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2019年4月 7日 (日)

大久保の由来,大窪から。旧東大久保の低地の状況を見る。江戸時代には川が流れ砂利をとる砂利場があった。

2019年4月6日(土)に、大久保の地名のもとになる東大久保(現在新宿6、7丁目)の窪地の状態を写真を撮りに行きました。

東大久保は大久保通りと職安通りとで南北を仕切られ,東西は明治通りと若松町、余丁町、富久町などの高台と仕切られた窪地のところです。江戸時代は東大久保村で、明治以後は大久保地域の一部として東大久保と呼ばれました。その後、新宿6,7丁目と名前を変えました。

旧東大久保周辺の地図です。上の緑色は都立戸山公園です。真ん中に明治通り。職安通りを挟んで上が新宿7丁目(旧東大久保1丁目)、新宿6丁目(旧東大久保2丁目)です。下図

◎昭和7年(1932年)東京市と呼んでいた時には、今の新宿区は淀橋区、戸塚区,四谷区、牛込区に分かれていました。淀橋区は大久保町、戸塚町、落合町、淀橋町でした。この時の大久保町は現在の百人町、西大久保、東大久保(新宿5,6,7丁目)、歌舞伎町、戸山町まで、ふくんでいました。1978年(昭和53年)住居表示の変更があり東大久保は新宿~丁目とかわりました。百人町、大久保地区も中新宿と変える案もありましたが、大久保、百人町の名前を残そうということで変更なしになりました。ちなみに西隣の柏木地区は西新宿と名前を変えました。

◎街の様子については、インターネットで「東京Deep案内」

「そこ新宿区新宿って言っちゃいます?旧東大久保新宿7丁目の昭和の昭和街並み」をご覧ください。確かに下町的な古い町並みが残っています。しかし外国人の住民の比率が高まっています。

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新宿区の防災マップです。やや濃い部分は高台の部分です。薄いところは低地です。右側帯状に色の薄いところがあります。この先に花園神社があり、そこの池を水源として蟹川蟹という神田川の支流が流れ、旧新宿7丁目には川砂利をとる砂利場がありました。そこから戸山の尾張屋敷の池につながり、神田川までつながっていました。赤いところは擁壁や崖などがあり危険地帯です。

蟹川の水源は西武新宿駅あたりといわれ歌舞伎町内にはかっての流路と思われる湾曲した水路が残っている。蟹川は,西向き天神社の崖下を流れ、現在戸山公園となっているあたりで北東に流れを変え、穴八幡の崖下をかすめ八幡、かっての豊かな水源地帯だった早稲田を潤し、江戸川橋周辺で神田川に合流していた。(東京スリバチ地形散歩より)

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大久保通りから旧東大久保(右側)と左側の戸山2丁目に分かれる坂道。ここは盛り土をして極端な坂にならないようにしました。

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上の写真を撮ったところから右を見ると坂が2つあります。ひとつはこの写真の左がわの急な明治道路に沿った坂道です。。もう一つはややなだらかな坂です

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大久保通りから旧東大久保への坂の入口左に、大久保通りに沿った急坂。これも椎の木坂といいます。

右がややなだらかな坂があります。

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先ほどの坂を下りたところです。この壁は大久保通りとの段差の壁です。塀の上は大久保通りです。

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坂を下り切ってまた明治通りに向かう坂、椎の木坂です。説明文には、「かって尾張藩戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)のうちに椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎の木坂の名がついた。また、古くはこの辺りが砂利場で、東西に上る2つの坂があったことから向坂とも呼ばれた。(新選東京名所図絵)

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椎の木坂 左は大久保通りの壁。大久保通りへの上り坂。

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四つ角のところ。いかにもレトロな感じの店です。

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その向かいのカレー屋さん。インドレストラン。

職安通りの坂の上から見たところ。右側に急な坂道があります。

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右の急な坂道は久左衛門坂。すぐ近くに階段の梯子坂もあります。何れも急坂です。左の坂は抜け弁天坂といわれていたらしいです。いずれにしても自転車で上がるには大変な坂でした。真ん中に見える青っぽいビルはイーストサイドスクエア。

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梯子坂です。

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税務署通りの抜け弁天に向かうところの立体交差。この先が新宿6丁目、手前が新宿7丁目。この通りに沿って以前は都電が通っていました。

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東大久保からの坂を上り切ったところにある小さい厳島神社・弁天様ー抜け弁天といいます。職安通りからつづくこの道は抜け弁通りといいます。

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抜け弁天のすぐそばにある、浄土真宗泉福寺。筆者の家の菩提寺です。月岡芳年の墓があります。近くには多くの寺があります。専念寺、法善寺,大聖院、西光庵、永福寺永などです。

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立体交差の先の新宿6丁目の西向き天神の鳥居と社殿。

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西向き天神。階段がありここが低地だとわかります。昔は大窪神社とも呼ばれていたとか。

 

右に西向き天神の隣の新宿中学校。合併前の名は大久保中学校と、筆者の卒業した学校でした。左には天神小学校。

大久保中学校はこの写真で写したところは低く、次第に階段で高くなります、筆者が中学生のころにはまわりに高い建物がなく、学校から新宿の伊勢丹や、三越がよく見えました。筆者は図工の時間にそれを絵にかいたので、鮮明に覚えています。当時の大久保中学校は進学校でわがクラスから4名が戸山高校に行きました。

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大久保通りから戸山ハイツ地区を左に見る。左に東戸山小学校。左に見えるマンションの後ろは箱根山。人工の山で、山手線の中では最も高いところです。道路の下は低地となっています。以前は道路で仕切られていませんでした。

道路の先には左に国立国際医療センター(昔は陸軍病院)、右に総務省統計局があります。

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大久保通りから新宿7丁目ー東大久保方面を見る。奥の高層ビルは、2015年にできた富久町のクロスコンフォートビル55階建てです。

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向こう側の新宿7丁目には道路と同じ高さのまだ古い木造2階建ての店や住居が残っています。右側には銭湯の煙突が見えます。

東京医科大学も新宿6丁目で,(旧東大久保2丁目)です。

2019年6月22日(土)追記

「東京『スリバチ』地形散歩」皆川典久著 洋泉社2012年2月発行 2200円+税 を息子夫婦からプレゼントに頂きました。旧東大久保の地がくわしく載っていますので、追記しました。

10番目に「偉大なる窪み、大久保」として、紹介されています。

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大久保通りで分割されている。大久保通りの南側は蟹川の流れにより、大久保の窪地と、歌舞伎町(旧大久保)の窪地ができています。

大久保通りの北側も蟹川の流れによる低地で、元の尾張藩の屋敷で広大な庭園が造られ人工の山、箱根山が作られました。戸山ハイツが戦後つくられました。

大久保通りあたりを川が流れ(秣川)諏訪神社方面に流れていた。川の周りには水田が作られた。この川の流れによりかなりの窪地が作られた。そして神田川の注いでいました。

筆者の父は大久保通りに昔橋がありあとで橋はなくなったが、橋の欄干は残っていた、と話していました。

 

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コメント

近所の諸々が載っていて面白かったです。
子供時分 佐竹さんには風呂桶でお世話になってました。
お目にかかって色々お話し伺いたいです。

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