小原秀雄氏が94歳で逝去されました。私が学生時代に自宅を訪問したのが今の人間学研究所、総合人間学会の始まりです。
すでに小原秀雄氏が逝去されていたというのは、人間学研究所の所長、岩田氏から聞いておりました。2022年5月10日に5月7日付の娘さんの小原由美子氏から4月21日に小原秀雄氏が逝去されたと手紙が届きました。
手紙の中の自画像
すこし猫背のところ、少し腰が曲がっているとこなどはうまく特徴をとらえています。身長は180センチぐらいあったと思います。
アフリカの野生動物たちの人形
アフリカのタンザニアにはずっと前には毎年のように行っていて、タンザニアにはセスナ機をプレゼントしています。タンザ二アには毎年ファーストクラスで行っていました。ちなみに私はエコノミークラス以外のったことはありません。妻が以前行っていた絵のグループに元のタンザニア大使だった人がいて、小原氏のことはよく知っているとそういったです。
2003年5月 総合人間学研究会の初夏のシンポジウムで発言される小原秀雄氏
総合人間学会になる前には、ブログ筆者が総合人間学研究会の事務局長でした。
このころはとても楽しい時期でした。
『人間どう視るか 自己家畜化論』
小原秀雄、岩城正夫氏
2022年5月14日の夜11時から「ヒューマニエンス 家畜それは遺伝子の共進化」という番組の再放送がありました。
その番組の中でこの本が紹介されていました。
下記の資料 これは2012年6月に作った『人間学研究会のあゆみ』です。この文章は人間学研究所通信30号〈2006年5月)から37号〈2008年4月)に書いた『人間学研究会のあゆみ』を32ページのファイルにまとめたものです。
佐竹は自分の思想基盤を作るために多くの本を乱読しました。その結果、弁証法的唯物論に立脚することと自然科学と人文社会科学にまたがる人間学が必要であると確信しました。
1963年12月には佐竹は関東生物科学生懇談会〈生懇)の分科会として「人間学」を作りました。これは民科の生物学部会の流れをくむものでした。そして東京教育大の学生控室で例会を始めました。都立大、早稲田大学、御茶大、日本女子大などの学生が集まりました。
小原秀雄氏との出会いについては、小原氏の「動物版人間の条件」という本の終わりの方で、『人間学』の必要性について書かれていて、それを読んだ佐竹が、ぜひお会いしたいと小原氏に手紙を出し、1965年6月7日に小原氏の江古田の自宅を訪問した時から始まります。この時の情景については詳しく書きました。その時は話が弾み、夕飯までご馳走になりました。そして人間学研究会に入っていただき会長にもなっていただきました。この会はながくはつづきませんでしたが、1969年に教育学者の柴田義松氏が女子栄養大学に招聘され、さらに動物学の小原秀雄氏、原始技術史の岩城正夫氏とで,ユニークなグループができました。
1985年3月15日に第2次人間学研究会がスタートしました。この会は2年と少しで中止しました。
1991年第2サタケビルの建設とともにその2階を人間学研究所準備室としました。地下1階もあり小さいが、かなりお金をかけたビルでした。
1999年4月 人間学研究所となる 小原氏は人間学研究所では名誉所長でした。
2002年11月 総合人間学研究会ができる 場所は第2サタケビルです
2006年5月 「総合人間学会』が設立されました。はじめ事務局は第2サタケビルでしたが、後で明治大学に変わりました。
小林氏は初代会長、小原氏は2代目の会長でした。3代目は柴田氏のはずでしたが3代目にはなりませんでした。
2006年発行の『シリーズ 総合人間学』が発行されました。
編集責任者は 1巻は小林直樹氏、2巻は小原秀雄氏、3巻は柴田義松氏でした、ブログ筆者は1巻には人間学概論的なものと3 巻には資 料集的なものを書きました。出版社の学文社の初めの宣伝文書には、私の論文がのっていました。ところが3巻の校正依頼が来ているのに1巻が来ません。出版社に尋ねたら小林氏の依頼で没にされたこと、小林氏に尋ねたら親戚の不幸があり、論文を校正できなかったというのです。小林氏の信奉する、マックス・シェーラーを批判的に書いたのが気に入らなかったようです。小原氏もボツにすることを承諾した次第です。事情を知る、その時の岩田先生も、私が理事。運営委員をやめるときに、仕方がないと言ってくれました。小原氏は日ごろから小林直樹氏をあの東大法学部長だからねと、1目おいていましたから、逆らえなかったのでしょう。それ以後わたしは総合人間学会にも行かなくなり、小原氏とも気まづくなりました。
その後、依頼があり、2012年5月の第7回総合人間学会、研究大会に佐竹「人間学研究会、人間学研究所の歴史と実用的人間学」というテーマで発表しました。2つの分科会に分かれていましたが、私の時だけ全部の人たちが集まりました。その時に人間学研究所に数名が入り「人間学研究所年誌」も10冊全部売れました。その時私は学会の監事となったのですが、単なるお飾り監事でなく理事会にもだしてくれれば言ったのですが、その後一度もおよびもなく、最後にしっかり監査の仕事をして1期でやめました。またその後人間学会に「人間学ブーム」について書いて提出した論文も、査読で「人間学ブーム」なんて聞いたこともないと言って却下されました。人間学名の図書数は国立国会図書館で毎年調べて書いているのですが、それを見ればブームの時の図書数はおのずとわかります。なんだかんだで、その後総合人間学会もやめました。
その後
小原秀雄氏とは女子栄養大学の卒業生と一緒に小原氏のお見舞いで行ったときにわだかまりは解けて、とてもよかったなと思いました。またお亡くなりになる直前まで年賀状のやり取りは続いていました。私も車いす生活で、お会いしにくかったのですが、1度はまたお会いしたかったです。
小原秀雄氏のお父さんは雪の八甲田山の遭難事件の生き残りだと聞いております。はじめお父さんは100歳以上と聞いていて、私は、小原さんも100歳以上まで生きますよと以前言っていました。調べますとお父さんは小原忠三郎伍長で91歳まで生きていました。当時としては長生きです。お父さんの年は超えましたが、残念ながら100歳は超えませんでした。
小原秀雄氏のご冥福をお祈りします。
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