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2024年11月

2024年11月29日 (金)

2024年11月28日(木)新宿高島屋のレストラン、京都清水の和牛八重郎へ行ってきました。

月に1度ほどの、ヘルパーの斉藤さんとお出かけは、新宿高島屋のタイムズスクエアレストラン(14Fから12F)のうち、最も最近に14階にオープンした、「京都清水 和牛八重郎』に行ってきました。

お店の入口です。

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入り口の看板の一つ これを食べることにしました。

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和牛ひつまぶし もお店のメイン商品です。

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和牛 あぶり焼き御膳

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実際のあぶり焼き御膳です。

 

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牛肉をひつまぶしのようにしてどんぶりに入れるものも

お店のうりのメニューでした。

ご飯が山盛りで少し食べてもらいました。

 

レシートから

和牛八重郎 新宿高島屋店

 渋谷区千駄ヶ谷5-24-2

 あぶり焼き御膳120グラム

  3960円 (内税)

2024年11月27日 (水)

「唾液力でボケ知らず!」脳と認知症改善メソッド、という本が出版されました。私の提唱する唾液健康法との比較。

2024年11月8日,さくら社から、「唾液力でボケ知らず! 脳と認知症改善メソッド」定価1600円 税別、という本が出版され、毎日新聞の11月8日の朝刊1面に広告が載っていました。著者は、東京医科歯科大学の主任教授である、後藤多津子氏です。さっそく書店で購入しました。

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本の表紙には、健康寿命に大きくかかわる「口の中」そのカギは「唾液」!」

唾液の驚くべき効果を知り、

唾液の出やすい体になる方法を教えます!

唾液が心身の救世主になる!

認知症も遠ざける!

◎赤ちゃんは唾液の出る量がとても多いのですが、年を取るに従い唾液の量は減っていきます。ブログ筆者は、古来より伝わる『医心法』や貝原益軒の『養生訓』も勧める、唾液を出して、意識的に飲み込む唾液健康法(咽津法)を早くから行っております。その為に81歳の今でも歯は表彰対象の20本ではなく、30本です。(親知らず3本ありました。途中で奥歯1本が抜けました)。この本の表紙に使われている赤ちゃんの写真はとてもかわいらしくていいものですね。

裏表紙のカバーには

「よく噛む」ことは」口腔機能の健康を維持し、心身の健康を守ってい

くためにもっとも重要な要素です。毎日毎食続けられて、健康効果を

得られる噛む回数、その目安となるのが「ひと口30回」です。ひと

くち30回づつ噛みながらゆっくる食べることで、脳内でヒスタミン

などにより満腹中枢が刺激され、食事の量が小量でも満腹感を感じ

るようになります。噛むことによる健康効果を引き出す「ひとくち30

回」は、厚生労働省でも理想とされています。(はじめに」より抜粋

◎噛む回数はいちいち数えていませんが、できるだけよく噛むようにしています。私の提唱する唾液健康法は、食べるときによく噛んで唾液を出すだけでなく、普段いつでも唾液が口中にあふれて、それを飲み込むようにしていく行法です。

はじめに

 2019年の「平均寿命」は男性が81,41歳、女性が87,45歳。心身ともに健康でいられる「健康寿命」は男性72,68歳、女性75,38歳。

健康寿命を延ばし、不健康な期間「不健康寿命」を短くするのが重要。

健康寿命に大きく関わってくるのが「口腔環境」です。歯の重要性~残った歯の数、80歳で20本の歯を残す8020運動がある。

「オーラルフレイル」から「全身のフレイル」へ。

唾液には免疫物質や抗菌物質がたくさん含まれている。唾液には栄養因子や成長因子などが含まれている。~唾液がしっかり分泌されるような良好な口腔環境が、全身の良好なコンディショの決め手になるのです。

口腔環境の改善が認知症予防になる

脳と腸と口腔とは、どれが欠けても、心身のバランスが崩れてしまう関係にある。

噛むことにより健康効果を引き出す「ひと口30回」は厚生労働省でも理想とされています。

◎食事の時によく噛んで、唾液を出すだけでなく、日常不断に唾液を出して飲み込んでいるのです。(古来からの咽津ーいんしん―法〉と言います。中国では仙人になる1法だと言われています。

第1章、口の中に健康を守るカギがある!

   「歯」についてもっと知る

   「歯茎」についてもっと知る

   「舌」についてもっと知る

   『あご』についてもっと知る

第2章 唾液は最高の健康薬

   唾液は食べやすく、まるめる食塊をつくる

   リラックスしているときサラサラ唾液と緊張しているときネバネバ唾液

   朝いちばんの唾液で健康状態がわかる

   プラークが付いたままだと歯石ができる

   唾液力の高い人は、免疫力も高く、腸内の消化力も高く、体の中の体液循環がうまくいっている。

第3章 認知症を遠ざける秘策

   よく噛むと脳内の血流が良くなる

   アルツハイマー型認知症の人は歯が悪い

   よく噛むこと、0円でできる健康j法-唾液健康法と同じ

第4章 誤嚥予防、病気予防のために

   「治療の前に口腔ケア」が医療界の常識になりつつある

   高齢者の死因「誤嚥性肺炎」は歯周病菌で悪化する。

   唾液の分泌の少ない人は「悪性リンパ腫」のリスクが高い。

第5章 無理なく自分でできる日々の口腔ケア

   口の中を清潔に保つ方法

   高齢になるほどたんぱく質が必要

   歯科医の定期的チェック

   歯ぎしりの治療が大事

終わりに―健康あってこそ

   年を取ってから歯を失うとアルツハイマー病になりやすい。

 

◎唾液健康法の難点は、歯石がたまりやすいということです。朝、昼、晩と私は食後に3回歯を丁寧に磨いています。歯磨きは毎食後と就寝前に行うといいとこの本では書いてありますがそこまではやっていません。歯と歯の間の歯垢を取るデンタルフロスとピックスや歯間用ブラシを使っています。ただ毎日丁寧に完璧にとっているわけではないので、どうしても歯垢はつきます。月に1回歯科技工士さんと歯科医に訪問で来てもらい歯のクリーニングとフッ素を塗ってもらいます。

 唾液健康法をやってみようという方が現れるといいのですが。

2024年11月22日 (金)

2024年11月21日の素敵な虹、22日のきれいな朝焼けを写しました。

 

2024年11月21日(木)3時ごろ、きれいな虹が見えました.

 午前中、霧がかかり、雨が降っていました。雨が止んだ後、見事な虹がかかっていました。写真を写したのは新宿区の西戸山の高層マンションからです。すぐ近くから虹が立ち上がっているように見えました。

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下図 ここでは写っていませんがきれいな半円形の虹です。左の高層ビルは住友新宿ガーデンタワーのビルです。

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右に見える高層ビルは早稲田大学の理学部の建物です。緑の見えるところは都立戸山公園です。

とてもくっきりみえる虹でした。虹の下に薄く2重の虹が見えました。虹の始まりは近くに見えました。

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下に見える黒いもの3つは洗濯ばさみです。

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日の出

翌日11月22日は今度は快晴な日で朝焼けがきれいでした。5時55分の状態です。

左の端の方にスカイツリーがかすかに見えます。

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6時3分の状況です。空全体がピンク色に染まってきました。

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6時24分の状況です。右に見える鉄塔は市ヶ谷の防衛省の電波塔です。

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6時27分の日の出です。東京の日の出の時刻は6時25分です。ビルがあり太陽が見えるのは遅くなります。

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2024年11月19日 (火)

 人間学研究会 人間学研究所 人間学懇話会の60年間の略史 そこでの蔵書も資料とともに掲載しました。追加更新版

◎ブログ筆者が、東京教育大学の学生時代と卒業直後の1965年から1967年ごろの図書貸出簿です。このころ佐竹はかなり人間学関係の本を集めていました。このとき人間学研究会の名簿があります。会員数約30名。名簿では小原秀雄氏が顧問格となっています。他にお茶大教授の柳田為正氏、東工大教授の八杉龍一氏、教育大教授の大島康正氏の名前が載っています。佐竹の所属する東京教育大の動物学の学生が中心で、8人ほど、教育大の他の学科の人が8人、早稲田の生物学の学生が3人、お茶大2人、日本女子大4人などでした。連絡して例会参加の人には東大、横浜国大などの人たちがいました。ノートの終わりの頃の名簿は40名くらいになっていました。佐竹は教育大を卒業し、学生は早稲田大学や日本女子大の学生が増えてきました。小原秀雄氏の本は7冊置いてありました。貸出簿の最初は小原氏が3冊借りています。(後で再び書いています)

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2000年までの簡単な人間学研究会や人間学研究所の歴史は、『人間学研究所年誌2000』No1の「人間学の概要」佐竹幸一 に書かれています。

p75の4「人間学研究所への歴史」です。

1、生懇の分科会としての「人間学」1953年12月設立 58回の例会開催

2,第1次人間学研究会 1965年4月16日 佐竹の大学卒業とともに設立 例会は月2回 会長小原秀雄 事務局長佐竹幸一 会員20名 連絡する人10名 人間学ニュース17号発行 1967年17名参加で合宿 1966年佐竹が中心に人間論研究会作るこれは1970年までつづく 人間学研究会は1967年5月解散

3、第2次人間学研究会 1985年5月 会長小原秀雄氏 副会長 柴田義松氏、岩城正夫氏 事務局長佐竹幸一 会員54名 和光大学 女子栄養大の学生が多い  研究会は26回 研究会ニュースは25号発行 1985年東大で開かれたシンポジウムは100名参加

4、第3次人間学研究会、および人間学研究所準備室 1991年4月 佐竹ビルの2階が人間学準備室となり人間学研究会が再開 会長小原秀雄氏副会長 柴田義松氏 佐竹幸一 事務局長 岩城正夫氏 1993年には佐竹が実用的人間学研究会を始める また岩城氏の提唱する 人間学サロンができる 1998年にふたたび人間学研究会に

5、人間学研究所の設立 1999年4月1日 現在に至る 2000年8月所員14名 会長 柴田義松氏 名誉所長 小原秀雄氏 副所長 岩田好宏氏 理事岩城正夫氏・・専務理事 佐竹幸一 所友57名 教育人間学部会 実用的人間学部会

ブログ筆者は東京教育大学在学中に生物科学生懇談会〈生懇)に「人間学」の分科会を作り、新しい人間学を作るべきと、人間学に関連する書物の収集を学生時代から始めていました。当時人間学に興味を持っていた小原秀雄氏も参加していただきました。大学4年生の時に(昭和40年11月-1965年)作った人間学研究会の名簿と図書貸出簿があります。

また20回例会から28回の参加者名簿があります。正会員は13名、皆勤は佐竹と、後日日本女子大にも人間学研究会を作り筆者の妻となった青野さん。早稲田の学生で後日女子栄養大教授となった平田氏。顧問格の後で女子栄養大教授となった小原秀雄氏、他に教授となったのは、小池氏、奥崎氏、高島氏で和田氏は高校の校長に他に各分野で素晴らしい活躍をしています。途中まで参加の藤沢氏は埼玉大教授、近藤氏も教授となりました。

下の「人間学分科会」のファイルは、当時の生懇の分科会の内容を記録した手書きの資料です。

発言者は16名 名前が記載されています。

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これは8月19日の夏合宿の記録です。

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当時は皆、手書きの資料です。例会の会話の内容も書いてあります。

生懇の夏合記録です

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 会員名簿によれば会員は32名。佐竹の大学卒業とともに。父が社長を務める会社(その当時は有限会社佐竹製作所、その後株式会社サタケに変更 2021年現在も存続)に入社、専務取締役となりました。そして民間の研究団体人間学研究会を作りました。会員は東京教育大、お茶の水女子大、早稲田大学、日本女子大、都立大学の学生とともに、顧問格の小原秀雄氏、お茶大教授の柳田為正氏、東工大教授の八杉龍一氏、東京教育大の大島康正氏などに参加していただきました。例会は会社の1室で行われました。図書はブログ筆者、佐竹のもので学生時代から人間学関連の図書を集めていました。貸出簿によれば500冊ぐらいを貸し出しています。人間学ニュースも発行され1号から17号(1966年12月)が発行されています。人間学研究会は例会を盛んに行いました会員の中には後日、大学教授になった方もたくさんいらっしゃいます。その後佐竹と小原秀雄氏の考え方の違いから会は分裂してしまいました。佐竹のほうにはメンバーが残りしばらく例会は続きました。学生時代からの人間学研究会の資料が保存しているためかなり多い資料となっています。]

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佐竹は1967年前後にいろいろ思いついたことを「思索」というノートに書きました。このノートは1967年のもので。1968年の「思索23」で終わります。

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佐竹は人間学関係の歴史を書きました。これは19冊目。2010年からの歴史です。

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 私は自分が専門の学者になるために大学に残るのではなく、当時まだ不確立な人間学研究を成り立たせるためには財政的基盤が重要と考えました。それは実現され、第2佐竹ビル建設ではその1室を人間学研究所にしました。以後現在まで、財政的なことと事務局を担ってきました。

 その後女子栄養大学の教授である柴田義松氏は(後日東大教授になりました)小原秀雄氏、岩城正夫氏から、佐竹に声がかけられ人間学研究会(第2次)が1985年5月に作られました。東大での公開シンポジウムには100名からの人が集まりました。しかしこの研究会は長くつづかず停止しました。

 1991年4月に株式会社サタケが第2佐竹ビルを作り、そこの2階を人間学研究所準備室とし、第3次人間学研究会が作られました。その間たくさんの例会が開かれました。そして1999年4月に人間学研究所が作られました。それは現在まで続いています。

これは1961年ごろ、第1次人間学研究会のころ佐竹が書いた人間学ニュースです。

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「人間学とは何か―人間学史を中心として」として書きました。

1、人間学の諸潮流について 

2,カントの人間学と人間学の名称

3、ヒト人間と人間学

4,生物学的人間学の潮流1,

5,生物学的人間学の源流2,カレルの人間この未知なるもの

6,生物的人間学の潮流3

7、マルクス、エンゲルスの人間学 エンゲルスについて

8、人間学とニューサイエンス

 

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これは第3次人間学研究会、人間学ニュース第1号です。1991年4月25日発行です。

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第1次実用的人間学研究会規約です。このころ同時に岩城先生を中心とし人間学サロンも開催されました。

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2006年から2008年にかけて毎月1回22回にわたって佐竹が「実用的人間学セミナー」(第1期全12回、第2期全10回)を開きました。時々講師としてはなすのではなくまとめてお話をしました。

このセミナーにおいては実用的人間学副会長の杉山靖夫氏が全会参加されました。

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1部抜き出しました 1期

1,健康法の人間学、2、人相術 手相編・ 8、生き方の人間学 ・10、人間とは何か・13自分を語る

第2期例 第2回「宗教的信仰と科学的信念」2006年7月20日

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実用的人間学ニュース第1号」2008年5月発行

 実用的人間学研究会は2021年12月現在も続いています。

 

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実用的人間学研究会 第1回 「教育バブルの崩壊」講師 中島寿一氏 第2佐竹ビル2階

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第2回実用的人間学研究会例会 「信長・秀吉・家康の人間学」講師 佐竹幸一

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実用的人間学ニュース 最終号60号 人間学研究所の設立

第64号例会の報告 平成11年3月25日 柴田義松氏 「人間の総合的学習の構想について」

  参加者 12名

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人間学研究所 開所記念講演会 平成11(1999年)年4月24日 成蹊大学

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人間学研究所通信第1号」1999年6月

 2021年12月現在 91号です

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「人間学研究所通信91号」2021年10月7日発行

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人間学研究会に途中から小林直樹氏が参加しそれに一連の方々が参加し、総合人間学研究会ができました。事務局長は佐竹で、事務局は第2佐竹ビル内人間学研究所でした。例会が開かれ、年に1回は京都で開かれました。第1回研究会(シンポジウム)は2002年11月30日明治大学で開かれました。総合人間学研究会の発起人名簿も総合人間学会の発起人名簿もあります。学文社発行の「シリーズ総合人間学」では佐竹の主要論文が無断で没にするという小林氏とのトラブルがあり、事務局次長をやめました。もう一つの資料編は第3巻で柴田氏に掲載してもらいました。その後、総合人間学会も退会しました。

この資料は「総合人間学シンポジウム・総合人間学研究会設立総会」のものです。

2002年11月30日〈土〉明治大学リバティータワー16階で行われました。

30ページの資料です。事務局は 佐竹ビル2階 人間学研究所でした。

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追記

そのいきさつをもう少し書くことにしよう。小林氏とのトラブル後、総合人間学会にはしばらく参加しなかったが、2012年5月27日に日大の会場で開催された総合人間学7回大会が開催された際、佐竹が久しぶりに学会で発表した。メンバーはA,Bグループに分けて発表会が分かれていたのを最終に合同で行われたものでした。すべての参加者が集まり大変盛況でした。テーマは「人間学研究会、人間学研究所の歴史と実用的人間学」というものでした。講演は評判がよく、終了後持参した多くの人間学研究所年誌もたちまち売り切れました。また新たに2人の方が人間学研究所に参加されました。

当日配布した資料を基に「総合人間学」の学会誌に投稿しました。ところが査読者2人がいろいろ文句をつけ投稿を拒否しました。佐竹が国立国会図書館で発行される資料に基づいて人間学の名の図書が特に多い年を人間学ブームと指摘しました。しかし査読者はそんな事は聞いたことがないというのです。結局没にされました。学会で発表した内容は「年誌2011」において発表しました。

またなった監事も1度も理事会によばれませんでした。結局次の総会の会計報告をするだけに終わってしまいました。哲学的人間学派の小林直樹氏と小原秀雄氏により再び拒否されました。それで監事の再任は断りました。唯物論系と、マックス・シェーラー系の小林氏の哲学的人間学は本来うまくいくわけがないのです。唯物論系の優れた学者は次々にやめていきました。創立時の3人の役員の1人柴田義松氏は小林、小原連合に阻害されやめるといったそうです。佐竹も総合人間学会をやめました。

マックス・シェーラーは1928年に「宇宙における人間の地位」を書き、新しい哲学的人間学を提唱しますが、これは唯物弁証法的な世界観を否定するものです。小林氏の人間学の著作にはシェーラーの言葉が最初に書かれます。小林氏は小林氏の書いた本を読めば、そんなことをかかないはずだといいました。シェーラーの哲学的人間学は弁証法的唯物論に対抗して提唱されたものです。読んでいても考え方が弁証法的唯物論の佐竹とは相いれないのです。

「人間学」の始まりは、カントであると思います。最晩年に書かれた「人間学」はわが人間学の始祖といわれるものです。私は日本の訳書を比較するため6冊の「人間学」の翻訳書を購入しました。

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 途中第2佐竹ビルはテナントに貸出し、佐竹ビルの3階の1室に人間学研究所を移しました。佐竹ビルの3階に事務所を移すとき部屋が狭くなったため12000冊のうち2000冊の本を処分しました。

 2013年11月に佐竹が一人で大津方面にドライブしていた時、突然脳出血をおこし入院しました。歩行困難になったため、それ以後前住んでいた佐竹ビルには階段のみのため戻れず、別にマンションを借りました。しばらくは人間学の例会は佐竹ビル3階で行っていましたが、途中から佐竹の住んでいるマンションの集会室に変わりました。本は1万冊のうち2500冊ほどを今住んでいるマンションに移し、後の本は処分しました。2021年からは再び本を処分していくことにし、マンションの廃品回収の日に50冊ぐらいづつ出します。本はほかの住民が好きな本は持って帰りました。今までは高田馬場の駅前の芳林堂書店でよく本を買っていましたが、それもやめました。

 佐竹のデスクのあるところの書棚。

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佐竹のベッドがある部屋―デスクもありますーの書棚

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その中に岩城先生の本があります。

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人間学研究所の年誌 1から18号まで

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デスクの後ろ側にある小さな書棚

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その隣の書棚。

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妻の寝室がメインの書棚があります。前面に2つの書棚。後ろに5列の書棚があります。

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人間学研究会等の記録ノートや例会の講師の資料バインダーです。

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書棚の左側。

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◎2024年11月19日 『人間』って何ですか、の発行と、「人間学懇話会」の発足

「『人間』って何ですか」という本(エッセイ集)を、人間学研究所と実用的人間学研究会で、『人間学研究会60周年記念』集として、2024年1月20日、工作舎、2600円+税、で発行されました。記念の本の企画は以前からありましたが、ようやく発行されました。編集は、佐竹幸一、森岡修一、里見 脩、杉山靖夫氏の4人です。著作者はほかに、岩城正夫、高橋喜代治、西田隆男、白村直也,松本 孚、野本雅央、木村廣子、上杉徳治郎、檀上新氏の全てで13名です。

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 本の発行に伴い、人間学研究所、実用的人間学研究会は、2024年4月1日『人間学懇話会』として、1つにまとまり,より懇親会的な会に変更いたしました。

会員数、26名 

『人間』って何ですか 出版記念パーティー

      2024年1月21日 参加者12名  ガゼボにて

第1回例会 2024年4月6日

   懇話会の今後について 参加者 7名

第2回例会 2024年6月2日

   講師  岩城正夫氏  参加者7名

第3回例会 2024年9月8日

   講師  佐竹幸一 参加者3名

第4回例会 2024年11月29日

   講師  森岡修一氏

 

 

2024年11月13日 (水)

日米における政治の急変について。トランプの共和党の完勝の原因について。

毎日新聞11月12日(火曜日)朝刊 の記事から 

 日本においては、自民派閥裏金事件の逆風を受け、衆院選で自民、公明両党は衆院選で惨敗した。石破首相が電撃的な衆院解散を行った。その結果、与党の自民公明両党が過半数(233)を割り込む、異例の事態となった。石橋氏は221票と過半数を割り込みましたが、11日の特別国会で第2次石破内閣が成立しました。30年ぶりの少数与党政権となりました。28議席を得た国民民主党の玉木雄一郎代表は知人女性と不倫をしていたという報道を認めましたが、謝罪して代表は続投することになりました。

 アメリカ大統領選挙は11月5日投開票が行われ、トランプ次期大統領が激選7州をすべて制し、選挙人の獲得人数は前回選挙より上回る312人に達した。(過半数は270人)11月12日の毎日新聞23面(総合社会)には「化石燃料 掘りまくれ!」という記事が載せられています。トランプ氏は6日の勝利演説で、インフレ対策に化石燃料の掘削を支援することを改めて強調した。トランプ氏は石油・ガスのさらなる増産を通して、エネルギー価格の大幅引き下げを実現すると主張してきた。脱炭素社会の象徴である電気自動車(EV)も標的になる。~しかしトランプ氏でもクリーンエネルギー移行に終止符を打つことはできないだろうという。外交面では地球温暖化の国際枠組み「パリ協定」からの再離脱が見込まれる。第1次トランプ政権の時にもリベラル勢力の強いカリフォルニア、ニューヨーク両州のほか、われわれはまだとどまっているとのキャンペーンにアップルやグーグルなどの大企業が参加した。

第23面

「化石燃料掘りまくれ!」 脱炭素後退 EV推進政策「廃止」表明 

◎第2次トランプ政権の場合はどうなのでしょうか。再びアップルやグーグルがパリ協定にとどまるようにキャンペーンをおこすのでしょうか。

 インフレ対策として化石燃料の掘削を支援する姿勢を改めて強調した。

毎日新聞11月14日

 マスク氏「効率化省」トップ トランプ氏設立 政府外助言機関

 連邦政府の歳出削減や規制緩和を推進する政府外の助言機関「政府効率化省DOGE⁼ドージ」を設立し、トップにいずれも実業家のイーロン・マスク氏とビベック・ラマスワミ氏を起用すると発表した。~共和党の「小さな政府路線」に沿っている~マスク氏は「少なくとも2兆ドル(約309兆円)を削減できる」とのべた。

 

日経新聞11月12日〈火)朝刊

の2面記事から トランプ2,0世界の行方は 4 政治・社会

格差が招く「劇薬」米国発、きしむ民主主義

  本社コメンテーター 西村博之

 アメリカの現状の政治システムへの根強い不信観がある。~米ピュー・リサーチによると、民主主義の現状に不満を持つ米国民は66%に達する。世界有数の豊かな国でなぜと思うが、人は自分より恵まれた相手に目がゆきがちだ。米国では経済格差が広がり続ける。

 

大敗の米民主、再建へ多難 多様性重視より生活不安 「エリート党」に反発

民主主義陣営で政府や社会への信頼が揺らいでいる

 自国の民主主義の現状に不満と答えた人の比率」下図

  フランス 1位 70%以上 アメリカ 2位 60%以上 日本4位 60%以上

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米国を筆頭に,先進国では格差と富の集中が続く

 各国の上位10%層の所得シェア

1位 アメリカ 45%以上(10%の人たちが富の45%以上を占める) ヨーロッパ35%位 日本27%位

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 大統領選では中間層が打撃を受ける物価高や不法移民が争点になった。だが民主が比重を置いたのは出生時の性別と盛治人が異なるトランスジェンダーの権利などリベラルな文化的政策だった。下院選の東部ニューヨーク州で当選確実となった民主のリッチー・トーレス氏は民主のリベラル色が強くなりすぎて、ごく普通の米国人にメッセージを届ける能力を失った」と分析する。かって共和は高所得者寄り、民主は労働者よりという図式があった。トランプ前大統領の登場をきっかけに共和が労働者を取り込み、民主は大卒の高所得層が応援するエリートの党という色彩を強めている。

 作家兼ジャーナリストのバーナード・ゴールドバーグ氏は今回の大統領選挙について、「何百万人もの米国人が民主党を支持するエリートから見下されることへの拒絶を示した結果」と指摘した。かって共和は高所得者より、民主は労働者よりという図式があった。トランプ大統領の登場をきっかけに、共和が労働者を取り込み、民主は大卒の高所得者が応援する「エリートの党」という色彩を強めている。~「何百万もの米国人が「民主党を支持するエリートから見下されることへの拒絶を示した結果」と指摘した。

 「ハリス氏のメッセージはいかにトランプ氏が悪い人間であるかということばかりだった」民主はトランプ氏のネガティブキャンペーンに力を入れた。一方で労働者の 生活をどう改善し、どのような未来をつくりたいかというメッセージを伝えきれなかった。

大敗の米民主、再建へ多難

 多様性重視より生活不安 エリート党に反感  トランプ氏  激戦7州全勝

 大統領選では中間層が打撃を受ける物価高や不法移民が争点になった。ところが民主が比重を置いたのが、トランスジェンダーの権利などの、リベラルな文化的政策だった。~民主党は「エリートの党」というイメージを払しょくする戦略を打ち出すことができるか、岐路にたっている。

◎地球温暖化の危機など、ヨーロッパや日本などでは、いまさら二酸化炭素温暖化懐疑論を提唱するなんてと言われる。わたしも温暖化懐疑論者なのですが、先日書いた本には、そのようなことは書かないほうがいいということで削除しました。しかしアメリカの共和党のトランプ氏はアメリカの石油は掘りまくれと正反対の主張です。トランプ氏の勝利で少し風向きが変わってくると思われます。

◎今度のアメリカ大統領選挙では、テスラのイーロン・マスク氏が、トランプ氏側についた。トランプ氏は電気自動車より、ガソリン車を進めていたが、目先が効き、なおかつ電気自動車だけでなくスペースXで宇宙産業、電気決済のpay pal,宇宙産業、ツイッター(X に変更)など多面的に取り組んでいるマスク氏はトランプ氏についたほうが良いと見たのだろう。

2024年11月10日 (日)

佐竹幸一の著作と講演記録と論文他 (2)2005年4月~1992年4月 修正版

◎概略で60回ほどです、読売市民講座などで話したのは除く

 

2005年4月以前 1992年~

 

第5回 人間学オープンセミナー

 

            2004年12月 「神秘主義と人間学」

 

2004年2月 新教育人間学部会できる

 

 専門性を深める

 

「道具と人間」 人間を学ぶ総合的学習 明治図書 2004年発行

 

 柴田義松、小原秀雄、北原監修 全3冊 佐竹は3項目担当

 

3月30日「道具と人間」出版記念パーティー 

 

    小学生中学年用、高学年用、中学生用 

 

第1回実用的部会 2003年8月 「ゼネラリスト養成講座について」

 

旅と人生文学会 2003年4月「王充の墓を訪ねて」 湯沢町公民館にて

 

第1回 実用的人間学 2003年8月 「ゼネラリスト養成講座について」

 

8月1日 「人間学研究所年誌2003」 NO3

 

    「ゼネラリスト養成講座について」 佐竹幸一 

 

2003年8月 第1回実用的人間学部会始まる

 

第6回人間学講座 2002年12月「占いとは何かあたるのか」

 

第1回人間学講座 2002年5月

 

2002年11月 総合人間学研究会できる

 

 記念集会 明治大学 150名参加

 

 場所は人間学研究所 佐竹は事務局長、2006年に総合人間学会となり発展的解消する

 

2002年6月8日第1回人間学シンポジウム準備会と記念講演 森岡修一氏参加

 

2002年3月人間学講座始まる

 

2001年

第5回実用的部会 2001年10月 「人相手相術と占い」

 

第5回セミナー2001年8月 「大久保の町探検訪問」2

 

第4回セミナー 2001年7月 「比較リーダーシップ論」

 

第2回セミナー 2001年5月 「大久保の街探訪」

 

第1回セミナー 2001年4月 「面白、人生・経営人間学」

 

「第1回人間学シンポジウム」

 

2000年から2002年まで教育的人間学部会では、トピックブック「道具と人間」の編集に取り組む。

 

11月30日 「人間学研究所年誌2002」 NO2

 

     「人間学を取り巻く状況」 佐竹幸一 p44

 

     「人間学研究所の概要」 佐竹幸一

 

2001年4月「人間学基礎論部会」できる 岩田氏中心 3部会

 

2000年

 

12月1日  「人間学研究所年誌2000」 p165 創刊号

 

       「人間学の概要」 佐竹幸一 p70-81

 

第一回人生・経営人間学セミナー (セミナーと略)

 

第14回実用的部会 2000年10月 「上海、紹興、上虞旅行報告」

 

第8回実用的部会 2000年2月 「後漢時代と王充」

 

第3回実用的部会 1999年7月 「比較人生論」

 

実用的人間学部会 以上から

 

第1回 土曜セミナー 2000年6月  唾液健康法

 

2000

 

1999年4月1日に 人間学研究所準備室から人間学研究所が設立されました。

 

4月24日開所記念講演会 成蹊大学 参加40名

 

 所長柴田義松、名誉所長、小原秀雄副所長。岩田好宏

 

1999年6月より「人間学研究所通信」HUMANOLOGY、第1号発行

 

1999年5月より、教育人間学部会と、実用的人間学部会が発足

        しました。

第64回 実用的 1999年3月 「人間に関するゼネラリストか可能か」 

 

    (*今回が実用的人間学研究会としては最終の例会でした)

 

第61回 実用的 1998年11月 「宮城谷昌光における人間学」2

 

第52回 実用的 1998年1月  「健康法について考える」

 

第50回 実用的 1997年11月 「実用的人間学の今後について」

 

第49回 実用的 1997年10月 「死について考える」

 

第46回 実用的 1997年7月  「遅咲きの人間学」                    

 

      ・北条早雲、毛利元就、徳川家康、伊能忠敬

 

第42回 実用的 1997年3月  「人間学いろいろ」

 

第40回 実用的 1997年1月  「実用的人相術」

 

第37回 実用的 1996年10月 「最近の人間学の動きと船井グループ」

 

第35回 実用的 1996年8月 「自分を知るとは」

 

第32回 実用的 1996年3月 「宮城谷昌光における人間学」

 

第31回 実用的 1996年1月 「顔の人間学」より カント

 

第28回 実用的 1995年9月 「船井由紀夫の人間学」

 

第27回 実用的 1995年8月 「人間学の応用について」

 

第24回 実用的 1995年4月 「星占いの原理と終末思想」

 

第22回 実用的 1995年2月 「科学と宗教の人間学」

 

第19回 実用的 1994年11月 「日本人はどこから来たか」

 

第18回 実用的 1994年10月 「三国志の人間学Ⅲ」

 

第17回 実用的 1994年9月 「三国志の人間学Ⅱ」

 

第16回 実用的 1994年8月 「三国志の人間学Ⅰ」

 

第15回 実用的 1994年7月 「人間とは何か」2

 

第14回 実用的 1994年6月 「人間とは何か」1

 

ライフコーディネイト入門 1994年6月

 

 1、「人間とは何だろう」

 

 2、「生きることとは 幸福について」

 

 3、「人生とは何だろう」 いづれも 小川公民館にて

 

第12回 実用的 1994年4月 「会社経営に人間学をどう活かすか」

 

第11回 実用的 1994年3月 「病気の人間学」

 

第10回 実用的 1994年2月 「思想としての人間学」

 

第7回 実用的 1993年11月 「戦争の人間学」

 

第6回 実用的 1993年10月 「超能力の人間学」

 

第3回 実用的 1993年6月 「精力と健康の人間学」

 

第2回 実用的 1993年5月 「信長、秀吉、家康の人間学」

 

第1回 実用的人間学研究会例会は、1993年4月からスタートしました。

 

実用的人間学研究会 以上 (場所 人間学研究所準備室)

 

  1993年9月 人間サロン開設 31回開催

 

  1996年   人間サロンと実用的人間学研究会が合同

 

実用的人間学講座 1993年1月から6月 全12回 読売市民大学

 

  「顔と身体と心の人間学ー自分を人間を知ろう」

 

             読売文化センター京葉にて

 

小川公民館 高齢者講座

 

   「人相術と手相術を学ぶ」1993年5月から9月 全12回

 

             小川公民館にて

 

第12回 1993年3月 「人間はいかに生きたらいいのか?

 

              人間学と宗教の対比

 

第11回 1993年2月 「人間はどう見られてきたか」

 

              人間学史から

 

第10回 1993年1月 「人間と社会そして人類の未来」

 

第9回  1992年12月 「歴史上の人物から学ぶ」

 

               歴史人間学および経営人間学

 

第8回  1992年11月 「人間と自然、および環境問題について」

 

               人間と自然、社会とのかかわり

 

第7回 1992年10月  「人間の成長と教育」

 

               教育人間学から

 

第6回 1992年9月   「人間の心は外からわかるのか?」

 

               観相人間学

 

第5回 1992年8月   「人間の身体のしくみとそのコントロール」

 

               人体の生理、ヨガ、気功についても

 

第4回 1992年7月   「人間の心と其のコントロール」

 

               心理学、精神医学から

 

第3回 1992年6月   「脳の働きと心について」

 

               大脳性医学からみた人の心

 

第2回 1992年5月   「人間とサルはどう違うのか?」

 

               人類の起源、そしてサル学にもとづき

 

第1回 1992年4月   「生きているとはどういうことか?」

 

               現代生物学の成果をもとに

 

人間学セミナー   以上 人間学研究所準備室にて

 

1991年9月 市民企画教育講座 「子供の自立ってなあに」

 

    第1回「子育ての人間学」 東大和市立蔵敷公民館

 

1991年4月 第2サタケビル完成 人間学研究所準備室できる

 

第三次人間学研究会発足

 

      会長小原秀雄 副会長 柴田義松、佐竹幸一

 

      事務局長 岩城正夫

 

人間学セミナーは、人間全般にわたって、佐竹が一人で話をしたものです。

 

 人間に関して全般を話すために自分自身の良い勉強になりました。

 

 これらの話は、すべてかなり詳しい資料がそれぞれのテーマごとに複数あります。資料を読んだだけであわかるように詳しく書くようにしました。

 

◎これ以前も話をしておりますが。古いものは後日と言うことにします。また人間サロン等で話した内容は後で付記いたします。

 

◎ 2005年5月以降の講演内容は、その1をご覧ください。

 

1985年5月 第2次人間学研究会

 

 会長小原秀雄 副会長 柴田義松、岩城正夫、事務局長、佐竹幸一

 

 会員54名連絡13名 研究会例会26回開催

 

 1986年東大にて公開シンポジウム 100名参加

 

1965年4月16日 人間学研究会始まる(第一次)

 

 会長 小原秀雄、事務局長、佐竹幸一

 

 会員20名、連絡するもの10名 例会は月2回、人間学ニュース発行17号まで

 

 1967年5月解散

 

 佐竹幸一、人間論研究会つくる 1970年9月まで

 

1963年12月学生組織「関東生物科学生懇談会」(生懇)分科会の「人間学」

 

 責任者 佐竹幸一 58回の例会 東京教育大にて 大学卒業と共に人間学研究会に移行

 

 

 

人間学研究所  現在は無しです。

169-0073 新宿区百人町1-3-17 佐竹ビル3階

 

   pcr92240@nifty.com  

 

       お問い合わせは 佐竹幸一 090-6549-2677           

変更後

  新宿区百人町3-1-5 N2402

 

佐竹幸一の講演記録と年誌論文・著作他 記録 (1) 2024年~2005年5月 追記版

人間学研究所の図書の変化

1,第2サタケビル2階の人間学研究所には12000冊の図書がありました。

2,上図は人間学研究所の研修室の一部です、サタケビル3階 書物は約1万冊そろっています。

  (佐竹の病気後、8000冊は人間学研究所に2000冊は佐竹の今借りているマンションの自宅に置いてあります)

     ◎どういうわけか写真が消えてしまいました。2023年6月20日。

3,2023年 佐竹は転居したところの自宅の書棚に3000冊ほど保管し

    残りは全て処分しました。

佐竹幸一の著作の記録

2024年1月20日 『人間』って何ですか 佐竹幸一、森岡修一、里見 脩、杉山靖夫  工作舎  2024年1月20日  2600円 +税

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「現代の教育危機と総合人間学」柴田義松編 学文社 2006年11月1日 2000円+税

   資料Ⅰ 「総合人間学研究会研究活動のあと」 佐竹幸一

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「道具と人間」中学校プログラム 柴田義松ほか 明治図書 2003年3月 2000円+税

   佐竹幸一 3節担当

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『人間学研究所年誌』 2023年6月20日 2000(1号)から2021(19号まで)まで 今までの年誌の一覧です。

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年誌 2016までです。

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「人間学研究所年誌2000」NO1から「人間学研究所年誌2016」NO14まで

2018年3月に『人間学研究所年誌2017』NO15が発行されました。

2019年3月に『人間学研究所年誌2018』NO16が発行されました。

2020年3月10日に『人間学研究所年誌2019』No17が発行されました。

2021年2月15日に『人間学研究所年誌2020』が発行されました。

2022年3月10日に『人間学研究所年誌2021』が発行されました。

◎すべて国立国会図書館に納本済みです。

 

実用的人間学研究会ができてから以後のみ

 

 佐竹は、自分の提唱する実用的人間学に基づいて、「人間に関するゼネラリスト」を目指し、人間に関しては、総合的に研究することを目指しました。その意味で様々な分野について積極的に、人間学研究所の例会で講師として話をしてきました。

 

 実際には1963年に生物科の学生組織で人間学分科会をつくって以後、数多くのお話を例会でお話ししてきました。これについては改めてブログに書くことにします。

 

 ここでは2005年5月の、「実用的人間学セミナー」のスタート以後についてだけ書くことにしました。そのほかに、とくに1999年の人間学研究所の設立以来、継続的に例会でお話ししています。お話しした場所は総合人間学会での話のほかはすべて人間学研究所です。

 

 実用的」は実用的人間学研究会の略 「教育」は、新教育人間学部会

「準備会」は実用的人間学研究会 「セミナー」は実用的人間学セミナー

 

2023年

年誌 未発行ー 発行停止と国立国会図書館に連絡

       人間学研究所の本の発行の企画

2022年

2022年3月10日人間学研究所年誌2021」No19 

 

      『新型コロナウイルス蔓延とその2年間のご報告』 

                               佐竹幸一      p32-35

2021年

2021年3月10日「人間学研究所年誌2020」No18  

        佐竹記載なし

2020年

2020年3月10日 「人間学研究所年誌2019」No17

      『人間学研究所の今後について』

       -「こういちの人間学ブログについても」 佐竹幸一

                                      p54-p64

2019年 

4月19日 「大久保・百人町の歴史」 人間学研究所150回、実用的人間学120回例会

       西戸山タワーホームズ集会室

 

3月10日 「人間学研究所年誌2018」No16

 

      エッセイ「柴田義松先生の思い出と人間学研究所のこれから」

 

               佐竹幸一 p40-49

 

2018年

 

10月19日 「人間学研究所の歴史特に5年以後

           今後についても考える」  

 

6月28日 「人生100歳時代の明と暗」

 

        タワーホームズノースタワー集会室

 

3月10日 「人間学研究所年誌2017」NO15

 

      エッセイ「CO2地球温暖化仮説 今年日本の経済界、報道の空気変わる」

 

         佐竹幸一 p75-81

 

2017年

 

7月20日 「人間学研究所通信 HUMANOLOGY]NO79号発行

 

6月22日 合同例会(実用的93回、人間学研133回)

 

    「CO2温暖化仮説について」 67回例会 レジメ12p

 

      西戸山タワーホームズ集会室

 

      第1回実用的人間学例会は2008年4月より

 

3月10日 「人間学研究所年誌 2016」NO14

 

      エッセイ「どこまで人間と見るか」佐竹幸一 p67-82

 

2016年

 

10月11日 二火会にて、「どこまで人間とみるか」ヨーロッパ人と先住民 他

 

 5月19日 合同例会(実用的83回、人間学研123回)

                 講演回数 約66回 2005年以後分のみ

      (それ以前の例会は60回ほどプラスで、計130回ほどになります)

 

       「どこまで人間と見るか」その2    

        西戸山タワーホームズ集会室

 

3月10日 「人間学研究所 年誌 2015」NO13

 

      エッセイ『ネアンデルタール人などと私たち人類』佐竹幸一 p116

 

2015年

 

 10月 合同例会 「ネアンデルタール人などと私たち人間」

 

     実用的人間学研究会77回、人間学研究所第117回例会

 

     西戸山タワーホームズ集会室 参加者17名

 

 4月 合同例会「こういちの人間学ブログ」について

 

3月15日「人間学研究所 年誌2014」NO12

 

    短報 「こういちの人間学ブログについて」 佐竹幸一 p91

 

2014年

 

 11月 4月合同例会

 

     「視床出血1年が経過して―過去現在未来について」

 

11月1日 「人間学研究所年誌2013」NO11 

 

    「視床出血からの回復に向けて―私の病状報告」佐竹幸一 p72

 

2013年

 

 10月 第58回実用的 「食の危機と多国籍企業」

 

 6月 第95回新教育人間学部会 

          「長生きには肉を食るな、など健康法比較」

 

 5月 第94回新教育人間学部会 

         「2011年原発事故2年今福島は」視察報告  共同で

 

 5月 第54回 実用的 上記と同じテーマ 共同

 

 3月 第52回実用的

   「お金についていろいろ、日本の戦争と硬貨、ほか」

 

3月31日 「人間学研究所年誌2012」 NO10号

 

    「人間学研究会、人間学研究所の歴史と実用的人間学」 佐竹幸一p100

 

2012年

 

 9月 第46回実用的「世界の99%を貧困にする経済」

 

 7月 第45回実用的「日本=百済説について」

 

 6月 第44回実用的 「原発のウソ」その2

 

 5月 総合人間学会総会にて発表

 

   「人間学研究会、人間学研究所の歴史と実用的人間学」日大にて

 

  佐竹 総合人間学会監事となる(一期で退任)

 

 5月 第43回実用的 「大久保の街 探訪」

 

 3月 第81回教育   「原子力発電所事故と諸問題」

 

 2月 第40回実用的  「美人について」

 

3月31日 「人間学研究所年誌2011」 NO9号

 

    「原発のウソについて」 佐竹幸一 p37

 

2011年

 

 10月第37回実用的 「日本人の顔とルーツいろいろ」

 

 9月第36回実用的 「いい顔とはどのようなものか」

 

 5月第33回実用的 「二酸化炭素地球温暖化説と原発問題」

 

 2月 第71回教育 「人間学と人間科学の現状」

 

 1月 第30回実用的 「カウンセリングについて」

 

3月31日 「人間学研究所年誌2010」NO8号

 

   「人間学・人間科学の状況-大学の講座等に見る』佐竹幸一 p41

 

2010年

 

 12月 第29回実用的 「スピリチュアルな生き方か

 

 11月 第28回実用的 「ベトナムマレーシア旅行」

 

 9月 第26回実用的 「役に立つ、格言名言」

 

 5月 第23回実用的 「気温の変化と人間の歴史」

 

 1月 第20回実用的 「超能力とは何かーあるものなのか」

 

3月31日 「人間学研究所年誌2009」 NO7号

 

   「人は自分の考えに固執する エセ科学と懐疑論」佐竹幸一 p74

 

    -「真の科学者」になるための実用的人間学

 

2009年

 

 12月 第19回実用的 「実用的人間学式お悩み相談」

 

 11月 第18回実用的 「大久保の街探訪」

 

 10月 第17回実用的 「ブッダとキリストと宗教」

 

 9月 第16回実用的 「韓国の歴史ドラマについて」

 

 7月 第15回実用的 「血液型人間学について」

 

 6月 第54回教育  「人間学いろいろ」

 

 6月 第14回実用的 「後漢初期の永平の治とは」

 

 4月 第12回実用的 「どこまで人間と見るか」

 

 3月 第11回実用的 「健康状態を人相から判断する」2

 

 2月 第10回実用的 「健康状態を人相から判断する」1

 

 1月 第9回実用的  「実用的人間学式健康法」

 

3月31日 「人間学研究所年誌2008」 No6

 

    「人間学研究会の歩み」2 佐竹幸一 p81

 

2月新教育人間学部会31名、実用的人間学研究会33名

 

2008年

 

10月 第6回実用的 「河合隼雄のこころの処方箋に学ぶ」2

 

10月 第46回教育 「人間学とは何かー人間学と名のつく

 

              書物の整理を終えて」

 

 9月 第5回実用的 「河合隼雄のこころの処方箋に学ぶ」1

 

 7月 第4回実用的 「実用的人間学式テスト試案」2

 

 6月 第3回実用的 「実用的人間学式テスト試案」1

 

 (第1回実用的人間学研究会は4月女子栄養大学松柏軒にて開催)

 

5月31日 「人間学研究所年誌2007」 NO5号

 

    「人間学研究会の歩み」1 佐竹幸一 p88

 

8月、実用的人間学研究会始まる(二次、現在につながる

 

 会長佐竹幸一、副会長、杉山

 

 3月 第10回準備会 「手相術について」

 

 2月 第9回準備会 「ゼネラリスト養成講座 今後の構想」

 

 1月 第8回準備会 「エスニックの街、大久保探訪」

 

 2007年

 

 9月 第4回準備会 「カウンセリング教室に学んで」

 

 7月 第3回準備会 「人間関係の改善について」2

 

 6月 第2回準備会 「人間関係の改善について」1

 

 5月 第1回準備会 「実用的人間学セミナーと準備会について」

 

実用的人間学研究会準備会始まる

 

 4月 第10回セミナー 「今後のセミナー、修了式」

 

 2月 第8回 セミナー 「うつ病の人間学」

 

 1月 第7回 セミナー 「おみくじについて」

 

6月30日 「人間学研究所年誌2006」 NO4号

 

    「人間学ノート」 佐竹幸一

 

2006年

 

シリーズ総合人間学3 「現代の教育危機と総合人間学」編集責任者 柴田義松

 

 2006年11月1日 学文社 発行 資料2「人間学と人間科学の現状」佐竹幸一

 

 10月関西設立記念集会 龍谷大学

 

 11月 第5回 セミナー 「後漢初期の人間学」

 

 10月 第4回 セミナー 「実用的人間学的な生き方とは」

 

 10月 第28回 教育   「小泉政治がもたらしたもの」

 

 7月 第3回 セミナー  「宗教的信仰と科学的信念」

 

総合人間学会設立 明治大学リバティータワー講堂にて設立総会

 

 参加者300名ほど、講演、小柴東京大名誉教授、加藤周一氏、

 

 会長 小林直樹、副会長、小原秀雄、柴田義松

 

 佐竹は運営委員、事務局次長 月1回程度例会

 

第二期実用的人間学セミナー 第1回 6月スタート

 

 4月 第11回 セミナー  「人間と社会」

 

 3月 第10回 セミナー  「宗教と死の人間学」

 

 2月 第9回 セミナー   「人間とは何か」

 

 1月 第8回 セミナー   「生き方の人間学」その2

 

2005年

 

 12月 第7回 セミナー  「生き方の人間学」その1人生論

 

 11月 第6回 セミナー 

    「人間の心をさぐる」 ーカウンセリングとコーチング

 

 10月 第5回 セミナー 「占いの人間学」

 

 9月 第4回 セミナー  「身振り、しぐさの人間学」

 

 7月 第3回 セミナー  「人相術手相術」自分を判定する

 

 6月 第2回 セミナー  「人相術手相術」基礎編

 

 5月 第1回 セミナー  「健康法の人間学」

 

実用的人間学セミナー開始

 

以前の実用的人間学研究会では1993年の4月に始まり。1999年3月に64回の例会をもって終了しました。

 

 ★ それぞれの例会での、講演資料は、すべて、人間学研究所に複数保管してあります。お話しした内容は、「こういちの人間学ブログ」にいろいろな形で書かれております。興味をお持ちになり、資料ご希望の方、並びに講演会等でこのテーマで話してほしい、などがありましたら、人間学研究所事務局長、佐竹幸一までご連絡ください。

 

◎ 2005年5月以前の内容は佐竹幸一の講演記録(2)に書かれております。 

 

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2017/08/2005419924-1602.html

 

    人間学研究所

                 東京都新宿区百人町1ー3-17 佐竹ビル3階

       転居後

       新宿区百人町3-1-5-N2402

              pcr92240@nifty.com 

           人間学懇話会

       2024年1月より名称を変更しました。  

       佐竹幸一 090-6549-2677

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第3回人間学懇話会例会のお知らせ 講師 森岡修一氏

第3回人間学懇話会のお知らせ

日 時 :2024年11月29日(金)午後4時~6時頃まで

テーマ :「ヴィゴツキーの心理学における危機意識を

      めぐって」

講 師 :森岡 修一氏

     人間学懇話会 世話人 大妻女子大名誉教授

場 所 :西戸山タワーホームズ・ノースタワー集会室

     新宿区百人町3-1-5

     3棟の高層マンションの最も北側1階

     参加費無料 

     会員でなくとも自由に参加できます

お問合せは     

     お問合せ、参加ご希望の方は 佐竹まで

     ご連絡ください。

     090-6549-2677

     pcr92240@nifty.com

 

人間学忘年会のお知らせ

     懇話会終了後開催いたします。

     懇親会のみの参加でも結構です。

     忘年会として行います。

場 所 : 鍛冶屋文蔵

      新宿区大久保3-8-4 

      新宿ガーデンタワーアネックス1F

日 時 : 11月29日 6時半ころより

参加費 : 2500円から3000円

2024年11月 9日 (土)

江戸から明治大正昭和平成令和に至る、歴史地図で見る、大久保、百人町の歴史、追記版

◎2024年11月に更新しました。
参考資料「大久保の由来 大窪 旧東大久保の低地の状況を見る~」下記
参考資料:わが家のファミリーストーリー、父を中心として。戦後から現在まで  下記
参考資料 「新宿の民俗 昔の大久保、百人町~」2018年7月24日
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/07/
 
 江戸時代から、明治、大正、昭和、平成、令和時代と変遷してきた、大久保、百人町と筆者の家の歴史をからめて、変遷を地図上でたどってみたい

(2019年4月1日 元号が5月より令和と変えられます)

 

追記
2016年10月に書いたブログですが、2019年4月に記事を追記して更新し直しました。
2019年4月の人間学研の例会でここに書いたお話を中心に筆者がお話します。また、4月1日、ツイッターにも文章をあげました。
2019年4月12日に追記して更新しました。
2024年11月に更新しました、

 

写真などのため鮮明に出ないのが申し訳ありません。
また、明治の末ごろにこの地に移り住んだ、筆者の先祖の足跡もたどって見たい。
大久保の地はこの一帯が大きな窪地であったことに由来しています。大久保通りに向けて土地が傾斜しています。昭和になっても大雨が降るとよく新大久保駅あたりが水浸しになることがありました。大久保の地は大きく分けて、百人町、西大久保、東大久保に分けられます。
大久保の地は,現在の百人町、大久保(旧西大久保),新宿6,7丁目(旧東大久保)、余丁町、西新宿7丁目の地域のかなり広い地区を言っていました。
元の東大久保の地は特に低く(現在は新宿6、7丁目)は花園神社裏から蟹川が流れ、東大久保の地を通り、そこには砂利の採集場があり砂利場といわれました。今も目立つ低地です。そしてその川は戸山の尾張藩の下屋敷そして神田川まで続いていました。
追 記 
いわゆる「御府内」とされる大江戸の市域は、はじめ「四谷の大木戸までが江戸のうち」とよばれ、大久保の地は大江戸の外でした。しかし、次第に江戸の町は広がり、1818年(文政元年)に、評定所は地図上に朱引きして境界を定めました。それによると西限は代々木村、角筈村、戸塚村,上落合村でした。現在の新宿区の一部は「御府内」になります。
 大久保村、柏木村、内藤新田、千駄ヶ谷村までは、町奉行支配の区域でした。また、諏訪村、戸塚村、鳴子宿、角筈村、下落合、上落合村までは,寺社の募金活動の許された,準「御府内」ということになりました。
   江戸の町(下)1982年、草思社 より
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戸山との関係
戸山は現在1、2、3丁目がありますが、大久保とは深いつながりがあります。明治時代に元の尾張藩の地を陸軍戸山学校とし、その後大久保、百人町の北側の地を陸軍で買い入れ、演習場やさまざまな陸軍の施設もつくられました。演習場周辺は戸山が原と呼ばれました。戸山の地名と大久保、百人町の名は重複しているのです。戸山高校は地名が戸山ですが、戸山小学校や西戸山小学校は百人町の地になります。以前あった戸山中学は大久保の地名でした。
◎「こういちの人間学ブログ」 2019年4月7日
「大久保の由来 大窪 旧東大久保の低地~」詳しく写真も載っています。ぜひご覧ください。
 
江戸時代末期の西大久保村の絵図(下)

 

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右側に全龍寺があり、近くに長光寺がある。

 

ここは百人町の百人組鉄砲隊の大繩地。伊賀出身の同心100人組。他に与力、25騎 、組頭(旗本)1人がいて、江戸城の警備などを行う。寛永時代は鉄砲撃ち場もつくられた。家族,中間などの使用人をいれてもせいぜい20人程度でしょう。すると2500人程度ということになります。
江戸城警備の鉄砲隊は4組ありましたが、他の3組の名前は現在につながっていないのです。
◎2019年3月の同じ広さの新宿区百人町の人口は、世帯数11129世帯。人口17206人です。
大久保通りは仲通りといい、他に現在の職安通り、諏訪通りの3本の道があった。右側の大久保に全龍寺があり職安通りを超えて境内があったようです。長光寺は鉄砲隊の菩提寺。全龍寺は大久保、長光寺は百人町になります。

 

鉄砲同心の土地は戦略上、間口が狭く奥が細長い形をして、今もその形が残っています。

 

100人の同心はそれぞれ1200坪ぐらいの土地を拝領し、与力は2000坪くらいの土地を拝領していました。今の百人町1丁目から4丁目までのかなり広い地に百数十軒で住んでいたことになります

 

同心の人々は、鉄砲の火薬を作るのに木炭が必要で、つつじで作る木炭が火縄銃によいということでつつじを植えました。ここのつつじは有名となり見物客がたくさん来ました。またつつじは同心の人たちの内職ともなりました。ここはつつじの名所となり見物客が押し寄せました。
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江戸名所図会より「大久保の映山紅」

 

 明治期になる町内の有志が明治16年につつじを1万株を植えました。ここのつつじは、日比谷公園や舘林や箱根に移植されました。今大久保百人町の地にもつつじがたくさん植えられています。
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上図からつながったところ、上の左側に川があり田んぼがあります、この辺りも低地だったでしょう。右端は尾張様戸山屋敷がある。
上は現在の諏訪通、真ん中は大久保通り、下は現在の職安通りです。

道路に沿って家がありあとは畑地です。

 

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「江戸、明治、東京重ね地図」より(上、下)

 

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上の地図の江戸時代の拡大図。紫色をしたところが百人町同心大繩地。つつじのしるしが付いています。草色が西大久保村。内藤家の家来が鉄砲隊100人組で江戸城の警備をしました。普段は大手三ノ門を警備した。百人同心は火薬の原料として、つつじの木炭を利用し、内職としてつつじを栽培し、江戸の名物となる。明治になるとつつじは箱根や館林に移された。同心のほかに騎馬の与力(確か20人)がいた。
同心たちの土地は間口が狭く奥が長い形で、そのまま現在に移っている。

 

皆中神社は鉄砲同心の守り神だった。百人町1丁目に住む、前東町会長の朝倉さんは鉄砲同心の子孫の方です。
地図では長光寺の隣に朝倉菊吉の名があり、千百四十坪となっています。与力は二千坪以上です。
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大久保元百人町大繩組屋敷絵図面

右上は尾張家の屋敷。中に人工の箱根山(高さ44,6m)が作られた。箱根山は山手線の内側では一番高いところです。

 

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明治時代の豊多摩郡大久保村。(上)
明治18年に新宿駅が開業し、ついで22年中央線の前身である甲武線が開通。

 

大久保は、はじめはまだ緑地が多く野菜の栽培される農地が多かった。。尾張家の跡地は明治7年に陸軍戸山学校になった。周辺は射撃場や練兵場となりました。周辺には陸軍の施設が多く、多くの高級軍人が大久保の地に住んでいました。また華族のお屋敷があり、文人なども多数住んでいました。
中央線大久保駅はありますが。まだ山手線の新大久保駅はできていません。山手線の電車の線路に沿ってつつじ 園がありました。

佐竹の祖先は長岡藩の桶を中心とした仕事をする御用商人とかで、名字帯刀を許され、大きな蔵がいくつもあったようです。しかし戊辰戦争で幕府初代側についたことで長岡藩は消滅し、商いも不調となり没落したようです。曽祖父の伝蔵の父親は傳右衛門といいます。祖父の庄次郎はこいつがいけないんだと位牌に鉋をかけてしまったそうです。

筆者の曽祖父の伝蔵は先に来ていた椅子職人をしていた息子の庄次郎を頼って新潟の長岡から転居し、1907年(明治40年頃)に百人町で桶屋を始めました。新潟からワガヤ―わがやー、といいながらタガなおしをしながら、東京まで歩いてきたそうです。そして大久保の地で桶屋を始めました。曾祖母は3番目の奥さんだそうで、夫婦ともばくち好きで息子の給与をばくちにつぎこむ始末で、祖父は大阪に逃げました。そこで祖母と結婚しました。伯父と父親は大阪で生まれました。
曽祖父が病気になり大阪にいた祖父母一家が1920年(大正9年)に、百人町に来ました。
このころのお店は百人町2丁目で淀橋教会の前あたりでした。このころから井戸掘りも始めました。

明治12年の地図 下図

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百人町と西大久保を含めて西大久保村といっていました。道路沿いだけが住宅地で、周辺は畑でした。(一部低地だけ水田)

 

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地図の続きです。東大久保村で 元の尾張藩の下屋敷は陸軍戸山学校に。
明治12年(1879年)の東京実測図(上)
道の両側に民家があり、それ以外はほとんど畑や雑木林でした。
西大久保村の中に百人町がありました。青梅街道と甲州街道の分岐点の宿場として新宿が発展しました。このころは角筈村です。

 

 下の地図は上の地図の続きです。上のほうに陸軍戸山学校。その下は東大久保村です。今では新宿6,7丁目になってしまいました。旧柏木地区は西新宿になり、百人町、大久保も中新宿にとかいう案もありましたが、百人町、大久保のままになりました。

 

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大日本職業別明細図。大正14年(1925年)大久保市街図。(上)
1914年(大正3年)には山手線に新しい駅、新大久保駅が作られる。

 

上のほうに戸山小学校がみえる。新大久保駅のすぐ近くには大久保シネマという映画館がありました。はじめのころはトーキーになる前でスクリーンの前に3人くらいの楽師さんがいたそうです。百人町と大久保の境に交番がありました。
1923年(大正12年)には関東大震災がありました。大正5年生まれの父は当時小学生だったそうです。このころはまだ大久保駅の近くに住んでいました。当時小学生制時代の父が言うには昼食とんかつは大好きなとんかつで、食べようとしたら大地震で、揺れが収まって家に戻ったら埃まみれで食べられないのがすごく残念だったそうです新大久保辺りは地盤が固く家が倒壊しなかったそうです。家の前が古川男爵の別邸で竹藪があり、余震に備えてしばらくいたそうです。今はそこは淀橋教会になっています。
関東大震災以後、下町から転居するものが多くなり、街は発展していきました。

 

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 大久保駅と新大久保駅の間の商店街。左上の大久保駅に近いほうに「桶商佐竹」の名前が見えます。筆者の下の息子が祖母(息子から見ると曾祖母)から聞いて学校の文集に乗せたものですとと、山手線はこのころは駅は高架ではなく地面と同じ高さでした。木の屋根がちょこっとついて、電球が1つか2つだけでした。電車も2両編成でちょうど、ちんちん電車のような気がします。その山手線にタヌキがひかれたこともあります。当時,戸山が原にはタヌキなどの野生動物がたくさんいたことでしょう。

 

昔の通りの名前は大久保通りではなくつつじ園通りという名前でした。新大久保駅周辺には広いツツジ園がありました。
店のないところは畑や空き地が多かったのです。

 

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「戸山小学校創立75周年記念、記憶を辿ったわが町大久保」昭和10年前後 上図
父親の青年時代の地図。このころには佐竹のうちは新しくできた新大久保駅近くに移転しました。大久保通りの南側右端、下側に佐竹の名があります。数字が書いてあるのは戸山小学校何期卒業かを書いてあります。父の実は19期卒業です。
この地図をみると高級軍人の住まいがたくさんあったことがわかります。

 

大久保小学校出身の加賀乙彦は、大久保には「山の手に下町が混ざっていた」、「知識階級の子弟もいるけれど、廃品回収業の家の息子もいる。」「原っぱもある、住宅街もある、貧民窟もある、それから町工場もある」、といっている。

 

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上の地図より広く見た絵図。上の赤いところが戸山小学校
このころはお屋敷がたくさんあり、今の大久保駅近くの教会のところ百人町には古川男爵別邸、東大久保に前田利為侯爵、ほかに安藤子爵、室町伯爵、曽我子爵、北大路男爵、松井男爵、南部男爵など、ほかに政治家、高級軍人、学者、芸術家、俳優、文化人など多くの人が住んでいました。大久保小学校の近くに小泉八雲の屋敷があり、今は記念公園が作られています。他に西条八十、国木田独歩、島崎藤村、下村湖人、岩野泡鳴などがいて、大久保文士村と呼ばれました。戸山小学校のそばには国沢新兵衛という満鉄の副総裁の大きな屋敷がありました。
現在の百人町2丁目の北西部には、外人屋敷があり、また近くに、著名な音楽家などが住んでいました。そのあたりに新興キネマの撮影所がありました。
岡田啓介(海軍大将)、平沼騏一郎,阿部信行らの総理大臣や東条英機大将(総理大臣にも),及川大将、植村中将、原田少将などの軍人も多く住んでいました。
岡田啓介首相(海軍大将)は1936年(昭和11年)に起きた二二六事件で、あやうく命が助かりましたが、高橋是清蔵相は殺されました。岡田啓介の自宅は大久保にあり、井戸や風呂関係でお得意さんだったとの父の話でした。岡田首相は東条内閣打倒に動きました。

 

その前あたり百人町3丁目の、戸山が原に陸軍科学研究所や、陸軍技術本部がありました。戦後この辺りに都立衛生研究所があり、また国立科学博物館の分館があり、それが筑波移転してからは、2019年4月から桜美林大学になります。
その東側戸山町に陸軍第一病院がありました。昔旧館が残っているとき、病院に行ったとき、すごく病院の壁が厚く、普通の倍はありました。少しぐらいの爆撃に耐えらえるように作ってあります。その後2回建て替えられ、今は国立第一病院から、国立国際医療研究センターとなっています。

 

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大正5年ごろから11年にかけての新大久保周辺。
横綱太刀山の自宅があった。筆者の父親が太刀山の井戸を掘ったと言っていました。いろいろな有名人が住んでいましたが、みんな井戸掘りではお得意さんでした。(下図)
大久保は水が豊富で浅い井戸で水がよく出ました。
こういちの人間学ブログ、
2018年7月24日
新宿区の民俗」昔の大久保、百人町。井戸掘り、桶屋をしていたわが家について」

http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/07/post-c761.html

すみません。つながりません。

2016年10月
「わが家のファミリーストーリー 父を中心として、戦争中まで」
つながります
2016年10月
「大正・昭和・平成を生きた父の死」
すみません。つながりません。上記の記事からはつながります。このブログ冒頭の記事に出ています。

戸山小学校周辺

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ここは百人町の右端。この先は大久保です。

戸山小学校周辺は畑や雑木林が多かった。裏は戸山が原でした。

 

この図の大久保通りの右端に交番があります。ここまでが百人町、その先は大久保になります。大久保通りから戸山小学校に行く道の角は盛好堂書店で今もあります。筆者の小学校時代の同級生がお店をやっています。このころはわが家は大久保駅よりでした。

 

戦後の大久保・百人町

 

戦後の大久保・百人町は昭和18年生まれの筆者が、直接 見分しています。
戦後しばらくの大久保地域は、元の陸軍の射撃場は駐留軍の射撃場に変わりました。
かまぼこ型の射撃場から小銃や機関銃などの音が聞こえ、時に外に銃弾が出たりします。
弾丸除けのための人工の山は三角山と呼ばれ、射撃場撤退の後は。子どもたちの格好の遊び場でした。三角山の後は、いわゆるバタヤ部落となりました。ずっと後でそこは都営住宅になりました。

 

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昭和62年(1968年)の百人町東町会の地図 上下
大久保通りの北側は百人町2丁目(上)
真ん中あたりにロッテ、右上に戸山小学校。
右下が大久保通り、下図につながります。

 

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昭和62年当時の百人町東町会の地図(上)

大久保通りの南側は百人町1丁目
左下に新大久保駅左は大久保通り

 

このころはぎっしり日本人の商店がつらなっていました。下図

 

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2000年の商店街。上の新大久保駅と大久保駅の間が百人町明るい会商店街。上図
下図の新大久保駅から山手線内側が新大久保商店街。このころには韓国のお店はほとんどありません。
2007年の新大久保商店街マップではまだ日本人経営の店が多くありました。

 

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2016年現在の、もう商売をやめてしまっているところは色塗りしています。塗りつぶしていないところ(日本人経営の店)はほとんど残っていません。

2019年の新大久保商店街振興組合員は、わずか24店でそのうち5件は韓国人経営の店です。

新大久保駅から百人町の地区は、残った店は、パリミキ、盛好堂書店、円満屋(観賞魚)、内藤シューズ、サカエカメラしかありません。
横道入り山本米店。新大久保駅に近い大久保地区に 平松青果店、風月堂は大久保で残っています。

2024年11月現在のお店は、メガネのパリ、ミキ、円満やさん、平松青果だけになってしまいました。

 

大久保・百人町の歴史(株式会社サタケの歴史も含めて)

 

弘仁(810-820)年代

小野 篁が諏訪神社(高田馬場で職安通り、大久保に面す)に大国主命をまつり再建した。大久保地区も氏子の地域

鎧神社(北新宿)や鬼王神社(前は西大久保1丁目、今は歌舞伎町2丁目) 平将門に縁の神社

鎌倉時代  

都立戸山公園のあたりは、鎌倉時代侍所初代別当和田義盛の領地で、和田戸山と呼ばれていた。また

源頼朝が源氏の勢ぞろいを行ったところと伝えられる。東大久保から新宿の花園神社にかけて、昔は入り江の低地で

大きな窪地になっていた。それで「おおくぼー大久保」と呼ばれるようになった。

安土・桃山時代

天正18年(1590年) 小田原城が落城し、江戸が徳川の領地となる

天正19年 東大久保村と西大久保村に分かれる

慶長7年(1602年)  鉄砲組百人組が土地を拝領、大久保村西部が百人町となる

鉄砲隊のまもりがみとして、諏訪神社の末社として神社が作られ、その後、皆当たる―神社として,皆中神社となった。

江戸時代

1603年 徳川幕府始まる

戸山の地は尾張徳川家の下屋敷へ

大久保の地は、下級武士や農民、町人の雑居地、川があり、水田もあった。

百人町は伊賀組鉄砲同心100人組などの屋敷となる。その内職としてのつつじの栽培で有名となる

明治時代

明治7年  戸山と周辺が陸軍省用地になる。陸軍戸山学校ができる

、以後、大久保、百人町には、陸海軍の将官30名が住む。

1888年(明治21年)

新潟県長岡にて佐竹庄次郎生まれる

1889年(明治22年)5月1日  

南豊島郡大久保百人町・東大久保村・西大久保村が合併し大久保村が発足 

1895年(明治28年)5月5日  

大久保駅開業(甲武鉄道  現在の総武線、中央線)

1896年(明治29年)4月1日 

南豊島郡が豊多摩郡に変更

1898年(明治31年 )

陸軍省が民有地を購入し軍用地とする。戸山が原周辺。様々な陸軍の施設が作られる。

演習場や射撃場などもつくられる

 

1907年(明治40年)ころ 

佐竹庄次郎 東京の大久保へ それを頼り佐竹の曽祖父伝蔵、新潟県長岡市より大久保百人町に転居、

大久保駅近くで、桶屋を開業する(現在は百人町2丁目)当時の地図に「桶商 佐竹」の名がみえる

昭和時代、店は大久保通りでしたが、自宅は小滝橋通りに3階建ての家があった(百人町1丁目)。富士山がよく見えたとのこと。

(長岡でも桶屋をしていました。高祖父は傳右衛門 長岡市千手町3-832戸籍簿は戦災で焼失) 

 

その後祖父庄次郎は転居、大阪にて大阪府東成郡榎本村にて結婚 息子2人生まれる。長男 房次郎 次男 実

 

1912年(大正元年)12月1日  

大久保村が大久保町になる

このころの大久保 戸山とともに華族、実業家、政治家、高級軍人などの住まいがあった。島崎藤村、下村湖人、小泉八雲、戸川秋骨、岩野ほうめい、岡本綺堂、国木田独歩、西城八十などの文学者も多かった.大久保文士村と呼ばれた また幸徳秋水、北一輝 、なども             

百人町3・4丁目や大久保3丁目には陸軍の施設がたくさんあった。

 

1914年(大正3年)11月15日  

新大久保駅開業(山手線) 、新宿から万世橋に通じる市電の開通。宅地化進む。

12月に東京駅もできる

 

1916年(大正5年)

父、実が大阪府東成郡榎本村で生まれる。

 

1920年(大正9年) 

佐竹の曽祖父伝蔵が病気で倒れ、祖父庄次郎と祖母いさが大阪より伯父、房次郎や父、実をつれて、

大久保に転居する  

1923年(大正12年)

関東大震災。大久保は家屋の倒壊あっても火災発生なし。下町からの転居が増える。

この後人口が増え、井戸掘りも繁盛する。大久保の街は広大なお屋敷も、庶民の家

もあるというところところであった。陸軍の施設が多く高級軍人が多く住んでいた。

1925年(大正14年)

「大日本職業別明細図」に大久保駅の近くで、「桶商佐竹」の名がみえる。

1928年(昭和3年)  かまぼこ型の射撃場に変わる

1932年(昭和7年)10月1日  

大久保町は東京市に編入され、淀橋区になる。それまでは豊多摩郡。

四谷や牛込は前から区であった。

1940年(昭和16年)庄次郎長男、房次郎 酸欠事故で死亡

1943年(昭和18年)

佐竹幸一生まれる 新潟の母親の実家に疎開

佐竹実は戦地満州から、第2次招集で中国安徽省へ 累計7年も戦地へ

母方の、父の戦友であった伯父は戦死

戦  後

1945年(昭和20年)       

終戦 大久保百人町は焼け野原に 。最初に父は大久保でバラックを建てたと自慢。

射撃場は米軍が使用

中国人、韓国人が大久保の地に住みはじめる 帰化する 金さんから金原さんなど

1947年(昭和22年)

3月に淀橋、四谷、牛込、戸塚区など各区合併、新宿区となる

1949年(昭和24年)

旧陸軍用地戸山が原を団地とする 大久保4丁目も団地化

このころ佐竹の店、東京ガスのガス風呂販売委託店になる

のち東京ガスの委託店、東京ガス百人町サービス店になる

1950年(昭和25年)       

ロッテ新宿工場竣工 韓国人増え始める

1952年(昭和27年)3月25日  

西武鉄道、西武新宿駅出来る

1958年(昭和33年)射撃場が返還される

1963年(昭和38年)9月     

早稲田大学大久保キャンパス出来る

1966年(昭和41年)4月有限会社佐竹製作所設立

佐竹幸一 家業の有限会社佐竹製作所に入社 人間学研究会設立

1978年

西大久保1丁目が歌舞伎町2丁目となる(住宅地から繁華街へ)西大久保の地名はなくなり、大久保に。東大久保は新宿6,7丁目になる。

新大久保地域はラブホテルなどが多くなり、裏歌舞伎町と呼ばれるようになる。

1980年ごろから         

ニューカマーの韓国人増え始める 

1986年5月  

有限会社佐竹製作所から株式会社サタケへ  佐竹幸一 社長となる

1990年ごろから         

西戸山タワーホームズ(タワーマンション)出来る
このころから中国、フィリピン、タイなど周辺アジア国の人増える

1991年

第2サタケビル完成 人間学研究所準備室できる

1992年

共住懇でき、雑誌”おおくぼ”できる

2001年               

韓人会結成される
 日本人の店が減少、韓国系の店が増える 

「おいしい”まちガイド」発行される 韓国だけでなく多国籍の街のイメージ

2003年 「冬のソナタ」が放送され、大ブームに ヨン様ブームへ 

2004年 このころ第一次韓流ブームといわれる

2006年

1月、新宿区新聞 韓流まだまだ人気と 職安通り コリアタウン 飲食は150店が300店に

顧客は韓流マダム中心 店の入れ替わりが激しい

2007年 

毎日新聞、万能川柳で、「ヨン様に妻をとられて出前取る」このころ、空前の韓流ブームと

2008年

前に5つあった銀行、信用金庫など、新大久保に1店もなくなる

大久保通りの商店がほとんどなくなり、貸しビル業になる

佐竹「エスニックの街、大久保の今昔」を人間学研、二火会他で話をする 

佐竹 大久保の街全部を調べ、エスニック・マップを作る(最もにぎわったのはスーパー韓国広場のある職安通り)

東京ガスSTコミュネット株設立で業務移管。(株)サタケは貸しビル業で存続。

2009年7月より 

「こういちの人間学ブログ」始まる

第2サタケビル テナント 韓国の店に 

このころから、第2次韓流ブームでにぎわう 

2011年

フジテレビ韓流騒動 一方では地価上昇がおこる

2011年12月

「こういちの人間学ブログ」「韓国の店さらに増加,ヤナギヤさんやめる 12月の状態 2001年との比較」

2012年7月

代表的なお店、Kプラザビル1,2、3 がオープン、第2次韓流ブームのピークの頃

 ビル購入は)(株)光商(総合食品メーカー)

「少女時代」、「KARA]、「東方神機」など紅白にでる。ブームに

2012年10月

「こういちの人間学ブログ」日韓関係悪化 人通りの減少とやめる店が多くなる

2013年6月

佐竹ビル 韓国のお店がテナントに「美学空間」その後「リメイク」にかわる

2013年9月ごろ

嫌韓デモが盛んにおこなわれ、ヘイトスピーチ 韓国の店の売り上げ減少 地価も下がる

2014年6月

コリアタウン存亡の危機」 新宿新聞の記事 韓国の店減少とベトナム人、ネパール人増え、料理店もふえる

韓国スーパーKプラス 閉店 韓国系3,4割が閉店する

2015年

第2サタケビル2,3階ににコンゴのお店できる

2016年11月 

ネパール料理店が新大久保で25店になる。韓国の店後退 賃料下がる

「市場タッカルビ」で、人気回復のために、新商品「チーズ・タッカルビ」を作る

2017年

「Twis](韓国人、日本人、中国人のグループ)が紅白に出場 ブーム再燃のはしり

2018年~

一時減少していた韓国系の店が増える 第3次韓流ブーム 客層は10代から20代前半

中国人、韓国人のほかベトナム・ネパール人もさらに増え、多国籍の街へ

チーズタッカルビやハットグはやり、若者が道にあふれる

日韓関係は悪化 しかし若者は関係なく新大久保へ来る

(若者の貧困化により、円高も影響し、渋谷、原宿より安い新大久保へ)

2019年4月より

株式会社サタケ70期へ 創業117年へ

2019年5月より「令和」に改元

2020年

新大久保駅の新しいビル完成 

東京オリンピック

 

 

参考資料

 

大久保の歴史 山本恭子 新宿区広報

大久保(新宿区)ウイキペディア

「新宿区の昔と今」芳賀善次郎著

「新宿の散歩道」

「新修 新宿区町名誌」 新宿歴史博物館  1000円

「東京ふるさと文庫 2」

「新宿区の民俗」 新宿歴史博物館          H15年

「東京古地図散歩」(山手線)フォト・パブリッシング 2019年3月

「江戸の町」(下)巨大都市の発展 内藤昌 草思社 1982年

「新宿の1世紀 アーカイブス」2006年

参考

2007年 平成19年 新宿区に住む外国人 30337人

韓国人  13392人  中国人9258人  フランス人 1016人

ミャンマー  833人  フィリピン 833人   

 

2019年 平成31年4月1日の新宿区にすむ外国人   

全体 346425人 日本人  304268人 外国人 42157人

中国人  1363o 人

韓国人  10217

ネパール  3441

ベトナム  3344

ミャンマー 2110

◎ 観光ビザで働いている韓国人も多数

旧ジャニーズ所有の東京新グローブ座の大規模改修工事について 。隣りの国有地の遺跡調査始まる。2024年11月8日再オープンしました

11月9日〈土)グローブ座の前を通りがかったところ、女性の人たちの列ができていました。改めて調べたところ、グローブ座の改修が終わり11月8日から10日まで、グローブ座の改修が終わり公演が行われることになったようです。

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村上信吾と丸山隆平の「らふらふ」RaugHーLaugh 第3弾というのだそうです。因みに料金はS席9200円,A席8200円です。

新宿区百人町の3棟の高層マンションがあります。西戸山タワーホームズといい、1988年4月、中曽根行革の一環として3棟の高層マンションとグローブ座という劇場が作られました。グローブ座の住所は新宿区百人町3-1-2、設計は磯崎新氏で、シェイクスピア劇場に倣って円形に作られました。収容人員は703人の小さめの劇場です。はじめはシェイクスピアの演劇を中心に行ってきました。しかし次第に経営不振に陥りました。

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改装後のグローブ座

2024年6月11日、追記

 新宿区百人町の国有地、(百人町3丁目1番地)で「百人町3丁目地区令和6年埋蔵文化財発掘調査の知らせ」のチラシがお隣のマンション(西戸山タワーホームズ)に配られました。期間は令和7年3月31日までです。どのような遺物が見つかるか楽しみです。 

2024年5月5日 追記

 グローバルブ座の隣の国有地が買受できるような話が持ち掛けられているそうです。

 グローブ座の改修と同時に2棟の国有地の建物が、取り壊されました。はじめは、てっきり、グローブ座と一緒に取り壊され、大きな建物になるのかと思っていました。ところがグローブ座は取り壊されず、改修され(見たところはほとんど変化はありませんでした。)公務員宿舎は完全に取り壊され、更地になってしまいました。

 この国有地に関して、国有地を買受できるかのように話を持ち掛けているので、注意をするようにと国のお知らせがありました。

東京財官事務所管内で新宿区百人町3-420番52(住居表示では、新宿区百人町3-1-1)

 面積 1,006,83㎡ 

 新大久保駅にも近くマンションを建てるのに都合の良い土地です。

グローブ座(手前)と、奥の高層マンション、西戸山タワーホームズに隣接したところです。

歩道の上、盛り土したところです。

◎この土地が、文化財の発掘現場になりました。

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歩道からは兵が作られ見えなくなくなっています。わきからのぞくとこうなります。

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11月12日 本格的な掘削始まる。

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2024年2月 グローブ座の外壁はきれいになっていますが、外観の大幅な変化は見当たりません。

グローブ座ととなりの公務員宿舎をまとめて大きな建物にするのかという見込みは完全にはずれました。

 

2024年3月5日の状況

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グローブ座の隣の旧公務員宿舎のところは完全に建物が撤去されました。

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グローブ座のもう一つの側面の状況

 

 

 

 

お隣の公務員宿舎のの建物は完全に、壊されました。

 

直ぐ近く公務員宿舎の向かいの外語専門学校も壊しています。左側は山手線のガード。

 

 

グローブ座の興行は11月4日から、グローブ座以外の場所で行うようです。

 2023年8月から2024年9月にかけて、補修作業が行われます。同時にグローブ座に隣接した元の役所の宿舎で、長い間空いたままになっているところも、同時に取り壊しになります。両方の土地を含めた建物を作る◎のでしょうか。両方含めるとかなり広い面積となります。

追記:グローブ座は単なる改修工事のようです。

西戸山タワーホームズは S,C、N棟の25階建て3棟の高層マンションがあります。ブログ筆者も10年ほど前から住んでいます。

東側は山手線等の線路になっています。 1988年2月に完成。

◎追記 2023年11月号の西戸山タワーホームズの理事会レポート11月号が来ました。それによれば、シェイクスピアプラザの壁面の塗装工事の検討を行っていると書いてありました。ということは建て直すわけではないようですが、わかりません。

 

グローブ座 足場が組まれています。

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グローブ座入口

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タワーホームズのエリア・マップ

3棟のマンションと右端にグローブ座

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今はグローブ座の屋根しか見えません。

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大久保。百人町の地図。左上線路際の、現在地、赤い印が西戸山タワーホームズ

 

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工事の標識 、解体工事は前田工業

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◎下図はタワーホームズの隣の公務員宿舎の解体工事の表示。国有建物等解体工事。

上図は解体工事現場 向こうのビルは西戸山タワーホームズ、サウスタワー 

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看板の字

「令和5年度国有建物等解体撤去

 第1期工事」

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ここには3階建てと2階建ての建物があります。

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11月21日 解体がどんどん進む、元公務員宿舎

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これはグローブ座

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