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2024年3月18日 (月)

労災の壁と戦う過労死専門 旅する弁護士 松丸正さん。3月17日の毎日新聞1面トップに。

 2024年3月17日(日)の毎日新聞1面トップと3面トップに”迫る”という、特集記事が載っていました。記事は「過労死遺族に寄り添う」で、「労災と戦う弁護士」として、松丸正さんのことが載っていました。ブログ筆者はずっと、毎日新聞を取っていましたから、朝、新聞を見るなり、昔、新宿の大久保地区に住んでいた松丸君と気が付きました。

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 新聞の冒頭に「過労死」という言葉はまだなかった時代に弁護士として歩み始めた。働きすぎで命が失われていく社会を変えよう―その闘いは半世紀近い年月を重ねた。~2023年12月25日、弁護士の松丸正さん(77)は、JR新大阪駅のホームに立っていた。~翌日甲府地裁で開かれる過労自殺の裁判に向かう。~過労自殺した甲府市職員の両親の代理人として口頭弁論に挑んだ。~この裁判が終わるとすぐ別の裁判に入った。

 過労死、過労自殺の専門弁護士として知られ、全国から相談が寄せられる。相談には自ら会いに行く。旅する弁護士と―冗談めかして自信をこう呼ぶ。

 記録に残る02年以降だけで約500件の案件に関わってきたが、一般に数十万円という着手金を1度も受け取ったことがない。~このために交通費や宿泊代は自腹となり、裁判に勝つなどしないと報酬を受け取れない。~高校教師だった妻と2人の子を育て上げた。~スマホには次々に着信が入る。同行した記者は、なぜ他人のために、こんなにも、一生懸命になれるのだろうか、原点はどこにあるのだろうかー。

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 実家は東京都新宿区の米屋だ。高校2年の時に、父親が配達中の事故で他界した。4人兄弟の長男だったこともあり「将来は店を継ぐのだろう」と漠然と考えていた。1965年に東京大学経済学部進学後、家業を手伝うようになった。高度経済成長期で、地方から東京へ集団就職に来る若者が「金の卵」と呼ばれた時代。

 近くの商店で働く若者を誘い、歌声喫茶に行った。その中にいた16,7歳くらいの少女が今でも記憶に残っている。フォークダンスで手を握った時、あかぎれがひどいことに気付いた。理由を尋ねると「漬物やで朝早くから働き、寒い中、たるをかき混ぜているから」と教えてくれた。

 大学を卒業するころ、米やは弟がつぐことになり、将来を考える必要に迫られた。司法試験の本を目にして、「1年間挑戦する」と母親に言って、勉強を始めた。~何のため、誰のために司法試験を受けるのか―目に浮かんだのはあかぎれの手をした少女。「あのこのような労働者の役に立ちたい」司法試験に1発で合格した。~73年に弁護士になる。しかし待っていたのは「ラクダが針の穴を通るのよりも難しい」と例えられた過労死労災認定の壁だった。

◎この松丸さんは、私と妻が所属する同じ若者のグループにいましたから、よくわかるのです。私と妻は大学の生物学科の組織、関東生物科学生懇談会というグループで一緒で、その後、結婚しました。そしてガスぶろの製造・販売と、東京ガスの委託店の始まるころに家業の店に入りました。そして松丸さんなどと一緒の若者グループに入ったのです。その当時の中小商店や会社で働く人地方から出てきて働くの生活は悲惨でした。まともな部屋がなく屋根の上に急ごしらえの小屋のようなところに住まわされている青年もいました。その漬物屋さんの少女も誰と絵すぐわかります。でもその青年たちのグループは楽しく、後年、私のお店に昔が懐かしいと言ってたづねてくれる人が何人かいました。 

◎松丸さんは、東京教育大付属高校の出身です。当時の東大入学者のトップは日比谷高校、ちょうど私の卒業頃は戸山高校が2番目でした。しかし今でも現役合格率、東大に入るクラスの比率は東京教育大付属高校が1番です。今は筑波大付属高校。松丸さんは青年グループでの活動を積極的にしていて、いつ勉強しているのだろうかと、不思議にみんなが思ったものです。東大も法学部ではないのに、司法試験1発合格というのは信じられないすごさです。

第3面

 過労死・過労自殺の案件を専門に扱う松丸正さん(77)の弁護士人生も平たんなものではなかった。~弁護士登録は1973年。はじめは労働争議を扱う、~79年1月に過労死の相談が持ち込まれた。大阪でタクシー運転をしていた40代の男性が急性心不全で亡くなった事案だ。「初めての過労死案件で右も左も分からぬまま取り組んだのです。」と振り返る。当時の労災認定基準は狭かった。過労死の労災認定率は5%未満にとどまった。連日の深夜勤務の大変さを中心に労基署に訴えた。80年に労災と認定された。その通知を受け取った日、夕立が降る労基署の前で、傘もささずに運転手の妻と抱き合った。~弁護士としてたどるべき道が見えてきた。

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過労死遺族の自宅で打ち合わせをする松丸正さん。2023年8月戸上さん撮影。

 労災認定 5-38%

 そんなころ一人の医師と出会う。田尻俊一郎さん(2009年に81歳で死去)。過労死に関する意見書を労基署に提出し、十数件の労災認定につなげてきた伝説的な人だ。その田尻さんに誘われ、81年「大阪急性死等労災認定連絡会」に参加した。メンバーは55人。~月1回の例会。徐々に参加人数が減っていく。労災認定が出るのは年に1,2件程度。でも続ける。

 転機は87年に訪れる。労災認定基準が26年ぶりに緩和された。~「過労死」も言葉も田尻さんが数年前に出版した著書で世に広まっていった。~連絡会は88年4月、「過労死110番」を全国で初めて実施した。午前10時に開始したとたんに電話が鳴り、松丸さんが最初に電話を取った。~この日18件の相談が寄せられうち14件は40~60代の夫を持つ妻からだった。~労災認定の壁は厚かった。松丸さんらは「過労死弁護団全国連絡会議」を結成し裁判支援を強化した。~労災認定基準はさらに緩和され、「発症前1週間」は01年に「発症前6か月」になった。22年度の、脳、心臓疾患の労災認定率は38,1%。「遺族がへこたれずにチャレンジした結果、救済の道が広がってきました。弁護士は遺族の同伴ランナーだと思っています」

 もちろん成果を収めただけでなく、苦い思いもたくさんしてきた。~「良い成果を出せなかったときは責任を感じます。~」

松丸さんらが始めた過労死110番はその後、全国に広がり原則として毎年6月に行われている。その相談内容は時代を写す鏡だ。バブル崩壊後の90年代になると、長引く不況で自殺に関する訴えが増えていく。亡くなったのは若い世代。08年のリーマンショックでも景気悪化のしわ寄せは若年層に向かった。~

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旅の相棒のリュックサックには裁判資料が詰め込まれている。

 19年に働き方改革関連法が施行され、残業時間の上限規制が始まった。しかし、過労死や過労自殺は後を絶たない。~勤務先が労働時間を適正に把握していないこと。~過労死の起きる現場では、労働者の自己申告のみで勤務時間を把握していることが多いと言う。~熱い思いは若手や中堅の弁護士にも受け継がれている。~会は「大阪過労死問題連絡会」と名を変え月1回例会を続けている。毎回20人前後が参加している。

 松丸さんは、学校法人「森友学園」への国有地売却を巡る財務省の公文書改ざん問題国自殺した赤木俊夫さん〈当時54歳〉の妻雅子さん(52)が国などを訴えた裁判で代理人を務めている。弁護団には生越照幸弁護士(53)も誘った。生越さんは「訴状を作る際に論点をディスカッションすることで成長できた。弁護士としてのバックボーンを作っていただいた」と感謝している。

 心強い仲間はそろっているが、、引退するつもりはまだまだない。「相談が来る限りは弁護士活動を続けたい」。今日もどこかで「旅する弁護士」は遺族の声に耳を傾けている。

 

 取材は戸上文恵(大阪社会部)

◎松丸さんは、まさに正義の味方の弁護士です。新聞の1面と3面に大きく載せた毎日新聞にも敬意を表します。毎日新聞を読んでいない人も多いと思いますので、ブログで概略を紹介させていただきました。

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