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2024年8月

2024年8月20日 (火)

新宿紀伊国屋書店、本店の健康本売り場を見る 高田馬場の芳林堂書店も見ました。その数の多さにビックリです。

2024年9月8日、「長生きのための、歯と唾液の健康法」というテーマで、人間学懇話会で話をするために、新宿の「紀伊国屋書店本店」に陳列してある、「健康に関する本」を見てきて、写真に撮りました。以前、高田馬場の「芳林堂書店本店」でも撮ってきました。それも記録します。

紀伊国屋書店は1943年生まれのブログ筆者がまだ若い時には、木造2階建ての建物でした。1964年に紀伊国屋ビルが新築されました。2024年の今はちょうど60周年になります。

ここが紀伊国屋本店の1階入り口です。ここで待ち合わせをどーぞ、というように、有名なところです。

歩ければ左に見えるエスカレーターで上がりますが、車いすでは奥のエレベーターになります。エレベーターは4基ありますが車いすでは、なかなかいけません。

私が中学生の頃、70年くらい前は紀伊国屋書店は2階建ての建物でした。ビルは地下1階、地上9階の細長いビルです。以前は自宅から百人町の自宅からよく自転車で行きました。1階から8階までが本の売り場です。今回必要な本は”健康”に関する本です。

6階は、新宿医書センターとなっています。健康に関しても医学的な専門的な本になります。

4階が、趣味、実用書の売り場で、ここには”健康”に関する本がところせましと置いてあります。

1階は新刊書、話題書です。1階には化石を売る店もあります。

 

◎ここは1階の入口です、新宿の大通りに面しています。裏口にも入口があります。

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紀伊国屋ビルの各階の配置

9階 本店事務所

8階 コミック

7階 参考書・語学

6階 新宿医書センター(医学・理学書)

5階 工学・建築

4階 教育・ビジネス

3階 社会・教育

2階 文学・文庫

1階 新刊・話題書

地下 飲食店

 

6階 医学関係の専門書が置いてあります。一般の人が読む健康書はここにはおいてありません

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6階の東洋医学の専門書が置いてあるところです。

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この書棚は6階新宿医書センターのフロアの生物学の書棚

人類学・進化論などの本の書棚です。

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生物学、進化論など 「人類は噛んで進化した」も置いてあります

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4階は実用書、家庭の医学など 健康本がたくさん

4階 家庭医学コーナー

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4階 実用書コーナーです 健康本はここにあります。

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手前は血糖値を下げる本、隣は腎臓関係、下は、内臓脂肪など

よく売れる本は下に山積みです。

新刊・話題書コーナー

 100歳の壁、長生き食事術、栄養学、こうして人は老いて行く、など

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この棚には、「100年長生き」 「100歳の壁」「「無敵の100歳」などの本が多くあります。

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新刊、話題書 ダイエット本

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健康本もありとあらゆるものがあり、その健康本で、いのちをちじめるものがあります。

科学的なものの見方を進める本ならいいのですが、逆に命を締めてしまうものがあるのですね。

◎私たちが本にした、「人間」って何ですか は書店の在庫で調べると。2冊あることになっていますが、わかりませんでした。

聞けばわかりますが、買うわけではないのでやめました。

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△何階のどこに置いてあるのか調べる意味で今度買いに行ってみます。

 

高田馬場の「芳林堂書店」も写してきました

芳林堂書店はブログ筆者の住まいから近いためよく行くところです。

高田馬場の駅前のFIビル 3階と4階の半分です。

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 これらの本は全て3階です。ダイエット本の表示です

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健康本に関する雑誌 多いですね

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歯の健康の本

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健康に関する雑誌

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健康本いろいろ

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2024年8月19日 (月)

エスニックの街、新大久保に唯一残っていた盛好堂書店さんが閉店しました。旧店主の道岡君とはブログ筆者と小学校同級です。

2024年7月28日、新大久保で唯一残っていた,本屋さん、盛好堂書店さんが閉店しました。この記事はすでに多くの記事が載せられています。このニュースをインターネットの記事で目にしてから、8月18日(日)に初めて行ってみました。

 

 このところ暑いのでブログ筆者が新大久保周辺に行くのが遅くなりました。盛好堂さんは新宿区百人町2-1-4で大久保通りを挟んで北側にあります。ブログ筆者の元の店舗・住居は百人町1-3ー17で大久保通りの南側にあります。百人町は江戸時代には鉄砲隊百人組に与えられた土地で江戸城の警護にあたっていました。百人町は3つの町会に分かれていて山手線の内側の百人町東町会、中央の中央町会、総武線の外側の西町会に分かれていました。盛好堂書店さんは大正期にお店を開きました。戸山小学校の入口です。ブログ筆者の祖先はブログ筆者の曽祖父が明治末期に総武線の大久保駅の近くで桶屋を始めたことが始まりです。戦後まもなく現在の新大久保駅近く,盛好堂さんの近くに転居しました。

 盛好堂書店は大久保通りから戸山小学校に入る道の入口にあります。戸山小学校では盛好堂書店の店主の道岡君とは1年から6年まで同じクラスでした。当時の70数年前の戸山小学校では安普請の木造校舎で教室が足らず2部授業でした。3年か4年の頃西戸山小学校ができて普通の授業になりましたが、それでも1クラス50名くらいでした。道岡君とは1年からずっと同じクラスでした。道岡君はいろいろな活動に熱心で、書店の組合の中心であり、町内会でも中心的に、合唱サークルでも熱心に取り組みました。途中で腎臓病となり透析をする生活となりましたが、それでも全くへこたれることもなく、小学校のクラス会でもずっと幹事役をしてくれました。

下の写真 盛好堂ビルその1階が盛好堂書店、今は閉店し看板が取り外されています。2階と地下1階は飲食店です。

この書店では韓国のいろいろな雑誌などが置いてあり有名でした。

先日お亡くなりになりましたが道岡君のお母さんはとても元気で長生きでした。

高田馬場の芳林堂書店も店の広さが半分になり、神田の書店、書泉に吸収されました。

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参考写真

今では百人町の東町会地区の大久保通りに残る唯一の昔ながらの日本人経営のお店となった、熱帯魚販売店の円満屋さん。

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そのとなりの〈下の写真)お店の佐竹ビル。ブログ筆者のビルです。1,2階コスメ店、リ・メイクなど、3階に新たに開店したのが、Uri Cafe 。

3階はヨガ教室、5階はレンタルスペース、スタジオ AS&SAです。

 

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2024年8月11日 (日)

長生きの戸山高校の恩師、武藤徹先生が99歳でなくなくなられました。思い出話いろいろ。

 いま私は9月8日(日)に開催される、第3回人間学懇話会で、講師としてお話をするために準備をしています。テーマは「長生きのための、歯と唾液の健康法」です。唾液健康法については懇話会の前身の人間学研究所で何回もお話してきました。今回はその後のいろいろな知識も加えてお話をいたします。

 私が訪問診療を受けているのは、2013年、旅先で脳出血をおこし、入院した大津の病院から病状が安定してから代々木病院に転院して、ということになります。それ以後月に2回、代々木病院に、そして月1回は代々木歯科さんの訪問診療を受けております。 

 現在、代々木病院の分院である大久保戸山診療所で訪問診療をしていただいているのは辛島先生と言います。とても親切ないい先生です。その先生が私が戸山高校の出身であるということを聞いて、訪問診療先に戸山高校の武藤先生がいらっしゃるというお話をお聞きして間もなく、武藤先生がつい最近の2024年7月7日に、99歳でお亡くなりになられたというお話を聞きました。武藤先生はおそらく戸山町あたりにずっとお住まいだったと思います。

 武藤先生は、1925年、神戸にお生まれになりました。1947年東京帝国大学の数学科を卒業されました。そして当時の4中(現戸山高校)に赴任されました。そして1986年の定年まで戸山高校の数学の先生を続けられました。普通赴任先の学校は何回かかわるのですが、武藤先生は別格です。1959年から67年にはNHKの高校数学講座も担当されています。また、多くの著作も書かれています。また2016年8月27日には91歳で国会へのデモに参加されるなど活動を続けておられました。

 私も武藤先生の数学の授業を受けましたが、試験問題がB4の横書きの紙に4問、地球の軌道の問題とか文章で答えを書き込むような問題でびっくりしたしたことがあります。武藤先生の数学の授業は、単に数学の問題を解くだけでなく、科学的なものの考え方を身に着けるのにとても重要でした。私の唯物論的な考え方の基礎にもなっています。とても物腰は柔らかく丁寧で素晴らしい先生でした。 

 他に、戸山高校では定年直前の”ガンマ”と呼ばれる先生がいらっしゃいました。きびしいので有名でした。ざわついた講堂に、ガンマが表れるといっぺんにシーンとなりました。授業では「エートはや(8)だよ」が口癖でした。定年まていました。じかなせために何かやさしさの方が目につきました。2年の担任の先生は英語の先生でしたが英語の副読本にジョージ・オーウエルの「アニマル・ファーム」を使いました。ソヴィエト社会を批判したものですが、同級生にはこんな本を使いやがってという人もいましたが、印象に残る授業でした。又書道の先生には書道の本当の字の書き方を習いました。また西洋史の若い先生には今も感動をうけていました。

 戸山高校を出た後、東大などを目指す生徒を卒校生と呼びますが、私も現役で東大に入れる力はなく、私も卒校生となりました。戸山高校から東大に入る当時、浪人率は69,2%でした。1年目は東大しか受けませんでした。はじめから浪人するつもりでした。私の模擬試験の順位は100番から120番、模試の順位は全員の名前が順に張り出されます。卒校生の時には勉強一図で学力は上がり、英語の力などもつきました。しかし確実に東大に入れる自信はなく、家からは2浪はしないでくれということもあり、東京教育大学を受けることにしました。ここなら浪人する必要はなかったのです。(前年の大学入試をやってみましたが合格点が取れていました)しかし卒校生としての勉強がかなり何事にも自信をもって行動できる基礎になりました。

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 このころは特別な受験勉強をしなくとも戸山高校へ入れました。大久保中学校からは私の所属するクラスからは4人戸山高校へ入りました。東大に入った人はいませんでしたが、東京教育大に入った以外の3人は慶応大学に入りました。卒業前の大久保中の同級生では戸山高校から東大に入りのちに銀行の支店長となり、今でも人間学の勉強会で一緒の田中君がいます。私の大久保中学校、戸山高校の後輩の松丸正君はお米屋さんの息子でしたが、東大に入り、弁護士となりました。今年3月18日のブログにも載せました。私もガスやの息子だったのです。

 大学では、本を読み漁り余裕ができました。関東生物科学生懇談会〈生懇)に入り、人間学分科会を作り、生懇の代表にもなりました。又小原秀雄氏とであいました。いご人間学研究会から、一方では総合人間学会の成立、一方では現在の人間学懇話会へなっていったのです。わが動物科のクラスの人々はお互いに良い刺激を与えあい、藤沢君と広瀬君は東大の大学院に入りました。一クラス下の動物科の浅島誠君は、発生学の権威でのノーベル賞の候補にもなっています。藤沢君は浅島君にいろいろと進学のお手伝いをしたそうです。

 東京教育大学では1,2年の時の学長は朝永振一郎先生でした。先生の直接の講義のあと、素粒子論の入門の本を欲しい人は学長室に来るように言われました。3,4人が行きました。当時の学長室は戦前の恐ろしく古い理学部の建物の中にあり、学長室としてはとてもせまい部屋でした。後日、「人間って何ですか」の本を工作舎から出すとき、工作舎の代表取締役の方に朝永先生の話をしたら、とても喜んでおられました。

 東京教育大学については『小説 私の東京教育大学』という本があります。私が東京教育大学を卒業した後、筑波移転反対闘争の経過を小説にしたものです。昔の東京教育大学はいい大学でし朝永先生先生のころは最盛期でした。東京教育大学と筑波大学は全く別の大学です。動物科の卒業生も筑波大には行っていません。後日大久保の地理などで筑波大の卒業生が私のことを、先輩と呼んでくれましたが、私はうれしいような微妙な気持ちです。

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 私は家業の東京ガス百人町店の専務となり、入社早々東京ガス部門を担当しました。しばらく後に第2サタケビルをつくり、その1室を人間学研究所のための1室としました、。人間学研究会、人間学研究所、そしてごく最近の人間学懇話会と、変わってゆきました。人間学関係の図書もたくさん集めましたが、その後人間学の部屋はなくなり、最近は自宅にわずかだけ置いています。

 戸山高校についての本では、戸山高校の後輩で、1949年生まれの林望氏が書いた『帰らぬ日 遠い昔』があります。講談社 1992年発行。1500円、林望氏は悪名高い学校群制度の始まる直前の戸山高校生でした。まだ漢文の先生である「ダイシェン」など私も習った有名な先生がいました。その数年後、戸山高校と青山高校とが組まされ、東大を目指す人たちは灘や開成などの有名私立高校へ入るようになりました。

 後日総合人間学会の前身の総合人間学研究会の後の懇親会では、林 望氏のお父さん(林雄二郎氏)が前にいて。林氏の本を読みましたよと、いろいろお話をしました。

 2024年8月10日の昨日たまたま14,5年も長生きした金魚が1匹だけ残っていましたが、亡くなりました。猫も3匹以前長生きして生きていました。

 

 

 

人間学研究会から人間学研究所、人間学懇話会への略史 2024年9月8日4時 佐竹が健康法のお話 人間学懇話会に参加のお誘い

このブログは2009年7月29日に、こういちの人間学ブログを書き始めた直後に書かれたブログです。2013年7月、ブログ開始後4年を経過して、再び更新をしたものです。さらに2024年8月11日に変更しました。

2024年9月8日 人間学懇話会で佐竹がお話をします、参加自由なので、ぜひご参加ください。

きっとお役に立つと思います。

参考図書 「人間」って何だろう 工作舎 佐竹幸一他編著 2024年1月20日発行

 

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人間学研究会、人間学研究所その後、人間学懇話会への略史

 

 死の恐怖と人間への関心 人間学研究会をつくる

 

 私が、人間学に興味を持った理由の一つに、高校生のころ、心臓が拍動が弱くなり、死の恐怖を味わったことがあります。しばらくは心臓ノイローゼにもなり、死んだらどうなるのかなどを、床の中で、考えて、自分のいなくなったことを考えて、ぞっとしたりしました。それで、東京教育大学に入り、生物学科で学び始めましたが。生物学そのものより、人間とは何かについて考えることに、より深い興味を持っていました。その当時、関東生物学科学生懇談会(略して生懇)という関東地方の大学に生物学科の学生組織がありました。私はその中で、1963年人間学分科会」というのを作りました、この分科会は「科学史」分科会とともに代表的な分科会でした。私はその後生懇談の代表にもなりました。そして当時は著述業であった小原秀雄氏の本『動物版人間の条件』の「人間学の呼びかけ」に感激し、手紙を出してお会いし、その後、現在に至るまでのおつきあいをさせていただいております。小原秀雄氏は佐竹の卒業後、1965年ささやかながら民間の研究会である、人間学研究会(第一次)の会長になっていただきました。佐竹は事務局長です。

 

 第二次人間学研究会

 

その後中断があり、1969年に、女子栄養大学にできた、ユニークな人間学専攻コースにおられた、柴田義松氏(教育学、その後東大教授へ)、小原秀雄氏(動物学)、岩城正夫氏(原始技術論その後和光大学教授へ)と、女子栄養大学や和光大学の学生も交えた第二次人間学研究会ができました。その後再び中断しました。

 

 第三次人間学研究会と人間学研究所準備室

 

1991年に、新しく、第2佐竹ビルができるとともに、そこの二階を人間学研究所準備室とし、第三次人間学研究会が始まりました。会長、小原秀雄氏、副会長、柴田義松氏、佐竹幸一、事務局長、岩城正夫氏でした。このときわれわれの人間学をHUMANOLOGYという新しい言葉で表現しました。この言葉はこの当時は極めてマイナーな言葉でしたが、今では多く使われています。このとき佐竹の実用的人間学部会も始りました。

 

 人間学研究所設立

 

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 ここは、2013年7月現在の人間学研究所の会議室です。人間と人間学に関する図書、および人間学研究会の設立から現在に至る、全資料が保管されております。

 

1999年に ずっと、継続した、研究成果をもとに、人間学研究所を設立しました。所長、柴田義松氏、名誉所長、小原秀雄氏、副会長、岩田好宏氏(高校教諭)、事務局長。佐竹幸一でした。研究所の研究成果を『人間学研究所年誌2000』として発行し、それは現在、「6号2008」まで発行されています。ここに書かれている人間学の略史も年誌、5号と6号にくわしく書かれています。ちなみに、1号からバックナンバーが揃っており、一部1000円でお売りできます。研究所は現在毎月、二つの例会を開催し、「人間学研究所通信」の発行を続けております。

 

 2013年7月現在、第3木曜日に実用的人間学研究会例会

 

 第4金曜日に新教育人間学部会を開催しております。

 

 総合人間学研究会から総合人間学会へ

 

総合人間学研究会から総合人間学会へ   東大名誉教授(法学)の小林直樹と、そのグループを含め、2002年、総合人間学研究会が作られました。事務局は人間学研究所におかれました。創立総会には150名の方が参加し、関西でも例会が開かれることに。そして2006年には総合人間学会へと発展をしました。学生の頃から始まった小さな流れが、本格的な学会にまでなったことはとても感慨深いものがあります

 

総合人間学会は毎年「総合人間学シリーズ」を学文社から発行しています。

 

 2013年6月現在、第7号「3・11を総合人間学から考える」が発行されています。

 

 総合人間学会は現在会員数が240名ほどです。

 

実用的人間学研究会の設立

 

 2008年4月に、実用的人間学研究会が人間学研究所から分離してつくられました。会長は佐竹幸一で副会長は会計事務所長の杉山靖夫氏です。実用的人間学研究会は、人間学研究所の姉妹団体として、会計は別になっておりますが、人間学ニュースでの連絡や年誌の発行は同じものとして行っております。会費も同じで、おのおのの例会にもお互いに自由に参加できます。今回開催される旅行や、年末の忘年会などはいつも合同で行っております。

 

人間学研究所の現状 2013年7月

 

 1999年に設立された人間学研究所も、準備室設立からすでに22年を経過し、人間学研究所からも14年が経過しました。この間休むことなく毎月ふたつの例会の開催、人間学ニュースの発行、そして人間学研究所の年誌の発行、と地道ではありますが、着々と成果を積み上げています。2010年には、人間学研究所の場所が、第2サタケビルの2階から、佐竹ビル3階に移転しました。現状は下記のようになっておりますが、このたび8月に、初めて泊まり込み研修会を実施するとか、新しい会員さんも増え、より活発な活動を続けております。

 

 人間学研究所の新教育人間学部会と、実用的人間学研究会でどのような例会が開かれているかは、「こういちの人間学ブログ」で、各例会の内容が、紹介されています。

 

 設立当時は、人間学研究所の所員とそれに賛同する方々(所友)という形でした。

 

 途中から、人間学研究所の中に、教育人間学部会と実用的人間学部会があるという形

 

に変わりました。

 

 ◎ 人間学研究会、人間学研究所の歴史については

 

 『人間学研究所年誌2012 第10号』 2013年3月31日発行

 

 「人間学研究会、人間学研究所の歴史と実用的人間学」

 

     p100~p113     佐竹幸一 をご覧ください

 

 

 

★ 現在の人間学研究所にいたる変化

 

 2011年10月の状況

 

 第77回新教育人間学部会

 

 第37回実用的人間学研究会例会

 

 『人間学研究所年誌 2010 第8号』

 

 『人間学通信 第54号』

 

 会員53名

 

 

 

2013年7月の状況

 

 第96回新教育人間学部会

 

 第56回実用的人間学研究会例会

 

 『人間学研究所年誌 2012 第10号』

 

 『人間学研究所通信(HUMANOLOGY)』 

 

    2013,5月号 第63号

 

 会員 62名

 

参考 

 

 『人間学研究所年誌2000』第1号発行時 2000年12月1日

 

 第13回新教育人間学部会 2000年7月

 

 第13回実用的人間学部会 2000年7月

 

 人間学研究所研究所員14名 所友43名 合計57名

 

 『人間学研究所通信 第5号』2000年6月号

 

 

 

人間学研究所 変更後 人間学懇話会

 

現在、人間学懇話会と変わりました。例会場は

   新宿区百人町3-1-5 

   西戸山タワーホームズノースタワー集会室

   JR山手線 新大久保駅下車5分

 ★ お問い合わせは お気軽にどうぞ

   pcr92240@nifty.com

    090-6549-2677

 

人間学研究所と関連団体の実用人間学研究会は、2024年4月1日に、統合され人間学懇話会となりました。

 人間学懇話会になるに伴い、2名の方が入会され、25名でのメンバーでの出発です。

 人間学懇話会は2,3か月に1回開催されます。どなたでもご入会できます。

   会は4人の世話人により運営されます。

   第1回例会 2024年4月6日

   第2回例会 2024年6月2日

     「後期高齢者と習い事について」岩城正夫氏

 

 ◎第3回例会 2024年9月8日(日)午後4時から6時

     「長生きのための歯と唾液の健康法」

     講師 : 佐竹幸一 人間学懇話会 世話人

     場所 : 西戸山タワーホームズ N棟 集会室

     参加自由 参加費無料

     初めての方メールでお問合せの方は佐竹まで

      お申し込みください

     希望者は その後6時半から懇親会があります

      ガゼボ 東京 3000円から3500円

 

   ◎ご連絡は 090-6549-2677 佐竹までか

   pcr92240@nifty.com まで、ご連絡ください。

 

 

 

 

 

 

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