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2016年10月12日 (水)

江戸から明治大正昭和平成に至る、歴史地図で見る、大久保、百人町の歴史、

 江戸時代から、明治、大正、昭和、平成時代と変遷してきた、大久保、百人町の歴史の変遷を地図上でたどってみたい。写真などのため鮮明に出ないのが申し訳ありません。
 明治の末ごろにこの地に移り住んだ、筆者の先祖の足跡もたどって見たい。
江戸時代末期の西大久保村の絵図
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ここは百人町の百人組鉄砲隊の大繩地。伊賀出身の同心100人組。江戸城の警備などを行う。大久保通りは仲通りといい、3本の道があった。右側に全龍寺があり職安通りを超えて境内があったようです。長光寺は鉄砲隊の菩提寺
 土地は間口が狭く奥が細長い形をして、今もその形が残っています。
同心の人々は、鉄砲の火薬を作るのに木炭が必要で、つつじで作る木炭が火縄銃によいということでつつじを植えました。ここのつつじは有名となり見物客がたくさん来ました。またつつじは同心の人たちの内職ともなりました。
 明治期になるとここのつつじは、舘林や箱根に移植されました。
 
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上図からつながったところ、上の左側に川があり田んぼがあります、右端は尾張様戸山屋敷がある。
上は現在の諏訪通、真ん中は大久保通り、下は現在の職安通りです。
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「江戸、明治、東京重ね地図」より
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上の地図の拡大図。紫色をしたところが百人町同心大繩地。つつじのしるしが付いています。草色が西大久保村。服部半蔵の家来が鉄砲隊100人組で江戸城の警備をした。普段は大手三ン門を警備した。百人同心は火薬の原料として、つつじの木炭を利用し、内職としてつつじを栽培し、江戸の名物となる。明治になるとつつじは箱根や館林に移された。同心のほかに騎馬の与力(確か20人)がいた。
 同心たちの土地は間口が狭く奥が長い形で、そのまま現在に移っている。
皆中神社は鉄砲同心の守り神だった。前東町会長の朝倉さんは鉄砲同心の子孫の方です。
右上は尾張家の屋敷。中に人工の箱根山が作られた。
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明治時代の豊多摩郡大久保村。まだ緑地が多い。尾張家の跡地は明治7年に陸軍戸山学校になった。周辺は射撃場や練兵場となりました。周辺には陸軍の施設が多く、多くの高級軍人が大久保の地に住んでいました。
中央線大久保駅はありますが。まだ山手線の新大久保駅はできていません。
曽祖父は明治の末頃に百人町で桶屋を始めました。曽祖父が病気になり大阪にいた祖父母が大正9年ごろに、百人町に来ました.このころは淀橋教会の前あたりでした。このころから井戸掘りも始めました。
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明治12年((1879年)の東京実測図
道の両側に民家があり、それ以外はほとんど畑や雑木林でした。
西大久保村の中に百人町がありました。青梅街道と甲州街道の分岐点の宿場として新宿が発展しました。このころは角筈村です。
 下の地図は上の地図の続きです。上のほうに陸軍戸山学校。その下は東大久保村です。今では新宿6,7丁目になってしまいました。
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大日本職業別明細図。大正14年(1925年)大久保市街図。このころには山手線に新しい駅、新大久保駅が作られる。上のほうに戸山小学校がみえる。新大久保駅のすぐ近くには大久保シネマという映画館がありました。はじめのころはトーキーになる前でスクリーンの前に3人くらいの楽師さんがいたそうです。百人町と大久保の境に交番がありました。
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 大久保駅と新大久保駅の間の商店街。左上の大久保駅に近いほうに「桶商佐竹」の名前が見えます。下の息子が祖母(息子から見ると曾祖母)から聞いて学校の文集に乗せたものです。山手線はこのころは駅は高架ではなく地面と同じ高さでした。木の屋根がちょこっとついて、電球が1つか2つだけでした。電車も2両編成でちょうど、ちんちん電車のような気がします。その山手線にタヌキがひかれたこともあります。
 昔の通りの名前は大久保通りではなくつつじ園通りという名前でした。
店のないところは畑や空き地が多かったのです。
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戸山小学校創立75周年記念、記憶を辿ったわが町大久保」昭和10年前後
父親の青年時代の地図。このころには佐竹は新しくできた新大久保駅近くに移転しました。大久保通りの南側右端、下側に佐竹の名があります。数字が書いてあるのは戸山小学校何期卒業かを書いてあります。父実は19期卒業です。
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上の地図より広く見た絵図。上の赤いところが戸山小学校
このころはお屋敷がたくさんあり、今の大久保駅近くの教会のところが古川男爵別邸、曽我子爵、松井男爵、南部男爵など、ほかに政治家、高級軍人、学者、芸術家、俳優、文化人など多くの人が住んでいました。大久保小学校の近くに小泉八雲の屋敷があり、今は記念公園が作られています。
 百人町の北西部に外人屋敷がありました。音楽家がたくさん住んでいました。
その前あたり、戸山が原に陸軍科学研究所や、陸軍技術本部がありました。
 その東側戸山町にに陸軍第一病院がありました。昔旧館が残っているとき、すごく病院の壁が厚く、普通の倍はありました。少しぐらいの爆撃に耐えらえるように作ってあります。その後2回建て替えられ、今は国立第一病院から、国立国際医療研究センターとなっています。
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大正5年ごろから11年にかけての新大久保周辺。横綱太刀山の自宅があった。筆者の父親が太刀山の井戸を掘ったと言っていました。いろいろな有名人が住んでいましたが、みんな井戸掘りではお得意さんでした。
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 戸山小学校周辺は畑や雑木林が多かった。裏は戸山が原。右端に交番があります。ここまでが百人町その先は大久保になります。大久保通りから戸山小学校に行く道の角は盛好堂書店で今もあります。筆者の小学校時代の同級生がお店をやっています。
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昭和62年の百人町東町会の地図真ん中あたりにロッテ、右上に戸山小学校。
右下が大久保通り、下図につながります。
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昭和62年当時の百人町東町会の地図左下に新大久保駅左は大久保通り
このころはぎっしり商店がつらなっていました。
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2000年の商店街。上の新大久保駅と大久保駅の間が百人町明るい会商店街。
下図の新大久保駅から山手線内側が新大久保商店街。このころには韓国のお店はほとんどありません。
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2016年現在のもう商売をやめてしまっているところは色塗りしています。塗りつぶしていないところはほとんど残っていません。
 新大久保駅から百人町の地区は、残った店は、パリミキ、盛好堂書店、円満屋、内藤シューズ、サカエカメラしかありません。
 

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