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2016年9月 4日 (日)

第五倫伝 第6章 光武帝起つ 「昆陽の戦い」p71-73

光武帝起つ 「昆陽の戦い」  p71~73
 西暦二十三年三月、さまざまな地域での反乱軍の蜂起に対して、王莽は、いとこである大司空の王邑を大将軍として、大司徒の王尋の軍と合流させ、40万とも、50万とも、補給部隊を含めると百万を称した大軍団を組織した。実際には全部で40万ぐらいであったろう。そして各地からの様々な軍隊とともに六十三流派という軍師も招き、さらにはその軍の中には虎などの猛獣もいるというような軍隊であった。にぎにぎしいいでたちの大軍は、劉玄や劉秀側の城である昆陽城を取り囲んだ。
 わずか9千人の城兵は、攻城兵器や旗指物が盛んな五十倍ともいえる敵にびっしりと包囲されておびえた。もうありもはい出るすきもなさそうである。どう見てもこの大軍に包囲されては勝ち目がない。しかし劉秀は、この大軍を前にしてもたじろぐことはなかった。劉秀は普段は、用心深く一見おとなしく派手に見えず、むしろ臆病者のように見られていた。
 しかし、劉秀は、すでに用意周到に3千人の別動隊を城の外に用意していた。
劉秀は、いよいよ戦機が迫る中で、主だった兵を集めた。
 みなが見える高い所jから、よく通る大きな声で、朗々と話し始めた。
「敵は確かに大軍である。しかし寄せ集めの戦意の無い烏合の衆である。恐れることはない。私たちはみな心を一つにした精鋭部隊である。私には、必勝の策がある。私の指示の通り戦えば必ず勝利する
 もしここで、われわれが、この戦いで勝利することができるなら、五十倍の敵を打ち破ったと、一生誇りにすることができるのだ
 敵将の王邑を倒してしまえば、たちまち敵は崩れ去る。よいか私は、機を見て、この城を抜け出して、別動隊で王邑の本隊を夜襲する。それとともに、城の城門を開けて、王邑の本隊を襲撃せよ。ねらいは総大将の首のみ」
 力強く言い切った。
 確信にみちた劉秀の言葉に、大軍を目にして一時消沈していた城兵は一気に盛り上がり、一斉に、おー、とこぶしを突き上げた。
 一方、大軍で包囲している王莽軍はわずか一万にも満たない城をなめきっていた。また多くの軍師がいるため、議論百出で、優柔不断な王邑や王尋には決めかねていた。
 城を攻めている間に宛の城を落とした劉演の本隊の攻撃を恐れたのである。
 日が過ぎるにつれ、王莽軍にはだれたふんいきがではじめた。
 その機を見計らい、劉秀はえり抜きの13人の部下とすでにひそかに作っておいた抜け道から深夜、城外に抜け出していた。
 烏合の衆で数を頼んでたるみ切っている王莽軍は、敵がひそかに抜け出したことに全く気付かなかった。もうそろそろ、敵は大軍におびえて、降伏するだろうとたかをくくっていた。
 劉秀は、夜の道を三千人の別動隊のところに急いだ。
別動隊は、すでに夜襲の準備を万端整えていた。王莽軍の中に潜ませていた、スパイからの報告で、王邑はじめ、敵の居場所がすべてわかっていた。
 王莽軍は、まさか後ろから襲ってくるなど、考えもせず、わずかな歩哨だけを残し、ぐっすり寝静まっていた。
 劉秀軍は劉秀を先頭に、息を殺して敵の本営に近づき、一気にトキの声を上げ、宿舎に火をかけた。
 寝ている間に襲われた王莽軍は混乱のきわみに達した。背後から”劉演の本隊の大部隊が来た”と劉秀の部下は大声を出し、王莽軍は同士討ちをするもの、武具をつけるまもなく切り殺されるもの。ひたすら逃げ出すものが多かった。
 本営に火が上がるのと同時にいっせいに昆陽の城門を開け、城から兵が打って出た。
挟み撃ちを受けた、王莽軍の本営はなすすべもなく崩れ去った。大将軍の王邑は命からがら都の長安に逃げ戻り、王尋は切り殺された。
 いっせいに劉秀軍はかねて手配通りに敵陣に潜ませていたものに、王邑や王尋が戦死したと触れ回らせた。本営の方向に火が上がるのが見え、大混乱の中で、もともといやいや集められていた軍隊は一斉にくずれたった。
 朝日が昇る頃には、包囲していた40万の大軍は多くの戦死者を残して、多くの糧秣も残して霧のように消え去ってしまっていた。なんという歴史的大勝利であろうか。
 この昆陽の戦いでの奇跡的な大勝利は新の勢力に致命的な打撃を与える一方、劉秀の名を一気に高めたのである。
 六月、更始帝劉玄は劉演、劉秀兄弟の勢力拡大を恐れ、策略をもって兄の劉演を殺した。しかし劉秀は更始帝に対して恭順の意を表し、兄の喪にも服さなかった。誠実な態度を示す劉秀をついにとがめだてすることはできなかった。
 9月ついに、大軍を失った王莽は長安(新では常安といった)で反乱軍の豪族に殺された。新は呆気なく、滅亡したのである。長安近くにいた赤眉軍も劉氏の末裔の劉盆子を皇帝に立てた。
 赤眉軍は劉氏の末裔を見つけ出したが、その中で血筋が近いが貧窮のもとにある3人の
子どものうち、くじ引きで一人を選んで皇帝にしたというありさまであった。劉盆子は山東省の出身で最も年少で15才であった。見つかったとき、残ばら髪で裸足、ぼろぼろの服を着ていて、怖くて泣きそうな状態であったという。これでは、皇帝としてうまく人々の統率がとれるわけがない。
 さて、更始帝のもとでおとなしくしていた劉秀ではあるが、いずれ殺されてしまうと身の危険を感じていた。河北の宗教指導者で、劉家の皇帝成帝の子を名のる王郎の討伐を申し出た。そしてその拠点、邯鄲をおとし 河北をほぼ平定した。その功により、劉秀は更始帝より粛王に任命された。そして、更始帝は劉秀に、軍を解散して長安への召還を命じた。
 更始帝は人望もあり大いに勢力を伸ばす劉秀を恐れていた。軍を解散し長安に行けば殺されてしまう恐れが強く、召還を拒否し河北において自立することを目指した。
 河北において、劉秀の軍はきびしく軍律を守り、決して略奪など行わなかった。逆に貧窮した人々に食べ物を与えるようであった。そのため、多くの民衆は劉秀に心を寄せ、恭順の意を示す軍も多く、たちまちのうちに河北の各地に及び、そしてついに河北の地をすべて独力で征服した。
 それに比べ更始帝と更始帝の緑林軍は統率が取れず、赤眉軍より残薬で恐れられた。
九月には赤眉軍はついに更始帝を殺し、更始軍は壊滅した。赤眉軍は劉盆子を皇帝にして長安に王朝を開いた。しかし略奪をすることばかりに力を入れ、まともな政治ができず、人々の心が離れた。食べることにも事欠いた赤眉軍は一時長安を離れ、西に向かったが、隗ごうの軍に敗れ、また長安に戻るという有様であった。
 この戦乱続きで長安の都とその周辺は徹底的に破壊された。
  「雲台二十八将」に続く  p73
 

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