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2016年12月

2016年12月30日 (金)

大久保コリアタウンの現状ー大幅に変化、2017年、新宿新聞の元日号から

2017年の「新宿新聞元日号」を、送っていただきました。元日号は20ページで、そのうち18,19ページが大久保コリアタウンについての特集です。
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新大久保の概況として
 2016年の新大久保コリアタウンは、職安通り側で韓国の銀行など老舗2店が閉店。中国人団体客相手の”免税商戦”が夏以降、落ち込んだ。一方、大久保通りでは韓国系を軸に物販、飲食の新規出店が続き、ネパール料理店の急増など多国籍化が進行。また、一部の韓国料理店は、街中に増えた若い女性を取り込み、好調。一方で、30代以降の来街者は減り、物販店は総じて低迷している。
 
見出しを順に並べると
「大久保コリアタウン、免税店が低迷!
「新世代”韓流客”が増加 韓国料理店がその受け皿に」、
「大久保通り、韓国と互角の出店 (ネパール、中国)
 
 メインの1階賃料は坪5万円と高水準(新大久保駅からイケメン通り入り口付近までがメインストリート)16年は1階にコスメ4店、料理店3店の韓国系店舗が出店した。
 だが賃料が下がる2階以上や通り東側を含めると、16年はネパール料理店が6店誕生、中国のネットカフェ2店と中華料理店も出店。韓国の計10店に迫る出店数だった。韓国の店が抜けた後の入居が目立つ。
 2017年の2月には新築のカプセルホテルビルが竣工。1,2階(約50坪)は日本のドラッグストアになる。
 新大久保駅のすぐそばのカラオケーアドアーズ(約250坪)は2年で返し空きビルに、もしも1棟借りするときは月500万円とか。一番最初は雑居ビル。
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右側の「市場ダッカルビ」のお店は、多くの人が待っています。持ち帰りもあります。
となりのデジニ・ランドとともに2016年オープンしたお店です。
職安どうり、免税商戦、中国団体客が半減
 中国の関税の税率が変わる 、売り上げ減少
 免税店が低迷している。免税対象の5001円ぎりぎりで買う人が多い
 ドン・キ地下、イベントスペースに転換
 通りに最盛期6店あった韓流グッズ店はすでに14年末までに閉店
「韓国の銀行、CD書店が閉店、
 職安通りの韓流客が激減 販売は苦戦
 16年6月にKEBハナ銀行新宿出張所、10年営業が閉鎖
 7月に物販店「コリアプラザ」が閉店、コンビニに変わる
 職安どうりにシャッター店3軒「南大門市場」など
 賃料は坪2万から2万5千円
韓国飲食6店が出店、イケメン通り。
  6月に「とんちゃん」が3階建てビルを建設
  その中に料理店など4店ができる 
  賃料はピーク時は坪5から6万だった1階の賃料は、現在坪3万円前後(一時5万円程度)
  コスメ店では10~20代のお客が多く、30代以上が減り、客単価が下がった。
  通りの若者は増えたがライブハウスに出ている若手が目当てなので、人気グループの 
  DVDの売り上げにつながらない
  イケメン通りにコスメ店2店(マイグッズ、She,s コスメ、のどちらかは、大久保通りの美学
 空間から移転した店と思われます)
  (イケメン通りのお店も入れ替わりが激しい)
・ 
「韓国からFC店の波
  料理、スイーツ、コスメ店
  ホンギ2羽チキン15年から3店出店
  10月に韓国のかき氷店「ホミビン」がオープン
  12月22日には「グッネチキン」が
  職安通りでは「セマウル食堂」「本家」韓国ちゃんぽんの「香港飯店」がオープン
  コスメ店もオープン
  料理店の『席待ち』復活、チーズダッカルビに行列
  ソウル市場の系列店
  グッズ店にも若者客ー「オルチャン」
  美学空間の後に、コスメ店「り・メイク」がオープン。経営は高麗人参社
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◎あまりチキンの店が増えてきたせいか、12月で閉店する店も出ています。
 
新宿新聞の記事の地図です。新大久保駅からここまでが百人町、その隣は大久保です。
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☆印はH28年オープンの店。ここに出ているお店はほんの一部です。
この地域については、お店の状況がわかるように、写真で、提示してあります。
こういちの人間学ブログ 2016年9月2日
「2016,9月 最近の新大久保駅周辺の変化を画像で見る」
「新大久保については、このブログの右下の「カテゴリー」というところの「大久保の街紹介」というところを開いていただければ、いろいろ書いてあります。
 
◎上の地図上の右下のコスメ店、「リ・メイク」が筆者のテナントのお店です。2階にオルチャンがあります。
ホンギ2羽チキンとホミビン(かき氷のお店)が新しいお店です。
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この地図は上図の続きの、大久保地域です。下が新大久保駅、うえが明治通り。
新規開店は
ネパール料理店
アーガン(ネパール料理店)、アリババ(ネパールーケバブも扱う)、マジェク(ネパール、マジェリの間違いでしょう)、Tokyoロッククラブ(ネパール)、バラカーデ・グッド・タイム(ネパール)の5店、
、268円酒場(中華)、
韓国料理店、ザ、セム、(デジニランド?)、ソレカルメギ、市場ダッカルビ、グッネチキン
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いわゆる、イケメン通りです。 飲食店では、宋家カムジャタン、豚マダン、とんちゃんビルに飲食店4店。コスメ店ではマイグッズ、She s コスメの2店がオープン。
 
◎飲食店でもコスメ店でも半分以上が入れ替わっています、
◎「こういちの人間学」ブログでは、百人町、大久保地域のエスニック料理店を調べて、掲載しています。
 2016年末現在、ネパール料理店が24店、ベトナム料理店が8店、タイ料理店が10店、トルコ料理のお店、ケバブの販売店が8店あります。特に、ネパール料理店とケバブ店が急速に増えているのが目につきます、
 ほかにチュニジア料理2店、ペルー料理、そのほかに、中国系のエスニック料理もいろいろあります。例えば、韓国風(延辺料理)、東北料理系(満州、)モンゴル系、チベット系、台湾精進料理、などです。
 いつか、新宿新聞でも取り上げる予定だそうです。
 新しくできたコスメ店、リ・メイクは筆者のところのテナントです。2階にオルチャンが入っています。
こういちの人間学ブログ
「百人町、大久保の料理、チュニジア2店、ベトナム8店、タイ10店、ケバブ8店その他色々」
2016,11,27
「新大久保のネパール料理店の急激な増加24店」
2016,11,9
◎印は、筆者のコメントです。
2017年4月24日追記
 4月23日の日曜日、新大久保駅周辺を見てきました。別のブログで。
 
「新大久保駅周辺の状況 だいぶ若い女性でにぎやかに」
「2001,2008,2017の大久保エスニックの街、韓国レストランの変化を見る」
「大久保多国籍タウンの現状ー2018 新宿新聞元日号から」2017,12,31
 

2016年12月29日 (木)

9章 第五倫、光武帝と会う、初めて会う、2日間話しとおす、p114-118

第9章 第五倫、光武帝と会う  p114-119
光武帝と初めて会う
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賢聖の障子(そうじ)京都御所紫宸殿より
ー若い時の肖像
 西暦五十一年(建武二十七年)、新しく赴任してきた京兆尹の鄧庚(とうこう)は、清廉潔白な官僚で、はるか前の京兆尹の鮮于襃(せんうほう)や閻興(えんこう)から第五倫のうわさを聞いていた。
 鄧庚は着任と同時に早速、長安市の市場の主簿(責任者)である第五倫を接見した。
鄧庚はいささか人相を見ることができた。第五倫はもともとの実力の上に、下役人でいる間に更なる学問を深め、儒学の教師ができるほどに達していた。また人格的にも優れた人物であると一目で見抜いた。
ーこの方は私などよりもはるかに優れた大変な人物である。末はもしかして三公にまで上り詰めるかもしれない。なぜ、今まで、このような立派な人物が今まで、この年に至るまで埋もれていたのであろう。
 仕事ぶりは清廉潔白、さまざまな優れた業績を上げながら、上司に対して直言して批判することが嫌われて、最初に任命された地位そのままにとどめられていることも分かった。また大変な親孝行で母親に仕えていることも分かった。
 後日、鄧庚は再度接見して
「わたしは、あなたを孝廉に推挙します。ぜひそのお力を発揮して、まだまだ不正が横行する今の世の中を変えてほしいと願っております」
 その上申は認めら、孝廉に推挙されることになった。
年老いた母に長くつくしたこと、仕事ぶりが清廉潔白なことが推挙の理由であった。第五倫が四十七歳のことである。当時としてはかなりの老齢とみられる年齢で、そろそろ引退を考える頃の年齢である。
 役所の同僚たちは
常々第五倫が言っていたことが実現して驚いた。今までさんざん悪口を言っていた者も。
「ようやく認められたのですね、おめでとうございます」
「どうも、いろいろ悪口を言って申し訳ありませんでした」
「おめでとう、伯魚どの、本当に驚きました」
「志は持つべきものですね。我々もあきらめずに頑張ることにします」
などと、手のひらを返したように、態度が変わった。
 それに対して、第五倫は嫌味などは言わず。
「ありがとうございます。ようやく、認められることになりました。今まで大変おせわになりました。ぜひ、あなた方も引き続き市民のためにつくしてください」
 同僚たちは、ささやかながら、お祝いしてくれた。
 倫はもう少し楊桂が生きていたら、
「ほらね、やはり、私の言うとおりになったでしょう」
と、喜んでくれただろうにと、心から残念に思った。
家に帰った第五倫は、集まった家族に
「このたび、鄧庚殿の推薦により孝廉に認められることになった。洛陽の都へ行くので早速準備をするように」といった。
 みんな口々に、おめでとうございます、とお祝いの言葉をかけた。
ーずいぶんと、下積みが長かった。でもようやく、認められてよかった。でもこれからようやく自分の力を発揮できると、気持ちが大きく晴れる思いであった。
 第五倫と家族は宋三夫婦と厳八とともに、さっそく旅の支度をはじめ、任官するために、長安から、洛陽の都を目指した。
 長安から洛陽へは、大変道路も宿場もよく整備されているために、快適な旅であった。
 一行が到着した洛陽の都は光武帝の政治を反映するように、にぎやかではあるが、華美なところがなく、落ち着いた清澄な、たたずまいであった。
 当時、光武帝は推薦されたものを太守から県令に至るまで、直接面接して、清廉潔白なものを採用しようとしていた。
 光武帝は第五倫を接見し、並々ならぬ才能とその道徳性の高さに注目した。しかしその時は大変忙しかったため儀礼的なもので、十分話をすることができなかった。
 第五倫はまず、郎中(宿営の官)となり、次いで、准陽国(わいようこく)の医工長(医薬をつかさどる、四百石)になった。准陽国は陳国とも言い、豫洲にあった。光武帝は第五倫が、皇帝の息子である准陽王に従って任地につくとき召見した。
 光武帝は第五倫との話の中で、その素晴らしさが印象に残った。
しかし、その時も十分な時間が取れず、極めて残念である。改めて十分な時間をとって話をしよう、と第五倫につたえた。
 第五倫は妻子を連れて任地へ行く道すがら、妻の淑玲に皇帝にあった感激とその素晴らしさにについて感動を込めて語った。
「宮殿は大変質素にできていたが、威厳に満ちたすがすがしいものであった。皇帝陛下は近くまで呼び寄せてくれ、気さくに声をかけてくれた。今度会うときはそちの意見をじっくり聞きたいものだとおっしゃった。私の想像していた以上に素晴らしいかただ」
 第五倫は准陽国の医工長として、無駄を省き、優れた医薬を整え、庶民にも活用できるように取計らうなど、優れた業績を上げた。二年が経過し西暦五十三年(建武二十九年)、准陽王が諸役人を従えて、洛陽に朝見に来た。光武帝は、前回第五倫と十分な話ができなかったので、今度は政務の忙しい時間を割いて、政治上の意見を聞くことにした。
 
「帝と第五倫、二日間語りとおす」
 時に光武帝五十九才、第五倫四十九才、ともに早くから父を亡くし、大変厳しい戦乱の時代を生き抜いてきたのである。積もる話はさまざまであった。第五倫は、
 
「皇帝陛下が民を思い、なされてきたことはすべて理にかない、すばらしい世の中を作られていることに以前から感服しておりました。
 さて臣が思います仁、人にとってもっとも悲しいことは人が飢えて、時に子どもさえも取り替えて食べなければいけないような状況であります。臣は、そのような悲惨な状況を見てまいりました。本当に恐ろしいことであり、悲しむべきことです。また臣自身何度も餓死寸前までに追い込まれました。人が人を食わざるをえない状況に人を追い込むことは、干ばつや、洪水や蝗害などしぜん現象ではなく、すべて人がもたらすものであると思います。
 すなわちそれはむしろ政治がもたらすことであると考えます。一部のものが、利益を上げるために食料を独占し、蔵の中には穀物があるにもかかわらず、その穀物が出回らず、多くのものが餓死します。二度とそのようなことにならないように努めるのが臣の任務とこころえます。しかしまだまだこの世には陛下の心を察せず、民の財産を収奪し、私腹を肥やし、厳しい税の取り立てや、刑罰で民を苦しめている豪族や酷吏がたくさんおります。そういうものどもをおさえることが肝要とこころえます」
続いて
 「問題は豪族と官吏の癒着にあります。豪族出身のものが官吏となり、豪族の身内に甘く、貧しい民衆に厳しい。表面だけ孝行を装って仲間うちを孝廉などに推挙する。お互いに表彰しあう。高いくらいについてしまえばもう親孝行も清廉潔白も関係なしになります」
 「腐敗した役人は、賄賂により、豪族に有利な政治をし、物事を行っている」
 「陛下はすでにそういう問題を指摘しておりますが、まだまだ行き届いていかないように感じます。今後はより一層、役人には清貧にしてほんとうに力があるものを採用すべきです」
 「賄賂などにより人々を苦しめたり殺したりしたものは厳罰に処すべきです」
 「しかし、一方では、新しく任命された官吏があまりにも厳しい法治主義をとり、罪を犯したものを処罰するのはいいのですが、多くのものが連座し、罪もないのに獄に入れられ苦しまないようにすることも肝要と存じます」と第五倫は率直に申し上げた。
 「まったくその通りである。朕はつねづねそのように言っておるのだが、実際にはまだまだ行届いていないようだな」
 「そうか取り締まりには十分気をつけるようにしよう。行き過ぎはいけない 」と光武帝
 第五倫は、次いで、どのようにして、生産力をあげ、民のふところを豊かにするかについて具体的な進言を行った。
 一般論ではなく、どこどこの地はどのようにすればよいかについての、第五倫が役所勤め時代にコツコツ調べていった、具体的な提言に光武帝は驚いた。
 光武帝は話を続けるうち、第五倫がかしこまって、臣という言い方でなく私と呼ぶように言った。
 「よく、それだけ調べたものじゃなー」
 「私は塩商人をしたことがあり、塩商人の親戚があります。彼らは仲間で結社を作り、情報を交換しております。実は私の息子もその一員になりました。その中から色々な情報が手に入るのです」
 「そちは本当に世情にくわしいのだな。朕もこのような宮殿の中にいると、次第に世情に疎くなってきておるのじゃ」
 光武帝は第五倫の深く広い知識、民を思い、不正を憎む気持ちに感動した。また、世の中を具体的に改善する政策を次々に聞き出し、書記に記録させた。
 光武帝は、うん、そうじゃ、そうじゃと夢中で話し合った。
 「夢中で話しておったらもう暗くなった。もっと、気楽な部屋で食事をしながらゆっくり話をしよう」
 皇帝の気楽な私室に移動した。
 「食事の用意をするように」
 今度は皇帝と第五倫、あとは数人の皇帝の側近に限られた。
 食事は、皇帝の食事とは思えないほど質素なものであった。第五倫がその話をすると。
光武帝は、
 「皇后や子どもたちにも粗食になれるようにさせている。朕」の後の時代になり、ぜいたくな生活になってはいけない。あとを継ぐ者の教育が大事なのだよ。ぜいたくな食べ物はぜいたくな食器、家具、着物というものにつながるものだからね。ぜいたくなものを食べていて、貧しい民のことを思うことなど、ぜったいにありえないからな」
 「まったく、おおせのとおりです」
光武帝は、第五倫と数人のごく親しい側近だけになると、
「これからは、自分のことを朕と言わないからな、同じ、私とそなたとかあなたで行こう。どうも朕なんて言うのは堅苦しくていけない。気楽な立場で話をしよう」
 「よいか、堅苦しいものいいは無しだぞ」また念を押しながら、帝は笑った。
 夜食が終わり、さらに、お酒も入り夜遅くまで話は尽きなかった。
 光武帝は笑いながら
 「遅くまで起きていて、灯明の明かりを無駄にしないようにと普段言っておるが今日だけは特別じゃわい」
 夕方からの話は、政治向きの話より、お互いの身の上話などを気楽に話し合った。特に第五倫の波乱万丈の話は聞いていてとても面白がった。
 皇帝は夜遅く、明日も話を続けようと言ってから寝所に向かった。
そして、皇帝は、明日の政務についてはすべてを取りやめ、明後日行うと、郎中に伝えた。
 第五倫は、宮殿の一室で寝ることになったが、皇帝との話がいろいろ頭に浮かび、また自分の考えも次々と出て、とても興奮して寝られなかった。朝方、うとうとしていると朝になっていた。
 
「次の日」
 早朝に、早くも郎官が迎えに来て、皇帝の部屋に招かれた。早速、朝食を共にし、話が再開された。食事は皇帝の食事としては極めて質素なものであった。 しかしこの質素さが、光武帝に長命をもたらしたのである。毎日ご馳走を食べていたらたちまち、たくさんの成人病になって早死にしてしまうことになる。
 今日はかしこまった部屋ではなく、皇帝の私室で、おつきのものもわずかであった。光武帝は砕けた態度で。
 「今日は気楽に話そう。さて、今日も朕というのはやめるからな。皆の前では使うがな」
「さようでございますか。本当に陛下は偉そうにするのがお嫌いなのですね」
「そのとおり、そなたもあまりかしこまって、話をしないようにな」
「ありがとうございます。仰せにしたがいます」
 さて、話が再開され、第五倫は光武帝の政策で、奴隷(中国や朝鮮では奴婢といった)を次々に開放していったことを称賛した。
 「陛下は、戦いに勝利したところでは、常に奴隷解放をすすめておられたのは、本当に素晴らしいことと存じます」
 「そうじゃ、王莽から赤眉の戦乱で、戦いに負けたものの多くのものが奴隷におとされた。もともとの良民であるものを、奴隷として売り飛ばすということは、極めてけしからんことである」
 「戦乱で相手のものを略奪するとともに、奴隷狩りで大もうけしたものもたくさんおりました。それ自体が目的で、だれが盗賊なのか誰が政府軍なのかわからないありさまでしたね」
 と第五倫。
 奴隷になってしまえば、獣や物と同じで、売り買いして、気ままに殺しても罪に問われなかったのだよ」
 と光武帝。
 「奴隷市場では牛や馬と同じように、檻の中に入れられ、売り買いされました。奴隷の値段は人によりますが千から2万銭で、牛一頭の同じくらいの値段でした。前の漢の時代にはおおっぴらなものではなかったようですが。でも陛下は奴隷を殺した場合でも、普通の人を殺した場合と同じ罪にされました。これでどれだけ奴隷の人々fが助かったでしょう。すばらしいことです」
 光武帝はうなずきながら、
 「奴隷であろうが、異民族であろうが、すべて人間である。逆に皇帝も貴族も平民も全く同じ人間なのである。同じ人間で、すべて同じであると考えれば、本来無慈悲なことをしないはずである。ところが、人は階級や、民族の違いや、同じ民族でも、宗教や思想信条が違うということだけで、同じ人間と見ないのだよ。同じ人間でないと思えばいくら痛めつけようが、、殺そうが、牛馬と同じでなんとも感じない。いや牛馬でも直接手をかければ哀れとおもうものを。それを平然と人間を殺すのだ。偏見やあやまった宗教や思想信条というものは恐ろしいものだな」
「陛下は人間すべてに平等に優しくされていらっしゃる。とても人々は優しい気持ちになっております。だから匈奴や羌(きょう)など、隣国の人々と友好関係と信頼関係がありますから、安心して、襲ってくることもない。陛下は北匈奴が飢饉の時、穀物を送られました。それに恩義を感じて、北匈奴の単于(ぜんう)も国境を侵さないようになりました。これは、いたずらに、隣国を挑発して戦いが続いた王莽と全く異なるものです。
 ほんとうに人々が安心して暮らせるいい時代になってまいりました。食べるのに事欠き餓死を覚悟したり、食人を見たりした悲惨な時代から考えますと、夢のような時代でございます。すべて陛下の徳の表れでございます」
 「だがの、まだまだ世の中には私の心をよく理解せず、私利をむさぼり、人々を弾圧し苦しめている官吏や豪族がたくさんおるのだ。
 そちのような、正しい心で、有能かつ民のための政治を行うものを、ぜひ多く抜擢してほしいのだが」
 「仰せのように政治は誠に人物しだい、優れた人々をたくさん探し出し陛下に推薦いたしますのでよろしくお願いいたします」
 そして話は延々と続き、昼食をともに食べながらはなし、なんと夕方にまでおよんだのである。まったく異例なことであった。
 「私は、長吏(孝廉などでえらばれる高官)については、本当に清貧のものか、能力があるのか直接すべて面接してきめておるのだ」
 「そのとおりです。他のものに任せておくと情実で採用してしまいます」
 話は、堅苦しい政治上の話から、戦乱時代のお互いの小さい時の苦労話に花が咲いた。
 特に、第五倫の話にはすさまじさがあり、それに比べれば恵まれた光武帝はいろいろ昔話を聞きたがった。冒頭にあげた、赤眉軍との砦での戦いの話などは身を乗り出して聞いた。
 「ところで、話は変わるが、そなたは詩や文学については全く興味がないそうだな」
 「はい、私は若い時には、戦いに明け暮れ、学ぶことは実際の政治や、実務に必要なもののみを学んでまいりました。とても、詩や文学を読んだり、学んだりする気持ちの余裕がありませんでした」
 帝は笑いながら
 「そなたは、余裕がないというより大体そういうものが嫌いなのであろう。
実はな、私も好きではないのだよ。嫌いだと言えないので、適当に合わせておるがな。これは内緒の話だぞ」
 「いやあ、そうでありましたか。私はまさしくその通りでございます。どうも苦手なのです」
 第五倫も笑った。
                p119
 
 さてどこまで、同じ人間と見るかどうかはとても大切なことである。
 
 
 

2016年12月27日 (火)

1,「ネアンデルタール人たちと私たち人類」リンク集、2「,ナレディ原人」発見、追記版

2016年12月27日 追記版
 2016年12月26日のCSの「ナショナル・ジオグラフィック」の放送(午後7時より8時まで)で、「ホモ・ナレディ」-「ナレディ原人」についての放送が、有りました。その番組を見て、またほかの資料を加えて、追記版としました。追記は記事の一番下に書きました。
・ 
2015年10月15日に、人間学研究所、実用的人間学研究会合同例会で「ネアンデルタール人たちと私たち人類」と題して、筆者は講師としてお話をします。現在、新しい図書を購入し、そのまとめを「こういちの人間学ブログ」に書いておりますが、今後もまた資料を加えていきます。
 資料がバラバラですと分かりにくいので、今までのブログおよび新しいブログをまとめて、リンク集を作ることにしました。興味があるところを改めて読んでいただければと思います。
 ネアンデルタール人のことを中心に書きましたが、その前のブログで、他の人類について書いたものも参考までにのせてみます。
 各テーマの年月の後に―接続、となっているものだけがつながります。他は、うまくつながりません。申し訳ありません。
「ネアンデルタール人の首飾り」岩城正夫氏の解説について
・ 2015年9月-接続
 
「1、ネアンデルタール人とわれわれ人類―リンク集、2、ホモ・ナレディを南アで発見」
 2015年9月
.
「こういちの人間学ブログ」において、今まで、人類の起源と進化に関して書いてきたブログです。それとともに、発見されたばかりのナレディ原人についても伝えます。
 この記事は新しいものに更新しました。
 
「私達だけがなぜ生き残れたのか」 C・ウォルター ネアンデルタール人早く大人へ、現生人は幼児化  2015年9月 接続
「ネアンデルタール人は私たちと交配した」 スヴァンテ・ペーボ 金髪の白人はネアンデルタール度が高い? 2015年8月 接続
「ネアンデルタール人と私たちの50万年史」なぜ絶滅したのか 付人類進化資料
ネアンデルタール人や古代の人類に関する図書一覧
 2015年8月 接続
 
 
「人類は多くの人類と共存した ネアンデルタール人、アカシカ人、デニソワ人、フローレス人
  2015年8月 接続
「ネアンデルタール人について 図像の変化―赤い髪、白い肌、イメージ大きく変わる」
 -ネアンデルタール人に関するいろいろな画像を出してみました、年代により大きく変化しているのがわかります。 接続
  2015年8月
.
参考資料
.
「生命大躍進」展上野の国立科学博物館を見る
  2015年7月6
 (生命の起源から、人類までの進化の歴史)
「ケニアで最古の石器、エチオピアで新種の猿人 化石相次いで発見
  2015年5月30日
http://koiti-ninngen.cocologo-nifty.com/koitiblog/2015/05/
「ホモ属最古?原人の化石発見 エチオピア原人いろいろ」
  2015年3月
.
「台湾に第4の原人 ドマニシ原人3種の原人の祖先といわれていたが本当は1種」
  2015年,1月,31日
「200万年前のセディバ猿人チンパンジーの特徴を持つ猿人」 
  .    2013年4月
.
.「人類の起源に新発見いろいろ」
  2013年6,18
「ホモサピエンス、ネアンデルタール人と混血」
  2010年5月7日
「人類の起源1ラミダス猿人以後」
  2009,11月04日
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2009/11/
「人類の起源は道具使用と重なる 猿人から石器使用」
  2010年8月12日4日
/
 
◎ウィンドウズ10に変わってから、ブログのスペースを開けておいても、つながってしまうので、行間を開けるためには、・とか、、をつけておかなければならなくなりました。
 それから、重要なことですが、今までは青色のアンダーラインが出てブログにつながりますが、今度はブログのアドレスを書いておいても、アンダーラインが出ず、ブログも開けません。大変困ります。どうすればいいのでしょうか。
その後アンダーラインが出てブログにつながると思いましたら、すべて一番最初のブログになってしまいます。
2、「ホモ・ナレディ」を南アフリカで発見
毎日新聞9月13日
.
 このところ、新しい人類の化石が相次いで発見されている。2015年9月13日の毎日新聞夕刊には、「人類含むホモ属最古の「新種」?発見」、「南アで化石発見」と小さい記事で乗っていました。
 「南アフリカの最大都市ヨハネスブルク近郊の洞窟で、現生人類を含むホモ属の新種と見られる15体分の化石が見つかったと、南ア・ウイットウオーターズランド大などの研究グループが科学誌「イ―ライフ」などに発表した。
 同大のリー・バーガー教授は英BBC放送に、ホモ属として最古のものの一つとしてみられ、人類と二足歩行の霊長類の架け橋となりうる存在だと述べている。
 グループは化石を発見後、骨や歯を採集し研究。脳の大きさは原始的な猿人であるアウストラロピテクスと同じくらいだが、手足の骨格は人類に似ているという。ホモ属の新種に「星」を意味する原地の言葉をつけた「ホモ・ナレディ」と命名した。
「NATIONL GEOGRAPHIC」 2015年10月号 特集号
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ホモ・ナレディの復元模型
 ナショナル・ジオグラフィックNewsより
  ヒトとアウストラロピテクスの特徴をあわせもつ。700時間かけて復元したそうです。
 頭が小さく部分ごとに、原始的な特徴と現代的な特徴を併せ持つ。洞窟はライジング・スター洞窟。多数の人骨が発見され、「人類のゆりかご」と呼ばれた。腰より上、特に脳は500ccと、原始的。ところが足は現代人のようである。
 成人男子は身長150センチ、45キロ。アウストラロピテクスからヒト属に進化する移行期の人類。
/
 
日経新聞9月14日夕刊、南アで新種化石 ホモ属最古級?
 補充記事
 南アフリカの研究グループは、2013年9月に化石を発見した後、1550片の骨や歯を採集し研究した。
National Geographic から 追記
 南アフリカのヨハネスブルク郊外のライジングスター洞窟から、2013年9月、人類の化石が多数発見された。2008年にアウストラロピテクス・セディバ(セディバ猿人)が発見されて以来、この地域も大いに注目されていた。
 それまでは、1964年10月に発見されたリーキーのホモ・ハビリス以来、もっぱら東アフリカが人類の発生場所とみられていました。
 2013年9月13日に、二人のアマチュア探検家、リック・ハンターとスチーブン・タッカーが、ライジング・スター洞窟へ入った。そこで人骨を発見。タッカーは古人類学者リー・バーガーをおとづれた。
 現場は、きわめて狭い石灰岩の洞くつで、発掘する人たちには小柄な女性6人だけが選ばれました。化石人骨はフクロウの骨があっただけで、あとは人骨だけでした。普通はほかの骨がたくさん混ざるものですが、そうではないので、あたかも埋葬されたようにも見えます。埋葬はネアンデルタール人まで待たなければなりません。
 2013年10月6日に研究者を呼び集めた。リー・バーガーらは発見された15体分の化石人骨について、詳しく研究し、1,550の人骨を700時間かけて復元しました。しかしまだ多数の骨が残っていた。そして「ホモ・ナレディ」(ナレディ原人)と名付けました。「ホモ・ナレディ」は現地のソト語で「星の人」を意味する。それらの結果を2013年の11月に科学誌「イーライフ」に発表した。
 その後、化石人骨を詳しく調べた結果を2015年9月に記者会見をし、発表しました。
 しかし、この報告には異議を唱える学者もいるようです。
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ホモ・ナレディの骨、ーCSのテレビ番組から
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下半身と手は現生人類に近いが脳は、猿人並み。
 化石人骨は,猿人から原人に移る過程の両方が入り混じった特徴を持った原人であると発表しました。成人男性は身長150㎝、体重45kg。女性はそれよりやや小柄である。直立2足歩行、樹上生活、手で道具を使う、という特徴を持っていました。
 脳容積は小さく、450から550㎝³で、ホモエレクツスの半分程度。ただ頭蓋骨はヒト属の特徴を持っている。歯と下あごの形は猿人よりヒト属に近い。硬いものを咀嚼しなくてよいということをします。上半身はヒト属のどの種より原始的である。手は大変良く発達している、などの特長を持っていた。
 年代は280~250万年前と推定されました。
 これらのことは2015年9月10日にオンラインで公開され、9月16日にアメリカ全土でテレビ放送された。日本での放送では「洞窟に眠る新種の人類」という題で放送された。
 「ナショナル・ジオグラフィック」誌で2015年9月にアメリカで出版され、日本でも、「ナショナル・ジオグラフィック」誌日本版、2015年10月号で出版されました。
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ネアンデルタール人タールを作れた!?追記
 2017年の9月1日の赤旗記事に、ネアンデルタール人がカバノキからタールをつくれることをオランダのライデン大学の研究グループが実験して明らかにしました。
 ネアンデルタール人の使った石器にタールがついていることは知れていたが、その作り方を実証して見せた。タールはドイツ語で谷を意味する。ネアンデル(谷=タール)で見つかった人類という意味で名付けた。
 
 

2016年12月17日 (土)

「中世の貧民」 説教師と廻国芸人 塩見鮮一郎、貧民シリーズ

 文春新書における、塩見鮮一郎氏の「貧民シリーズ」は4冊出され、3冊はすでに「こういちの人間学」ブログに書きました。しかし「中世の貧民」は、なんとなく、まとめづらくブログに書きませんでした。今回ようやく完結します。890円 +税
 書    名    出版年月   こういちの人間学ブログ
中世の貧民     2012年11月   2016年12月
江戸の貧民     2014年8月    2014年9月
貧民の帝都     2008年9月    2014年5月
戦後の貧民     2015年9月    2015年9月
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帯封に
 すさまじい貧困と差別 説教節からあぶりだされる室町期庶民の実態
帯封の裏に、
 蔓延する疾病と頻発する一揆
 遊女と奴隷を確保する人身売買
 生活のため放浪する賤民
 合戦にともなう略奪と暴行
 店を張れず、物を売り歩く行商人
 障害者を使った「人間カカシ」
 ホームレスや病者が流れ着く「こじき町」
 説教節の名作『小栗判官』を題材に、餓鬼として甦り、土車で引かれる主人公の熊野への旅を改めて検証するとともに、貴族や高僧といった上流階級ではなく、庶民の目線から見た、貧困、病、そして恋の道行き等の実態を描く。
目  次
まえがきー説教節の愉楽
1章 六根片端の男
  つちぐるまの吸引力
  中世の小田原宿
  貴種の来歴
  復讐と鎮魂の系譜
  奇想世界『をぐり』の成立
2章 魅惑の倒錯
  美人の特権神話
  獣姦を特別視しない文化
  道行の幻視
  散所・陰陽師村・声聞師村
  拷問と苦役の果て
・    
3章 中世の恋
  盲目杖に咎はなし
  乙姫はつよし、小萩もけなげ
  無謀な求婚
  なぜ人食い馬なのか
  受難の放浪劇
  人商人と中世奴隷制
4章 よみがえりの夢
  鏡の里の女たち
  逢うも別れもの関
  清水坂の雑踏
  四天王寺の摩多羅神
  熊野からお急ぎあれ
  復讐譚で物語誕生
  不具者と不治の普遍
あとがきー説教師の変遷
話のあらすじ
 二条の大納言(藤原兼家)が息子を「常陸小栗」と名付けた。放蕩無頼で、72人を離縁した。をぐりは蛇の化身と情を交わす。父親から勘当される
小栗城主は敗残の将として埋葬、しかし、閻魔大王が黄泉の国から帰す。
 しかし、蘇生したが、餓鬼すがたである。あばら骨が出て、腹は膨らみ、足はゴボウのように細い。らい病で、感覚器官がすべてだめな片端に(六根片端)。一遍の時宗の遊行上人が男の髪をそって坊主にして『餓鬼阿弥陀仏ー餓鬼阿弥』と名付けた。『この者を一引き引いたら千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と札を付ける。
 土車に乗り、首から札が下がっている。「をぐり判官」、閻魔大王の直筆で、「熊野本宮の湯峰に入れてたまわれや、」と。ひとびとは『えいさらえい』と引き立てる。-箱根越えから東海道へと進み、熊野を目指す。
 説教語り(師)は、立ったまま語る。取り巻く観衆はしゃがみ込み話を聞く。竹で作ったすりササラでさっささらさらと拍子をとる。褐色の裃を着た説教師はござの上にはだしで立つ。大きな傘をひろげる。庶民はわずかな銭を握りしめ話を聞く。当時の数少ない娯楽の一つである。説教師は語りながら、全国を回る。『伊勢のこじき』と言われるほど伊勢出身者が多かった。このような芸を売る人々は賤民と位置付けられていた。
 このような説教師は寅さんの世界につながるものです。
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今日につながる説教節は「かるかや」、「さんせう太夫」、「をぐり」、「しんとく丸」、「あいごの若」、で、五説経という。1915年森鴎外、翻案して「山椒大夫」がつくられる。
「さんせう太夫」は中央の権力が衰えた時代だからこそ存在で来たアウトローの長者。
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諸国を遊説する『念仏聖』、『盲御前』-盲目の女芸人,『琵琶法師』
一部の盲人は芸能で生活を立てた かれらは散所者といわれる
 散所は、寺社に付属して雑役に従事する人たちの土地。呪術師のいる散所は『陰陽師村」という。
 当時は多くの商人は店を張れず、納豆や豆腐、その他を売りに来る人々、行商人がほとんどであった。戦後でも、農家のおばさんが野菜などを売り歩き、担ぎ屋さんと呼ばれた。富山の薬の置き薬もあった。
芸能も渡り歩いて行う。芸能の代価ではなく喜捨として。乞食と同じようー物貰いとしての位置づけ。河原乞食とも。
 
さんせう太夫(アウトローの長者)ー安寿と厨子王 逃げ出そうとした罰として額に焼き鏝をいれる
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水田で鳥を追う『人間の案山子』の図
今の案山子は藁人形だがかっては本物の人間であった
不具者ー乞食。農村では案山子の役、手足の腱を切って人間案山子にすることもある
『鎌倉大草紙』ができたのは文明11年(1479年)のことである。これが『をぐり』に影響を与える。『をぐり』は徳川初期に記録された。正本は1675年。絵巻物、浄瑠璃に歌舞伎にといろいろに演じられて現在でも演じられている。
 常陸の国に常在した小栗家は、伊勢神宮の御厨の管理を任されていた。
茨城県の筑西市に常在
 鎌倉公方、堀越公方、関東管領などの争いー戦国時代に
 武蔵と相模の郡代・横山氏の姫 照手姫は、をぐりと会い恋に落ちる 怒った父親は照手姫を海で殺すようにという。横山氏の兄弟が助ける 横浜市六浦に漂着 漁夫の大夫に助けられるが 姥が2貫文で売る 転々と売られ、13貫文になる 彼らは役立つ間は最低限の食事などが与えられるが役に立たなくなると捨てられた。零落する
「をぐり」を横山氏のたくらみで、「鬼鹿毛』という人食い馬に食い殺させようとする。
「をぐり」は「鬼鹿毛」をてなづけける。鬼鹿毛はいろいろな芸をする。
横山氏はをぐり主従を毒殺、「をぐり」を土葬し、10人の家来を火葬にする。
「をぐり」だけが餓鬼姿で再生。
「人商人」(人身売買と中世奴隷制)売買された奴隷は賤民よりひどい暮らし。
『さんせう太夫』この題名は柳田国男により、もとの題「つし王」
だまして人買い船に連れ去られる。母とうばは北へ、ずし王と安寿の船は西へ。母は蝦夷へ売られる、二人は京都府宮津の『さんせう太夫』に売られる。さんせい太夫には5人の息子、三郎は情け知らず。2人にやきごて。姉は塩汲み、弟は柴刈り。蝦夷の母親は足手の腱を切り『鳥を追う仕事』-人間案山子に
 賤民は移動の自由があるが、買われた隷属民は全く自由がない。物や家畜と同じ。
◎付記
 人さらい、人買いは大きな産業とも言えたぐらい横行した
ポルトガル人が日本人を海外に売り飛ばす。豊臣秀吉の人身売買禁止令が出るまで続いた。
九州の諸大名は、火薬などを手に入れるため日本人婦女子をポルトガル人に売り飛ばし、その数は50万人に及んだ。
 江戸幕府も禁止したが、年貢上納のため娘を売るのは許可。そのあとも、人身売買は非合法の形で続き、人身売買禁止の法律が制定されたのは、1870年子供を中国に売ることを禁止。1911年工場法まで女性の人身売買的労働があった。第2次世界大戦終了後、売春に関する人身売買の禁止。不徹底。1956年の売春防止法それでも、現在まで続く。
・・
 照手姫の最終到着地は青墓宿。遊女で有名。照手姫は遊女屋に売られる。常陸小萩と名をつける。しかし遊女になるのをことわり、かわりに16人分の水汲みの過酷労働をさせられる。それを助ける千手観音。3年の月日が過ぎる。
 遊女屋のところで土車がぴたりと止まる。再会しているが気づかない。土車の餓鬼の札を見る。この土車を引いて夫の供養をしよう。休みをもらうように頼む。君(遊女)の長は3日のところ5日に。
 照手姫は供養のためと思い、5日の休みをもらい、狂女のふりをして、をぐりと知らず縄を引く。期限が来ての二人の別れ。
逢坂の関、大津の関蝉丸神社には旅人がひきもきらない。
琵琶法師の守護者 蝉丸神社 諸芸道の聖地
京都清水坂の非人 1000人も集まっていた。
1割から2割がらいしゃであった。らいしゃは物乞いに出る。らい者の監督、犬神人
犬神人は頭をそり、柿色の衣をつけ、白い覆面をしている。
喪送の権利を独占
「六道の辻」の先は鳥辺野の葬送地 清水寺の近く
貧困者の死体は埋葬もされない
大阪、四天王寺の参道は貧民の解放区
難路の大辺路を行く 熊野街道は小栗街道ともいわれる
「をぐり」は熊野の湯峰温泉へたどりつく、病は快癒
父兼家を訪ねる
美濃の国司となる
常陸小萩=照手姫との再会
横山氏の三郎と人買いに売った老婆への復讐
復讐へと続く
◎『貧民シリーズ』のなかでも中世の貧民はすさまじい。貧民は死んでも埋葬もされず、打ち捨てられた。確かに現代の日本はその時代に比べればましである。
 しかし、12月19日の毎日新聞の1面トップは、「最低賃金未満5%超」今年度、東京大阪の中小という記事であった。ルールを無視した低賃金労働が蔓延していると。最低賃金が生活保護の基準となっている。その基準以下の賃金がまかり通っているということだ。
 低賃金のもととなる非正規労働者の割合は増えている。
 一方,安部首相は外国に派手にお金をばらまいています。この前ロシアのプーチン大統領が来日しました。経済協力で日本から60件、3000億円の経済協力のお金を出す約束をしています。パーティーには日ロの経済人900人が参加したそうです。そのお金には日本の大企業がくっついて潤っています。しかし、領土問題でいい返答を得て、その勢いで解散総選挙という目論見は外れました。それなのに、マスコミを支配し、高支持率を得ているのが実態なのである。
 小栗判官の場所は茨城県筑西市、栃木県に接し平坦で、農業が盛ん。近年人口は減りつつある。現在人口は10万人。小栗判官祭りが行われている。
 

Namaste アジアンダイニングバー カレーセット 高田馬場に行ってみました

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自宅から高田馬場の芳林堂書店に行く途中にあり、気にはなっていました。
高田馬場駅の戸山口から2分のところです。高田馬場のガーデンタワーに近いところです。
入り口で呼び込みしています。車いすで入れるところに看板がありずらしてもらいました。
場所は高田馬場ですが、大久保百人町のすぐとなりです。
2016年12月17日土曜日に、本屋へ行く途中、昼食に行ってみました。
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お店から外を見たところ。中も車いすOK
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ランチセットのメニューです。ほかに正式なメニューあり。カバオセットは確かインドネシア料理かも。
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普通のメニューです。
タイ料理のパッタイや中華のチキンチャーハン、インドネシア料理のナシゴレンなどがあります。なんでもある感じ。お酒も日本酒や焼酎もあります。ネパール、インド料理が苦手の人と行っても大丈夫です。
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夜のメニューです。ベトナムのフォーセット や8種類のカレーセットなどいろいろです。
他に、ネパール料理のモモもあります。
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注文した ナマステスペシャルセットです。8種類の中から、3種類のカレーを選びます。マトン、チキン、キーマカレーを頼みました。ナンとライスが付きます。ナンは大きく、私には食べきれませんでした。あとサラダが付きます。
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タンドリーチキンセットがついています。1350円で他にチャイがあるそうですがいいですといいました。450円のビールも頼んで、1800円でした。
店長さんと思われる人に、ネパールの方ですかと聞いたらそうですということでした。
新宿区高田馬場1-29-4 レイカビル1F 2015年2月オープン
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2016年12月15日 (木)

『第五倫伝』、第14章、第五倫危うし、「謝夷吾、風角占候で危機を知る~ p186-189

『謝夷吾、風角占候で危機を知る』
「殿様、ご無事で」
「何とか間に合ってくれ」
向かい風の中で涙をぽろぽろ流しながら、馬を飛ばす厳八
 
 道の途中ではるか向こうから騎馬の一隊が全速力で向かってくるのを見たとき
『まだ知らせに行く前に、味方が来るわけがない」
新しい賊の一団でではないか。
厳八はもしこれが賊であるならば、殿様の命が危ない。一人で少しでも食い止めてから死のうと刀の柄に手をかけ覚悟を決めた。
 謝夷吾は山陰県の役所にいて、仕事をしていたが、西の銭糖のほうから、突然凶風がおこり窓や戸をがたがたと鳴らした。謝夷吾は一しゅんにして、第五倫の一行に危機が迫っていることを察知した。直ちに鎧を身に着けるとともに、直ちに部下に鄭弘に急を告げるように言った。
 鄭弘もすでにこのことがあるやもしれぬと待機していたのである。
直ちに大青龍刀をつかむや、部下を率い馬上になった。
「やはり、無理やりにでも私たちがついていくべきであった。何とか無事でいてほしい」
謝夷吾はつぶやく。集まったのは急なことで謝夷吾と鄭弘を含めて15名足らずであった。
「急ごう、殿が危ない」
一行は脱兎のごとく山陰県の城門から飛び出した。
 厳八は、はるか向こうから次第に近寄ってくる騎馬の一団を見て、先頭にいる長いひげを生やした見事な風貌の壮士と太った色白の人物、さらにはたくましい宋三らを見て、思わず
「よかったー」
「巨君さまー、堯卿さまー,宋三さまー」
あらん限りの大声をあげた
「ご主人様がたいへんで-す。敵はものすごい数です」
立ち止まる厳八のもとへたちまち一行が殺到する。
「やはりそうであったか」と謝夷吾
「今どちらにおられる」と鄭弘
「柯岩の石切り場のお堂にこもっておいでです」
と答えるやいなや、厳八はそのまま元の道を走り出した。
「まにあってくれ」
一同、心に祈りながら、必死に馬をとばす。
 ついに大男で怪力の趙袁が、鉄槍を小脇に階段を上がってくる。
普通の槍の柄は木製である。上にしなったり、折れたりした。鉄槍はその弱点は無いが,恐ろしく重い。ところが、軽々と趙袁が鉄槍をふるうと剣などは弾き飛ばしてしまうのである。
 趙袁は、さすがの手練れ、手下を盾とし、飛んでくる矢を打ち払いながら、石段をのっしのっしとあがってくる。ついに、堂の扉の前に立った。
 扉を開けさせると、敵は堂の中に殺到し、乱戦状態となる。そうなると趙袁は強い。傷を負っていた二人は趙袁に突き立てられ、倒された。さらに一人は鎗先で深々と切り裂かれた。
 蓬越に一人は剣で胸を刺された。そうなると矢を射ているのは第五倫だけになり、ついに第五倫も剣を抜いて戦い始めた。
 第五倫たちは壁を背にして5人がまとまって戦う。
もうすでに、5人は血まみれだ。続く戦闘で息も切れてきた。
趙袁、蓬越は強い。敵の数も多い。
趙袁は言う。「俺は牛殺しの趙袁だ、もういい加減あきらめろ」
いかつい体から大声で威圧する。
危うし、第五倫、ついにここで命を落とすのであろうか。
趙袁、鄭弘の一騎打ち
 そのとき東のほうから馬の殺到する音が響いてきた。
何だ、何だ、敵は騒ぎ始める。それは次第に強くなってきた。
「だんな様ー」
 丸い目をさらに大きく見開き、顔を真っ赤にして、大声を発しながら走る厳八が先頭にいる。その姿はたちまち大きくなり、たちまち精鋭十五人は、後ろにいる賊たちに殺到し、鄭弘らは、はじめ馬上から矢を放ち、次々に敵を打倒し始めた。
敵を手投げの爆薬で幻惑させる謝夷吾。
大青龍刀で敵を切り倒す鄭弘。ほかのものは剣や刀で敵をうちたおす。
厳八は、鞭の先に鋭い鉄のとげを植え込んだ厳八独自の武器で、馬上から打ちかかる。
「こいつめ、こいつめ」と、鞭だけでも恐ろしいのに、賊はその鋭いとげに打倒され悲鳴を上げた。
 堂の中庭には、激しい怒号と悲鳴が上がる。新手の登場にすでに疲れの出ている賊隊は倒され、動揺が走った。
 第五倫たちは
「助かった、間に合った」
「助けに来てくれたぞー』叫びあった。
第五倫たちは、さすがに、もうこれまでかと、と思っていただけに、鄭弘や謝夷吾などの声を聴き、一瞬、力が抜け崩れ落ちそうになるほど安堵した。
趙袁は、舌打ちして、
『邪魔が入ったな、まず、下の奴らを片付けよう」
階段を大股で降りていく。
 鄭弘は大青龍刀を手に、すさまじい勢いで敵をなぎ倒す。
趙袁、鄭弘、お互いに一見して、この者こそが好敵手とすぐみとめあう。
鄭弘は、
「それがしは、督郵、鄭巨君なり、降伏して直ちに、縄につけい」
大音声で呼びかける。
その有様は堂々として威に満ちたものであった。
「おう、それがしは、牛殺しの趙袁、わしの槍を受けてみよ」
たちまち、、鄭弘の大青龍刀と趙袁の鉄槍との壮絶な一騎打ちが始まる。
ガツンとぶつかる音とともに火花が散った。
激しく打ち結ぶがなかなか決着がつかない。
 蓬越の相手は謝夷吾と、宋三である。
蓬越も二人を相手に互角の戦いをしたが、さすがに疲れてきた。
残りの賊どもも新手を前にして疲労困憊してきた。弓でいられ、剣で倒されている。
 鄭弘によって鍛えられた、部下は、それぞれに手練れで、次々にそれぞれの得物で敵を打倒す。
 多くの敵が逃亡し、傷つき、死んだ。
しかし、残った趙袁さすがに強く、鄭弘に宋三が加勢してもかたがつかない。
「あっぱれなるかな趙袁、しかしこれまでだ」
第五倫は叫ぶや、剛弓を絞り狙いを定める。
わざと急所を外し腿を射抜いた。
グッと、膝をつく趙袁、、おもわず、鉄槍を取り落とす。
そこを折り重なるようにして武器を取り上げ、押さえつける。
捕まった首領を見て、蓬越や残りの手下も抵抗をやめた。
直ちに賊どもはきつく縛り上げられた。
                        p186-188
『謝夷吾、方術にて、首領趙袁を催眠し、依頼主を突き止める』
「本当によく来てくれた。今度ばかりは危なかった。一時は死を覚悟した。
それにしても、どうしてこんなに早く着いたのだ」
第五倫は、息を弾ませながら、みづからの傷の出血と返り血で赤くなった顔や服のまま訪ねた。
『謝堯卿殿の風角占候によります」
副官が答える
「そうか、素晴らしいものだな」
と、第五倫は感嘆した。
「それに厳八が急を知らせに来て、場所を教えてくれました」
と鄭弘は続けた。
第五倫は
「そなたたちはみな私たちの命の恩人である。皆が言うにもかかわらず、従わず、私の判断の誤りで、多くのものを死なせてしまった。許してくれ。傷を負ったものは早く手当てをしてやってほしい」
皆に頭を下げた。
部下たちは、残った賊たちを縛り上げた。
 堂の前の中庭で、縛り上げた趙袁に、
「お前たちに襲撃を命令させたものは誰か」
鄭弘は問い詰めた。
趙袁は、
「俺たちには俺たちの仁義がある。もうこうなれば死ぬ覚悟は出来ている。どんなことをされても、殺されても教えやしないさ。きさまたちも俺たちの仲間にそのうちに殺されるだろうよ」
 縛られながらも言いたい放題毒づいた。
「何をほざく、このやろう」
鄭弘は鞭をふるい打ち据えた。
顔や肩から血がにじんだ。
 謝夷吾は
「確かに痛めつけてもしゃべりはしないでしょう。それがしにお任せ願えないでしょうか」
と、第五倫にいう。
「よろしい、そなたに任せた」
 謝夷吾は趙袁を、お堂の中に引き入れ、方術にて首領趙袁を催眠して、簡単に依頼主の名前を突き止める。そのようなことは謝夷吾にとっては簡単なことであった。
 やはり、曹神一味の名をあげた。
 第五倫一行は、近くの役所に手配をし、けが人の手当てや死者の収容を行わせた。
第五倫は山陰県の都尉府に戻り、賊一味の討伐と逮捕を手配した。
 督郵の鄭弘や謝夷吾は武力をもって、反対勢力を徹底的に取り締まった。
曽神や悪質な巫祝をを逮捕した。裁判で死刑にし、また結託していた役人や豪族を罪に重さにより処罰した。
 役人は貧しい階層の出身者で清廉で能力のあるものに入れ替えた。
 はじめ、人々は祟りが起きるのではないかと恐れた。しかし、何事も起こらなかった。
人々は第五倫の正しさを知った。
 これ以後人々は迷信におびえなくて済むようになった。
人々は大いに喜んだ。長年の悪習が根絶されたのである。
      ~p189
次は
『謝夷吾、県長杜峻の収監を命じられる』に続く
 
 
 
 
 

2016年12月13日 (火)

最初のアメリカ人は縄文人?BSTBS特番2日目

 BSTBSの2016年12月10日放送では,「2夜連続特番 生物大絶滅と縄文人の謎」のうち、2日目の「最初のアメリカ人は縄文人?」を放送しました。新聞のテレビ欄でもカラーで広告が載っていて、力を入れているのがわかります。時間は夜7時から9時までの2時間です。
 案内役は佐々木蔵之介氏です。興味深いのでビデオをとりながら見てみました。
 アメリカの太平洋岸にオレゴン州があります。北はワシントン州、南はカルフォルニア州に接しています。オレゴン州に住む先住民族、ナバホ族には日本との共通点がたくさんあります。たとえばワタリガラスを神の使いとして大切にする風習があります。日本においてもカラスは日本人にとって重要な位置づけがあります。三本足のカラスは神の使いとされています。ナバホ族はシャイであまり自己主張せず日本人と似たところがあります。
◎現在はナバホ族はオレゴン州には少ない。ナバホ族はアリゾナ州北東部とニューメキシコ州の一部にまたがる砂漠地帯に最大の保留地を持ち、ナバホ族国家を形成している。ナバホ族はアパッチ族に近い種族です。
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太平洋北岸の遺物がたいへん似ている。各種族のワタリガラスの彫刻がある。
 オレゴン州の先住民族はオレゴン州の人口の1,1%しかありませんが、白人が来るまでは多くの人口がありました。
 オレゴン州のフォートロック洞窟では、9500年前の人骨が発見されていますが、同時に完全な状態のサンダルが多数残されています。その形状は日本のわらじそっくりです。そこに日本の古代との共通性が見られます。
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15000年前のアメリカで発見されたサンダル。わらじそっくりです。
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いろいろなサンダルがあります。いずれも日本のわらじそっくり。
また、オレゴン大学にある、その洞窟で発見された頭骨も日本の縄文人-特にアイヌ、とそっくりでした。当時の社会が母系社会であろうということも共通するところです。
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アメリカの洞くつで発見された人骨。縄文人とよく似ている。
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先住アメリカ人の顔の復元図。
 従来の説では、旧大陸から新大陸への移住は、氷河期末期で海面が著しく下がってきたときシベリアに住んでいた人々が、歩いて渡ってきたと言われていました。しかし、それより前に最初に新大陸に渡ったのは海伝いにカヌーで渡ってきた、縄文人ではないかという説が、有力となってきました。
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ベーリング海峡が陸続きとなり北アジアから、来たのも事実ですが、その1500年前に海伝いで縄文人が先に来ていたということです。
◎この説は2012年ごろにすでに伝わっていて、ブログなどに書かれています。
 
 小林達男氏 国学院大名誉教授、新潟県立歴史博物館
縄文土器 初期の土器 煮炊きできるようになる 食べ物が多様化 定住生活が可能になる
7500年前の丸木舟が発見される 長さ7,2m 双胴式の丸木舟はかなり長い航海に耐えられる。
ロジェンキンス氏
 アメリカの ぺイスリー洞窟 40人ぐらいの住める洞窟群
 14500年前の遺跡が発見された。それは人間の糞が化石化した糞石であった。これでDNAもわかり、縄文人と近いということも分かった。
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 従来説では13000年前にベーリング海峡を経由してきたというのが定説であった。
縄文人は海を渡ったかージョン・ターク「縄文の航跡」という書物
最初のアメリカ人は丸木舟に乗って海から渡ってきたという説を唱える。
エクアドルで発見された土器も縄文土器に似ている
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縄文人が作った縄文土器
山形県の日向洞窟について 長井健二氏 削器が日本とアメリカ古代の道具が似ている
 
 
オレゴンフッド山 3428m 富士山に大変良く似ている
アメリカ古代に見つかったものと縄文時代の日本の有節尖頭器が同じ形をしている。
 
ケルプー巨大な海藻による ケルプハイウエーがある。
日本とカルフォルニア沿岸と海産物は90%同じである。そのケルプハイウエーに沿って縄文人がやってきたのではないか。
アーランド教授は日本の縄文時代人が、最初のアメリカ人だと主張する
昔は160mもj海水面が低かった。
◎この説は、十分な納得性があると考えられます。縄文人系と後から来た、シベリア系アジア人がアメリカ先住民を成しているようです。

2016年12月 7日 (水)

大江戸線で、牛込神楽坂へ、日本料理鱻(セン)で昼食 ,副都心線もバリアフリー

地下鉄大江戸線のバリアフリーの実態 
毎日新聞の11月の新聞で、「バリアフリー最前線5⃣」で都営地下鉄大江戸線で、ホームかさ上げ介助不要という記事がありました。これは『ぐるっと首都圏』での連載記事の一部です。前後に、ディズニーリゾート、賃貸マンションの記事がありました。
 大部分の駅で、車いすでは駅員の介助を受け、プラットホームと電車に渡し板を渡してもらって乗降する。対応は親切ですがいちいち駅員に頼むのは面倒だし、気持ちの面でも負担だろう。そんな中で障害者から『地下鉄大江戸線はいいですよ。介助なしで乗り降りできる』と聞いた。なぜ大江戸線は介助が不要?駅で確かめてみた。という記事がありました。
 今世紀に入り開業した新路線でも、駅によってはホームと車両の段差や隙間の問題を解消できていないとする。大江戸線でも、車いす利用者が求めれば駅員が介助している。
 記事の最後に、川口教授は、「障害者が駅員に依存せずに移動できる環境を作るべきで、今の鉄道の『介助依存システム』は間違っている」と指摘する。
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 12月6日のお出かけの日に試してみました。
 いつものように午後1時にヘルパーの斉藤さんが来ました。初めの予定では、大江戸線の一番近い東新宿の駅まで、電動車いすで行き、そこから牛込神楽坂まで大江戸線で2駅6分の予定でした。しかし天気は良いのですが風が強く、電動車いすで行くのを断念し、タクシーで行きました。家から東新宿駅までは、電動車いすで前に行ったことがありますが20分ほどかかります。
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段差はほかの地下鉄と同じくらいあります。段差0は特別な駅の特別な場所だけなのでしょうか。
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このようにホームがかさ上げされているところは、このようなマークがつくようです。
都電の荒川線すべてかさ上げされてバリアフリー化されているそうです。今度試してみます。
 
 大江戸線の地下鉄に乗ってみました。記事ではドアとホームの間が数センチかさ上げされ段差はほぼ0と書いてありました。東新宿駅では、ホームとドアの間の数センチは段差がありました。ほかの地下鉄とあまり差がないようにかんじます。しかしこれくらいは普段でも車いすの背中の後のほうに重心をかけて、前の車輪を浮かしてあがりますから大丈夫でした。ホームと車の間の隙間はあまりありませんでした。乗り降りは一人でスムースにできました。
 牛込神楽坂の駅からのエレベーターは1つしかなく、神楽坂の商店街の道まではかなり距離があります。神楽坂商店街に近い出口はエスカレーターだけでした。
昼食は和食、センで
 早速昼食の場所を探し始めましたが、ランチ営業をしていない店が多く、段差がきつすぎて入れない店ばかりです。店を探しているうちに2時過ぎになってしまい、前ランチでいった店も2時過ぎには閉店でした。一時は自宅へ帰って食べようかとも思いましたが、日本料理の鱻(セン)が開いていました。魚が三つでセンと呼ぶそうです。今までは2回ともフランス料理店でした。
新宿区神楽坂5-1-2 神楽坂TNヒルズ 03-5579-8653
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お店の入口です。神楽坂のメイン通りに面した1階のお店です。
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お店の中の様子です。カウンター席で食べました。
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 ここでお昼のランチを頼みました。中にかなり高い段差がありますが、斉藤さんに上げてもらいました。お魚ミニ会席で、少しおごって3400円のものを頼みました。ふつうは1000円台です。結構いろいろな品が付きます。
 頼んだものはメインはカレイの煮つけです。ほかに少しづつ刺身とステーキ、前菜とデザートが付きます。なかなかおいしい味付けでした。ごはんは残しましたが他は全部食べました。
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大江戸線は自分一人で行けることが分かりましたが。しかしすいているときはいいのですが、エレベーターは小さく、二回乗り換えないとだめです。少し大変です。自宅から駅までが、かなりの距離があります。近い新都心線はどうでしょうか。今度試してみます。
 寒いとトイレが近くなり、障害者用トイレもそうありません。いろいろな点で、まだまだ不便です。東京オリンピックまでには全体が障害者に便利なようになるといいのですが。
12月20日、副都心線で池袋まで電動車いすで行ってみました
 12月20日のお出かけの日に、今度は車いすで
地下鉄副都心に乗って、西早稲田駅から副都心線の池袋駅まで行ってみました。
 電車とホームの段差は大江戸線より少ないということがわかりました。
ただ地下鉄副都心線ののホームから地上へはエレベーター3つ乗り継がねばならず、エレベーターからJRの駅、東武デパートまでかなりの距離がありました。
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西早稲田の駅からの段差です。あまりありません。
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池袋駅に着いた時のホームとの段差、あまりありません。
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副都心線池袋駅のエレベーターから見たJR池袋駅と東武デパート
 
 

2016年12月 1日 (木)

近況、1、時がたつのが早い,年誌の原稿、2、セキュリティー3、大久保街歩き4、アクセス

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1、時がたつのが早い、人間学研究所年誌の原稿
 2016年も残すところあと1か月、このところ、月日が経つのが早く感じています。いままで.,特に病気前は毎日いろいろなことがあり、長く感じられましたが、最近は毎日がリハビリや医者、ヘルパーさんが来るなどの繰り返しで、変化に乏しく、もう一週間たったなー、という感じです。
 月2回ヘルパーの斉藤さんと出かける以外、週1度程度本屋へ行くか、新大久保周辺で写真を撮るぐらいです。12月は人間学研究所の忘年会を家の近くでやってもらえるので参加するぐらいです。
 7月22日のブログはリハビリが順調に進んだと書いています。ところが8月6日のブログでは体調がいまいちと書いています。9月22日には、2回転んでしまったこと、天候不順で体調が悪いと書いています。11月半ばごろからようやく体調が元に戻ってきました。
 先月10日間ほどブログの更新をしませんでした。今年の「人間学研究所年誌2016,14号」へは、エッセイでなく論文として出そうとしています。『どこまで人間と見るかー過去、未来』というテーマです。年に実用的人間学研究会の例会でお話してから、2016年の今年、人間学研究所の例会、二火会の例会と相次いでお話ししました。
 参考書の本などを読んで整理していますが、資料が多く大変です。
 例会でのお話しは資料は少なめで、写真や図版を多くしましたが、その後いろいろな資料を読み、文章を付け加え、論文の20ページの制限を超えてしまいました。
 前半は人間を奴隷扱いなどして人間と見ない、という各国の歴史などを書き、後半は、いろいろなマンガや映画で、人間とロボット、宇宙人などを書いたもの、さらには最近急速に発展してきたAI(人工知能)などについてどうまとめるかということです。
 あまりにも資料が多くなり少ない文章枠でどうまとめるかに困っています。
一応完成しましたので、編集をしていただく岩田さんにメールでお送りしました。
2、ノートン、ウイルスバスターのセキュリティーでの重複支払いについて
 パソコンのセキュリティーで、現在は、ウイルスバスター、前は、ノートン(トレンドマイクロ)に入っていました。ウイルスバスターは4年ほど前にパソコンを買い替えたときに入りました。ノートンはそれまで入っていて、ノートンを削除、取り消しをしました。パソコン画面上にはウイルスバスターだけがのっていてノートンは姿形もありませんでした。それだけでいいと思っていました。ところが、今年12月12日のJCBでのカード払いの請求書に、シマンテックストア(Norton)8618円というのがのっていました。どうも2回ほど引き落としで8618円を払ってきたようです。
 インターネットで解約の方法を調べました。それによりますと、赤字で!が出ていて、「コンピュータからノートン製品を削除しても利用停止とはなりません。シマンテックストアから利用停止手続きをしてください」とありました。
 よく解約手続きを読まず、削除すればよいと考えていました。コンピューター上に何も情報がなく銀行引き落としだけが続けられました。3年前に脳出血になり1年ほどは注意散漫でノートンから引き落としがされているのも気づきませんでした。
 今回はノートンストア(03-5642-2682)に連絡して比較的スムースに手続きがされました。12月12日には引き落とされないと思いますがどうでしょうか。
 ウイルスバスターから、昨日12月6日の催促メールで振り込みがされていません。振込用紙を送るというメールが入ってきました。重複請求が来ていた分で、無視していたものです。前はこのような請求で払ってしまいました。今回も無視します。
 ウイルスバスターでも昨年1度、1年分の金額5000円ぐらいを払った後、3か月後に、また請求書がきて、注意散漫のためまた支払ってしまいました。ウイルスバスターに電話しましたら、その分は次の支払いに使えるとのことでした。今年5000円を支払いましたら、3か月後にまた5000円の請求書が来ました。もう面倒なのでそのまま放置しました。こちらは自動引き落としでないので払わなければそのまま1つは終了です。
 私の不注意で、1台のパソコンで、一時ノートン1回、ウイルスバスター2回と3回分も払っていたことになります。
普通なら気が付くのですが。病気をした後など注意散漫になるのに気をつけなばならないと思いました。それにしても、平気で重複してとる会社もお客様サービスの点でどうかと思います。
 
3、大久保街エスニック料理店歩き、について
 このところ、新大久保、大久保駅周辺のエスニック料理店の様子を電動車いすで回り、ブログに書いています。今人口増加が一番目覚ましいのが、ネパール人とベトナム人です。2016年の11月1日の新宿区に住むベトナム人は3574人、ネパール人は3374人です。また特に目立つのがネパール料理店です。新大久保では私の知る限りで25店ほどで、特に去年から今年にかけて急増しています。(ブログ参照)ネパール料理店には、食事に行ってきました(ブログ参照)。インド料理と中華料理を足して2で割った感じで、日本人には食べやすいのです。またハワイ料理とネパール料理を出す珍しいお店もあります。(ネパール専門店に代わりました。)
 あと2店の写真を撮れば全店の写真が入ります。-全店の写真を撮りました。
新宿新聞ではいずれ特集するようです。
 ベトナム料理店も増えています。タイ料理店もあります。ベトナム料理店は前はタイ料理店に比べ非常に少なかったのですが、今はベトナム料理店のほうが多くなっています。(タイ料理店のほうが少し多いことがわかりました)タイ料理より日本人には、食べやすいということもあります。
 そのほかにブログにも書きましたが、大久保駅周辺にいろいろ珍しい店があります。チュニジア料理2店、トルコ料理店、もちろんネパール、ベトナム料理店があります。中国では中国延辺(朝鮮)料理、中国東北料理(旧、満州地方)、蒙古料理、台湾の精進料理、チベット料理などがあります。コロンビア(中南米)料理というのも珍しいと思います。ミャンマー料理店は高田馬場に集中していて大久保に見当たりません。
 食材店で料理店ではありませんが、ハラルフードの店が増えています。また筆者のビルのテナントでアフリカのコンゴの食材店があります。
急激に増えていたのが、ケバブを売るお店です。初めは3店ぐらいでしたが、2016年12月現在、分かっているだけで新大久保地区(百人町、大久保)に8店です。小さなお店で扱う商品も少ないお店です。以前は店頭で韓国のホットクのお店が多く、簡単に済ませていましたが。甘いお菓子のようなものでそれで昼食にするには不十分です。
 ケバブは400円から500円で十分昼食にできます。それで簡単で増えているのでしょう。
4、アクセスの現状
 2016年12月1日現在、のアクセスの現状です。
記  事: 800件
アクセス: 137万件
コメント:  744件
アクセスのほとんどは検索で80%。その他は20%です。
1日500件ほどです。1000件ぐらいになることもあります。
訪問組織は11月で90人ほど、件数はもっと多くなります。
NECと日立製作所が115人ほど。

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