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2024年8月11日 (日)

長生きの戸山高校の恩師、武藤徹先生が99歳でなくなくなられました。思い出話いろいろ。

 いま私は9月8日(日)に開催される、第3回人間学懇話会で、講師としてお話をするために準備をしています。テーマは「長生きのための、歯と唾液の健康法」です。唾液健康法については懇話会の前身の人間学研究所で何回もお話してきました。今回はその後のいろいろな知識も加えてお話をいたします。

 私が訪問診療を受けているのは、2013年、旅先で脳出血をおこし、入院した大津の病院から病状が安定してから代々木病院に転院して、ということになります。それ以後月に2回、代々木病院に、そして月1回は代々木歯科さんの訪問診療を受けております。 

 現在、代々木病院の分院である大久保戸山診療所で訪問診療をしていただいているのは辛島先生と言います。とても親切ないい先生です。その先生が私が戸山高校の出身であるということを聞いて、訪問診療先に戸山高校の武藤先生がいらっしゃるというお話をお聞きして間もなく、武藤先生がつい最近の2024年7月7日に、99歳でお亡くなりになられたというお話を聞きました。武藤先生はおそらく戸山町あたりにずっとお住まいだったと思います。

 武藤先生は、1925年、神戸にお生まれになりました。1947年東京帝国大学の数学科を卒業されました。そして当時の4中(現戸山高校)に赴任されました。そして1986年の定年まで戸山高校の数学の先生を続けられました。普通赴任先の学校は何回かかわるのですが、武藤先生は別格です。1959年から67年にはNHKの高校数学講座も担当されています。また、多くの著作も書かれています。また2016年8月27日には91歳で国会へのデモに参加されるなど活動を続けておられました。

 私も武藤先生の数学の授業を受けましたが、試験問題がB4の横書きの紙に4問、地球の軌道の問題とか文章で答えを書き込むような問題でびっくりしたしたことがあります。武藤先生の数学の授業は、単に数学の問題を解くだけでなく、科学的なものの考え方を身に着けるのにとても重要でした。私の唯物論的な考え方の基礎にもなっています。とても物腰は柔らかく丁寧で素晴らしい先生でした。 

 他に、戸山高校では定年直前の”ガンマ”と呼ばれる先生がいらっしゃいました。きびしいので有名でした。ざわついた講堂に、ガンマが表れるといっぺんにシーンとなりました。授業では「エートはや(8)だよ」が口癖でした。定年まていました。じかなせために何かやさしさの方が目につきました。2年の担任の先生は英語の先生でしたが英語の副読本にジョージ・オーウエルの「アニマル・ファーム」を使いました。ソヴィエト社会を批判したものですが、同級生にはこんな本を使いやがってという人もいましたが、印象に残る授業でした。又書道の先生には書道の本当の字の書き方を習いました。また西洋史の若い先生には今も感動をうけていました。

 戸山高校を出た後、東大などを目指す生徒を卒校生と呼びますが、私も現役で東大に入れる力はなく、私も卒校生となりました。戸山高校から東大に入る当時、浪人率は69,2%でした。1年目は東大しか受けませんでした。はじめから浪人するつもりでした。私の模擬試験の順位は100番から120番、模試の順位は全員の名前が順に張り出されます。卒校生の時には勉強一図で学力は上がり、英語の力などもつきました。しかし確実に東大に入れる自信はなく、家からは2浪はしないでくれということもあり、東京教育大学を受けることにしました。ここなら浪人する必要はなかったのです。(前年の大学入試をやってみましたが合格点が取れていました)しかし卒校生としての勉強がかなり何事にも自信をもって行動できる基礎になりました。

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 このころは特別な受験勉強をしなくとも戸山高校へ入れました。大久保中学校からは私の所属するクラスからは4人戸山高校へ入りました。東大に入った人はいませんでしたが、東京教育大に入った以外の3人は慶応大学に入りました。卒業前の大久保中の同級生では戸山高校から東大に入りのちに銀行の支店長となり、今でも人間学の勉強会で一緒の田中君がいます。私の大久保中学校、戸山高校の後輩の松丸正君はお米屋さんの息子でしたが、東大に入り、弁護士となりました。今年3月18日のブログにも載せました。私もガスやの息子だったのです。

 大学では、本を読み漁り余裕ができました。関東生物科学生懇談会〈生懇)に入り、人間学分科会を作り、生懇の代表にもなりました。又小原秀雄氏とであいました。いご人間学研究会から、一方では総合人間学会の成立、一方では現在の人間学懇話会へなっていったのです。わが動物科のクラスの人々はお互いに良い刺激を与えあい、藤沢君と広瀬君は東大の大学院に入りました。一クラス下の動物科の浅島誠君は、発生学の権威でのノーベル賞の候補にもなっています。藤沢君は浅島君にいろいろと進学のお手伝いをしたそうです。

 東京教育大学では1,2年の時の学長は朝永振一郎先生でした。先生の直接の講義のあと、素粒子論の入門の本を欲しい人は学長室に来るように言われました。3,4人が行きました。当時の学長室は戦前の恐ろしく古い理学部の建物の中にあり、学長室としてはとてもせまい部屋でした。後日、「人間って何ですか」の本を工作舎から出すとき、工作舎の代表取締役の方に朝永先生の話をしたら、とても喜んでおられました。

 東京教育大学については『小説 私の東京教育大学』という本があります。私が東京教育大学を卒業した後、筑波移転反対闘争の経過を小説にしたものです。昔の東京教育大学はいい大学でし朝永先生先生のころは最盛期でした。東京教育大学と筑波大学は全く別の大学です。動物科の卒業生も筑波大には行っていません。後日大久保の地理などで筑波大の卒業生が私のことを、先輩と呼んでくれましたが、私はうれしいような微妙な気持ちです。

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 私は家業の東京ガス百人町店の専務となり、入社早々東京ガス部門を担当しました。しばらく後に第2サタケビルをつくり、その1室を人間学研究所のための1室としました、。人間学研究会、人間学研究所、そしてごく最近の人間学懇話会と、変わってゆきました。人間学関係の図書もたくさん集めましたが、その後人間学の部屋はなくなり、最近は自宅にわずかだけ置いています。

 戸山高校についての本では、戸山高校の後輩で、1949年生まれの林望氏が書いた『帰らぬ日 遠い昔』があります。講談社 1992年発行。1500円、林望氏は悪名高い学校群制度の始まる直前の戸山高校生でした。まだ漢文の先生である「ダイシェン」など私も習った有名な先生がいました。その数年後、戸山高校と青山高校とが組まされ、東大を目指す人たちは灘や開成などの有名私立高校へ入るようになりました。

 後日総合人間学会の前身の総合人間学研究会の後の懇親会では、林 望氏のお父さん(林雄二郎氏)が前にいて。林氏の本を読みましたよと、いろいろお話をしました。

 2024年8月10日の昨日たまたま14,5年も長生きした金魚が1匹だけ残っていましたが、亡くなりました。猫も3匹以前長生きして生きていました。

 

 

 

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