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2018年3月21日 (水)

長年の人間学研究所研究員、永井 治氏の死を悼む。ー幸福について

 人間学研究所準備室時代から、、1999年4月の人間学研究所設立の時以来20年以上ずっと、人間学研究所の研究員として活躍してこられた、永井 治氏が、2017年10月に逝去されました。「人間学研究所年誌2017」の名簿欄には、永井 治氏のご逝去のお知らせが書かれています。

 

 

永井 治氏の略歴

 

 永井 治氏(以後親しみを込めて永井さんと呼ばせていただきます)は、人間学研究所準備室にいつ入られたかは詳しい資料は分かりませんが、1999年4月の人間学研究所の設立の時にはすでに、研究員として参加されています。人間学研究所設立の時の所員は14名で、その時のメンバーで今も所員の方は、所長の柴田義松氏、名誉所長の小原秀雄氏、副所長の岩田好弘氏、専務理事の筆者、佐竹幸一だけです。この時にすでに永井さんは研究員でした。この当時の役員でまだ人間学研究所の籍がある方は名誉所員の岩城正夫氏と野本雅央氏だけです。(役員でなく会員の方は他におられます)

 

 人間学研究所の設立とともに、『人間学研究所通信』(Humaology)が発行され、2017年10月26日に第80号が発行されました。永井さんは『人間学研究所通信』の常連の投稿者で、「通信第79号」には、「将来予想について」として投稿され、80号には「不可欠で不確実な将来予測」と題して5ページにわたって投稿されました。しかしこの80号の通信が皆さんの手元に届いた時には,永井さんは亡くなられていたということになります。まさに絶筆ということになります。

 

 79号での永井さんの文章は、78号に掲載された岩田好弘氏の投稿、「生き方としての『人間らしさ』」に対しての反論という形のもので、80号はさらにその考え方の根拠を述べられたものでした。

 

 さらに論考を進めていきましたら大変興味深いものになったでしょうが、大変残念です。

 

 永井さんは、横浜国大を卒業後、長年石川島播磨重工に努めておられ、技術部長、企画部長などを歴任。そこを辞められてから横浜国大の講師もしてこられたそうです。会社を退任後、早稲田大学の心理学科でも学ばれました。

 

 人間学研究所の所員になられてからは、「人間学研究所通信」の常連の投稿者であるとともに、人間学研究所の講師としても、時々お話ししていただきました。工学的な部門の出身者が少なかったことと、いろいろな人間に関する言葉に関する突っ込んだ考察も非常に興味深いものがありました。

 

『人間学研究所年誌』

 

『人間学研究所年誌』でも、次のような投稿がありました。

 

NO1, 2000  「心と予測の関係」

 

NO2、,2002  「幸福の混迷と幸福の実態」

 

   永井さんの代表的な論考です。p35~p43

 

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『人間学研究所年誌2002」の35ページとそこに書いてある、さとうさんぺいの漫画。

 

プレゼントをあげたときの、金持ちの家族と―不幸と、貧乏人の家族-幸福、とを対比しながら、幸福感といったものをあらためて見ていく。大変興味深い論考です。

 

1、まえがき

 

 幸福というものは人々の大きな関心事であり、多くの幸福論に接することができるが,誰もが共感しうるような論旨に出会うことはない。幸福という概念が混迷の中にある理由を究明し、幸福というものの実体をとらえる必要があると考えた。~

 

2、幸福についての疑問

 

3、幸福の語源の確認と展開

 

4、幸福感と幸福の実体

 

 4-1 幸福感と予測・予感、および幸福感の役目

 

 4-2 幸福感は変化に対応する

 

 4-3 幸福感が快い理由

 

 4-4 幸福感と感性

 

 4-5 幸福の共通性

 

 4-6 幸福の多様性

 

 4-7 幸福感は消滅する

 

 4-8 幸福感は文明の攪乱を受ける

 

おわりに

 

最後に、幸福は幸福感の充足により達成されるとして論理を展開した。そして世の中では、幸福感という心反応、それを誘発した要因、順調な生活状態、その条件、および願望の対象を志向することによって幸福が約束されるという幻想も加わってその混迷は助長された。

 

 幸福感は恒常的な状態には対応せず、ある変化によって触発された予測・予感にかかっている。即ち幸福感は予兆の段階で来るべき現実を予測するための心反応であると捉えた。また幸福という反応の役目を追求することにより、幸福感が快い理由、および時とともに消滅していく理由を明らかにした。~

 

 一見恒常的な生活の中でも幸福は実感される。例えば雨一粒でもそれを忌々しいと思うか、雨の滴が施してくれる恵みに想いをいたすことができるかで、心の反応は異なってくる。突きつめれば、生活の節々において、「生かされている」という観念が抵抗なく生まれてくることが原点となるであろう。

 

 不満は身を亡ぼすなどと言っているわけではない。不満から道が開けていくこともある。ただし生物として人間は、安楽よりも災害に敏感であるために、感謝よりも愚痴や不満が出やすくなる。愚痴や不満を皆無にすることは望むべくもないが、感謝の比率を愚痴や不満よりも高めることは一つの見識かもしれない。

 

◎ほんの一部だけを紹介させていただきました。この話の内容は、人間学研究所の例会でお話をされました。

 

NÒ3, ,2003  「”良い”の実態」

 

N010,2012 [将来予測と予知」

 

NO11,2013 「世の中の複雑化と対応」

 

事務局員としていろいろなお手伝いをしていただき大変助かりました。

 

永井さんには、人間学研究所の事務局員的な仕事で、大変お世話になりました。ブログ筆者が脳出血で倒れるまで、事務局の仕事は事務局長であるブログ筆者が専らやっておりました。人間学研究所は佐竹ビルの3階にあり、自宅は5階なので、事務的な仕事には大変便利でした。以前は、人間学の例会は、人間学研究所の例会、実用的人間学研究会のが毎月あり、人間学ニュースの発行と、ニュースの発行の間にはハガキで連絡をしていました。人間学ニュースも以前は20ページ以上あったのです。また連絡する方も100名以上おられた時もあり、印刷、発送などの作業も大変でした。

 

 人間学研究所の連絡とともに、人間学研究所が創立期の総合人間学会(その前身総合人間学研究会を含め)の事務局も兼ねていましたから大変忙しく、永井さんには積極的にお手伝いをしていただき大変助かりました。

 

永井治さんのご冥福をお祈り申し上げます

 

 わが人間学研究所においては、いろいろな哲学的な問題に対して論考する人は少なく、永井さんの文章を読めなくなることは、大変残念なことです。

 

 ブログ筆者も病気になり、人間学研究所に行けなくなり、永井さんも病気がちで、例会に参加できず、結局亡くなられる前4年ほどお会いできないままになってしまいました。

 

2012年9月17日の東京雑学大学では、245日目の講師として「幸福の謎」という話をされました。詳しくはインターネットでどうぞ。

 

著書は「生命のひとりごと」鹿島出版社

 

    「幸福その虚像と実像」武田出版

 

   を書いておられます。

 

◎文章を見直しました。まちがいがあり訂正しました。また、永井さんの文章をもう少し追加いたしました。

 

 

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人間学について」カテゴリの記事

コメント

こういち 様

「左目の眼底出血は徐々に悪くなっているようです」と言われる状況で、放置されるのは、いけないでしょう。

この病、網膜動脈静脈分枝閉塞症は、眼の中の梗塞ですから、様々な症状が出ます。 一番軽いのであれば、放置しておいても軽快する、との眼科医の言葉がありますが、悪化しているのであれば放置しては最悪の場合には失明します。 

脳梗塞は、今後もリハビリを継続されて、再度の梗塞が他の部位で生起しないようにされるのが必要ですが、眼の場合にも、同じく治療が必要です。

幸いにも、今では、閉塞した網膜の中の血管を再度血液が通るようにするために特効薬である「抗VEGF剤」を眼球に注射して失明を防ぐ療法があります。 

「抗VEGF治療」 松本歯科大学病院 眼科  太田 浩一
http://www.enchiku-med.jp/column/2017/01/26/1485410438960.html

この療法の欠点は、薬価が高いことですが、保険では七割が免除されますので、主治医の先生と相談されると良いのではないでしょうか。 内科疾患とも合わせて治療をされることが重要と思われます。 

イチロウ様

御父上も、血液の凝固を防ぐ薬を飲んでいて、脳出血で亡くなられたのですか。

うちの父親も部屋の中で滑って倒れ、前頭部を打ちました。父は前頭部だから大丈夫と言って、こぶができる程度だと、本人も私たちも思っていました。
 普段行っている医者に電話をして様子を見て‥と言われるぐらいでした。
 しかし2,3時間立ち、嘔吐をして意識がおかしくなり慌てて救急車を呼びました。
 病院でレントゲンを撮って出血が激しくもう手術不能と言われました。たった半日のことです。
 血液を凝固させない薬の恐ろしさを強く感じた次第です。

 私の左目の眼底出血は徐々に悪くなっているようですが、放置しています。ただ肝心の右目も右半身まひの影響のため、少し長く目を使ったり、低気圧などの影響で目と瞼がずきずき痛くなります。
 少し長めのブログを書いたりしますととても疲れます。
 おまけに片麻痺で右手が使えず左手だけで入力しています。
 さらにパソコンの使い方でよくわからないことがあります。プリンターを買い替えてスキャンの画像を取り込めるようになったのに、adobeやgoogleに変えたら、PNGやPNGならOKだがPDFdだとだめとかでまた画像が送れなくなりました。またパソコンの音声が消えてしまいました。パソコンに慣れた人にとってはどうっていうことないのでしょうが、年寄には困ります。

こういち 様

御尊父様は、脳出血でお亡くなりになられたのですか。 実は、亡父も同じく脳出血で外出先にて倒れ、そのまま意識を失い一月程の後に亡くなりました。 阪神淡路大震災の年でした。

戦争では、大阪の八連隊に入営し中国から比島まで転戦しましたが、バターン半島で突撃時に左脚貫通銃創を受け、戦後になっても梅雨時には左脚が痛むようで苦痛に顔を歪めていました。

戦争で多くの人の死を見て来たからでしょうか、自分のことも余り構わずに、人は、死ぬときには死ぬ、と言っていました。 戦友の弁護士さんが、たった一人の友人で、俺には戦友が一人いるから他の友人はいらない、と言うのが口癖でした。 

それはそうと、こういち様と同じく私も網膜の病気で、眼科でバイアスピリン(抗血液凝固剤)の処方を貰っているのですが、専門家の論文等を拝見しますと、この病では、内服はあまり適用では無いようで、最近は、抗VEGF 剤を眼球に直接注射をする治療法が大きな効果を挙げているそうです。

勿論、血液の凝固を防ぐのですから、脳梗塞の予防にはなるのでしょうが、その反面で、脳出血が起るのでは何のために服用するのか理解に苦しみます。 それで眼科医に質問をしたのですが、欧米では、バイアスピリンを終生服用する人が一般的です、と言うものでした。

それは、脳梗塞も網膜の閉塞も困るのは困るのですが、正反対の疾病もあるのですから、何方に転んでも怖いのには間違いがありません。 

医師の治療方針に従わないのも問題があるでしょうし、困ったものです。

イチロウ様

幸せとは、その折にではなく、あとになり次第に気づくものと悟るようになりました。

愛猫の「とら」ちゃんのことも、ご両親のことも思い出されて、母のようにやさしくないと思われていた御父上も、今思えば息子のことを思いやっていてくれたと感じる、と、おっしゃいますが、そういうものなのでしょう。私自身もそう思います。

 特に父の場合、病気で倒れてから、毎食5階の自宅から3階の父のところに食事をもって行き、いろいろな話、特に戦争の時の話を聞いてあげるのを喜んでいました。
 だいぶ回復してから週に3回一緒に外食に出かけるのを楽しみにしていました。ところが部屋で転倒して脳出血を起こし急死してしまいました。血が固まらない薬を飲んでいたのがいけなかったのです。
 事故がなければもっと父親にも喜んでもらえばと残念に思います。転倒が怖くて、リハビリが進まぬもとにもなっています。

こういち 様

永井 治氏の御論考「幸福の混迷と幸福の実態」は、今の私の心境を図るのに役立ちそうです。

と言いますのも、我ながら呆れるのですが、この一年以上の間、ずっと亡くなった愛猫のことを考えていまして、共に過ごした時間を反芻しております。

そして、幸せとは、その折にでは無く、後になり次第に気付くもの、と悟るようになりました。

例えば、愛猫「とら」に呼びかけて、「とら」が私に応えて一瞬両目を閉じた折のことですが、今、その時のことを思い出しては、あの時、自分は、本当に幸せであった、と悟るのです。 

猫が飼い主に答えて、飼い主を見詰めたまま両目を閉じるのは、愛している、信頼している、との「サイン」だからです。 長年の間、一緒に住み、暮らしていたからでしょうが、そのサインの持つ意味を知らない飼い主も多いのです。 

また、近頃は便利なもので、何となくグーグル・アースを見ていまして、昔、両親とともに訪れた街角を目にして一瞬の間にその折の出来事を思い出すことがあります。 もう五十年以上も経過しているのに何もかも思い出します。 街角の食堂で何を食べたのかも。 

そして、堅気とも思えない株屋であった亡父の言葉を思い出して、今まで亡母のように優しくは無かった、と思っていました亡父も、やはり、息子のことを思いやってくれていたのか、と気づくこともあるのです。 今頃になって気付くのは遅きに失するのですが、子供の頃には、繊細な意識が無いからでしょうか。

亡父は、株で損を出した折には、よく私を連れてへら鮒釣りに近郊の釣り堀に行きました。 今、その釣り堀を探していまして、グーグル・アースでその昔とまったく同じ景色を見ることが多いのですが、廃池になったのかまったく見ることが出来ない釣り堀もあり、時代の移り変わりを知らされます。 兵庫、奈良、和歌山、大阪、京都、と街は変わっても池は同じ、と言う処が多いのですが、何もかも無くなったのか、手掛かりも無い処もあります。 

今も僅かに残る記憶を手掛かりに探していますが、きっと、それは幸せ探しなのでしょう。


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