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2019年4月

2019年4月28日 (日)

井の頭自然文化園から、吉祥寺の芙葉亭のフレンチのランチへ

2019年4月28日(日)10連休前半で唯一の晴天だそうなので、近場の吉祥寺の「井の頭自然文化園」へ家内とともに行くことにしました。前回はヤマハの電動車いすで、総武線の大久保駅から吉祥寺まで行きましたが、途中でバッテリーが無くなりかけ、井の頭公園だけで帰ってきました。今回はWILLの電動車いすで、バッテリーが長く持つようになり、さらに予備バッテリーまで積んで出かけました。

追記

フランス料理の名店 芙蓉亭がコロナ騒ぎのために2020年5月6日で閉店すると、4月22日のNHKのニュースでやっていました。びっくりです。

東京都井の頭自然文化園

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前回は井の頭公園を見て、分園の水生物園を見て、さらに園内にある弁天様のところまで行って、バッテリーの残量が無くなりそうなので帰りました。ヤマハの電動車いすではバッテリーの残量が均一で表示されず、残量40くらいになると急に残量10くらいになったりして,無くなるよ、とピーピーなりだしたりするのです。ところがWILLの表示は1づつで均等のようで安心です。今日はWILLで100で出かけて自宅に戻ったのが57でした。今回は吉祥寺の商店街を回り、昼食を食べてもです。予備のバッテリーは全く必要ありませんでした。

開園時間は9時半なので、もよりの総武線大久保駅に9時過ぎを目指して出かけました。大久保駅から吉祥寺駅までは総武線1本で行けるのです。車いすで電車に乗る時には、いつも駅員さんはとても親切です。吉祥寺駅から井の頭自然文化園までは徒歩10分ぐらいです。入場料は一般400円ですが、障碍者は、添乗者1名含め無料です。ここは前に1度来たことがありますが、いつ頃か忘れるくらい昔です。

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入ってすぐにモルモットふれあいコーナーがあり、幼稚園、小学校低学年の子供たちと付き添いの大人で行列を作っていました。ここは10時からオープンで、モルモットを抱っこできるとのことで大人気でした。展示している動物は、日本にいる生き物ばかりでキツネやタヌキ、アライグマ、サル、などと山鳥やきじなど身近な動物ばかりです。有名な象の花子は2016年前までは生きていましたが、今ではぞう舎があるだけです。あとで案内図を見ると、イリオモテヤマネコもいたそうですが見損なってしまいました。小さい子供のいる家、ゆったりと武蔵野の自然を感じるにはとても良いところだと思いました。

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吉祥寺駅周辺のレストラン 芙葉亭でランチ

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芙葉亭入口、下図はコースのお値段

とてもおしゃれな雰囲気です

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ランチタイムは2500円、3500円、4500円、6000円で税別、

ディナーコースは5200円、7000円、9500円、12000円(税、サービス料込みでは14256円)

井の頭自然文化園を出て吉祥寺通りを駅に向かっていくとカトリック吉祥寺教会があります。さらに駅のほうに進むとおしゃれな建物があり、吉祥寺芙葉亭の看板がありました。家内との久しぶりの外出なので昼食をそこでとれるか聞いてみました。オープンが11時半からで11時20分頃でしたので、掃除が終わるまで少しお待ちくださいとのことでした。

芙葉亭は

武蔵野市吉祥寺南町1ー12-12 0422-46-6590 食べログで3,46です。

おしゃれな一軒家のレストランです。芙蓉亭と思いましたが、芙葉亭です。

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開店前の花のお手入れ

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個々の部屋と今いる部屋。2階も使っているのでしょうか。

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ランチコースのメニューです。

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Bコースを頼みました。

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鰆のリエット―すり身にしたものと野菜

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本日のスープ、2種類

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メインは3品のうちから、下は牛肉のソテー・ビーツソース

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子羊のもも肉の黒コショウ焼き

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もう1品はメカジキのパン粉焼き

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特製デザートの盛り合わせ アイスクリームとケーキ、イチゴ、ボリュームがありました。

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コーヒーか紅茶、エスプレッソを選びます。美味しいコーヒーでした。

領収書の品名はフランス語のようで、読めませんが。

Bランチが2つで7000円

生ビールの小1つで450円

トータル   7450円

サービス料   372円

消費税     625円

合計     8447円でした。

 

吉祥寺駅周辺の店

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ここは肉のほかにコロッケをあげていて、待っている長い行列がありました。隣はさつま揚げをたくさん。久しぶりに街を歩きましたが店がだいぶ前よりだいぶ増えていました。

 

2019年4月27日 (土)

5月1日に元号が変わる。これを政治的に利用しようとする安倍首相。巧言令色鮮し仁。追記、4月30日から5月1日にかけての大騒ぎ。

安倍首相の自分の思い通りにしようとするための安倍改元

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4月27日(土)新天皇即位に伴う10連休がスタートしました。そして、2019年5月1日に現天皇が退位し、新天皇が即位される。それに伴い元号が平成から令和と変わります。4月1日に前回と同じように官房長官の発表のあと、テレビで長々と安倍首相の解説が付いた。これは全く異例のことで、元号が変わることを利用して、自分自身と政府の支持率をあげようとするものであった。”安倍改元”ともよばれるゆえんである。

世の中のムードはどうも歓迎ムードで「令和」という名前も7割が好感を持って迎えられたという。また、安倍内閣の支持率も9ポイント上がったとのことである。安倍首相は今までの元号の出典がすべて漢文であったのが、今度は万葉集からとったという。これは、日本会議などの右翼的な人たちにの支持も狙ったとみられます。毎日新聞などでは安倍首相は「令和」を私物化していると批判しています。

そういった状況の中での全国一斉地方選挙があったが、大阪と沖縄の衆院補欠選挙で自民党が2連敗してしまった。自民党の中ではこういう状況の中で消費税をあげれば、さらに支持率が下がるので、衆参同時選挙だの、消費税増税の繰り延べだのが言われている。景気が上昇を続けているというのも統計偽装がばれて、実は後退局面になりつつあることも認めざるを得なくなっています。今年は亥年の選挙で参議員選挙と一斉地方選挙とが同時に行われ、荒れる選挙になるというジンクスがあるそうだが、今のように野党がバラバラで、自民党と公明党、維新が付いている状況ではあまり多くは期待出来ないように思えます。国民民主党と自由党が合同するそうですが、立憲民主党に比べて支持率も低く反自民の腰も据わっていません。

いままで、改元の時の内閣は5か月以内に退陣するというジンクスがあるそうで、明治から大正の時には西園寺内閣、大正から昭和の時には若槻内閣、昭和から平成の時には竹下内閣と退陣しているようである。もう安倍内閣にも、そろそろ退陣してもらいたいが、今の政治状況ではまだ安倍内閣は続きそうである。困ったものである。

日本の皇室に対しての国民の尊敬の念はとても高いように思われます。昭和天皇また今上(平成)天皇も日本の各地を回られ、戦争で死者をたくさん出した場所を訪問されました。またさまざまな震災の被害にあった場所には時に膝を屈して人々を慰問されました。その姿を見て多くの日本人が天皇に対し敬意を感じたと思います。その天皇に対する尊敬の心をうまく自民党と自分たちの支持に利用しようというのです。

昭和天皇は日本が降伏した時、時にご自分の命の危機をさえ感ぜられる事態にまで、日本を追い込んだ東条英機ら日本の軍国主義者、A級戦犯を憎みました。その昭和天皇が東条英機らを神として参拝するわけがないのです。A級戦犯が靖国神社に合祀されてから昭和天皇は靖国神社の参拝を止めました。これを靖国神社の宮司らはうらんで天皇を批判しやめさせられました。安倍首相も実は参拝したいところが諸外国の批判により,玉ぐしをささげるにとどめています。先日も秋篠宮が皇位継承にはあまりお金をかけないようにと、(天皇の意向でしょうが)宮内庁に申し入れたのに聞く耳を持たなかったと批判しましたが、国民に寄り添うという立場の天皇家に対して、皇室を自分たちの有利なように利用しようとする安倍内閣との矛盾があるように感じます。

ドイツではヒトラーなどに対し、徹底的に追及したのに対し、アメリカは朝鮮戦争を機会に、日本の軍国主義者を温存し政界に復活させました。東条内閣の商工大臣であった岸伸介が総理大臣となり、その孫である安部が総理大臣になる、ということはドイツでは考えられないことです。アメリカと日本政府は戦前の極右勢力を温存し、左翼勢力を弾圧してきたのです。ドイツでは政府でヒトラーを神格化して参拝することなど考えられません。ところが日本では公然と靖国神社に参拝しようとするのです。自民党の殆どの議員が国民会議に所属し,神道政連盟、そして神道政治連盟国会議員懇談会に所属しています。第3次安倍内閣では20人の国会議員のうち公明党を除く19人が所属しているような状況です。

4月27日土曜日は10連休のスタートの日です。この休みを利用して旅行などに行く人もいるでしょうが、ほとんどの人は自宅でゆっくりということらしいです。日給の人は収入が減り困るでしょう。

毎日新聞の4月27日の朝刊の「余禄」を紹介します。

後で、平成の世を振り返ると、震災や原発事故はあったが、この時代に平成20年(2008年)に日本が人口のピークを越えたことにある。そして平成12年(2000年)に日本の人口一人当たりのGDPが世界2位になった。平成末の今、1人当たりのGDPは世界26位にまで下がり、生産年齢人口は6割を下回ったが、世論調査では「良い時代だったと答えた人が7割を超えた」。~平成は峠の時代だ、と書かれていました。

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新元号、「令和」について

令という言葉は元号としては、初めてということです。

そして「新元号は」「人々が美しく心を寄せ合う中、文化が育つ・・」ということらしいですが。

令という言葉を辞書などで引いてみると、第1に、命令の令であり、次には大宝律令などの令です。また令は令嬢などに使われますが、やっぱり何かを守れという、命令が第一に出てきます。今まで、元号に使われてこなかったのは命令という感じの字がふさわしくないと感じられたのではないでしょうか。

この令和と名付けられた年号が、安倍首相の思惑通り、戦争ができる国へと憲法を変えられる年に、また政府の命令で徴兵制が復活するような国にまた変えられないように頑張らないといけないと思いました。

ことわざに”巧言色 鮮(すくな)し仁”という言葉があります。(論語)

「人々に好かれようと言葉巧みに、へつらうような愛想のよい顔つきをする者には、誠実な人間は少なく、他人を思いやる最も大切な徳である,仁の心が欠けている。」

安部首相の言葉と行動はまさに口先だけはいいことを言っていますが、実際の政治で行っていることは富裕層に有利な政治を行い、庶民を苦しめる政策ばかりです。まったく、この言葉のとおりである、と思うのですがいかがでしょうか。でもこれで支持率が上がるようですから国民もどうかと思います。

◎連休の間の3日を特別に休みにすることにより、正規社員にはレジャー等に行くなどによる経済効果が上がるでしょうが、今の日本には自民党政府の経済政策により、非正規社員が増えている。非正規社員にとっては休日増は収入が減るだけです。かくして格差がますます広がっていくのです。

2019年4月28日(日)追記

毎日新聞の4月28日の日曜クラブ版の「松尾貴史のちょっと違和感」に、「侵犯 風刺の場に権力者とはおぞましい」という記事が出ていました。概略を書くと。

統一地方選挙投票日前日に、大阪名物の大衆喜劇の舞台で、安倍晋三氏が飛び入りを装って、「経済に詳しい友達として」ひとしきり喋ったのだという。~喜劇は社会や権威を風刺して、庶民の留飲を下げるのが本堂だと思っている。まるで降臨してやっているような態度で浅薄なパフォーマンスを繰り広げるという、なんともおぞましく残念な光景だったろう。~観客の反応は芳しくなく,すべっていたと~最も憂鬱なのが、このことに関して大手のメディアが批判的に伝えようとしていないことだ。

吉本興業が教育の分野に本格的に進出するそうである。先日安倍首相が中国を訪問した際、「エンタメ専門大学」を中国に立ち上げることを決めたらしい。吉本興業のこういう動きと呼応して、自分と自分の主張を宣伝する手段に利用するということはおぞましいことである。これも安倍首相の巧言令色の一つでしょうが、残念ながらすべって、かえって仁少なしを露呈したことのなります。

 

追記 2019年(平成31年)4月30日から、令和元年5月1日にかけて

今日の新聞のテレビ欄は元号が変わる特集ばかりです。

特にNHKは朝から年号の変わる0時にかけて、「ゆく時代,くる時代」と大みそか以上の騒ぎです。

フジテレビは今夜6時半から0時55分までのぶっ続けの特集番組、「平成の大晦日令和につなぐテレビ」です。

ちょっとNHKは公共放送なのに多すぎなのではないでしょうか。

ただ、大みそかは年に1回ですが、年号が変わるのは30年に1回とかですから,無理もないかもしれませんね。

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2019年4月26日 (金)

人間学研究所5月例会、岩田好宏氏が「農作を人間学から考える」をお話されます。

第151回人間学研究所、第111回実用的人間学研究会合同例会

として人間学研究所の5月例会が開催されます。

日 時 : 2019年5月17日(金)午後6時から

場 所 : 西戸山タワーホームズノースタワー集会室

      新宿区百人町3-1-5

講 師 : 岩田 好宏氏 (人間学研究所所長)

テーマ :「農作を人間学から考える」

◎興味のある方はぜひご参加ください。おといわせ、参加申し込みは佐竹まで

pcr92240@nifty.com

090-6549-2677

◎当日は7名の方が参加し、農作というものを人間学的に自然科学そして、人文・社会科学両面から、総合的にとらえていくというのは、画期的な取り組みだと、皆が討議の中で話をしました。

当日は、「農作を人間学的にみると」というテーマの11ページのレジメと、岩田氏が高校教師の時に、生徒に配布した資料を、皆さんにくばられました

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2019年4月16日 (火)

4月人間学例会での話 そのために大久保通りの店の変化を見に行く。 例会のレジメの概略

2019年4月19日の人間学研究所の例会で、「大久保・百人町の歴史 江戸から現在に至る変化を、歴史地図で見る」という話をするために準備をしていました。今回は人間学研究所、新教育的人間学研究会の150回と、実用的人間学研究会の120回の合同例会で、2019年度の最初の例会ということもあり、かなりちからをいれて準備をしました。

当日は1時間ほど、資料の説明をし、後の1時間を討議の時間としました。

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大久保百人町の歴史

1、江戸時代以前、旧東大久保は川の流れる窪地

 大きな窪地で大久保と名付けられる

 

真ん中の道が仲通りとよばれた大久保通り。左上は尾張藩の屋敷。下は百人町。

2、江戸時代

 百人町は鉄砲同心100人組の住む町ということでなづけられる

3、明治時代

 まだ畑が多い村 豊多摩郡大久保村

4,大正・昭和時代 

 関東大震災後移住者増

 前田侯爵や古川男爵ていなどのお屋敷もあり、庶民の家もある街

 多くの文人の住む街、同時に陸軍戸山学校、演習場があり、高級軍人が多数住む町でした

 戦災で焼け野原に

 

記憶をたどったわが町大久保の一部

明治40年ころ、筆者の曽祖父が大久保駅近くで桶屋を始める。

5、戦後の時代

 ロッテ工場、と韓国人の居住(オ―ルドタイマー)

6、東京オリンピック以後

 スラム街撤去、ホテル街へ

 

百人町東町会の図

7、多国籍の街へ

 ニューカマーの韓国人

 第1,2,3次韓流ブームと嫌韓デモとそれぞれの衰退時期

こういちの人間学ブログ 

 カテゴリー「大久保の街紹介」100ほどの中から年次ごとに重要なもの35ほどを列挙しました。

 2009年からブログを始めましたが、大久保の街を各街区ごとに回り紹介しました。

大久保・百人町の歴史地図 解説

 1、大久保村絵図 江戸時代末

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 2、江戸時代の大久保百人町「江戸東京重ね地図より」

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下の図の紫色で赤いツツジの花の印のところが百人町。草色のところが大久保。

 3、実測東京全図より 明治12年(1880年)

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 4,大日本職業別明細図 大久保町、淀橋町 大正14年 (1925年)

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 5、大正5年前後の大久保町の一部 書き直したもの

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 6、記憶をたどったわが町大久保 昭和10年前後 戸山小学校の卒業生が記憶をたどり作った地図

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 7、昭和37年(1962年)の5万分の1地図 新宿を中心として

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 8、百人町東町会の見取り図 昭和62年(1987年)

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 9、百人町、大久保エスニック地図 平成20年(2008年)

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 10、百人町、大久保の商店会の変化 2000年の地図から2012年の変化

 下図

 11、同上 2019年4月の状況

 下図

 

◎例会で配布した資料はお話の概略5ページと、添付した大久保の地図は11枚ですが、最後の地図4枚は「大久保通り百人町明るい会商店街」と、「新大久保商店会振興組合」の両方の地域が載っているために非常に便利です。2000年につくられたものですが、2011年12月と、2012年5月に、もうやめたお店は線引きして消してあります。さらに2019年段階ではどうなのかを、23日朝早めに出て大久保通りの小滝橋通りから明治通りを調査することにしました。

百人町明るい会商店街は新大久保駅から西側で小滝橋通りまでの範囲を言います。一方新大久保商店会振興組合は新大久保から東側のところで一部は百人町で、大部分は大久保です。明治通りまでの区域です。あくまでも地図に載っている店数の比較で名簿で調べたものではありません。2019年の調査では奥のほうの店ではまだ調べていない店があり、あくまでも参考にということです。また再度調査したら追記します。新大久保会商店街では25店のうち5店ほどは韓国の方の経営する商店です。

2011、2年の地図 下図2枚

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上部の地図が百人町明るい会商店会新大久保駅の左側(山手線の外側)

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下部の地図が大久保商店街の地図。明治通り側

2011,2年のころはまだカラーインクで塗りつぶしていない店(営業中)が多かった。

上部の地図が明るい会の大久保駅側から小滝橋通りへ向かう地区

下の図は大久保商店会で新大久保駅から点線までが百人町、その左側が大久保地区。

新大久保駅周辺は韓国の店に変わっている店が多かった。

 

2019年4月の地図 下図2枚 2019年修正版 

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2000年の時

百人町明るい会商店会の数   78店

新大久保商店会の数      105店

2012年の時

百人町明るい会商店会の数   41店

新大久保商店街        33店

2019年4月の時

百人町明るい会商店会の数   17店  未調査7店

新大久保商店街        25店  未調査2店

◎2012年の時には減少した店は新大久保駅周辺が主でしたが、2019年には明治通りや小滝橋通りの周辺の店でも減少しています。

減少した分、韓国系の店が置き換わっています。また韓国系だけでなく、ベトナムやネパールのお店特にビルの2階以上にも入っています。

2019年の新大久保駅周辺の地図

新大久保商店街のうちの百人町部分です。25店のうち残存する店は地図では〇で囲ってあります。

パリ-ミキ、盛好堂書店、円満屋熱帯魚、内藤シューズ、山本米店、サカエカメラの6店です。

大久保部分の店残存する店

ひらまつ青果、焼肉美苑、東京風月堂、万年湯、大丸設備、東京電建、美容室parco,フローリストしのざき、鳥重、新宿日曜大工センター、動物ショップZOO、島村印店(商店会長)、焼き肉中央苑、小倉屋酒店、とんかつかつ味、山手クリーニング,アライ手芸店,市沢自転車商会、柳沢陶器店、19店

不明  味むら。酒どころ司

このなかで、すでに商店会を抜けた店があるかもしれません。また、このほかに新たに商店会に入った店があると思います。

◎地図や資料はまだたくさんありますが、ほんの一部だけを紹介しました。ブログではさらにその1部だけを紹介しました。

 

 

2019年4月12日 (金)

江戸から明治大正昭和平成令和に至る、歴史地図で見る、大久保、百人町の歴史、追記版

参考資料「大久保の由来 大窪 旧東大久保の低地の状況を見る~」下記
参考資料:わが家のファミリーストーリー、父を中心として。戦後から現在まで  下記
参考資料 「新宿の民俗 昔の大久保、百人町~」2018年7月24日
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/07/
 
 江戸時代から、明治、大正、昭和、平成、令和時代と変遷してきた、大久保、百人町と筆者の家の歴史をからめて、変遷を地図上でたどってみたい

(2019年4月1日 元号が5月より令和と変えられます)

 

追記
2016年10月に書いたブログですが、2019年4月に記事を追記して更新し直しました。
2019年4月の人間学研の例会でここに書いたお話を中心に筆者がお話します。また、4月1日、ツイッターにも文章をあげました。
2019年4月12日に追記して更新しました。

 

写真などのため鮮明に出ないのが申し訳ありません。
また、明治の末ごろにこの地に移り住んだ、筆者の先祖の足跡もたどって見たい。
大久保の地はこの一帯が大きな窪地であったことに由来しています。大久保通りに向けて土地が傾斜しています。昭和になっても大雨が降るとよく新大久保駅あたりが水浸しになることがありました。大久保の地は大きく分けて、百人町、西大久保、東大久保に分けられます。
大久保の地は,現在の百人町、大久保(旧西大久保),新宿6,7丁目(旧東大久保)、余丁町、西新宿7丁目の地域のかなり広い地区を言っていました。
元の東大久保の地は特に低く(現在は新宿6、7丁目)は花園神社裏から蟹川が流れ、東大久保の地を通り、そこには砂利の採集場があり砂利場といわれました。今も目立つ低地です。そしてその川は戸山の尾張藩の下屋敷そして神田川まで続いていました。
追 記 
いわゆる「御府内」とされる大江戸の市域は、はじめ「四谷の大木戸までが江戸のうち」とよばれ、大久保の地は大江戸の外でした。しかし、次第に江戸の町は広がり、1818年(文政元年)に、評定所は地図上に朱引きして境界を定めました。それによると西限は代々木村、角筈村、戸塚村,上落合村でした。現在の新宿区の一部は「御府内」になります。
 大久保村、柏木村、内藤新田、千駄ヶ谷村までは、町奉行支配の区域でした。また、諏訪村、戸塚村、鳴子宿、角筈村、下落合、上落合村までは,寺社の募金活動の許された,準「御府内」ということになりました。
   江戸の町(下)1982年、草思社 より
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戸山との関係
戸山は現在1、2、3丁目がありますが、大久保とは深いつながりがあります。明治時代に元の尾張藩の地を陸軍戸山学校とし、その後大久保、百人町の北側の地を陸軍で買い入れ、演習場やさまざまな陸軍の施設もつくられました。演習場周辺は戸山が原と呼ばれました。戸山の地名と大久保、百人町の名は重複しているのです。戸山高校は地名が戸山ですが、戸山小学校や西戸山小学校は百人町の地になります。以前あった戸山中学は大久保の地名でした。
◎「こういちの人間学ブログ」 2019年4月7日
「大久保の由来 大窪 旧東大久保の低地~」詳しく写真も載っています。ぜひご覧ください。
 
江戸時代末期の西大久保村の絵図(下)

 

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右側に全龍寺があり、近くに長光寺がある。

 

ここは百人町の百人組鉄砲隊の大繩地。伊賀出身の同心100人組。他に与力、25騎 、組頭(旗本)1人がいて、江戸城の警備などを行う。寛永時代は鉄砲撃ち場もつくられた。家族,中間などの使用人をいれてもせいぜい20人程度でしょう。すると2500人程度ということになります。
江戸城警備の鉄砲隊は4組ありましたが、他の3組の名前は現在につながっていないのです。
◎2019年3月の同じ広さの新宿区百人町の人口は、世帯数11129世帯。人口17206人です。
大久保通りは仲通りといい、他に現在の職安通り、諏訪通りの3本の道があった。右側の大久保に全龍寺があり職安通りを超えて境内があったようです。長光寺は鉄砲隊の菩提寺。全龍寺は大久保、長光寺は百人町になります。

 

鉄砲同心の土地は戦略上、間口が狭く奥が細長い形をして、今もその形が残っています。

 

100人の同心はそれぞれ1200坪ぐらいの土地を拝領し、与力は2000坪くらいの土地を拝領していました。今の百人町1丁目から4丁目までのかなり広い地に百数十軒で住んでいたことになります

 

同心の人々は、鉄砲の火薬を作るのに木炭が必要で、つつじで作る木炭が火縄銃によいということでつつじを植えました。ここのつつじは有名となり見物客がたくさん来ました。またつつじは同心の人たちの内職ともなりました。ここはつつじの名所となり見物客が押し寄せました。
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江戸名所図会より「大久保の映山紅」

 

 明治期になる町内の有志が明治16年につつじを1万株を植えました。ここのつつじは、日比谷公園や舘林や箱根に移植されました。今大久保百人町の地にもつつじがたくさん植えられています。
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上図からつながったところ、上の左側に川があり田んぼがあります、この辺りも低地だったでしょう。右端は尾張様戸山屋敷がある。
上は現在の諏訪通、真ん中は大久保通り、下は現在の職安通りです。

道路に沿って家がありあとは畑地です。

 

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「江戸、明治、東京重ね地図」より(上、下)

 

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上の地図の江戸時代の拡大図。紫色をしたところが百人町同心大繩地。つつじのしるしが付いています。草色が西大久保村。内藤家の家来が鉄砲隊100人組で江戸城の警備をしました。普段は大手三ノ門を警備した。百人同心は火薬の原料として、つつじの木炭を利用し、内職としてつつじを栽培し、江戸の名物となる。明治になるとつつじは箱根や館林に移された。同心のほかに騎馬の与力(確か20人)がいた。
同心たちの土地は間口が狭く奥が長い形で、そのまま現在に移っている。

 

皆中神社は鉄砲同心の守り神だった。百人町1丁目に住む、前東町会長の朝倉さんは鉄砲同心の子孫の方です。
地図では長光寺の隣に朝倉菊吉の名があり、千百四十坪となっています。与力は二千坪以上です。
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大久保元百人町大繩組屋敷絵図面

右上は尾張家の屋敷。中に人工の箱根山(高さ44,6m)が作られた。箱根山は山手線の内側では一番高いところです。

 

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明治時代の豊多摩郡大久保村。(上)
明治18年に新宿駅が開業し、ついで22年中央線の前身である甲武線が開通。

 

大久保は、はじめはまだ緑地が多く野菜の栽培される農地が多かった。。尾張家の跡地は明治7年に陸軍戸山学校になった。周辺は射撃場や練兵場となりました。周辺には陸軍の施設が多く、多くの高級軍人が大久保の地に住んでいました。また華族のお屋敷があり、文人なども多数住んでいました。
中央線大久保駅はありますが。まだ山手線の新大久保駅はできていません。山手線の電車の線路に沿ってつつじ 園がありました。

佐竹の祖先は長岡藩の桶を中心とした仕事をする御用商人とかで、名字帯刀を許され、大きな蔵がいくつもあったようです。しかし戊辰戦争で幕府初代側についたことで長岡藩は消滅し、商いも不調となり没落したようです。曽祖父の伝蔵の父親は傳右衛門といいます。祖父の庄次郎はこいつがいけないんだと位牌に鉋をかけてしまったそうです。

筆者の曽祖父の伝蔵は先に来ていた椅子職人をしていた息子の庄次郎を頼って新潟の長岡から転居し、1907年(明治40年頃)に百人町で桶屋を始めました。新潟からワガヤ―わがやー、といいながらタガなおしをしながら、東京まで歩いてきたそうです。そして大久保の地で桶屋を始めました。曾祖母は3番目の奥さんだそうで、夫婦ともばくち好きで息子の給与をばくちにつぎこむ始末で、祖父は大阪に逃げました。そこで祖母と結婚しました。伯父と父親は大阪で生まれました。
曽祖父が病気になり大阪にいた祖父母一家が1920年(大正9年)に、百人町に来ました。
このころのお店は百人町2丁目で淀橋教会の前あたりでした。このころから井戸掘りも始めました。

明治12年の地図 下図

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百人町と西大久保を含めて西大久保村といっていました。道路沿いだけが住宅地で、周辺は畑でした。(一部低地だけ水田)

 

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地図の続きです。東大久保村で 元の尾張藩の下屋敷は陸軍戸山学校に。
明治12年(1879年)の東京実測図(上)
道の両側に民家があり、それ以外はほとんど畑や雑木林でした。
西大久保村の中に百人町がありました。青梅街道と甲州街道の分岐点の宿場として新宿が発展しました。このころは角筈村です。

 

 下の地図は上の地図の続きです。上のほうに陸軍戸山学校。その下は東大久保村です。今では新宿6,7丁目になってしまいました。旧柏木地区は西新宿になり、百人町、大久保も中新宿にとかいう案もありましたが、百人町、大久保のままになりました。

 

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大日本職業別明細図。大正14年(1925年)大久保市街図。(上)
1914年(大正3年)には山手線に新しい駅、新大久保駅が作られる。

 

上のほうに戸山小学校がみえる。新大久保駅のすぐ近くには大久保シネマという映画館がありました。はじめのころはトーキーになる前でスクリーンの前に3人くらいの楽師さんがいたそうです。百人町と大久保の境に交番がありました。
1923年(大正12年)には関東大震災がありました。大正5年生まれの父は当時小学生だったそうです。このころはまだ大久保駅の近くに住んでいました。当時小学生制時代の父が言うには昼食とんかつは大好きなとんかつで、食べようとしたら大地震で、揺れが収まって家に戻ったら埃まみれで食べられないのがすごく残念だったそうです新大久保辺りは地盤が固く家が倒壊しなかったそうです。家の前が古川男爵の別邸で竹藪があり、余震に備えてしばらくいたそうです。今はそこは淀橋教会になっています。
関東大震災以後、下町から転居するものが多くなり、街は発展していきました。

 

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 大久保駅と新大久保駅の間の商店街。左上の大久保駅に近いほうに「桶商佐竹」の名前が見えます。筆者の下の息子が祖母(息子から見ると曾祖母)から聞いて学校の文集に乗せたものですとと、山手線はこのころは駅は高架ではなく地面と同じ高さでした。木の屋根がちょこっとついて、電球が1つか2つだけでした。電車も2両編成でちょうど、ちんちん電車のような気がします。その山手線にタヌキがひかれたこともあります。当時,戸山が原にはタヌキなどの野生動物がたくさんいたことでしょう。

 

昔の通りの名前は大久保通りではなくつつじ園通りという名前でした。新大久保駅周辺には広いツツジ園がありました。
店のないところは畑や空き地が多かったのです。

 

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「戸山小学校創立75周年記念、記憶を辿ったわが町大久保」昭和10年前後 上図
父親の青年時代の地図。このころには佐竹のうちは新しくできた新大久保駅近くに移転しました。大久保通りの南側右端、下側に佐竹の名があります。数字が書いてあるのは戸山小学校何期卒業かを書いてあります。父の実は19期卒業です。
この地図をみると高級軍人の住まいがたくさんあったことがわかります。

 

大久保小学校出身の加賀乙彦は、大久保には「山の手に下町が混ざっていた」、「知識階級の子弟もいるけれど、廃品回収業の家の息子もいる。」「原っぱもある、住宅街もある、貧民窟もある、それから町工場もある」、といっている。

 

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上の地図より広く見た絵図。上の赤いところが戸山小学校
このころはお屋敷がたくさんあり、今の大久保駅近くの教会のところ百人町には古川男爵別邸、東大久保に前田利為侯爵、ほかに安藤子爵、室町伯爵、曽我子爵、北大路男爵、松井男爵、南部男爵など、ほかに政治家、高級軍人、学者、芸術家、俳優、文化人など多くの人が住んでいました。大久保小学校の近くに小泉八雲の屋敷があり、今は記念公園が作られています。他に西条八十、国木田独歩、島崎藤村、下村湖人、岩野泡鳴などがいて、大久保文士村と呼ばれました。戸山小学校のそばには国沢新兵衛という満鉄の副総裁の大きな屋敷がありました。
現在の百人町2丁目の北西部には、外人屋敷があり、また近くに、著名な音楽家などが住んでいました。そのあたりに新興キネマの撮影所がありました。
岡田啓介(海軍大将)、平沼騏一郎,阿部信行らの総理大臣や東条英機大将(総理大臣にも),及川大将、植村中将、原田少将などの軍人も多く住んでいました。
岡田啓介首相(海軍大将)は1936年(昭和11年)に起きた二二六事件で、あやうく命が助かりましたが、高橋是清蔵相は殺されました。岡田啓介の自宅は大久保にあり、井戸や風呂関係でお得意さんだったとの父の話でした。岡田首相は東条内閣打倒に動きました。

 

その前あたり百人町3丁目の、戸山が原に陸軍科学研究所や、陸軍技術本部がありました。戦後この辺りに都立衛生研究所があり、また国立科学博物館の分館があり、それが筑波移転してからは、2019年4月から桜美林大学になります。
その東側戸山町に陸軍第一病院がありました。昔旧館が残っているとき、病院に行ったとき、すごく病院の壁が厚く、普通の倍はありました。少しぐらいの爆撃に耐えらえるように作ってあります。その後2回建て替えられ、今は国立第一病院から、国立国際医療研究センターとなっています。

 

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大正5年ごろから11年にかけての新大久保周辺。
横綱太刀山の自宅があった。筆者の父親が太刀山の井戸を掘ったと言っていました。いろいろな有名人が住んでいましたが、みんな井戸掘りではお得意さんでした。(下図)
大久保は水が豊富で浅い井戸で水がよく出ました。
こういちの人間学ブログ、
2018年7月24日
新宿区の民俗」昔の大久保、百人町。井戸掘り、桶屋をしていたわが家について」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/07/post-c761.html

すみません。つながりません。

2016年10月
「わが家のファミリーストーリー 父を中心として、戦争中まで」
つながります
2016年10月
「大正・昭和・平成を生きた父の死」
すみません。つながりません。上記の記事からはつながります。このブログ冒頭の記事に出ています。

戸山小学校周辺

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ここは百人町の右端。この先は大久保です。

戸山小学校周辺は畑や雑木林が多かった。裏は戸山が原でした。

 

この図の大久保通りの右端に交番があります。ここまでが百人町、その先は大久保になります。大久保通りから戸山小学校に行く道の角は盛好堂書店で今もあります。筆者の小学校時代の同級生がお店をやっています。このころはわが家は大久保駅よりでした。

 

戦後の大久保・百人町

 

戦後の大久保・百人町は昭和18年生まれの筆者が、直接 見分しています。
戦後しばらくの大久保地域は、元の陸軍の射撃場は駐留軍の射撃場に変わりました。
かまぼこ型の射撃場から小銃や機関銃などの音が聞こえ、時に外に銃弾が出たりします。
弾丸除けのための人工の山は三角山と呼ばれ、射撃場撤退の後は。子どもたちの格好の遊び場でした。三角山の後は、いわゆるバタヤ部落となりました。ずっと後でそこは都営住宅になりました。

 

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昭和62年(1968年)の百人町東町会の地図 上下
大久保通りの北側は百人町2丁目(上)
真ん中あたりにロッテ、右上に戸山小学校。
右下が大久保通り、下図につながります。

 

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昭和62年当時の百人町東町会の地図(上)

大久保通りの南側は百人町1丁目
左下に新大久保駅左は大久保通り

 

このころはぎっしり日本人の商店がつらなっていました。下図

 

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2000年の商店街。上の新大久保駅と大久保駅の間が百人町明るい会商店街。上図
下図の新大久保駅から山手線内側が新大久保商店街。このころには韓国のお店はほとんどありません。
2007年の新大久保商店街マップではまだ日本人経営の店が多くありました。

 

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2016年現在の、もう商売をやめてしまっているところは色塗りしています。塗りつぶしていないところ(日本人経営の店)はほとんど残っていません。

2019年の新大久保商店街振興組合員は、わずか24店でそのうち5件は韓国人経営の店です。

新大久保駅から百人町の地区は、残った店は、パリミキ、盛好堂書店、円満屋(観賞魚)、内藤シューズ、サカエカメラしかありません。
横道入り山本米店。大久保地区に 平松青果店、風月堂は大久保で残っています。

 

大久保・百人町の歴史(株式会社サタケの歴史も含めて)

 

弘仁(810-820)年代

小野 篁が諏訪神社(高田馬場で職安通り、大久保に面す)に大国主命をまつり再建した。大久保地区も氏子の地域

鎧神社(北新宿)や鬼王神社(前は西大久保1丁目、今は歌舞伎町2丁目) 平将門に縁の神社

鎌倉時代  

都立戸山公園のあたりは、鎌倉時代侍所初代別当和田義盛の領地で、和田戸山と呼ばれていた。また

源頼朝が源氏の勢ぞろいを行ったところと伝えられる。東大久保から新宿の花園神社にかけて、昔は入り江の低地で

大きな窪地になっていた。それで「おおくぼー大久保」と呼ばれるようになった。

安土・桃山時代

天正18年(1590年) 小田原城が落城し、江戸が徳川の領地となる

天正19年 東大久保村と西大久保村に分かれる

慶長7年(1602年)  鉄砲組百人組が土地を拝領、大久保村西部が百人町となる

鉄砲隊のまもりがみとして、諏訪神社の末社として神社が作られ、その後、皆当たる―神社として,皆中神社となった。

江戸時代

1603年 徳川幕府始まる

戸山の地は尾張徳川家の下屋敷へ

大久保の地は、下級武士や農民、町人の雑居地、川があり、水田もあった。

百人町は伊賀組鉄砲同心100人組などの屋敷となる。その内職としてのつつじの栽培で有名となる

明治時代

明治7年  戸山と周辺が陸軍省用地になる。陸軍戸山学校ができる

、以後、大久保、百人町には、陸海軍の将官30名が住む。

1888年(明治21年)

新潟県長岡にて佐竹庄次郎生まれる

1889年(明治22年)5月1日  

南豊島郡大久保百人町・東大久保村・西大久保村が合併し大久保村が発足 

1895年(明治28年)5月5日  

大久保駅開業(甲武鉄道  現在の総武線、中央線)

1896年(明治29年)4月1日 

南豊島郡が豊多摩郡に変更

1898年(明治31年 )

陸軍省が民有地を購入し軍用地とする。戸山が原周辺。様々な陸軍の施設が作られる。

演習場や射撃場などもつくられる

 

1907年(明治40年)ころ 

佐竹庄次郎 東京の大久保へ それを頼り佐竹の曽祖父伝蔵、新潟県長岡市より大久保百人町に転居、

大久保駅近くで、桶屋を開業する(現在は百人町2丁目)当時の地図に「桶商 佐竹」の名がみえる

昭和時代、店は大久保通りでしたが、自宅は小滝橋通りに3階建ての家があった(百人町1丁目)。富士山がよく見えたとのこと。

(長岡でも桶屋をしていました。高祖父は傳右衛門 長岡市千手町3-832戸籍簿は戦災で焼失) 

 

その後祖父庄次郎は転居、大阪にて大阪府東成郡榎本村にて結婚 息子2人生まれる。長男 房次郎 次男 実

 

1912年(大正元年)12月1日  

大久保村が大久保町になる

このころの大久保 戸山とともに華族、実業家、政治家、高級軍人などの住まいがあった。島崎藤村、下村湖人、小泉八雲、戸川秋骨、岩野ほうめい、岡本綺堂、国木田独歩、西城八十などの文学者も多かった.大久保文士村と呼ばれた また幸徳秋水、北一輝 、なども             

百人町3・4丁目や大久保3丁目には陸軍の施設がたくさんあった。

 

1914年(大正3年)11月15日  

新大久保駅開業(山手線) 、新宿から万世橋に通じる市電の開通。宅地化進む。

12月に東京駅もできる

 

1916年(大正5年)

父、実が大阪府東成郡榎本村で生まれる。

 

1920年(大正9年) 

佐竹の曽祖父伝蔵が病気で倒れ、祖父庄次郎と祖母いさが大阪より伯父、房次郎や父、実をつれて、

大久保に転居する  

1923年(大正12年)

関東大震災。大久保は家屋の倒壊あっても火災発生なし。下町からの転居が増える。

この後人口が増え、井戸掘りも繁盛する。大久保の街は広大なお屋敷も、庶民の家

もあるというところところであった。陸軍の施設が多く高級軍人が多く住んでいた。

1925年(大正14年)

「大日本職業別明細図」に大久保駅の近くで、「桶商佐竹」の名がみえる。

1928年(昭和3年)  かまぼこ型の射撃場に変わる

1932年(昭和7年)10月1日  

大久保町は東京市に編入され、淀橋区になる。それまでは豊多摩郡。

四谷や牛込は前から区であった。

1940年(昭和16年)庄次郎長男、房次郎 酸欠事故で死亡

1943年(昭和18年)

佐竹幸一生まれる 新潟の母親の実家に疎開

佐竹実は戦地満州から、第2次招集で中国安徽省へ 累計7年も戦地へ

母方の、父の戦友であった伯父は戦死

戦  後

1945年(昭和20年)       

終戦 大久保百人町は焼け野原に 。最初に父は大久保でバラックを建てたと自慢。

射撃場は米軍が使用

中国人、韓国人が大久保の地に住みはじめる 帰化する 金さんから金原さんなど

1947年(昭和22年)

3月に淀橋、四谷、牛込、戸塚区など各区合併、新宿区となる

1949年(昭和24年)

旧陸軍用地戸山が原を団地とする 大久保4丁目も団地化

このころ佐竹の店、東京ガスのガス風呂販売委託店になる

のち東京ガスの委託店、東京ガス百人町サービス店になる

1950年(昭和25年)       

ロッテ新宿工場竣工 韓国人増え始める

1952年(昭和27年)3月25日  

西武鉄道、西武新宿駅出来る

1958年(昭和33年)射撃場が返還される

1963年(昭和38年)9月     

早稲田大学大久保キャンパス出来る

1966年(昭和41年)4月有限会社佐竹製作所設立

佐竹幸一 家業の有限会社佐竹製作所に入社 人間学研究会設立

1978年

西大久保1丁目が歌舞伎町2丁目となる(住宅地から繁華街へ)西大久保の地名はなくなり、大久保に。東大久保は新宿6,7丁目になる。

新大久保地域はラブホテルなどが多くなり、裏歌舞伎町と呼ばれるようになる。

1980年ごろから         

ニューカマーの韓国人増え始める 

1986年5月  

有限会社佐竹製作所から株式会社サタケへ  佐竹幸一 社長となる

1990年ごろから         

西戸山タワーホームズ(タワーマンション)出来る
このころから中国、フィリピン、タイなど周辺アジア国の人増える

1991年

第2サタケビル完成 人間学研究所準備室できる

1992年

共住懇でき、雑誌”おおくぼ”できる

2001年               

韓人会結成される
 日本人の店が減少、韓国系の店が増える 

「おいしい”まちガイド」発行される 韓国だけでなく多国籍の街のイメージ

2003年 「冬のソナタ」が放送され、大ブームに ヨン様ブームへ 

2004年 このころ第一次韓流ブームといわれる

2006年

1月、新宿区新聞 韓流まだまだ人気と 職安通り コリアタウン 飲食は150店が300店に

顧客は韓流マダム中心 店の入れ替わりが激しい

2007年 

毎日新聞、万能川柳で、「ヨン様に妻をとられて出前取る」このころ、空前の韓流ブームと

2008年

前に5つあった銀行、信用金庫など、新大久保に1店もなくなる

大久保通りの商店がほとんどなくなり、貸しビル業になる

佐竹「エスニックの街、大久保の今昔」を人間学研、二火会他で話をする 

佐竹 大久保の街全部を調べ、エスニック・マップを作る(最もにぎわったのはスーパー韓国広場のある職安通り)

東京ガスSTコミュネット株設立で業務移管。(株)サタケは貸しビル業で存続。

2009年7月より 

「こういちの人間学ブログ」始まる

第2サタケビル テナント 韓国の店に 

このころから、第2次韓流ブームでにぎわう 

2011年

フジテレビ韓流騒動 一方では地価上昇がおこる

2011年12月

「こういちの人間学ブログ」「韓国の店さらに増加,ヤナギヤさんやめる 12月の状態 2001年との比較」

2012年7月

代表的なお店、Kプラザビル1,2、3 がオープン、第2次韓流ブームのピークの頃

 ビル購入は)(株)光商(総合食品メーカー)

「少女時代」、「KARA]、「東方神機」など紅白にでる。ブームに

2012年10月

「こういちの人間学ブログ」日韓関係悪化 人通りの減少とやめる店が多くなる

2013年6月

佐竹ビル 韓国のお店がテナントに「美学空間」その後「リメイク」にかわる

2013年9月ごろ

嫌韓デモが盛んにおこなわれ、ヘイトスピーチ 韓国の店の売り上げ減少 地価も下がる

2014年6月

コリアタウン存亡の危機」 新宿新聞の記事 韓国の店減少とベトナム人、ネパール人増え、料理店もふえる

韓国スーパーKプラス 閉店 韓国系3,4割が閉店する

2015年

第2サタケビル2,3階ににコンゴのお店できる

2016年11月 

ネパール料理店が新大久保で25店になる。韓国の店後退 賃料下がる

「市場タッカルビ」で、人気回復のために、新商品「チーズ・タッカルビ」を作る

2017年

「Twis](韓国人、日本人、中国人のグループ)が紅白に出場 ブーム再燃のはしり

2018年~

一時減少していた韓国系の店が増える 第3次韓流ブーム 客層は10代から20代前半

中国人、韓国人のほかベトナム・ネパール人もさらに増え、多国籍の街へ

チーズタッカルビやハットグはやり、若者が道にあふれる

日韓関係は悪化 しかし若者は関係なく新大久保へ来る

(若者の貧困化により、円高も影響し、渋谷、原宿より安い新大久保へ)

2019年4月より

株式会社サタケ70期へ 創業117年へ

2019年5月より「令和」に改元

2020年

新大久保駅の新しいビル完成 

東京オリンピック

 

 

参考資料

 

大久保の歴史 山本恭子 新宿区広報

大久保(新宿区)ウイキペディア

「新宿区の昔と今」芳賀善次郎著

「新宿の散歩道」

「新修 新宿区町名誌」 新宿歴史博物館  1000円

「東京ふるさと文庫 2」

「新宿区の民俗」 新宿歴史博物館          H15年

「東京古地図散歩」(山手線)フォト・パブリッシング 2019年3月

「江戸の町」(下)巨大都市の発展 内藤昌 草思社 1982年

「新宿の1世紀 アーカイブス」2006年

参考

2007年 平成19年 新宿区に住む外国人 30337人

韓国人  13392人  中国人9258人  フランス人 1016人

ミャンマー  833人  フィリピン 833人   

 

2019年 平成31年4月1日の新宿区にすむ外国人   

全体 346425人 日本人  304268人 外国人 42157人

中国人  1363o 人

韓国人  10217

ネパール  3441

ベトナム  3344

ミャンマー 2110

◎ 観光ビザで働いている韓国人も多数

2019年4月11日 (木)

フィリピン・ルソン島で第5のルソン原人・5万~7万年前の化石が発見されたと報道されました

2019年4月11日の新聞各紙やインタ―ネットに、アジア第5の原人がフィリピンのルソン島で発見されたという記事が報道されました。

日経新聞の記事から アジア第5の原人 5万年以上前の化石

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赤旗の記事から 比で新種人類化石 5万~7万年前

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時事通信の記事から 5万年以上前の人類、新種=フィリピン・ルソン島で化石発見

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上はカヤオ洞窟、下はカヤオ洞窟で見つかった新種人類の歯

記事の内容をまとめてみますと、

フィリピンのルソン島北部にあるカラオ洞窟で5万~6万7000前ごろに生きていた新種の人類の化石が見つかったと、フランス国立自然史博物館やフィリピン大などの国際研究チームが4月10日付の英科学誌『ネイチャー電子版』に発表しました。2007年に人類の足の指の骨の化石が見つかってから発掘調査が続けられ、これまでに歯や手と足の指、太ももの骨の化石が見つかっています。

研究グループがこれらの歯や骨の化石の形態を調べ、現生人類やさまざまな原人や猿人のものと比較してヒト(ホモ)属と確認しました。しかし,小臼歯と臼歯の大きさや形、手足の指の形状から、現生人類やジャワ原人、フローレス原人とは異なる新種と判断、ルソンの人を意味する「ホモ・ルゾネンシス」と名付けました。 

インドネシアのフローレス島に生存していたフローレス原人は2003年以降に発見されてから、「ホモ・フロシエンス」と名付けられ、10万年前から6万年前(5万年前とも)に生存していたとみられます。

同じころ東南アジアにはジャワ原人やフローレス原人がおり、現生人類(ホモサピエンス)もいたという報告があります。ルソン島北部では約70万年前とみられる石器も見つかっているが、ルゾネンシスとの関係は不明。

国立科学博物館の海部陽介人類史研究グループ長は「現生人類のように進歩的な面と、チンパンジーなどにみられる原始的な面が混じっている。ルソン原人と呼んでいいと思う。アジアに多様な人類がいたことが示された 新化石の形態は奇妙で、現時点で進化上の由来としているのは妥当な結論と思う」と話している。(日経・時事通信)

札幌医大の松村博文教授(形質人類学)の話(日経新聞)(猿人に近い印象)

足の指の骨が大きくカーブしており百万年前に生息していた猿人のアウストラロピテクスに近い印象だ。現生人類と同じホモ属の新種だが、研究チームは名称を付けるのに悩んだのではないか。化石はこの種が約6万年前と比較的最近までルソン島に生息していたことを示している。これまでは化石の数が少なく、新種かどうかで論争があったが、追加の化石が見つかったことで決着がついた。

カナダ・レイクヘッド大学のマシューシェリ博士はネイチャーに(今回の発表は、今後東南アジア人類に関する議論に)火をつけるだろう」とコメントしています。(赤旗)

◎筆者の感想

日経新聞のいうアジア第5の原人、というのが今度の5万~7万年前のルソン人のほかに、どの人類を言っているのかがわかりません。北京原人(68~78万年前)などに続き5種類目、といっています。あとはジャワ原人(170~180万年前)とフローレス原人(12000年前まで)らしいのですが・・・。 あと一つは何でしょうか。

4つ目の原人とは海部氏によれば、台湾で見つかった膨湖人のようです。インターネットによれば、やはり19万年前から1万年の膨湖人のようです。

ただ、南中国の赤鹿人でしょうか、日本での明石原人でしょうか。原人ではないのですが、デニソワ人(4万年前)もいます。いずれにしても、いろいろな人類がいて、これからも未知な人類が発見されることでしょう。

「こういちの人間学ブログ」2015年1月

1、台湾にアジア第4の原人(膨湖人)、2、ピケティ~

 

2019年4月 7日 (日)

大久保の由来,大窪から。旧東大久保の低地の状況を見る。江戸時代には川が流れ砂利をとる砂利場があった。

2019年4月6日(土)に、大久保の地名のもとになる東大久保(現在新宿6、7丁目)の窪地の状態を写真を撮りに行きました。

東大久保は大久保通りと職安通りとで南北を仕切られ,東西は明治通りと若松町、余丁町、富久町などの高台と仕切られた窪地のところです。江戸時代は東大久保村で、明治以後は大久保地域の一部として東大久保と呼ばれました。その後、新宿6,7丁目と名前を変えました。

旧東大久保周辺の地図です。上の緑色は都立戸山公園です。真ん中に明治通り。職安通りを挟んで上が新宿7丁目(旧東大久保1丁目)、新宿6丁目(旧東大久保2丁目)です。下図

◎昭和7年(1932年)東京市と呼んでいた時には、今の新宿区は淀橋区、戸塚区,四谷区、牛込区に分かれていました。淀橋区は大久保町、戸塚町、落合町、淀橋町でした。この時の大久保町は現在の百人町、西大久保、東大久保(新宿5,6,7丁目)、歌舞伎町、戸山町まで、ふくんでいました。1978年(昭和53年)住居表示の変更があり東大久保は新宿~丁目とかわりました。百人町、大久保地区も中新宿と変える案もありましたが、大久保、百人町の名前を残そうということで変更なしになりました。ちなみに西隣の柏木地区は西新宿と名前を変えました。

◎街の様子については、インターネットで「東京Deep案内」

「そこ新宿区新宿って言っちゃいます?旧東大久保新宿7丁目の昭和の昭和街並み」をご覧ください。確かに下町的な古い町並みが残っています。しかし外国人の住民の比率が高まっています。

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新宿区の防災マップです。やや濃い部分は高台の部分です。薄いところは低地です。右側帯状に色の薄いところがあります。この先に花園神社があり、そこの池を水源として蟹川蟹という神田川の支流が流れ、旧新宿7丁目には川砂利をとる砂利場がありました。そこから戸山の尾張屋敷の池につながり、神田川までつながっていました。赤いところは擁壁や崖などがあり危険地帯です。

蟹川の水源は西武新宿駅あたりといわれ歌舞伎町内にはかっての流路と思われる湾曲した水路が残っている。蟹川は,西向き天神社の崖下を流れ、現在戸山公園となっているあたりで北東に流れを変え、穴八幡の崖下をかすめ八幡、かっての豊かな水源地帯だった早稲田を潤し、江戸川橋周辺で神田川に合流していた。(東京スリバチ地形散歩より)

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大久保通りから旧東大久保(右側)と左側の戸山2丁目に分かれる坂道。ここは盛り土をして極端な坂にならないようにしました。

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上の写真を撮ったところから右を見ると坂が2つあります。ひとつはこの写真の左がわの急な明治道路に沿った坂道です。。もう一つはややなだらかな坂です

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大久保通りから旧東大久保への坂の入口左に、大久保通りに沿った急坂。これも椎の木坂といいます。

右がややなだらかな坂があります。

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先ほどの坂を下りたところです。この壁は大久保通りとの段差の壁です。塀の上は大久保通りです。

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坂を下り切ってまた明治通りに向かう坂、椎の木坂です。説明文には、「かって尾張藩戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)のうちに椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎の木坂の名がついた。また、古くはこの辺りが砂利場で、東西に上る2つの坂があったことから向坂とも呼ばれた。(新選東京名所図絵)

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椎の木坂 左は大久保通りの壁。大久保通りへの上り坂。

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四つ角のところ。いかにもレトロな感じの店です。

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その向かいのカレー屋さん。インドレストラン。

職安通りの坂の上から見たところ。右側に急な坂道があります。

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右の急な坂道は久左衛門坂。すぐ近くに階段の梯子坂もあります。何れも急坂です。左の坂は抜け弁天坂といわれていたらしいです。いずれにしても自転車で上がるには大変な坂でした。真ん中に見える青っぽいビルはイーストサイドスクエア。

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梯子坂です。

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税務署通りの抜け弁天に向かうところの立体交差。この先が新宿6丁目、手前が新宿7丁目。この通りに沿って以前は都電が通っていました。

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東大久保からの坂を上り切ったところにある小さい厳島神社・弁天様ー抜け弁天といいます。職安通りからつづくこの道は抜け弁通りといいます。

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抜け弁天のすぐそばにある、浄土真宗泉福寺。筆者の家の菩提寺です。月岡芳年の墓があります。近くには多くの寺があります。専念寺、法善寺,大聖院、西光庵、永福寺永などです。

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立体交差の先の新宿6丁目の西向き天神の鳥居と社殿。

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西向き天神。階段がありここが低地だとわかります。昔は大窪神社とも呼ばれていたとか。

 

右に西向き天神の隣の新宿中学校。合併前の名は大久保中学校と、筆者の卒業した学校でした。左には天神小学校。

大久保中学校はこの写真で写したところは低く、次第に階段で高くなります、筆者が中学生のころにはまわりに高い建物がなく、学校から新宿の伊勢丹や、三越がよく見えました。筆者は図工の時間にそれを絵にかいたので、鮮明に覚えています。当時の大久保中学校は進学校でわがクラスから4名が戸山高校に行きました。

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大久保通りから戸山ハイツ地区を左に見る。左に東戸山小学校。左に見えるマンションの後ろは箱根山。人工の山で、山手線の中では最も高いところです。道路の下は低地となっています。以前は道路で仕切られていませんでした。

道路の先には左に国立国際医療センター(昔は陸軍病院)、右に総務省統計局があります。

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大久保通りから新宿7丁目ー東大久保方面を見る。奥の高層ビルは、2015年にできた富久町のクロスコンフォートビル55階建てです。

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向こう側の新宿7丁目には道路と同じ高さのまだ古い木造2階建ての店や住居が残っています。右側には銭湯の煙突が見えます。

2021年4月24日 金沢浴場へ行ってみました。

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東京医科大学も新宿6丁目で,(旧東大久保2丁目)です。

2019年6月22日(土)追記

「東京『スリバチ』地形散歩」皆川典久著 洋泉社2012年2月発行 2200円+税 を息子夫婦からプレゼントに頂きました。旧東大久保の地がくわしく載っていますので、追記しました。

10番目に「偉大なる窪み、大久保」として、紹介されています。

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大久保通りで分割されている。大久保通りの南側は蟹川の流れにより、大久保の窪地と、歌舞伎町(旧大久保)の窪地ができています。

大久保通りの北側も蟹川の流れによる低地で、元の尾張藩の屋敷で広大な庭園が造られ人工の山、箱根山が作られました。戸山ハイツが戦後つくられました。

大久保通りあたりを川が流れ(秣川)諏訪神社方面に流れていた。川の周りには水田が作られた。この川の流れによりかなりの窪地が作られた。そして神田川の注いでいました。

筆者の父は大久保通りに昔橋がありあとで橋はなくなったが、橋の欄干は残っていた、と話していました。

 

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