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この道の真ん中に東京媽祖廟が、斜め前には韓国の教会があります。
2016年10月4日(火)お出かけの日に、ヘルパーの斉藤さんと神楽坂のフランス料理店、メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュへ行ってきました。場所は神楽坂のメイン通りから少し横に入ったところで神楽坂のメイン通りから見えるところです。神楽坂の毘沙門天の近くです。神楽坂のフランス料理のレストランへは、前回は、ル・クロ・モンマルトルに行ってきました。前回もブログにかきましたが、なかなか良い店でした。新宿のレストランをいろいろ紹介している雑誌に神楽坂のフランス料理店が4店紹介されているうちの1店が、ル・クロ・モンマルトルで、雑誌にのっている2店目もいいかもしれないということで行ってみました。
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入口です。手前はテラス席で、車いすですと、テラス席が便利です。手前に段差があり、斉藤さんに上げてもらいました。
店主はブルゴーニュの方だとか。フランス人の人がいましたが店主かどうかわかりません。
ブルゴーニュのワインが100本ほどそろえているそうです。お酒はシャンパン950円とワイン900円を頼みました。ル・クロ・モンマルトルはワイン1杯無料です。
昼のランチは1000円から。今回は2500円のコースを頼みました。
店の雰囲気は大変良かったです。
ランチの内容
前菜?手前のものはデザートのようですが。右のカップにパンが2つ。
1つは500円増し。
メイン料理4種類の中から選びます。今回は左は牛肉料理、右はウズラ料理。ウズラが1000円増しだったような。牛肉料理、は比較的おいしいのですが少し量が少ないような気がします。
ウズラ料理、確か初めてです。小さい骨は食べられます。
デザート。そのほかにポテト、500円を頼みました。
合計で税込み8850円でした。
お店の雰囲気は良いし料理も比較的おいしかったです。斉藤さんはモンマルトルのほうが上かなと言っていました。モンマルトルのランチではメインはポークとカモでした。全部で5000円です。ポークは味もよくボリュウムもありました。
お店の名刺の裏です。場所は神楽坂3-6-5
3260-7280です。
筆者の子どものころ
私の記憶がはっきりするのは小学校入学ころ(1950年ころ)からで、学校は戸山小学校といいます。そこは、木造二階建てで二部授業でした。体育館はまだがれきの山のままでした。途中から、西戸山小学校ができて、友達の一部が移りました。私の家の裏のほうではニワトリを飼っていました。近くの家では、ヤギを飼っていて、そのお産を見たりしていました。そのお産を見ていた私は、小学校で、人間の赤ちゃんはどこから生まれるかという話しになったとき、私はヤギを見ていたので、お尻から生まれるといいました。他の友達はおなかから生まれるというのです。おなかを切って生まれるので包帯の帯をしていると。私はそれからなにかと「尻から生まれたこうもん(肛門、こういちなので)でー」とみんなに、ひやかされました。
当時は焼け野原で大きな家がなく、家からそのまま、新宿の伊勢丹や三越が見えました。今の歌舞伎町のあたりは、池があったように記憶しています。そこで万国博覧会みたいな会場ができてその建物の後に、今の映画館街ができました。現在の歌舞伎町2丁目は昔は西大久保1丁目で、普通の民家だけでした。新宿の紀伊国屋書店も、二階建ての建物でした。この古い紀伊国屋に行ったことがあります。
風呂桶の製造、販売
まだ平屋のころの佐竹製作所。右側が住居部分。左が店舗と風呂の製造場所でした。
裏でニワトリを飼っていました。風呂桶の製造と卸、小売りもやっていました。
まだ東京ガスの委託店をする前のお店。
2階建てに立て直した建物。間口が5間ぐらいありました。半分が風呂店、半分が東京ガスのサービスセンター 。まだ仕事の中心は風呂桶の製造と販売の仕事でした。
家では、風呂桶の製造販売(桶商佐竹)を戦後すぐから初めて、祖父や父、叔父が、そして次第に職人さんも入ってきました。はじめは新大久保と大久保駅の間の現在の百人町2丁目に店がありました。そのほかにお滝橋通りに3階建ての家があり、富士山がよく見えたそうです。次第に町の人口も増えて、風呂の需要も増えてきました。今の第2佐竹ビルのところに土地を買い、平屋建ての家を建てました。
その後二階建で、下は材木の乾燥場所、上は職人さんの寝る部屋を作りました。現在のサタケビルのところも、家もバラックから木造二階建てに建て替えました。当時店のあるほうの家は土地が80坪あまりあって、前面は二階建の家、奥はやはり材木の乾燥場と、二階は職人さんの住まいの家を建てました。その家は、総檜づくりで、二階はふすまをとりはらうと、5つの部屋が全部つながるようになっていました。おじいさんがなくなった時には、自宅で葬儀を行ったのですが、全部つながった部屋で、お通夜の宴を行ったものでした。そのほかに近くのお米屋さんの隣に30坪の土地を買い材木の干場と職人さんの宿舎にしました。そこは今は第2サタケビルが建っています。
祖父の庄次郎は親分肌で、デーンという言葉をよく使っていました。戦前から戦後にかけての大久保・百人町地区の有力者でした。皆中神社の神主さんはお爺さんが木曽から連れてきたそうです。もう少し弁が立てば区議会議員にでも簡単になったのにと言っていました。
祖父、庄次郎の写真です。
祖父から父へ
うちで作る桶ぶろは木曽の材木商から現金でじかに安く仕入れた木で作り、他の業者よりいい材料を使ったので、大変評判がよかったのです。現金を胴巻きに入れて木曽に買い付けに行ったそうです。掛売でなく現金を目の前に出されると、安くでも売ってしまうそうです。当時は風呂桶の材料は木場のほうから仕入れるのが普通でした。いい木で風呂を作って売りますからよく売れます。他の業者からはだいぶねたまれました。朝暗いうちにトラックできた材料を総出で乾燥場に運びました。箱風呂を作る檜の長い板。桶風呂を作る椹(サワラ)の板です。桶風呂は1人でなんと3本も作ってしまいます。私も子どものとき当然手伝いましたが大変な作業でした。うちは余った板がたくさんでき、その木っ端からチャンバラの刀を作ったり、船の模型を作ったり、クラスの同級生には評判でした。
父は、風呂の職人として、朝早くから夜遅くまで、桶ぶろを作りました。昔は休みは盆と正月だけで、大みそかの夜まで仕事がありました。ずいぶんと仕事で頑張ってきたのです。そのおかげで、かなり店に蓄えもできてきました。戦後佐竹製作所に名称を変えました。当時一番売れたのは、桶ぶろにガスバーナーをつけた、ガス風呂で東京ガスのガス風呂指定商に最初に認定され、その後ガス料金を受けたり、ガス器具も売る、東京ガスのサービスセンターにもなりました。認定を受けた最初の10数社だったのです。同じ新宿の倉前産業さんに卸をしてもいました。作れば売れるという時代でだいぶ儲かったようです。当時は公団住宅がたくさん作られ、ガスぶろが山のように積み上げられました。
佐竹ビルの1,2階が東京ガスのサービス店となっていました。
追記
サービス店基本契約書という、東京ガスと当社との契約書をファイルしたものがあります。それを見ますと、「店舗の一部使用に関する覚書」というものです。昭和33年11月1日(1958年-2021年で63年前)に締結されたものです。これは店舗の一部を東京ガスのサービスステーションとして使用することを承諾した。というものです。月額使用料は1万円です。電話、電気、ガス、水道などの使用料は毎月3000円でした。東京ガスを定年退職した人が店口でガス料金の受け取りなどをしていました。そのうちその人は当社の社員となりました。そしてその後、修理、ガス工事、設計等々、次々に東京ガスの仕事を委託されていったのです。
追記
東京ガスとの古い契約書が出てきました。「店舗の一部使用に関する覚書」で、(有)佐竹製作所の社長、佐竹庄次郎(祖父)と東京ガス(株)社長、本田弘敏とで、当時は、四谷営業所長(代理人)との覚書でした。昭和33年11月1日です。使用料は月に1万円でした。店の一角にガス料金を受け付けるところを作り、東京ガスを退職した人が受付をしていました。はじめの2番目の写真で、東京ガス百人町サービスステーションの写真があります。筆者はこのころまだ15歳でした。
祖父は昭和44年の4月22日に亡くなりました。76歳でした。食道がんでした。今まで病気などしたことがなかったのですが、たばこをよく吸い、晩酌にはおかんした日本酒を毎日飲んでいました。これが影響したのでしょう。
三越本店でのガス風呂の製造の実演をする父
実演中の父親の顔写真です。
父は、祖父の死去後社長となり、東京ガスでの会議に出席するようになりましたが、そういった会議は苦手でした。当時、父がよく話していたのは、東京ガスの手数料を小切手で受け取りに行くのが遅れたり、ガス器具の売り上げが、少ないというので、東京ガスの係長が経営が大丈夫なのか、このままでは、サービスセンターをやめてもらうかも知れないなどとと脅かしたそうです。その時に、父は会社の決算書を見せたそうです。私も記憶がありますが、無借金で預金が800万円あって、当時の会社の社員の月の給料の合計の半年分もあったのです。東京ガスの手数料は、はした金だからとりに行かなくても大丈夫だったと言っていました。
交通少年団の子供たちと、父は新宿交通少年団の団長でした。
父は、町会の仕事を熱心に行い、町会長が何もしないので町会の実務をほとんどやってきたと言っていました。 又交通少年団の団長などの活動も熱心に行っていました。そういう点でも大変律義に行ってきました。おじいさんも父もそうですが、もう少し人前でしゃべれれば、すぐ区議会議員にでもなったのにと言っていました。祖父庄次郎は昭和44年4月に亡くなりました。ちなみに祖母いさは平成4年7月に98歳の長寿を全うしました。
父は目と眉の間が狭く、いわゆる奥目で、比較的ほりの深い顔をしていました。今の若い人は名前を知らないでしょうが、俳優のゲーリー・クーパーに似ていると言われたと楽しそうに話していました。
右側が祖母のいさおばあさんです。隣は大阪からでてきた、祖母の妹のうめこおばさんです。2人とも100近くまで長生きしました。
筆者は経営をやりながら人間学の確立のために研究所を作りました
私は、東京教育大学の生物学科の学生で、学生時代から関東地域の生物科の学生組織で人間学研究会を主催したりして研究者になりたかったのですが、祖父と、父とで、東京ガス関連の仕事が増え、われわれには中なか対応できないのでどうしても家の仕事をしてくれと言われ、卒業とともに、家の仕事につきました。当時は有限会社佐竹製作所(昭和36年、4月5日、1961年創立)という名前で、その名前から見ても風呂の製造販売が主力でした。私が入社して数年後に、祖父が死去し、昭和44年父親が社長となり、私はまだ25歳くらいでしたが、専務取締役店長となり、東京ガス関係の仕事はすべて担当することになりました。父親は、風呂部門を担当していました。
その後業容が建設業関連の仕事も多くなり、株式会社サタケ(1986年、昭和61年5月8日)と変えて私が社長となり、父は会長となりました。私が入社したころの会社は社員数20名ほどの会社でしたが、80名になり創業100年の時には100名の会社にしようと言っていました。会社の売り上げの3分の一は東京ガス以外の仕事でした。うちは下請けに仕事を回さないで、ほとんど自店で仕事ができました。ガス工事だけでなく水道工事、電気工事も同時に同じ人間がやってしまいます。ガスでの担当地域は新宿の大久保地区西新宿地区、渋谷区の代々木、千駄ヶ谷地区でした。大変効率がよく利益も上がりました。不動産の仕事も専従の人が2人行うようでした。東京ガスの委託店のガス器具売り上げは100店ぐらいのうち達成率は常にベストテンでした。成績優秀でもらった銀杯も7つもあります。賞罰という言葉がありますがうちには罰というものがほとんどなくいろいろな賞を付けました。しかし途中から東京ガスの資本が入った合弁会社にされてしまいました。その後、現在は息子が社長となり(社長4代目)、筆者は会長です。会社は東京ガス関連の仕事から離れましたが不動産管理の会社として存続しています。
私は、1963年の学生時代から人間学に取り組んでいました。生物科の学生組織の「生懇」の分科会「人間学」の責任者となり、卒業してからも1965年に民間の研究会(人間学研究会)を立ち上げました。1985年に第2次人間学研究会、その後1991年に第2サタケビル建設とともにささやかながら人間学研究所準備室を経て1999年に人間学研究所を立ち上げました。そして現在も活動を続けています。自分が研究者となるよりは、商売で儲けて、研究を支えたほうがいいと思ったのです。思ったほどもうかりませんでしたが、なんとか人間学研究所の1室を作り、その活動は今も続いています。(「人間学研究所年誌2015」まで発行)
父とキャバレー
父親はあまり趣味もなく、派手な遊びをしませんでしたが、当時のキャバレーに行くのが最大の楽しみでした。今は、いわゆる大箱と言われるキャバレーは、コマ劇場と隣の東宝会館が閉鎖されるとともに、昨年末クラブハイツを最後としてなくなってしまいました。わたしも家の仕事をはじめた時に、父に池袋の金の扉というキャバレーに連れていってもらったことがあります。昔は、今のようなカラオケをやるようなクラブというものがなかったのです。父は、クラブハイツには20年近く通いました。毎週月曜日には開店と同時に行って終わりまでいました。お酒をあまり飲まないのですが、前は社交ダンスをよく踊っていました。バンド演奏をする大きな舞台で歌を歌ったと自慢もしていました。私も時々お付き合いしましたが。お気に入りのホステスさんが私と同い年ですし、友達で来るホステスさんもそのような年で、少し閉口しました。父親からみればちょうど娘の年でちょうど良いのですが。母が施設に入るようになってからは、10数年間私と月に2回、クラブハイツに行くのを楽しみにしていました。それは、昨年末まで続きました。(2009年当時)でもきちんと無駄なお金を使わず、限度をきちんと決めて遊んでいました。ホステスさん相手に戦争の昔話をするのが好きでした。普通戦争の時の話はしないのが普通ですが父には楽しい思い出のほうが多かったのです。でも91歳まで、クラブに行くのは、大したものだと思います。ただ他の趣味があまりなく、クラブに行けなくなってからは、テレビを見るだけが楽しみとなってしまいました。
父は、大変な倹約家で、特に電気ガスを使わないようにし、省エネ大賞でももらえそうです。家の電気は照明をあまりつけないようにし、トイレには、トイレの電気をつけないで、戸をあけてすること。風呂には浴槽の半分しか入れないで、水道と瓦斯代を節約すること。しかしそれは、風呂の残り水に雑菌が繁殖し、膀胱炎を引き起こすもとでした。株などの投資もせず、もちろんかけごともしないで、せっせと、お金をためていました。(賭け事は禁止という佐竹家の家訓)又枕が変わると寝られないと言って旅行もあまりいきませんでした。しかしそのおかげで、私が会社の経営を引き継いでから、お金が足りなくなったときに、父親から借りることができましたし、私や妹が家を買うときにも援助をしてくれました。でももっと自分の楽しみのために使ったらとよくいっていましたが、それができない人でした。楽しみは、いろいろな昔話を聞いてもらうことでした。戦争時代の話が多く、もう何度も何度も同じ話を聞いているのですが。半年余り、父親のところに、5階から3階の父親のところまで、朝と晩に食事を持っていって、話を聞いていたのですが、それが、私のできた最大の親孝行だったなと思っています。
父の手相
最後に、父の手相を見たのですが、見事に運命線が一直線でそれが中指まで通じているのです。私もかなりいろいろな人の手相を見ているのですが、このようにまっすぐな線をした人を見たことがありません。今思えば記録に取っておけばよかったと思います。自分でもそのことを知っていて、この筋は、豊臣秀吉か、石川五右衛門の手相だと、いっていました。運命線がまっすぐというのは、必ずしも、有名になるというのではなく、何かの道をまっすぐに進んできたともいえるので、そういう点では、見事にまじめに仕事一筋で生きた証ではないかと思っています。
追記 2021年6月3日
昔の大久保通り
筆者の小学生時代の大久保通りを自宅の2階から見る。左側のお店は盛好堂書店、隣は床屋さんです。ともに小学校の同級生がいました。
やはり2階から新大久保駅方面を見る。
自宅の2階から裏手を見る。風呂を作る木材を井桁にして乾燥させていました。
木造時代の東京ガス百人町
その店内
店の入口
佐竹ビルと第2サタケビルの建設
佐竹ビルの建設
元の土地80坪のうち借地分30坪を返却しその売却金9000万円と佐竹幸一の自宅売却分2000万円で佐竹ビルを建てました。
1階、店舗・事務所 2階は事務所、3階は両親の住居、4階2部屋は貸出し、5階にはブログ筆者が住んでいました。ビルの間口は2間半の細長いビルで 奥行20間の細長いビルです。現在は1,2階をテナントに貸し出しています。
第2サタケビル
大久保通りから少し入ったところに、以前は木造2階で、下は木材の乾燥室、2階はアパートで、一時筆者も結婚した当時住んでいました。
その後その土地30坪に第2サタケビルを建てました。地下1階地上3階のオシャレなビルです。
1階と地下1階は会社の事務所 3階は女性の更衣室,兼休憩室、2階は人間学研究所でした。
そこの2階には人間学研究所準備室を作りました。それは後で人間学研究所となりました。その後人間学研究所は佐竹ビル3階に移転しました。
ここには図書12000冊がありました。
現在は全部、テナントとして貸し出しています。
◎ 2009年に書いたブログですが、記事を増やし、写真も新たに加えて2016年に更新しました。また2020年に追記しました。
佐竹家のファミリー・ストーリー
NHKでは、ある家族の先祖を訪ねて、ファミリー・ストーリーという番組をやっています。9月29日7時半から8時15分まで、恵俊彰さんのルーツについてやっていました。無人島探検に挑む先祖。というものでした。
筆者の私の父のことを中心に書きましたが、その後さらにさかのぼって、同じように我が家のファミリー・ストーリーを書いてみます。(2016年9月)
突然の父の死
一日、二日おきぐらいでブログを更新していましたが、しばらく中断してしまいました。12月17日の朝、いつものように朝食を持って行った時、部屋の中で転んで、目の上を強打して大きく膨らんでいました。その時はまだ大丈夫と本人も言っていたのですが、そのうちに、もどすようになり、かかりつけの医者の指示で、救急車で国立医療センターに行きました。その結果、いつも飲んでいた血液凝固を妨げるワーファリンのせいで、硬膜下の出血がひどく、脳幹部も圧迫されて、手術不能と言われました。すぐ親族を呼ぶようにと言われ、みな集まりました。そして翌日の朝私と妻と妹の三人が見守る中で息を引き取りました。
一時、多発性脳こうそくで寝たきりに近い状態からだいぶ回復し、週に三回は夕食を外に一緒に食べに行っていて、前の日にはすし屋で、いつもより多い9かんを食べて元気だったのに、あまりに急な変化で皆びっくりしてしまいました。しかし、92歳という年齢でもあり、朝夕食を5階から3階の父のところまで持って行くのが13年、食事を持って行って隣で話を聞きながら、後かたずけの家事を行うのが半年余りやってきたので、まあ少し親孝行できたのかなという思いと、死ぬなら長く寝込まないでぽっくり死にたいと日ごろからいっておりましたので、まったく苦しまないで逝って本望かなという思いがありました。その後お通夜、告別式とバタバタして、ようやく落ち着いてきました。
大阪で生まれ東京へ ルーツをさかのぼる
父親、佐竹実は大正6年5月(1917年)に大阪で佐竹庄次郎の二男として生まれました。父方の祖先はもともとは、新潟の長岡で桶づくりを大規模に行う御用商人で、蔵がいくつもあり、苗字帯刀を許されたそうですが、藩に貸していたお金が戊辰戦争後にだめになり、没落してしまいました。長岡での戸籍を見ると、長岡市先手町3丁目832番地で、長岡駅の近くです。古い戸籍を見ると高祖父は傳右衛門ですがその先は戦災で焼失したという「戦災焼失証明書」が発行されるだけです。
お祖父さんは、こいつがいけないんだと言って、位牌にカンナをかけて削ってしまったと言っていました。ずっと前の先祖の墓は長岡市の浄土真宗大谷派、広西寺(長岡市柿町4666)にあるそうで、叔父はお寺の過去帳を見せてもらい、永代供養のお金をおいてきたそうです。以前私もお寺に行きましたが場所確認だけで、住職さんには会いませんでした。新しいお墓は祖父が新宿の抜け弁天のところの専福寺に作りました。曽祖父から墓碑銘に名があります。
私の祖父佐竹庄次郎は明治21(1888)年の2月26日に曽祖父佐竹傳蔵の長男として生まれました。祖父庄次郎の母親とは離婚し曾祖母のていは3番目の奥さんで明治34年に結婚しています。子どもが生まれるので、実家に帰っているときに他の女性に手を付けて離縁するというひどい先祖です。3番目には役所でもうこれくらいにしておきなさいよと言われたそうです。 ていの父親は白井熊蔵といいます。曽祖父がていと再婚したとき庄次郎は13歳の時になります。
私の祖父の庄次郎が東京に出ていて、椅子職人として仕事をしていたのですが、それを頼って曾祖父の傳蔵が東京へ出てきました。「わがやー、わがやー」と言いながら長岡から風呂やタガをなおしながら歩いて東京へでてきたそうです。明治の終わりころです。その後曽祖父傳蔵は東京で桶やを始めました。東京での桶屋の創業は明治の末(明治40年)ころです。この時が東京での創業ということになります。大正の時代の商店名を書いた地図には新大久保と大久保駅の間に桶商佐竹の店の名が載っています。店を作ったころは大久保駅だけでした。1914年(大正3年11月)新大久保駅ができました。店はその後新大久保駅ができた後に新大久保寄りに転居しました。私は4代目、現在は私の息子が社長ですが5代目となります。 曽祖父は奥さんのていも呼び寄せました。ところが曾祖父も曾祖母も、かなりのばくち好きで、祖父の給料が入るとそれを取り上げてばくちに行ってしまう始末です。ばくちでだいぶ祖父は苦労したので、それ以後賭け事には一切手を出さないというのが我が家の家訓で、祖父も父も、私も、息子たちも賭け事には手を出しません。
これではどうしようもないので、それを嫌って、祖父が、大阪東成郡榎本村へ行きそこで大正3年11月に祖母(米田いさ)と結婚しました。そして伯父房次郎(大正4年)と父実(大正6年)が生まれました。
祖母の父親は米田藤吉(万延元年生まれ)で祖父の新吉は天保2年生まれです。曽祖父は藤兵衛といったようです。お父さんの藤吉には、淀川でとれたじゃこをたくさん食べさせてもらい、それで骨が丈夫になったと言っていました。祖母の系統はみんな長生きです。曾祖母はかなりの年で大阪から汽車で東京まで出てきて私も会いました。100近くまで長生きでした。祖母は98歳ぐらいまで生きていました。祖母の妹の梅子叔母さん(おばあさん)とも会いましたが、やはり100近くまで長生きしました。
わたしの父親の実は大正6(1917年)年5月15日の生まれです。祖父の庄次郎には、男三人と女三人の子供ができました。曾祖父傳蔵が病気で倒れたというので、大正9年1月13日に祖父一家は長男房次郎と次男実をつれて大阪から東京に戻りました。その後大正11年に曽祖父傳蔵はなくなりましたが曾祖母ていは長生きしました。なにしろすごいお姑さんで、海苔巻きを作れと言われ、関西風の太巻きの海苔巻きを作ると、こんなもの食べられるかと捨てられたそうです。味付けも合わず、散々いじめられたそうです。ばくちうちで、着物の裾をたくし上げて大股で歩くような人で、すごいおばあさんだったようです。祖母は大阪へ帰りたかったが切符の買い方がわからずかえれなかったそうです。曾祖母と父や私たちとは血のつながりはありません。曾祖母ていは昭和15年10月になくなりました。
東京で生まれた、父の実の妹は2人とも若くして病死しました。叔母の一人すみ子はまだ健在です。
追記:2020年2月に叔母、村上すみ子は逝去しました。筆者は葬儀に。お寺に段差がありいけませんでした。
伯父や叔母きよ子です。一番上の伯父はなくなった房次郎です。当時中学生です。その右側は父の実です。小学生でした。後写真で左は叔父良平や叔母きよ子です。叔母きよ子は昭和14年に病死しました。この写真にはありませんが叔母、すみ子は現在も存命中です。叔母志津恵も昭和11年に死去しました。
伯父房次郎です。お祖母さんの自慢の息子でしたが井戸掘りの酸欠事故でなくなってしまいました。
6人の子供のうち、長男房次郎はなかなか優秀で、中学校から現在の薬専(現在の薬科大学)に合格したのですが、学校をやめさせ、桶やと途中から始めた井戸掘りの仕事をするようになりました。ところが昭和15年に9月に29歳で、井戸の酸欠事故で死亡してしまいました。それは事故として新聞に載ったようです。この事故にショックを受けたのか、その翌月10月に曾祖母のていもなくなりました。
父親は兄と違い勉強が嫌いでした。中学校に行かず、高等小学校どまりです。高等小学校を出るとすぐに自分で決めてきて文房具店に丁稚として働きに出ました。店は文房具の卸の店で、リヤカーを自転車で引き、重い荷物を運んで朝早くから遅くまで仕事をさせられ、ずいぶん苦労したようです。そのご家業の井戸堀行が忙しくなりその仕事につきました。
父親も兄と同じ仕事をしていて同じ現場で事故で倒れ、祖父が井戸から救い上げて、九死に一生を得たと言っていました。井戸掘りやおけ屋の仕事をやるようになりました。祖父母は優秀な伯父の死で、大変落胆したようです。その事故のことは当時の新聞の記事になったそうです。その事故で父は急に家の跡取りになりました。他に父の弟、良平が一人、妹が三人で、一人は3歳ほどで赤痢で死にもう一人も結核で19歳ほどで死に、おば、すみ子一人が残りました。叔父も昨年亡くなり、父もなくなりましたので今では叔母だけが残る形になりました。叔母の息子さんは村上正さんです。大久保駅近くで「あうん」というレストランをやっています。追記 あうんは閉店して今は台湾のカフェになっています。
父実は大正12年の関東大震災を大久保の地で経験しています。まだ6歳のころで、ものすごい揺れだったそうです。そして昼の食事の大好きなとんかつが、震災の揺れで埃だらけで食べられなくがっかりしたと言っていました。このあたりは地盤が固く、倒壊した家は少なかったようです。この関東大震災で、下町の人たちが多く大久保周辺に住むようになり、街が急速に発展したと言っていました。それ以前まだこの地域は東京は市ではなく郡部だったのです。多くの人たちが移住してきて桶や井戸掘りの仕事も急に増えてきました。
追記 大久保のあたりは地下水の水脈が浅くありました。第2サタケビルの地下1階の建設のために、地面を掘り下げましたが,掘って間もなく水が出てしまいそれの処理で余計な手間がかかりました。浅く掘っただけで水が出るのです。
前後8年近くも戦争へ
父、実の出征の時の写真です。真ん中やや右の坊主頭で紋付を着ているのが父です。その左隣はメガネをかけているお兄さんの房次郎、一番左に祖父庄次郎と祖母いさです。昭和12年末か13年の1月です。今から80年ほど昔です。
父は軍歴書によれば昭和13年1月10日に歩兵第1連隊に入隊。3月31日には騎兵となり、いきなり、1等兵となります。4月に満州に向け東京出発。4月には満州国黒河州孫吾県に到着。騎兵第一連隊第2中隊に編入。14年9月ノモンハン事件に参加するため事件地域へ.まもなく停戦命令。昭和15年12月には上等兵となります。昭和16年2月に除隊となります。
騎兵となった父の写真です。父は他の人より少し背が高いため騎兵になったそうです。騎兵はサーベルを持ちます。
騎兵の写真です。かっこいいだろうと言っていました。小銃を背おっていますので、落馬すると銃が当たり、息が詰まるほどのショックを受けるそうです。
軍歴簿の最初のところ昭和13年の1月に入隊しています。4月にはすぐ1等兵になっています。満州へ行きました。2ページもあります。
昭和18年3月に再召集、中支に派遣、安徽省に派遣。昭和21年に日本に帰還しています。
除隊の時の記録です。
父は昭和13年1月(1938年)に21歳で招集され、3月には騎兵第一連隊に配属され、早くも一等兵になっています。昭和14年に中国東北地方(満州)に行きました。その年第三次ノモンハン事件の時で、間もなく停戦となりました。もう少し早くいっていたら死んでいたと話していました。上官にはオリンピックで乗馬で入賞した西大尉がいたそうです。とてもいい上官だったそうです。西大尉は硫黄島へいき戦死しました。
満州はひどい寒さで、まつ毛も凍る、大小便もただちに凍ってしまうというひどさで、大変苦労したという話をさんざん聞かされました。父は、ほかの人よりは背が高かったそうで、騎兵になったというのですがいかに当時の人たちの身長が低かったかがわかります。その当時の写真がありますが、騎兵は2等兵でもサーベルを下げ、長靴で、カッコよかったというのが自慢でした。すぐ1等兵になっています。背中に銃をしょっていて落馬した時にはまともに銃が背中に当たり、大変な衝撃があると言っていました。昭和15年には上等兵になっています。そこで、私の母よりの兄と親友となり、その関係を強めるために、日本に帰国後母と結婚しました。昭和18年の2月に私が生まれたのですが、なんと翌月の3月にふたたび、父親は徴兵されました。今度は中シナ(中国中部)の安徽省に行きました。昭和19年には独立歩兵第212大隊の所属でした。そして、昭和21年にようやく日本に帰ってきました。その時の位は兵長でした。二回の徴兵で、7年以上も戦地にいたのです。この記録は薄い紙に履歴書として軍隊で発行したものがあり、そこから詳しい内容がわかりました。
安徽省周辺では、上等兵ではあリますが、かなりの古参兵であることと、桶や井戸掘りの技術があり、なかなか上司の隊長やその奥さん方に重宝がられたそうです。直接的な戦闘も少なかったそうです。でも、半分の部隊が南方に行き、そちらに行っていたら死んでいただろうと言っていました。父親は中国人の村に近いトーチカにかなり長い間いたそうです。ちょうど下から高尾山の高さくらいところに、丸い二階建のトーチカだったそうです。トーチカの責任者はふつう、下士官がなるのですが、村人からの評判がよく、本人も進んでその仕事をやるので、上等兵でも責任者でした。村人が、苦力(クーリー)として水や食料を届けに来たリ、洗濯に女性がきたのですが、父はそのトーチカの責任者として、米やいろいろなものを中国の人に与え、喜ばれたそうです。お米はトーチカにじっとしているとおなかがすかず余るそうです。当時の中国の村には、医者がいないので、薬のある、トーチカに薬をもらいに来るそうです。薬を飲んだことのない村人にはとても薬がよくきいたそうです。とくに胃痙攣で苦しがっている女性に、命の保証はできないがいいかということで、モルヒネを与えてみたらいっぺんに症状が治まり、とても感謝されたといっていました。モルヒネは錠剤でトーチカに常備してあります。傷ついたとき医者はいませんから、モルヒネで痛みを抑えるのです。父はモルヒネのことをモヒと言っていました。そのように村人から感謝されいろいろ収入もあったそうです。中国人から接待麻雀を受けるのだそうです。逆に、村民を虐待したり、手伝いに来ている女性を犯したりした兵隊は、村人にひそかに殺されたりしたそうです。
父親は、射撃の腕は良かったそうですが、まともに相手を狙って弾を打ったこともなかったそうです。現地の人にとても優しかったので、いろいろと転売したり収入があり、なんと、軍票で2万円も貯蓄して、それで日本に帰ってきた時に日本円に替えられたので家を買うたしにできたというのです。大したものです。でも、戦争中に日本の飛行機が、飛行場の上空を飛んでいる間は敵機は来ず、降りてくるとすぐに敵機が来て、爆撃し、飛行機がこわされたそうで、これでは日本は負けると思ったそうです。父の親友の私の伯父幸雄は、部隊から離れていたときにゲリラに襲われ、20年の3月に戦死しました。父は中国から戻りましたが、私はなにぶん3歳で生まれてから、父の顔を見ていないものですから、かえってきた父親を父親と思わず、むずがったそうです。
ふつう戦争の時の話を、兵隊で行った人は話しません。私の家内の父親は、東大の電波関係の学科を首席で出て、戦後電波研究所の副所長までやっていました。戦争に行ったとき、海軍で電波関係で特殊な任務で大尉にまでなっていたそうです。ニューギニアに行っていたそうですが、戦争が激しくなる前に日本に帰されました。ニューギニアからオウムを連れてくるというような、そういう恵まれた地位でも、大事な部下が戦死し、それを悔やみ、戦争は嫌いでした。戦争の話はほとんどしなかったそうです。
追記 叔父の良平氏はすでに亡くなっています。おばあさんからよく聞いた話です。叔父は海軍に入隊しました。横須賀の海軍基地に入隊したそうですが、仕事で顔に傷ができ、そのために上司や仲間からずいぶんいじめられたそうです。祖父の庄次郎は何とかしなければと考え、当時していた消防団の団長の制服をきて横須賀基地へ行ったそうです。おばあさんの言葉では帽子に大きな徽章があり、立派な制服だったそうです。海軍基地の兵隊は敬礼して、迎えたそうですが、上官に傷の理由も話し、以後いじめはなくなったそうです。表面的な権威に弱い当時の軍隊を良く表しています。今でもそうかもしれません。
大久保の地に戻る
祖父母と父の妹は、大久保の地に残っていましたが、空襲で焼け野原になってしまいました。祖母はその時の焼夷弾のふってくる中を逃げまどった話をよくしていました。おばあさんの話で、B29がすぐ近くに見えたこと、日本の戦闘機はとてもかなわなかったことを聞きました。
戦時中私は母親と新潟の母方の実家に疎開していました。母がたの祖父は金子幸作、曽祖父は幸四郎といいます。新潟の北蒲原郡笹岡村です。祖父の出身が新潟、母がたの祖父も新潟です。母がたの先祖には村相撲の大関を張る大きな人がいて、それで私も息子たちも比較的大きいのでしょう。母がたの祖母の実家は渡辺といいます。
母ヨリの両親は金子幸作(明治27年生まれ)、金子タケで、下町の尾久のほうで大々的に大変儲かる八百屋をやっていて、戦前は大変儲かって、お札を樽の中に入れ上から足で押しつぶすほどもうかったと母は言っていました。大八車を押すのを手伝ってお小遣いをもらうのが楽しみだったそうです。戦災で焼け、唯一の長男幸雄は終戦直前中国で戦死しました。私の父と大変仲良くなり、妹と結婚してくれれば親戚として縁がずっと続くと結婚させたそうです。終戦直前匪賊に襲われ戦死しました。何も残らなかったそうです。
母がたの祖父母、金子幸作とタケの写真です。八百屋さんの店先です。
追記:このころの尾久の賑わいをテレビでやっていました。お寺の庭先で温泉が出て、そこから芸者などの三業地として栄えました。昔の八百屋さんの住所は荒川区尾久2丁目145です。現在は西尾久、東尾久と別れています。
結婚前の母親と6人姉妹です。母は長女でした。
母の両親は新潟に帰ったままになってしまいました。
祖父は爆撃後の焼けあとから、トタンや木材を集め、大久保通りで、最初のバラックを建てたと言っています。その後もう少しましな家に建て替えました。平屋の家です。戦後疎開先から帰った私は、その家をよく覚えています。その狭い家に、祖父母、両親、海軍に行っていた叔父(私は海軍ちゃんと言っていました)、おばと小さい妹と8人で住んでいました。さらに住み込みの職人さんまでいたのです。
続く
大正、昭和、平成時代を生きた父の死(2)
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