筆者が設立にかかわった、総合人間学会を,2019年2月、やめるに至る経緯について
「こういちの人間学ブログ」もアクセス累計が、2019年2月17日に170万になります。記事数も今年2月に1000件となり(2月17日1005件)、コメントも1200となり、(1212)ちょうど区切りの時といえます。
カテゴリーは27で、、大きく、1基礎人間学、2、応用人間学、3、近況、とに、分けられます。基礎人間学は、人間とは何か、人間学とは何か、自然と歴史、地球温暖化論批判・・などについてです。応用人間学とは、人生論、経営人間学、健康法、顔の人間学、政治と社会、原発問題、そして、大久保の街やレストラン紹介など、人間に関して、幅広く書いてきました。近況では、人間学研究所の例会、近況などです。
「こういちの人間学ブログ」では筆者オリジナルというものもあります。一つは、人間学における「実用的人間学」という立場の主張です。他に唾液健康法や、独特な科学的人相術やらがあります。多国籍の大久保の街紹介、というのもオリジナルです。
さて、カテゴリーの説明を書こうとしたら、下記のテーマが長くなり、その文章専門に書くことにしました。
筆者が設立にかかわった総合人間学会をやめるまでの経緯について
2019年3月発行予定の「人間学研究所年誌2018」NO16には、筆者はエッセイとして、「柴田義松先生の思い出と、人間学研究所のこれから」8ページを書きました。
その中で、柴田先生や筆者らは2006年、総合人間学研究会から総合人間学会を立ち上げましたが筆者と総合人間学会の執行部との関係がうまくいきませんでした。そして筆者は早々に総合人間学会の役員をやめました。総合人間学会の主導権は初代会長小林直樹氏と2代目会長小原秀雄氏とそのお弟子さんたちで握っていきました。その一端を人間「人間学所年誌」では書きました。
運営委員、理事を辞めた後、その後2012年に筆者はおそらく柴田先生の推薦で理事会の監査役になりました。総合人間学会の総会で筆者が発表した内容、「人間学研究会、人間学研究所の歴史と実用的人間学」は、他のすべての人の発表が終わった後、の単独で開かれ多くの学会員が集まりました。反響はよく、たくさん持参した人間学研究所の年誌は売り切れ、あらたに人間学研究所の会員になった人も何人かいました。
それから総合人間学会の学会誌に当日配布した資料を基に掲載希望と出しましたが、2名の査読者に、頭から否定されました。具体的なのは、たとえば、文中で第1次、第2次、第3次人間学ブームがあった、という記述に、たいして,そんなことは聞いたことがないというのです。
人間学ブームについては、、2002年11月に発行された「人間学研究所年誌2002」NO2に、筆者が書いた「人間学をとりまく状況」という論文の中に「人間学ブームについて」という章があります。そこでは戦前の第1次人間学ブーム。それから1960年代の第2次人間学ブーム、第3次人間学ブームは1995年ころからで、人間学の名のついた本がたくさん出された。しかし日本が不景気になるとともに、人間学の本は激減した。ブームは人間という表題の本の出版数のグラフでよくわかるのです。
哲学的人間学を批判する立場の筆者の論文は査読させている人達の意向で学会誌にけいさいさせなかったのでしょう。
また監査役を受ける時には、単に名誉職だけでなく、役員会に参加させてくださいと、言いましたが、結局一度も役員会に呼ばれませんでした。最後に事務局に行き会計監査はしましたが、それでは意味がないので二期目は断りました。
同じように木村廣子先生のお話でも、柴田先生は総合人間学会では相当嫌な思いをされてきたであろうと推察されました。本来総合人間学会は柴田先生が3代目の会長になるべきでした。しかしなれなかったのです。柴田先生は総合人間学会をやめたいと言ったが、顧問として会費を払わなくてよいから残ってほしいと言われたそうです。
さて、筆者は各人間諸科学を総合的にみていき、研究しまた実践するための、”人間に関するゼネラリスト養成の必要性“を提唱しているのです。しかし、これは人間学研究会を共に立ち上げた第2代総合人間学会会長の小原秀雄氏と最後まで論争し対立したところです。人間に関するゼネラリスト、などというのは無理で、専門家(スペシャリスト)が共同研究して初めて可能だというのです。これらに関して、はるか昔、徹夜の論争をしたことがあります。
筆者は、まだ人間学が学問として成り立っていない頃から、人間学の必要性を主張していました。1963年に関東生物科学生懇談会の中の、分科会として「人間学」を立ち上げました。そして、1965年、筆者が卒業してからは当時著述業の小原秀雄氏も参加し民間の人間学研究会になりました。しかし1967年に解散しました。当時は人間学という学科はどこにもなく、大学の研究者になるより、経営者となり、人間学を支える立場になろうとしました。これは、第2サタケビルを建設した時、2階を人間学研究所の部屋とすることで実現しました。事務所を無料で提供することは大きなことなのです。
ずっと昔、女子栄養大学の教授として赴任された教育学の柴田義松氏は、動物学の小原秀雄氏と原始技術史の岩城正夫氏を招きました。人間学の総合ゼミを立ち上げました。
1985年に筆者に話があり、人間学研究会を立ち上げようというお話がありました。
この時は、柴田氏は東大教授、岩城氏は和光大学の教授になられていました。
筆者は総合人間学会の前身、2002年設立の「総合人間学研究会」の事務局長であり、総合人間学会の事務局も第2サタケビル2階の人間学研究所にありました。総合人間学研究会時代は楽しい思い出ばかりです。年1回開催される関西研究会は京都旅行を兼ね楽しいものでした。岩城先生から研究会から学会となると利権争いみたいな形で嫌なものになると聞きました。
2006年に総合人間学会創立に伴い学文社から発行される「シリーズ総合人間学」に筆者の2つの論文を載せることになっていました。学文社のその1巻は小林直樹氏の編集のところに載せることになっていて、学文社の専務もほめてくれ、学文社の本の宣伝文にも筆者の名前が載っていました。ところが出版社から校正の連絡がありません。出版社に問い合わせたら、まだ原稿が届いていないというのです。もう締め切りに間に合わないというのです。
筆者の資料を載せていただいた
「シリーズ総合人間学3巻」 「現代の危機と総合人間学」 柴田義松編
学文社 2006年11月 2000円+消費税
資料集「人間学と人間科学の現状」 佐竹幸一
この1巻にも掲載の予定でした。
筆者の原稿ではマックス・シェーラーらの哲学的人間学を批判していました。ところが初代人間学会会長の小林直樹氏の人間学ではマックス・シェーラーの哲学的人間学の立場に基づいたものでした。小林氏はどうして筆者がそんな考え方になるのか、小林氏の本をよく読めばそういうことにならないのにといいました。ブログ筆者も小林氏の本を一応読みましたが考え方は変わりません。東大法学部の名誉教授からみて民間の何でもない筆者などが、批判をするなどとんでもないのでしょう。
小林氏と小原氏は、政治的な動きは一切、学会としてしないようにしようと申し合わせていました。そういう立場を表明した設立総会で小林氏は話し、総合人間学研究会員だった鎮目恭夫氏はそれに反対し、その後学会をやめられました。また人間学研究所の創立者の1人である岩城正夫氏も学会に入った草々、嫌なことがありやめられたそうです。その後筆者の尊敬するような素晴らしい人はどんどんやめていきました。
話はいささか飛びましたが、小林氏と小原氏との話し合いで、私の書いた論文を「シリーズ総合人間学」に掲載拒否することにしたのです。同時に書いた論文は柴田義松先生の担当の3巻に載せてもらいました。論文の間違いを指摘するのではなく、小林氏の親類が病気で取り紛れ、筆者の原稿を出版社に届けられなかったというのです。その経緯を現人間学研究所長もよく知っていて、学会役員をやめるということを理解していただきました。筆者はそれで総合人間学会の役員(運営委員、事務局次長)を降りた経緯があります。
この小林氏らの哲学的人間学的考えを持つ人は、一定の人たちがいて、役員の多くを占めていました。それにより唯物論的、反哲学的人間学の優れた方々も、次第に学会を離れていきました。
また、総合人間学会の幹部の一部は、筆者の論文は拒否しながら、非科学的な記述があるからということで、「人間学研究所年誌」などには、掲載をお断りしていた人たちの論文が、総合人間学会の雑誌では掲載されているので、びっくりしました。
総合人間学会向けに書いて却下された内容は、そのまま「人間学研究所年誌2006」NO4,に「人間学ノート」として掲載してもらいました。この文章の基本「人間学研究所年誌2000」に書いた「人間学の概要」を基にしたものです。
参考「人間学の概要」
はじめに
1、人間学とは何か、その歴史
1)人間学という名称
2)カントの人間学
3)実存主義的人間学・哲学的人間学
4)カレルの「人間この未知なるもの」
5)人間科学
6)唯物論と人間学
7)日本における人間学
8)経営人間学、人生人間学、その他
2、人間学と人間科学の現状
以下略
その後、同じように総合人間学会で発表した内容を、総合人間学会の雑誌に掲載を申請したところ、査読により掲載を拒否されました。これも、そのまま、「人間学研究所年誌2012」NO10に、「人間学研究会、人間学研究所の歴史と実用的人間学」として、掲載してもらいました。ともかく総合人間学会に二度も拒否されたのです。
総合人間学会3人の創立者の一人、柴田義松前人間学研究所所長は、私の立場をよく理解して擁護していただきましたが、総合人間学会では少数派であり、(現在も人間学研究所員3人が理事になっていますが)2018年10月に柴田先生がお亡くなりになったので、筆者も、2018年総合人間学会をやめました。この辺りの経緯については、2019年3月発行の「人間学研究所年誌2018」NO16に書きました。
総合人間学会には2018年11月に退会の申し出をしました。そしてようやく2019年2月14日に退会を許可しますとの、メールが入りました。
以前、筆者は総合人間学会を批判めかした文を「人間学ニュース」に書いたことがあります。その文章を総合人間学会の役員の人に言いつけた人がいて(誰かはわかりますが)、誹謗するのはけしからんと、謝罪文を書けということで、筆者の代わりに柴田義松所長が「人間学ニュース」に謝罪文を書きました。今度も総合人間学会に残っていたら、謝罪文を書けとかいうところでしょうか。もう総合人間学会はやめましたので、関係ないはずですが。
参考
「こういちの人間学ブログ」 2014年9月7日
「総合人間学会の現状について 会長堀尾輝久氏に代わる 佐竹監事退任の顛末」
◎話に脈絡がなく、文章のまとまりがありません。お詫び申し上げます。
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コメント
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イチロウ様
コメントありがとうございます。
総合人間学会という自然科学、社会科学,人文科学の枠をこえた学会をつくったのですが、残念ながら派閥争いの結果、私は負けて、学会を去ることになりました。でも排除していき、多様性がなくなると、衰退の道へ進みます。
人間学研究所のほうはありがたいことに争いがなく続いていますていますが、今後会員を増やしていかないと高齢化で減っています。
自然保護団体では温暖化論圧倒的優勢なんでしょうね。何しろ膨大なお金が動きますし。
小泉父子も原発反対とかですが、小泉(子)も安倍には逆らえませんね。
投稿: こういち | 2019年2月18日 (月) 10時23分
こういち 様
人間が三人寄れば、派閥が出来る、と申します。 仕方が無いことなのでしょう。
でも、学会にまで派閥が跋扈しますと、肝心の学問も可笑しなことになる、と心配します。
私の場合は、職場と自然保護団体に於いて何度か経験しました。 職場での経験は、職場の異動と昇進にも影響しますし、収入にも関わるので大変でしたが、最後には、自分が就職した当時の上司に救われました。 世情が「革新」から「保守」に変わる時期でしたので仕方が無いこと、と今では諦めています。
納得出来ないのは、自然保護運動に関わることです。 温暖化詐欺に騙されて行く団体の中枢を見るのが我慢出来ずにやめましたので、今となってはどうでも良いことなのですが自然保護の御題目も変になったようで心配です。
この国では、何から何まで「派閥」で動くのかも知れません。 政治、政党も「派閥」です。
アベ氏が筆頭の自民も、これからはどうなるのでしょうか。 コイズミのお坊ちゃまも何時まで附いて行くのでしょうか。
投稿: イチロウ | 2019年2月18日 (月) 09時23分