人間学研究会から。人間学研究所、実用的人間学研究会への。略史と資料,その1『人間学研究会』時代 1963年から1987年
はじめに
2023年末か2024年初めに、発行される予定の.『人間って何ですか』-人間学研究会60周年記念エッセイ集 工作舎 発行、にも簡単に人間学研究会から、人間学研究所や実用的人間学研究会に至る、歴史が述べられておりますが、本にはわずか2ページと、きわめて簡単にしか、述べられていません。もう少し詳しく書いておけばよかったと、今,思っています。
2000年12月1日に発行された『人間学研究所年誌』NO1~No19(2022年3月10日発行)については,今度発行される本に、各年次の記事の内容が全て書かれています。しかし、同時に発行されていた『人間学研究所通信』は1999年6月に第1号が発行されたあと、2021年10月7日に、91号も発行されておりますが、今度出版される本にはただ、1号から91号までが発行されたとしか、書きませんでした。これも、もう少し詳しく書けばよかったと思っています、
人間学研究所通信は、表題を”HUMANOLOGY”としています。HUMANOLOGYは、1999年にはまだ英語としては、確立したことばではありません。1999年に当研究所が使い始めた時には、インターネットでの言葉の検索でも、ほんの少ししかありませんでしたが、今では日本でも、かなり使われるようになってきました。
「実用的人間学研究会」については、検索語では、niftyでもyahooでもトップです。わたしが言い出して、使っているので当然です。ちゃんと検索語に載るようになっています。
1,「人間学研究会」学生時代 (前期 佐竹幸一 東京教育大学生時代)
佐竹幸一は東京教育大学の生物学科動物学専攻に入りました。卒業した高校は都立戸山高校でした。当時の戸山高校は有名な進学校でした。私が卒業した1960年ころの戸山高校では東大に合格したものが120名くらいで第2位、1位は日比谷高校で140名から170名位でした。当時の戸山高校では東大を目指すのが当たり前で、現役で東大に入るものは少なく、多くは浪人して入りました。私も戸山高校での模擬テストの成績は平均して120番くらい。浪人して東大を目指すグループでした。2年生の時に、車の運転免許を取りに行ったりして、勉強に専念しませんでした。現役で東大に入れないものは、戸山高校の先生が特別に進学指導する,卒校生となりました。私も東大めざし1年目は受験したのは東大のみでした。浪人時代は勉強に専念しました。先生も受験で有名な佐藤忠先生などがいたのです。卒校終了後、どうしようかと思いましたが、家では浪人は1年までにしてくれと言われ、東京教育大学に変更しました。東京教育大学だったら現役で入れたのです。前年の入試をやってみて、合格点が取れていました。英語の試験では、どう見ても満点なので、早く試験場を出てしまいました。そして、、卒校生の時にしっかり勉強していた効果で、かなりいろいろな面で、余裕ができ、積極的になりました。小、中学生の頃までは背も低く、痩せて地味な生徒でした。それが高校生から大学生の時に急に背が伸びていきました。その後の中学のクラス会でも1番背が高くなっていました。
東京教育大学時代,かなり本代を親からもらっていたので、いろいろな本を買いあさりました。当時あった民科の学生組織、関東生物科学生懇談会(生懇)の中では、わが教育大の動物科の学生が主導権を持っていました。3年となると当時の主要な分科会は、同じ動物科の近藤晃君が、「科学方法論」の分科会の責任者、もう一つが私の『人間学』分科会でした。そして1年下の浅島君が「分子生物学」の分科会の責任者でした。人間学の分科会のメンバーには、藤沢弘介君、角田君、岡松 哲君などが参加していました。近藤君はその後、東京都老人研究所の主任研究員から大学教授に、藤沢君も東大の大学院から埼玉大の教授に、浅島君は東大の大学院から東大教授でノーベル賞候補にもなっています。わがクラスには広瀬君が東大の大学院から、三島の遺伝学研究所の主任教授、他にも横山君が大学の教員になっています。高校の校長には和田武久君、牧野君の二人、都立高校の教員から唐沢孝一君は都市鳥研究会をつくり、著作は大学在学当時から始まり、出版した本も100冊を超えています。
当時の人間学研究会の手書きの会議記録には教育大の動物科6人、心理学2人、体育科1人、お茶の水大3人、日本女子大3人早稲田大一人;16人での発言をした人の名前が記録されています。
「関東生物科学生懇談会」時代 「人間学分科会」
当時、民主主義科学者協議会(略して民科)があり、科学の民主主義的発展のための取り組みがあって、それぞれの部会がありました。その中で、生物学者は生物学部会を作っていました。『人間学分科会』を東京教育大在学中、佐竹幸一が、関東生物科学生懇談会の分科会(略して生懇)の一つとしてつくる (参考資料『人間学研究所年誌2000』2000年12月1日発行より)
資料
1963年(昭和38年)12月に人間学研究会例会、第13回より、手書きの資料で記載始まる。会場は、初め、東京教育大学動物科控室にて 例会以後52回
記録 1963年から1965年
1965年 6月25日 第1次人間学研究会 第10回例会 小原秀雄氏講演 参加者25名
佐竹の大学卒業により、人間学研究会は民間の研究会となる
会場は佐竹の自宅ないしは、佐竹の勤務先、エネスタ百人町の会議室で
◎ 1964年(大学4年生) 佐竹 生懇の代表となる
生懇の代表は任期半年でした。佐竹が代表となる前は、同じ教育大学の近藤晃氏が代表でした。佐竹の卒業後はお茶大の大沢多佳子さんが代表でした。大沢さん人間学研究会のメンバーです。その後は、教育大の1期下の浅島氏が代表でした。教育大の人間学研究会の有力メンバーである藤沢氏はよく努力して東大の大学院に入りました。同時に広瀬 進氏も、東大の大学院に入り、後日三島の遺伝研の教授となりました。浅島氏は分子生物学の分科会を始め、藤沢氏は浅島ガリ版づりのもので氏の東大の大学院の進学に力添えをしたそうです。
その後は生懇の主要メンバーである、早稲田大学の生物科の学生、 君で同期の3人は、小原秀雄氏が女子栄養大学の教授に、になっていたの助手になり、3人とも教授となりました。その一人は小原氏の後を継ぎ女子栄養大の教授となりました。又、高島君は当時女子栄養大学で助教授となっていた岩城先生の下で古代発火法について研究を進め、後日北海道教育大学の教授となりました。
日本女子大の学生である青野佳子さんは日本女子大に人間学研究会のグループを作りまた。彼女は後日、佐竹の妻となりました。
2,第1次人間学研究会時代(小原秀雄氏と佐竹幸一・大学卒業後)(人間学研究所年誌2000p76より)
1965年4月16日 「人間学研究会」 第1回例会
佐竹をはじめとして多くのメンバーの大学卒業とともに、生懇から独立した会としての人間学研究会が設立されました
小原秀雄氏 会長 佐竹幸一 事務局長 会員20名 連絡する人10名
第1回例会での小原氏の講演はテープに記録していたが、紛失してしまった。
又例会の記録は全てテープに取っていたが、紛失してしまっ た。人間学ニュースはガリ版づりのもので17号、発行。
1967年には11名が参加し合宿が行われた。山中湖 東京ガスサービス店協会の保養所にて。
例会は月2回のペースで42回開催された。(記録あり)
1966年12月には、一部の人間で、人間論研究会を作り、唯物論的な人間論の勉強を始める。
早稲田大学の生物学科のメンバーが生懇の主力となり、卒業後は平田君と高島君、奥崎君は女子栄養大の、小原先生の元、助手となりまし
た。平田君は女子栄養大学の教授。高島君は北海道教育大学教授、奥崎君は大学名はわかりませんが、それぞれ各大学で教授となりまし
た。
1967年5月 会員の中で意見の相違があり、人間学研究会は解散した。人間論研究会は1970年9月まで継続した。
◎ 1966年6月25日 第10回例会 小原秀雄氏講演 資料あり 参加者 25名
◎その後1970年代 女子栄養大学、香川学長の方針のもとに、柴田義松氏(東大大学院教育学部卒)が招聘された。
そして柴田氏は哺乳類学者の小原秀雄氏、原始技術史の岩城正夫氏を、メンバーに加え、ユニークな『人間学』のコースが作られた。
この中で、佐竹に声がかかり、人間学研究会〈第2次〉の設立に至りました。
3,第2次人間学研究会時代 に続く 1985年5月成立
1985年3月15日 学士会館にて 人間学研究会をどうするか
小原秀雄、岩城正夫、柴田義松、佐竹幸一、野本雅央
打ち合わせ 岩城氏が文書の用意
「人間学研究会設立の宣言」 1985年4月15日
小原秀雄、岩城正夫、柴田義松、 佐竹幸一
人間学研究会 第2次 1985年~1987年
人間学研究会 第2次 『人間学ニュース』のファイル(上)
第1回例会 5月13日 佐竹ビル2階 参加者15名
内容は『人間学ニュース』No.1 (第1号のみ、手書きのニュース)
「人間学ニュース」 1周年記念号 No,13 1986年5月号
巻頭「民衆のアカデミズムとしての人間学」 小原秀雄
「人間学ニュース」 6月号 最終巻 No,25 1987年
巻頭 小原秀雄 人間学研究会解散宣言
例会『ヒトに成る』の学習会 6回
「人間学公開シンポジューム」1986年1月12日 東京大学教育学部
『なぜ今人間学か―新しい人間像のために』 参加91名 教室いっぱいの盛況
あらたに22名が会員に
当時 柴田義松氏は、東京大学 教育学部長
1986年10月「公開連続セミナー」全10回
『人間とは何か』-新しい人間像のために
講師小原秀雄氏 会場 労音会館 会費10回 2万円
第1回 参加者 35名
「人間学研究会の解散」 人間学ニュース25号
1987年6月号 最終号
小原秀雄氏 人間学を目指すところを 「民衆のアカデミズム」
岩城正夫氏 「日常的思想としての人間学」
参考 「人間」って何ですか」
野本雅央氏『小原人間学の陰の立役者-佐竹幸一さん』
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