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2018年7月24日 (火)

「新宿区の民俗」昔の大久保・百人町、井戸掘り、桶やをしていたわが家について、父の話

新宿歴史博物館の出版物「新宿区の民俗」(6巻)が、淀橋地区編です。これは平成15年3月20日(西暦2003年)に発行されました。わが家は明治のころからこの大久保の地で曽祖父の代から桶屋をやっていたので新宿歴史博物館の人が、私の父母に話を聞きに来て、その話が「新宿区の民俗」にのったわけです。

 

本では第6章が「大久保と百人町」―軍人の街から多民族の街へ(p141からp169)となっています

1。はじめに

 

  平成14年当時の大久保通り 大久保1丁目付近の写真が載っています。

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「新宿区の民俗「」6 淀橋地区

 

 

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百人町2丁目,旧百十四銀行ビル当たり。今はプラザ1,2,3と韓国のテナントビルになっています。手前は盛好堂書店。間に床屋さんと百々やという化粧品店がありました。この向かいに筆者の佐竹ビル(百人町1丁目)があります。

 

「こういちの人間学ブログ」
『わが家のファミリーストーリー、父を中心として戦争中まで」

 

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/10/post-eb7d.html

 

つながります。兵隊時代の父の写真があります。ブログの後ろで次のブログがつながります。

 

「大正、昭和、平成を生きた父の死、2」

 

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2016/10/j-9214.html

 

つながります。戦後の父親のカッコ良い写真出ています。
三越デパートでの父の実演の時の写真もあります。

 

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2、市井の暮らし

大久保通り界隈

 

子どもたち

 

娯楽

 

井戸

 

ここの「井戸」と、「職人の暮らし「」の部分は、編集者から聞かれて父が話した内容です。

 

 

 



大正から昭和初期ごろまで、多くの家で井戸が使われていた。現在、当地のガス・水道工事などを取り扱う「エネスタ百人町」は、かって井戸掘りと桶製造を中心とした商店であったそうである。
 堀井戸には淺井戸と深井戸が有り、土地の高低や水脈によって掘る深さが決められた。当時の井戸は普通浅井戸だが、高台にあるヤッチャバ(中央卸売市場淀橋市場)のほうは深井戸であった。
 当地は固くて質の良い赤土なので、浅井戸の場合には掘ったまま側(がわ)を入れずに仕上げた。側とは掘った穴に入れる筒のことで、大正時代頃は時代頃には、杉木で作った桶を使っていた。そのため井戸家を兼ねる桶屋は多かったが、いつしか杉木よりも丈夫で安い土管を使うようになったという。

当時の桶職人は住み込みで働いたが、井戸の職人は必要な時にどこからか頼んできてもらった。井戸職人たちは特定の店に所属しているわけではなく方々から雇われた日給で作業を請け負った。職人は井戸を掘る「掘り方」、上り口に桶をもって土を受け取る「現場」、綱を引っ張る「綱子」などがおり、合計6,7人で作業をした。
 深井戸は2,3日、浅井戸は1日で掘りあがり、戦前の日給は掘方が4円ほど、綱子は2円ほどであった。当時の物価は、500円で阿佐ヶ谷付近に家が1軒買え、百円札はめったに見ることはなかった。新宿の夜店などで支払いに十円札を出すと「イノシシ(10円札のこと)じゃ,お釣りがないよ」と言われたという。

 井戸を掘るときには櫓を組み、滑車にかけた綱を綱とりが加減し、綱子たちが引っ張った。職人は歌のような掛け声をかけて調子を揃え、職人によって「お手もと―」と言ったり「おつもー(頭上に注意)」)ということもあった。井戸掘りは危険と隣り合わせの場合もあり、一酸化炭素のようなガスに当たって命を落とす人もいたようだ。

 井戸掘りだけでなく、井戸の修理も当店の仕事であった。関東大震災の後には数十軒の家で井戸が涸れ、それぞれを元どおりにどおり直すには、2,3か月かかったという。

 

 

◎当時の大久保の街は有名人がたくさん住んでいて、それらがみんな井戸と風呂桶のお得意さんだったそうです。新大久保駅の近くに横綱太刀山の屋敷があり、そこにも井戸掘りに行ったそうです。大久保には総理大臣や著名人がたくさん住んでいました。それもみんなお客さんだったそうです。
 酸欠事故で、父の兄、私から見るとおじさんが井戸掘りの酸欠事故で死にその時に、一緒に井戸掘りをしていた父も危うく命を落とすところだったそうです。事故は当時の新聞に記事が載ったそうです。
 大正9年に、祖父の一家が大阪から新大久保に引っ越してきました。曽祖父が桶屋をやっていましたが、脳溢血で倒れその看病のためと仕事を引き継ぐために大阪から転居してきたのです。祖母は大阪出身で、父も大阪生まれで、その時まだ3歳ほどです。東京と大阪では食べ物や味付けが違い祖母は相当苦労したようです。

 


大正12年(1923年)9月関東大震災がありました。父親はその時、小学年1年生ころで、昼食がちょうど大好きなとんかつで、地震で慌てて外に飛び出し、あとで家に戻ったらゴミがいっぱいとんかつにかかって食べられないのがとても残念だったと、話していました。
 その当時の家の斜め前は古川男爵の別邸で、そこの竹林の中で余震が続く中過ごしたそうです。この古川男爵邸は今は立派な教会に変わっています。この辺りは地盤が固く家が倒壊しなかったので、この地震後、下町方面から多くの家が転居してきたそうです。家がどんどん建つと、井戸や、桶屋はかなり忙しく繁盛したようです。
  
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現在のビルにするまでは土地が80坪ほどありました。50坪が自分の土地で30坪は、当時裏にあった原田工務店からの借地でした。古い家は平屋で店と住まいで30坪位を取り
あとは ずっと昔は材木置き場で一部で鶏を飼っていました。一角に材木を切る丸鋸の機械が有り、そこの入口には佐竹ポンプ店の店名の入ったガラス戸がありました。以前は桶屋というより井戸ポンプ店が主な仕事だったようです。

 

あたらしい2階建ての家を建て替えてからは、裏は1階が材木置き場(風呂桶の木の乾燥場で、2階は職人さんの泊る部屋でした。その後に借地権は売って、残りの50坪に5階建てのビルを建てました。

 


職人の暮らし
 以後もとの文章のまま

 前項の「エネスタ百人町」のは、かって住み込みの桶職人が3,4人働いたそうである。職人はワカイシと呼ばれ
、休日は月の1日と15日に決まっていた。桶風呂はサワラ、桶風呂はヒノキを素材とし、ヒノキの価格はサワラの3倍近く大変贅沢なものだった。

 

(◎エネスタ百人町とは、東京ガスの下請けの東京ガス百人町サービス店から変わった名前です。それからライフバル百人町となり、合併によりその名前も消滅してしまいました。
昔の名前は、「桶商佐竹」、「佐竹風呂・ポンプ店」、「有限会社佐竹製作所」、そして「株式会社サタケ」、となり現在も続いております。創業は明治40年、会社化してからは平成30年3月に68期の決算です。)

毎朝8時ちょうどに仕事を始められるように朝食をとり、12時ちょうどに昼食をとる規則正しい生活で、当時のお嫁さんはそれぞれに合わせて朝晩1升づつのご飯を炊いた。また「職人は「立膝で食べるものだ」と言って、10分と立たないうちに食事を終えて仕事を始めるのがふつうであった。一時はワカイシ合わせて13人もの家族1(や職人)がおり、大鍋で作ったカレーや煮物があっという間になくなったという。

 

◎何しろ同じテーブルで急いで交代で食べますから、筆者も早食いの癖がついてしまいました。
東京ガスのサービス店になった時も、主な仕事は風呂やのほうでした。当時は公団住宅に大量にガスぶろの納入に行きました。風呂のほうは父親の担当、ガス部門は筆者の担当でした。はじめは卸もしている風呂部門のほうが圧倒的に大きかったのです。

ワカイシとは(若い衆)のことでこのあたりの人はみんなそう呼んでいました。
戦後はガス風呂が中心で、当店はガス風呂組合の最初の指定商でした。そして、東京ガスのガス風呂の店となり、さらに、東京ガスを退職した人を社員に迎え、ガス料金の受付やガス器具を販売する店、東京ガスのサービス店になったわけです。

ガス風呂ははじめ木風呂に銅のガス釜などの組み合わせでした。木を組み合わせて銅のタガで締め付けるのを角丸式と言い,その中に釜を入れ、釜の上部に小さい上がり湯の区画がありました。大きさは普通、大人と子どもが一人入る並2人で、大人2人が入れる大きいものは本2人と言いました。角丸並2人風呂、というように言いました。前は五右衛門風呂やタイル風呂など、いろいろありました。プラスチックスのポリ風呂やステンレスの浴槽が出てからは木風呂はほとんど売れなくなりました。

ヒノキの大きい板を組み合わせて作るものは箱型と言いやはり並2人、本二人と言いました。
お風呂の入れかえ工事で水を吸った箱風呂は恐ろしく重く、それを持ち上げるのは大変です。筆者はそういう力仕事をして筋肉が付き,胸幅も広くなりました。ガス風呂の前はマキ風呂が中心で、その場合スレートで煙突を立ち上げます。それは屋根に上りかなり危険な仕事でした。
 ・

 

以後原文から

1年中大変忙しく、ことに大みそかは1年間の集金を済ませるため、夜12時ごろまで店を開けていた。また大晦日には普段井戸の修理などを頼まれる地主さんに歳暮として砂糖を贈り、その代わりに半纏を贈られた。このように、あいさつに行く地主さんは3軒ほどあった。正月は元日だけ休み2日は手ぬぐいをもってご近所回りをした.3かと4日は得意先を回る日で、地主さんの家には贈られた半纏を着て年始に行った。5日は風呂桶を納めている遠方の得意先を回る日にしていたが、このころには早々と仕事の依頼を受けることもあったという。

店の職人は腕がよく、戦後に三越本店で開催されたガス展の折には組合から選ばれ、ふろおけを作る実演を見せた。その仕事の速さを褒められることもしばしばであった。

 

◎当社の風呂は,木曽の材木問屋から胴巻きにお金をもって、現金で直買いしていました、それで安くていい材木が手に入りました。値段が同じでもいい材料でつくった風呂は評判良かったのです。他の店に恨まれました。

 

◎昔、筆者が子供のころ、家族は、祖父母、両親、叔父、叔母そして私と妹。住み込みの職人は4,5人、おてつだいさんが1人という大人数で済んでいました。そのうち叔父、叔母は結婚して家を離れました。職人さんは別棟の2階に住んでいました。
父も職人として働き、三越本店で風呂製造の実演をしたのも父親でした。

 

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右上の写真は北新宿2丁目、T家の井戸。戦後しばらく使われていた。佐竹ビルのすぐ近くの、第2サタケビルの地下1階を作ろうとして地面を掘ったら地下水が湧き出ました。昔の井戸の跡らしく徳利やらいろいろなものが出てきました。水が出やすいようです。

 

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162ページに百人町の鉄砲隊の屋敷絵図があります。この鉄砲隊には組頭1名、与力20名、鉄砲同心が100名いて江戸城の警備にあたっていました。与力と思われる人は敷地が2千坪以上、同心でも千数百坪の土地があります。ちなみに、同心たちの菩提寺の長光寺の隣には朝倉(菊?)吉の名前があります。子孫の朝倉さんはまだここに住んでいて前の百人町東町会の町会長をされていました。浅倉さんの土地は図面によると千百4十坪の敷地です。ロッテの元新大久保工場の敷地が2千273坪で広大な敷地ですから,同心でも広い土地を拝領していたようです。それだけ土地が広ければつつじ栽培の内職が成り立ちます。百人町1丁目から4丁目まではかなりの広さがあります。そこに121の屋敷だけだったのです。屋敷は間口が狭く,奥いきが細長い作りで、攻め込むにはむづかしい作りにしたようです。

 

 

 

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大正5年前後の大久保・百人町

 

山手線に新大久保駅ができて間もないころです。ちょうど父親が生まれたころで、祖父の家族は大阪にいました。
このころは曽祖父が大久保駅に近いところで桶屋をやっていました。その頃の商店名の入っている地図には桶商佐竹と書いてあります。曽祖父が病気になってから祖父の一家が大阪から移ってきました。
 新大久保駅ができてから、新大久保駅に転居してきました。
このころはまだ畑も多く、大久保つつじ園も駅の近くにありました。戸山小学校もできて間もないころです。駅のそばに大久保キネマという映画館がありました。

◎7月26日に「戸山小学校開港100年!戸山小学校同窓会 記念総会」というお知らせが来ました。10月28日に新宿ワシントンホテルで同窓会総会と懇親会を行う、というお知らせです。小学校で同クラスだった田中稲生さんが37期卒で、常任幹事です。卒業年で見ると。最も古い人は第4期生で1909年の生まれの人がいます。なんと109歳です。

 

 

 

 

 

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昭和10年(1835年)ごろの大久保・百人町(地図の左半分)

このころの戸山小学校の卒業生が当時の記憶に基づいて作ったもの。このころにはわが家も新大久保駅近くの現在の場所に転居していました。父親が18歳ころです。この地図は今から25年前、平成5年,戸山小85周年の記念に作られたものです。

 

真ん中に山手線、左のほうに中央線・総武線が通っていました。右上の赤い枠で囲ったところが戸山小学校。卒業生の名前と何期という数字が入っています。詳しく当時の様子も書かれている貴重な地図です。

 

 

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大久保の街紹介」カテゴリの記事

コメント

イチロウ様

コメントありがとうございます。


昔のことをたくさん思い出しておられるとのこと、素晴らしいですね。思い出すようにすると次第に昔の記憶がよみがえってくるようです。

昭和30年ころの釣り堀をグーグル・アースで調べておられるのですか。新宿にはあまり釣り堀はなかったように思います。戦前には12社(そう)の池があって父親などがずいぶん遊んだようです。今は西新宿で高層ビル化しています。

うんと小さいころのうろ覚えですが、歌舞伎町の映画館街の前は小さい池があったように記憶しています。その後そこが埋められ、博覧会場になっていたのを記憶しています。そのあとに、コマ劇場やミラノ座などの映画館街になり、今では映画館街が再開発で高層ホテルと併設された映画館になっています。

想いでの1部を東京新聞に出されたのですね。投稿が採用されなかったようですね。ちきゅう座での投稿を楽しみにしています。

こういち 様

こういち様のお家の歴史が地域の歴史として記録されている、と言うことですね。 

私の家系の歴史は、そのような意義も無いのですが、現役から退いた今、思い出すことがたくさんありまして、自分の記憶力に自分自身が驚いています。 

亡母の思い出の一部は、纏めましたし、その時点で古書店から関連の時代背景等の資料も集めたのですが、最近、亡父との思い出も色々と思い出していまして、その関係で関連の資料を求めています。

実は、昭和の三十年代の関西にあった釣り堀を調べているのです。 亡父と訪れた釣り堀の殆どは思い出しまして、残っている処は、グーグルのアースで確認していますが、廃業されたのかいくら調べても確認出来ない処も数か所があります。 

ネットで調べて、当該の釣り堀の思い出を書かれていればコメントしたりしまして再発見するのが楽しいのですが、どうしても現地を確認出来ない釣り堀がありますので数十年後に再発見するのは並大抵ではありません。

こういち様のお家の歴史も後世になって街の歴史や考証等で参考にされる方々も居られることでしょうから、お元気な折に後世に残されるのが望ましい、と思われます。

我が家の場合も大阪の地方史等を参考に調べてみよう、と思っています。 大阪市や堺市その他では昭和の時代の歴史を取りまとめて出版もされていますので、一度図書館へ行こう、と思いますが、今は、酷暑ですので自重しています。

思い出の一部は、東京新聞の300字小説の欄に投稿したのですが、選に漏れたのでしょうか未だに音沙汰がありません。 掲載されなければちきゅう座に載せて貰おう、と思っています。

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