江戸から明治大正昭和平成令和に至る、歴史地図で見る、大久保、百人町の歴史、追記版
(2019年4月1日 元号が5月より令和と変えられます)
右側に全龍寺があり、近くに長光寺がある。
道路に沿って家がありあとは畑地です。
大久保元百人町大繩組屋敷絵図面
佐竹の祖先は長岡藩の桶を中心とした仕事をする御用商人とかで、名字帯刀を許され、大きな蔵がいくつもあったようです。しかし戊辰戦争で幕府初代側についたことで長岡藩は消滅し、商いも不調となり没落したようです。曽祖父の伝蔵の父親は傳右衛門といいます。祖父の庄次郎はこいつがいけないんだと位牌に鉋をかけてしまったそうです。
明治12年の地図 下図
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2018/07/post-c761.html
すみません。つながりません。
戸山小学校周辺
ここは百人町の右端。この先は大久保です。
昭和62年当時の百人町東町会の地図(上)
2019年の新大久保商店街振興組合員は、わずか24店でそのうち5件は韓国人経営の店です。
◎2024年11月現在のお店は、メガネのパリ、ミキ、円満やさん、平松青果だけになってしまいました。
大久保・百人町の歴史(株式会社サタケの歴史も含めて)
弘仁(810-820)年代
小野 篁が諏訪神社(高田馬場で職安通り、大久保に面す)に大国主命をまつり再建した。大久保地区も氏子の地域
鎧神社(北新宿)や鬼王神社(前は西大久保1丁目、今は歌舞伎町2丁目) 平将門に縁の神社
鎌倉時代
都立戸山公園のあたりは、鎌倉時代侍所初代別当和田義盛の領地で、和田戸山と呼ばれていた。また
源頼朝が源氏の勢ぞろいを行ったところと伝えられる。東大久保から新宿の花園神社にかけて、昔は入り江の低地で
大きな窪地になっていた。それで「おおくぼー大久保」と呼ばれるようになった。
安土・桃山時代
天正18年(1590年) 小田原城が落城し、江戸が徳川の領地となる
天正19年 東大久保村と西大久保村に分かれる
慶長7年(1602年) 鉄砲組百人組が土地を拝領、大久保村西部が百人町となる
鉄砲隊のまもりがみとして、諏訪神社の末社として神社が作られ、その後、皆当たる―神社として,皆中神社となった。
江戸時代
1603年 徳川幕府始まる
戸山の地は尾張徳川家の下屋敷へ
大久保の地は、下級武士や農民、町人の雑居地、川があり、水田もあった。
百人町は伊賀組鉄砲同心100人組などの屋敷となる。その内職としてのつつじの栽培で有名となる
明治時代
明治7年 戸山と周辺が陸軍省用地になる。陸軍戸山学校ができる
、以後、大久保、百人町には、陸海軍の将官30名が住む。
1888年(明治21年)
新潟県長岡にて佐竹庄次郎生まれる
1889年(明治22年)5月1日
南豊島郡大久保百人町・東大久保村・西大久保村が合併し大久保村が発足
1895年(明治28年)5月5日
大久保駅開業(甲武鉄道 現在の総武線、中央線)
1896年(明治29年)4月1日
南豊島郡が豊多摩郡に変更
1898年(明治31年 )
陸軍省が民有地を購入し軍用地とする。戸山が原周辺。様々な陸軍の施設が作られる。
演習場や射撃場などもつくられる
1907年(明治40年)ころ
佐竹庄次郎 東京の大久保へ それを頼り佐竹の曽祖父伝蔵、新潟県長岡市より大久保百人町に転居、
大久保駅近くで、桶屋を開業する(現在は百人町2丁目)当時の地図に「桶商 佐竹」の名がみえる
昭和時代、店は大久保通りでしたが、自宅は小滝橋通りに3階建ての家があった(百人町1丁目)。富士山がよく見えたとのこと。
(長岡でも桶屋をしていました。高祖父は傳右衛門 長岡市千手町3-832戸籍簿は戦災で焼失)
その後祖父庄次郎は転居、大阪にて大阪府東成郡榎本村にて結婚 息子2人生まれる。長男 房次郎 次男 実
1912年(大正元年)12月1日
大久保村が大久保町になる
このころの大久保 戸山とともに華族、実業家、政治家、高級軍人などの住まいがあった。島崎藤村、下村湖人、小泉八雲、戸川秋骨、岩野ほうめい、岡本綺堂、国木田独歩、西城八十などの文学者も多かった.大久保文士村と呼ばれた また幸徳秋水、北一輝 、なども
百人町3・4丁目や大久保3丁目には陸軍の施設がたくさんあった。
1914年(大正3年)11月15日
新大久保駅開業(山手線) 、新宿から万世橋に通じる市電の開通。宅地化進む。
12月に東京駅もできる
1916年(大正5年)
父、実が大阪府東成郡榎本村で生まれる。
1920年(大正9年)
佐竹の曽祖父伝蔵が病気で倒れ、祖父庄次郎と祖母いさが大阪より伯父、房次郎や父、実をつれて、
大久保に転居する
1923年(大正12年)
関東大震災。大久保は家屋の倒壊あっても火災発生なし。下町からの転居が増える。
この後人口が増え、井戸掘りも繁盛する。大久保の街は広大なお屋敷も、庶民の家
もあるというところところであった。陸軍の施設が多く高級軍人が多く住んでいた。
1925年(大正14年)
「大日本職業別明細図」に大久保駅の近くで、「桶商佐竹」の名がみえる。
1928年(昭和3年) かまぼこ型の射撃場に変わる
1932年(昭和7年)10月1日
大久保町は東京市に編入され、淀橋区になる。それまでは豊多摩郡。
四谷や牛込は前から区であった。
1940年(昭和16年)庄次郎長男、房次郎 酸欠事故で死亡
1943年(昭和18年)
佐竹幸一生まれる 新潟の母親の実家に疎開
佐竹実は戦地満州から、第2次招集で中国安徽省へ 累計7年も戦地へ
母方の、父の戦友であった伯父は戦死
戦 後
1945年(昭和20年)
終戦 大久保百人町は焼け野原に 。最初に父は大久保でバラックを建てたと自慢。
射撃場は米軍が使用
中国人、韓国人が大久保の地に住みはじめる 帰化する 金さんから金原さんなど
1947年(昭和22年)
3月に淀橋、四谷、牛込、戸塚区など各区合併、新宿区となる
1949年(昭和24年)
旧陸軍用地戸山が原を団地とする 大久保4丁目も団地化
このころ佐竹の店、東京ガスのガス風呂販売委託店になる
のち東京ガスの委託店、東京ガス百人町サービス店になる
1950年(昭和25年)
ロッテ新宿工場竣工 韓国人増え始める
1952年(昭和27年)3月25日
西武鉄道、西武新宿駅出来る
1958年(昭和33年)射撃場が返還される
1963年(昭和38年)9月
早稲田大学大久保キャンパス出来る
1966年(昭和41年)4月有限会社佐竹製作所設立
佐竹幸一 家業の有限会社佐竹製作所に入社 人間学研究会設立
1978年
西大久保1丁目が歌舞伎町2丁目となる(住宅地から繁華街へ)西大久保の地名はなくなり、大久保に。東大久保は新宿6,7丁目になる。
新大久保地域はラブホテルなどが多くなり、裏歌舞伎町と呼ばれるようになる。
1980年ごろから
ニューカマーの韓国人増え始める
1986年5月
有限会社佐竹製作所から株式会社サタケへ 佐竹幸一 社長となる
1990年ごろから
西戸山タワーホームズ(タワーマンション)出来る
このころから中国、フィリピン、タイなど周辺アジア国の人増える
1991年
第2サタケビル完成 人間学研究所準備室できる
1992年
共住懇でき、雑誌”おおくぼ”できる
2001年
韓人会結成される
日本人の店が減少、韓国系の店が増える
「おいしい”まちガイド」発行される 韓国だけでなく多国籍の街のイメージ
2003年 「冬のソナタ」が放送され、大ブームに ヨン様ブームへ
2004年 このころ第一次韓流ブームといわれる
2006年
1月、新宿区新聞 韓流まだまだ人気と 職安通り コリアタウン 飲食は150店が300店に
顧客は韓流マダム中心 店の入れ替わりが激しい
2007年
毎日新聞、万能川柳で、「ヨン様に妻をとられて出前取る」このころ、空前の韓流ブームと
2008年
前に5つあった銀行、信用金庫など、新大久保に1店もなくなる
大久保通りの商店がほとんどなくなり、貸しビル業になる
佐竹「エスニックの街、大久保の今昔」を人間学研、二火会他で話をする
佐竹 大久保の街全部を調べ、エスニック・マップを作る(最もにぎわったのはスーパー韓国広場のある職安通り)
東京ガスSTコミュネット株設立で業務移管。(株)サタケは貸しビル業で存続。
2009年7月より
「こういちの人間学ブログ」始まる
第2サタケビル テナント 韓国の店に
このころから、第2次韓流ブームでにぎわう
2011年
フジテレビ韓流騒動 一方では地価上昇がおこる
2011年12月
「こういちの人間学ブログ」「韓国の店さらに増加,ヤナギヤさんやめる 12月の状態 2001年との比較」
2012年7月
代表的なお店、Kプラザビル1,2、3 がオープン、第2次韓流ブームのピークの頃
ビル購入は)(株)光商(総合食品メーカー)
「少女時代」、「KARA]、「東方神機」など紅白にでる。ブームに
2012年10月
「こういちの人間学ブログ」日韓関係悪化 人通りの減少とやめる店が多くなる
2013年6月
佐竹ビル 韓国のお店がテナントに「美学空間」その後「リメイク」にかわる
2013年9月ごろ
嫌韓デモが盛んにおこなわれ、ヘイトスピーチ 韓国の店の売り上げ減少 地価も下がる
2014年6月
「コリアタウン存亡の危機」 新宿新聞の記事 韓国の店減少とベトナム人、ネパール人増え、料理店もふえる
韓国スーパーKプラス 閉店 韓国系3,4割が閉店する
2015年
第2サタケビル2,3階ににコンゴのお店できる
2016年11月
ネパール料理店が新大久保で25店になる。韓国の店後退 賃料下がる
「市場タッカルビ」で、人気回復のために、新商品「チーズ・タッカルビ」を作る
2017年
「Twis](韓国人、日本人、中国人のグループ)が紅白に出場 ブーム再燃のはしり
2018年~
一時減少していた韓国系の店が増える 第3次韓流ブーム 客層は10代から20代前半
中国人、韓国人のほかベトナム・ネパール人もさらに増え、多国籍の街へ
チーズタッカルビやハットグはやり、若者が道にあふれる
日韓関係は悪化 しかし若者は関係なく新大久保へ来る
(若者の貧困化により、円高も影響し、渋谷、原宿より安い新大久保へ)
2019年4月より
株式会社サタケ70期へ 創業117年へ
2019年5月より「令和」に改元
2020年
新大久保駅の新しいビル完成
東京オリンピック
参考資料
大久保の歴史 山本恭子 新宿区広報
大久保(新宿区)ウイキペディア
「新宿区の昔と今」芳賀善次郎著
「新宿の散歩道」
「新修 新宿区町名誌」 新宿歴史博物館 1000円
「東京ふるさと文庫 2」
「新宿区の民俗」 新宿歴史博物館 H15年
「東京古地図散歩」(山手線)フォト・パブリッシング 2019年3月
「江戸の町」(下)巨大都市の発展 内藤昌 草思社 1982年
「新宿の1世紀 アーカイブス」2006年
参考
2007年 平成19年 新宿区に住む外国人 30337人
韓国人 13392人 中国人9258人 フランス人 1016人
ミャンマー 833人 フィリピン 833人
2019年 平成31年4月1日の新宿区にすむ外国人
全体 346425人 日本人 304268人 外国人 42157人
中国人 1363o 人
韓国人 10217
ネパール 3441
ベトナム 3344
ミャンマー 2110
◎ 観光ビザで働いている韓国人も多数
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