうち今回ブログに書いたのは22ページ分です。ともかく積み重ね積み重ねで膨大になってしまいまいた。ブログでは目次を書きましたが、本文は7章と終章まで、あります。これからは1,2章の王莽時代のだぶった部分を整理し、自分でも面白く書けたなと思うところを、とびとびにブログで紹介します。
3、体調がいまいち、ブログも不調
 7月22日に「リハビリ進む、1年半後に自宅に帰れるように」というブログを書きました。非常に順調に物事が進んでいるように書きましたが、その後油断からベッドから食卓までの間を杖で歩いているのですが、椅子に腰を掛けるときに十分深く腰掛けなかったためにイスから滑り落ちてしりもちをついてしまいました。大したことはなかったのですがやはり腰に響いたのかリハビリで歩くのがちょっと万全ではありませんでした。今日、8月6日には、食卓までのわずかの間で、バランスを崩し、初めて転んでしまいました。後ろに崩れ落ちるような形なので頭などには影響がありませんが、左の腰と脇腹にかけて、少し痛めたようで、動かすと痛く、貼り薬をはっています。
 退院してから2年半、一度も歩いていて、転んだことがなかったのが、転んでしまい。ちょっとショックです。慎重さが少し欠けてきたのかもしれません。転んで頭を打ち亡くなった父を見ていますから慎重に歩いていたのですが。
 一時期風邪を引いて、鼻が詰まりやすくなり、点鼻薬を多めに使い。余計詰まりやすいのかもしれません。鼻が詰まっていると頭がもやもやします。
 眼底出血を起こしている左目も、前より見にくく本を読んだりパソコンを使うときは左目をつぶって、右目だけを使います。メガネのレンズの度も合わなくなっています。リハビリで歩いているとき、通路や道を見ながら歩いていると、くらくらした感じになってきます。
 
4、冷蔵庫の位置を変えました。本が多く置けるようになりました。
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右に冷蔵庫が写っています。前はベッドにくっついておいてありました。
 今まで、医療用のベッドの隣に冷蔵庫を置いていました、台所に大きな冷蔵庫はあるのですが、飲み物や冷凍のお弁当やほかの食べ物を車いすから出しやすいようにベッドのそばにも置きました。ところが冷蔵庫は結構発熱し、夏場の夜は室温がかなり上がってしまいます。 それで、ベッドから離して取り付けなおししました。その冷蔵庫の置いてあった場所にカラーボックスを置いて本を入れました。しかしベッドから離してもあまり影響がないようです。エアコンを26度か27度にして微風でつけていても、枕元に置いてある温度計が29度にもなってしまいます。マンションが東向きなので朝陽をもろに受けてしまうのです。
 本は人間学研究所から2000冊をもってきて作り付けの本棚に入れましたが、その部屋は家内の部屋で、取りに行きにくいのです。ほとんど利用していません。
 電動車いすになってから高田馬場駅近くの芳林堂でいろいろ本を買ってきましたが、十分読んでいません。その内容をブログで紹介もしなくなっています。本を横積みにし物の陰において、とりにくかったりですが、今度は取りやすくなります。おいおいに紹介していきましょう。

佐竹幸一の講演記録 (2)2005年4月~1992年4月 修正版

◎概略で60回ほどです、読売市民講座などで話したのは除く

2005年4月以前 1992年~

第5回 人間学オープンセミナー

            2004年12月 「神秘主義と人間学」

2004年2月 新教育人間学部会できる

第1回実用的部会 2003年8月 「ゼネラリスト養成講座について」

旅と人生文学会 2003年4月「王充の墓を訪ねて」 湯沢町公民館にて

第1回 実用的人間学 2003年8月 「ゼネラリスト養成講座について」

2003年8月 第1回実用的人間学部会始まる

第6回人間学講座 2002年12月「占いとは何かあたるのか」

第1回人間学講座 2002年5月

2002年11月 総合人間学研究会できる

第5回実用的部会 2001年10月 「人相手相術と占い」

第5回セミナー2001年8月 「大久保の町探検訪問」2

第4回セミナー 2001年7月 「比較リーダーシップ論」

第2回セミナー 2001年5月 「大久保の街探訪」

第1回セミナー 2001年4月 「面白、人生・経営人間学」

第一回人生・経営人間学セミナー (セミナーと略)

第14回実用的部会 2000年10月 「上海、紹興、上虞旅行報告」

第8回実用的部会 2000年2月 「後漢時代と王充」

第3回実用的部会 1999年7月 「比較人生論」

実用的人間学部会 以上から

第1回 土曜セミナー 2000年6月  唾液健康法

1999年4月に 人間学研究所準備室から人間学研究所

          設立されました。

1999年5月より、教育人間学部会と、実用的人間学部会が発足

          しました。

第64回 実用的 1999年3月 「人間に関するゼネラリストか可能か」 

    (*今回が実用的人間学研究会としては最終の例会でした)

第61回 実用的 1998年11月 「宮城谷昌光における人間学」2

第52回 実用的 1998年1月  「健康法について考える」

第50回 実用的 1997年11月 「実用的人間学の今後について」

第49回 実用的 1997年10月 「死について考える」

第46回 実用的 1997年7月  「遅咲きの人間学」                    

            ・北条早雲、毛利元就、徳川家康、伊能忠敬

第42回 実用的 1997年3月  「人間学いろいろ」

第40回 実用的 1997年1月  「実用的人相術」

第37回 実用的 1996年10月 「最近の人間学の動きと船井グループ」

第35回 実用的 1996年8月 「自分を知るとは」

第32回 実用的 1996年3月 「宮城谷昌光における人間学」

第31回 実用的 1996年1月 「顔の人間学」より カント

第28回 実用的 1995年9月 「船井由紀夫の人間学」

第27回 実用的 1995年8月 「人間学の応用について」

第24回 実用的 1995年4月 「星占いの原理と終末思想」

第22回 実用的 1995年2月 「科学と宗教の人間学」

第19回 実用的 1994年11月 「日本人はどこから来たか」

第18回 実用的 1994年10月 「三国志の人間学Ⅲ」

第17回 実用的 1994年9月 「三国志の人間学Ⅱ」

第16回 実用的 1994年8月 「三国志の人間学Ⅰ」

第15回 実用的 1994年7月 「人間とは何か」2

第14回 実用的 1994年6月 「人間とは何か」1

ライフコーディネイト入門 

           1994年6月 1、人間とは何だろう」

                   2、生きることとは 幸福について

                   3、人生とは何だろう」

                  いづれも 小川公民館にて

第12回 実用的 1994年4月 「会社経営に人間学をどう活かすか」

第11回 実用的 1994年3月 「病気の人間学」

第10回 実用的 1994年2月 「思想としての人間学」

第7回 実用的 1993年11月 「戦争の人間学」

第6回 実用的 1993年10月 「超能力の人間学」

第3回 実用的 1993年6月 「精力と健康の人間学」

第2回 実用的 1993年5月 「信長、秀吉、家康の人間学」

第1回 実用的人間学研究会例会は、1993年4月からスタートしました。

実用的人間学研究会 以上 (場所 人間学研究所準備室)

  1993年9月 人間サロン開設 31回開催

  1996年   人間サロンと実用的人間学研究会が合同

実用的人間学講座 1993年1月から6月 全12回 読売市民大学

   「顔と身体と心の人間学ー自分を人間を知ろう」

             読売文化センター京葉にて

小川公民館 高齢者講座

   「人相術と手相術を学ぶ」1993年5月から9月 全12回

             小川公民館にて

第12回 1993年3月 「人間はいかに生きたらいいのか?

              人間学と宗教の対比

第11回 1993年2月 「人間はどう見られてきたか」

              人間学史から

第10回 1993年1月 「人間と社会そして人類の未来」

第9回  1992年12月 「歴史上の人物から学ぶ」

               歴史人間学および経営人間学

第8回  1992年11月 「人間と自然、および環境問題について」

               人間と自然、社会とのかかわり

第7回 1992年10月  「人間の成長と教育」

               教育人間学から

第6回 1992年9月   「人間の心は外からわかるのか?」

               観相人間学

第5回 1992年8月   「人間の身体のしくみとそのコントロール」

               人体の生理、ヨガ、気功についても

第4回 1992年7月   「人間の心と其のコントロール」

               心理学、精神医学から

第3回 1992年6月   「脳の働きと心について」

               大脳性医学からみた人の心

第2回 1992年5月   「人間とサルはどう違うのか?」

               人類の起源、そしてサル学にもとづき

第1回 1992年4月   「生きているとはどういうことか?」

               現代生物学の成果をもとに

人間学セミナー   以上 人間学研究所準備室にて

1991年9月 市民企画教育講座 「子供の自立ってなあに」

       第1回「子育ての人間学」 東大和市立蔵敷公民館

1991年4月 第2サタケビル完成 人間学研究所準備室できる

  第三次人間学研究会発足

        会長小原秀雄 副会長 柴田義松、佐竹幸一

        事務局長 岩城正夫

 人間学セミナーは、人間全般にわたって、佐竹が一人で話をしたものです。

 人間に関して全般を話すために自分自身の良い勉強になりました。

 これらの話は、すべてかなり詳しい資料がそれぞれのテーマごとに複数あります。資料を読んだだけであわかるように詳しく書くようにしました。

◎これ以前も話をしておりますが。古いものは後日と言うことにします。また人間サロン等で話した内容は後で付記いたします。

◎ 2005年5月以降の講演内容は、その1をご覧ください。

 

人間学研究所

 169-0073 新宿区百人町1-3-17 佐竹ビル3階

   pcr92240@nifty.com  

       お問い合わせは 佐竹幸一 090-6549-2677           

 

佐竹幸一の講演記録 (1) 2016年5月~2005年5月 追記版

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人間学研究所の研修室の一部です、書物は約1万冊そろっています。

実用的人間学研究会ができてから以後のみ

 佐竹は、自分の提唱する実用的人間学に基づいて、「人間に関するゼネラリスト」を目指し、人間に関しては、総合的に研究することを目指しました。その意味で様々な分野について積極的に、人間学研究所の例会で講師として話をしてきました。

 実際には1963年に生物科の学生組織で人間学分科会をつくって以後、数多くのお話を例会でお話ししてきました。これについては改めてブログに書くことにします。

 ここでは2005年5月の、「実用的人間学セミナー」のスタート以後についてだけ書くことにしました。そのほかに、とくに1999年の人間学研究所の設立以来、継続的に例会でお話ししています。お話しした場所は総合人間学会での話のほかはすべて人間学研究所です。

 「実用的」は実用的人間学研究会の略 「教育」は、新教育人間学部会

 「準備会」は実用的人間学研究会準備会 「セミナー」は実用的人間学セミナー

2016年

10月11日 二火会にて、「どこまで人間とみるか」ヨーロッパ人と先住民 他

 5月19日 合同例会(実用的83回、人間学研123回)

       講演回数 約66回 2005年以後分のみ

      (それ以前は60回プラス計130回ほどになります)

       「どこまで人間と見るか」その2

       西戸山タワーホームズ集会室

2015年

 10月 合同例会 「ネアンデルタール人などと私たち人間」

     実用的人間学研究会77回、人間学研究所第117回例会

     西戸山タワーホームズ集会室 参加者17名

 4月 合同例会「こういちの人間学ブログ」について

2014年

 11月 4月合同例会

     「視床出血1年が経過して―過去現在未来について」

2013年

 10月 第58回実用的 「食の危機と多国籍企業」

 6月 第95回新教育人間学部会 「長生きには肉を食

             べるな、など健康法比較」

 5月 第94回新教育人間学部会 「2011年原発事故2年

            今福島は」視察報告  共同で

 5月 第54回 実用的 上記と同じテーマ 共同

 3月 第52回実用的 「お金についていろいろ、日本の

            戦争と硬貨、ほか」

2012年

 9月 第46回実用的「世界の99%を貧困にする経済」

 7月 第45回実用的「日本=百済説について」

 6月 第44回実用的 「原発のウソ」その2

 5月 総合人間学会「人間学研究会、人間学研究所の歴史

             と実用的人間学」

 5月 第43回実用的 「大久保の街 探訪」

 3月 第81回教育   「原子力発電所事故と諸問題」

 2月 第40回実用的  「美人について」

2011年

 10月第37回実用的 「日本人の顔とルーツいろいろ」

 9月第36回実用的 「いい顔とはどのようなものか」

 5月第33回実用的 「二酸化炭素地球温暖化説と原発問題」

 2月 第71回教育 「人間学と人間科学の現状」

 1月 第30回実用的 「カウンセリングについて」

2010年

 12月 第29回実用的 「スピリチュアルな生き方か

 11月 第28回実用的 「ベトナムマレーシア旅行」

 9月 第26回実用的 「役に立つ、格言名言」

 5月 第23回実用的 「気温の変化と人間の歴史」

 1月 第20回実用的 「超能力とは何かーあるものなのか」

2009年

 12月 第19回実用的 「実用的人間学式お悩み相談」

 11月 第18回実用的 「大久保の街探訪」

 10月 第17回実用的 「ブッダとキリストと宗教」

 9月 第16回実用的 「韓国の歴史ドラマについて」

 7月 第15回実用的 「血液型人間学について」

 6月 第54回教育  「人間学いろいろ」

 6月 第14回実用的 「後漢初期の永平の治とは」

 4月 第12回実用的 「どこまで人間と見るか」

 3月 第11回実用的 「健康状態を人相から判断する」2

 2月 第10回実用的 「健康状態を人相から判断する」1

 1月 第9回実用的  「実用的人間学式健康法」

2008年

10月 第6回実用的 「河合隼雄のこころの処方箋に学ぶ」2

10月 第46回教育 「人間学とは何かー人間学と名のつく

              書物の整理を終えて」

 9月 第5回実用的 「河合隼雄のこころの処方箋に学ぶ」1

 7月 第4回実用的 「実用的人間学式テスト試案」2

 6月 第3回実用的 「実用的人間学式テスト試案」1

 (第1回実用的人間学研究会は4月女子栄養大学松柏軒にて開催)

実用的人間学研究会始まる

 3月 第10回準備会 「手相術について」

 2月 第9回準備会 「ゼネラリスト養成講座 今後の構想」

 1月 第8回準備会 「エスニックの街、大久保探訪」

 

2007年

 9月 第4回準備会 「カウンセリング教室に学んで」

 7月 第3回準備会 「人間関係の改善について」2

 6月 第2回準備会 「人間関係の改善について」1

 5月 第1回準備会 「実用的人間学セミナーと準備会について」

実用的人間学研究会準備会始まる

 4月 第10回セミナー 「今後のセミナー、修了式」

 2月 第8回 セミナー 「うつ病の人間学」

 1月 第7回 セミナー 「おみくじについて」

2006年

 11月 第5回 セミナー 「後漢初期の人間学」

 10月 第4回 セミナー 「実用的人間学的な生き方とは」

 10月 第28回 教育   「小泉政治がもたらしたもの」

 7月 第3回 セミナー  「宗教的信仰と科学的信念」

第二期実用的人間学セミナー 第1回 6月スタート

 4月 第11回 セミナー  「人間と社会」

 3月 第10回 セミナー  「宗教と死の人間学」

 2月 第9回 セミナー   「人間とは何か」

 1月 第8回 セミナー   「生き方の人間学」その2

2005年

 12月 第7回 セミナー  「生き方の人間学」その1人生論

 11月 第6回 セミナー  「人間の心をさぐる」

                  ーカウンセリングとコーチング

 10月 第5回 セミナー 「占いの人間学」

 9月 第4回 セミナー  「身振り、しぐさの人間学」

 7月 第3回 セミナー  「人相術手相術」自分を判定する

 6月 第2回 セミナー  「人相術手相術」基礎編

 5月 第1回 セミナー  「健康法の人間学」

実用的人間学セミナー開始

 ★ それぞれの例会での、講演資料は、すべて、人間学研究所に複数保管してあります。お話しした内容は、「こういちの人間学ブログ」にいろいろな形で書かれております。興味をお持ちになり、資料ご希望の方、並びに講演会等でこのテーマで話してほしい、などがありましたら、人間学研究所事務局長、佐竹幸一までご連絡ください。

◎ 2005年5月以前の内容は佐竹幸一の講演記録(2)に書かれております。 

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2013/08/2005419924-1602.html

    人間学研究所

     東京都新宿区百人町1ー3-17 佐竹ビル3階

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                       佐竹幸一 090-6549-2677

 

 

 

2016年8月 4日 (木)

,「第五倫伝」 第1章 第五倫の生い立ち (6)

「第五倫伝」 第1章 第五倫のおいたち (6)
 第五倫は14歳の時に、父とそして郎党の者たちは、ほとんど襲ってきた賊のために殺された。父親はすでに手はずしてあったように子どもや女性をうまく賊の手から逃れさせた。
 すでに老人であった李秀と倫が母親と二人の弟、そのほかの子どもたちや女性たちと、2,3日待って隠れ場所から家に戻ると、父や兄や郎党の死がいが横たわっており、家は燃え尽き、食料や財物は奪われていた。
 焼け落ちた屋敷の前で、第五倫たちはその有様に呆然とした。
しばらくの放心状態の後、倫は自分こそが一族の長として、ここでがんばらねばと深く決意した。涙をこらえ、遺体をほおむり、焼け跡を整理し、隠してあったわずかな食料や物をもってきて、さっそく再建にとりかかることにした。
 涙にくれる、母や弟たちの前で、第五倫は、
「父や、兄は命をかけて私たちをまもってくれた。わたしも胸が張り裂けそうにつらいが、でも、厳しい中、少しでも長く生き延びることがことが、父さんや兄さんに対して、私たちができることだ。何とか頑張って生き延びよう」
 ー今度は、攻めにくいように頑丈な砦をきずこう。弓や武術の腕を磨こう。
第五倫は早くも一家の長として母の王麗や弟たちのみならず、兄の子たちなど、一族の故事や外孫を養うことにした。
 第五倫は弟の雄とともに砦(営保 )にふさわしいところを探した。このころのあり様は、人々はまばらで、耕作されていない荒れ果てた畑や、家の焼け跡、崩れかかった無人の家があちらこちらにあるじょうきょうであった。2人の兄弟は後ろがけわしい崖で、前に平地があり、近くに小さな川や池があるところに目を付けた。
 第五倫は,
「ここはすばらしいところだ、ここに営保をつくれば敵も、敵には攻めにくいだろう」
「ほんとうに、ここはいい場所ですね」弟もうなずいた。
 早速、一族と、周りの生き残りの家族は全員掘っ立て小屋を作り、営保づくりに取り掛かった。まず、池から水を引けるように穴を掘っていった。そして砦の前に堀を作るためにほりさげていった。そして掘った土を固めて土塁を作った。要所には石を積み上げた。土塁の上には人が通れるようにし、矢を射れるようにした。砦の中には家を作ったが、火矢に耐えられるように土壁にした。木で高い望楼を作り、敵襲を常に監視できるようにした。
 人々は再び敵襲がある前に、空腹をこらえながら必死に働いた。
砦を作るうちに、他の襲われた人で生き残った人達も次第に第五倫を頼ってきた。
 そして、何度も毎日食べるものがなく、餓死寸前になっても、草の根を掘り起こし、木の皮を食べ、昆虫や野ネズミを食べ、池の中の食べ物を探し、乏しい食糧を分かちい生死を共にした。
 ある秋の素晴らしく晴れ上がった日、とうとう砦が完成した。
みんなが見守る中で池の水をせき止めていた堰を外した。勢いよく、水は流れ、とりでの前になみなみと水をたたえた、堀が出来上がった。
 一斉に、わー、という歓声が上がった。みんなはよくこれだけのものを作ったと、感激し、乏しい食べ物を出し合いお祝いをした。もうこれで、賊が攻めてきても大丈夫だ。
 砦ができてから、とりでの周辺で畑を耕し、家畜を飼い、しだいに生活が安定するように努力した。
 その一方で、幼いころから、倫は田氏のころから代々伝わる書物を読み、独学し、儒学はもとより、黄老の教え(道教)や、諸学に通じた。この書物は敵がおそってきても大丈夫なところに隠しておいたのである。
 しかし、第五倫の学問はすべて実用的な物であった。文学的な素養を身に着ける余裕もなかったし、あまり好きでもなかったので、後世、それを重視する人々にとっては、教養がないと軽蔑するものがあった。
 また、学問だけではなく、ことあるごとに必死に体を鍛え、武術特に弓術に励んだ。その結果、弓の腕はあがり、先祖伝来の田氏(元斉王)の弓を弾けるようになった。そして百発百中の腕になっていった。弟には弩を学ばせた。その腕も素晴らしく上がり、きわめて強い弩を使えるようになっていた。他の者たちも身を守るためのいろいろな武術で鍛えさせた。そして第五倫は十数歳にしてすでに立派な、一族の長の役割を果たしたのである。そしてさらに営保(砦)も堅固にしていった。
 営保を中心として、その、一致団結して難行を乗り越える努力に、郷里の人々は敬服し、若いけれども賢人であると称賛した。
倫は若いころから、狷介(けんかい―節操が堅く、人に屈しない気骨がある)で、義侠のふるまいがおおかった。弱い人や苦しんでいる人を見ると、涙もろく、すぐ涙が出てしまい、恥ずかしくてひそかに手で涙をぬぐうことがあった。自分が苦しくとも必死に助けてしまうことが多かった。また不正な行いを無視していることはできなかった。これは若くして亡くなった父親や、母親の王麗の影響が大きかった。王麗もまたまがったことは大嫌い。また貧しい人や困っている人を見ると、ほおってはおけないのであった。また、人を苦しめるものに対し、断固、弱い者の立場に立って争った。
 倫はその性質を「愨」(こく―慎むとかまことという意味)といわれる。これは心が胡桃の殻のように、堅いということである。生真面目で、義理堅く、一面頑固でかたくるしいところもあった。また、「修行清白」で「峻直」(しゅんちょく)であると。人間として君子としてかくあるべしという、儒教精神に基づく姿勢を貫き通した。しかし、反面、いささかせんさくづきで、融通が効かず、気の短いところがあり、怒りっぽく、時に激発することがあった。
 『後漢書』を書いた范ようは「第五倫伝」の巻末の論にいう。第五倫は愷てい(詩経に言われるのゆったりと和らぎを楽しむこと)の君子ではないと。すなわち、もともとは大変気が短くせっかちで、物事をいい加減にせず、厳しく物事の筋を通そうとするという性格であった。
 しかし第五倫が書いた上奏文を読むと、いかにも親切ていねいで、寛大な気持ちが満ち溢れている。基本的に、人々へのやさしさが、基本であったのだろう。またそれ故にこそ、弱者や庶民を痛めつけるものには容赦なく接したのであろう。
母の王麗も、
「そこは、そなたの一番悪いところです。なおすように気をつけねばなりませんよ」
と、常々言い聞かせていた。
 そして第五倫も自分の短所に気づいていた。何度も、感情的になり激発し、すぐにしまったと、後で後悔することがおおかったからである。
 王麗はある日。
「昔、人々を苦しめていた邪宗を禁止して有名になった、魏の大夫の、西門豹が自分の短気を抑えようと、いつも柔らかいなめし皮を身に着けていてね、怒りそうになったとき、それを触って、心を静めるようにしたそうですよ。そなたも試してみたらどうでしょう」
「母上、それは韓非子に書かれていることですね。蕫安于(とうあんゆ)はどうも自分がのろまでどうしようもないと思って、弓のつるを腰にさしていたということですよね」
「わかりました。母上、わたしもそのようにしてみます」
 倫は早速教えに基づいて自分も柔らかいなめし皮に触って、自分の短気を抑えようと努力した。
 人には、生まれつきの神経系の型があって、一定の偏りが生ずる傾向があるのだけれどそれを知って少しでもその欠点を抑えようとするところが、人間の人間らしいところといえるであろう。
 だから、好んで第五倫が寛大な心を言うのは、自分の怒りやすい心を知って、そうならないようにつとめた結果であろうと。
 いつも深刻な顔をし、眉間にはたて筋が入っていたが、、まなざしは優しく、笑うと別人のように魅力的な顔になった。およそ人にへつらうことなど大嫌いで、人のあや町は鋭く批判した。そのため、親しい友人はなかなか見つけにくく。後世、役所勤めをしても、よほど理解ある上司でなければ嫌われて出世しなかった。
 身なりにはあまり気をつかわず、ぜいたくを嫌い、、清潔だが、洗い古したものを着、冠も古ぼけたものであった。偉そうにし、格好をつけるとか威厳を整えることを一生きらった。また文学的な素養を身に着けることもまったくむとんちゃくであった。
「私には自分で詩をつくったり、のどかに文学のようなものを楽しむ余裕はないのだ。わたしが学ばなければならないものはいくらでもある」
 第五倫はどのような物でも、実際の政治や経済活動の改善に役立つものはなんでもどん欲に学んだ。
 しかし、文学的素養を書き、その一見みすぼらしいいでたちや、格好をつけない言動のため、人によると一見大した人物に見られず軽んじる人も多かった。
「第五倫伝」 第1章 (5)
「第五倫伝」目次
 
 

2016年8月 3日 (水)

「第五倫伝」 第1章 第五氏とその時代 (5)

「第五倫伝」 第1章 (5)

第五氏とその時代

 さて第五倫、いったいいかなる人物であろうか。姓が第五で、字は伯魚という。京兆長陵(きょう西省、咸陽県東。長安付近で、長陵とは漢の高祖劉邦の陵名)のひとである。

 春秋時代、陳国の国王である厲公(らいこう)の公子である 完(かん―字は 敬仲)は紀元前672年政変によって、斉国に亡命した。当時の斉の恒公は完を貴族に列し卿とし、田という苗字をさずけた。その子孫は、斉において、しだいに勢力を強めていった。紀元前386年11世の子孫である田和は斉公となった。その後さらに力を強め、孫はついに威王となり、太公望(姜姓)の子孫である斉国(山東省)の支配者にとって代わって国王となった。田斉の始まりである。戦国時代、斉の国は強大となり、有名な田文(孟嘗君)の活躍もあった。 

 秦の時代の紀元前221年に、王建を最後の国王として斉の国は滅ぼされた。しかし、その15,6年後、田安(別姓孫安)は項羽により済北王に任じられた。しかし漢の時代になり再び国をを失ったが、斉の人たちは、敬意を表して王氏とよんだ。田安の孫は王遂でその子が王賀である。

 王賀、字は翁孺(おうじゅ)といい、前漢の武帝のころには繡衣御衣(しゅうい)となった。その後争い事があり、紀元前百年ごろ、魏郡元城にうつった。魏郡において三老として人々の尊敬を集め、大族となった。三老とは儒教を中心とする中国独特の制度である。それぞれの地域において有力者で、道徳的に模範となるような人物を三老とした。三郎は庶民の代表として、そこの長官はしばしば、政治上の意見を求めるという重要な役割をもっていた。

 王賀は王莽と、後に出てくる哲学者王充の共通の先祖である。王賀の曽孫が王莽である。田氏から分かれた王氏の話はそれまでとして、漢の時代になり、特に武帝のときには各地方の有力な豪族を都の周辺に集め、斉に住んでいた田氏の一族は次々に長陵などに移されてきたのである。前にも書いたように長陵とは、初代皇帝劉邦の陵墓で、黄河にそそぐ渭水(いすい)の支流のほとりにあった。

 漢の政府は長安の都の周辺に、地方の豪族の力をよわめるため、各地の豪族や有力者を強制的に移住させ、渭水の川沿いにそれぞれ歴代の皇帝の陵を作らせその周りに邑(ゆう)をつくらせた。いわば衛星都市をたくさん作らせたのである。それはまた長安の都の繁栄をもたらせた。前漢でもっとも大きい陵邑は茂陵邑で、人口は28万人にも及んだ。それらの陵邑の一つが長陵邑である。長陵邑は前漢の時代には戸数5万、人口17万人であったという。

ところが、王莽の乱や赤眉の害により、なんと10分の1以下での4千戸までに減少したのである。長安郊外の長陵邑に踏みとどまった第五倫が赤眉の賊などと戦ったのはその人口激減の時代である。

 その京兆長陵に移されてきた田氏の中では五番目に都に来たので第五氏といわれ、おそらく、第一氏、第二氏・・とあったのであろうが、第八氏というのがわずかに名が残る。しかし第五氏だけが歴史上におおきくのこった。中国の数ある姓の中でも、きわめて珍しい姓であろう。

 このころ、田氏の流れをくむ人たちや郷里の人々は、盗賊の側につくものも多かった。戦乱期には多くの人が殺されたり、逃げ去ったりする中で、第五倫は長陵の長陵の自分の耕作地の近くの地勢のけわしい場所を選び営保(砦)を作り、銅馬や赤眉らの盗賊がおそってきたがそれらから身を守ったのである

第五倫、その生まれは西暦4,5年ころではないかといわれているが、はっきりした年は記録されていない。さてこの時代とはいかなる時代であったのか。今からちょうど2千年ほど前のことであった。時は年号、元始、前漢最末期である。元始元年はちょうど西暦一、元年になる。この年前漢最後の皇帝平帝が九歳で即位した。政治の実権は皇太后の王政君が握り王氏の一族が次々に高位についた。王莽は皇帝の教育係、太傳となった。翌二年には『漢書地理志』によれば前漢でもっとも人口が多くなった年で5959万人、1223万戸であった。このころは政治の退廃など、矛盾をはらみながらも、まがりなりにも泰平をおうがしていたのである。

 3年には、王莽は令制、学制の改革を始める。このときには末期症状をきたしている政治の改革を王莽が成し遂げてくれるのではないかという人々の期待もあった。その世論の後押しもあり、王莽は自分の娘を平帝の皇后とするとともに反対派の人々数百人を殺すに至った。さらに8年には皇帝に即位し「新」を建国する。そして200年続いた漢はほろんだのである。しかし、現実を無視した儒教精神の復古主義ですべてを行おうとするその政策はわずらわしく、おおいに政務は停滞した。新は重い税と、秦と同じような過酷な刑罰を人々に施した。新建国後2年後の西暦10年には税の重さ、法令の厳しさにより多くの農民や商人が職を失った。また匈奴や姜、高句麗などの国々を蔑視する政策により諸外国の反乱を招き、西暦13年には匈奴の侵入をまねいた。周辺諸国の侵入に備えるため多くのものが兵士に徴用され、働き手を失った人々は苦しんだ。そして新建国からわずか9年後、呂母の乱となり、反乱は全国に広がった。

 西暦23年に王莽は死んだ。さらに新に変わって、漢の劉家の一族であり、皇帝となった更始帝は赤眉に殺され、西暦25年、劉秀が即位した。この話の始まりはこのような大戦乱が続いた時代である。年号は建武と変わったが、翌26年には赤眉は長安の宮殿を焼き、自分たちの皇帝を立てた。くじで選ばれた劉盆子である。この前後には、飢饉と戦乱で多くの人々が死亡した。特に漢中が飢え、「人相食む」と光武帝記にある。しかしこれを最後として82年間そのようなことはなかった。

 さて、この戦乱のころ、この小説の主人公の第五倫、未だ、若干21歳である。赤眉の乱は西暦27年に降伏するまで続いた。赤眉の賊は西暦27年、建武3年正月、最後には10余万人がほとんど戦わずして光武帝に降伏した。

 

 

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