第五倫伝 第6章 光武帝劉秀 「劉秀起つ」 p69-p71
第五倫伝、第6章 「劉秀起つ」 p69
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成祖光武帝劉秀は前漢建平元年(紀元前六年)十二月甲子の夜、景帝の子孫である劉欽(りゅうきん)の三人兄弟の末子として南陽郡の宛で生まれる。字は文淑という。このとき、さまざまな吉兆があらわれたと言われる。
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景帝は有名な武帝の父にあたる。劉秀は景帝から見ると、五代目の孫ということになる。劉欽は武帝の弟である春陵公の曽孫である。祖父の劉回は鉅鹿郡の都尉であり、父の劉欽は南頓の県令であったが、当時、王莽が権力を握り、漢の王族を弾圧する時代に絶望し、県令のまま自殺してしまった。劉秀はわずか9歳の時に父を失ってしまったしまったのである。
劉欽のまだ幼い5人の子供たちは南陽の豪族である叔父の劉良のもとに引き取られ育てられたが、肩身の狭い思いをしたにちがいない。
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劉氏一族はその地域の豪族と婚姻関係を結び、南陽郡においては有力な豪族であった。劉秀は劉良のもとで、まじめに農業に励むが、学業が優秀で、20歳を過ぎて(西暦14年から19年)長安の太学に学ぶことになった。劉秀はそこで、『書経』や『尚書』などを学んだ。その正式な学問をしているところが、他の豪族たちと大きく異なるところであった。多くの皇帝は詔書を人に書かせているが、劉秀は皇帝になったときすべて自分で書いたという。
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さてこの頃は、王莽の新の時代である。前にも書いたが、劉氏の一族はあまり羽振りが良くない上に、伯父に養ってもらう肩身の狭い思いから、学費を多く請求出来なかった。しかしどうしても学費が足らず、友人と金を出し合ってロバを飼いこれを賃貸しして学費に充てたという。南陽郡の豪族の子弟がそれほど貧しかったかどうかは疑問だが、実の父親でないものにそんなに甘えられなかったのは事実であろう。このときの大変貧しい暮らしが、後世の光武帝の質素な暮らしの元となるのである。常に心掛ける言葉として、
「中庸、誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」と。またいうには。
「吾天下を治るに、柔の道をもってこれを行わんとす。柔よく剛を制し、柔なりといえども必ず強し」と。
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ともかく誠実にして人々に優しく、ということ。これは、秦の始皇帝や新の王莽が行った過酷な政治の対極をいくものであった。過酷な政治は人々の恨みをかい、反発を招き、その弾圧のためにさらに過酷な政治を行うという悪循環をひきおこしてきたのである。
劉秀はこの心がけと態度を一生貫き、後代の子孫である皇帝にも守らせた。そしてなんと4代の皇帝まで善政が続き、後漢がその後乱れても、200年と続く元となった。
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劉秀の身長は7尺3寸(168㎝)であるから、当時としては背が高いほうだったろう。
容貌は眉目秀麗(びもくしゅうれい)といわれる。目は切れ長に輝き、美しい眉、顎髭は美しく、大口(大きくて立派な口)、隆準(りゅうせつ)高い鼻、ー鼻のあたまを準頭(せっとう)というー日角(にっかく―額の上部が盛り上がり、日のように輝く顔立ち)といわれた。際立って立派な、人をほれぼれさせるような、容貌であったようである。彼が陣中で叱咤激励する姿を見て、兵士たちは「まるで天の人のようだ」と見ほれるぐらいの姿のよさであったという。
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謹厳実直、また性格はおだやかでだれからも好かれていた。まさに、一目で傑物とみられる立派な容姿と態度をしていた。中国では、人相を見るということがきわめて重要であった。
前漢の初代皇帝である劉邦は、まったく庶民の出でありながら、もっぱら、堂々とした、いわゆる龍顔といわれるその容姿で天下を取ったといっても過言ではない。まだ亭長をやっていたような身分の低い劉邦を、大金持ちの呂氏が、その皇帝にもなりそうだという人相の素晴らしさにほれ込み、娘を嫁がせた。そこから皇帝への道が開かれたのである。
また、後の三国時代の劉備玄徳も同じである。むしろを作って売るような貧しい身でありながら、その出自とそのずば抜けた立派な容姿が人をひきつけたのである。
だいたい正史では特に創業の皇帝の容姿は立派に書くものであるが、特に劉家の一族はそのような立派な容姿が遺伝されていったのであろうか。
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劉秀は性質が穏やかで、太学をでて郷里に戻ってきてからも、地味で、農業に勤めることを好んだが、それに対し兄の劉演(伯升)は豪放磊落(らいらく)、任侠を好み多くの士を養っていた。いつも弟が学問をしたり、農業に専念するのを馬鹿にしていた。
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王莽の圧政にたいし、赤眉の乱がおこり、続いて南陽郡でも、王匡(おうきょう)を中心とする緑林軍と呼ばれる反乱がおきた。緑林軍は分裂し平林軍などと合体した。その連合軍の長は南陽劉氏の本家たる劉玄(後の更始帝)であった。
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人々の推挙を得て、兄の劉演は当地の李氏や鄧氏などの豪族とともに、西暦二十二年南陽郡の宛で挙兵する。劉秀の妹、伯姫は李通と結婚した。このとき都での学問を終え郷里に帰っていた。このとき劉秀は二十八歳であった。
劉演は豪胆だが、かなりいいかげんで無頓着なところがあり、人々はその挙兵に参加していいかどうかを心配していた。が、都で学んだ書生上がりで『尚書』などにも詳しい弟の劉秀が衣冠に身を整えて参加したら、
「まじめで慎み深く落ち着いているあの方でさえ軍をおこすのか」
と、みんな安心して付き従ったというエピソードがある。それほど劉秀は信頼されていたのである。
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しかし、最初、兄の軍に合流するとき、馬が買えず、仕方なく、自宅の農耕用の牛に乗って参戦したという。
みなは、なんということだと笑った。いかにも劉秀らしいと。そして、緑林軍に参加してようやく敵の馬を奪って馬に乗れた、などとい、エピソードはいかにもおっとりした劉秀らしい話である。
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はじめ反乱軍は苦戦していたが、しだいに勝利を重ね、西暦二十三年二月、同じ南陽郡出身の劉玄は皇帝(更始帝)に即位した。この年、新の地皇四年は更始元年となる。更始帝のもと、劉演は大司徒(総理大臣)となり、劉秀は太常(儀典大臣)偏将軍となった。更始帝は洛陽を都に定めるとともに王莽のいる長安の旧都討伐に向かった。しかし王莽は長安で強大な軍を持っていた。
p71
「昆陽の戦い」に続く
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