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2019年4月

2019年4月27日 (土)

5月1日に元号が変わる。これを政治的に利用しようとする安倍首相。巧言令色鮮し仁。追記、4月30日から5月1日にかけての大騒ぎ。

安倍首相の自分の思い通りにしようとするための安倍改元

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4月27日(土)新天皇即位に伴う10連休がスタートしました。そして、2019年5月1日に現天皇が退位し、新天皇が即位される。それに伴い元号が平成から令和と変わります。4月1日に前回と同じように官房長官の発表のあと、テレビで長々と安倍首相の解説が付いた。これは全く異例のことで、元号が変わることを利用して、自分自身と政府の支持率をあげようとするものであった。”安倍改元”ともよばれるゆえんである。

世の中のムードはどうも歓迎ムードで「令和」という名前も7割が好感を持って迎えられたという。また、安倍内閣の支持率も9ポイント上がったとのことである。安倍首相は今までの元号の出典がすべて漢文であったのが、今度は万葉集からとったという。これは、日本会議などの右翼的な人たちにの支持も狙ったとみられます。毎日新聞などでは安倍首相は「令和」を私物化していると批判しています。

そういった状況の中での全国一斉地方選挙があったが、大阪と沖縄の衆院補欠選挙で自民党が2連敗してしまった。自民党の中ではこういう状況の中で消費税をあげれば、さらに支持率が下がるので、衆参同時選挙だの、消費税増税の繰り延べだのが言われている。景気が上昇を続けているというのも統計偽装がばれて、実は後退局面になりつつあることも認めざるを得なくなっています。今年は亥年の選挙で参議員選挙と一斉地方選挙とが同時に行われ、荒れる選挙になるというジンクスがあるそうだが、今のように野党がバラバラで、自民党と公明党、維新が付いている状況ではあまり多くは期待出来ないように思えます。国民民主党と自由党が合同するそうですが、立憲民主党に比べて支持率も低く反自民の腰も据わっていません。

いままで、改元の時の内閣は5か月以内に退陣するというジンクスがあるそうで、明治から大正の時には西園寺内閣、大正から昭和の時には若槻内閣、昭和から平成の時には竹下内閣と退陣しているようである。もう安倍内閣にも、そろそろ退陣してもらいたいが、今の政治状況ではまだ安倍内閣は続きそうである。困ったものである。

日本の皇室に対しての国民の尊敬の念はとても高いように思われます。昭和天皇また今上(平成)天皇も日本の各地を回られ、戦争で死者をたくさん出した場所を訪問されました。またさまざまな震災の被害にあった場所には時に膝を屈して人々を慰問されました。その姿を見て多くの日本人が天皇に対し敬意を感じたと思います。その天皇に対する尊敬の心をうまく自民党と自分たちの支持に利用しようというのです。

昭和天皇は日本が降伏した時、時にご自分の命の危機をさえ感ぜられる事態にまで、日本を追い込んだ東条英機ら日本の軍国主義者、A級戦犯を憎みました。その昭和天皇が東条英機らを神として参拝するわけがないのです。A級戦犯が靖国神社に合祀されてから昭和天皇は靖国神社の参拝を止めました。これを靖国神社の宮司らはうらんで天皇を批判しやめさせられました。安倍首相も実は参拝したいところが諸外国の批判により,玉ぐしをささげるにとどめています。先日も秋篠宮が皇位継承にはあまりお金をかけないようにと、(天皇の意向でしょうが)宮内庁に申し入れたのに聞く耳を持たなかったと批判しましたが、国民に寄り添うという立場の天皇家に対して、皇室を自分たちの有利なように利用しようとする安倍内閣との矛盾があるように感じます。

ドイツではヒトラーなどに対し、徹底的に追及したのに対し、アメリカは朝鮮戦争を機会に、日本の軍国主義者を温存し政界に復活させました。東条内閣の商工大臣であった岸伸介が総理大臣となり、その孫である安部が総理大臣になる、ということはドイツでは考えられないことです。アメリカと日本政府は戦前の極右勢力を温存し、左翼勢力を弾圧してきたのです。ドイツでは政府でヒトラーを神格化して参拝することなど考えられません。ところが日本では公然と靖国神社に参拝しようとするのです。自民党の殆どの議員が国民会議に所属し,神道政連盟、そして神道政治連盟国会議員懇談会に所属しています。第3次安倍内閣では20人の国会議員のうち公明党を除く19人が所属しているような状況です。

4月27日土曜日は10連休のスタートの日です。この休みを利用して旅行などに行く人もいるでしょうが、ほとんどの人は自宅でゆっくりということらしいです。日給の人は収入が減り困るでしょう。

毎日新聞の4月27日の朝刊の「余禄」を紹介します。

後で、平成の世を振り返ると、震災や原発事故はあったが、この時代に平成20年(2008年)に日本が人口のピークを越えたことにある。そして平成12年(2000年)に日本の人口一人当たりのGDPが世界2位になった。平成末の今、1人当たりのGDPは世界26位にまで下がり、生産年齢人口は6割を下回ったが、世論調査では「良い時代だったと答えた人が7割を超えた」。~平成は峠の時代だ、と書かれていました。

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新元号、「令和」について

令という言葉は元号としては、初めてということです。

そして「新元号は」「人々が美しく心を寄せ合う中、文化が育つ・・」ということらしいですが。

令という言葉を辞書などで引いてみると、第1に、命令の令であり、次には大宝律令などの令です。また令は令嬢などに使われますが、やっぱり何かを守れという、命令が第一に出てきます。今まで、元号に使われてこなかったのは命令という感じの字がふさわしくないと感じられたのではないでしょうか。

この令和と名付けられた年号が、安倍首相の思惑通り、戦争ができる国へと憲法を変えられる年に、また政府の命令で徴兵制が復活するような国にまた変えられないように頑張らないといけないと思いました。

ことわざに”巧言色 鮮(すくな)し仁”という言葉があります。(論語)

「人々に好かれようと言葉巧みに、へつらうような愛想のよい顔つきをする者には、誠実な人間は少なく、他人を思いやる最も大切な徳である,仁の心が欠けている。」

安部首相の言葉と行動はまさに口先だけはいいことを言っていますが、実際の政治で行っていることは富裕層に有利な政治を行い、庶民を苦しめる政策ばかりです。まったく、この言葉のとおりである、と思うのですがいかがでしょうか。でもこれで支持率が上がるようですから国民もどうかと思います。

◎連休の間の3日を特別に休みにすることにより、正規社員にはレジャー等に行くなどによる経済効果が上がるでしょうが、今の日本には自民党政府の経済政策により、非正規社員が増えている。非正規社員にとっては休日増は収入が減るだけです。かくして格差がますます広がっていくのです。

2019年4月28日(日)追記

毎日新聞の4月28日の日曜クラブ版の「松尾貴史のちょっと違和感」に、「侵犯 風刺の場に権力者とはおぞましい」という記事が出ていました。概略を書くと。

統一地方選挙投票日前日に、大阪名物の大衆喜劇の舞台で、安倍晋三氏が飛び入りを装って、「経済に詳しい友達として」ひとしきり喋ったのだという。~喜劇は社会や権威を風刺して、庶民の留飲を下げるのが本堂だと思っている。まるで降臨してやっているような態度で浅薄なパフォーマンスを繰り広げるという、なんともおぞましく残念な光景だったろう。~観客の反応は芳しくなく,すべっていたと~最も憂鬱なのが、このことに関して大手のメディアが批判的に伝えようとしていないことだ。

吉本興業が教育の分野に本格的に進出するそうである。先日安倍首相が中国を訪問した際、「エンタメ専門大学」を中国に立ち上げることを決めたらしい。吉本興業のこういう動きと呼応して、自分と自分の主張を宣伝する手段に利用するということはおぞましいことである。これも安倍首相の巧言令色の一つでしょうが、残念ながらすべって、かえって仁少なしを露呈したことのなります。

 

追記 2019年(平成31年)4月30日から、令和元年5月1日にかけて

今日の新聞のテレビ欄は元号が変わる特集ばかりです。

特にNHKは朝から年号の変わる0時にかけて、「ゆく時代,くる時代」と大みそか以上の騒ぎです。

フジテレビは今夜6時半から0時55分までのぶっ続けの特集番組、「平成の大晦日令和につなぐテレビ」です。

ちょっとNHKは公共放送なのに多すぎなのではないでしょうか。

ただ、大みそかは年に1回ですが、年号が変わるのは30年に1回とかですから,無理もないかもしれませんね。

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2019年4月16日 (火)

4月人間学例会での話 そのために大久保通りの店の変化を見に行く。 例会のレジメの概略

2019年4月19日の人間学研究所の例会で、「大久保・百人町の歴史 江戸から現在に至る変化を、歴史地図で見る」という話をするために準備をしていました。今回は人間学研究所、新教育的人間学研究会の150回と、実用的人間学研究会の120回の合同例会で、2019年度の最初の例会ということもあり、かなりちからをいれて準備をしました。

当日は1時間ほど、資料の説明をし、後の1時間を討議の時間としました。

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大久保百人町の歴史

1、江戸時代以前、旧東大久保は川の流れる窪地

 大きな窪地で大久保と名付けられる

 

真ん中の道が仲通りとよばれた大久保通り。左上は尾張藩の屋敷。下は百人町。

2、江戸時代

 百人町は鉄砲同心100人組の住む町ということでなづけられる

3、明治時代

 まだ畑が多い村 豊多摩郡大久保村

4,大正・昭和時代 

 関東大震災後移住者増

 前田侯爵や古川男爵ていなどのお屋敷もあり、庶民の家もある街

 多くの文人の住む街、同時に陸軍戸山学校、演習場があり、高級軍人が多数住む町でした

 戦災で焼け野原に

 

記憶をたどったわが町大久保の一部

明治40年ころ、筆者の曽祖父が大久保駅近くで桶屋を始める。

5、戦後の時代

 ロッテ工場、と韓国人の居住(オ―ルドタイマー)

6、東京オリンピック以後

 スラム街撤去、ホテル街へ

 

百人町東町会の図

7、多国籍の街へ

 ニューカマーの韓国人

 第1,2,3次韓流ブームと嫌韓デモとそれぞれの衰退時期

こういちの人間学ブログ 

 カテゴリー「大久保の街紹介」100ほどの中から年次ごとに重要なもの35ほどを列挙しました。

 2009年からブログを始めましたが、大久保の街を各街区ごとに回り紹介しました。

大久保・百人町の歴史地図 解説

 1、大久保村絵図 江戸時代末

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 2、江戸時代の大久保百人町「江戸東京重ね地図より」

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下の図の紫色で赤いツツジの花の印のところが百人町。草色のところが大久保。

 3、実測東京全図より 明治12年(1880年)

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 4,大日本職業別明細図 大久保町、淀橋町 大正14年 (1925年)

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 5、大正5年前後の大久保町の一部 書き直したもの

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 6、記憶をたどったわが町大久保 昭和10年前後 戸山小学校の卒業生が記憶をたどり作った地図

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 7、昭和37年(1962年)の5万分の1地図 新宿を中心として

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 8、百人町東町会の見取り図 昭和62年(1987年)

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 9、百人町、大久保エスニック地図 平成20年(2008年)

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 10、百人町、大久保の商店会の変化 2000年の地図から2012年の変化

 下図

 11、同上 2019年4月の状況

 下図

 

◎例会で配布した資料はお話の概略5ページと、添付した大久保の地図は11枚ですが、最後の地図4枚は「大久保通り百人町明るい会商店街」と、「新大久保商店会振興組合」の両方の地域が載っているために非常に便利です。2000年につくられたものですが、2011年12月と、2012年5月に、もうやめたお店は線引きして消してあります。さらに2019年段階ではどうなのかを、23日朝早めに出て大久保通りの小滝橋通りから明治通りを調査することにしました。

百人町明るい会商店街は新大久保駅から西側で小滝橋通りまでの範囲を言います。一方新大久保商店会振興組合は新大久保から東側のところで一部は百人町で、大部分は大久保です。明治通りまでの区域です。あくまでも地図に載っている店数の比較で名簿で調べたものではありません。2019年の調査では奥のほうの店ではまだ調べていない店があり、あくまでも参考にということです。また再度調査したら追記します。新大久保会商店街では25店のうち5店ほどは韓国の方の経営する商店です。

2011、2年の地図 下図2枚

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上部の地図が百人町明るい会商店会新大久保駅の左側(山手線の外側)

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下部の地図が大久保商店街の地図。明治通り側

2011,2年のころはまだカラーインクで塗りつぶしていない店(営業中)が多かった。

上部の地図が明るい会の大久保駅側から小滝橋通りへ向かう地区

下の図は大久保商店会で新大久保駅から点線までが百人町、その左側が大久保地区。

新大久保駅周辺は韓国の店に変わっている店が多かった。

 

2019年4月の地図 下図2枚 2019年修正版 

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2000年の時

百人町明るい会商店会の数   78店

新大久保商店会の数      105店

2012年の時

百人町明るい会商店会の数   41店

新大久保商店街        33店

2019年4月の時

百人町明るい会商店会の数   17店  未調査7店

新大久保商店街        25店  未調査2店

◎2012年の時には減少した店は新大久保駅周辺が主でしたが、2019年には明治通りや小滝橋通りの周辺の店でも減少しています。

減少した分、韓国系の店が置き換わっています。また韓国系だけでなく、ベトナムやネパールのお店特にビルの2階以上にも入っています。

2019年の新大久保駅周辺の地図

新大久保商店街のうちの百人町部分です。25店のうち残存する店は地図では〇で囲ってあります。

パリ-ミキ、盛好堂書店、円満屋熱帯魚、内藤シューズ、山本米店、サカエカメラの6店です。

大久保部分の店残存する店

ひらまつ青果、焼肉美苑、東京風月堂、万年湯、大丸設備、東京電建、美容室parco,フローリストしのざき、鳥重、新宿日曜大工センター、動物ショップZOO、島村印店(商店会長)、焼き肉中央苑、小倉屋酒店、とんかつかつ味、山手クリーニング,アライ手芸店,市沢自転車商会、柳沢陶器店、19店

不明  味むら。酒どころ司

このなかで、すでに商店会を抜けた店があるかもしれません。また、このほかに新たに商店会に入った店があると思います。

◎地図や資料はまだたくさんありますが、ほんの一部だけを紹介しました。ブログではさらにその1部だけを紹介しました。

 

 

2019年4月11日 (木)

フィリピン・ルソン島で第5のルソン原人・5万~7万年前の化石が発見されたと報道されました

2019年4月11日の新聞各紙やインタ―ネットに、アジア第5の原人がフィリピンのルソン島で発見されたという記事が報道されました。

日経新聞の記事から アジア第5の原人 5万年以上前の化石

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赤旗の記事から 比で新種人類化石 5万~7万年前

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時事通信の記事から 5万年以上前の人類、新種=フィリピン・ルソン島で化石発見

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上はカヤオ洞窟、下はカヤオ洞窟で見つかった新種人類の歯

記事の内容をまとめてみますと、

フィリピンのルソン島北部にあるカラオ洞窟で5万~6万7000前ごろに生きていた新種の人類の化石が見つかったと、フランス国立自然史博物館やフィリピン大などの国際研究チームが4月10日付の英科学誌『ネイチャー電子版』に発表しました。2007年に人類の足の指の骨の化石が見つかってから発掘調査が続けられ、これまでに歯や手と足の指、太ももの骨の化石が見つかっています。

研究グループがこれらの歯や骨の化石の形態を調べ、現生人類やさまざまな原人や猿人のものと比較してヒト(ホモ)属と確認しました。しかし,小臼歯と臼歯の大きさや形、手足の指の形状から、現生人類やジャワ原人、フローレス原人とは異なる新種と判断、ルソンの人を意味する「ホモ・ルゾネンシス」と名付けました。 

インドネシアのフローレス島に生存していたフローレス原人は2003年以降に発見されてから、「ホモ・フロシエンス」と名付けられ、10万年前から6万年前(5万年前とも)に生存していたとみられます。

同じころ東南アジアにはジャワ原人やフローレス原人がおり、現生人類(ホモサピエンス)もいたという報告があります。ルソン島北部では約70万年前とみられる石器も見つかっているが、ルゾネンシスとの関係は不明。

国立科学博物館の海部陽介人類史研究グループ長は「現生人類のように進歩的な面と、チンパンジーなどにみられる原始的な面が混じっている。ルソン原人と呼んでいいと思う。アジアに多様な人類がいたことが示された 新化石の形態は奇妙で、現時点で進化上の由来としているのは妥当な結論と思う」と話している。(日経・時事通信)

札幌医大の松村博文教授(形質人類学)の話(日経新聞)(猿人に近い印象)

足の指の骨が大きくカーブしており百万年前に生息していた猿人のアウストラロピテクスに近い印象だ。現生人類と同じホモ属の新種だが、研究チームは名称を付けるのに悩んだのではないか。化石はこの種が約6万年前と比較的最近までルソン島に生息していたことを示している。これまでは化石の数が少なく、新種かどうかで論争があったが、追加の化石が見つかったことで決着がついた。

カナダ・レイクヘッド大学のマシューシェリ博士はネイチャーに(今回の発表は、今後東南アジア人類に関する議論に)火をつけるだろう」とコメントしています。(赤旗)

◎筆者の感想

日経新聞のいうアジア第5の原人、というのが今度の5万~7万年前のルソン人のほかに、どの人類を言っているのかがわかりません。北京原人(68~78万年前)などに続き5種類目、といっています。あとはジャワ原人(170~180万年前)とフローレス原人(12000年前まで)らしいのですが・・・。 あと一つは何でしょうか。

4つ目の原人とは海部氏によれば、台湾で見つかった膨湖人のようです。インターネットによれば、やはり19万年前から1万年の膨湖人のようです。

ただ、南中国の赤鹿人でしょうか、日本での明石原人でしょうか。原人ではないのですが、デニソワ人(4万年前)もいます。いずれにしても、いろいろな人類がいて、これからも未知な人類が発見されることでしょう。

「こういちの人間学ブログ」2015年1月

1、台湾にアジア第4の原人(膨湖人)、2、ピケティ~

 

2019年4月 7日 (日)

大久保の由来,大窪から。旧東大久保の低地の状況を見る。江戸時代には川が流れ砂利をとる砂利場があった。

2019年4月6日(土)に、大久保の地名のもとになる東大久保(現在新宿6、7丁目)の窪地の状態を写真を撮りに行きました。

東大久保は大久保通りと職安通りとで南北を仕切られ,東西は明治通りと若松町、余丁町、富久町などの高台と仕切られた窪地のところです。江戸時代は東大久保村で、明治以後は大久保地域の一部として東大久保と呼ばれました。その後、新宿6,7丁目と名前を変えました。

旧東大久保周辺の地図です。上の緑色は都立戸山公園です。真ん中に明治通り。職安通りを挟んで上が新宿7丁目(旧東大久保1丁目)、新宿6丁目(旧東大久保2丁目)です。下図

◎昭和7年(1932年)東京市と呼んでいた時には、今の新宿区は淀橋区、戸塚区,四谷区、牛込区に分かれていました。淀橋区は大久保町、戸塚町、落合町、淀橋町でした。この時の大久保町は現在の百人町、西大久保、東大久保(新宿5,6,7丁目)、歌舞伎町、戸山町まで、ふくんでいました。1978年(昭和53年)住居表示の変更があり東大久保は新宿~丁目とかわりました。百人町、大久保地区も中新宿と変える案もありましたが、大久保、百人町の名前を残そうということで変更なしになりました。ちなみに西隣の柏木地区は西新宿と名前を変えました。

◎街の様子については、インターネットで「東京Deep案内」

「そこ新宿区新宿って言っちゃいます?旧東大久保新宿7丁目の昭和の昭和街並み」をご覧ください。確かに下町的な古い町並みが残っています。しかし外国人の住民の比率が高まっています。

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新宿区の防災マップです。やや濃い部分は高台の部分です。薄いところは低地です。右側帯状に色の薄いところがあります。この先に花園神社があり、そこの池を水源として蟹川蟹という神田川の支流が流れ、旧新宿7丁目には川砂利をとる砂利場がありました。そこから戸山の尾張屋敷の池につながり、神田川までつながっていました。赤いところは擁壁や崖などがあり危険地帯です。

蟹川の水源は西武新宿駅あたりといわれ歌舞伎町内にはかっての流路と思われる湾曲した水路が残っている。蟹川は,西向き天神社の崖下を流れ、現在戸山公園となっているあたりで北東に流れを変え、穴八幡の崖下をかすめ八幡、かっての豊かな水源地帯だった早稲田を潤し、江戸川橋周辺で神田川に合流していた。(東京スリバチ地形散歩より)

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大久保通りから旧東大久保(右側)と左側の戸山2丁目に分かれる坂道。ここは盛り土をして極端な坂にならないようにしました。

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上の写真を撮ったところから右を見ると坂が2つあります。ひとつはこの写真の左がわの急な明治道路に沿った坂道です。。もう一つはややなだらかな坂です

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大久保通りから旧東大久保への坂の入口左に、大久保通りに沿った急坂。これも椎の木坂といいます。

右がややなだらかな坂があります。

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先ほどの坂を下りたところです。この壁は大久保通りとの段差の壁です。塀の上は大久保通りです。

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坂を下り切ってまた明治通りに向かう坂、椎の木坂です。説明文には、「かって尾張藩戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)のうちに椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎の木坂の名がついた。また、古くはこの辺りが砂利場で、東西に上る2つの坂があったことから向坂とも呼ばれた。(新選東京名所図絵)

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椎の木坂 左は大久保通りの壁。大久保通りへの上り坂。

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四つ角のところ。いかにもレトロな感じの店です。

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その向かいのカレー屋さん。インドレストラン。

職安通りの坂の上から見たところ。右側に急な坂道があります。

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右の急な坂道は久左衛門坂。すぐ近くに階段の梯子坂もあります。何れも急坂です。左の坂は抜け弁天坂といわれていたらしいです。いずれにしても自転車で上がるには大変な坂でした。真ん中に見える青っぽいビルはイーストサイドスクエア。

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梯子坂です。

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税務署通りの抜け弁天に向かうところの立体交差。この先が新宿6丁目、手前が新宿7丁目。この通りに沿って以前は都電が通っていました。

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東大久保からの坂を上り切ったところにある小さい厳島神社・弁天様ー抜け弁天といいます。職安通りからつづくこの道は抜け弁通りといいます。

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抜け弁天のすぐそばにある、浄土真宗泉福寺。筆者の家の菩提寺です。月岡芳年の墓があります。近くには多くの寺があります。専念寺、法善寺,大聖院、西光庵、永福寺永などです。

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立体交差の先の新宿6丁目の西向き天神の鳥居と社殿。

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西向き天神。階段がありここが低地だとわかります。昔は大窪神社とも呼ばれていたとか。

 

右に西向き天神の隣の新宿中学校。合併前の名は大久保中学校と、筆者の卒業した学校でした。左には天神小学校。

大久保中学校はこの写真で写したところは低く、次第に階段で高くなります、筆者が中学生のころにはまわりに高い建物がなく、学校から新宿の伊勢丹や、三越がよく見えました。筆者は図工の時間にそれを絵にかいたので、鮮明に覚えています。当時の大久保中学校は進学校でわがクラスから4名が戸山高校に行きました。

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大久保通りから戸山ハイツ地区を左に見る。左に東戸山小学校。左に見えるマンションの後ろは箱根山。人工の山で、山手線の中では最も高いところです。道路の下は低地となっています。以前は道路で仕切られていませんでした。

道路の先には左に国立国際医療センター(昔は陸軍病院)、右に総務省統計局があります。

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大久保通りから新宿7丁目ー東大久保方面を見る。奥の高層ビルは、2015年にできた富久町のクロスコンフォートビル55階建てです。

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向こう側の新宿7丁目には道路と同じ高さのまだ古い木造2階建ての店や住居が残っています。右側には銭湯の煙突が見えます。

2021年4月24日 金沢浴場へ行ってみました。

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東京医科大学も新宿6丁目で,(旧東大久保2丁目)です。

2019年6月22日(土)追記

「東京『スリバチ』地形散歩」皆川典久著 洋泉社2012年2月発行 2200円+税 を息子夫婦からプレゼントに頂きました。旧東大久保の地がくわしく載っていますので、追記しました。

10番目に「偉大なる窪み、大久保」として、紹介されています。

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大久保通りで分割されている。大久保通りの南側は蟹川の流れにより、大久保の窪地と、歌舞伎町(旧大久保)の窪地ができています。

大久保通りの北側も蟹川の流れによる低地で、元の尾張藩の屋敷で広大な庭園が造られ人工の山、箱根山が作られました。戸山ハイツが戦後つくられました。

大久保通りあたりを川が流れ(秣川)諏訪神社方面に流れていた。川の周りには水田が作られた。この川の流れによりかなりの窪地が作られた。そして神田川の注いでいました。

筆者の父は大久保通りに昔橋がありあとで橋はなくなったが、橋の欄干は残っていた、と話していました。

 

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