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2016年10月

2016年10月30日 (日)

NHKスペシャル、 徹底解明”健康長寿”スーパー100歳の秘密

NHkスペシャル、徹底解明”健康長寿”スーパー100歳の秘密
 2016年10月29日(土曜日)午後9時から10時まで放送
ー老化を防ぐ食事とは、健康、長寿の秘訣
現在日本人で100歳を超えた人は、65,692人いる。100歳を超えた人を”センテナリアン”という。
◎センテナリアンー100歳以上1000名に1人ぐらい、しかし115歳以上はぐっと少なく今までに世界でも41名しかいない。2009年に世界で45万5000人。ビタミンA やビタミンEの摂取量が多い人が多いともいわれる。FOXO3遺伝子が関係しているとも。
 千葉県でお菓子屋さんをやっている千葉県の田谷きみさん。101歳と7か月。1日3食、なんでも好き嫌いなく完食する。
 広瀬慶応大教授のはなし 
 田谷さんの炎症レベルCRP、なんと0.03、普通の健康な人のレベルは0,30ぐらい
 炎症には、急性炎症ー急な炎症
        慢性炎症ー自覚症状少ない、細胞老化でしだいにおこる,
炎症レベル=CRPとはC反応性たんぱくのこと
  炎症が起きて、細胞が破壊されると急性反応物質が放出される
  ふつう 0,3以下、0,4-0,9は軽い炎症、中、高、15-20は重症な炎症とされる
 100歳以上の長寿者、キンさん、ギンさんの場合でも炎症レベル低かった。
 100歳以上の高齢者、共通性、慢性炎症が少ない
 日野原重明氏(聖路加国際メディカルセンター理事長他)1911年生まれ 115歳
     文化勲章受章
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 鍋島陽一氏 (先端医療センターセンター長) 70歳、NHK会場へ
サイトカインの働き
  リンパ球などの免疫システムの細胞から分泌されるたんぱく質。インターフェロンなど、数百も見つかっている。免疫関係、炎症関係に関連したものが多い。
 炎症レベル(CRP)は、糖尿病や、動脈硬化などの、慢性的な炎症作用の状況を調べるのに、適している。
 CRPは遺伝の影響と環境の影響とで、どちらが大きいか。
双子で調べたとき、遺伝的要素、25%、環境的要素75%で、環境的要素のほうが大きい。
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100歳まで長生きの人、血管に慢性炎症がない
◎最近の健康診断の血液検査ではCRPが表示されています。ちなみに今年行った血液検査では、ブログ筆者は0,11.家内は全く炎症がない0,01でした。
南イタリアの長寿地域を見る
 イタリアのサルディニア島などでは、元気なセンテナリアンが多い。
魚、オリーブオイル、ナッツ類など地中海食品をよく食べている。
100歳以上の人、日本では男女比女性9対男性1の割合
ところがサルディニア島では1対1の比率
山地が多く、階段の上がり降りなどが多い。身体能力高い
90歳になっても働いている。
 日本で長寿者の多いところも魚、ヒジキなどの海藻類をよく食べている。
地域により腸内細菌が変化してきている。元気な優良な腸内細菌。
センテナリアンの人、血流の良さ
 血液の微小循環(毛細血管)が良い。
 特に、心臓、腎臓に影響
 細胞の中の老廃物を取り除く
 階段など運動の
 血流の良さ
 老化した細胞の除去や再生
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健康な細胞の状態
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細胞の中に老廃物がだんだんたまってしまう。老化が進む。
◎ブログ筆者は今はビタミンEと、ビタミンC,ビタミンB2の入った薬品ーそばかす・冷え・手足のしびれにいい薬としてトコスタシーエースEC2000を飲んでいます。すっぱくて飲みやすい薬です。いづれのビタミンも血の巡りをよくするビタミンです。80包みで2000円ぐらいです。おすすめします。(筆者の場合は以前はビタミンE(ユベラ)を30年前から飲んでいました。)
 
こころのもちよう、生きがいを感じている人、人にいい影響を与えている人
ー健康で、長生きの傾向がある
105歳でニューヨークで床屋を現役で行っている人。
 満足感、達成感がとても強い。
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100歳を超えた、日野原さんの食事
◎CTRA遺伝子群とは
 幸せの種類によって活性化される遺伝子群に差が出る
1、生きがい追求型-向上心や自信を持ち生きがいを持つ
2、好きなことをして欲求満足ー快楽追求型
 幸福感(度)は体に良い作用をあたえる
 幸福度高い人はウツ傾向になりにくい
 生きがい追求型は快楽追求型に比べ幸福度は少ないが、2の満足の少ないが得ることができる。
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満足感が高いと慢性炎症を抑える作用がある。
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炎症レベルの高さで生存率が違ってくる
116歳のエンマさん 1899年生まれ
 足腰が弱く、一歩も歩けない状態 寝ているだけの状態でも幸せと感じている
 老年的超越
 自分の人生を、意義あるものと感ずるかどうか
 のんきで楽しく生きられて満足
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身体機能は年齢とともに低下するが、ポジティブ感情は年齢が高まるに従い上昇する。
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高齢者は悪い記憶はすぐ忘れ、良い印象しか残らない傾向が。
ブーバー  
 新しいことを始める プロダクティブ・エイジング
心の持ちようが大切だという
マラー、マザー教授によれば
 人間の前帯状皮質の働き
 良い印象のものだけ記憶、ネガティブなものは無視
 100歳を超えると不幸を感じなくなる、急に変化 老年的超越
日野原氏も100歳を過ぎてから、生きがいを強く感じるようになったという。
◎十分な内容をお伝えできませんでしたが、概略はお分かりいただけたと思います。お互いに100歳過ぎて元気で阿賀行き、センテナリアンになれるといいですね。
 
 

2016年10月27日 (木)

第五倫伝 第14章「第五倫危うし」 第五倫暗殺計画 第五倫柯岩にて襲われる p181-185

第、14章、「第五倫危うし」
第五倫暗殺計画
 曹紳は会稽郡に散らばる配下の巫祝を集めて言った。
 男性である祝(ほふり)女性の大巫女など主だったものが、曹紳の屋敷に集まった。
それぞれにある狂信に取りつかれた異様な姿のものが多かった。
 曹紳は50歳ぐらいであごが張り、大柄で眼光が異様に鋭く、人を威圧する容貌をしていた。それが低く、重みのあるある声で皆を見回しながら言う。
 「どうだ、牛祭りが禁止され、今度の太守が思うがままにしていたら、次から次へあれがいけない、これがだめと禁止してくるにちがいない。そうすれば我々の仕事がなくなってしまうぞ。どうしたらいいと思うか」
 「曹紳殿の言うとおりだ、牛祭りが欠かせない祭りだということを新しい太守に説得すべきだが、あの様子ではとてもむつかしいであろう」細長い顔で鼻がとがった曹尚は、ひげをしごきながら、話をつづけた。
 上虞県の曹尚は曹紳の親戚であり、上虞県の巫祝の有力者であった。この子孫が上虞で親孝行の鏡としての曹娥となるのである。
 曹紳はそれを受けて。
「ひそかにわれわれの力で呪い殺す、場合によっては丁候どのにお願いしてひそかに消えてもらったらどうだろうか」
 それがいいと賛同の声が続き、一同は、曹紳の提案に従うことになった。
 そこでさっそく、曹紳らは、牛祭りを後援する豪族の丁侯に相談した。丁侯は銭糖県で王充の父といさかいを起こした丁伯の親戚である。丁侯も牛祭りを取り仕切りそこで大きな利益を得ていたのである。
 丁侯は山陰県(紹興)隋一の豪族で、広い荘園をもち、そのなかに城砦のような屋敷を持っていた。その身内の者が何人か都や県の役人になっていた。また部曲という私兵を百人ほど抱えていた。昔から一族は紹興酒を作っており金回りも豊かであった。
 丁侯は宴会を行うので集まってほしいということで、第五倫に反対するものをひそかに広大な屋敷に集めた。当時の豪族はしばしば一定の盟主の地位を維持するために豪華な宴会に招待したものである。
 そこには、丁侯と、上虞の豪族孫徹、あるいは、銭糖県などから集まってきた丁伯の子などの豪族など。呪術師の長である曹紳や曹尚さらには山陰県の功曹掾をやめさせられた蒙臣、銭糖県の獄曹掾の杜安生などの県の役人もいた。彼等は皆第五倫の政策により民から利益を搾り取ることができなくなった者たちである。
 酒の席が進むにつれ、第五倫が赴任してきて、いかにいろいろなことがやりにくくなったかと、不満の声が上がった。ほかのことは我慢するにせよ、特にずっと続けてきた牛祭りを廃止するのだけは許せないという声が強くなってきた。
 話の盛り上がりで、第五倫はわいろも効かず頑固だから、何とかひそかに始末してしまおうとという話になった。丁侯も第五倫の政策により、民から搾り取ることができにくくなった。そこで第五倫を暗殺するという豪族と悪徳役人と巫祝そしてならず者などの、一大連合が出来上がった。
 直接手を下すのははばかれるために、特殊な武術者やならず者たちに暗殺を依頼した。巫祝たちも一斉に第五倫の呪詛を行う。
 山陰県の前功曹掾の蒙臣は第五倫が山陰から銭糖へ小人数で出発するという情報をひそかに仲間に知らせた。
 これは絶好のチャンスであると。
 丁侯と曹紳は裏社会のボスで、腕では誰にも負けたことがないと自慢する、牛殺しと異名のある趙袁を屋敷に呼んだ。趙袁は身長8尺5寸(1m95cm)筋骨たくましく、暴れ牛を角をもってねじり倒したという怪力の持ち主であった。 得物は鉄槍(てっそう)である。鉄槍とは、普通槍の柄は堅い木であるが、すべて鉄で作られたものである。これは刺すだけでなく強力な打撃兵器となった。しかし大変重くなり、よほどの膂力がないと使いこなせないものであった。またその槍さばきもすさまじいものであった。今まで多くの戦いで一度も負けたことがないと自慢していた。
 趙袁の弟分蓬越も八尺を超す偉丈夫である。
 丁侯は言う。
「良いか、今度、お前たちの一世一代の大仕事だ。太守の第五倫をひそかに始末してほしい。うまくいけばほうびは望み放題、望めば官につくこともできる。今度、第五倫は山陰から銭糖に行く情報をつかんだ。相手は10人ぐらいだそうだ。そこをお前の部下と私の部下えりすぐりを50人も出せば、いくら何でも殺せるだろう。絶対に殺して来い。
 しかし、ことはお前たちが勝手にやったことで、絶対われわれのあずかり知らぬこと、名前は出すな。名前を出すようならお前たちの家族にも災いが降りかかるだろうよ」
 趙袁はいかつい、あごが突き出した、いささか巨人症気味の巨体で、どすの利いた声で言うには。
「 牛殺しの趙袁と言われる俺の力を見くびってもらっちゃー困る。お前も知っているだろうが、今まで戦って一度も負けたことのないこの俺だ。第五倫なんて野郎は俺一人ででも倒せるぜ」
「だが第五倫は恐ろしい弓の名手と聞く、盗賊を一人で追い払ったとか。護衛の人間も腕の立つものを連れて行っているだろうが、気を付けることだ」と丁侯が言うと。
「おう、その辺はうまく弓を使わせないようにするさ」
長いあごひげを上から下にしごき
「それに俺の配下には腕の立つ奴はいくらでもいるぜ。任しておくがよい」
「それは心強い。それでは前金として千両をもっていくがよい」
成功したらその倍以上をやろう」
「早速手配するぜ」
足早に出て行った。
 丁侯らはそれぞれ影響下にある部下たちに第五倫の悪口を言いふらさせた。牛祭りをやめさせる第五倫にはたたりがあり、急死するであろうと。
 その動きを察知して、謝夷吾は自分の弟子たちを、宋三は塩の商人の仲間から、厳八は庶民の中からその持ち味を生かして調べ始めた。丁侯らに怪しいたくらみがあることは分かったが具体的なことはわからなかった。
 丁侯らは新参の太守にはそれほどの探索能力はないと高をくくっていた。督郵、鄭弘はもしもに備え部下を常に武装させいつでも出動できるようにした。
 鄭弘、謝夷吾らは怪しい動きがあるので、移動には多くの護衛兵をつけるように、第五倫に言った。
 しかし、第五倫は出歩くとき、多くの護衛兵を付けることを好まなかった。その代り必ず、宋三と厳八がついていくことにした。
     p183
第五倫、柯岩(かがん)にて襲われる
 二月のまだ寒い日、巡察で第五倫と宋三と厳八、あと護衛の兵が7人。護衛の兵は鄭弘えりすぐりの弓術、剣などに優れた者たちであった。合計10人の一行は山陰県(紹興)から、隣の銭糖県(現在の杭州)に馬で向かうところであった。
 その道は海岸に近い運河ぞいの 道で、はるか昔より作られていた道である。
 今でも、運河、有料道路、鉄道がとおる大動脈である。
その動きを察知した趙哀はひそかに自分の部下の中から、えりすぐりの50人の暗殺団を組織した。
 偵察のため、先行していた厳八は、道のはるか向こうから、多くの物々しいいでたちの騎馬の一団がたむろしているのにきがついた。その殺気立った様子からこちらを襲うと見た厳八は、一瞬にして第五倫一行の危機を察した。すぐに近道の道を通り、息せき切って第五倫に知らせた。
「賊が襲ってきます。その数およそ五十」
大声で倫の一行に知らせた。
 10人余りの一行を五十人もの数で襲う。行動も白昼大胆に。これだけの人数で襲うという情報は、第五倫一行はつかんでいなかった。
 「厳八よ、急いで、山陰の(会稽)郡の役所に知らせておくれ」
厳八は聞くやいなや、背後を気にしながら、直ちに馬にムチを入れ、第五倫襲わると知らせに走った。
 第五倫は直ちに
「この平地では危険だ、平地では防ぐものがない。近くの岩の切り出し場、柯岩に行こう」
第五倫の一行は直ちに近くの石の切り出し場、柯岩を目指した。
 襲われた場所は田園地帯で縦横に運河が走る柯橋。紹興酒のもととなる名水、かん湖に隣接したところである。秦の時代からの石切り場があるところである。そこまで5キロ、今では根元が極端に細い奇岩、柯岩や石の大仏やお寺のある大きな公園になっている。
 暗殺団は途中で第五倫の騎馬の一行は柯岩のある石切り場に向かったと知り、馬の向きを変えた。
急いで走る第五倫一行。果たしてうまくたどり着けるか。
 ようやく、馬も人も息せき切って、後ろが岩山でそこに小さなお堂があるところに立てこもった。
 しばらくして腕に自慢の荒くれども五十人。その中には腕はたつし、特殊な戦闘能力で雇われたものもいた。うまく殺せば大金が入ると勇んでやってくる。
「よいか、第五倫は大変な弓の名手だそうな。盾に身を隠しながら行け。
 暗殺団は第五倫一行がお堂の中に隠れたようだと知る。
第五倫たち九人はお堂の中から外の様子をうかがう。
「後ろは崖だ、後ろからくることはない。敵は石段を上がってくるので見通しがきく」
 第五倫が言う。
 敵は、堂を見上げる位置から一斉に矢を射かけてきた。木の壁や戸に突き刺さる。
戸の隙間や窓から堂の中に入ってくるものがある。
 「使える矢は拾っておけ」
第五倫が指示。
戸の隙間から外の様子をうかがう。
 賊はたてのうしろに隠れながら隠れながら石段をじりじり上がってくる。
 「どれもこれも相当な使い手のようだな。これは手ごわいぞ」
 敵の矢の斉射が終わった後、九人はいっせいに戸の間から弓のねらいを定める。
「できるだけ近くまでひきつけろ」
 弓の名手宋三は
「相手は多い、矢は大事に使え」
「盾から出たところをきちんと狙え。足元があいているぞ」
「弓を打つため、盾を放した時がねらい目だぞ」
 第五倫は強弓のねらいを定め、次々に矢をつがえ、たちまちのうちに3人の敵を倒した。
 他の護衛兵たちも手練れである。次々に矢を放つ。矢に当たり階段を転がり落ちるもの続出である。たちまち敵は早くも混乱した。さらに敵は7人が傷ついた。
 「これはいかん」
相手を小人数だとみくびっていた敵は、
 「下がれ、下がれ」
と一斉に弓矢の届かないところまでいったん後ろに引いた。
 「人数が少ないと、少し甘く見てしまったな」
 「よし、火攻めにしろ」
趙袁はいった。
また、堂にちかづき、階段の下から、上を見上げて火矢をうとうとする。
 しかし、火矢は普通の矢ほどには飛ばない。
射程距離が長い、第五倫の強弓の矢は、火矢を射ろうとするものを次々と倒す。
 これはたまらん。さらに後ろに下がった。
これはどうしたものか。攻めあぐねて主だったもので相談する。
「数を頼んで切り込もう」
 すでに十数人が死んだり、手傷を負っている。
 残ったものの中から盾を持たずに30人ほどが一斉に階段を駆け上がった。
さらに九人は狙いを定め、次々に射落とす。
 ところが矢を避けて6人ほどが堂の前にやってきた。
そして、近くから火矢を打つ。
 何本かは堂に刺さって燃え始めた。
 「三人は俺と一緒に上がってきた敵を倒せ」
言うや否や、宋三は堂から飛び出して
先頭の敵を槍で突き伏せる。
 敵は次つぎに階段を上がってくる。
堂の前は激しい切りあいになる。
 残りの6人は矢を射続ける。
敵は死人けが人を残して退いた。
ただ、敵も手ごわく、堂を出て行った3人は手傷を負い、堂の中でも矢が刺さって、手傷を負った。かなりの重傷を負ったものもいる。
 敵もさすがに手傷を負うものが多く、疲れが出て、いったん退いた。
お互いに一時の小康状態が生まれた。
 「一人が知らせに行ったぞ、ぐずぐずすると奴らに応援が来る」
「いやあ山陰の郡役所からくるまでにはまだ時間がある」
賊のかしら、趙袁が
「奴らの矢玉も尽きてきたころだろう。そろそろ俺様が行って仕留めてやる」
にやりと笑った。
   p185
「謝夷吾、風角占候で、危機を知る」
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/12/
 
 
 
 

2016年10月19日 (水)

地下鉄で、門前仲町へ、富岡八幡宮と、深川不動へ、昼は「しまだ」さんへ

地下鉄で門前仲町へ 
 2016年10月18日(火)、ヘルパーの斉藤さんと、門前仲町の、富岡八幡宮と深川不動堂へ行ってきました。門前仲町へは高田馬場駅から地下鉄東西線で行きました。今までJRは今まで、しばしば利用していましたが、地下鉄は電動車いすでは初めての利用です。
 門前仲町へは今まで3回ほど行っています。初詣で富岡八幡宮と深川不動堂へ行ったこともあります。
 地下鉄東西線高田馬場への、エレベーター乗り場は駅前のロータリーの中にあります。門前仲町駅は高田馬場駅から18分ほどで、ほぼ直線で行くために、案外と早く行きます。
 家を1時近くに出ました。
 門前仲町の地下鉄の駅から近くで、まず昼食を食べようとしました。しかしお店はたくさんあるけれど、しまっている店が多く、あるいは、空いていても車いすでは、お店の中へ入れないところが多く、だいぶ町中をぐるぐる回りました。前、家内と行った、アサリ飯の門前茶屋も締まっていました。
 空いているお店を探してあちこちへへと行きました。運河を渡る橋のところもいきました。
水がきれいで、ボラの群れが泳いでいました。
手打ちそばとうどんの「しまだ」さんで昼食
 ようやく、お店がやっているところがあり、入りました。手打ちのそばとうどんを出している「しまだ」さんです。そばもうどんも手打ちというのは珍しいのではないでしょうか。小さいおみせですがだいぶ前からやっているようなお店でした。(江東区富岡1-8-32 、深川不動堂近く、永代通りから1本横道へ入ったところです)
 昼の時間が過ぎると閉店する店が多い中で、ずっと店を開けていてくれると助かります。2時ころでしたがお客さんは3組ほどいました。
 注文した錦そばは5種類のざるそばと天ぷらセットで2千数百円です。後鍋焼きうどんを頼みました。生ビールを1杯づつ。壁面にいろいろお品書きが来てありました。それも注文できるということで、つまみで、もつ煮と鰆の西京漬けの焼き魚を頼みました。少し頼みすぎでしたが、斉藤さんに6割がた食べてもらいました。どれもなかなかおいしく、よかったと思います。お勘定は全部で7000円と少しでした。日本酒もたくさんありお酒をつまみで楽しむにはいいお店でしょう。
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錦そばです。左下はネギとゴマとわさびです。
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錦そばについてきたてんぷらです
 
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鍋焼きうどんです大きな海老天がはいっています
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「しまだ」さんの入口。小さなお店ですが、車いすでも大丈夫です。
富岡八幡宮と深川不動堂へ
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深川不動堂です。おみくじを集めています。お神籤は、斉藤さんに引いてもらいました。第46番大吉でした。おみくじ集め累計71番目です。お寺の近くには階段で近寄れませんでした。
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富岡八幡宮です。境内各所にスロープが設けられていました。最近取り付けられたようです。八幡宮の社殿まで、車いすで行けます。中央参道と手水舎が新しく作られました。
 富岡八幡宮は東京で最も権威ある八幡様です。八幡様の御祭神は応神天皇です。武士の神様としてあがめられました。
 すぐ隣に池と七渡弁天があります。富岡八幡宮のおみくじは、第43番中吉でした。七渡神社は4番大吉でした。
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深川不動尊と富岡八幡宮の前の大通りー永代通りにある永代茶屋です。以前家内とアサリ飯を食べました。2時にはもうしまっていました。永代通りに地下鉄東西線。それに交差して清澄通りに、地下鉄大江戸線、門前仲町駅があります。
 この周辺にはたくさんの飲食店、土産物店があります。江戸時代から栄えたところだから当然です。
 

2016年10月18日 (火)

「歯はみがいてはいけない」という本について、唾液の重要性-咽津法と関連

 『歯はみがいてはいけない』という本が平積みになっていました。森 昭氏が書いた本で、講談社α新書で、2016年8月18日に第1刷,10月6日に、第5刷になってかなり売れているようです。840円プラス税です。講談社の本では、好評既刊の中に『長生きは「唾液」で決まる!』という植田耕一郎氏の本もありました。
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 帯封に「日本の歯科常識は常識は間違いだらけ!」
裏表紙に
「歯はみがいてはいけない」として
口の中は「口腔内細菌」の大洪水
プラークの全身感染で寝たきりに
キスが歯周病菌を蔓延させる
日本人の口臭は世界一強烈?
食べかすとりをやめて、歯垢除去
デンタルフロス+音波歯ブラシを
1カ月で歯ブラシは細菌の温床
市販の歯磨き剤はいらない
キシリトールで虫歯になる!?
「よい歯科医院の」見つけ方
裏表紙の帯封に
 日本では100万人以上が寝たきりになり、スエーデンでは寝たきりの人はほとんどいません。日本人は80歳で残っているはが10本以下なのに対し、スエーデン人は80歳で歯が21本以上残っています。医療や食事、生活習慣の問題が論議されていますが、歯科医師である私に言わせれば、この原因は明らかです。
 総日本人の大量の寝たきりを生み出している原因は「歯」です。「一日3回の歯磨き」が、歯や歯ぐきにダメージを与え続け、歯周病を引き起こし、歯の喪失はもとより、口臭や全身病のの原因になっています。食後すぐに歯磨きをし、歯磨剤(歯みがき剤)を大量に使い、かつデンタルフロスを使用しないという”間違った歯磨き習慣”があなたの自己免疫力を奪っています。
 森 昭氏は昭和39年京都市生まれ、平成19年MDE(メディカル&デンタルエステ)協会を設立。唾液分泌を促進させる癒しの予防歯科(デンタルエステ)を全国の歯科医師、歯科衛生士に啓発。唾液に注目した臨床歯科の第一人者として知られ、著書「体の不調は「唾液」を増やして解消する。(PHP研究所)が話題になる。
はじめに
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□毎食後10分以内に歯磨きをしている。
□今使っている歯ブラシは、いつから使っているかわからない。毛先が乱れて、歯ぐきが痛
  くなったら交換している。
□デンタルフロスや歯間ブラシは使っていない
□市販の歯磨き剤はたっぷりつけている。
□歯科医院には虫歯になってから治療に行く。
 1つでも☑がついた方、残念ながら、あなたがこれまで正しいと信じていた歯磨き習慣は間違っています.このままでは、あなたは50代で歯がなくなりだし、60代では部分入れ歯、70代では総入れ歯という未来が待っています。
・ 「食べたらすぐみがく」というのは日本だけの習慣です。ほかの先進国では、むしろ『すぐ
 みがいたらダメだ』と言われます。
・歯ブラシは1カ月j以上同じものを使っていたら、バイ菌でみがいているも同然です。
・歯ブラシよりもデンタルフロスのほうが何倍も大事です。
・市販の歯みがき剤は、ほとんど意味がありません。むしろつけすぎると害になります。
・歯医者で虫歯が治ることなどありえません。たとえるなら、雨漏りにトタンをはっているよう
 なもの。ほかの先進国で歯科医師の仕事とは、虫歯を治すよりも、なぜそのような口の状
 態になったかを考えて、再び同じ状態にならないようにすることです。
・世界的には、小さな虫歯は治さずに、生活習慣を改善することで様子を見るというながれ
 になっています。
 健康寿命を延ばすための7か条 -はブログ筆者
1、歯みがきは寝る前と起きた直後にー筆者は食後3回、食後すぐにはみがきません
              夜目が覚めた時にも意識的に唾液を飲み込みます
2、デンタルフロスが主、歯ブラシは副 ー歯ブラシが主で、デンタルフロスが副です
3、食後は舌回し ー咽津法で意識的に唾液を出すようにするとすぐ出てきます
4、口は閉じる -口呼吸はよくないです、鼻つまりがあると口呼吸になりやすい
5、歯は閉じない -あまり 歯を食いしばると歯がボロボロに
6、薬は飲まない -無駄に飲まないようにしますが、医者で処方された薬は飲みます
7、かかりつけ歯科衛生士をもつー毎月1回来てくれます
 歯磨き剤は歯みがき剤でみがかないと、すっきり感がしないと感じる人が多いが、”歯みがき剤企業”の戦略です。なくとも何ら問題ありません。天然の歯みがき剤である”唾液”があるからです。
 一日3回食べたら3分以内に、3分以上、歯みがきをするという「3・3・3運動」も元々は歯みがき剤企業の商業キャンペーンでした
◎ 確かに全体に歯磨き剤メーカーのキャンペーンに踊らされていることは感じます。
第1章 健康長寿は「口内フローラ」できまる
歯を守ってくれるのは唾液
歯周病も、虫歯も、原因は歯垢(プラーク)
寝たきりの多くはプラーク感染症
  歯垢(プラーク)を放置すると、歯周病になり、脂肪肝、やアルツハイマーを発症することになる
 赤ちゃん歯がなくて ハイハイの4本足から、前歯が生えてつかまり立ちの3本足、大人になり2本足、年を取り奥歯がなくなると杖で3本足、歯がなくなると四足歩行に帰る。岡崎好秀先生の話。
◎岡崎好秀氏には、以前人間学研究所の例会で何回か大変興味深い話を伺いました.
 日本人の口臭のきついのは、一番の理由は歯周病
第2章 「歯みがき」の間違いが全身病を作る
デンタルフロスを習慣に
 食べかす取りをやめて、歯垢除去
 日本人に多い口呼吸
第3章 ある歯科医の告白
 歯科検診が虫歯を作る!?
  探針検査が虫歯を作る
 ガラパゴス化が進む日本の歯科
  しつこいようですが他の国では就寝前と起床後に口の中のケアをします、唾液がほとんど出ない睡眠中に歯垢が増えることを知っているからです。
 目的別の「おすすめ歯磨剤」
第4章 寝たきりにならないための歯科医からの大胆な提案
 予防歯科で人生の最後が健康に!
 歯科医院を虫歯になって歯を治療するところから、健康寿命を延ばす場所へ
 世界の人口の2%の日本人、世界の薬の1割を消費する日本人
    -確かに薬を飲ませすぎるなと感じられる
 
◎ブログ筆者の「唾液健康法」との関連と、歯の現状について
 ブログ筆者は、「唾液健康法ー咽津法(いんしんほう)」を推奨しています。森 昭氏の本でも唾液の重要性を書いておられますが、筆者の「唾液健康法は」食べるときによく唾液を出して歯を丈夫にするだけではなく、日常不断に唾液を意識的に出して飲み込むことを一つの行法として推奨しています。
 筆者が「咽進法」を意識的に始めたのは30年位前からです。平安時代の医学書丹波康則の「医心法」の中に、唾液の効用が書いてあり、それからいろいろと書を読む中で、唾液の有効性について確信をもち、自分で実行するとともに、ブログなどを通じて皆さんにも進めているものです。
 唾液健康法(咽津法ーいんしんほう)、不老長寿に関するブログについて、リンク集」http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/09/post-2328.html
その前に、参考までに、筆者が使っている糸ようじと歯間ブラシです。病気で入院後、訪問診療で、月1回、歯科医と歯科技工士の方に来ていただいていますが、その時に勧められて使っているものです。
 
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今筆者が使っている糸ようじです。デンタルフロスです。
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今筆者が使っている歯間ブラシです。左がやや大きいタイプ、右が小さいタイプ。
 咽津法で、唾液を意識的に飲み込む療法をやっているため非常に歯は丈夫で、厚くなり、ほとんど歯医者さんにはいきませんでした。
 しかし、歯みがきだけでは十分でなく、結構歯垢が歯に付着していました。はじめの数カ月は月2回訪問診療で歯科医の方と歯科技工士の方に来ていただき、徹底的に歯垢を取っていただきました。一通り歯垢が取れた後と、糸ようじと歯間ブラシで歯をみがくことにより、歯は格段にきれいとなり、今では月1回でそんなに時間がかからず取りにくいところだけ歯垢を取ってもらっています。今までは歯と歯の間の隙間はほとんどありませんでしたが、今は少し隙間が空いています。隙間に食べ物が引っ掛かりやすく、一日3回歯を磨いています。ただし食後すぐではなく時間を空けて歯を磨くようにしています。歯磨き剤はカオーの歯周トラブルケア用の薬用ピュオーラを使っています。やはり歯を磨いた後の清涼感も捨てがたいものがあります。
 唾液を普通の人より、多く意識的に飲み込んでいるので、どうしても歯垢がたまります。ただし、ずっと前の黒っぽい最近の塊となった歯垢と違い、再石灰化のための真っ白なカルシュームだけのものが付着し、なかなか自分でとれず、そこは歯科技工士の方に取ってもらいます。
 森 昭氏の歯みがきのやり方など少し違いますが、歯にとって、唾液の重要性については共通しています。
 
. 森氏が情報をいただいた、先生というなかに、岡崎好秀先生の名前がありました。岡崎先生は、人間学研究所で何回か大変面白い話を伺い、以前は大変役立つ歯に関するいろいろな情報が書かれた年賀状もいただいていました。前は岡山大学の講師をしておられましたが、現在は国立モンゴル大学歯学部客員教授になっておられるようです。
 恥ずかしながら。自分の歯の状態を写してみました。
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筆者の歯の状態 向かって右下にいわゆる虫歯の治療の銀歯をかぶせてあります。今から40年前に治療してもらってそのまましっかりしています。
下の歯の治療した歯の隣、1本抜けた隣に、おや知ら ず(第3大臼歯) があります。
上の歯には2本とも親知らずがきちんと生えています。
 ちなみに犬歯の隣が、小臼歯2本、大臼歯が3本でそのうち1本を親知らずと言います。第3大臼歯が生えている現代人は今では3割とか。ネアンデルタール人昔のホモサピエンスではほとんど第3臼歯があります。食べ物が柔らかくなり顎が小さくなるに従い親知らずー第3臼歯がでなくなったり、異常な出方をします。
 

2016年10月 6日 (木)

大久保の弥勒殿(弥勒菩薩)と精進料理,「菜食健美」・東京媽祖廟、道教寺院 ともに台湾系寺院です。

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 以前、大久保で台湾の人で、長くマッサージをしているところがあり、技術的にも大変優れていたので、よく通っていました。そこで教わったのが肉や魚を一切使わない料理を出してくれるところがあると。それがここです。新大久保駅と大久保駅のやや大久保駅側のところです。新宿区百人町2-21-26で、大久保通りに面した葬儀社の公営社の横を入りすぐのところです。

 

 ここが入口です。道徳会館(東京)弥勒殿となっています。台湾の有力者が建てたと聞きました。右奥が弥勒殿です。

 

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弥勒殿の壁にあるポスターです。ランチタイム11時から14時30分、カフェータイム14時半から16時、食品販売11時から15時となっています。夜は営業していません。お酒類は一切扱っていません。

 

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”菜食兼美”のメニューです。全部精進料理です。大豆加工品ーソイミート、小麦グルテン,こんにゃくなどで、肉や魚そっくりに作ります。以前は金額が決まっていて、1200円でしたでしょうか。食べ放題になっていました。何回かここに食事に行っています。2016年10月6日に久しぶりに行きましたらこういう単品メニューになっていました。変わってからは、入っていません。料理とともに精進料理(ベジタリアン)の食材も売っています。全部野菜やこんにゃくなどを使い肉や魚そっくりにできています。

 

 看板を見ると
ラーメン780円となっています。
ランチセットが1300円で、メイン1品、サラダ、スープ、フルーツ、ドリンク、ミニデザート付きだそうです。湯葉と豆腐で作ったかば焼き980円もあるようです。

 

この宗派では肉や魚を食べないようです。信仰をしていない人も自由に食べられます。

 

東京店、名古屋店、広島店、中津川店があります。

 

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弥勒殿です。大きな弥勒菩薩です。日本の弥勒菩薩とは全然違います。日本では布袋様ともいわれます。台湾の台中で大きな弥勒菩薩を見るのがコースになっています。

 

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人の背丈よりずっと大きな像です。高さは6メートルで組み木造では世界1とか。

 

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弥勒殿の左側の建物に精進料理の菜食健美があります。以前食べたことがあります。手前にも弥勒菩薩が。
今度、車いすでも入れるのか行ってみます。

 

大久保にはいろいろな教会やお寺が
大久保駅南口百人町2丁目には中国の道教寺院,,東京媽祖廟ができています。横浜中華街の関帝廟、媽祖廟のような寺院です。こちらは2013年に建てられたまだ新しい寺院です・4階建ての建物です。媽祖は実在の人物から女神になった神様です。商売繁盛、海上交通の安全を祈願します。

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この道の真ん中に東京媽祖廟が、斜め前には韓国の教会があります。

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職安通りや大久保通りには韓国のいろいろな宗派の教会やお寺がマンションの1室にあります。イスラム教のモスクもあります。
一度職安通りのマンションの1室の韓国系仏教寺院を見せてもらいました。仏教寺院もキリスト教会も各宗派でたくさんのものがあります。
 前に数を調べて記入したことがあります。すごい数です。

 

10月10日追記

 

大久保2丁目にある、韓国系の東京中央教会です。このキリスト教会は(プロテスタント系)です
説教は日本語と、韓国語で

 

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2016年10月 5日 (水)

神楽坂のフランス料理店、メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュに行ってきました

2016年10月4日(火)お出かけの日に、ヘルパーの斉藤さんと神楽坂のフランス料理店、メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュへ行ってきました。場所は神楽坂のメイン通りから少し横に入ったところで神楽坂のメイン通りから見えるところです。神楽坂の毘沙門天の近くです。神楽坂のフランス料理のレストランへは、前回は、ル・クロ・モンマルトルに行ってきました。前回もブログにかきましたが、なかなか良い店でした。新宿のレストランをいろいろ紹介している雑誌に神楽坂のフランス料理店が4店紹介されているうちの1店が、ル・クロ・モンマルトルで、雑誌にのっている2店目もいいかもしれないということで行ってみました。

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入口です。手前はテラス席で、車いすですと、テラス席が便利です。手前に段差があり、斉藤さんに上げてもらいました。

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店主はブルゴーニュの方だとか。フランス人の人がいましたが店主かどうかわかりません。

ブルゴーニュのワインが100本ほどそろえているそうです。お酒はシャンパン950円とワイン900円を頼みました。ル・クロ・モンマルトルはワイン1杯無料です。

 昼のランチは1000円から。今回は2500円のコースを頼みました。

店の雰囲気は大変良かったです。

ランチの内容

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前菜?手前のものはデザートのようですが。右のカップにパンが2つ。

1つは500円増し。

 

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メイン料理4種類の中から選びます。今回は左は牛肉料理、右はウズラ料理。ウズラが1000円増しだったような。牛肉料理、は比較的おいしいのですが少し量が少ないような気がします。

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ウズラ料理、確か初めてです。小さい骨は食べられます。

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デザート。そのほかにポテト、500円を頼みました。

合計で税込み8850円でした。

お店の雰囲気は良いし料理も比較的おいしかったです。斉藤さんはモンマルトルのほうが上かなと言っていました。モンマルトルのランチではメインはポークとカモでした。全部で5000円です。ポークは味もよくボリュウムもありました。

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お店の名刺の裏です。場所は神楽坂3-6-5

3260-7280です。

 

 

 

わが家のファミリーストーリー、父を中心として ・戦後から現在まで(その2)追記版

筆者の子どものころ

 私の記憶がはっきりするのは小学校入学ころ(1950年ころ)からで、学校は戸山小学校といいます。そこは、木造二階建てで二部授業でした。体育館はまだがれきの山のままでした。途中から、西戸山小学校ができて、友達の一部が移りました。私の家の裏のほうではニワトリを飼っていました。近くの家では、ヤギを飼っていて、そのお産を見たりしていました。そのお産を見ていた私は、小学校で、人間の赤ちゃんはどこから生まれるかという話しになったとき、私はヤギを見ていたので、お尻から生まれるといいました。他の友達はおなかから生まれるというのです。おなかを切って生まれるので包帯の帯をしていると。私はそれからなにかと「尻から生まれたこうもん(肛門、こういちなので)でー」とみんなに、ひやかされました。

 

 当時は焼け野原で大きな家がなく、家からそのまま、新宿の伊勢丹や三越が見えました。今の歌舞伎町のあたりは、池があったように記憶しています。そこで万国博覧会みたいな会場ができてその建物の後に、今の映画館街ができました。現在の歌舞伎町2丁目は昔は西大久保1丁目で、普通の民家だけでした。新宿の紀伊国屋書店も、二階建ての建物でした。この古い紀伊国屋に行ったことがあります。

 

風呂桶の製造、販売

 

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まだ平屋のころの佐竹製作所。右側が住居部分。左が店舗と風呂の製造場所でした。

 

裏でニワトリを飼っていました。風呂桶の製造と卸、小売りもやっていました。

 

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まだ東京ガスの委託店をする前のお店。

 

 

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2階建てに立て直した建物。間口が5間ぐらいありました。半分が風呂店、半分が東京ガスのサービスセンターまだ仕事の中心は風呂桶の製造と販売の仕事でした。

 

 

 家では、風呂桶の製造販売(桶商佐竹)を戦後すぐから初めて、祖父や父、叔父が、そして次第に職人さんも入ってきました。はじめは新大久保と大久保駅の間の現在の百人町2丁目に店がありました。そのほかにお滝橋通りに3階建ての家があり、富士山がよく見えたそうです。次第に町の人口も増えて、風呂の需要も増えてきました。今の第2佐竹ビルのところに土地を買い、平屋建ての家を建てました。

 

 その後二階建で、下は材木の乾燥場所、上は職人さんの寝る部屋を作りました。現在のサタケビルのところも、家もバラックから木造二階建てに建て替えました。当時店のあるほうの家は土地が80坪あまりあって、前面は二階建の家、奥はやはり材木の乾燥場と、二階は職人さんの住まいの家を建てました。その家は、総檜づくりで、二階はふすまをとりはらうと、5つの部屋が全部つながるようになっていました。おじいさんがなくなった時には、自宅で葬儀を行ったのですが、全部つながった部屋で、お通夜の宴を行ったものでした。そのほかに近くのお米屋さんの隣に30坪の土地を買い材木の干場と職人さんの宿舎にしました。そこは今は第2サタケビルが建っています。

 

 祖父の庄次郎は親分肌で、デーンという言葉をよく使っていました。戦前から戦後にかけての大久保・百人町地区の有力者でした。皆中神社の神主さんはお爺さんが木曽から連れてきたそうです。もう少し弁が立てば区議会議員にでも簡単になったのにと言っていました。

 

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祖父、庄次郎の写真です。

 

祖父から父へ 

 

 うちで作る桶ぶろは木曽の材木商から現金でじかに安く仕入れた木で作り、他の業者よりいい材料を使ったので、大変評判がよかったのです。現金を胴巻きに入れて木曽に買い付けに行ったそうです。掛売でなく現金を目の前に出されると、安くでも売ってしまうそうです。当時は風呂桶の材料は木場のほうから仕入れるのが普通でした。いい木で風呂を作って売りますからよく売れます。他の業者からはだいぶねたまれました。朝暗いうちにトラックできた材料を総出で乾燥場に運びました。箱風呂を作る檜の長い板。桶風呂を作る椹(サワラ)の板です。桶風呂は1人でなんと3本も作ってしまいます。私も子どものとき当然手伝いましたが大変な作業でした。うちは余った板がたくさんでき、その木っ端からチャンバラの刀を作ったり、船の模型を作ったり、クラスの同級生には評判でした。

 

 父は、風呂の職人として、朝早くから夜遅くまで、桶ぶろを作りました。昔は休みは盆と正月だけで、大みそかの夜まで仕事がありました。ずいぶんと仕事で頑張ってきたのです。そのおかげで、かなり店に蓄えもできてきました。戦後佐竹製作所に名称を変えました。当時一番売れたのは、桶ぶろにガスバーナーをつけた、ガス風呂で東京ガスのガス風呂指定商に最初に認定され、その後ガス料金を受けたり、ガス器具も売る、東京ガスのサービスセンターにもなりました。認定を受けた最初の10数社だったのです。同じ新宿の倉前産業さんに卸をしてもいました。作れば売れるという時代でだいぶ儲かったようです。当時は公団住宅がたくさん作られ、ガスぶろが山のように積み上げられました。

佐竹ビルの1,2階が東京ガスのサービス店となっていました。

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追記

サービス店基本契約書という、東京ガスと当社との契約書をファイルしたものがあります。それを見ますと、「店舗の一部使用に関する覚書」というものです。昭和33年11月1日(1958年-2021年で63年前)に締結されたものです。これは店舗の一部を東京ガスのサービスステーションとして使用することを承諾した。というものです。月額使用料は1万円です。電話、電気、ガス、水道などの使用料は毎月3000円でした。東京ガスを定年退職した人が店口でガス料金の受け取りなどをしていました。そのうちその人は当社の社員となりました。そしてその後、修理、ガス工事、設計等々、次々に東京ガスの仕事を委託されていったのです。

追記

東京ガスとの古い契約書が出てきました。「店舗の一部使用に関する覚書」で、(有)佐竹製作所の社長、佐竹庄次郎(祖父)と東京ガス(株)社長、本田弘敏とで、当時は、四谷営業所長(代理人)との覚書でした。昭和33年11月1日です。使用料は月に1万円でした。店の一角にガス料金を受け付けるところを作り、東京ガスを退職した人が受付をしていました。はじめの2番目の写真で、東京ガス百人町サービスステーションの写真があります。筆者はこのころまだ15歳でした。

 祖父は昭和44年の4月22日に亡くなりました。76歳でした。食道がんでした。今まで病気などしたことがなかったのですが、たばこをよく吸い、晩酌にはおかんした日本酒を毎日飲んでいました。これが影響したのでしょう。

 

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 三越本店でのガス風呂の製造の実演をする父

 

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実演中の父親の顔写真です。

 

 父は、祖父の死去後社長となり、東京ガスでの会議に出席するようになりましたが、そういった会議は苦手でした。当時、父がよく話していたのは、東京ガスの手数料を小切手で受け取りに行くのが遅れたり、ガス器具の売り上げが、少ないというので、東京ガスの係長が経営が大丈夫なのか、このままでは、サービスセンターをやめてもらうかも知れないなどとと脅かしたそうです。その時に、父は会社の決算書を見せたそうです。私も記憶がありますが、無借金で預金が800万円あって、当時の会社の社員の月の給料の合計の半年分もあったのです。東京ガスの手数料は、はした金だからとりに行かなくても大丈夫だったと言っていました。

 

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交通少年団の子供たちと、父は新宿交通少年団の団長でした。

 

 

 父は、町会の仕事を熱心に行い、町会長が何もしないので町会の実務をほとんどやってきたと言っていました。 又交通少年団の団長などの活動も熱心に行っていました。そういう点でも大変律義に行ってきました。おじいさんも父もそうですが、もう少し人前でしゃべれれば、すぐ区議会議員にでもなったのにと言っていました。祖父庄次郎は昭和44年4月に亡くなりました。ちなみに祖母いさは平成4年7月に98歳の長寿を全うしました。

 

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父は目と眉の間が狭く、いわゆる奥目で、比較的ほりの深い顔をしていました。今の若い人は名前を知らないでしょうが、俳優のゲーリー・クーパーに似ていると言われたと楽しそうに話していました。

 

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右側が祖母のいさおばあさんです。隣は大阪からでてきた、祖母の妹のうめこおばさんです。2人とも100近くまで長生きしました。

 

筆者は経営をやりながら人間学の確立のために研究所を作りました

 

 私は、東京教育大学の生物学科の学生で、学生時代から関東地域の生物科の学生組織で人間学研究会を主催したりして研究者になりたかったのですが、祖父と、父とで、東京ガス関連の仕事が増え、われわれには中なか対応できないのでどうしても家の仕事をしてくれと言われ、卒業とともに、家の仕事につきました。当時は有限会社佐竹製作所(昭和36年、4月5日、1961年創立)という名前で、その名前から見ても風呂の製造販売が主力でした。私が入社して数年後に、祖父が死去し、昭和44年父親が社長となり、私はまだ25歳くらいでしたが、専務取締役店長となり、東京ガス関係の仕事はすべて担当することになりました。父親は、風呂部門を担当していました。

 

その後業容が建設業関連の仕事も多くなり、株式会社サタケ(1986年、昭和61年5月8日)と変えて私が社長となり、父は会長となりました。私が入社したころの会社は社員数20名ほどの会社でしたが、80名になり創業100年の時には100名の会社にしようと言っていました。会社の売り上げの3分の一は東京ガス以外の仕事でした。うちは下請けに仕事を回さないで、ほとんど自店で仕事ができました。ガス工事だけでなく水道工事、電気工事も同時に同じ人間がやってしまいます。ガスでの担当地域は新宿の大久保地区西新宿地区、渋谷区の代々木、千駄ヶ谷地区でした。大変効率がよく利益も上がりました。不動産の仕事も専従の人が2人行うようでした。東京ガスの委託店のガス器具売り上げは100店ぐらいのうち達成率は常にベストテンでした。成績優秀でもらった銀杯も7つもあります。賞罰という言葉がありますがうちには罰というものがほとんどなくいろいろな賞を付けました。しかし途中から東京ガスの資本が入った合弁会社にされてしまいました。その後、現在は息子が社長となり(社長4代目)、筆者は会長です。会社は東京ガス関連の仕事から離れましたが不動産管理の会社として存続しています。

 

 私は、1963年の学生時代から人間学に取り組んでいました。生物科の学生組織の「生懇」の分科会「人間学」の責任者となり、卒業してからも1965年に民間の研究会(人間学研究会)を立ち上げました。1985年に第2次人間学研究会、その後1991年に第2サタケビル建設とともにささやかながら人間学研究所準備室を経て1999年に人間学研究所を立ち上げました。そして現在も活動を続けています。自分が研究者となるよりは、商売で儲けて、研究を支えたほうがいいと思ったのです。思ったほどもうかりませんでしたが、なんとか人間学研究所の1室を作り、その活動は今も続いています。(「人間学研究所年誌2015」まで発行)

 

父とキャバレー

 

 父親はあまり趣味もなく、派手な遊びをしませんでしたが、当時のキャバレーに行くのが最大の楽しみでした。今は、いわゆる大箱と言われるキャバレーは、コマ劇場と隣の東宝会館が閉鎖されるとともに、昨年末クラブハイツを最後としてなくなってしまいました。わたしも家の仕事をはじめた時に、父に池袋の金の扉というキャバレーに連れていってもらったことがあります。昔は、今のようなカラオケをやるようなクラブというものがなかったのです。父は、クラブハイツには20年近く通いました。毎週月曜日には開店と同時に行って終わりまでいました。お酒をあまり飲まないのですが、前は社交ダンスをよく踊っていました。バンド演奏をする大きな舞台で歌を歌ったと自慢もしていました。私も時々お付き合いしましたが。お気に入りのホステスさんが私と同い年ですし、友達で来るホステスさんもそのような年で、少し閉口しました。父親からみればちょうど娘の年でちょうど良いのですが。母が施設に入るようになってからは、10数年間私と月に2回、クラブハイツに行くのを楽しみにしていました。それは、昨年末まで続きました。(2009年当時)でもきちんと無駄なお金を使わず、限度をきちんと決めて遊んでいました。ホステスさん相手に戦争の昔話をするのが好きでした。普通戦争の時の話はしないのが普通ですが父には楽しい思い出のほうが多かったのです。でも91歳まで、クラブに行くのは、大したものだと思います。ただ他の趣味があまりなく、クラブに行けなくなってからは、テレビを見るだけが楽しみとなってしまいました。

 

 父は、大変な倹約家で、特に電気ガスを使わないようにし、省エネ大賞でももらえそうです。家の電気は照明をあまりつけないようにし、トイレには、トイレの電気をつけないで、戸をあけてすること。風呂には浴槽の半分しか入れないで、水道と瓦斯代を節約すること。しかしそれは、風呂の残り水に雑菌が繁殖し、膀胱炎を引き起こすもとでした。株などの投資もせず、もちろんかけごともしないで、せっせと、お金をためていました。(賭け事は禁止という佐竹家の家訓)又枕が変わると寝られないと言って旅行もあまりいきませんでした。しかしそのおかげで、私が会社の経営を引き継いでから、お金が足りなくなったときに、父親から借りることができましたし、私や妹が家を買うときにも援助をしてくれました。でももっと自分の楽しみのために使ったらとよくいっていましたが、それができない人でした。楽しみは、いろいろな昔話を聞いてもらうことでした。戦争時代の話が多く、もう何度も何度も同じ話を聞いているのですが。半年余り、父親のところに、5階から3階の父親のところまで、朝と晩に食事を持っていって、話を聞いていたのですが、それが、私のできた最大の親孝行だったなと思っています。

 

父の手相

 

 最後に、父の手相を見たのですが、見事に運命線が一直線でそれが中指まで通じているのです。私もかなりいろいろな人の手相を見ているのですが、このようにまっすぐな線をした人を見たことがありません。今思えば記録に取っておけばよかったと思います。自分でもそのことを知っていて、この筋は、豊臣秀吉か、石川五右衛門の手相だと、いっていました。運命線がまっすぐというのは、必ずしも、有名になるというのではなく、何かの道をまっすぐに進んできたともいえるので、そういう点では、見事にまじめに仕事一筋で生きた証ではないかと思っています。

 

追記 2021年6月3日

昔の大久保通り

筆者の小学生時代の大久保通りを自宅の2階から見る。左側のお店は盛好堂書店、隣は床屋さんです。ともに小学校の同級生がいました。

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やはり2階から新大久保駅方面を見る。

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自宅の2階から裏手を見る。風呂を作る木材を井桁にして乾燥させていました。

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木造時代の東京ガス百人町

  その店内

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店の入口

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佐竹ビルと第2サタケビルの建設

 

佐竹ビルの建設

元の土地80坪のうち借地分30坪を返却しその売却金9000万円と佐竹幸一の自宅売却分2000万円で佐竹ビルを建てました。

1階、店舗・事務所 2階は事務所、3階は両親の住居、4階2部屋は貸出し、5階にはブログ筆者が住んでいました。ビルの間口は2間半の細長いビルで 奥行20間の細長いビルです。現在は1,2階をテナントに貸し出しています。

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第2サタケビル

大久保通りから少し入ったところに、以前は木造2階で、下は木材の乾燥室、2階はアパートで、一時筆者も結婚した当時住んでいました。

その後その土地30坪に第2サタケビルを建てました。地下1階地上3階のオシャレなビルです。

1階と地下1階は会社の事務所 3階は女性の更衣室,兼休憩室、2階は人間学研究所でした。

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そこの2階には人間学研究所準備室を作りました。それは後で人間学研究所となりました。その後人間学研究所は佐竹ビル3階に移転しました。

ここには図書12000冊がありました。

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現在は全部、テナントとして貸し出しています。 

わが家のファミリーストーリー、父を中心として ・戦争中まで(その1)

◎ 2009年に書いたブログですが、記事を増やし、写真も新たに加えて2016年に更新しました。また2020年に追記しました。

 

佐竹家のファミリー・ストーリー

 

 NHKでは、ある家族の先祖を訪ねて、ファミリー・ストーリーという番組をやっています。9月29日7時半から8時15分まで、恵俊彰さんのルーツについてやっていました。無人島探検に挑む先祖。というものでした。

 

 筆者の私の父のことを中心に書きましたが、その後さらにさかのぼって、同じように我が家のファミリー・ストーリーを書いてみます。(2016年9月)

 

突然の父の死

 

 一日、二日おきぐらいでブログを更新していましたが、しばらく中断してしまいました。12月17日の朝、いつものように朝食を持って行った時、部屋の中で転んで、目の上を強打して大きく膨らんでいました。その時はまだ大丈夫と本人も言っていたのですが、そのうちに、もどすようになり、かかりつけの医者の指示で、救急車で国立医療センターに行きました。その結果、いつも飲んでいた血液凝固を妨げるワーファリンのせいで、硬膜下の出血がひどく、脳幹部も圧迫されて、手術不能と言われました。すぐ親族を呼ぶようにと言われ、みな集まりました。そして翌日の朝私と妻と妹の三人が見守る中で息を引き取りました。

 

 一時、多発性脳こうそくで寝たきりに近い状態からだいぶ回復し、週に三回は夕食を外に一緒に食べに行っていて、前の日にはすし屋で、いつもより多い9かんを食べて元気だったのに、あまりに急な変化で皆びっくりしてしまいました。しかし、92歳という年齢でもあり、朝夕食を5階から3階の父のところまで持って行くのが13年、食事を持って行って隣で話を聞きながら、後かたずけの家事を行うのが半年余りやってきたので、まあ少し親孝行できたのかなという思いと、死ぬなら長く寝込まないでぽっくり死にたいと日ごろからいっておりましたので、まったく苦しまないで逝って本望かなという思いがありました。その後お通夜、告別式とバタバタして、ようやく落ち着いてきました。

 

大阪で生まれ東京へ ルーツをさかのぼる

 

 父親、佐竹実は大正6年5月(1917年)に大阪で佐竹庄次郎の二男として生まれました。父方の祖先はもともとは、新潟の長岡で桶づくりを大規模に行う御用商人で、蔵がいくつもあり、苗字帯刀を許されたそうですが、藩に貸していたお金が戊辰戦争後にだめになり、没落してしまいました。長岡での戸籍を見ると、長岡市先手町3丁目832番地で、長岡駅の近くです。古い戸籍を見ると高祖父は傳右衛門ですがその先は戦災で焼失したという「戦災焼失証明書」が発行されるだけです。

 

 お祖父さんは、こいつがいけないんだと言って、位牌にカンナをかけて削ってしまったと言っていました。ずっと前の先祖の墓は長岡市の浄土真宗大谷派、広西寺(長岡市柿町4666)にあるそうで、叔父はお寺の過去帳を見せてもらい、永代供養のお金をおいてきたそうです。以前私もお寺に行きましたが場所確認だけで、住職さんには会いませんでした。新しいお墓は祖父が新宿の抜け弁天のところの専福寺に作りました。曽祖父から墓碑銘に名があります。

 

 私の祖父佐竹庄次郎は明治21(1888)年の2月26日に曽祖父佐竹傳蔵の長男として生まれました。祖父庄次郎の母親とは離婚し曾祖母のていは3番目の奥さんで明治34年に結婚しています。子どもが生まれるので、実家に帰っているときに他の女性に手を付けて離縁するというひどい先祖です。3番目には役所でもうこれくらいにしておきなさいよと言われたそうです。 ていの父親は白井熊蔵といいます。曽祖父がていと再婚したとき庄次郎は13歳の時になります。

 

 私の祖父の庄次郎が東京に出ていて、椅子職人として仕事をしていたのですが、それを頼って曾祖父の傳蔵が東京へ出てきました。「わがやー、わがやー」と言いながら長岡から風呂やタガをなおしながら歩いて東京へでてきたそうです。明治の終わりころです。その後曽祖父傳蔵は東京で桶やを始めました。東京での桶屋の創業は明治の末(明治40年)ころです。この時が東京での創業ということになります。大正の時代の商店名を書いた地図には新大久保と大久保駅の間に桶商佐竹の店の名が載っています。店を作ったころは大久保駅だけでした。1914年(大正3年11月)新大久保駅ができました。店はその後新大久保駅ができた後に新大久保寄りに転居しました。私は4代目、現在は私の息子が社長ですが5代目となります。 曽祖父は奥さんのていも呼び寄せました。ところが曾祖父も曾祖母も、かなりのばくち好きで、祖父の給料が入るとそれを取り上げてばくちに行ってしまう始末です。ばくちでだいぶ祖父は苦労したので、それ以後賭け事には一切手を出さないというのが我が家の家訓で、祖父も父も、私も、息子たちも賭け事には手を出しません。

 

これではどうしようもないので、それを嫌って、祖父が、大阪東成郡榎本村へ行きそこで大正3年11月に祖母(米田いさ)と結婚しました。そして伯父房次郎(大正4年)と父実(大正6年)が生まれました。

 

 祖母の父親は米田藤吉(万延元年生まれ)で祖父の新吉は天保2年生まれです。曽祖父は藤兵衛といったようです。お父さんの藤吉には、淀川でとれたじゃこをたくさん食べさせてもらい、それで骨が丈夫になったと言っていました。祖母の系統はみんな長生きです。曾祖母はかなりの年で大阪から汽車で東京まで出てきて私も会いました。100近くまで長生きでした。祖母は98歳ぐらいまで生きていました。祖母の妹の梅子叔母さん(おばあさん)とも会いましたが、やはり100近くまで長生きしました。

 

 わたしの父親の実は大正6(1917年)年5月15日の生まれです。祖父の庄次郎には、男三人と女三人の子供ができました。曾祖父傳蔵が病気で倒れたというので、大正9年1月13日に祖父一家は長男房次郎と次男実をつれて大阪から東京に戻りました。その後大正11年に曽祖父傳蔵はなくなりましたが曾祖母ていは長生きしました。なにしろすごいお姑さんで、海苔巻きを作れと言われ、関西風の太巻きの海苔巻きを作ると、こんなもの食べられるかと捨てられたそうです。味付けも合わず、散々いじめられたそうです。ばくちうちで、着物の裾をたくし上げて大股で歩くような人で、すごいおばあさんだったようです。祖母は大阪へ帰りたかったが切符の買い方がわからずかえれなかったそうです。曾祖母と父や私たちとは血のつながりはありません。曾祖母ていは昭和15年10月になくなりました。

東京で生まれた、父の実の妹は2人とも若くして病死しました。叔母の一人すみ子はまだ健在です。

追記:2020年2月に叔母、村上すみ子は逝去しました。筆者は葬儀に。お寺に段差がありいけませんでした。

 

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伯父や叔母きよ子です。一番上の伯父はなくなった房次郎です。当時中学生です。その右側は父の実です。小学生でした。後写真で左は叔父良平や叔母きよ子です。叔母きよ子は昭和14年に病死しました。この写真にはありませんが叔母、すみ子は現在も存命中です。叔母志津恵も昭和11年に死去しました。

 

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 伯父房次郎です。お祖母さんの自慢の息子でしたが井戸掘りの酸欠事故でなくなってしまいました。

 

 6人の子供のうち、長男房次郎はなかなか優秀で、中学校から現在の薬専(現在の薬科大学)に合格したのですが、学校をやめさせ、桶やと途中から始めた井戸掘りの仕事をするようになりました。ところが昭和15年に9月に29歳で、井戸の酸欠事故で死亡してしまいました。それは事故として新聞に載ったようです。この事故にショックを受けたのか、その翌月10月に曾祖母のていもなくなりました。

 

 父親は兄と違い勉強が嫌いでした。中学校に行かず、高等小学校どまりです。高等小学校を出るとすぐに自分で決めてきて文房具店に丁稚として働きに出ました。店は文房具の卸の店で、リヤカーを自転車で引き、重い荷物を運んで朝早くから遅くまで仕事をさせられ、ずいぶん苦労したようです。そのご家業の井戸堀行が忙しくなりその仕事につきました。

 父親も兄と同じ仕事をしていて同じ現場で事故で倒れ、祖父が井戸から救い上げて、九死に一生を得たと言っていました。井戸掘りやおけ屋の仕事をやるようになりました。祖父母は優秀な伯父の死で、大変落胆したようです。その事故のことは当時の新聞の記事になったそうです。その事故で父は急に家の跡取りになりました。他に父の弟、良平が一人、妹が三人で、一人は3歳ほどで赤痢で死にもう一人も結核で19歳ほどで死に、おば、すみ子一人が残りました。叔父も昨年亡くなり、父もなくなりましたので今では叔母だけが残る形になりました。叔母の息子さんは村上正さんです。大久保駅近くで「あうん」というレストランをやっています。追記 あうんは閉店して今は台湾のカフェになっています。

 

 父実は大正12年の関東大震災を大久保の地で経験しています。まだ6歳のころで、ものすごい揺れだったそうです。そして昼の食事の大好きなとんかつが、震災の揺れで埃だらけで食べられなくがっかりしたと言っていました。このあたりは地盤が固く、倒壊した家は少なかったようです。この関東大震災で、下町の人たちが多く大久保周辺に住むようになり、街が急速に発展したと言っていました。それ以前まだこの地域は東京は市ではなく郡部だったのです。多くの人たちが移住してきて桶や井戸掘りの仕事も急に増えてきました。

追記 大久保のあたりは地下水の水脈が浅くありました。第2サタケビルの地下1階の建設のために、地面を掘り下げましたが,掘って間もなく水が出てしまいそれの処理で余計な手間がかかりました。浅く掘っただけで水が出るのです。

 

前後8年近くも戦争へ

 

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 父、実の出征の時の写真です。真ん中やや右の坊主頭で紋付を着ているのが父です。その左隣はメガネをかけているお兄さんの房次郎、一番左に祖父庄次郎と祖母いさです。昭和12年末か13年の1月です。今から80年ほど昔です。

 

 

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父は軍歴書によれば昭和13年1月10日に歩兵第1連隊に入隊。3月31日には騎兵となり、いきなり、1等兵となります。4月に満州に向け東京出発。4月には満州国黒河州孫吾県に到着。騎兵第一連隊第2中隊に編入。14年9月ノモンハン事件に参加するため事件地域へ.まもなく停戦命令。昭和15年12月には上等兵となります。昭和16年2月に除隊となります。

 

騎兵となった父の写真です。父は他の人より少し背が高いため騎兵になったそうです。騎兵はサーベルを持ちます。

 

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騎兵の写真です。かっこいいだろうと言っていました。小銃を背おっていますので、落馬すると銃が当たり、息が詰まるほどのショックを受けるそうです。

 

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軍歴簿の最初のところ昭和13年の1月に入隊しています。4月にはすぐ1等兵になっています。満州へ行きました。2ページもあります。

 

昭和18年3月に再召集、中支に派遣、安徽省に派遣。昭和21年に日本に帰還しています。

 

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除隊の時の記録です。

 

 父は昭和13年1月(1938年)に21歳で招集され、3月には騎兵第一連隊に配属され、早くも一等兵になっています。昭和14年に中国東北地方(満州)に行きました。その年第三次ノモンハン事件の時で、間もなく停戦となりました。もう少し早くいっていたら死んでいたと話していました。上官にはオリンピックで乗馬で入賞した西大尉がいたそうです。とてもいい上官だったそうです。西大尉は硫黄島へいき戦死しました。

満州はひどい寒さで、まつ毛も凍る、大小便もただちに凍ってしまうというひどさで、大変苦労したという話をさんざん聞かされました。父は、ほかの人よりは背が高かったそうで、騎兵になったというのですがいかに当時の人たちの身長が低かったかがわかります。その当時の写真がありますが、騎兵は2等兵でもサーベルを下げ、長靴で、カッコよかったというのが自慢でした。すぐ1等兵になっています。背中に銃をしょっていて落馬した時にはまともに銃が背中に当たり、大変な衝撃があると言っていました。昭和15年には上等兵になっています。そこで、私の母よりの兄と親友となり、その関係を強めるために、日本に帰国後母と結婚しました。昭和18年の2月に私が生まれたのですが、なんと翌月の3月にふたたび、父親は徴兵されました。今度は中シナ(中国中部)の安徽省に行きました。昭和19年には独立歩兵第212大隊の所属でした。そして、昭和21年にようやく日本に帰ってきました。その時の位は兵長でした。二回の徴兵で、7年以上も戦地にいたのです。この記録は薄い紙に履歴書として軍隊で発行したものがあり、そこから詳しい内容がわかりました。

 

 安徽省周辺では、上等兵ではあリますが、かなりの古参兵であることと、桶や井戸掘りの技術があり、なかなか上司の隊長やその奥さん方に重宝がられたそうです。直接的な戦闘も少なかったそうです。でも、半分の部隊が南方に行き、そちらに行っていたら死んでいただろうと言っていました。父親は中国人の村に近いトーチカにかなり長い間いたそうです。ちょうど下から高尾山の高さくらいところに、丸い二階建のトーチカだったそうです。トーチカの責任者はふつう、下士官がなるのですが、村人からの評判がよく、本人も進んでその仕事をやるので、上等兵でも責任者でした。村人が、苦力(クーリー)として水や食料を届けに来たリ、洗濯に女性がきたのですが、父はそのトーチカの責任者として、米やいろいろなものを中国の人に与え、喜ばれたそうです。お米はトーチカにじっとしているとおなかがすかず余るそうです。当時の中国の村には、医者がいないので、薬のある、トーチカに薬をもらいに来るそうです。薬を飲んだことのない村人にはとても薬がよくきいたそうです。とくに胃痙攣で苦しがっている女性に、命の保証はできないがいいかということで、モルヒネを与えてみたらいっぺんに症状が治まり、とても感謝されたといっていました。モルヒネは錠剤でトーチカに常備してあります。傷ついたとき医者はいませんから、モルヒネで痛みを抑えるのです。父はモルヒネのことをモヒと言っていました。そのように村人から感謝されいろいろ収入もあったそうです。中国人から接待麻雀を受けるのだそうです。逆に、村民を虐待したり、手伝いに来ている女性を犯したりした兵隊は、村人にひそかに殺されたりしたそうです。

 

 父親は、射撃の腕は良かったそうですが、まともに相手を狙って弾を打ったこともなかったそうです。現地の人にとても優しかったので、いろいろと転売したり収入があり、なんと、軍票で2万円も貯蓄して、それで日本に帰ってきた時に日本円に替えられたので家を買うたしにできたというのです。大したものです。でも、戦争中に日本の飛行機が、飛行場の上空を飛んでいる間は敵機は来ず、降りてくるとすぐに敵機が来て、爆撃し、飛行機がこわされたそうで、これでは日本は負けると思ったそうです。父の親友の私の伯父幸雄は、部隊から離れていたときにゲリラに襲われ、20年の3月に戦死しました。父は中国から戻りましたが、私はなにぶん3歳で生まれてから、父の顔を見ていないものですから、かえってきた父親を父親と思わず、むずがったそうです。

 

 ふつう戦争の時の話を、兵隊で行った人は話しません。私の家内の父親は、東大の電波関係の学科を首席で出て、戦後電波研究所の副所長までやっていました。戦争に行ったとき、海軍で電波関係で特殊な任務で大尉にまでなっていたそうです。ニューギニアに行っていたそうですが、戦争が激しくなる前に日本に帰されました。ニューギニアからオウムを連れてくるというような、そういう恵まれた地位でも、大事な部下が戦死し、それを悔やみ、戦争は嫌いでした。戦争の話はほとんどしなかったそうです。

追記 叔父の良平氏はすでに亡くなっています。おばあさんからよく聞いた話です。叔父は海軍に入隊しました。横須賀の海軍基地に入隊したそうですが、仕事で顔に傷ができ、そのために上司や仲間からずいぶんいじめられたそうです。祖父の庄次郎は何とかしなければと考え、当時していた消防団の団長の制服をきて横須賀基地へ行ったそうです。おばあさんの言葉では帽子に大きな徽章があり、立派な制服だったそうです。海軍基地の兵隊は敬礼して、迎えたそうですが、上官に傷の理由も話し、以後いじめはなくなったそうです。表面的な権威に弱い当時の軍隊を良く表しています。今でもそうかもしれません。

 

大久保の地に戻る

 

 祖父母と父の妹は、大久保の地に残っていましたが、空襲で焼け野原になってしまいました。祖母はその時の焼夷弾のふってくる中を逃げまどった話をよくしていました。おばあさんの話で、B29がすぐ近くに見えたこと、日本の戦闘機はとてもかなわなかったことを聞きました。

 

 戦時中私は母親と新潟の母方の実家に疎開していました。母がたの祖父は金子幸作、曽祖父は幸四郎といいます。新潟の北蒲原郡笹岡村です。祖父の出身が新潟、母がたの祖父も新潟です。母がたの先祖には村相撲の大関を張る大きな人がいて、それで私も息子たちも比較的大きいのでしょう。母がたの祖母の実家は渡辺といいます。

 

 母ヨリの両親は金子幸作(明治27年生まれ)、金子タケで、下町の尾久のほうで大々的に大変儲かる八百屋をやっていて、戦前は大変儲かって、お札を樽の中に入れ上から足で押しつぶすほどもうかったと母は言っていました。大八車を押すのを手伝ってお小遣いをもらうのが楽しみだったそうです。戦災で焼け、唯一の長男幸雄は終戦直前中国で戦死しました。私の父と大変仲良くなり、妹と結婚してくれれば親戚として縁がずっと続くと結婚させたそうです。終戦直前匪賊に襲われ戦死しました。何も残らなかったそうです。

 

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母がたの祖父母、金子幸作とタケの写真です。八百屋さんの店先です。

追記:このころの尾久の賑わいをテレビでやっていました。お寺の庭先で温泉が出て、そこから芸者などの三業地として栄えました。昔の八百屋さんの住所は荒川区尾久2丁目145です。現在は西尾久、東尾久と別れています。

 

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結婚前の母親と6人姉妹です。母は長女でした。

 

母の両親は新潟に帰ったままになってしまいました。

 

 祖父は爆撃後の焼けあとから、トタンや木材を集め、大久保通りで、最初のバラックを建てたと言っています。その後もう少しましな家に建て替えました。平屋の家です。戦後疎開先から帰った私は、その家をよく覚えています。その狭い家に、祖父母、両親、海軍に行っていた叔父(私は海軍ちゃんと言っていました)、おばと小さい妹と8人で住んでいました。さらに住み込みの職人さんまでいたのです。

 

  続く

 

大正、昭和、平成時代を生きた父の死(2)

 

これが新しいアクセスです。つながります。

 

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