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2016年10月 5日 (水)

わが家のファミリーストーリー、父を中心として ・戦後から現在まで(その2)追記版

筆者の子どものころ

 私の記憶がはっきりするのは小学校入学ころ(1950年ころ)からで、学校は戸山小学校といいます。そこは、木造二階建てで二部授業でした。体育館はまだがれきの山のままでした。途中から、西戸山小学校ができて、友達の一部が移りました。私の家の裏のほうではニワトリを飼っていました。近くの家では、ヤギを飼っていて、そのお産を見たりしていました。そのお産を見ていた私は、小学校で、人間の赤ちゃんはどこから生まれるかという話しになったとき、私はヤギを見ていたので、お尻から生まれるといいました。他の友達はおなかから生まれるというのです。おなかを切って生まれるので包帯の帯をしていると。私はそれからなにかと「尻から生まれたこうもん(肛門、こういちなので)でー」とみんなに、ひやかされました。

 

 当時は焼け野原で大きな家がなく、家からそのまま、新宿の伊勢丹や三越が見えました。今の歌舞伎町のあたりは、池があったように記憶しています。そこで万国博覧会みたいな会場ができてその建物の後に、今の映画館街ができました。現在の歌舞伎町2丁目は昔は西大久保1丁目で、普通の民家だけでした。新宿の紀伊国屋書店も、二階建ての建物でした。この古い紀伊国屋に行ったことがあります。

 

風呂桶の製造、販売

 

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まだ平屋のころの佐竹製作所。右側が住居部分。左が店舗と風呂の製造場所でした。

 

裏でニワトリを飼っていました。風呂桶の製造と卸、小売りもやっていました。

 

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まだ東京ガスの委託店をする前のお店。

 

 

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2階建てに立て直した建物。間口が5間ぐらいありました。半分が風呂店、半分が東京ガスのサービスセンターまだ仕事の中心は風呂桶の製造と販売の仕事でした。

 

 

 家では、風呂桶の製造販売(桶商佐竹)を戦後すぐから初めて、祖父や父、叔父が、そして次第に職人さんも入ってきました。はじめは新大久保と大久保駅の間の現在の百人町2丁目に店がありました。そのほかにお滝橋通りに3階建ての家があり、富士山がよく見えたそうです。次第に町の人口も増えて、風呂の需要も増えてきました。今の第2佐竹ビルのところに土地を買い、平屋建ての家を建てました。

 

 その後二階建で、下は材木の乾燥場所、上は職人さんの寝る部屋を作りました。現在のサタケビルのところも、家もバラックから木造二階建てに建て替えました。当時店のあるほうの家は土地が80坪あまりあって、前面は二階建の家、奥はやはり材木の乾燥場と、二階は職人さんの住まいの家を建てました。その家は、総檜づくりで、二階はふすまをとりはらうと、5つの部屋が全部つながるようになっていました。おじいさんがなくなった時には、自宅で葬儀を行ったのですが、全部つながった部屋で、お通夜の宴を行ったものでした。そのほかに近くのお米屋さんの隣に30坪の土地を買い材木の干場と職人さんの宿舎にしました。そこは今は第2サタケビルが建っています。

 

 祖父の庄次郎は親分肌で、デーンという言葉をよく使っていました。戦前から戦後にかけての大久保・百人町地区の有力者でした。皆中神社の神主さんはお爺さんが木曽から連れてきたそうです。もう少し弁が立てば区議会議員にでも簡単になったのにと言っていました。

 

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祖父、庄次郎の写真です。

 

祖父から父へ 

 

 うちで作る桶ぶろは木曽の材木商から現金でじかに安く仕入れた木で作り、他の業者よりいい材料を使ったので、大変評判がよかったのです。現金を胴巻きに入れて木曽に買い付けに行ったそうです。掛売でなく現金を目の前に出されると、安くでも売ってしまうそうです。当時は風呂桶の材料は木場のほうから仕入れるのが普通でした。いい木で風呂を作って売りますからよく売れます。他の業者からはだいぶねたまれました。朝暗いうちにトラックできた材料を総出で乾燥場に運びました。箱風呂を作る檜の長い板。桶風呂を作る椹(サワラ)の板です。桶風呂は1人でなんと3本も作ってしまいます。私も子どものとき当然手伝いましたが大変な作業でした。うちは余った板がたくさんでき、その木っ端からチャンバラの刀を作ったり、船の模型を作ったり、クラスの同級生には評判でした。

 

 父は、風呂の職人として、朝早くから夜遅くまで、桶ぶろを作りました。昔は休みは盆と正月だけで、大みそかの夜まで仕事がありました。ずいぶんと仕事で頑張ってきたのです。そのおかげで、かなり店に蓄えもできてきました。戦後佐竹製作所に名称を変えました。当時一番売れたのは、桶ぶろにガスバーナーをつけた、ガス風呂で東京ガスのガス風呂指定商に最初に認定され、その後ガス料金を受けたり、ガス器具も売る、東京ガスのサービスセンターにもなりました。認定を受けた最初の10数社だったのです。同じ新宿の倉前産業さんに卸をしてもいました。作れば売れるという時代でだいぶ儲かったようです。当時は公団住宅がたくさん作られ、ガスぶろが山のように積み上げられました。

佐竹ビルの1,2階が東京ガスのサービス店となっていました。

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追記

サービス店基本契約書という、東京ガスと当社との契約書をファイルしたものがあります。それを見ますと、「店舗の一部使用に関する覚書」というものです。昭和33年11月1日(1958年-2021年で63年前)に締結されたものです。これは店舗の一部を東京ガスのサービスステーションとして使用することを承諾した。というものです。月額使用料は1万円です。電話、電気、ガス、水道などの使用料は毎月3000円でした。東京ガスを定年退職した人が店口でガス料金の受け取りなどをしていました。そのうちその人は当社の社員となりました。そしてその後、修理、ガス工事、設計等々、次々に東京ガスの仕事を委託されていったのです。

追記

東京ガスとの古い契約書が出てきました。「店舗の一部使用に関する覚書」で、(有)佐竹製作所の社長、佐竹庄次郎(祖父)と東京ガス(株)社長、本田弘敏とで、当時は、四谷営業所長(代理人)との覚書でした。昭和33年11月1日です。使用料は月に1万円でした。店の一角にガス料金を受け付けるところを作り、東京ガスを退職した人が受付をしていました。はじめの2番目の写真で、東京ガス百人町サービスステーションの写真があります。筆者はこのころまだ15歳でした。

 祖父は昭和44年の4月22日に亡くなりました。76歳でした。食道がんでした。今まで病気などしたことがなかったのですが、たばこをよく吸い、晩酌にはおかんした日本酒を毎日飲んでいました。これが影響したのでしょう。

 

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 三越本店でのガス風呂の製造の実演をする父

 

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実演中の父親の顔写真です。

 

 父は、祖父の死去後社長となり、東京ガスでの会議に出席するようになりましたが、そういった会議は苦手でした。当時、父がよく話していたのは、東京ガスの手数料を小切手で受け取りに行くのが遅れたり、ガス器具の売り上げが、少ないというので、東京ガスの係長が経営が大丈夫なのか、このままでは、サービスセンターをやめてもらうかも知れないなどとと脅かしたそうです。その時に、父は会社の決算書を見せたそうです。私も記憶がありますが、無借金で預金が800万円あって、当時の会社の社員の月の給料の合計の半年分もあったのです。東京ガスの手数料は、はした金だからとりに行かなくても大丈夫だったと言っていました。

 

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交通少年団の子供たちと、父は新宿交通少年団の団長でした。

 

 

 父は、町会の仕事を熱心に行い、町会長が何もしないので町会の実務をほとんどやってきたと言っていました。 又交通少年団の団長などの活動も熱心に行っていました。そういう点でも大変律義に行ってきました。おじいさんも父もそうですが、もう少し人前でしゃべれれば、すぐ区議会議員にでもなったのにと言っていました。祖父庄次郎は昭和44年4月に亡くなりました。ちなみに祖母いさは平成4年7月に98歳の長寿を全うしました。

 

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父は目と眉の間が狭く、いわゆる奥目で、比較的ほりの深い顔をしていました。今の若い人は名前を知らないでしょうが、俳優のゲーリー・クーパーに似ていると言われたと楽しそうに話していました。

 

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右側が祖母のいさおばあさんです。隣は大阪からでてきた、祖母の妹のうめこおばさんです。2人とも100近くまで長生きしました。

 

筆者は経営をやりながら人間学の確立のために研究所を作りました

 

 私は、東京教育大学の生物学科の学生で、学生時代から関東地域の生物科の学生組織で人間学研究会を主催したりして研究者になりたかったのですが、祖父と、父とで、東京ガス関連の仕事が増え、われわれには中なか対応できないのでどうしても家の仕事をしてくれと言われ、卒業とともに、家の仕事につきました。当時は有限会社佐竹製作所(昭和36年、4月5日、1961年創立)という名前で、その名前から見ても風呂の製造販売が主力でした。私が入社して数年後に、祖父が死去し、昭和44年父親が社長となり、私はまだ25歳くらいでしたが、専務取締役店長となり、東京ガス関係の仕事はすべて担当することになりました。父親は、風呂部門を担当していました。

 

その後業容が建設業関連の仕事も多くなり、株式会社サタケ(1986年、昭和61年5月8日)と変えて私が社長となり、父は会長となりました。私が入社したころの会社は社員数20名ほどの会社でしたが、80名になり創業100年の時には100名の会社にしようと言っていました。会社の売り上げの3分の一は東京ガス以外の仕事でした。うちは下請けに仕事を回さないで、ほとんど自店で仕事ができました。ガス工事だけでなく水道工事、電気工事も同時に同じ人間がやってしまいます。ガスでの担当地域は新宿の大久保地区西新宿地区、渋谷区の代々木、千駄ヶ谷地区でした。大変効率がよく利益も上がりました。不動産の仕事も専従の人が2人行うようでした。東京ガスの委託店のガス器具売り上げは100店ぐらいのうち達成率は常にベストテンでした。成績優秀でもらった銀杯も7つもあります。賞罰という言葉がありますがうちには罰というものがほとんどなくいろいろな賞を付けました。しかし途中から東京ガスの資本が入った合弁会社にされてしまいました。その後、現在は息子が社長となり(社長4代目)、筆者は会長です。会社は東京ガス関連の仕事から離れましたが不動産管理の会社として存続しています。

 

 私は、1963年の学生時代から人間学に取り組んでいました。生物科の学生組織の「生懇」の分科会「人間学」の責任者となり、卒業してからも1965年に民間の研究会(人間学研究会)を立ち上げました。1985年に第2次人間学研究会、その後1991年に第2サタケビル建設とともにささやかながら人間学研究所準備室を経て1999年に人間学研究所を立ち上げました。そして現在も活動を続けています。自分が研究者となるよりは、商売で儲けて、研究を支えたほうがいいと思ったのです。思ったほどもうかりませんでしたが、なんとか人間学研究所の1室を作り、その活動は今も続いています。(「人間学研究所年誌2015」まで発行)

 

父とキャバレー

 

 父親はあまり趣味もなく、派手な遊びをしませんでしたが、当時のキャバレーに行くのが最大の楽しみでした。今は、いわゆる大箱と言われるキャバレーは、コマ劇場と隣の東宝会館が閉鎖されるとともに、昨年末クラブハイツを最後としてなくなってしまいました。わたしも家の仕事をはじめた時に、父に池袋の金の扉というキャバレーに連れていってもらったことがあります。昔は、今のようなカラオケをやるようなクラブというものがなかったのです。父は、クラブハイツには20年近く通いました。毎週月曜日には開店と同時に行って終わりまでいました。お酒をあまり飲まないのですが、前は社交ダンスをよく踊っていました。バンド演奏をする大きな舞台で歌を歌ったと自慢もしていました。私も時々お付き合いしましたが。お気に入りのホステスさんが私と同い年ですし、友達で来るホステスさんもそのような年で、少し閉口しました。父親からみればちょうど娘の年でちょうど良いのですが。母が施設に入るようになってからは、10数年間私と月に2回、クラブハイツに行くのを楽しみにしていました。それは、昨年末まで続きました。(2009年当時)でもきちんと無駄なお金を使わず、限度をきちんと決めて遊んでいました。ホステスさん相手に戦争の昔話をするのが好きでした。普通戦争の時の話はしないのが普通ですが父には楽しい思い出のほうが多かったのです。でも91歳まで、クラブに行くのは、大したものだと思います。ただ他の趣味があまりなく、クラブに行けなくなってからは、テレビを見るだけが楽しみとなってしまいました。

 

 父は、大変な倹約家で、特に電気ガスを使わないようにし、省エネ大賞でももらえそうです。家の電気は照明をあまりつけないようにし、トイレには、トイレの電気をつけないで、戸をあけてすること。風呂には浴槽の半分しか入れないで、水道と瓦斯代を節約すること。しかしそれは、風呂の残り水に雑菌が繁殖し、膀胱炎を引き起こすもとでした。株などの投資もせず、もちろんかけごともしないで、せっせと、お金をためていました。(賭け事は禁止という佐竹家の家訓)又枕が変わると寝られないと言って旅行もあまりいきませんでした。しかしそのおかげで、私が会社の経営を引き継いでから、お金が足りなくなったときに、父親から借りることができましたし、私や妹が家を買うときにも援助をしてくれました。でももっと自分の楽しみのために使ったらとよくいっていましたが、それができない人でした。楽しみは、いろいろな昔話を聞いてもらうことでした。戦争時代の話が多く、もう何度も何度も同じ話を聞いているのですが。半年余り、父親のところに、5階から3階の父親のところまで、朝と晩に食事を持っていって、話を聞いていたのですが、それが、私のできた最大の親孝行だったなと思っています。

 

父の手相

 

 最後に、父の手相を見たのですが、見事に運命線が一直線でそれが中指まで通じているのです。私もかなりいろいろな人の手相を見ているのですが、このようにまっすぐな線をした人を見たことがありません。今思えば記録に取っておけばよかったと思います。自分でもそのことを知っていて、この筋は、豊臣秀吉か、石川五右衛門の手相だと、いっていました。運命線がまっすぐというのは、必ずしも、有名になるというのではなく、何かの道をまっすぐに進んできたともいえるので、そういう点では、見事にまじめに仕事一筋で生きた証ではないかと思っています。

 

追記 2021年6月3日

昔の大久保通り

筆者の小学生時代の大久保通りを自宅の2階から見る。左側のお店は盛好堂書店、隣は床屋さんです。ともに小学校の同級生がいました。

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やはり2階から新大久保駅方面を見る。

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自宅の2階から裏手を見る。風呂を作る木材を井桁にして乾燥させていました。

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木造時代の東京ガス百人町

  その店内

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店の入口

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佐竹ビルと第2サタケビルの建設

 

佐竹ビルの建設

元の土地80坪のうち借地分30坪を返却しその売却金9000万円と佐竹幸一の自宅売却分2000万円で佐竹ビルを建てました。

1階、店舗・事務所 2階は事務所、3階は両親の住居、4階2部屋は貸出し、5階にはブログ筆者が住んでいました。ビルの間口は2間半の細長いビルで 奥行20間の細長いビルです。現在は1,2階をテナントに貸し出しています。

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第2サタケビル

大久保通りから少し入ったところに、以前は木造2階で、下は木材の乾燥室、2階はアパートで、一時筆者も結婚した当時住んでいました。

その後その土地30坪に第2サタケビルを建てました。地下1階地上3階のオシャレなビルです。

1階と地下1階は会社の事務所 3階は女性の更衣室,兼休憩室、2階は人間学研究所でした。

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そこの2階には人間学研究所準備室を作りました。それは後で人間学研究所となりました。その後人間学研究所は佐竹ビル3階に移転しました。

ここには図書12000冊がありました。

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現在は全部、テナントとして貸し出しています。 

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