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2024年5月14日 (火)

大久保の文学碑を見る、小泉八雲 下村湖人 鈴木三重吉、島崎藤村の碑があります。 昔の大久保の様子も追加します。

大正から昭和にかけて、大久保、百人町の地は大久保文化村とも呼ばれ、多くの文学者などが 住んでいました。

社団法人新宿観光振興組合の出した、「新宿観光マップ」が各地域ごとに作られ、そのうちの「高田馬場、早稲田、大久保」の地図によれば、小泉八雲終焉の地、下村湖人終焉の地、鈴木三重吉終焉の地と島崎藤村の居住の場所が地図にのせられています。

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新宿区の大久保地区の地図

 左の線は山手線、そのややうえに赤い色で書いてある下村湖人の終焉の地

 地図の中央辺りに赤い色で小泉八雲の終焉の地

 その下にやはり赤い色で、鈴木三重吉の終焉の地

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1,下村湖人終焉の地の碑

   新宿区百人町2丁目  文化通りにあります。

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アゼリア コートというビルにあります。

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上のパネルを大きく写したところ

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下村湖人のパネル

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下村湖人の肖像

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2,小泉八雲の終焉の地の記念碑 

   大久保小学校の敷地の一部にあります

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小泉八雲の碑  小泉八雲の碑がある大久保小学校

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小泉八雲終焉の地の石碑

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小泉八雲終焉の地の石碑

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小泉八雲の家

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◎小泉八雲公園 石碑の近くにあります。

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小泉八雲公園 

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3,鈴木三重吉終焉の地

 昔はこの辺りは西大久保1丁目であった。途中で歌舞伎町2丁目と変わってしまった。

 区役所通りに面した、チェックメイトビルのかべに碑文のパネルがつけられています。

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鈴木三重吉終焉の地

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 鈴木三重吉は、1882年生まれ、1936年に肺がんのため歿す。53歳。日本の児童文学運動の父。

海城中学の教師となる。大久保の現在の地に住む。児童文学「赤い鳥」の発行をする。

4,島崎藤村の旧居跡、

◎はじめ、島崎藤村の碑が職安通りにあるはず が見当たりませんでした。

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5月15日 場所を確認して、再訪しました。

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職安通りに面したところです。地下鉄の出口に近いところです。

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「島崎藤村旧居跡」についての説明。

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新宿区歌舞伎町2丁目4番地。元は西大久保1丁目405です。地下鉄東新宿駅前です。

島崎藤村はこの地に明治38年5月から明治39年9月まで住みました。この地で名作『破戒』を出版します。

しかし生活が貧しく3人の娘を次々に病死させてしまい、1年少しで転居します。

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◎大久保、百人町について

1889年(明治22年)南豊島郡大久保村(百人町含む)

1912年(大正2年)淀橋区大久保町となる(百人町含む)

      百人町、西大久保、東大久保

1947年 新宿区ができる(牛込区、四谷区、淀橋区)

1978年 住居表示 

     東大久保1,2丁目が新宿6,7丁目になる

      新宿6、7丁目は1,2,3丁めのにぎやかさに比べあまり変わっていません。

     西大久保1丁目が歌舞伎町目2丁目になる

      歌舞伎町2丁目は以前は普通の住宅街でした。大久保中学校の旧友もたくさん住んでいました。

      現在はラブホテル、飲食店のビルがたくさんあり、様変わりしてしまいました。

◎大久保・百人町の地には

 華族や実業家が住み前田侯爵、安藤子爵、室町子爵、北大路男爵 古河男爵などが住んでいた。

 戸山小学校の前に満鉄の副総裁の大きな屋敷がありました。

 2、文化人 小泉八雲、西城八十、吉江孤雁、国木田独歩、水野葉舟、前田晃、前田夕暮、島崎藤村、下村湖人、岩野泡鳴 戸川秋骨 

 田岡嶺雲 岡本綺堂 若山牧水 内田魯庵 林芙美子 小栗風葉、邦枝完二 岸田國士 西條八十 服部嘉香 嵯峨の屋おむろ 竹越三叉 

 松居松葉 草野柴二 服部嘉香 金子薫園 らが住み 大久保文化〈士)村と呼ばれた

 3,政治家 軍人 岡田啓介、平沼騏一郎 阿部信行 歴代総理 東条英機などの多くの政治家、軍人 戦前はかなり爵位を持った人が多く

 住んでいました。近くに陸軍戸山学校、近衛連隊、幼年学校、陸軍科学研究所、射撃場などの軍事施設がたくさんあった。

  ◎加えて、歌人金子薫風 英文学者戸川秋 中国文学者奥野信太郎 ジャーナリストの幸徳修水 思想家の北一輝が住んでいた。

 大久保文士村と呼ばれた。

  化学者の柴田雄二 経済学者の大内兵衛 江藤淳 作曲家の柴田南雄 徳永康元 外国人音楽家も多く住んでいました。 以上はウイキペディアによる・

 

◎ブログ筆者の父親 佐竹実は 百人町の地で桶屋と井戸掘りをしていて、(佐竹井戸ポンプ店の看板があった。)近くに横綱 太刀山の家が

あり、井戸を掘った。又、岡田啓介首相の家の井戸も掘ったそうです。桶屋が井戸やを兼ねました。

新宿区の民俗 という本に記事が載っています。

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第6章 大久保と百人町-軍人の街から多民族の街へー

p155 井戸 ブログ筆者の父親がインタビューを受けた記事です。

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 職人の暮らし

p155 続き

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p156 井戸 続き

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p156全体

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p156 職人の暮らし

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 ブログ筆者の大正5年生まれの父親は関東大震災の時はまだ小学生でした。住んでいたのは同じ百人町も山手線と中央線のあいだの現在の淀橋教会の前あたりに住んでいました。淀橋教会の場所は、当時は古川男爵たの別邸でした。地震の時はちょうどお昼に大好きなとんかつが出ていてそれが地震の揺れでほこりがいっぱいかかり、食べられなくなってとても残念だったと言っていました。この大久保地区は地盤が固く、家は倒壊しませんでしたが、余震が怖く、古川男爵の屋敷の竹やぶに一時避難したそうです。

 関東大震災以後、下町から多くの人が転居してきて、大久保、百人町の地にも、たくさんの人が転居してきました。当時私の家は、桶屋と井戸掘りをやっていましたが、井戸掘りの方が本業でした。上の本には当時の井戸掘りの仕事の様子がくわしくかかれています。

 

 

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