わが家のファミリーストーリー、父を中心として ・戦争中まで(その1)
◎ 2009年に書いたブログですが、記事を増やし、写真も新たに加えて2016年に更新しました。また2020年に追記しました。
佐竹家のファミリー・ストーリー
NHKでは、ある家族の先祖を訪ねて、ファミリー・ストーリーという番組をやっています。9月29日7時半から8時15分まで、恵俊彰さんのルーツについてやっていました。無人島探検に挑む先祖。というものでした。
筆者の私の父のことを中心に書きましたが、その後さらにさかのぼって、同じように我が家のファミリー・ストーリーを書いてみます。(2016年9月)
突然の父の死
一日、二日おきぐらいでブログを更新していましたが、しばらく中断してしまいました。12月17日の朝、いつものように朝食を持って行った時、部屋の中で転んで、目の上を強打して大きく膨らんでいました。その時はまだ大丈夫と本人も言っていたのですが、そのうちに、もどすようになり、かかりつけの医者の指示で、救急車で国立医療センターに行きました。その結果、いつも飲んでいた血液凝固を妨げるワーファリンのせいで、硬膜下の出血がひどく、脳幹部も圧迫されて、手術不能と言われました。すぐ親族を呼ぶようにと言われ、みな集まりました。そして翌日の朝私と妻と妹の三人が見守る中で息を引き取りました。
一時、多発性脳こうそくで寝たきりに近い状態からだいぶ回復し、週に三回は夕食を外に一緒に食べに行っていて、前の日にはすし屋で、いつもより多い9かんを食べて元気だったのに、あまりに急な変化で皆びっくりしてしまいました。しかし、92歳という年齢でもあり、朝夕食を5階から3階の父のところまで持って行くのが13年、食事を持って行って隣で話を聞きながら、後かたずけの家事を行うのが半年余りやってきたので、まあ少し親孝行できたのかなという思いと、死ぬなら長く寝込まないでぽっくり死にたいと日ごろからいっておりましたので、まったく苦しまないで逝って本望かなという思いがありました。その後お通夜、告別式とバタバタして、ようやく落ち着いてきました。
大阪で生まれ東京へ ルーツをさかのぼる
父親、佐竹実は大正6年5月(1917年)に大阪で佐竹庄次郎の二男として生まれました。父方の祖先はもともとは、新潟の長岡で桶づくりを大規模に行う御用商人で、蔵がいくつもあり、苗字帯刀を許されたそうですが、藩に貸していたお金が戊辰戦争後にだめになり、没落してしまいました。長岡での戸籍を見ると、長岡市先手町3丁目832番地で、長岡駅の近くです。古い戸籍を見ると高祖父は傳右衛門ですがその先は戦災で焼失したという「戦災焼失証明書」が発行されるだけです。
お祖父さんは、こいつがいけないんだと言って、位牌にカンナをかけて削ってしまったと言っていました。ずっと前の先祖の墓は長岡市の浄土真宗大谷派、広西寺(長岡市柿町4666)にあるそうで、叔父はお寺の過去帳を見せてもらい、永代供養のお金をおいてきたそうです。以前私もお寺に行きましたが場所確認だけで、住職さんには会いませんでした。新しいお墓は祖父が新宿の抜け弁天のところの専福寺に作りました。曽祖父から墓碑銘に名があります。
私の祖父佐竹庄次郎は明治21(1888)年の2月26日に曽祖父佐竹傳蔵の長男として生まれました。祖父庄次郎の母親とは離婚し曾祖母のていは3番目の奥さんで明治34年に結婚しています。子どもが生まれるので、実家に帰っているときに他の女性に手を付けて離縁するというひどい先祖です。3番目には役所でもうこれくらいにしておきなさいよと言われたそうです。 ていの父親は白井熊蔵といいます。曽祖父がていと再婚したとき庄次郎は13歳の時になります。
私の祖父の庄次郎が東京に出ていて、椅子職人として仕事をしていたのですが、それを頼って曾祖父の傳蔵が東京へ出てきました。「わがやー、わがやー」と言いながら長岡から風呂やタガをなおしながら歩いて東京へでてきたそうです。明治の終わりころです。その後曽祖父傳蔵は東京で桶やを始めました。東京での桶屋の創業は明治の末(明治40年)ころです。この時が東京での創業ということになります。大正の時代の商店名を書いた地図には新大久保と大久保駅の間に桶商佐竹の店の名が載っています。店を作ったころは大久保駅だけでした。1914年(大正3年11月)新大久保駅ができました。店はその後新大久保駅ができた後に新大久保寄りに転居しました。私は4代目、現在は私の息子が社長ですが5代目となります。 曽祖父は奥さんのていも呼び寄せました。ところが曾祖父も曾祖母も、かなりのばくち好きで、祖父の給料が入るとそれを取り上げてばくちに行ってしまう始末です。ばくちでだいぶ祖父は苦労したので、それ以後賭け事には一切手を出さないというのが我が家の家訓で、祖父も父も、私も、息子たちも賭け事には手を出しません。
これではどうしようもないので、それを嫌って、祖父が、大阪東成郡榎本村へ行きそこで大正3年11月に祖母(米田いさ)と結婚しました。そして伯父房次郎(大正4年)と父実(大正6年)が生まれました。
祖母の父親は米田藤吉(万延元年生まれ)で祖父の新吉は天保2年生まれです。曽祖父は藤兵衛といったようです。お父さんの藤吉には、淀川でとれたじゃこをたくさん食べさせてもらい、それで骨が丈夫になったと言っていました。祖母の系統はみんな長生きです。曾祖母はかなりの年で大阪から汽車で東京まで出てきて私も会いました。100近くまで長生きでした。祖母は98歳ぐらいまで生きていました。祖母の妹の梅子叔母さん(おばあさん)とも会いましたが、やはり100近くまで長生きしました。
わたしの父親の実は大正6(1917年)年5月15日の生まれです。祖父の庄次郎には、男三人と女三人の子供ができました。曾祖父傳蔵が病気で倒れたというので、大正9年1月13日に祖父一家は長男房次郎と次男実をつれて大阪から東京に戻りました。その後大正11年に曽祖父傳蔵はなくなりましたが曾祖母ていは長生きしました。なにしろすごいお姑さんで、海苔巻きを作れと言われ、関西風の太巻きの海苔巻きを作ると、こんなもの食べられるかと捨てられたそうです。味付けも合わず、散々いじめられたそうです。ばくちうちで、着物の裾をたくし上げて大股で歩くような人で、すごいおばあさんだったようです。祖母は大阪へ帰りたかったが切符の買い方がわからずかえれなかったそうです。曾祖母と父や私たちとは血のつながりはありません。曾祖母ていは昭和15年10月になくなりました。
東京で生まれた、父の実の妹は2人とも若くして病死しました。叔母の一人すみ子はまだ健在です。
追記:2020年2月に叔母、村上すみ子は逝去しました。筆者は葬儀に。お寺に段差がありいけませんでした。
伯父や叔母きよ子です。一番上の伯父はなくなった房次郎です。当時中学生です。その右側は父の実です。小学生でした。後写真で左は叔父良平や叔母きよ子です。叔母きよ子は昭和14年に病死しました。この写真にはありませんが叔母、すみ子は現在も存命中です。叔母志津恵も昭和11年に死去しました。
伯父房次郎です。お祖母さんの自慢の息子でしたが井戸掘りの酸欠事故でなくなってしまいました。
6人の子供のうち、長男房次郎はなかなか優秀で、中学校から現在の薬専(現在の薬科大学)に合格したのですが、学校をやめさせ、桶やと途中から始めた井戸掘りの仕事をするようになりました。ところが昭和15年に9月に29歳で、井戸の酸欠事故で死亡してしまいました。それは事故として新聞に載ったようです。この事故にショックを受けたのか、その翌月10月に曾祖母のていもなくなりました。
父親は兄と違い勉強が嫌いでした。中学校に行かず、高等小学校どまりです。高等小学校を出るとすぐに自分で決めてきて文房具店に丁稚として働きに出ました。店は文房具の卸の店で、リヤカーを自転車で引き、重い荷物を運んで朝早くから遅くまで仕事をさせられ、ずいぶん苦労したようです。そのご家業の井戸堀行が忙しくなりその仕事につきました。
父親も兄と同じ仕事をしていて同じ現場で事故で倒れ、祖父が井戸から救い上げて、九死に一生を得たと言っていました。井戸掘りやおけ屋の仕事をやるようになりました。祖父母は優秀な伯父の死で、大変落胆したようです。その事故のことは当時の新聞の記事になったそうです。その事故で父は急に家の跡取りになりました。他に父の弟、良平が一人、妹が三人で、一人は3歳ほどで赤痢で死にもう一人も結核で19歳ほどで死に、おば、すみ子一人が残りました。叔父も昨年亡くなり、父もなくなりましたので今では叔母だけが残る形になりました。叔母の息子さんは村上正さんです。大久保駅近くで「あうん」というレストランをやっています。追記 あうんは閉店して今は台湾のカフェになっています。
父実は大正12年の関東大震災を大久保の地で経験しています。まだ6歳のころで、ものすごい揺れだったそうです。そして昼の食事の大好きなとんかつが、震災の揺れで埃だらけで食べられなくがっかりしたと言っていました。このあたりは地盤が固く、倒壊した家は少なかったようです。この関東大震災で、下町の人たちが多く大久保周辺に住むようになり、街が急速に発展したと言っていました。それ以前まだこの地域は東京は市ではなく郡部だったのです。多くの人たちが移住してきて桶や井戸掘りの仕事も急に増えてきました。
追記 大久保のあたりは地下水の水脈が浅くありました。第2サタケビルの地下1階の建設のために、地面を掘り下げましたが,掘って間もなく水が出てしまいそれの処理で余計な手間がかかりました。浅く掘っただけで水が出るのです。
前後8年近くも戦争へ
父、実の出征の時の写真です。真ん中やや右の坊主頭で紋付を着ているのが父です。その左隣はメガネをかけているお兄さんの房次郎、一番左に祖父庄次郎と祖母いさです。昭和12年末か13年の1月です。今から80年ほど昔です。
父は軍歴書によれば昭和13年1月10日に歩兵第1連隊に入隊。3月31日には騎兵となり、いきなり、1等兵となります。4月に満州に向け東京出発。4月には満州国黒河州孫吾県に到着。騎兵第一連隊第2中隊に編入。14年9月ノモンハン事件に参加するため事件地域へ.まもなく停戦命令。昭和15年12月には上等兵となります。昭和16年2月に除隊となります。
騎兵となった父の写真です。父は他の人より少し背が高いため騎兵になったそうです。騎兵はサーベルを持ちます。
騎兵の写真です。かっこいいだろうと言っていました。小銃を背おっていますので、落馬すると銃が当たり、息が詰まるほどのショックを受けるそうです。
軍歴簿の最初のところ昭和13年の1月に入隊しています。4月にはすぐ1等兵になっています。満州へ行きました。2ページもあります。
昭和18年3月に再召集、中支に派遣、安徽省に派遣。昭和21年に日本に帰還しています。
除隊の時の記録です。
父は昭和13年1月(1938年)に21歳で招集され、3月には騎兵第一連隊に配属され、早くも一等兵になっています。昭和14年に中国東北地方(満州)に行きました。その年第三次ノモンハン事件の時で、間もなく停戦となりました。もう少し早くいっていたら死んでいたと話していました。上官にはオリンピックで乗馬で入賞した西大尉がいたそうです。とてもいい上官だったそうです。西大尉は硫黄島へいき戦死しました。
満州はひどい寒さで、まつ毛も凍る、大小便もただちに凍ってしまうというひどさで、大変苦労したという話をさんざん聞かされました。父は、ほかの人よりは背が高かったそうで、騎兵になったというのですがいかに当時の人たちの身長が低かったかがわかります。その当時の写真がありますが、騎兵は2等兵でもサーベルを下げ、長靴で、カッコよかったというのが自慢でした。すぐ1等兵になっています。背中に銃をしょっていて落馬した時にはまともに銃が背中に当たり、大変な衝撃があると言っていました。昭和15年には上等兵になっています。そこで、私の母よりの兄と親友となり、その関係を強めるために、日本に帰国後母と結婚しました。昭和18年の2月に私が生まれたのですが、なんと翌月の3月にふたたび、父親は徴兵されました。今度は中シナ(中国中部)の安徽省に行きました。昭和19年には独立歩兵第212大隊の所属でした。そして、昭和21年にようやく日本に帰ってきました。その時の位は兵長でした。二回の徴兵で、7年以上も戦地にいたのです。この記録は薄い紙に履歴書として軍隊で発行したものがあり、そこから詳しい内容がわかりました。
安徽省周辺では、上等兵ではあリますが、かなりの古参兵であることと、桶や井戸掘りの技術があり、なかなか上司の隊長やその奥さん方に重宝がられたそうです。直接的な戦闘も少なかったそうです。でも、半分の部隊が南方に行き、そちらに行っていたら死んでいただろうと言っていました。父親は中国人の村に近いトーチカにかなり長い間いたそうです。ちょうど下から高尾山の高さくらいところに、丸い二階建のトーチカだったそうです。トーチカの責任者はふつう、下士官がなるのですが、村人からの評判がよく、本人も進んでその仕事をやるので、上等兵でも責任者でした。村人が、苦力(クーリー)として水や食料を届けに来たリ、洗濯に女性がきたのですが、父はそのトーチカの責任者として、米やいろいろなものを中国の人に与え、喜ばれたそうです。お米はトーチカにじっとしているとおなかがすかず余るそうです。当時の中国の村には、医者がいないので、薬のある、トーチカに薬をもらいに来るそうです。薬を飲んだことのない村人にはとても薬がよくきいたそうです。とくに胃痙攣で苦しがっている女性に、命の保証はできないがいいかということで、モルヒネを与えてみたらいっぺんに症状が治まり、とても感謝されたといっていました。モルヒネは錠剤でトーチカに常備してあります。傷ついたとき医者はいませんから、モルヒネで痛みを抑えるのです。父はモルヒネのことをモヒと言っていました。そのように村人から感謝されいろいろ収入もあったそうです。中国人から接待麻雀を受けるのだそうです。逆に、村民を虐待したり、手伝いに来ている女性を犯したりした兵隊は、村人にひそかに殺されたりしたそうです。
父親は、射撃の腕は良かったそうですが、まともに相手を狙って弾を打ったこともなかったそうです。現地の人にとても優しかったので、いろいろと転売したり収入があり、なんと、軍票で2万円も貯蓄して、それで日本に帰ってきた時に日本円に替えられたので家を買うたしにできたというのです。大したものです。でも、戦争中に日本の飛行機が、飛行場の上空を飛んでいる間は敵機は来ず、降りてくるとすぐに敵機が来て、爆撃し、飛行機がこわされたそうで、これでは日本は負けると思ったそうです。父の親友の私の伯父幸雄は、部隊から離れていたときにゲリラに襲われ、20年の3月に戦死しました。父は中国から戻りましたが、私はなにぶん3歳で生まれてから、父の顔を見ていないものですから、かえってきた父親を父親と思わず、むずがったそうです。
ふつう戦争の時の話を、兵隊で行った人は話しません。私の家内の父親は、東大の電波関係の学科を首席で出て、戦後電波研究所の副所長までやっていました。戦争に行ったとき、海軍で電波関係で特殊な任務で大尉にまでなっていたそうです。ニューギニアに行っていたそうですが、戦争が激しくなる前に日本に帰されました。ニューギニアからオウムを連れてくるというような、そういう恵まれた地位でも、大事な部下が戦死し、それを悔やみ、戦争は嫌いでした。戦争の話はほとんどしなかったそうです。
追記 叔父の良平氏はすでに亡くなっています。おばあさんからよく聞いた話です。叔父は海軍に入隊しました。横須賀の海軍基地に入隊したそうですが、仕事で顔に傷ができ、そのために上司や仲間からずいぶんいじめられたそうです。祖父の庄次郎は何とかしなければと考え、当時していた消防団の団長の制服をきて横須賀基地へ行ったそうです。おばあさんの言葉では帽子に大きな徽章があり、立派な制服だったそうです。海軍基地の兵隊は敬礼して、迎えたそうですが、上官に傷の理由も話し、以後いじめはなくなったそうです。表面的な権威に弱い当時の軍隊を良く表しています。今でもそうかもしれません。
大久保の地に戻る
祖父母と父の妹は、大久保の地に残っていましたが、空襲で焼け野原になってしまいました。祖母はその時の焼夷弾のふってくる中を逃げまどった話をよくしていました。おばあさんの話で、B29がすぐ近くに見えたこと、日本の戦闘機はとてもかなわなかったことを聞きました。
戦時中私は母親と新潟の母方の実家に疎開していました。母がたの祖父は金子幸作、曽祖父は幸四郎といいます。新潟の北蒲原郡笹岡村です。祖父の出身が新潟、母がたの祖父も新潟です。母がたの先祖には村相撲の大関を張る大きな人がいて、それで私も息子たちも比較的大きいのでしょう。母がたの祖母の実家は渡辺といいます。
母ヨリの両親は金子幸作(明治27年生まれ)、金子タケで、下町の尾久のほうで大々的に大変儲かる八百屋をやっていて、戦前は大変儲かって、お札を樽の中に入れ上から足で押しつぶすほどもうかったと母は言っていました。大八車を押すのを手伝ってお小遣いをもらうのが楽しみだったそうです。戦災で焼け、唯一の長男幸雄は終戦直前中国で戦死しました。私の父と大変仲良くなり、妹と結婚してくれれば親戚として縁がずっと続くと結婚させたそうです。終戦直前匪賊に襲われ戦死しました。何も残らなかったそうです。
母がたの祖父母、金子幸作とタケの写真です。八百屋さんの店先です。
追記:このころの尾久の賑わいをテレビでやっていました。お寺の庭先で温泉が出て、そこから芸者などの三業地として栄えました。昔の八百屋さんの住所は荒川区尾久2丁目145です。現在は西尾久、東尾久と別れています。
結婚前の母親と6人姉妹です。母は長女でした。
母の両親は新潟に帰ったままになってしまいました。
祖父は爆撃後の焼けあとから、トタンや木材を集め、大久保通りで、最初のバラックを建てたと言っています。その後もう少しましな家に建て替えました。平屋の家です。戦後疎開先から帰った私は、その家をよく覚えています。その狭い家に、祖父母、両親、海軍に行っていた叔父(私は海軍ちゃんと言っていました)、おばと小さい妹と8人で住んでいました。さらに住み込みの職人さんまでいたのです。
続く
大正、昭和、平成時代を生きた父の死(2)
これが新しいアクセスです。つながります。
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